イケブクロから旧関越自動車道を使って車で四時間。
「お。えーっと、ゆたかさかえ……」
フロントガラス越しに見えた交通標識を読み上げようとしたものの、見たことがない漢字の組み合わせだ。
自信のなさが声に反映される二郎の代わりに三郎が読み上げる。
「トヨサカ!豊栄ニイガタ東港インターチェンジだよ! ローマ字で併記してあるだろ」
「うるっせぇな。降りる場所が分かってりゃいいんだって」
出発前と一つ前に立ち寄ったサービスエリアで見た地図に書いてあった地名だ。次のインターチェンジで清算して、下道に降りる。ドライバーはそれが分かってさえいたらいい
背の高い商業ビルやあちこちに入口を開く駅のひしめき合うイケブクロを出発し、威圧的に聳え立つ中王区の高い塀に背を向けてひた走る。次第に見える建物の身長が低くなり、横を向けば田畑と、その土地に間借りして車に向けて掲げられた看板ばかりが目に付くようになる。大きな山を貫通する長いトンネルを潜り抜け、車は日本列島を横断する。
半年ほど前に自動車の運転免許をとったばかりの二郎にとっては人生で一番のロングドライブになった。
カントウ近郊なら高速道路も何度か運転しているし、後部シートには兄の一郎もいる。知り合いから借りたナビ未登載車両の助手席でスマホ片手に道案内するのは頭脳明晰な弟だ。道案内は正確なものの言い方の都合でよく口論が発生している。最初の内はそのたびに二人を諌めていた一郎も、二度目のサービスエリアを出たあたりで口を挟むのにも飽きて黙ってしまった。
豊栄ニイガタ東港インターチェンジで予定通り下道に降り、数分は静かにハンドルを握っていた二郎が不安をこぼす。
「なんか……また田んぼと民家ばっかりになってきたけど大丈夫かよ……」
行先は温泉地。二郎にとって温泉地と言えば山の中にある箱根。ニイガタも確かに山が多かった。だけど高速道路の最後のトンネルを抜けてからは平野続きだ。周りはほぼ田んぼ。合間にせいぜい二階建ての民家が何軒か集まった集落が見える程度。盛り土によって街より一段高いところを通る高速道路からだと尚更に見通しが良く、霞むほど遠くの山並みまで見えたが、温泉地の看板などは見えてこない。
下道に降りても「ようこそ温泉郷へ」なんて矢印付きの親切な看板が待ち構えているわけでもなく、マップアプリで表示された現在地マーカーと正面の景色を見比べていた弟の三郎も、次の曲がり角の目印がなくて不安になっていた。
それもそのはず。さっき曲った交差点には目印となる大きなパチンコホールの建物があったのに、今度はどちらを向いても田んぼばかりの道で突然左折するのだ。初めて来る場所としては難易度がやや高い。しかし自他ともに認める天才である三郎のプライドも高い。
「もうちょっとなんだ。もうちょっと、あと……百メートルぐらい……おい、もっとゆっくり走れよ」
正面とスマホのディスプレイを交互に見ながら三郎が二郎の左肘を叩く。
「前に車がいるわけでもないのにチンタラ走ったら後ろの車に迷惑になンだよ」
左折する地点よりびったり張り付いた後続車の存在を気にする二郎はほんの少しだけアクセルを緩める。
だけどちょっと遅かった。
「おい、お前ら。今小さい看板出てなかったか? 月岡温泉って」
後部シートでのんびりしていた長兄の一郎が後ろを指さした。バックミラーにはニイガタナンバーの後続車が次々と同じ場所で田んぼの中へと曲がっていくのが映る。目立たない横道があったらしい。
「あああッ、大事な曲がり角なのになんで看板が小さいんだよ!」
窓にへばりついて地面から生えた控え目な看板が小さくなり行くのを見送りながら三郎が吼えた。
?
『次のバトルはァ? レペゼンツキオカ、RAP MASHU! ヴァーサス……レベゼンイケブクロのBusterBros!!!だッ』
抑揚の強い司会のコール。同時に大音量で流れるアップテンポなビート。先にステージに上がっていた地元のMCチームに拍手で迎えられ、三人揃ってステージ袖から登場する一郎、二郎、三郎。
気持ちよく澄み渡った空と絶好調の太陽の下、木々に囲まれた広場には老若男女、Tシャツ姿に浴衣姿。その辺のライブではちょっと見ないような様々な客層のオーディエンスが集まっている。
好みの音楽を体で感じとり、膝で、肩で、首でリズムをとって、良く手に馴染むヒプノシスマイクを起動した一郎が客席に手を振った。
『行くぜ。ツキオカ、スパソニック!』
DJブースといくつもの箱型スピーカーの姿をしたヒプノシススピーカーが宙に踊り、力強く突き上げられる拳。大歓声。それはステージ正面にそびえ立つ愛のモニュメント、カリオンタワーさえ揺らすような熱狂だった。
スパソニックはニイガタディビジョンの北側にある温泉地、月岡温泉で開催される野外フェスだ。
戦前の一時期、当時は九月頃に行われていた音楽イベントが、近年のラップブームを受けてヒップホップグループ中心のフェスとして復活した。
八月開催に変更された今年の目玉はBusterBros!!!のライブステージ。関東イケブクロを拠点とする彼らがニイガタまで遠征するのはこれが初めてとなる。
広い世代に人気のDJや戦時中から活動を続けてきたベテランアーティスト。地元のラッパーまで多くの出演者が集められ、ステージを盛り上げた。
『盛り上がってるか月岡ー!』
木々に囲まれた芝生の広場全面を使用した客席に叫べばライブ目的で月岡までやってきて積極的に最前列を確保している若者も、周辺の旅館の浴衣姿で酒を飲んでいる温泉客も入り混じったレスポンスがある。ホームグラウンドであるイケブクロや、中王区で行われるディビジョンラップバトルで浴びている歓声とは違った、地方のお祭りらしさが感じられて新鮮だった。
ヒプノシスマイクを握る兄弟にとってラップは日常だけれど、ここには賭ける領土や、誰かと誰かが敵対するような空気はない。バトルの形式はとっていても勝敗で誰かが何かを失うことはない。ただ楽しいこの時間をオーディエンスと共有する。そういうのもたまには良いものだ。
イベント出演の誘いがあちらこちらから舞い込む夏休みに行われた今回の遠征は、イベント主催者の「家族旅行として楽しんでいただければ」の言葉が決め手だった。
三十代前半で町おこし企画を手掛けている担当者はスパソニックの資料と一緒に、周辺の観光資料も送ってよこしてこう口説いた。
「若い方は温泉だけじゃ退屈かもしれませんが、ちょっと車で足を伸ばせば海にも出られますし。ライブ翌日にナガオカディビジョンまで移動して花火大会も見られますよ。ナガオカで会社をやっている僕の知人が山田さんたちの大ファンで、当日来られるなら会社の屋上に招待したいと言ってました」
普段の三兄弟はイケブクロディビジョンの代表として定期出場しているディビジョンラップバトルや、一郎が一代で営む萬屋の仕事に追われる毎日。それはそれで楽しく過ごしているのだけれど、児童保護施設育ちの兄弟は仕事に無関係な遠出の旅行とは縁遠かった。たまには三人水入らずでたくさん思い出を作ってくるのも悪くない。
イベント開催地となる月岡温泉は近隣では有名な温泉地だった。老舗の温泉旅館や誰でも利用可能な足湯の他、日本酒や煎餅、チョコレートの専門店も散策範囲に軒を連ねる。
ニイガタ行きが決まってから二郎はニイガタグルメを調べたし、三郎はネットで親しくしているニイガタのゲーム仲間にも声をかけて観光スポットをリサーチしていた。
調べた情報をまとめて紙に印刷し、製本までしていた三郎が、お手製冊子の内容は丸暗記で開きもせずにペラペラとプレゼンする。
