────Baby mine
▽ ▽
マウスカーソルを画面の右上にある通知マークに乗せ、深呼吸してクリックした。
ページが切り替わる瞬間は目を閉じてしまって、背中を叩かれて恐る恐る画面を見た。
「…………ヤバイ」
「予想以上ですね」
「マジでヤバイ…………夏準!」
「僕が言った通りだったでしょう?」
余裕顔の家主が広げた腕の中に飛び込んで嫌がられるほどきつく抱きしめた。
動画投稿サイトに初めて投稿したオリジナル曲の動画が高評価を獲得した。
ボーカルのないインストゥルメンタルだったけれど、自信をもって世の中に公開した初めての曲だった。
夏準は大丈夫だと太鼓判を押してくれたが、批判的な評価を受けるかもしれない。そもそも少しも注目されず、ほとんど聴かれることもなく終わるかもしれない。そういう不安はどうしても付きまとった。
「ほら、コメントもついてますよ。絶賛されてるじゃないですか。ダンスに使用したいって申し出も」
「はぁ……マジか。ヤバイな」
「さっきからヤバイしか言いませんね」
「仕方ないだろ……こんなに結果が出ると思わなかったんだ」
世界で唯一の味方である夏準以外の人にこんなに認められるなんて。実の親に全否定されたアレンにとっては夢に見るのも恐ろしいことだった。
自分では良いと思ったものを他人に貶されると、心のどこかが削れていく。
知らない誰かが適当に言った言葉なら大したダメージじゃないかもしれない。だけど、それがいくつも重なったり、評価点のマイナスとしてつきつけられたら、きっと無傷じゃいられない。
音楽のプロである両親からたくさんの言葉と、躾として振るわれた暴力で受けた心の傷はとてつもなく深い。夏準に助けられてから親の言葉が身勝手な言い分だと思えるようになった。頭のどこかでは親の言うことが正しくて、自分は間違ったことをやっているのかもしれないという疑いを抱え続けているけれど、自分の両親がしたのは虐待であり親の都合を押し付けているだけだと理屈では理解している。
それでもきっと、赤の他人に自分の音楽を否定されたら、やっぱり親の方が正しかったんじゃないかと心が揺れてしまうだろう。
正しくなくたって自分の好きなヒップホップを追い続けたいのに、間違ったことをやって世界から爪弾きにされるのは怖い。ヒップホップに出会うまでの十数年間、ずっと世界の中心に両親がいて、両親が示す人生を信じてきたからだ。
だから、出来上がった曲を聴かせた夏準にネットで公開することを提案された時は迷った。試したい気持ちと、万が一にも心が折られてしまうんじゃないかっていう不安で。頭がぐらぐらするほど心臓を鳴らしながら投稿して、それからまた夏準に言われて投稿用のアカウントに届く通知を見るまで、その動画サイトもSNSも一切見なかった。
気が抜けて夏準の肩に顔を埋めていると背中を上下に撫でさすってあやされた。
「この僕が保証したんですから当然です。アレン、よくできました」
「はは……。俺のマネージャーみたいだな、お前」
「おや、一緒にラップをやらせてくれるんじゃなかったんですか?」
「もちろん!」
今の大きな目標はアレンと夏準の二人で2MCチームを組むことだ。そのために夏準はラップ特有の歌唱やライミングの勉強をしている。納得いく曲が出来たら二人でリリックを書く約束だ。
「よし、今すっげーやる気湧いてきた」
「部屋にこもるのはいいですが、ちゃんと寝て下さいよ」
「ああ、キリのいいとこでな」
全く信じていない風に夏準が肩を竦めるが、親みたいに監視して夜更かしを止めるわけでもない。
凝りがちな肩を大きく回してアレンがあてがわれた自室に引っ込むと、リビングに残されたパソコンで表示しっぱなしの動画サイトを閉じ、夏準は検索エンジンのトップページを開いた。
上着のポケットから数枚の名刺を取り出す。全て芸能事務所のスカウトマンから渡されたものだ。
名刺に印字された名前を検索して事務所の実在から規模、世間的な評判を調べていく。そうして選び抜いた名刺の番号に連絡を取った。有名モデルを多数輩出する事務所のものだった。
