落雷3/夏アレ/9910

────怒り

▽ ▽

 制服に袖を通す。
 ワイシャツの襟に入る襟足が気になって指で触っているとリビングから急かされ、緩めにネクタイを結んで角の傷んだ通学カバンを掴んで部屋を飛び出した。
 靴は新調した。夏休み前まで履いていた革靴も履けないわけじゃなかったけれど「本当はスニーカーの方が好きでしょう?」と言われて二人で買いに行った。それぞれ別々のメーカーの靴を選んだが差し色が一緒だったのが密かに嬉しかった。向こうはランニング用で、通学に新しい靴を履くのは自分だけだけど。
 寝ぐせを指で引っ張って詰られながらピカピカの革靴とスニーカーの足を並べる。
 深く息を吸い込んで止めた。
「アレン、不安ですか?」
 ドアノブに手をかけた夏準が振り返って目を眇める。
「ちょっと、な」
 買い物には行ける。ライブ観戦にも行けた。でも、夏休みが明けたら休み前の世界に逆戻りするような気がして足が竦んだ。
「大丈夫ですよ」
 そっと肩に手を置いて顔を寄せる夏準に合わせ、少しだけ顔を傾けて目を閉じた。
 不安な気持ちを半分吸い取って離れていく。
 ドアを開ける。二人で外の世界に出ていく。

▽  ▽

「アレンくん、夏準くんと二人でライブやるんだって?」
 午後一番の授業が終わった後の休み時間に隣の席の女子が前の席の女子と揃って机から身を乗り出してきた。
「昼に申請したばっかりなのに情報が早いな……」
「実行委員にお姉ちゃんがいて教えてくれたの!」
 百パーセントの笑顔で得意げに言う少女にアレンは背中を丸めて「へぇ」と返した。完全に気圧されている。
 女の子たちの期待に満ちた眼差しを受けてもなんとも思わなかった。彼女たちがこんなに目を輝かせる理由はどうせ自分じゃなく、相方の方だ。
 眉目秀麗。人当たりもよくて運動も委員会の仕事もなんでも卒なくこなす。女子の大半が夏準に好意を寄せているが、あまりに完璧で平等な振る舞いのお陰でアイドルのような、高嶺の花のような存在になっている。なっている、というか、本人が意図してそうなるよう立ち回っている。
 こうして夏準のついでに騒がれたって「相変わらずアイツの外面は凄いな」という感想しかない。
「絶対観に行くから!」
「ああ、ありがとう」
「楽しみだなぁ、アレンくんのバイオリン」
 うっとり目を伏せる少女の言葉に移動教室の準備を進めていた手が止まった。
「アレンくんはバイオリンとして、夏準くんはピアノ?」
「子供の頃に習ってただけだって言うけど、前に弾いてもらったらすごく上手だったんだよね」
「そうそう! 歌も上手だし、どうするのか気になってるの。内容はもう決めてるんだよね?」
 期待に満ちた四つの瞳に見つめられて、アレンは音もなく唾を飲み込んだ。
 耳の奥で響くバイオリンの音。一部の乱れもなく奏でられる音楽が頭の中で捩じれて繊細な神経を苛む。

『アレンは本当にバイオリンが上手ね。いつまでもママの自慢の子でいてね、天才バイオリニストさん』
『次のコンクールの自由曲は決めたのか? 早く練習を始めなさい』
『今の小学校ではJポップなんか歌わせるのね』
『小学校の学芸会とコンクール、どちらが大事だと思ってるんだ。担任の先生には欠席すると伝えておきなさい』
『あなたはクラシックの才能があるの』
『早く目を覚ましてバイオリンのレッスンに戻れ』
『アレン、あなたは天才なのよ』
『アレン、お前は間違ってる』
「アレンくん?」

