閉じたばかりの扉をノックされ、寝静まろうとする家の静けさを乱さないよう、慎重に戸を押し開けた。
訪問者はわかっている。この家の同居人は二人。一人はさっさと自室に戻っていった。
残る一人は、
「アレン、どうしました?」
目を伏せてそこに立っていた。赤い前髪の間から形のいいまぶたを見下ろすと、まつ毛の上の躊躇いを押し上げてアーモンド形の目がこちらを見上げる。
今夜はライブの余韻もそこそこに、各自が自分の部屋に戻って眠る約束だった。ついさっき、そのことを確認して解散したばかりだった。
ファントメタル。特殊な素材で作られたアクセサリーを身に着けてパフォーマンスを行うと、これまでにない、デジタル映像とも違う、まったく新しい“幻影”を発現できる。その代償として、ライブの後、時間をおいてトラップ反応と呼ばれるトラウマが襲ってくる。
アレンをリーダーとした3MCチーム、BAEが幻影ライブをやるのはこれが二度目だ。
一度目はライブとは名ばかりの、自宅でのリハーサルだった。本当に幻影を使えるのか疑い半分に歌唱し、小規模ながら出現した幻影を目の当たりにして調子に乗った後。何曲も歌って息ぎれした呼吸が落ち着く頃にはいつトラップ反応がくるかわからない不安でいっぱいになっていた。トラウマが来る前から焦燥感に押し潰され、それでも誰にも縋れなかった。
トラウマはそれぞれのものだ。一度目で生々しく見せつけられたトラウマ、記憶を巻き戻したように鮮明な悪夢の内容は誰にも話していない。仲間たちも打ち明けたり、他人のトラウマを尋ねることもしなかった。
二度目の今日は客前で初めて幻影を使った。当然、後から来るトラップ反応を受け入れるのは簡単じゃない。それでも、アレンが作曲しみんなでリリックを考えて練り上げた音楽を最高の形で表現するのに幻影は必要だった。
トラップ反応の苦しみと同時に、幻影と融合した音楽を知ってしまったから。
きっとボクらはこの先もライブのたびにファントメタルを使う。最高の音楽で自分たちを証明するために。
そして、部屋に引きこもって周りの音も聞こえず孤独に泣きのたうち回るようなトラウマに苛まれる。
それに慣れていく。
今夜はそのための一歩目だ。
「部屋に戻るんじゃなかったんですか?」
戸口に立って冷たくも、温かくもない温度を意識して平坦に尋ねた。
これから互いの身に起こることを思ったら突き放すような態度はとりたくない。具体的に訊いたことはないが、アレンのトラウマはなんとなく知っていた。トラウマとなる過酷な環境から引き離す手助けをしたのがボクだから。
だけどアレンが望んでも部屋に入れることはできなかった。トラウマに苦しむ姿は見せられない。何を口走るかもわからない。無様に転がる姿なんか、アレンにだって見せたくなかった。
扉の開きも最小限で歓迎の意思がないことを示すと、アレンはまた目を伏せて赤毛の跳ねた後頭部を掻いた。
「あー……その、戻る。すぐ戻るんだけどさ……」
縋りつかれることを警戒しすぎたかもしれない。もう一人の仲間、アンはアレンのことをデリカシーがないと言うけど、不器用そうに見えて大事なところはちゃんと分かっている。部屋に滞在したいという話ではない様子を察して扉をもう少し開けて、真正面から向き合うと寝間着の布地を握って意を決してアレンが顔を上げる。
「き、キス……してもいいか……?」
面食らった。そんなことアレンがいうとは思わなくて。
「何を改っていうのかと思えば……許可なんか要りませんよ」
?に手を添え軽く唇を寄せると初々しく目を閉じる。
もう何度もしている。触れ合ったのは唇だけでもない。感情は一般的な恋人関係より友人に近く、胸を張って恋だと認めるには曖昧な関係だったけど。やっていることは紛れもなく恋人だった。
手のひらに馴染むひんやりした頬を感じながら離れると、アレンの肩から力が抜ける。惚けて少し眠そうに見える。そういう姿を可愛く思う。
「急にごめん」
「ありがとう、なら受け取りますよ」
「そうだな」
微笑んで頬に未練を残す手のひらに可愛らしいキスをくれた。自分からキスをせがむのは恥ずかしいけれど、こういう仕草は意識せずにやる。幼児や犬猫がじゃれるのと同じで色っぽい意味はないと分かっているのに胸の奥がざわつくのが癪だ。
「……これから部屋に戻って、トラップ反応が始まるだろ?」
「ええ」
「この間の、初めて味わったトラップ反応がしんどくてさ」
「そうですね……」
辛さを思い浮かべたかアレンが唇を噛み締めた。それを親指で撫でて解かせる。
「今夜もうんざりするほど苦しむんだと思ったら、お前の顔見ておきたくなって」
「さっきも見たばっかりなのに?」
見るも何もずっと一緒にいたのに。揶揄すると素直に頷いて背中に手が回った。
「ああ。見たら触りたくなったんだ。匂いも、硬さも、お前の存在全部しっかり覚えて、トラップ反応の中に持ち込めたら今夜も乗り越えられる気がして、さ」
あんまりに真っ直ぐな眼差しが眩しくて見ていられなくて唇を啄む。
「それならボクの味も覚えておいて」
薄く開かれた狭間に舌を差し込んでしっとり濡れた舌に絡める。ライブでは力強く動いていた舌も今はすっかり大人しくなって、上顎を舐めた刺激にヒクリと引っ込んだ。
胸を押されて乾燥気味の唇が離れる。
「ッ、やり過ぎだ」
吐き出される湿った息が艶っぽくて、つい眉尻が下がる。
「ハイハイ、おやすみのキスでしたね」
同い年の青年の体を抱きしめて、就寝前らしく?にキスを贈った。そうすると負けじとアレンも頬に唇を押し付けてくる。これはあんまり色気のないキス。
「じゃあ休もうとしてるところに悪かったな!おやすみ!」
バタバタ部屋に戻っていく。アレンの部屋の扉が閉まるのを見届けてからこちらも部屋に閉じこもった。
腕と口の中にアレンの感触が残っている。唾液はもう混ざり合って味なんてものは分からない。匂いも、唇のカサついだ感触も。ベッドの中まで持ち込めたらいいのに。
そうしたらアレンも、ボクも、恐ろしい過去の記憶から救われるんじゃないか。なんて。甘い妄想を抱いてベッドに入った。
苦しみに臨むアレンが自分を必要としてくれた。その事実を抱いて今夜の悪夢に立ち向かう為に。