ホテルのラウンジの片隅で待っていた男に声をかけると、彼は親戚の叔父のような気安さで片手を挙げてにこやかに迎えてくれた。
燕財閥傘下の企業で取締役を務める朴という男だ。高校生の子守などするような身分ではないが、燕財閥総帥の遠縁にあたり、総帥と親交がある。母国を離れて日本で一人暮らしをすることとなった夏準の世話役だ。
住居の手配や、今は夏準が勝手に長期休暇にしてしまった家政婦の契約、保護者の代理として学校への対応も引き受けているが、夏準からすれば養父のつけた監視役でしかない。生活が落ち着いて以降は学校でも品行方正を貫き、間違っても保護者が呼びつけられるような問題は起こさない。彼だって厄介な立ち位置にいる子供の世話など面倒でしかない。今では年に数回程度、様子伺いの電話があるのみだった。
「久しぶりだね。元気そうで何よりだよ」
母国語で親し気に話す朴に合わせて夏準も出来のいい甥っ子のような振りをする。はしゃがず、不幸そうでもなく、適度に微笑んでやる。
「お忙しいところお時間を頂いてすみません」
「いいんだよ、もっと頼ってくれても」
心にもないくせに。すっと目を細めた。
「しかし、驚いたね。モデルのバイトを始めたいなんて」
「実際ボクに務まるものかはまだわかりませんが……」
「いやいや、きっとすぐ人気になるよ。でも小遣いが足りないわけでもないんだろう?」
「ええ。バイトと言っても学校優先ですから大した稼ぎになるわけではありませんし。ですが、微々たるものでも自立したいと思いまして」
「まだ若いのに偉いねぇ。応援するよ」
「ありがとうございます」
丁寧に礼を述べて持参した書類を差し出す。モデル事務所に提出を求められている契約書だ。保証人の署名が必要となる。
書類に記載の社名を眺める男の丸い頭を穏やかな表情の下で眺めていた。実家を追い出された子供がはした金でモデルなんか始めるというのだ。話のネタ程度には興味があるのだろう。
「こりゃ大手じゃないか。さすがだね」
詐欺まがいの事務所に所属するつもりもなかったが、こうして値踏みされるのを見越して選んだのだ。モデルで成功しようとは思っていないが、腰かけでもそれなりの環境を確保するに越したことはない。
保証人の欄にサインを貰った用紙をしまい込むと長居は無用とばかりに支度を整える。あちらも予定が詰まっているらしく、一緒に席を立った。
ホテルのエントランスを目指して歩く道すがら、朴が思い出したとばかりに手を打った。
「そういえば、来週の土曜にご両親が来日するから直接モデルの件を報告したらどうだい?」
なんでも卒のない笑顔で受け流せる夏準の足が止まった。
「来週……」
「そう。ほら、サッカーの試合があるの知ってるかい?仕事のついでに観戦するんだそうだよ」
「ああ、そうなんですね」
夏準が立ち止まったのに合わせて止まった朴だが、時計を見て早足で歩きを再開した。つられて夏準も歩く。それから何か当たり障りのない会話をして車に乗る朴を見送って帰った。
養父母の話を聞いてから後、どんな顔で何を話したのか。帰宅してもさっぱり思い出せなかった。
両親に「要らない」と言われた時、嫌われたのだと思った。
子供に「不要」と「嫌い」の違いは難しかった。好きでも嫌いでもないものだって手元に置き続けることはある。
だから弟が生まれ、両親から「要らない」と告げられてすぐの頃はそれまでにも増して勉強に励み、いい子を演じようとした。努力で人に愛される子供になれば両親からの愛も取り戻せると勘違いしていたのだ。
けれど、日本行きの話が進む途中でもうどうにもならないのだと理解した。だって勉強でどれだけ優秀な成果を出しても養父母はその結果を見ない。完璧なマナーを身に着けて可愛らしく微笑むことが出来ても、養父母は自分に会ってくれない。
“要らない子”の烙印を押されて間もなく、養父母とは一切会うことが出来なくなった。飛行機で日本に渡るその日にも、使用人から「元気で」と伝言を聞かされただけだったし、後から思えば可哀想な少年に気を遣った使用人がついた親切な?だったかもしれない。でも、嘘ではなかったかも。