「アレン、移動教室の準備はできましたか?」

 柔らかな声に呼ばれて顔を上げる。
 隣の席の少女との間に割り込んできた夏準が肩に手を添えて準備を促し、少女たちに向けてにっこりと微笑んだ。
「学園祭のお話中にすみません。まだ詳細はナイショです」
 人差し指を唇の前に立てると女子たちは嬉しそうな悲鳴を上げた。
「きっと素敵なステージにしますから、楽しみにしていてくださいね」
 夏準お得意の貴公子スマイルで話を切り上げるとアレンを連れて教室を出た。騒ぎ立てる女子のお陰で注目されていた二人も廊下に出たら人並みの一部に溶け込んだ。
 背中を伝う嫌な汗がシャツに吸い取られて冷えていく。
「……助かった」
「一週間の風呂掃除でチャラにしてあげますよ」
「期間長くないか?」
 小さな声で話しながら視聴覚室の最前列、端の席に陣取る。
 今日は英語のテキストに載っていた小説を実写化した映画を見ることになっている。クラスの半数ぐらいは見たことがあるような有名な作品で、二人も一度ぐらいは見たことがある。
 教師は後ろの方の席で見ているし、スクリーンに近い前の方にいた方が目立たない。
 肩を寄せ合って座ると机の上にルーズリーフを広げて映画を照明代わりにペンを走らせる。
「セットリストなんだけど、二曲だから、この辺がいいと思うんだよな」
 十曲ほど書き連ねた曲のタイトルの横に丸をつけた。並んだタイトルのほとんどが伝説のヒップホップユニット“武雷管”の曲だ。
 丁寧に文字を目で追って、周囲に聞こえないような声で夏準が応える。
「どちらもノリやすい曲ですからウケはいいでしょうね」
 学園祭ライブの客は当然、同年代の男女ばかりだ。
 武雷管と言えばヒップホップ界隈で知らない人間はいないものの、界隈の外では徐々に話題にも上らなくなっていく。彼らが短い全盛期を走り抜け、突然公の場から消えて、もう何年も経つ。
 人気が衰えたわけでもない。麻薬でもやって逮捕されたわけでもない。解散して別の道を歩むなんて告知もなかった。ある日突然消えたというそのことが世間的にも話題となったが、日々更新されるニュースヘッドラインに埋もれて忘れ去られていく。
 伝説のユニットとはいえ、ヒップホップに精通しているわけではない観客に「誰でも知っている代表曲」という発想は通用しない。一般向けの選曲としては妥当な選択だった。熱狂的ヘッズであるアレンにしては自我を抑えた良い判断だ。
 だけど夏準は一番下の曲の更に下の空白行を整った爪の先でコツコツ叩く。
「これでもいいんですが、自分で作った曲はやらないんですか? この間聴かせてくれたトラック、とても良かったのに……意外と保守的なんですね」
 顎をそびやかしてルーズリーフからスクリーンに目を移した。
 唇を噛むアレンの胸の内とは対称的にプロジェクターで映し出された画面の中では華やかな舞台で女優が躍り、軽やかな歌声がスピーカーから響いていた。

 オリジナル曲をやれたら一番いいに決まってる。別にビビってるわけじゃない。トラックは自分でも満足いくものが出来たし、いつかこれをみんなに聴かせるのが楽しみでしょうがない。
 だけどライブでやるには歌詞が要る。トラックは打ち込み音源で楽器演奏はしないので、ライブは歌の方が重要になるが、肝心のリリックがまとまらない。
「ああああ────、クソッ!」
 あれこれ書きなぐったリリックノートの上にペンを投げ出してアレンははね放題の髪を?きむしった。
 人を馬鹿にした夏準の横顔が脳裏に浮かんで腹が立つ。家事ができなかったり勉強でミスしたところを馬鹿にされるのは気にならないが、ヒップホップに関しては話が別だ。
 アレンの方がヒップホップへの情熱があるんだから先にリリックを書いて、それを受けて自分のパートを考えますと申し出たのは夏準だった。アレンもそのつもりだったから簡単に頷いたが、作詞のバトンを夏準に回すことなく時間だけが経過している。
 リリックは自分の内から溢れる主張。自分たちの生き様を言葉にしてライムを刻む。
 韻は踏める。歌いたいこともある。ずっとやりたかった本気のヒップホップだ。
 それなのに、作ったフレーズは陳腐でしっくりこない。試しに歌ってみてもいまいちキマらなかった。
 仕方ないじゃないか。自由に曲作りできるようになったばかりで慣れてない。でもそれを理由に妥協するのはアレン自身が許せなかった。
「ダメだダメだ。気分転換して続きだ」
 机に両手を突っ張って立ち上がると中身の少ない財布をポケットに突っ込んでコンビニに出かける。夏準は最近始めたモデルのバイトで留守にしていた。
 マンションのエントランスを出ると目の前の道路の対向車線側に路上駐車している車が見えた。
 他の住人のことは知らないが、それなりの高給取りが住むような高級マンションだ。芸能人とかも住んでいるかもしれない。モデルならアレンの部屋にもいるし。ゴシップ狙いのカメラマンがその辺にいてもおかしくないよな、と冗談半分に考えながら見ていたら、車の中の人物と目が合った気がした。
 勘違いかもしれない。知らない人だったし、アレンは芸能人でも何でもない。演奏家の両親ならいざ知らず、ちょっとジュニアコンクールで騒がれていた程度の自分なんか。
 フラッシュが焚かれたわけでもないし、やっぱり自分には関係ないに違いない。
 気の抜けたジャージに寝ぐせ頭を乗せてコンビニに行き、コーラとアイスを買って帰った。休憩後も作詞は捗らなかった。

