誰が為6/夏アレ/7072

※PRIDEドラパのネタバレを含む夏アレ高校時代捏造ネタです。

 野菜を切る安定した包丁の音がカウントに聞こえたんだと、後にアレンは言った。
「      」
 唐突に歌われたのはほんのワンフレーズで、聞き逃さなかったのは運が良かった。
 包丁を止めて顔を上げた。メトロノームのようなビートが止まったのと歌の一緒に続きも消えた。
「それ、なんの曲です?」
 アレンから紹介されて聴いたどのヒップホップにもなかった詞だった。借りた雑誌でピックアップされていた曲もいくつか聴いてみたが、そのどれとも違う気がする。
「なんの曲でもない。俺が、適当に作ったヤツ」
 声をかけるとソファに座って天井を見上げていたアレンは慌てて顔を背けた。ぼんやりしているうちに、意識せず口から出てしまった。そんな様子だ。
「そうなんですか?」
「ああ」
 自作の歌なんか聴かれてほんのり耳の先を赤くしている。バイオリンなら人前でも少しも動じずにアレンジして弾けるのに。
 でも昼休みにノートに何か書いていたから作詞や作曲にも興味があるのかと、夏準も薄々気づいていた。
「いいですね、それ」
 本人は恥ずかしがるけれど、勧められて聴いたヒップホップを思い出すような立派なリリックだ。
「…………」
「続きはないんですか?」
 止めていた手を動かして人参を切り、まな板を空けて今度は玉ねぎを切っていく。
「ない……けど」
「作ったらまた聴かせて下さいね」
 元から音楽の素養のあるアレンのことだ。やろうと思えばラップのトラックだって作れるだろうし、作詞もやれる。
 そういえば、ヒップホップは自由だと熱弁していた。自分の経験も主張も、苦しかったことだって飾らずにリリックにして表現できる。今のアレンにぴったりじゃないか。
 二人での生活が延びるにつれ、家事の他にも何か必要だと思っていた。生活には張り合いがなくちゃいけない。
 それは、アレンにはやはりヒップホップだとは思っていたけれど。歌を作って内面の整理にも繋がるならこれ以上はない。他人に聞かせるのは抵抗があるのかもしれないけど。
「僕は詳しくないんですが、曲作りってパソコンがあれば……」
 いいんですか?
 返事がないと思ってまた顔を上げると、アレンが俯いて両手に顔を埋めている。
「アレン?泣いてるんですか?」
「え、いや、ない。泣いてない」
 いや、泣いている。隠しようのない涙声だ。
 泣かせるようなことを言った心当たりがなくて流石の夏準も動揺した。この家に連れてきたその時にも泣いたりしなかったのに。
 包丁を手放してキッチンカウンターを回り込み、アレンの前に膝をついた。
 近くに来ると荒く濡れた吐息が聞こえる。嗚咽を押し殺した声なき声。
 どんな風に泣いているのか知りたくて、料理途中の湿った手で顔を覆う手を掴んだ。アレンはイヤイヤしたけど離さなかった。
「夏準……」
 手でくぐもった声で呼ばれる。
「はい」
 それでやっと少しだけ顔を上げた。
「……手、玉ねぎくさい」
「え、ああ、すみません!」
 慌てて手を離して自分の鼻に近づけてみた。確かにさっきまで玉ねぎを刻んで洗うのも忘れてこちらに来てしまった。
「夏準が、玉ねぎくさい……ハハッ」
 どうもツボに入ってしまったらしい。涙でベタベタの顔を上げて、濡れた手で腹を抱えて笑い出した。
「こっちは心配したのに笑うなんて酷いじゃないですか?」
 一緒に笑うこともできない夏準は足早にキッチンに戻って手を洗った。玉ねぎは粗方切り終えている。
「ごめん、でも面白くて……」
 腕でゴシゴシ顔を擦って、鼻をすすって、赤い顔をして、笑い疲れた息を吐く。
「はぁ……。自分の曲、か」
 まだ迷っているようだったから言い添える。
「ヒップホップをやりたかったならいいチャンスだと思うんですけどね。
“You lose yourself in the music,the moment”
────でしょう?」
 アレンに勧められて聞いた曲の一節だ。音楽に全てを捧げろ、チャンスを逃さず掴めと鼓舞する歌だ。
 夏休みのこの家には夏準とアレンの二人しかいない。ここでは何をしてもいい。何もしたくないならしなくていいし、歌いたければ歌えばいい。それは、アレンにやりたいことがあったのならまたとないチャンスだ。