確かに養父母は多忙だった。優先順位が下がった養子に費やす時間がないのは疑いようもない真実だ。
それでも、彼らは何年も育てた養子のことを嫌いになったわけではないのだ。だったら、もしかしたら、ひと目でも会って立派な姿を見せられたなら────。
目覚めは最悪だ。夢と言うのは願望や不安が投影される。
何年も顔も見ていない養父母に優しく迎えられる夢なんて、母国のベッドの中に置いてきたと思っていたのに。
冷水で顔を洗っても鏡に映るのは親に愛される子供でもなければ新人モデルとして期待される微笑みの貴公子でもなかった。
そんな自分から目を逸らしてタオルで顔を覆う。清潔なタオルが腹の底から上ってくる重苦しい吐息で汚染されていく。
静けさが堪える朝にドタバタした足音が響いた。
「夏準!お前芸能人になるのか!?」
手にはモデル事務所の契約書がある。リビングのテーブルの上に広げてあったものだ。
「……おはようございます。朝からうるさいですよ」
「すまん。でもこれ有名なとこなんじゃないか?」
「アレンでも知ってるぐらいですからね」
勝手に持ってきた書類と夏準の疲れた顔と見比べたアレンはひとりで頷いてしみじみ述べた。
「お前って顔が整ってるもんな」
デカいし、とスタイルも褒めてくれたがアレンにとって美醜はそう重要ではなかった。
「これってさ、一緒にラップやっても大丈夫なのか?事務所所属になると色々制約あるだろ」
アレンはそういう人間だ。ちょっと眉尻を下げて上目遣いにするのが叱られた犬のようでヒリヒリしていた内面の毛羽立ちがマシになる。
「先に了承はとってありますよ。友人と音楽活動をする予定だってね」
「そっか。そうだよな」
「そもそも順序が逆なんですよ。アレンはボクとライブもやりたいんでしょう。それなら予め人前に立つ訓練をしておくと役に立ちます」
「訓練なんかしなくたってお前は注目浴びて緊張とかしないだろ……」
二人でリビングに戻って寝間着のままのアレンを部屋に追い返す。着替えたら朝食だ。
冷蔵庫から野菜とフルーツを選び出して皮むき、カットしたものを牛乳と一緒にミキサーにかける。ピッタリ二人分の分量で。朝のスムージー用に用意しているグラスを二つ棚から取り出して並べる。その途中で手が滑って床に落としてしまった。
ガラスの砕ける音で着替えを済ませたアレンが駆け寄ってくる。
「来ないでください。危ないので自分で片付けます」
キッチンカウンターの向こうにアレンを留めて足元のガラスを拾った。幸い、大きな破片がほとんどで、簡単に片付けが済みそうだった。
手で拾える欠片をのろのろ集めている間にアレンが掃除機とフロアモップを持ってくる。来るなと言ったのに。
「大丈夫か?」
「ええ、食事の準備もほとんど終わりでしたし」
「そうじゃなくて」
乾いたアレンの手が白い額に触る。じんわり汗ばんでいた。
「なんか顔色悪いぞ」
鈍感なアレンに言われるほどか。そう思ったら平静を装うことへの疲れがどっと押し寄せてきた。
「座ってろよ。続きは俺がやるから」
続きなんてゴミを所定の場所に移動して食卓に皿を運ぶ程度のものだったが素直にソファに座って任せることにした。アレンに任せておくとサラダとトーストを乗せたプレートは向きを揃えないし、スムージーの注ぎ方が下手でグラスのふちが汚れてしまうけれど。
実家の両親は家を空けることが多く、通いのハウスキーパーがなんでもやっていたそうだから家事の手伝いもろくにしてこなかったんだろう。夏準も昔はそうだった。
家事以外にも、人付き合いもアレンは得意じゃない。どうも気分が沈み込んでいるらしい夏準を気遣おうにも方法がわからない。
「そうだ、飯のBGMに武雷管のCDかけようか」
「結構です。食事は静かに食べたいので」
自分が元気になる方法は通用しなかった。
「じゃあさ、今度出かけないか?近場でフリースタイルバトルが見れるイベント見つけたんだ」
「アレン、元気づけようとしてくれるのはありがたいですが、それはボクじゃなく君が行きたいんでしょう?」