 そんな些細な出来事を思い出したのは学校で、担任に呼び止められた時だった。
「お家のお手伝いさんが忘れ物を届けてくれたぞ」
 昼休みの廊下で楽譜を渡された。実家のハウスキーパーなんか二ヶ月以上会っていないし、実家に暮らしていた時も忘れ物を届けに来たことなんか一度だってなかった。
 差し出されて条件反射で手を出してしまったものの、受け取った楽譜は死んだ身内が目の前に現れたような気色悪さがあった。
 誰かの間違いじゃなく、アレンの楽譜だった。多分、一番調子がよくて母親にも褒められていた時期に演奏していた曲の。
 パラパラめくると自分でやった書き込みが残っていて僅かでも残っていた人違いという説は簡単に消え去った。
 それどころか、ページの間から封筒が出てきた。母が使っているのを見たことのある、淡いピンク色の記名のない封筒に、母の文字で綴られた手紙が入っていた。

────バイオリンは無事受け取りましたか?
────ブランクを取り戻すのには苦労しますから、学校の音楽室を借りてでもレッスンは続けて下さい。

 元気ですか、の前にバイオリンの心配をする文言があった。
 その後にどんなに両親が心配しているか。厳しく当たりすぎたことを反省しているが、子供を愛する気持ち故のことだったので許して欲しい。いつでも帰ってきて。そんな内容が続いた。
 冷たい手で、人の流れを避けた廊下の隅で、機械的に文字を追う。
 最後にはこうあった。

────それから、この手紙の件は燕くんには絶対に言わないように。
────彼は優等生の顔をしていますが、恐ろしい子です。アレンも気を付けて、早く彼の近くから逃げて下さい。
────うちに帰ってきたらママがあなたを守ります。

 実家を飛び出してしばらくしてから、仲介を買って出てくれた夏準が制服や着替え、通学に必要なものを預かってきてくれたが、バイオリンは届かなかった。
 口の上手い夏準のことだからあの両親のことも笑顔で丸め込んで、クラシックを強要することを諦めさせてくれたのかと納得していた。
 だけど可笑しいと思っていた。あの親が家出した息子に好きなことをさせておくなんて。
 便箋の最後まで目を通した後も紙の上に並んだ細い線たちに目を落として、頭では文面の外にある現実のことを考えていた。
「アレン、どうしました?」
 肩に触れる手と声にヒヤリとしてすぐさま振り向き、手紙を背中に隠した。過剰反応だった。
「……ラブレターでも貰いましたか?」
「ち、ちがう!」
「廊下で堂々と読むのはマナー違反だと思いますけど」
「違うって言ってるだろ!」
 首を伸ばして冗談半分に手紙を覗こうとする夏準から逃がして、後ろ手で便箋をたたんで素早く楽譜を服の中に隠した。
「アレン……」
「とにかく、ラブレターとかそういうんじゃない!じゃあな!」
 どうせ午後一番の授業で会うというのに大声で誤魔化して走り去った。それから自分のロッカーに手紙と楽譜をしまい込んで、ロッカーの前で頭を抱えた。