 なのにアレンときたら立ち上がって真剣な目でこう言った。
「お前、上手いじゃないか!」
 何気なく、ほんの少し歌って見せただけだ。それに今は夏準の話はしていない。
「は?」
「いや、合唱が上手いのは知ってたんだ。授業で聴いたから。でも今のも良かった!」
 薄ら赤くなった目をキラキラさせて、何かに突き動かされるみたいに一歩一歩近づきながら言うから呆れて気が抜ける。
「ただの物真似ですよ」
「真似だってそんな器用にできるもんか」
「器用、ね」
 歌でもなんでも、見様見真似で出来ることは多い。物事を上手くやれるよう様々な技術を身につけてきたからだ。そのどれもホンモノの才能には遠く及ばないものだった。将来、財閥を継ぐ身分で必要なのは芸能の才能ではなかったから。なんでも教養として身につけ、ちょっと褒められて終わりだった。
 だけど、燕財閥の御曹司がヒップホップをやるなんて面白いんじゃないか。そんな考えが思い浮かぶ。
 夏準の家も、本を読むなら専門書か純文学。音楽ならクラシックという風に品格を重んじる風潮があった。汚い言葉で社会批判なんかやるヒップホップを堂々と聞く人間は周りにはいなかった。
 放任した養子がヒップホップなんかやり始めたら、養父母が知ったら少しくらいは怒ったりするのかもしれない。
「……じゃあ、一緒にヒップホップやりましょうか?」
「え?」
「二人でやるのも面白そうでしょう?」
 ニヤリと悪戯っぽく笑ってフライパンに入れた野菜を炒める。コンロに火をつけて、木べらを使うとフライパンの底が軽快な音を立てた。
「……いいのか?」
「何がです?」
 キッチンカウンター越しに力のある目が真っ直ぐに夏準を見る。
「俺は、やってみたい」
 やっぱりアレンにはヒップホップなのだ。校舎裏に吹く緑の風を思い出して夏準は目を細めた。
 カウンター越しに手を差し出す。硬く握りしめる手の力強さが好ましかった。
 この手は一条の光だ。

「そういうわけで、彼は今作曲に夢中なんです。お披露目は、そうですね、早ければ秋の学園祭のステージになるかと。よろしければ保護者チケットを郵送しますよ?」
「ふざけるな!」
 氏は大事な両手でテーブルを叩いた。そこまで感情的になるほどの執着は、果たして愛情なのだろうか。微笑みを崩さないまま何十歳も歳上の男性の怒り顔を観察する。
 息子の、韓国屈指の名家を実家に持つ同級生が家に訪れた時には随分と低姿勢だったのに。今ではどうだ。
「うちの息子にヒップホップなんて品のない音楽をやらせる気はない!」
「やらせる気もなにも、すでに夢中になっている、と申し上げたんです」
「やめさせろと言ってるんだ!うちじゃ聴くことも許さなかったのに、人の子どもを勝手に家に住まわせて悪い道に引き摺り込むのか?!良家の御令息だと思って好き勝手するにしても、やっていいことと悪いことがある!」
 彼の隣に座った妻も、夫と同じ気持ちらしい。似合いの夫婦だった。
 朱雀野夫妻といえばクラシック界隈では有名で、国内外でコンサートを行なっている。オペラ歌手の妻は後進の育成でも評価されている優秀な教育者でもある。
 ただ、それは同じ道を歩む若者に限定した話だ。彼ら自身の子どもは違う。本人の意思を無視して強制するのは決して子どものためなんかじゃない。
 同級生を心配する品行方正な友人として夫妻にコンタクトをとった夏準は、この日、弁護士を伴ってその家を訪ねた。
 子ども一人だと思っていた夫妻は弁護士の存在を警戒したが、行方不明の息子の所在を知っていると言われれば追い返せなかった。
 応接間の立派なテーブルに並べられたカップの紅茶が冷めていく。
「面白いことを仰るんですね。ヒップホップは法律に違反でもしているんですか?」
「大人をバカにしたようなことを言うんじゃない!」
「子どもをバカにしているのはそちらでしょう?」
 隣に待機して黙って話を聞いていた弁護士が封筒から数枚の写真を出してテーブルに広げると、夫妻の顔色が変わった。
 手足や顔についた傷を撮影したものだ。
 その隣にボイスレコーダーも並べる。
「これは僕の家に保護した初日に撮影したものです」
「まさか、私たちがそれをやったとアレンが言ったのか?」
「そんなまさか。見たところ、逃げてくる途中でついた傷がほとんどかと思います。本気で彼の肉体を痛めつけるなら他にもやりようがありますしね」
