ある研究員の日記/那由汰/7104

7月21日
翠石組を通じて集めた被験者にファントメタルのテストを行ったが、実験に必要な水準に達する使用者はいなかった。
ファントメタルによる幻影の発現規模は音楽的な素養、また、副反応の大きさに比例することから心的外傷の有無が影響すると推測されることから、条件に合致する被験者を募るとのこと。

8月17日
被験者候補の資料到着。
前回同様に翠石組の紹介による音楽経験者二名、我孫子診療所の通院患者から二名、研究所員一名。
演奏映像と生活状況を精査した結果、翠石組から一名、我孫子診療所の二名に打診。

8月20日
翠石組から紹介された被験者(24)が自主的に使用していたファントメタルの急性侵食で脳死状態になって搬送されてきた。親族なし。無職。回復研究班へ。
我孫子診療所について、
燕夏準(19)…過去二度、ファントメタル使用初期の重度副反応の改善のため受診。専門施設での検査として治験参加を打診し断られる。
矢戸乃上那由汰(17)…発熱など諸症状のため、不定期に受診。親族は双子の兄のみ。幼児期からの慢性的な栄養不足の影響もあり、体力に不安があるが、報酬提示により通いでの治験参加を承諾。兄と二名でパフォーマンスした際に発現する幻影が大きく、研究対象としての価値が高いため、兄の治験参加も打診するが拒絶。

8月27日
パフォーマンス前後の血液検査の結果を受け、食事の提供を開始。
待機室に常備している菓子類を持ち帰りたいとの申し出があり許可。

11月4日
初期から約二ヶ月。成長傾向にあった幻影の持続時間が不安定になった。副反応までのインターバル短縮も加速しており、覚醒後の衰弱が著しいためビタミン剤を投与。

11月25日
矢戸乃上那由汰の左腕に1センチ以上の皮膚変色を確認。急性侵食として認定。治験中の抗侵食薬を投与。四時間後に覚醒。意識レベル、運動能力に問題なし。
皮膚の変色範囲拡大は3センチ程度で止まったため、湿布で覆い、被験者本人の意向により一旦帰宅させる。
帰宅後の監視を開始。

11月30日
幻影発現実験の途中で急性侵食が再発。鎮静剤注射後、六時間後に覚醒。皮膚変色が7センチを超え、一時間に5ミリ以上の拡大が見られるため入院要請。
入院準備のためとして帰宅後、自宅アパートにて監視から逃走。
五時間後、被験者の兄、矢戸乃上珂波汰との合流を想定し矢戸乃上珂波汰を追跡していたチームが閉鎖ビル脇にて転落した被験者を発見。
情報保護上の都合により、睡眠薬を使用し矢戸乃上珂波汰を一時保護。後、幻影発現促進薬を投与して自宅アパートにて解放。
被験者はビル屋上から転落とみられる。目撃者不明。近隣監視カメラにはビル側から最寄り駅へと向かう男子学生が確認されており、被験者と年代が近いことからトラブルの可能性もあるとのこと。
転落地点の路地に不法投棄された段ボール箱などのゴミが緩衝材となり、打撲による致命傷は回避されたものの、急性侵食が上腕まで到達。
回復研究班と共同で侵食の食い止め、及び回復措置にあたる。

12/24
矢戸乃上珂波汰が矢戸乃上那由汰と二人でライブ参加した際の映像が届く。矢戸乃上那由汰は高精度の幻影と見られる。
幻影解析チームが継続して調査を続けることに。

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1月30日
ファントメタルの侵食により変色した皮膚の色が薄まり、長く変色状態にあった、変色が始まった箇所周辺に色素沈着が残るばかりとなった。

4月29日
転落時の打撲痕、骨折箇所の完治を確認。
容体は安定しているが呼びかけへの反応はなし。
侵食による昏睡状態が続く。

12月24日
研究資料として提出された矢戸乃上珂波汰のライブ音声を被検体に聴かせたところ、脳波に変化あり。呼びかけや他の楽曲の再生を試みたものの覚醒には至らず。

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6月6日
クラブパラドックスで幻影ライブの大規模イベント開催の連絡があり、幻影データ収集のため人員派遣要請があった。
療養中の被験者の幻影と生活を続けている矢戸乃上珂波汰にも参加を促す予定とのこと。

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2月12日
パラドックスライブの開幕ステージ中継を病床で流し、脳波の波形を記録。これまでで一番の反応が観測されたが覚醒には至らず。
今後のcozmezのライブは全て病床に中継することとする。