 モデル事務所からの呼び出しで遅くなった夏準の帰宅は夕飯時刻を過ぎた。
 夕食は作り置きがあるから先に温めて食べているようにとメッセージが届いていたが食べる気分にはなれなかった。
 リビングのテーブルの上に置いたスマホを睨みつけている。自宅の電話番号を何度か打ち込もうとして挫折した。電話をかけるところまで行きついたとしても両親の声を聞いた途端に繰り返し言われた罵倒を思い出してすぐに切ってしまっただろう。あの手紙に書いてあったことを確かめなくちゃならなかったのに。
 多少マシになったと思っていたフラッシュバックに襲われそうになって頭を振った。スマホで自作のトラックを再生して、今はもう親元にいないことを再確認した。親から受けた深い傷を覆い隠すためにこの数ヶ月、すがって来たあらゆるものを思い出す。
 好きなだけ聴けるようになった数多の名盤。作曲環境。遠くまで続く海や髪を吹き流す潮風。「いいですね」と言ったシンプルな感想や、フリースタイルバトル初戦負けして戻った時に出迎えてくれた笑顔。
 ソファで膝を抱えて思い耽っているうちにカーテンの外側で日が暮れてリビングの扉が開いた。
「ただいま帰りました」
 制服姿の夏準が部屋の入り口でフッと息を吐く。
 一番上まで留めたボタンも、乱れのないネクタイも緩めることなくソファに歩み寄って一八〇を超える長身でコンパクトに座ったアレンを見下ろす。
 アレンの方が夏準に話があるつもりだったのに先に切り出したのは夏準だった。
「ご実家に電話でもしていましたか?」
「え?」
 思わず左右に視線を振ったのは部屋に監視カメラでもあるんじゃないかと思って狼狽えたからだ。まだ何も言っていない。目の前にスマホがあるだけなのに。
 照明の光を背中に受けた夏準の微笑みが暗く陰っている。
「当たりましたか」
「……いや、かけてない」
「その割には落ち着かない様子ですが」
「かけようとは、したけど……」
 正直に白状した。
 微笑みに細められていた切れ長の目元が冷たく歪む。
「そうですか」
「なんで急にそんなこと聞くんだ」
「君がご実家から手紙を受け取ったからです」
 淀みなく断言されて目を目を瞠った。
「昼に君の様子がおかしかったので、見ていた人たちから聞いたんですよ。そうしたら先生に何か渡されていたって言うじゃないですか。君が動揺するような手紙を教師づてに渡す人間なんてご両親ぐらいでしょう? 適当な口実を作って先生にも確認しました」
 膝を折って目線を下げる。光に当たった白い顔は笑顔のようで、眉間にはしわが刻まれていた。
「ボクに見せられないお手紙には何が書いてありましたか? ボクに脅されている、とでも?」
「…………お前が恐ろしい子だって」
「そうですか」
「夏準、お前が俺を助けてくれたこと。本当に感謝してる。その上で、うちの親と何があったのか。ずっと俺がお前任せにしてたこと。ちゃんと教えてくれ」
 穏やかな仮面の下で夏準が笑ってなんかいないことが分かっていたから怖かった。母親の言う恐ろしさとは別で、手紙のことを隠そうとした、それだけできっと夏準を傷つけた。そのことが怖い。
「手紙は学校のロッカーに置いてきたから今はないけど、見たいなら明日見せる」
「別に結構ですよ。内容なら大体予想がつきますし」
 柔らかな動きで立ち上がって夏準は自分の部屋に向かう素振りで背を向けた。声音は普段と変わらず、夏休みに一度だけ、彼の両親が来日すると聞いた時のような動揺は微塵も見せなかった。
「キミのご両親に会ったのは一度だけです。弁護士を連れてお邪魔して、子供を虐待したことを世間に公表されたくなければキミに接触してこないように約束させました。以降は荷物の引き上げもすべて弁護士を仲介しています。ちなみに、今回の手紙は本当ならルール違反ですが、初回ですからね。弁護士経由で注意に留めます。ご両親のお仕事に支障をきたしてキミの学費の支払いを拒まれたら面倒ですし」
「学費って……」
「音大じゃなきゃ受験させない、なんて言われたら困るでしょう?」
 弾んだ語尾で冗談だとわかっても笑う気にもなれない。海外に行くことも少なくなかったとはいえ、アレンは日本育ちだ。相続だとか金銭が絡むわけではない親子の問題に弁護士だとか、脅しだとか。思いがけず大事になっていたことに腰が引ける。だけど、そうした根回しの上にここしばらくの生活が成り立っていた。
 すぐに礼を言うのも気持ちがついていかないが、かといって夏準のやったことを大袈裟と切り捨てるほど愚かでもなかった。
 シャツの背中を見上げて気持ちをなんとか言葉にしようと藻掻くけれど、考えがまとまる前にリビングから出て行ってしまった。
「今日は疲れたのでもう休みます。キミも自由にしてください」
「夏準……!」
 追いかけて閉ざされた部屋の扉の前まで行ったのに呼びかけてどうしたらいいのか。混乱が尾を引いて扉を叩こうと持ち上げた拳も下ろしてしまった。