「ライブ会場の月岡カリオンパークには“手作りガラス工房びいどろ”というガラス工房併設の施設があるんです。ガラス細工の展示販売や、ガラスの研磨体験、オルゴールデコレーション体験、ペイント体験にとんぼ玉作り体験ができますよ。体験教室の一番の目玉はこの、吹きガラス体験ですね!」
そういうわけで、ライブが終わり、一休みした三兄弟は営業担当者張りの饒舌さで説明する三郎に連れられてガラス工房を訪れた。
ニイガタ滞在はライブ前日の金曜午後にイケブクロを出発して夕方に現地入り。翌日の日中にライブ出演。二泊した後の三日目はニイガタを南下し、ナガオカディビジョンへ。
ナガオカディビジョンでは三郎とその友人が熱中しているカードゲームの大会が予定されており、三郎は折角の機会だからと友人とのタッグチームでエントリーしていた。
そのカードゲーム大会が終わった後は長岡大花火大会だ。全国的にも有名なイベントで人出も多く、席を確保するのは困難だが、今回はスパソニックの関係者のツテで花火が良く見える好立地の会社のビル屋上へ上がらせてもらえる約束だった。至れり尽くせりだ。
そんな思い出いっぱい旅行のお土産として三郎が選んだのが、吹きガラスで作るグラス。
天井の方が煤けて雰囲気のある小さな工房はカリオン広場の小脇にある。開け放たれた入口から踏み入ると、正面には二〇〇〇度に保たれた炉と、その隣にもう一つ、やや小さな炉が並んでいる。
炉の前は作業スペースとして何もない土間が確保されていて、その周りに作業工程で使う台や、ガラスに色付けするためのガラス粒が並べられた机などが配置されている。
ざっと説明を受けると一人ずつ吹きガラス体験が始まる。
まず、担当スタッフが筒状になった長い鉄の棒を高温の方の炉に入れて、炉の中でドロドロに溶けたガラスをつけてくれる。体験者は熱されて赤く柔らかくなっているガラスが偏って垂れないよう、ガラスを下にして鉄の棒を垂直に持ち、鉄のストローの上部に口をつけ、そおっと息を吹き込む。ガラスが冷めて硬くなるまでの束の間に。慎重に風船を膨らませるように。鉄の棒をくるくる回しながら吹いてガラスを膨らませていく。
工房でやり方を教えてくれたスタッフはちょうど三兄弟の母親くらいの年齢の人だった。外気に晒されてガラスが冷え固まってくるたび、若い木の幹のような細い腕でやや重さのある鉄の棒を炉に出し入れする。首に巻いたタオルは顔から流れ落ちる汗を端から吸い取っていた。
「あの、やり方を指示してくれたらそれも俺がやりますよ」
外も暑いがガラスを溶かす炉の近くは猛暑以上の灼熱だ。レジャーシーズンは体験予約もいっぱいでフル稼働しているという。
どうにも心配になった一郎が安全を気にしながら鉄の棒を引き取ろうと手を差し伸べると、まるで自分の子供を見るような目で笑って彼女は首を振った。
「大丈夫。馴れてるからこっちは任せて。ほら、何色にするか決めた人からどうぞ」
空振りに終わった手で一郎が汗っぽい後頭部を?く。母親が弟にミルクをやる手伝いをしようとして「まだ危ないから、もっと大きくなったらね」と断られた幼児時代みたいだ。
工房の机には色とりどりのガラスの砂が並べられている。その中から二色選んでグラスに色を付けることが出来る。一郎は赤とピンク、二郎は青と水色、三郎は黄色とオレンジを選んだ。
重力に従って真下に伸びていく水あめ状のガラスの塊に息を吹き込み中に空洞を作り、電球のような形に膨らんだらスタッフの手で一度炉に入れて温める。
ガラスが熱されてまた柔らかくなったらスタッフの手で先端を砂の器に押し付け、色付けし、今度は床に置いた鉄製の型にガラスをはめ込んだ状態で息を吹き込む。そうすると一気に完成形が見えてくる。
息を吹き込む作業はここまでだ。今まではグラスの口になる側に鉄の棒をくっつけていたけれど、ここからは息を吹き込んでいた鉄の棒を切り離して飲み口側を広げる作業になる。
スタッフが鉄の棒をもう一本取り出し、少しだけ溶けたガラスをくっつけて持ってくる。これを先に膨らませておいたグラスの尻の方に当てると、柔らかいガラス同士くっついて、これまで飲み口側につけた鉄棒で支えていたグラスを、尻側にくっつけた鉄棒で支えられるようになる。
上と下に鉄の棒を生やしたグラスから飲み口側の鉄の棒を切り離し、何度かガラスを温めながら専用器具で飲み口を広げたら体験終了だ。
あとは低めの温度に熱している徐冷用の炉に入れ、ゆっくり冷まして固まったのをスタッフが尻にくっついた鉄の棒から切り離して完成する。
高温のガラスは急に温度が下がると割れてしまうので冷却にも時間がかかる。
「それではこちら引換券になります。明日以降にお引き取り下さい」
普段インドアな三郎が目を輝かせながら作ったグラスは明日までのお預けになった。
早く透き通ったグラスを手で包んで木漏れ日に透かしてみたい。
そんな逸る気持ちが顔に出ていたのか、引換券を受け取って工房から出た一郎が工房の隣の施設を指さした。
「他の土産も見てくるか。2階もあるらしいぜ」
“びいどろ”の販売施設だ。ガラス工芸品の展示販売やオルゴールデコレーション等、吹きガラス以外の体験教室を行なっている。
そう広くはないものの、小指ほどの小さなガラス人形から吊るし飾り、大きな飾り物や食器。あらゆるガラス工芸品が並んでいる。
「おい二郎、ガサツに動いて壊したりするなよ」
「うるせぇな。わかってるよ」
生意気な口を利く弟に言い返したものの、うっかり腕が当たったら棚一つひっくり返して大惨事になりそうだ。きれいで儚いガラス工芸に囲まれる緊張感で二郎はこっそりシャツの裾を握りしめた。
メインのお土産はグラスだけれど、他にも何かお揃いで買うのもいいかもしれない。ガラスでできた小さなフクロウも良い。ガラス人形が乗ったオルゴールには三郎の好きな曲もあった。吊るしてあるサンキャッチャーも七色の光を振りまいていてきれいだ。男ばかり三人で暮らす自宅のどこへ飾るかは悩むけれど。
そうしてなかなかコレと決められずにレジ前に戻ってきたところでガラス製品とは違う、透明感のまるでないハート型のものが並べてあるのに気がついた。
「これはね、ハートの南京錠。カップルがこれに名前を書いて広場の奥の階段のところにかけてくの。お友達や家族で記念にかけてく人もいるんですよ」
三人で集まってそれを凝視していると、気が付いたレジの女性が新しい赤い南京錠とペンを差し出してにっこり笑った。
二郎と三郎は顔を見合わせた。多分こういうのは主に女の子がやりたがるおまじないだ。思春期の男子に真っ赤なハートは気恥ずかしい。
視線を泳がせる弟たちを後ろで二十歳をすぎた長男がプッと噴き出した。
「いいじゃねぇか。折角だから書いてこうぜ」
どうせ旅先なんだからと豪快に笑ってレジに小銭を支払った兄に、眉根を寄せ頬を引き攣らせた。
「マジかよ……」
「マジだぜ。どうせ誰もひとつひとつの名前なんて見やしねぇよ」
兄は本気だ。そう悟って先に覚悟を決めたのは三郎だ。
「い、いち兄がそう言うなら…。自意識過剰な二郎は恥ずかしいようなので僕といち兄二人で書きましょう!」
いつも張り合っている弟がやると言えば次男坊も黙ってはいられない。
「ハァ? ンなこと言ってねぇだろ!」
ハートの南京錠は手から手へ。奪い合って名前を書き、すでにたくさんの南京錠がかけられたカリオンタワーのワイヤーにつけられた。
神社のおみくじを結びつけるおみくじ掛けのように、南京錠をかける場所が予め用意されている。
そこにはすっかり色褪せたものや錆びて落ちてしまったものも含めて沢山の南京錠が掛けられている。全てに誰かの名前が、祈りを込めて刻まれていた。
三つの名前が書かれた真新しい鍵もその一つになる。二度と兄弟がすれ違ったり引き裂かれたりしないようにと願いを込めて。
明日には車で一、二時間のナガオカディビジョン市街地に移動する。豊かな自然が広がる月岡温泉では最後の夜だ。