 客人に向ける目が気味悪そうに濁る。
「……そんなものを突きつけて、弁護士まで呼んで、我々を訴えるつもりか?」
「アレンさんご本人にその気がない以上、この程度の証拠では無理でしょうね」
 弁護士が答えるとあからさまにホッとした気配があった。
 我が子に酷いことをしておいて、裁判という形で是非を問われることに怯えるのかと思うと反吐が出る。
 彼らは狂っているわけではなかった。常識があり、けれど欲望があり、人並みの善悪の基準を持ちながら子どもを苦しめた。親のエゴのために。
 彼らがアレンにしたことは虐待だ。
 思い返せば一緒にレコードショップに行った日、アレンは「明後日には親が帰ってくる」と言っていた。予定通りなら。でも予定は狂った。日本では話題にもならなかった事件のためにコンサートが中止になったからだ。
 夏準は推測した。アレンの両親は予定が潰れたので“明後日”より早く帰国したのだ。それで油断していたアレンは親の怒りを買った。
 理由はクラシックではなくヒップホップを聴いていたから。隠してレコードを買っていたから、思い通りにならない我が子を叱り飛ばして、学校も休ませた。貸したレコートを返せないとアレンが言っていたところから察するに、ヒップホップに関わる物は押収されたか廃棄された可能性もある。
 アレンが逃げ出したのは教師に頼んで届けた手紙がきっかけだ。あの手紙は、本当に病欠だったなら、アレンのスマホから返事をするなり、復帰した時に礼の一つも言えば良い。そんな何でもない内容だ。
 だから親はアレンに渡した。友人とヒップホップを楽しんでいるとは分からない内容だったから。
 しかも送り主は燕財閥の御曹司。入学当初から夏準は目立っていた。親が立派な立場の人物であるほど夏準の存在を意識していたのを夏準自身も感じていた。
 大財閥の令息で育ちの良さは折り紙付きの友人と付き合いがあると思えば悪い気はしないだろう。もし渡した手紙を読まれたとしても、アレン自身に「この子の手紙にある音楽ってヒップホップのこと?」なんて尋ねても認めるわけがない。
 お陰で無事にアレンに手紙が渡り、家を逃げだしたアレンは夏準に電話をかけることが出来た。
 夏準が自分を捨てた親を許すことは一生ないが、親の肩書に感謝しないでもない。高校生の身で大人と渡り合うには便利な蓑だ。
 そうして出し抜かれた挙句、息子が身を寄せている先の情報提供を建前に交渉のテーブルにまで引っ張り出された夫妻のことは、自分の養父母同様に薄寒く見えた。金と権力でなんでも片付けることのできた養父ほどの力もないくせに。
「燕くん、君は友情を履き違えているんだ。これを知ったら親御さんも悲しむ。他人の家の事情というのは外側からは分かりにくいものだが、親は誰だって子どものことを一番に考えて指導しているんだ」
「嘘ですね」
 鋭く強い言葉で下手な懐柔を切り捨てた。
「調べました。彼が逃げ出してから僕が連絡を取るまでの三日間。捜索願を出していませんでしたね」
「それは、アレンは高校生の男だから……」
「ちょっとした家出だと?確かに、そういうこともあるでしょう。でもそれは普通の状態だったら、の話では?学校を二週間も休ませるような状態で靴も財布も携帯も、何も持たずに出かけたら、もっと心配しても良いのでは?」
「心配はした!している!」
「それでも大事にはしたくない、ですよね?」
 一枚のチケットを写真の横に差し出した。
「……ッ!」
 来月行われる国内公演のチケットだ。家から逃げた際に負ったかすり傷程度の写真しかなかろうと、息子を家に軟禁して学校を休ませ、小遣いで買った私物を取り上げ、家出するまで追い込んだと噂になるだけでも大問題だ。
 法廷での判決より先に世間体が夫婦の首を絞める。
「安心して下さい。アレンの安全と健康的な生活は僕が保証します。ご家庭であったことも、ご家庭の問題ですから他人に吹聴することはありません。その代わり……」
 口元で人差し指を立てた。貴公子然とした微笑みが歪む。
「アレンが自分で帰りたいと言うまでうちでお預かりします。本人にその気があれば、休み明けには学校にも復帰させます。お二人はこれまで通りきちんと学費を納め、来年にはアレン自身が選んだ進路を認めて、親の当然の義務として受験書類への記入や学費の支払いをして下さい。紙の書類の受け渡しはこちらの弁護士が仲介しますので」