「う、いや、それは……そうだけど。俺が行き詰ってた時にはお前が外に連れ出してくれただろ?」
それを言われると心に響かないでもない。アレンは不器用なりに与えられたものを必死に返そうとしてくれている。
「そうですね。生でラップバトルを見たことはありませんし」
「だろ?ちょっと先で、来週の土曜なんだけどさ」
フォークを持つ夏準の手が止まった。夏準の様子を気にしていたアレンはそれを見逃さなかった。
「……土曜、何かあったか?」
「いえ……」
別に予定があるわけじゃなかった。きっとアレンと出かける方が良い思い出を作れるだろう。でも、夏準はフォークを皿に置いて両手を組み、首を垂れた。
「何も、ないんですが……、両親が来日するんです」
「来日って、お前に会いに?」
アレンには家庭の事情が複雑であることは知られている。詳しく話したことも、話す予定もないが、親から逃れてきたアレンの味方であることを心から理解させたくて、両親と上手くいっていないと教えたのだ。もちろん、親に捨てられただなんて情けない話はしていないが、親に裏切られた恨みがあるとは言った覚えがある。親を怨むことで湧いてくる活力もあるのだ。両親に深く傷つけられてきたアレンもそうしたらいいと思って。
それなのに、怨んで仕方ない養父母が来日するというそれだけで動揺してしまう。すとんとすだれを下ろした前髪を透かしてアレンの顔色を窺ってしまう。
「ボクの為なんかじゃありませんよ。別件で用があるそうで」
「でも、お前は会いに行くんだろ?」
「そう決まっているわけじゃない」
「行かないのか?」
きっと別の人間が言ったら違う意図に聞こえただろうが、アレンの質問はただの予定の確認だ。
答えに詰まると「いいよ」と先回りして許してくれる。
「夏準の家のことは知らないけど、会わなくていいって割り切れてないなら予定詰めない方がいいだろ。イベントは今度でもいいんだし」
自分だって両親と顔を合わせるのはまだ怖いと思っているアレンらしい言い方だった。
「もしやっぱり親とは会わないことに決めたら俺とイベントだ。飛び入りでエントリーもできるらしいからさ」
「ぶっつけでフリースタイルやれっていうんですか?」
「ああ。お前らの知らない修羅場を生きてきたんだぜってリリック叩きつけてやろうぜ」
「なるほど。ラッパーの人たちは逞しいですね」
他人事風に言うとアレンがにやりと笑って親指で胸を突く。
「俺たちもなるんだよ。逞しいラッパーにさ」
寝ぐせだらけのアレンが妙にカッコよく見えた。
彼の愛するラップについて、夏準はまだよく知らない。既存の曲の表面的なカッコよさや形式的な勉強で得た知識はあるものの、アレンがそこまで心酔する理由を真に理解したわけじゃなかった。
そのまだ知らないヒップホップの魅力の一端が分かったような気がした。
サッカー日韓戦を控えた週の頭。月曜に朴に連絡を取って、来日中の養父母のスケジュールを確認してもらうよう頼んだ。面会できる時間帯とどこへ出向けばいいのか。
その翌日、火曜の夜に自宅で朴からの電話を受けた。
『すまないね、夏準くん。ご両親が今から時間を確保するのは難しい、と……』
嘘だ。サッカー観戦に来るならスタジアムで会えばいい。試合の前や、ハーフタイム中でも構わない。移動中でも、空港でも。
『私が先走って直接会ったらいいなんて言ったのが悪かったんだ』
朴はしきりに詫びてくれた。
短い電話を終えると全身の血が鉛になったように体が重くなった。
とっくに諦めたと思っていたのに。未だに養父母への期待を捨てきれないでいた。こんなにも打ちのめされるほどに。
懐かしいような感覚に自分が小さな子供になったような錯覚を覚えた。親に見放されたのを理解した過去に戻ったようだ。
目の前にある世界が画質の悪い映像みたいに見える。
急速に手足の先からしびれがのぼってくる。指先から手首、肘。そのうち心臓まで達して死ぬのかもしれない。それならそれでいいような気がした。絶望は病だ。見えないところで増殖して確実に身体を蝕み命を脅かす。現実に抗う気持ちさえ奪われる。
あの日、床で涙をこぼしていたアレンもこんな風だったのかもしれない。