夕飯は新鮮な魚介のお造りに隣接地区で育てられたブランド牛、地物野菜が色鮮やかな小鉢。お櫃でたっぷり用意されたふっくらつやつやの地元産コシヒカリ。
浴衣の腹回りが気になる程食べて一息つくと、日中に体力を使い果たした三郎がうとうとし始めた。イケブクロよりチャンネル数の少ないテレビで知らないローカル番組を見ていた一郎の肩に重みがかかって、間もなく安らかな寝息が聞こえてきた。
「二郎、悪い。布団めくってくれ」
起こさないよう、もう大人に近い体格になった末弟を抱きかかえて移動させる。一郎は力があるから危なげないが、しょっちゅうおぶっていた子供の頃に比べたら体重だって倍ぐらいになっている。
自宅ではうたた寝しても毛布を掛けて起きるのを待つことの方が多くて、久しぶりに抱き上げてそのことに気が付いた。
「大きくなったなぁ」
今の三郎には旅館のベッドもけっして大きくはない。施設で暮らしていた頃は狭い子供用ベッドで添い寝をしたこともあったのに。
「背が伸びてもガキみたいにはしゃぎまわってたけどな」
いつもの癖で二郎が軽口を叩くと「そりゃお前もだろう」と一郎が昼間の様子を振り返る。
「RAP MASHUの奴らと屋台制覇したり、ポッポ焼きは鳩みたいに首振りながら食べるって言われて信じたり…」
「そ、それはもう忘れてくれよ!」
共演して仲良くなった地元チームをガイド役に祭を満喫していたことを言われて二郎が目を逸らす。スパソニックに出店していた串焼きだの冷やしきゅうりだの。ポッポ焼きという未知の焼き菓子も食べた。蒸気で焼き上げた棒状の黒糖蒸しパンだが、これがなかなか美味い。屋台特有のにおいと香ばしく甘い匂いが混ざり合って気分が高揚する。いかにも屋台の菓子だ。帰りがけに自宅で食べるべくポッポ焼きを買って駐車場に向かう地元客も多かった。
照れ隠し紛れに目に留まった広い窓辺までいくと、田畑や森の木々が月明かりに照らされて、静かな絵のようだった。
田舎の空は澄み渡っている。空に穏やかな海があるみたいに深く、地上のネオンの明かりが空に反射して仄明るいイケブクロの夜と別の時間が流れているようにも思えた。
夜の景色を背景にしたガラスにベッドで眠る弟が映る。
「……昔さ、三郎が夏休み明けに学校行きたくないって言ったことあって」
ぽつり。二郎が話始めると、ベッドの横に座り込んで末弟を見守っていた一郎が視線を寄こす。
「昔?」
「えーと、小学三年か、いや五年くらいだったかな」
頷いて一郎が先を促した。
「施設の仲間といる時はよかったんだけどさ、たまたまその時は三郎のクラスに仲間がいなくて。俺たちは夏休みでも特別なことは何にもなく“家”で過ごしてたのに、周りは夏休みに親とどこ行ったとか、何したとか楽しそうに喋ってるのが嫌だ、って」
「そうか」
短い相槌に続く言葉はなかった。
兄弟は三人いつでも一緒だった。施設で暮らした時も、今の家に引っ越した時も。クーデターによって世の中がガラリと変わり、ヒプノシスマイクを使ったディビジョンラップバトルが始まった時も。楽しい旅行に縁がなかったのは三郎も、二郎も、一郎もみんな同じ。
だというのに、一郎は弟たちの不幸の大半が自分の不甲斐なさのせいのように考える節がある。ほんのちょっと先に産まれただけで一郎だってずっと子供だったのに。
そんな兄の背中を見ている二郎も、一郎が一人で抱え込んでしまうのは兄におんぶにだっこで甘えっぱなしだった自分のせいのように思う。最近は少しは成長できたつもりでいるけれど、施設を出た時も家計を支えながら家事をこなし、まるきり親のように振舞っていたのは一郎だ。後から思えば、家事なんか自分たちだってやれたはずだ。兄が命令しないから、家事は施設でも職員と年長の子供の仕事だったからと積極的に動こうとはしなかった。知らないところで自分たちのために兄が危険な目に遭っていたこともある。もっと自分がしっかりしていれば。もっと兄のやっていることを知ろうとしていれば。
悔やみ始めるときりがない。それはきっと一郎も二郎も一緒だ。
だけど今は楽しい家族旅行の真っ最中だ。折角の水入らずに大好きな兄弟の顔を見て自責なんてしている場合じゃない。
頭を振って後悔のモヤを振り払うと、わざと大股で歩いて兄の肩を叩いた。
「なあ、また来年もどっか行こうよ」
「おう、一年後じゃなくても、冬でもいいぞ」
「じゃあ俺、スノボやりたい」
「確かスキー場で道具一式借りれるはずだ。寒くなってきたらまた情報集めてもらうか、なぁ三郎」
寝ながらもぐもぐ口を動かす弟に語りかけて髪を撫でると温かい手が無意識に指を掴んでくる。赤ちゃんみたいだ。二郎とは歳の差が小さいから覚えていることが少ないけれど、三郎が赤ん坊だった頃のことは覚えている。
戦時中に産まれた兄弟にとって子供の頃の記憶は辛いことも少なくなかった。児童保護施設で過ごした時期もあるし、こんな風に兄弟でのんびり旅行ができる日が来ることなんて、一時期は考えられなかった。
今もこの国や、兄弟を取り巻く人々の事情は平和とは言い切れない。仲間の住む領土を賭けたディビジョンラップバトルも不定期開催ながら続いている。銃や刃物に変わって流通するようになったヒプノシスマイクという武器を使った諍いや事件は後を絶たない。
だけどそんな広い世界のことは置いておいて、愛のモニュメントに見守られたこの土地で、満腹で、きれいな部屋で弟を見守るこの時は間違いなく平和なのだ。
一郎が三郎の隣のベッドに横たわって寝顔を見ながら寝落ちした後、二郎はタオルと小銭だけ持って部屋を出た。
外は真っ暗でもまだ八時を過ぎたところだ。普段なら家族の誰も寝るような時間じゃない。昼間の疲れはあっても今すぐ眠れるほどではなく、なんとなく外の空気を吸いたい気分だった。
自販機で飲み物を一本買って、宿からすぐそこの足湯に向かった。
“あしゆ湯足美”と名付けられた施設は屋根付きの木製水路のようになっていて、併設のバス待合室にトイレもあるし、近くの旅館に言えば足を拭くためのタオルをその場で調達することもできる。
昼間はフェスや他の施設で遊ぶのに忙しく、宿に帰ってきた時には汗だくで、どうせなら旅館の温泉に全身浸かろうとなって素通りしたけれど、空気の美味い田舎の夜風に当たりながら暖かな色合いの照明に照らされた足湯でのんびり過ごすのも風情がある。以前は風情なんてものに興味はなかったけれど、歳を重ねるたびに少しずつそういうものの楽しみがわかってきた。
足湯の向こう側には小規模の趣のある庭と、色鮮やかな和傘を広げてライトアップされた小さな舞台がある。フォトジェニックな光景は色気より食い気の二郎にもカメラを向けさせるだけの美しさがあった。
後で兄弟に見せようと思って入浴前に沢山撮っておく。どうせなら昨夜のうちに三人で来ればよかった。
さて落ち着こうと思って顧みると、思いの外混んでいた。今日のスパソニックや明日の長岡大花火に合わせて周辺で宿泊している客が多いんだろう。
中央の入口を挟んで翼を広げるように伸びた足湯のうち右手側が心なしか混んでいたから左に向かう。おまけによく見たら若い男女のカップルが多くて気がひける。左手側は男性客がぽつぽついるばかり。男一人でやってきた二郎としては断然こっちだろう。
広く座れる場所を求めて左手奥に進んだ二郎は、思いもよらないものを見て素っ頓狂な声を挙げた。
「な、なんでお前がここにいんだよ!」
近くにいる全員が何事かと目を向けた。お陰で二郎と一緒に注目を浴びてしまったその男、碧棺左馬刻が手にしていたスマホから顔を上げて刃物じみた鋭い目で振り向いた。
離れた位置に座っていた人も、足湯の外を通りかかった人も、男を見た瞬間に目を丸くした。