3月31日
パラドックスライブ初戦。矢戸乃上珂波汰とその幻影の矢戸乃上那由汰がcozmezとしてBAEと対戦。BAEには矢戸乃上那由汰と同じ我孫子診療所に通院している燕夏準が参加しており、ライブ後に受診があった場合は随時カルテのデータが到着する予定。

6月1日
矢戸乃上那由汰班班長が無断欠勤により解雇処分。正式な通達はないが、何らかの理由で死亡したのだと思う。班長のデスクやロッカーは管理部が片付けたため、書き置きがあったかどうかも調べることがかなわなかった。
班長の自宅を訪問した際に隣人から、班長の娘が児童保護施設に送られたことを知り、面会の予約をとる。

6月15日
班長の娘の引き取りを希望したが里親の条件に引っかかり、申し込みができないとのこと。面会の際の様子から、あまり良い環境ではない様子なので早急になんとかしたい。親類夫婦に里親を頼めないか相談することにした。
児童保護施設について調べる過程で矢戸乃上兄弟のいた施設についても知った。彼らの脱走後も不定期に脱走、過度の体調不良により入院を経て別の施設の預かりになる子供や、施設を卒業後間もなく何らかの犯罪に手を染めて逮捕に至った事例が多数。
矢戸乃上兄弟の住む住居や経済状況を思えば、飢えのない保護施設にいるべきだったのではないかと考えていたが、現実を見ると彼らの選択は正解だったかもしれないと思うようになった。
班長の娘はまだ幼く、支え合える兄弟もいない。
兄弟の存在が矢戸乃上兄弟をここまで生かしたのだとすれば、彼女をこのままにはしておけないと感じる。
そして、一研究者としてではなく、大人としてすべきことについて考える。

8月29日
未明に矢戸乃上那由汰の脳波に反応あり。
音楽を聴かせるなど明確なきっかけがなく、不定期に続いた波形の乱れは日暮れ頃に沈静化。

9月2日
cozmezと悪漢奴等によるステージバトル開催日。cozmezが発表した新曲を聴いた後、転落以来初めて目を開いた。
呼びかけへの反応は薄く、すぐに再び眠りについた。

9月3日
前日に行われたライブの音源を再生すると同時に呼びかけを行い、手指が動くのを確認。その他、レム睡眠状態でcozmezの楽曲や矢戸乃上珂波汰の喋る音声を聴かせると時折表情の変化や寝言のような小さな発声あり。夢を見ているらしい。

9月5日
過去の研究で面識のある辰宮晴臣氏から接触があった。情報提供の代わりに班長の娘の引き取り手を探すのを手伝ってくれることになった。
場合によっては研究所が解体されるかもしれないがいいのかと問われ、研究は続けられると答えた。
場所や人が入れ替わってもこの研究は止められないだろう。ファントメタルが世の中に出回っている以上、侵食からの回復研究は続けられるべきだとも思っている。

11月16日
短時間ながら矢戸乃上那由汰が目を覚まし、簡単な受け答えに成功した。奇跡的なことだ。
その後、再び眠りについて数時間後に目を覚ました時にも言葉を投げかけたが、どうやら夢遊病のような状態と思われる。兄弟でリスペクトしているアーティストとのレコーディングに参加した話をした。近々行われるエキシビジョンショーに向けた矢戸乃上珂波汰の様子を病床で語って聞かせたことがあり、その影響で見た夢と推測している。
近々覚醒すると判断して日常生活に戻れるよう、リハビリスタッフの派遣を要望した。

12月15日
辰宮氏の紹介で里親希望の夫婦が児童保護施設に訪れ、父親失踪状態であると承知の上で手続きに至った。班長はまだ生死不明だが、全国的に児童保護施設が飽和状態のため、里親希望者が養育に必要な家庭環境と経済状況であり、身辺調査や面談で問題がないとが判断される場合は積極的に申請受理しているらしい。養父母とお見合いした娘も優しくしてもらって喜んでいたそうだ。
夫婦は辰宮氏の経営する飲食店の常連客で信頼できるとのこと。僕についても亡くなった彼女の父の同僚として紹介されており、時々様子を教えてもらえる約束になった。養育費の援助も申し出たが辞退されたので、せめて節目にはお祝いを送らせてもらおうと思う。
それから、班長の写真の一つも託せたらよかったと悔やんだが、小さな彼女が成長したら班長のことも、幼い頃に時々あった程度の付き合いとなる僕のことも、すぐ忘れてしまうかもしれない。良い養父母と幸せに暮らせるなら、過去の事実が邪魔になることもあるだろう。
そう思うことにした。
ちょっとした出来心で矢戸乃上兄弟の親の消息を調べたが、与えられている権限で調べがつく範囲内に情報はなかった。