 声を荒げていた先程より深く眉間にしわが刻まれる。
「私たちを脅すのか」
 弁護士が「ほらみろ」と言わんばかりに横目で視線をくれるのに余裕で返し夏準はにっこりと微笑んだ。
「クラスメイトを助けたいという善意がそんな風に取られるのは残念です。そちらのお仕事の都合にも配慮したご提案のつもりだったのですが」
「よくもぬけぬけと」
「ご納得いただけないなら訴えて頂いても結構です。貴方がたがやってきたことが世間的に肯定されることだと信じておられるなら」
 抑揚なく平坦に告げられた台詞に夫妻は黙ってしまった。それは罪を認めているも同然だった。
 当然だ。この夫婦は狂人ではなく、常識を持ちながら息子を軟禁して精神的に追い詰めたのだから。普通の神経なら外に知られるのは避けたいだろう。
 弁護士はここへ来る前、訴えられる可能性は十分にあると夏準に言った。夏準は「それならそれで結構です」と答えた。もし前科が付いたとしても、養父が嫌がるならそれはそれで悪くないような気がして。
「……朱雀野さん。こちらは未成年ですし、助けを求めてきた同性の友人を善意で自宅へ匿ったとしても大した咎めはないでしょう。ご子息は怪我の手当ても食事も十分に与えられていますし、帰宅を禁止されているわけでもありません。燕さんはこうして保護者の方へ連絡も差し上げております。なので、こう言ってはなんですが、ご子息のためにも少し距離を置かれてはどうかと」
 誰に対しての助け舟か、弁護士が口を挟むと、氏は深くため息を吐いて首を垂れた。
 それを了承とみなして弁護士が話を進める。事務所宛に制服や学用品、着替えを送ってくれるよう伝え、定期的にアレンの様子を伝えることも約束した。夫妻が弁護士を立てるなら連絡をくれるように、とも。
 終始慇懃に振る舞い、深く頭を下げて玄関を出る。その時になって母親が一歩前に出た。アレンと同じ色の目をした美しい人だ。その整った顔を泣きそうに歪めて夏準の服の裾を掴む。
「アレンは、アレンには才能があるんです。服と一緒にバイオリンを送りますから、どうかレッスンを続けさせて下さい。私たちはあの子の将来を考えて、あの子のことを思って音楽をやらせてきたんです……!」
 自分で選んだと思われる高価な指輪ときれいな爪の乗った細い指を優しく引き剥がす。その手つきと同じ優しい表情と声音で応えた。
「そうですね。彼がそれを望むのなら」
 母親は絶望したような顔をした。
 手塩にかけて育てた息子が、親の望む音楽を選ばないとわかっている顔だ。
 家を出て車に乗ると夏準は弁護士に伝えた。
「バイオリンやクラシックの譜面などが届いたら、そちらで保管して下さい。依頼料と別に保管料も請求して頂いて構いません」
「わかってますよ」
「それから、今日はマンション近くのスーパーで降ろして頂けますか?買い物がしたいので」
 運転手も二つ返事で了承して閑静な住宅地を走り抜けた。

 まな板に乗せたきゅうりをリズミカルにスライスする。スライサーもあるが、切りやすいものは包丁でやることにしている。
────トントントントントントン。
 カウンターに肘を乗せたアレンが軽やかな音をトラック代わりに短い歌を歌い、広げたノートに書きつけていく。
 最初に聞いた歌よりもずいぶん形になってきた。作曲の方も順調らしいが、不定期にキッチンにやってきて調理用具の音を聞いていく。
「小さい頃にさ、バイオリンで上手く弾けたのを聴かせると、母さんが言ってくれたんだ」
────素敵ね。全部弾けるようになったらまた聴かせてね。
「クラシックがやりたかったわけじゃないけど、ガキの頃はそれが嬉しかったんだよな」
 手を止めずに夏準は応える。
「僕にも覚えがありますよ。夏準は絵が上手ね。ピアノが上手ね。スポーツも勉強も良くできるのね、もっと頑張ってね……って」
「ハハッ。なんでもできるんじゃないか。腹立つな」
「褒めて頂いてありがとうございます」
 笑顔を向けると「褒めてない」と唇を尖らせる。
「でも、今度親と言葉を交わす時には子どもの頃よりずっと驚かせてやりますよ」
「ああ、今度は俺たちのヒップホップであっと言わせてやるんだ」
「ええ」
 それが何年越し、何十年越しになっても。
 いつまでも手の届かない栄光であってもいいとさえ思う。
 その約束こそが夏準の掴む輝く蜘蛛の糸だ。