その男はとにかく目立つ。色素の薄い肌に合わせてあつらえたような白い髪。すらりとした長身に、ヤクザ者と分かっていても女が放っておかない端正な顔。ディビジョンラップバトル常連の日本一有名なヤクザ男だ。
太平洋に面したヨコハマディビジョンを仕切る男が日本海に近いニイガタディビジョン月岡にいる。みんな驚いただろうが誰も叫ばなかったし近寄ろうともしなかった。左馬刻の気性の荒さも有名だからだ。
ラッパーとしての左馬刻のファンも多く存在するが、地方のイベントから出演依頼がくるような山田三兄弟と違って気軽に声をかけられる種類の人間ではない。
なるほど。コイツが大股開いて陣取ってるから客が偏るのか。迷惑な野郎だ。
二郎は納得して左馬刻の側を選んだ。他の客が左馬刻を怖がって近くのスペースに座れないなら、左馬刻から遠い安全地帯はそうした客に譲るべきだ。自分は左馬刻なんか怖くない。
「テメェこそわざわざ近くに来やがって。なんのつもりだ?」
「うっせぇな。テメェのことが好きで来たんじゃねぇよ!」
舌打ちされたが左馬刻が移動する気は毛頭ないらしく、それ以上威嚇もしてこないので二人分ぐらいのスペースを空けて木製の座席に腰を下ろした。
旅館の草履を脱いで動きづらい浴衣の足をちょっと揃え、膝を抱えて浴衣の裾を濡らさないようまくり上げ。透明のお湯につま先から足を浸す。
「……ん?」
足先を半分ぐらい沈めた二郎が動きを止め、更にゆっくりと脛まで沈めて、口を閉じた。
「あ、あ、あっつッ…………!!」
サブンと湯飛沫を上げて座席のフチに足を引き上げた。そんなに長く浸かっていたつもりはないのに湯に浸かっていたところまでがちょっと赤くなっている。
「旅館の風呂より熱いじゃねーか!」
思わず叫ぶとすかさず隣りから文句が飛んでくる。
「静かにしろやクソガキ。だからこっちの方が空いてんだ。見りゃわかるだろ」
左馬刻が親指で示した先に湯口がある。左側に行くほど熱く、右側がぬるい。いや、左馬刻の存在が人避けになっているのも一因だろう、と二郎は思うけれど。
敵対関係にある一郎に向けるのとは違う、心底バカを見る目で見られて歯ぎしりした。しかし騒げば騒ぐほど墓穴を掘るのはなんとなくわかる。ついでに左馬刻はずっと浸かっている温泉に耐えられないことが悔しくて、深呼吸して静かに足を湯の中に戻した。
「熱いならさっさと帰れやボケ」
足の裏を湯船の底にぺったりつけた途端に文句を言われるが、二郎だって折角きたのだ。精一杯余裕ぶって鼻息を吐く。
「熱く、ねぇし。思ってたよりちょっとだけ熱い気がしただけだったわ」
「さっきあんだけ大騒ぎしといて何言ってんだテメェ」
叫んでしまった過去は消えないのである。言い訳が思いつかなかったのでもう言い返すのはやめた。
肌が焼けるように熱いと思った湯も、じっとして動かないでいると少し慣れてくる。ちょっとでも動くと足にまとわりつく湯が揺れて新鮮にダメージを受けるが。
横をちらりと見ると、左馬刻は本気で熱いとは思っていないような様子で上を向いて白い喉を夜風に晒している。熱いと思っているのは二郎だけだ。
足に染み込んだ熱は体を芯から温めて、じんわり汗が滲んでくるが、二郎は思った。
先に湯から出たらなんだか負けた気がする。ここから出るのは左馬刻が出た後だ。
ひとりでそう誓って先客である左馬刻が帰るのを待ったが、なかなか敵は動かない。段々イライラしてきた。
「……つーか、マジでなんでテメェがこんなニイガタなんかいるんだよ」
二郎が左馬刻に文句を言うついでにディビジョン住人に失礼なことを口走ったが、近くで黙って足を温めていた近隣在住の男性客はこっそり頷いていた。関東からやってきたニイガタで知り合いに遭遇するより、国外のハワイなんかの方がまだ有名人同士鉢合わせる確率が高いだろう。
左馬刻は三兄弟のようにイベント出演オファーを受けたわけでもない。避暑ならカルイザワもあるし、飛行機でホッカイドウという手もある。わざわざニイガタの月岡温泉を選ぶ理由が分からない。特別何かあるとしたら、スパソニック────
「心配しなくてもテメェらのライブを見に来たわけじゃねぇぜ」
思考を読んだかのように否定された。
「何も言ってねぇだろ。……あれ、でもライブのことは知ってんのかよ」
スパソニックはニイガタはナエバ山で開催されるフジロックのような有名野外音楽フェスと違い、今のところは知る人ぞ知るイベントといったところだ。二郎たちだって出演依頼がくるまでよく知らなかった。今日の客席にも目立つ白髪長身の男はいなかったと思う。
不思議に思ってきけば「ああ……」と曖昧に頷いて横に置いてあった自分のスマホを手に取り、メッセージアプリを開いて差し出した。上の方に書いてあるのはディビジョンラップバトル常連の一人であり、左馬刻や一郎とは昔チームを組んでいた飴村乱数の名前。乱数とのトーク画面だった。
時刻は二郎が宿の部屋を出る少し前。乱数から何か、画像が送られてきている。よく見るとSNSのスクリーンショットだ。乱数のアカウントではない。全く知らない誰かの投稿だが、写真投稿の下にある「いいね」と「リツイート」の数がとんでもないことになっている。問題はその写真の中身だ。見覚えのある赤いハートに、見覚えのある文字が書きつけられている。
山田一郎、二郎、三郎。
「なんでも今、ホンモノかファンが捏造したモンかでネットで騒がれてるんだとよ」
ハートの南京錠。スパソニックのあったカリオン広場のタワーに掛けてきた。兄弟三人の名前を書いたおまじないの錠前だった。間違いなくホンモノである。
「うっわぁ…………見つかるにしても早すぎだろ……」
頭の回転が追い付くと同時に二郎は両手で顔面を覆い隠して、手のひらの下から嘆いた。これがSNSで絶賛拡散中なのだ。
「ブラコンもここまでくると笑いも出ねぇな」
深く頭を抱える二郎のつむじを見下ろして左馬刻が冷ややかに吐き捨てる。
「こんなもん誰も一個一個見ねぇって兄ちゃん言ってたのに……」
なるほど、兄貴が言い出しっぺか、と納得して人差し指と親指を同時に画面に当て、画像を拡大して眺める。兄弟の本名が三者三様の筆跡で書かれているだけで相合傘や?の装飾があるわけではないが、背景に映り込んだ他の南京錠にはカップルらしい二人の名前が書いてあるものばかりだ。大抵は恋愛が長続きするように願掛けするものだろう。その中に男三人で飛び込んだのだから、さぞラブラブなのだろうと思われても仕方ない。
「あのダボどんな顔でコレ書いたんだ」
どんなと言われれば、誇らしい気持ちとちょっとした照れが混じったような。二郎も名前を書いたときは同じような表情だったと思う。だが、今は顔を上げておけない。この足湯にいる他の客もこの南京錠を見たかもしれないと思うと、何も悪いことはしていないとひとりで胸を張れる度胸はなかった。
指の間から湯面に薄っすら上る湯気ばかり見ていると、今度は二郎のスマホがメッセージを受信する。友人からだ。立て続けに通知がくる。
「絶対コレの話だろ。見たくねぇ……」
おそらく、仲間の誰かがこれを見つけて友人たちと共有したに違いない。メッセージ通知が大盛り上がりだ。
「なんならテメェの代わりに乱数に発表してもらえばスッキリすんじゃねぇのか。コイツは正真正銘ホンモノです、ってな」
「ヤメロッ!!」
誰も頼んでいないのに左馬刻が乱数への返信を打ち始めるので腕に飛びついた。一八五センチの一郎と同じぐらいはある長身のお陰で細長く見えるが、意外と筋肉がある。思ったより簡単にはスマホを奪えず、足元で湯がバシャバシャ飛沫を飛ばした。
お陰でお湯の熱さのことなどすっかり忘れ、足を上げた頃には濡れているところだけきれいに真っ赤になっていた。
?