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1月27日
まだ夢と現実の間を行き来しているようなぼんやりした状態が続くが、矢戸乃上那由汰のリハビリが進められ、手を引いて少し歩くところまで回復した。
cozmezとTCWのライブも座った姿勢で聴いていたが、曲を聴くうちに意識が鮮明になり覚醒に至った。
屋上から転落したところからの記憶はなく、ここが治験の研究所内ということは理解したものの、入院状態であることや思うように体が動かないことなど焦りが生じて混乱が見られる。

1月30日
話が聞ける状態と判断して矢戸乃上那由汰に転落後の経緯と治療状況を説明した。
詳しい説明はほとんど理解していない様子だったが、すぐには帰宅できないことを理解させ、リハビリを続ける同意は得た。

2月14日
相変わらず兄と過ごす夢を見ているという。悪夢ではないというので正式な記録はとらないことになったが、個人的に聞いた話では、兄と雷麺亭で食事したりパラドックスライブ運営の指示で使用しているSNSで他のチームの様子を見て笑っていたそうだ。BAEの朱雀野アレンの様子を教えると兄が拗ねるので面白いという。悪漢奴等の雅邦善は暑苦しいので兄弟二人でブロックしていると言っていた。SNSには触れさせていないが、個人的に確認したところによると、現実のSNSの利用状況と合致している。

3月20日
日常生活やある程度の運動に問題ないところまで回復したため本日でリハビリスタッフの派遣終了となる。
健康維持に必要な適度な運動、管理された栄養摂取、衛生的な環境で規則的な生活。これら、子供だけで生活していた頃には不足していたものが補われたお陰で治験に通っていた頃と比べても顔色がよく、血液検査や血圧、骨密度、その他あらゆる検査の結果が格段に改善されている。本人も「前より体が楽で調子がいい」と言うので健康的な生活を送ることの大事さを説明した。
那由汰の希望で健康志向の料理本を差し入れ。
貴重な侵食からの回復サンプルとして再度ファントメタル使用に至った場合の数値測定を行う話が出ているが、先月行われたパラドックスライブでBAEの燕夏準が倒れ、そして短時間で回復に至った事例の調査に人員が割かれているのを理由に先延ばしにした。

3月31日
パラドックスライブ出場4チームの新曲が発表された。那由汰は実質的に兄ひとりで作ったcozmezのパラドックスライブ用楽曲もすべて歌いこなせるようになっているが、あまり元気に歌っているところを他の者に見られると幻影実験の再開の声が強まりそうなので控え目にするよう伝えた。あまり理解していない様子。
大会の結果発表でcozmez優勝が知らされると兄の名前を呼びながら泣き出し、疲れてそのまま眠りにつき翌昼頃まで目を覚まさなかった。

4月1日
那由汰から餃子が食べたいと要望あり。雷麺亭で持ち帰り用を購入して差し入れ。
雷麺亭に立ち寄った際に辰宮氏から「数ヶ月中にイベントがある」と声をかけられた。アルタートリガー社の捜査令状が出るということだろう。

5月7日
休日だったが急な呼び出しがあり、研究所員全員が集められた。
研究室を引っ越す可能性があるので身辺整理をしておくようにとのこと。はっきりとは言わなかったが、警察による捜査が現実味を帯びてきたんだろう。
現在、うちの研究所内で預かっている被験者は合計で5名おり、全員連れて引っ越しは現実的ではないと思われる。とはいえ、侵食による昏睡が続く被験者は手放せない。
そうなれば通常の生活に戻れる那由汰が優先的に解放されるはずだが、確定事項ではないため本人に伝えるのはやめた。ぬか喜びさせるべきではない。

5月29日
養父母の家の近所で養母同伴で班長の娘と面会した。すでに僕のことは覚えていない様子だったが、きれいな服を着て美味しいものを食べているそうだ。
音楽が好きなので最近小さなピアノを買ってもらったと言っていた。班長も研究の道に進まなければ演奏家になりたかったと言うほど音楽好きだった。
遅くなったが入園祝いを渡してきた。遠慮されたが、小学校入学の頃にまた会いに来られるか怪しいので、少しでもできることをしておきたくて無理に受け取ってもらった。
墓でもあれば班長にも報告したかったのだが、公的には失踪として扱われているし、死亡が確認されたわけでもない。もし何かの奇跡が起きて再び生きて会えた時の土産話にとっておくことにする。