虚ろになっていく視界の端でアレンがすぐそばまで来るのを捉えてぼんやりとそう思った。
▽ ▽
その日のアレンは一人ぼっちの静かな部屋で、ぼんやりする時間に襲ってくるフラッシュバックから逃れるために眠っていた。
昼夜問わず細切れに何時間も眠っているせいで眠りは浅い。夢と現の境目で時間の経過も分からない。
途中で出掛けていた夏準が帰ってきた音も聞こえていたけれど、プールの中で聞く水の外の出来事みたいに遠くて「おかえり」も言わなかった。
「アレン?寝てるんですか?」
キッチンに荷物を置いた夏準が目の前まできて膝をつく。
何も反応しないまま目だけを薄っすら開けると、外から帰った服のままで同じように床に横たわった夏準が目に映った。
よく食卓に並ぶお茶と同じ色の瞳と見つめ合う。鏡合わせに向き合って、同じように口を閉じて。目の端を流れ落ちた涙の跡だけが違う。
二人はよく似ている。二人とも両親に傷つけられて、今はこの部屋でひっそり暮らしている。
夏準はこの部屋に一人で暮らす理由を「親に裏切られたので」としか語らなかったけれど、名だたる名門校に通わせるためでもなく、国際大会に向けて特別なコーチの下で何らかの競技の訓練を受けさせるわけでもなく、未成年の子供がひとりで隣国に引っ越して暮らしている現状こそが多くのことを物語っていた。
アレンが何も言葉を返さなくても目敏い夏準のことだ。床が濡れていることぐらいすぐに気づいたが何も尋ねなかった。
その代わり博物館の展示ケースを前にした人みたいに真っ直ぐに目を向けて、赤くなった目元を観察した。
今はもう水分を流し尽くした虚な瞳がややつり気味のフレームに収まっている。よく見るとまつ毛にはまだ水分が残っていた。
その瞳の奥の孤独が知りたくて、夏準は音もたてずに身を乗り出した。
顔の輪郭がぼやけるほど近づいてみてもアレンは動かなかった。控え目な吐息がかかって少しくすぐったかった。他人とそんなに近づくことは今までなかった。他の誰かが近づいてきたら居心地の悪さや警戒心で退いてしまうだろう。
触れそうで触れない二つの肌の間には、かかる吐息とは別に、何かむず痒いような生ぬるい空気がある。
疲れた胸の内側をざらりと撫でるような空気だ。
それをアレンが感じ取った刹那に唇が触れた。
ぶつかったと呼べるような一瞬のことじゃなく、間違いなく故意に唇は押しつけられ、すぐに離れていった。
「…………え?」
瞬きをした。アレンが困惑しているうちに夏準はさっさと立ち上がって、置きっ放しにした荷物を片付けに行ってしまう。
眠り飽きたのに眠るしかやれることがないというくらい無気力だった頭が急に仕事を始めてアレンは跳び起きた。
「夏準っ」
「ほら、食事の準備をしますよ。外で美味しそうな惣菜を買ってきたんです。顔を洗ってから並べるのを手伝ってください」
「いや、あのさ……」
「食べないんですか?」
説明する気はない。質問しようとする姿勢ごとシャットアウトする鉄壁の微笑みだった。これは食い下がろうとしても面倒くさそうにされるだけだ。アレンが喉でつかえた言葉を飲み込むと、夏準は食器棚から皿を見繕うためにアレンに背を向け、その出来事は二人の間でなかったことになった。
▽ ▽
「どうした、大丈夫か?」
部屋から出ると夏準が立ち尽くしていた。様子がおかしいので傍に行くと手の先に引っかかっていたスマホが落ちてフローリングの上でゴトリと硬い音を立てた。
目の前まできても力なくどこでもない場所を見ていた。
「……夏準?」
肩を掴んで下から無理やり視界に割り込むとやっと返事がある。
「…………大丈夫、です」
言われた知らない国の言葉を理解もせず復唱するようにゆっくりで、どう見たって大丈夫じゃなかった。
「何かあったのか」
夏準が拾わないからアレンが足元のスマホを拾って目の前に差し出したけれど、夏準は真っ暗なディスプレイを見下ろすばかりで手に取ろうとはしない。
「何か、別に…………土曜、イベント、空きました」
「え?」
「君が行きたいって……」