ニイガタ入りして三日目の朝。
ガラス工房の開店時間を待ってグラスを受け取り、車でニイガタを南下。ナガオカディビジョンで三郎はゲーム大会出場。兄たちは応援。夜は大花火大会を見る予定だった。
旅の興奮のせいか勝手に早めに目が覚め、静かな街並みを散歩し、路地にいた猫や宿に帰ってから用意された朝食を楽しんだ。
午前九時。
三郎の携帯が鳴った。
「ええっ?! 時間が間違ってた……って、そんな、まさか」
すぐに通話を打ち切ってスマホでゲーム大会の公式ページを確認した三郎が顔面蒼白で「うそだ……」と呟いた。
「どうした、三郎」
明らかに取り乱した様子で、さっきまでご機嫌だった眉を今にも泣き出しそうな八の字にして絞り出す。
「あ、あの……今日の大会の受付開始時間と開始時間を間違えてて……」
「どんぐらい違ったんだ」
「一時間……」
「なんだ。すぐ出発したら大丈夫だろ」
一郎は力強く背中を叩いたが、移動ルートの相談をしに行ったフロントで話を聞いた支配人は渋い顔をした。
「車だと厳しいかもしれませんね」
焦って、ホッとして、また絶望に突き落とされた。こんなに七面相している三郎は珍しい。
「ここからナガオカの中心地までスムーズにいけば、まぁ高速使って一時間半ってところですが。今日は花火もありますし」
冬の雪や米どころ、酒どころのイメージが強いニイガタの夏と言えば長岡花火が真っ先に浮かぶ。それほど大規模で有名なイベントだ。ディビジョン内外から大勢が訪れ、テレビ中継も入る。
他のシーズンの何倍も交通量が増える。それを承知で早めに長岡入りする車も当然いる。詳細な目的地が花火大会の会場最寄りのターミナル駅付近となれば尚更で、高速を降りてからの渋滞や駐車場の確保の方も心配だ。
「なんか裏道とかないんすか?」
「うーん……それでしたら車でニイガタ駅まで出て新幹線を使った方が……電車なら渋滞もありませんし一時間ぐらいで行けるはずですよ。駅までなら空いてる道を選んでお送りできますし」
電車の時刻表や送迎車の空きを確認をして提案してくれるが、乗ってきた車を置いていくことはできない。ナガオカからまた取りに戻るのも大変な距離だ。すぐそこのコインパーキングに車を預けるのとはわけが違う。
そのことは旅行を楽しみにしてマップを何度も確認していた三郎が一番よく分かっている。大会参加はライブ出演と違って仕事ではないし、今友人に連絡すればソロ出場に変更してもらうこともできるだろう。自分が諦めさえすれば誰かに余計な手間をかけさせることもなく、余裕で移動できるはずだ。
表情を曇らせる三郎がそんな風に考えて送迎車を断ろうとした、その時。兄弟たちの一番後ろで傍観していた二郎が軽く言った。
「んじゃ兄ちゃんと三郎の二人で新幹線乗ってよ。俺は工房の開店待ちしてグラス引き取ってから向かうからさ」
荷物だってまだまとめていないし、運転できる人間が一人残りさえすればグラスの引き取りも、車回収もすべてが丸く収まる。ちなみに、三郎一人を新幹線に乗せるのはなしだ。
当然、一郎は自分が面倒ごとを引き受けるつもりで「いや、それなら俺が残る」と言い出したが、二郎はヘラヘラ笑って手を振る。
「いいって。兄ちゃんがついてった方が三郎も安心だろうしさ。俺が到着するまで俺の分まで応援してやってよ」
俺が応援しなくてもお前は大丈夫だろう、と視線をやると、三郎は視線を彷徨わせてキュッと唇を噛んだ。
「僕は、別に……」
すぐ上の兄との間にだけある妙な意地が邪魔して素直に言えなかった。二郎にも一緒に来て欲しい。二郎よりいち兄の方がいいってこともない。三郎自身が選べないものを勝手に自分の方が下のように言わないで欲しいのに。
三郎がダメだと言えないのを承知で二郎は提案した。自分より長兄の方がいいだろうという部分は三郎の気持ちと食い違って、二郎だけの思い込みだったかもしれないけれど。
勝手に送迎車のドライバーによろしくお願いしてしまう二郎を黙って見ていた一郎が時計と三郎を見比べ、長男として決断を下した。
「わかった。でも二郎、お前ひとりで大丈夫か? 車にはナビもないし行ったことない場所なんだぞ?」
「大丈夫だって。スマホもあるしさ」
拳で自分の胸を叩いて二郎が即答する。山田家は長男の言うことが正義だけれど、どうしても納得できない三郎が反対できない代わりにぼそりと呟く。
「豊栄も新発田も読めなかったくせに……」
「うるせーな。スマホに一文字ずつ漢字打ち込んだら検索できるからいいんだっつーの」
弟に嫌味を言われた時の条件反射で言い返したものの、都心と違って地方は漢字表記の旧地名とカタカナ表記の新地名の看板が混在していてわかりづらい。地図を読もうにも手間がかかる。
「せめてもう一人ぐらい連れがいたら二人ずつに別れて行動できたんだが……」
苦し紛れを隠し切れない二郎の様子に、一度決断した一郎さえ不安をもらした。
「兄ちゃんまでそんなに不安かよ!」
二郎だって自動車運転ができる歳なのにこの扱いだ。ちゃんと自動車教習所にも通ったし、何度か不合格を経験したものの、免許取得試験も合格した。
だけど月岡温泉行きの曲がり角をひとつ見逃して通り過ぎてしまってから、一旦車を寄せてルートを確認するのに都合のいいコンビニなどもなかなか見つからなかったし、適当な道でぐるっと回って引き返そうとしたら余計に迷ったりしたことを思い出すと心配も当然だった。下手に迷えば何キロもコンビニやガソリンスタンドを見つけられないような場所に出てしまう可能性すらある。
最低限の手荷物をまとめて旅館の用意してくれた送迎車に向かう直前になっても心配顔の二人に向かって大声が出た。
そこへ明後日の方向から介入する声があった。
「そりゃあ不安だろう」
たまたま他にチェックアウトする客もいなくて兄弟の声だけが響いていた。ロビーのソファに人の姿は確かにあったけれど、会話を楽しんでいる様子もなかった。
その渋みのある通る声は近くに座る身内向けではなくて、明らかに少し離れた場所に立っている兄弟たちに向けられたものだ。
ソファからゆっくり腰を上げた白髭の老爺が向かいに座る男を呼ぶ。「なあ、左馬刻」と。
指名されたら無視するわけにもいかない。渋々といった様子で老爺の連れの男が三兄弟を顧みる。
「左馬刻!」
一郎に名前を呼ばれるのも不愉快だという顔で左馬刻が吐き捨てる。
「朝から騒ぎやがって、コオロギ野郎どもが」
組長が立てば部下が座っているわけにもいかず、尊大な態度の左馬刻すら立ち上がって兄弟たちに対峙した。
同じロビーに座っていた数名の中年男性と、ちょうど廊下の奥から荷物を運んでやってきた若い男数名。全員がヨコハマディビジョンを仕切る任侠一家、火貂組の構成員だ。
カタギらしからぬ男たちがこうも集まると言い逃れのできない不穏な空気が漂い、フロントのスタッフたちがせわしなく視線を彷徨わせた。他の客が来る前に解散して欲しい。
その願いはちゃんと神様に届いた。
睨み合う若頭と、ディビジョンラップバトルではライバル関係にあるイケブクロの三兄弟に背後を固めたヤクザたちだが、組長である老爺の一声であっさりと解散した。
