落雷1/夏アレ/4876

────落雷

▽ ▽

 彼はヒップホップに出会った時、頭のてっぺんから雷に貫かれたようだったと語った。
 電流が走った、なんて月並みな表現だけど、高圧電流が自分を焼き尽くして生まれ変わったような心地だったと。
 その話を聞いたときに浮かんだのは、森林火災の後に発芽する植物のことだった。元あった木々が燃える足元で発芽が促進され、光を遮るものがなくなった焼け野原でのびのびと育ち、森林を再生させる。
 小さかった芽はやがて新しく豊かな森になる。

▽ ▽

「どうだ……?」
 目を閉じてヘッドフォンから流れる音に集中していた夏準は感情の乗らない微笑みを浮かべた。
「いいと思いますよ」
 ダメだ。微塵も響いてない。
 ヘッドホンと音楽プレイヤーを取り返して自分でもう一度聴いてみる。さっきは多少マシに思えたトラックもどこかで聴いたような、新鮮さの欠片もない曲だった。
「またダメか!」
 吐き捨てたアレンに夏準が苦笑する。
「ダメなんて言ってないでしょう。こういう曲が好きな人もいるでしょうし、これだけのクオリティなら自分で歌わなくても楽曲提供して欲しい人だっているでしょう」
 つまり、夏準が自分で歌うには値しないということだ。
「もういい、別の曲作る」
 もう何曲作っては没にしただろう。
 借りたパソコンで作曲を始めた直後は調子よくやれているつもりだった。だけど出来上がった曲を聴いてみたら、漠然と抱いていた自分の音楽センスへの自信が蜃気楼のようにゆらめいて消えていきそうになった。自分には音楽の才能だけはあると思っていたのに。
 ずっとやりたい音楽があった。ヒップホップを否定する親に抑圧されていた間、自由に好きな音楽を作れたらこんな音楽を作りたいという妄想をたくさんした。それを実現させた今では全てが目新しさのない模倣止まりだった。
 頭からヘッドホンをむしり取って広いソファに倒れ込む。その横に夏準が腰を下ろして面倒見よく音楽プレイヤーとヘッドホンを回収しローテーブルに置いた。
「根を詰めすぎなんじゃないですか」
「やりたくてやってるんだ」
 言葉に偽りはない。でも自然と声は小さくなった。
 アレンがクラシックしか認めてくれない両親に閉じ込められていた家を飛び出し、夏準が一人暮らししていたこの部屋に転がり込んで二週間ほどが過ぎた。
 最初は頻繁に実家でのことを思い出してしまって、嫌な考えから逃れるために眠れるだけ眠り、少し持ち直したら詰め込むようにヒップホップを聴いて作曲に没頭する生活だった。
 ぼんやりしていると「お前は間違ってる」と告げる父親の硬い声が頭に蘇ってくる。今は物理的にも離れているのに、辛い記憶は瘡蓋ができる前の傷口みたいに生々しく痛んで、少し動いただけで止まったと思った血がこぼれ落ちる。
 無気力で床に転がっていたらいつの間にか目の下に水溜りができていたこともある。
 この身から吐き出すなら冷たく冷えていく涙なんかじゃなく熱くなれる音楽でありたいと、アレンはそう思うのに。理想はそう簡単じゃない。
 夏準はアレンの頑なさに深いため息を吐いてリモコンでテレビをつけた。
 リビングには長身の男が寝ても余裕のあるソファセットの向かいに部屋の広さに相応しいサイズの薄型テレビがある。
 だけど二人とも映画やライブ映像を見るのがメインで、たくさんのチャンネルで放送しているバラエティやトレンディドラマなんかにはさほど興味がなかった。
 場の空気を中和する為だけにつけたテレビで馴染みの番組なんか見当たらず、意味もなくうるさく騒ぎ立てるタレントを見る気分でもなく消去法でニュースを選んだ。
 ちょうどスポーツのコーナーで、広いグリーンのスタジアムを背景に日本と韓国の親善試合の予定が告知される。各国代表の注目選手が紹介されたがよく知らない顔ばかりだ。
 チャンネルを変えた。住宅バラエティの企画で海辺の別荘地がモニターに映る。撮影は春頃のようだったけれど、別荘のテラスから臨むオーシャンビューは深い海と陸地の緑が良い割合で調和していて良かった。
 都心を少し離れると自然豊かな海に出られる。二人とも、あまり海に行ったことはなかったけれど。
「ねぇアレン、そろそろ外に出てみませんか?」
 いつか改まって切り出されると思っていた誘いにアレンは唇を噛んだ。
 実家を出てこの部屋に転がり込んでから夏準が近所のコンビニやスーパーに行く際、軽く誘ってみても断ってばかりだった。部屋から出ても親は捕まえに来ないと妙な自信で夏準は言い切ったが、実家に連れ戻されることの他にも不安はある。家出して同級生の家に居候している素行不良の子供が人目につく場所に出てはいけない気がする。
「たまには外の空気を吸うのもいいものですよ。引きこもりっきりじゃ体も鈍りますし」
 家に迎え入れた日から大抵のことはアレンの好きにさせていた夏準がそんな風に言うのは初めてだった。
 ソファにだらしなく転がったまま目を向けると額に手が伸びてきて、撫でられると思ったら反射的に体が強張った。
 数日前に、夏準にキスされたせいだ。
 怠惰に横たわった床の上で前触れも、事後説明もなく。黙って唇がくっつけられ、離れていった。
 その後はお互い何も言及しなかったし今ではすっかりなかったことになっている。
 キスのその日の夏準は取り付く島もなくて何も訊けなかったが、それ以降もどういう意味があったのか訊きそびれているのは、一瞬でも「夏準は俺のことが好きなのか?」と考えてしまったせいだ。もしそうだとしても、夏準のことは尊敬しているし、感謝もしている。友人として誰より大切だけど、きっと同じ気持ちではないと思ったから。
 キスの理由を問い詰めることで、黙っておけば済んだことを不毛に傷つけてしまうんじゃないか。そんな心配をした。
 だけど夏準が俺を好きなわけがない。俺なんかにフラれるのは完全無欠の夏準らしくない。きっとぼんやりしてばかりの姿を見て、驚かせようとしてやった冗談なんだ。
 そんな風に結論を出した。冗談に振り回されるのも馬鹿みたいだ。
 変に意識してしまったのを押し隠して大人しく撫でさせた。あっさりとした触り方だった。
「外ってどこだよ」
「そうですねぇ」
 テレビに映る絶景ポイントを見ながら携帯でいくつか思いついた地名を検索して夏準は尋ねた。
「アレンは新幹線以外の電車って乗ったことありますか?」

