◆雪の日
布団からはみ出た肩がやけに冷えてアレンは上掛けを引っ張り上げた。体温で程よく温まった布団に頭まで潜り込むと、いつまでも眠れそうに気持ちがいい。
体ごと布団と癒着しそうな意識が、扉を乗り越えて響いた歓声で覚醒する。
「すっごーい!見渡す限り真っ白!」
アンの声だ。
のろのろベッドを降りて、寝間着にしているスウェットの肩をさすりながら部屋を出てリビングに向かう。リビングは暖房で暖かく、その暖かい空気を切り裂くようにバルコニーからの外気が吹き込んで、やはり肌寒かった。
ソファに投げてあったブランケットを拾って体に巻き付け、バルコニーに顔を出す。
「うわ。積もったなー。電車動かないだろコレ」
「第一声がソレ?」
人の感想に不満そうな声を出したアンはちゃっかり厚手のカーディガンを羽織っている。それでも寒さに負けてすぐ部屋の中に戻ってきた。
キッチンカウンターでアンが呼ぶと、食事の支度をしていた夏準が「はいはい」と淹れたてのコーヒーをくれる。
「今日は買い物って言ってたのアンだろ。コレじゃ電車もバスも……道自体ヤバいんじゃないか?」
「それはそうだけど」
世間は正月だ。イベントごとに目がないアンのやりたいことは山ほどあって、昨日は早速初詣に行ってきた。そのまま初売りを提案されて「疲れるから日をわけろ」と断ったのはアレンだ。
ちなみにアレンのやりたいことは新年ライブで明日の夕方から自宅からのネット配信ライブを予定しているし、夏準は夏準でおせち料理作りを楽しんでいる。
「無理して出掛けて事故にでもあったら大変ですよ」
「わかったよ。あーあ」
コーヒーの湯気をため息で吹き飛ばしたアンの目の前に栗きんとんの皿が差し出された。一口食べてコーヒーを飲んで「あ、合う」と呟く。
続けて何皿かテーブルに並べ、食卓が整うと夏準はバルコニーに出た。ブランケットに包まったアレンがまだ外を眺めている。
寒い日はファントメタルがなくても声が白く形を持つ。
『Wake up,外は銀世界、Comicの白紙に描く新展開』
続きはどうだったか。視線を白く染まった世界から隣のミノムシにスライドさせると、眠そうだった目を丸くして、それからくしゃりと笑った。
「よく覚えてたなぁ」
「アレンも思い出してたんじゃないんですか?」
「ああ」
続きはアレンの声で奏でられた。未完成の短い歌だ。
数年前、まだアンがこの部屋に来る前。二人で迎えた初めての雪の日にも交通網の麻痺を見越して外出をとりやめ、暇つぶしに二人で雪の日の歌を作った。
こんな朝には思い出す。写真の代わりに曲に写しとった美しい雪景色のことを。この部屋に閉じこもって二人きりで見下ろしためくりたてのノートみたいな世界のことを。
「ねー、二人で何歌ってんのー?」
部屋の中からアンが呼ぶ。
歌が止まると冷たい風が急に?を刺すように感じて室内に戻った。
鼻の頭を赤くしてアレンがパッと顔を輝かせる。
「そうだ!今日の予定がなくなった代わりに新曲を作ろう!」
「でたでた。アレンのヒップホップバカ」
「暇になったのは確かですけどね」
夏準は苦笑して見せたが、それでも賛成だった。二人の記憶の中で朧げになっていく雪の日の歌を形にしておきたくて。
東京の雪は陽が差せばすぐ溶ける。
電車が動き出したら買い物の予定が復活するだろうから、今のうちに。
夏準はリリックの続きを思い浮かべながら、早速作曲部屋と化した自室に駆け込もうとしたアレンの服を掴んで食事の前に座らせた。
2021/1 新書メーカーでアップ
◆目覚め
赤ん坊のいる部屋から閉め出された瞬間に目が覚めた。
空気の温度。汗の冷える感覚。自分の荒い呼吸音。
急速に現実を認識できるようになる。同時に、さっきまで今経験したことのように感じていたものがリアルすぎる悪夢だったということも。
昨夜はライブだった。幻影を生み出すファントメタルを使ってライブパフォーマンスをやった後は、必ず過去の深いトラウマに苛まれる。ファントメタルはそういうリスク付きの代物だ。
ライブのたび、もしくは何か過去を抉られるきっかけを得るたびに真新しい傷を負わされるようにして繰り返し見てきた悪夢だ。目が覚めてしまえば過ぎたことだとわかるのに、いつまでも逃れることはできない。
ベッドの上で眠りから醒めたのに酷く疲れていて、気怠く寝返りを打った。
そこに恋人がいた。
悪夢を見る夜にも同じベッドに入るようになったのは、つい最近のことだ。以前はトラウマに悶える姿なんて絶対に見せたくなくて、ライブの後はそれぞれの部屋に篭っていた。
気分最悪で目覚めるといつも静かな部屋に一人きり。トラウマの根源である、弟の誕生を機に養父母に捨てられて訪れる人のいなくなった子供部屋で孤独に苛まれていた日の続きのようだった。
それが、今は同じ布団の中に彼がいる。
彼も同じようにライブのステージに立って、幻影を使い、代償として彼自身のトラウマをリバイバルされている。
今、まさに。眉間に深く皺を刻んで、呼吸は浅い。鼻筋を越えて流れた涙跡がある。
起こしてやれたらいいのに、普通の夢と違って幻影ライブの副作用で見るトラウマの幻は呼びかけても揺すっても、副作用が切れるタイミングまでは醒ますことができない。
新しく溢れた涙で濡れた目元を唇で拭った。
背中を抱いて、額に額を押し付けた。
それから彼の好きな歌を歌う。
クラシックの演奏家になることを親に強要され、大好きなヒップホップを奪われた彼の大切な歌。
彼が最初に作った曲。親に捨てられたレコードの曲。