「おいテメェら。そんなとこで突っ立ってたらカタギの皆さんのお邪魔だろうが。さっさと荷物運んじまえ」
舎弟たちが列に戻る働き蟻のように動き出したのに混じって椅子に戻ろうとした左馬刻の肩をしわくちゃの手が叩いて引き留める。顔は一郎たちに向いていて、左馬刻の方なんかちっとみ見なかった。
「ウチは今日の花火を見に行く予定なんだが、お前さんらも行くってンなら日中はコイツを貸してやる」
虚を突かれた左馬刻は年寄りの力で簡単に押し出されて二郎の方に追いやられた。
突然、尊敬する兄を目の敵にする男を貸与されて、どうしてそうなるのかわからない二郎の口から、嫌味でもなんでもない純粋な「は?」が出た。
勝手に身柄をレンタルされた方は怒りの「ハァ?!」だ。
「何言ってやがんだオヤジ!」
しかし掴みかからんばかりに低い声で異議を唱える部下のことは一切無視だ。老爺は一郎だけを交渉相手に話をする。
「前にウチの組が仕切ってる祭でテメェんとこのガキどもに世話になったつうじゃねぇか」
確かにそんなこともあった。一郎が経営する萬屋にヨコハマの祭屋台の手伝いの依頼があって、そこで左馬刻と出会った。色々あって、左馬刻に作ってしまった借りを返すために予定外の労働をした。それが好評で、祭が終わった後の火貂組の打ち上げまで連れていかれて寿司だの刺身だのといったご馳走を食べさせられて帰った。どちらかというと、トータルで世話になったのは二郎と三郎の方だ。二人はもちろん、左馬刻も清算済みの認識だ。
「アレはもう終わった話だっつー……」
なんでここでそんなこだわる必要もない話を、と割り込もうとしてぴしゃりと制された。
「うるせぇな。テメェは黙っとけ左馬刻」
組長が相手では如何に左馬刻であろうと言いたい放題やりたい放題というわけにはいかないらしい。舌打ちして一旦は黙った。
「祭のことは、俺も聞いてますけど、ウチも萬屋の仕事として弟たちを行かせたんで貸し借りの話じゃないっすよ」
本当に返してもらうだけの貸しがあるならまだわかるが、なんだかんだ理由をつけてこちらがヤクザに借りを作ればロクなことにならない。この先どこでどんな無理を言われることか。
疑る目で臨む一郎と真っ直ぐに視線を交わしていた組長は愉快そうに口ひげを震わして息をもらし、先に若人から視線を外した。
「こんなつまらんことで吹っかけやしねぇよ。今日はちっと馴染の女のところに寄ってから花火の予定なんだがなあ。コイツがいると女の気が散って困るんだわ」
顎で示された色男は端正な顔を歪めているが、何かしらの前科があるらしい。否定じみた文句が出てこない。
「コイツは態度は悪ぃが、頭は回るし、ニイガタにも何度か連れてきてるから使えるぞ?」
「そりゃ、まぁ……」
左馬刻と一郎は昔なじみだ。もし今も関係良好だったらすぐに同行を頼んでいるだろう。根っこは世話好きの兄貴肌だ。決別する前は一郎もずいぶん世話になった。
問題は大ありだけど、信頼できる男だ。きっと信頼する組長に任されたら役割を放棄することもない。何より、二郎を縁もゆかりもない土地でひとりぼっちにさせるのが心苦しい。
新幹線の時間まで余裕もない一郎は一人で後から出発予定の二郎に決断を委ねることにした。
「二郎。お前、本当にひとりで不安はないのか?」
その質問に二郎は即答し損ねた。同行者の選択肢が生まれたことで強がりに綻びができてしまったのだ。
?
月岡温泉から来た道を戻り、緑の案内標識を素通りしてもまだ道なりに突き進む。ショッピングエリアを過ぎたところで「左折しろ」と言われて乗ったのが新新バイパス、豊栄インターチェンジだ。
「おい、料金所ねぇけどちゃんとした高速なのかよ」
一昨日乗った高速道路はETCゲートをくぐって乗り降りした。高速道路は有料道路だから、清算するためのゲートがあるのが普通のはずだ。
心配になって聞けば左馬刻が一ミリの動揺もなく、よどみなく言い切る。
「お前知らねぇのか。ニイガタには高速の無料区間ってのがあんだよ」
初耳だが自信を持って言われたらそんな気がしてくる。ニイガタディビジョンは信号も縦並びのものばかりだし、どうやら勝手が違うみたいだとは思っていたのだ。
「そっか? じゃあ金払わなくていいんだよな?」
「ああ」
左馬刻は力強く頷いた。
間違いなく通行は無料である。高速道路ではなくバイパスなので。高速道路無料区間は豊栄より北側に存在するのだけれど、そんなことを二郎がしるはずもない。
「なんかあんま飛ばしてる車いねぇのな」
法定速度七〇キロのバイパスだからである。
「混んでるしな」
スマホの地図アプリで道を確認しながら外を見ていた左馬刻が「競馬場IC」の表示を見つけた。競馬場を中心に上りも下りも降り口付近でやや渋滞している。競馬の開催日らしい。
バイパスを降りようとしている車を避けて片側二車線の右車線に移動しやり過ごす。
インターチェンジの下を見れば木々に囲まれた競馬場と、唐突に立つホテル。それから年季の入った工場らしい建物が見えるばかりだ。
「あ、なんかデカい建物ある。ニイガタって田んぼばっかだけど時々急に店あるよな。さっきも駅の近くでもないのにビジホあったし」
「アホか。ありゃパチ屋だ。あっちのホテルもどうせラブホだろ」
「ラブッ…………」
左馬刻は過去にも組長のお供で来たことがあるが、ニイガタはパチスロの大型店舗がどこにでもある。それに田舎で商業地区から離れた場所にポツンと立つホテルといったら大抵がラブホテルだ。酒や女より同性の友達とゲームセンターにでも行く方が面白いと思っている子供が目を輝かせるような施設ではない。
田舎の不思議が即座に解消され、二郎は黙った。
イケブクロの山田二郎とヨコハマの碧棺左馬刻。互いに不本意ながら二人で乗り込んだ車はニイガタの中ほどに位置する旧長岡市、現ナガオカディビジョンを目指している。
新幹線で先行している兄と弟に追いつくべく、道を急いでいる二郎がハンドルを握り、同伴していた組長に放り出されたため夜の花火大会まで大きな暇が出来てしまった左馬刻が助手席でナビ役を務める。
「竹尾……マリンピア日本海……」
案内標識をひとつも見逃さず見ていた左馬刻が口の中で小さく文字を読み上げ、あるインターチェンジで指示を出した。
「ここで降りるぞ」
「あ? まだナガオカじゃねぇだろ」
なにしろバイパスに乗ってからせいぜいニ十分程度しか経過していない。ニイガタの道がさっぱりわからない二郎だってさすがにおかしいと思う。
「さっき渋滞してんの見ただろうが」
渋滞、と言われて旅館のフロントで聞いた話が頭をよぎる。確かに花火客で高速が混んでいるかもしれない、と言っていたような気がする。
納得半分。下道で迷うのを恐れる気持ちがもう半分。
「テメェ、ちゃんと案内できるんだろうな?」
「疑ってんなら勝手にしろや。こっちは別に急いじゃいねぇからな」
そんな風に言われると弱い。
「チッ。わぁかったよ!」
左にウィンカーを出してバイパスを降りる。