 昨日はまだこの時間、リビングに二人ともいて映画を見ていた。
 二人でライブをやるためにユニット名を相談したり、映画の中の有名なセリフを諳んじたりしていた。
 壮大なSFアクション物語の終盤には主人公が戦っていた敵の正体が彼の父親だとわかる。幼い主人公を捨てて自分の野望に突き進んだ父親が力をつけて目の前に現れた主人公に、自分の仲間にならないかと誘う一幕があった。ずっと父性に憧れを抱いていた主人公は誘いを跳ね除け、最後にはヒロインの秘めた力を借りて敵に打ち勝ち、世界に吹き荒れていた嵐が止む。
 手元にリモコンを置いた夏準がエンドロールを飛ばさずに暗い画面を見つめているのでふざけて襟足をくすぐったらやり返されて、ソファに押し倒されてキスをされた。
 キスは寂しさを埋める儀式だ。だけど何度もしているうちに意味合いが代わって来たような気もする。その晩のキスはどうだっただろうか。

 自分の部屋に戻るとスリープ状態だったパソコンを起動して、ヘッドホンを着けた。
 画面上の再生ボタンを押して音楽が流れだすと、脳みそは自動的にフレーズをいくつも思い浮かべて音にハメようとする。ここしばらくずっとやっていた作業だから頭にしみについている。
 机の上にはキーボードとノートが広げてある。
 途中まで単語を書き連ねて半端にしてあったページをめくり、真っ白なページにペンを下ろした。

▽  ▽

 寝付くことが出来たのは遅い時間だったが、早起きの習慣が身についている夏準は決まった時刻に目を覚ましてベッドを出た。
 気分は良くないが、そういうときこそルーティンを怠らないことが身を助ける。
 日課のジョギングに出るために着替えて部屋のドアノブを握り、押し開いて何か柔らかいものにぶち当たった。ドアが半身ほどの幅から先、何かにつかえて開かない。
 隙間から覗くと廊下に転がって涎を垂らしていたアレンがぐずぐず言いながら起き上がるところで、夏準は露骨に嫌な顔をした。
 この男こそが不調の原因である。昨晩から関係が良くないことはお互い承知のはずだ。
 百歩譲って、仲直りのためにドアの前で待っていてくれたとしても、そもそも昨夜は一度もドアを叩くことすらされなかった。別に天岩戸とばかりに引きこもっていたわけではない。
 その上、アレンはヘッドホンをしてだらしなく寝ていたので、場所が自室やリビングなら大好きな音楽に夢中で寝落ちしたいつもの朱雀野アレンの図と何ら変わりがなく、お陰で朝まで待っていてくれたという感動は半減した。
 ドアで邪魔な体を押しやって廊下に出ると、あまりの見苦しさに見かねて、ジョギングに持っていくつもりで手にしていたタオルで頬の涎を拭いてやった。ヘッドホンや髪まで濡れている。
「起きて下さい、アレン。何してるんですか」
 どうやら徹夜でもしたらしい。揺すってやっと開いた目が充血している。
「ああ、はじゅん…………なんだ、その恰好」
「走りに行くところです。いつもあなたが寝ている時間にジョギングしてるんですよボクは」
「そっか……じゃあこれ聞いてくれよ」
 何がじゃあなのか。アレンがヘッドホンを外すと赤毛にヘッドホンの痕跡を残すかのようにして寝ぐせがついていた。
 差し出されたヘッドホンは涎がついていたものだ。微笑みの貴公子というキャッチフレーズでモデルデビューし学校でもアイドル的人気を誇る御曹司の燕夏準に涎まみれのヘッドホンなんかさせるのは広い世界中でもアレンしかいない。
 イヤーパッドを丁寧に拭いてから嫌々ながらに装着して、アレンに「どうぞ」と視線を送ると、寝ぼけ眼のアレンは満足そうにうなずいて手元のプレイヤーの再生ボタンを押した。
 流れ出したイントロはアレンがリリックに悩んでいたオリジナル曲のものだ。
 そこに歌声が乗っている。夏準が担当するパートを除いて最後まで詞が出来上がっていた。