6月26日
本社と韓国にある燕財閥に捜査が入った。ここも時間の問題だ。
案の定、被験者の処遇がネックとなって上役の会議が続いている。

6月30日
研究室は来月中に引っ越し。被験者は自発呼吸のできている1名と人工呼吸器使用で状態が安定している2名を連れていくことに決まった。現状では生命維持装置に頼っても綱渡り状態だった1名を別の病院に移送。通常の生活に戻れるレベルまで回復している那由汰は監視付きで解放することとなった。
那由汰が警察に駆け込む可能性も当然あるが、どうも内部に協力者がいるらしい。過去にファントメタル開発が表向き中止された事件後も大規模な人体実験を続けていたことが知れても引っ越し程度で研究が続けられるというのだから。
本社も摘発されたが、手掛けていた事業は秘密裏に協力関係のあった複数の企業に分散して継続することだろう。アルタートリガー社の名前が書類から消えた途端に免罪されたとばかりに例の人工島開発が進められ、更なる拡張が予定されているらしい。三月から始まった一次工事もほとんどノンストップで続けられている。
那由汰にも帰宅できることを教え、警察やマスコミに研究所に関する情報をリークしないよう説明した。帰宅しても監視は続くので、本社の不利になる言動が確認されれば彼だけじゃなく兄弟や親しくしている人物の身の安全も危ぶまれる。こちらの保身に聞こえていたかもしれないが、那由汰は「わかった」と軽く了承した。本当にわかっているのかは不明。

7月5日
自分の受け持ちの荷物整理終了。搬出搬入は管理部が手配したスタッフが行うと言うので、後は寮の引っ越し作業だけになる。
未だに引っ越し先の場所も詳細も分からないので私物は最小限まで処分して荷物をまとめた。すでに何人かの研究員は被験者と共に引っ越しを済ませ、寮からも出ているが、ぎりぎりまで旧施設の片づけをする僕ら数名には引っ越し先を教えてくれない。外出制限もしているというの厳重なことだ。

 そういやさ、と那由汰が視線を向けてくるので辰宮晴臣は面倒くさそうに眼で応じた。
「研究所にいる時にも餃子食いたくて、研究員の人に買ってきてもらったことあったんだよな」
 おかわりした餃子を箸で一つつまんで半分齧り、断面から見える野菜豊富なあんを観察する。
「野菜たっぷりで美味くてさ。あ、これ雷麺亭のヤツだってすぐわかった」
「そりゃどうも」
 自分から話しかけておきながら愛想のない店主の返事なんかどうでもいいらしく、那由汰は次々に食べ進めていく。肌艶も良くて食欲旺盛。珂波汰の方もいつの間にか目の下に染み付いたくまが消えて顔色がよくなっている。
 店の隅に飾り程度に置かれた古いテレビの音は絞られていて、テレビから離れたカウンターや厨房までは届かない。目を向ければいつだってアルタートリガー社摘発に関連したニュースかスポーツ中継が映っている。
 不定期にこの店を訪れ、一度だけ餃子をテイクアウトしていった男はアルタートリガー社摘発事件以降、一度も姿を見せていない。
「なあ、その、餃子を買っていった研究員元気にしてたか?」
 調理台に目を向けたまま尋ねると、那由汰はハムスターのように口いっぱいに入れていた餃子を飲み込んでから首を傾げた。
「ああ、あの人ね。俺が解放される直前くらいに部署移動になったとかでそれっきり。研究所の中では結構話した方だったし挨拶くらいしときたかったけど、あの時はどこもかしこもバタバタしててさ。もしあの人がラーメン食いに来たら俺がよろしく言ってたって伝えといて」
「……おい那由汰。暑苦しい野郎がこれからラーメン食いに来るってよ」
 先に箸を置いてスマートフォンをいじっていた珂波汰がメッセージアプリに届いた善からの食事の誘いを見て席を立った。返事も打たずにポケットに突っ込んでカウンターに代金を置いた。
「筋肉の人、最近工事現場で働いてるんだっけ?」
「暑苦しさ十割増しじゃねぇか」
「あ、四季からもメッセージきてる」
「アイツ暇ならレコード屋でも行くかぁ」
 慌ただしく出ていく双子を見送った辰宮が高いところに据え付けたテレビを見上げると、ニュースキャスターの下に「身元不明の男性の遺体発見」とのテロップが表示されていた。