「右」
「へぇへぇ」
クソッ、と吐き捨てながらも指示通りに右折して降りたばかりのバイパス下をくぐり、見知らぬ街の中を真っ直ぐに走った。
左馬刻の所属する火貂組組長のとんでもない提案から始まったこの二人旅は万事この調子だ。尊敬する兄とライバル関係にある左馬刻のことを二郎は信用なんかしていない。でも、カーナビも搭載していない車の中で運転中の自分に変わって道を確認してくれるのは左馬刻しかいないので、それらしいことを言われたら信じるよりほかない。
往路も三郎にナビを任せきりできた二郎は、全く土地勘のない地方で長距離移動して迷わない自信がなかった。
ついでに、認めたくないところだが、見渡す限り田んぼと読み方も分からない地名の看板ばかりの田舎で一人は心細い。道に迷ったって一緒なら楽しい兄弟たちとは比べ物にならないヤクザ男でも、落ち着いた様子の知り合いが同乗してくれているというだけで安心できるのも確かだ。
一人旅じゃなくなった時には正直ホッとした。
だけど一旦海沿いまで出て、左右に広がる防砂林の松以外見えなくなった。もう出発から一時間ぐらい経つが、時折現れる青い標識に長岡の「長」の字もないとなると、不安ボーナスで維持されていた左馬刻への信用も底を尽きる。
「なぁ、マジでこのまま走れば長岡着くんだよな?」
何度目かわからない確認だった。答えはいつも変わらない。
「そうだっつってんだろ」
「でもさっきから看板にカシワザキとかテラ……テラハク?」
「テラドマリ」
「テラドマリ。テラドマリしか書いてねぇけど、ちゃんと向かってんだよな?」
しつこく確認されるのがうっとおしくて左馬刻が助手席の足元を蹴りつける。
「うっせぇな。黙って運転してろや」
「オイ、ふざけんな。この車借り物なんだぞ!?」
鼻の上に寄せられる限りのシワを寄せて怒る二郎のことなんか目もくれず、左馬刻は運転席の向こう側に目をやる。防砂林が切れて砂の丘と、その向こうに深い青色の海が見える。海辺にはパラソルを立てて遊ぶ小さな子どもと、それを追いかける若い母親の姿があった。夏の海水浴場にはよくある風景だ。
煙草の灰を携帯灰皿に落として煙を吐き出し、代わりに薄く開いた窓から取り込んだ空気を吸い込む。
「嘘はひとつも言ってねぇからな」
「ホントかよ」
すっかり疑っている二郎に真面目に返してやる。
「ああ。テメェが読めなかった寺泊もナガオカディビジョンの一部だ。前にオヤジと行って、その後長岡市街地まで移動もしてるから安心しとけ」
「なら、まぁ……」
揶揄う気配も感じ取れないので納得しそうになった二郎だけれど、何かひっかかる。ナガオカはナガオカでも、目的地はナガオカの中心地だ。ニイガタは田畑や山があるお陰でディビジョンひとつひとつの面積が広い。広いということは移動にも時間がかかるってことだ。すでに高速道路経由の最短ルートからは外れているが、
「その後移動……って、もしかして長岡市街地直行ルートじゃないのか?」
一生懸命頭を使って、今確かめねばならないことを特定し、どうにも自分を煙に巻こうとしている男に尋ねる。
「寺泊はいいぜ。鮮魚センターで有名で新鮮な魚介をその場で串焼きにしたのが食える」
左馬刻はそう嘯いて薄い唇の端を釣り上げた。
最初からそのつもりだったのだ。二郎のことなんか無料の長距離タクシーぐらいに思っていて、花火までの長い暇つぶしに美味い海鮮グルメでも食べておこうと勝手に進路変更したのだ。
こんな身勝手な男を一度でも信用した自分が憎い。運転中でなければ掴みかかっているぐらいの勢いで助手席に怒鳴った。
「テメェ、ざっけんな!俺は急いでんだよ!」
その辺に丁度いい駐車場があれば車を停めて殴ってやりたいが、そういうわけにもいかずに正面の道路状況を確認して、隣を一瞬見て、また正面を向くのを繰り返している。自動車は運転者の方が同乗者の命を握っているはずなのにどうしてこんなにも立場が弱いのか。
安全運転を放棄するわけにもいかない二郎が忙しく怒っていると、左馬刻はそれを見て笑ったりせず、焦る二郎の必死な様子をみやる。
「生意気な弟の大会の応援のためにか?」
指に挟んでいた煙草を唇に咥えて両手を空け、スマホを操作してそれらしい単語で検索して見つけたリアルタイム配信されている動画を再生した。数秒の読み込み時間を経て動画が映り、音声が流れだす。
『────勝利チームはディビジョンラップバトル常連のBusterBros!!!でも活躍する山田三郎くんと総合ランキング現在四位のサバゴルビーさんのタッグチーム』
音量を上げたスマホから弟の名前が聞こえて、焦り混じりにアクセルを踏みこんでいた力が弱まった。
「無事初戦突破したらしいぜ」
ハンドルの近くまで寄せられたスマホにほんの一瞬だけ視線をやる。運転中だからよく見るわけにいかないけれど、友人らしい少年と拳をぶつけ合う三郎の姿が見えた。
「そっか……」
三郎は無事に友達と大会参加できたらしい。二郎のポケットでスマホが鳴って、片手で引っ張り出して左馬刻に確認を頼むと一郎からのメッセージだった。
「一回戦を勝ち抜いて、次は三十分後。上手くいきゃあ決勝は午後三時頃だってよ」
「ここから会場までどんぐらいなんだ」
「待ってろ」
地図アプリで現在地からの経路と所要時間を調べる。
「三十分じゃ中心地までは無理だな。このまま海沿いに行きゃあちょうど昼頃に寺泊だ。飯食いながら中継でも見て、そっから会場まで向かえば決勝には余裕で間に合うだろ」
運転していては中継配信されている試合の様子をみることはできないので、アリだ。でも元はと言えば左馬刻が勝手に遠回りさせたのが原因だし、丸め込まれ続けなのも腹が立つ。
「勝手に決めんな」
さっきまでの怒りや焦りが軽減された代わりに拗ねた口調で言う二郎を鼻で笑って、左馬刻が「ああ」と厭味ったらしく頷く。
「弟が次で負けりゃ見られる試合もなくなるか」
見え透いた挑発だ。乗ったら負けの意味のない揶揄だ。
しかし山田家は兄弟を馬鹿にされることに人一倍敏感であった。
「三郎は負けねぇよ! アイツはすげー頭いいんだからな!」
頭を使うゲームで三郎に勝てる奴なんていない。自慢の弟だ。
その返事を待っていた左馬刻が畳みかける。
「じゃあ問題ねぇな?」
「当たり前だ!」
迷いはなかった。
「決まりだな。長岡より先に飯食うぞ」
「は!」
二郎が我に返ってももう遅い。目的地まで直進続きでやることのなくなった左馬刻は全開にした窓に肘を乗せて、ニコチンを取り込んで用済みになった煙を晴れ渡った空に流す。
一見話はまとまったようだが釈然としない。そんな気持ちを言語化もできず唸る二郎を振り返って左馬刻は薄く笑った。
「車代に寿司でもなんでも食わしてやるわ」
「言ったな? 一番高ぇの食っても文句言わせねぇからな!」
「ガキの豪遊で吹き飛ぶほどヤクザの財布は薄かねぇんだよ」
運転席側の車窓の向こうに広い浜辺が広がっている。その先には時折きらめく海が。そして、水平線の上には佐渡島がはっきりと見えていた。
?