『────────────』

「…………アレン、これは」
 曲が終わって静かになったヘッドホンをむしり取って顔を上げると、アレンは床に伸びて寝息を立てていた。
 朝はずいぶん涼しくなったというのにTシャツの裾がめくれて腹が見えている。
「はぁ……まったく、キミは」
 床にヘッドホンを置くとジョギングを取りやめにして眠りこけるアレンの体の下に腕を差し込んだ。アレンの部屋まで運ぶには二枚ほど扉を空けねばならないので、抱き上げて開けっ放しの自室へと入り、ベッドに寝かせて枕元に膝をついた。
 彼が徹夜で仕上げたリリックはまさしく二人のための歌だった。
────お前が怒れない俺の代わりに怒ってくれるから俺は怒れないお前の代わりに怒る
────もう怯えるばかりのガキじゃない、俺たちは今が最高
────真実の俺たちはここから生まれるんだ
 そんなメッセージが力強いフローで音に乗せられている。
 夏準のために残された歌の途切れ目は、アレンから「お前はどうだよ」とマイクを向けられているようだ。
 口を半開きにした間抜けな寝顔に唇を寄せるとヘッドホンを拾い直し、机の引き出しから出したノートにリリックを綴り始めた。
 朝食準備までには間に合わないかもしれないけれど、今日ぐらいシリアルと昨夜の残り物でも構わないだろう。

▽  ▽

 学際のライブステージ中盤。普段ならまばらな客入りが今年は超満員だった。ざっと見る限りでは女子の比率が高い。
 前の演奏者の撤収を待つ間に確認したアレンが渋い顔した。
「うわぁ、お前のファンばっかりじゃないか。ヒップホップを聴いたことあるかも怪しいぞ?」
「少なくともボクらに期待しているのはヒップホップじゃないでしょうね」
 その原因は夏準だけではなく、むしろ、バイオリンの天才児として有名なアレンにある。
 誰も二人にラップを期待していない。ビートが流れ出した瞬間、もしくは楽器なしにマイクだけ持って登場した瞬間にシラけてしまうかもしれない。
 それを思うと、正直怖い。ステージ慣れしているアレンといえども、期待されていないステージに立った経験は記憶にない。常に期待され、期待通りの結果を残すだけだった。
「まさか学園祭のステージごときで逃げ腰になっているわけじゃありませんよね?」
 誰の目もない暗がりなのをいいことに微笑みが性質悪く歪むのをアレンが睨み上げる。
「まさか!俺は、この音楽で俺たちの生き様を、みんなに、俺たちの親に証明してやるんだ!」
「その通りです」
 両親には学園祭の日程も、招待状も送らなかったのでこの場にはいない。まだ対面する勇気がなかった。
 それでも、いつか必ず、両親に否定された音楽で自分自身の選んだ道を知らしめるつもりだ。今回のライブはその最初の一歩目。
 埃っぽい空気を深く吸い込んで逸る心を落ち着かせる。
「アレン」
 板上を見つめている横から手を握って名前を呼ばれた。
 至近距離だとやや見上げる高さにある夏準を見ると柔らかい唇が寄せられて、悪戯が成功した子どもみたいな笑顔を残して離れていった。
「お、お、お前ッ!こんなとこで、度胸あるなぁ!」
 小声で叫んで周囲を確認したが、幸いにも誰かに見られた様子はなかった。
「緊張してるかと思いまして」
 緊張なんて────。否定の言葉は喉に絡まって、一呼吸の間にため息に変わった。
「……少しだけ、な。でももう大丈夫だ。カマすぞ。準備は良いか?」
「ええ、いつでも」
 解いた手を拳にしてぶつけ合う。
 輝く舞台に踏み出した瞬間に飛び交った黄色い声援は、数分後には赤い熱狂に変わる。