 まさか成績優秀学年首位の男が切符の買い方も知らないとは思わなかった。
「移動は車の方が便利なので在来線は乗ったことないんです。前から興味はあったんですが」
 アレンだってそれなりの家の子供が通う高校に在籍しているだけあって、それなりにいい暮らしをしている方だと思っていた。だが、実家を出ていると言っても大財閥の御曹司を侮っていた。
 券売機の使い方を面白そうに見つめては「来日してから一度サスペンスドラマで見たものそっくりです」と感想を述べ、混み合う車内では嫌そうに微笑みを顔に張り付かせ、海辺にほど近い目的の駅から出たらすぐに「気分が悪いので休憩しましょう」と言って近くの喫茶店に入った。夏で汗ばんだ人でいっぱいの電車は堪えたらしい。
 久しぶりの外は蒸し暑く、夏休みの観光客で平常時よりもバスが多い。クラクションが鳴ると飼い主に抱かれて散歩していた小型犬が吠え、犬が吠えると近くにいた子供が親の首に抱きついてぐずる。
 マンションのある都心を離れて緑豊かなエリアに出ると人間の代わりに蝉の声が賑やかになった。
 小さな頃は長期休みには弁当持参で郊外の公園に出掛けたこともあったけれど、アレンが大きくなるにつれてレジャーにかける時間もバイオリンのレッスンに奪われていった。出掛けたとしても大自然と触れ合うのではなく、クラシックのコンサートや美術館。海はハワイのビーチが最後だっただろうか。
 スマホで調べた地図を頼りに歩いて海岸に出た時、砂を洗う波の音や生臭い潮の香りが新鮮に五感にぶち当たってきた。
「海だ」
「海ですね」
「入っても、いいのか?」
「着替えは持ってきてないので足だけなら」
 つい許可を求めてしまった。もう高校生だし夏準は保護者というわけではないから、ダメと言われたって構わないのに。
 石造の階段に靴を置いて砂を踏むと、思ったよりも砂は細かくなくて、足の裏に粒の感触が伝わってきた。
 波に入る一歩目が少しだけ怖くて打ち寄せるリズムを数えて、足に絡んだ海水に驚いてすぐ後ろに下がったらすぐそこに来ていた夏準にぶつかって笑われた。
「仕方ないだろ。何年も海なんか来てないんだから」
「バカにしたわけじゃありませんよ。ボクも、日本の海は初めてです。ひとりではこんなところまで来ようとも思わなかったので」
 そっと濡れた砂に踏み入るとすぐに波が足元を浚いにくる。
 夏準が波打ち際に留まるのでアレンも海に足を浸して波に押される感触を楽しんだ。
 毎秒形の変わる波から顔を上げると、その先には雲と水平線しかない。広い海に人の姿はなくて、ひときわ強い波が押し寄せてくると言葉にできない不安に襲われて隣の夏準の手を掴んだ。
 夏準は驚いた様子だったけれど、すぐに微笑んで強く手を繋いでくれる。波で転びそうになったのと勘違いしたようだった。
 水に砂が押される音。海水が泡立ち細かな泡が弾ける音。頭上を越えていく鳥達の鳴き声。
 目から飛び込んでくる光景と耳から入り込む情報とが、頭の奥でぶつかり合ってパチパチ煌めく。
 家の中にこもった空気が入れ替わるみたいだ。頭の奥にこびりついていたモヤが波に攫われて、目の前がクリアになっていく。