「ああ、フリースタイルの……空いたって、親と会う話がなくなったってことか?」
体の横にぶら下がった手の指先がピクリと動く。
「最初から、なかったんです、向こうに、その気は」
いつも日本で生まれ育ったアレンより流暢に日本語を喋る口が、文法を忘れたみたいにぎこちない。でも十分だった。
そのうち突然倒れてしまいそうで無意識に掴んだ手の先は凍るように冷たい。
「ごめん、俺が会ってこいみたいなこと言ったからだ」
「……関係ありません」
「そんなこと言うなよ」
夏準が両親と上手くいっていないことをアレンは知っていた。それがどれほど根深いことかも、きっと他のクラスメイトの誰より理解できたはずだった。
自分だってまだ両親と面会できないのにどこか他人事だったかもしれない。夏準は自分より大人だから大丈夫だろう、なんて考えがあったのかもしれない。
自分のことを棚上げにして無責任な奴だと詰って欲しかった。辛いことの理由を押し付けてくれるならいくらでも引き受けるのに。
アレンは知っている。こんな時、親や周りの人間を責める気持ちよりずっと鋭く、深く、悲しみで育った棘で自分自身を刺してしまうことを。
「とにかく大丈夫なので」
アレンの手を振り払った途端に夏準の体があからさまにふらついて、不恰好な動きでソファに腰掛けた。格好悪いところを見せたくなくて咄嗟の誤魔化しでそうしたけれど、座ってみると二度と立ち上がれないような気がする。
自分は今、立っていたくなかったんだ。自分で自分を支えるのに疲れ切っている。
ぐったりと背もたれに寄りかかって全体重を預け、天井を仰いだ。目を閉じると数年前に会ったきりの両親が浮かびそうでダメだった。
使わなくなったものを捨てる時みたいに冷たい目で「要らない子」と言った養父母。その日を境に使用人の見る目も変わった。
部屋の掃除に手を抜かれるようになった。日本行きの準備と称して弟から引き離す為に別宅に隔離されてからは露骨に態度が悪くなり「どうせ親に告げ口もできない」と嘲るのを聞いたこともある。
優しさは憐れみでしか与えられない。
「…… Baby mine, don’t you cry」
ソファが小さく軋んだので夏準はのろのろ首を動かした。
並んでソファのクッションに埋まったアレンが上を向いて懐かしいメロディを歌っていた。
「Baby mine ────」
穏やかに奏でられる優しい曲だった。
脳は意識せず曲の正体を記憶から探し出す。
「……ダンボ」
呟くと歌が止まってしまった。ソファの背もたれに頭を押し付けたアレンが振り向く。
「知ってるか?」
「ええ、有名な曲ですから。小さな頃に、英語教育の一環で」
象が主人公のアニメーション映画に登場する子守唄だ。子象の母親が子供のために歌う。
「うちも。日本育ちで日本語の方が話す機会も多かったから、見せられるアニメやクラシック以外で聴かせてもらえる曲は英語の方が多かったな」
日々の生活は母国語だけでも困らなかったけど、両親は海外を渡り歩ける才能を持った子供に育てたかった。
ゆっくり瞬きしてアレンはもう一度冒頭を歌う────私の赤ちゃん、泣かないで。
「ヒップホップ以外の歌も歌うんですね」
普段できるはずの計算ができなくなった頭は思いついたことをすぐ口にする。口を挟むと歌は止まってしまう。
「こういう時に丁度いいヒップホップは知らないんだよ。ラップの方が良かったか?」
ヒップホップの子守唄を知っていたらラップを歌ったんだろう。口を尖らせて悔しそうに睨む。
淡い色の瞳がそれを受け止めて答えた。
「いいえ、そのままで」
目を見つめて薄く唇を開いた。
「────Never to part, baby of mine」
歌を止めても夏準は動かない。目を開けたまま眠っているみたいで、呼吸しているのか確かめたくてアレンはそっと身を乗り出した。
鼻と鼻が近づきそうに近づいて、二人の間の小指の先ほどの空間に覚えのある生ぬるい空気が生まれる。
胸のあたりの皮膚の下を柔らかいもので撫でられたみたいだ。
近づいた顔を両目で捉えながら少しも動かない夏準の白い頬に手を添えて柔らかい唇に触れた。