思いつく限りを彼にだけ聴こえる声で歌っていると、次第に表情が和らいで、濡れたまつ毛がゆっくり持ち上がる。
「気がつきましたか、アレン」
瞬きでまた一粒涙が流れ落ちた。最後の一粒だ。後は抱き合った時に服に染み込んで消えた。
強く体を抱きしめて離すまいとする腕に捨てられた子供の孤独も染み込んで消えていく。
また繰り返し同じ悪夢を見ても、彼と一緒なら、きっと──────。
2021/1 新書メーカーでアップ
◆レール
ボクらはレールの上を走っている。
親から敷かれたレールを外れ、分岐した、自分の選んだレールの上を。
一人で暮らしていたマンションにアレンが住むようになって一年ほど過ぎた頃だった。
この部屋に来た当時は何もできないほど塞ぎ込んでいた彼の一年は、誰に止められることもなくヒップホップを聴きヒップホップを作る。ヒップホップ漬けの暮らしでずいぶん明るさを取り戻していた。そんな時だ。
「俺、そろそろ一度親と……クラシックと向き合ってみる」
新曲を焼いたCDに視線を落としてアレンが言った。決意めいた強さはなくて、どちらかと言えば思いつきのように聞こえた。
思えば、少し前に、アレンの父親が演奏するピアノリサイタルのCMを見た。それがきっかけの一つだったに違いない。
この部屋に来る直前。彼は両親によって自宅に軟禁されていた。
血の繋がった親に閉じ込められ、大事にしていたものを取り上げられ、否定され。親の選んだ人生を押し付けられていた。
彼の語る“両親”は、ボクの中にいくらか存在していた「実の子供なら一生愛してもらえるのではないか」という幻想を打ち砕いてくれた。
親は子供を思い通りにする権利がある。そんな傲慢な勘違いをしている、関わるべきではない人間達だ。ボクの養父母同様に。
だからボクは、アレン本人が望まないなら二度と会わなくていいとさえ思っていた。
彼らは息子に逃げられて一年ぽっちで改心するような人間じゃない。
アレンには黙っているが、ボクは弁護士を通じて彼の両親と連絡をとっている。連絡といっても仲良くしているわけじゃない。彼らの息子が健康的に生活し真面目に学校へ通っていることの定期報告をして、引き換えに、生活費や学費の支払い。それから進学に関する書面記入など、保護者として必要な手続きを放棄させないようにしている。
まだ保護者から解放されない歳の子供の生活を守るため、彼らにとっては親の義務を果たすための最低限の取引だ。
だというのに、母親からは未だにクラシックのCDや譜面やバイオリンのレッスンはやっているかといった内容の手紙が届く。もちろん弁護士事務所に預からせてアレンには一言も伝えることはないが。親の真心などという真綿で、今尚嫌がる息子の首に紐をつけようとしている。
果たして、そんなものと向き合う必要があるだろうか?
返事をしないでいると、アレンが不安そうにこちらを見た。イラつく気持ちはあったが、仕方なく会話に応じる。
「…………向き合ってどうするんです?」
「どうって、そりゃ……成長しなきゃ、とか……」
「成長ねぇ?」
「あと、このままじゃクラシックのサンプリングとかできないだろ?」
気が進まないならやらなきゃいい。
だが、自分の偏食が許せない食いしん坊みたいな物言いがアレンらしく、文句をつけるのもバカバカしくなった。
「アレンがそうしたいのなら止めませんよ。それで、帰宅するんですか?」
アレンは首を振った。
「いや……、まだ実家にいた時のことを思い出すと苦しいんだ」
「なら無理しなくても」
「でも、今はもう好きな音楽がやれてる。まだこの部屋には置いて欲しいけど……親とはいつか向き合わなくちゃいけない」
部屋を出て行きたいわけではないと分かって密かにホッとした。時期尚早、そもそも無理に向き合う必要がないと思う事に変わりはないが。
「なら、行ってみますか? ピアノリサイタル」
演奏を聴くことをファーストステップに。そう決めて、まだ余分のあった地方公演のチケットを二人分手配した。
それが小旅行の経緯だった。
結果。演奏は聴けなかった。
会場が近くなるごとにアレンの足は重くなり、入り口手前で完全に止まった。
幼い頃の自分を見ているようだった。
養父母が実の子供を授かって、子供に恵まれなかった夫婦のかけがえのない養子だったボクが親の愛と立場を失って以降。一時は学校へも行けなくなっていた。
親のように優しくしてくれた先生やクラスメイトまでもが見る目を変えてしまったのではないかという不安で。
朝から頭が、もしくはお腹が。体のどこかしらが気持ちの悪い怠さや重苦しい痛みに見舞われた。検査しても何もないのに、使用人の運転する車で校門前に来る頃には顔は青ざめて嫌な汗をかいている。
でも行かなくちゃいけない。苦しいのは自分が弱いせいだ。強くなれ。
そんな内側から出る言葉が更に自分自身を追い詰めた。
「────アレン、帰りましょう」
隣にしゃがみ込んで額に触れると、前髪の下がしっとりと汗ばんでいた。
冷えた手に手を貸して立ち上がらせ、支えるフリをしてその手を握りしめた。
父親のいる会場を彼が振り返らなくなるまでずっと離さなかった。
ボクはレールの上を走っている。
アレンのレールと並走して。
彼がトラウマから解放されて欲しいと願う気持ちと、いつまでも支えを必要としてボクを求めていて欲しい気持ち。二本の矛盾を孕んだようなレールの上で揺れながら。
隣で走り続ける彼と同じ速度で走っている。
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