「雨が降りそうですね」
 砂だらけの足を拭いて靴を履いた頃。急速に空を覆い始めた雨雲と降雨前特有の匂いに夏準が眉を顰めた。
 ゆっくり雨宿りできそうな飲食店まではしばらく歩かなければならない。あまり混雑していない田舎を選んだお陰で浜茶屋のひとつもなかった。
「タクシー呼びましょうか」
「駅までぐらいもつだろ」
 その判断が良くなかった。
 歩き始めて間もなく大粒の雨が降り出し、みるみるペースを上げて本降りになった。乾いていた地面が黒く染まるのを見て失敗を悟った。
 慌ててすぐ近くの小屋に飛び込んだ。錆だらけのバス停の後ろに建てられたトタン板で囲まれた待合所だった。
 薄っぺらい屋根の下でやり過ごす土砂降りは波音なんか比じゃないぐらいにうるさい。
「空が真っ暗ですよ。しばらく上がりそうにないのでここに車を呼びましょう」
 意識して大きめの声を出さないと同じ屋根の下にいてもよく聞こえない。
「アレン?」
 音量を上げて呼びかけても返事がないことに気がついた夏準は聞こえなかったのかと思ってアレンを振り返り、タクシーを呼ぼうとスマホを操作していた手を止めた。
 色褪せたベンチに腰掛けたアレンが自分のスマホに何かを夢中で打ち込んでいた。
 実家を飛び出してからは稀に買い物中の夏準がメッセージを送ってくるだけだったスマホだ。誰かにメールを送ろうとしているわけじゃない。
 他の荷物と一緒に夏準が実家から預かってきたものの、連絡を取り合う相手はいないし、パソコンもあるので作曲に使うこともない。一応持っているだけのスマートフォン。それが今この場では唯一メモができるツールだった。
 そばに近づいて手元を覗いても作業に夢中で何の反応もない。ひたすらにリリックの断片や作曲のためのアイデアを打ち込んでいる。
 赤茶けた毛束を摘んで、髪に含んだ雨水を指で拭っても何も言わないし手も止めない。
 雨風でバタバタいう屋根の端から遠くに雲の切れ間を見つけて、夏準はスマホをしまった。
 アレンの手が止まるのが先か、この雨が上がるのが先か。
 きっと今夜の彼は徹夜だ。夕飯も食べるかわからない。
 そして、近いうちにきっと眩いばかりの才能を見せてくれる。
 沖合に浮かぶ灰色の雲の下で一筋の雷が鋭く輝いた。遅れてゴロゴロと空気が震える。
 太陽を遮られて暗く沈んだ世界を一瞬だけ明るく照らしたその光が夏準の目の奥に焼き付いていた。