月岡を遠く離れ、寺泊に近づくにつれて岩場の地形に沿って曲がりくねった道が増えてきた。
左を見れば山。もしくは逞しく生きる緑に彩られたごつごつした黒い岩。大昔にできた火山岩の陸地が波に打たれて削られ、風に吹かれて砂埃や植物の種が付着し、今も少しずつ陸の形を変えようとしている海を臨む雄大な岸壁の風景を創り出している。
反対に右を向けばガードレールの向こうは全面に海が広がっていて砂浜も見えない。恐らく浅瀬も少ない、転落したら最期の海だ。
人工的に整備されたヨコハマ港や広い砂浜のあるショウナンディビジョンとは違う。
打ち寄せる波の具合も、海の向こうに見える陸地の影も。日常とは別の世界にいると思わせてくれる。
左馬刻に騙され乗せられて渋々の遠回りだったはずが、予定が決まって諦めがつくと外に目が行くようになってくる。
海に突き出した巨大岩をくり抜いて作られた短いトンネルや、草木の生い茂る岩山。SNSにアップされた写真でしか見ないような景色だった。
大昔の俳人ならここで一句詠んでいたんだろうが、二郎は季語も知らない、スマホが手放せないH歴の若者だ。ハンドルを握っていてカメラを構えられないのがもどかしく、スピードを落としてドライブする。
「すげー岩!」
「岩ごときで騒ぐな」
「見ろよ、今坊さんの像あったの見たか?」
「うるせぇっつってんだろガキ」
文句は言うけれど返事をしてくれるし、左馬刻は本気で怒ったりはしなかった。大型犬がまとわりつく小型犬を尻尾であしらって、噛みつかれるとちょっと脅かして甘噛みで止めて解放するように、ナビシートで首だけをちょっと動かして二郎のしゃべりに適当に付き合ってくれる。
民家もないようなエリアはひたすらに自然と道路ばかりかと思えばそうでもなくて、時折人工物──主に地蔵や僧侶の像らしきものが景色に紛れ込む。
「お。あれ?」
乏しい語彙で騒いでいた二郎がおかしな声を出した。左馬刻が閉じていた目を開く。
「またお地蔵さんだ。こんなとこにわざわざ造ってもあんま人来ねぇんじゃねぇのかな」
海沿いに走るシーサイドラインは道幅が狭く、路肩に車を寄せても片側の車線が潰れてしまう。待避所や小さな駐車場がないでもないが、そうした場所の近くに地蔵があるというわけでもない。
遠くに見える集落から歩くにしても、波の打ち付ける低い崖の上の細い歩道を歩き続けるのはなんだか怖い気がする。なんだってこんな不便そうなところに。
不思議がる二郎に対し、左馬刻は何も驚かなかった。
「昔に何かあったんじゃねぇのか。海難事故だとか」
海辺にはよくある話だ。
左馬刻は自分の言葉で一つの昔話を思い出した。前に寺泊まで来たときに組長から聞かされた話だ。
「今向かってる寺泊より向こうに親不知っていう海岸があるらしいぜ」
「親知らずって、あの奥歯ンとこ生えてくるっていう?」
「なんでニイガタの海に奥歯があんだバカ。こんな道路が整備されていない昔は海辺を渡るが難しくて、親子が渡るときに子どもだけ荒波に攫われたって話だ」
郷土に伝わる昔話のひとつだ。その土地ごとの開墾の歴史を伝えたり、危険な場所を子孫に教えるために物語にして語られたりする。今となっては実話か作り話かも確かめようがないものも多い類の。
口にした左馬刻だって細かいことは忘れてしまったし真偽不明の話だが、二郎は信じた。トウキョウ湾やヨコハマ港に比べ、こちらの海は荒々しく打ち寄せて岩とぶつかって盛んに白い飛沫をまき散らしている。岸壁からすぐに海の地形は、きれいに舗装された道路がない時代には人間に海沿いに歩くことを許さなかっだろう。
「それで、地蔵……?」
「親不知はもっと先だから知らねぇよ。だが、こんな地形の場所には似たような事件がゴロゴロしてんじゃねぇのかっつう話だ」
親不知の話を持ち出したくせに、寺泊手前のこの土地とは無関係だと放り出される。
だけど、海岸線に出る前の集落でも地蔵を見かけた気がする。地蔵がある場所は昔、誰かが海に呑まれて亡くなった場所、かもしれない。
過去に読んだホラー漫画のことなんかを思い出して急に薄ら寒く感じ始めた。確か、海にまつわる強力な幽霊だとか妖怪だとかの話があった気がする。児童保護施設の本棚に寄付された漫画の一つで、暇つぶしに読んだその夜は怖くて、三郎のベッドで一緒に寝たりしたものだ。
不安定な気持ちと呼応するようにして佐渡島の見えていた沖の方から急速に分厚い雲が近づいてくる。
二郎はハンドルを強く握り直してじんわりアクセルを踏み込んだ。
目の前に現れたトンネルを抜けると、久しぶりに広い砂浜と整備された駐車場が現れる。一時的に波が厳しく威圧感のある岩場から離れられて少し安堵したが、
「……車が全然いねぇな」
なんとなく呟いた。夏だと言うのに素通りした広い駐車場はガラ空きだった。うっすら霧が出てきているからかもしれない。
駐車場を過ぎたところから木々に囲まれ、海が見えなくなった。同時に中央分離帯が現れる。他の場所は最低限の土地を切り開き、整備してやっと片側一車線ずつの双方向通行道路が作られている印象だったのに。交通量も多くない。スピードを出す気にもならないカーブした道路に、場所を取らないポールを立てる程度ならまだしも、わざわざ幅のある中央分離帯が作られているのは違和感があった。その終わり近くに歪んだウロの目立つ木が一本だけ残されている。
「伐採したくても切れない木」
ぽつりと呟かれた言葉に二郎の肩が跳ねる。
「お、おい。やめろよ」
「ビビってんのか?」
「ビビってねぇ!」
大きな声で叫んだが、揶揄ってくる左馬刻だけが心の拠り所だ。左馬刻の強さだとか態度のデカさだとかは関係なく、他に人間はおろか、動物も車両も、何も見当たらないからだ。
霧は徐々に濃くなり、遠くまで見えていた景色が白く霞んでくる。
ここまで何台もすれ違った車やバイクやロードバイクが、いつの間にかぱたりとなくなってしまった。後ろにも、前にも車の姿はない。道路沿いにいくつか建物の影が見えたが、歩く人の姿はもちろんなかった。
フロントガラスから見上げた空はすっかり灰色で、左右を暗い色の樹木が縁取っている。
「他に車がいなくたってよそ見すんじゃねぇぞ」
花火大会への影響が心配になったが、雨が降り出す様子はなかった。代わりにあっという間に立ち込めた霧で視界が悪い。数メートル先も怪しかった。
気が付くと車は坂を上っていた。坂の途中で霧の中に浮かび上がった鉄橋の赤色だけが良く見えた。
橋を渡ってしばらくするとトンネルに入る。それまで潜って来た短いトンネルと違い、やけに長く感じた。先が見えない。
「おい、地図見てくれよ。あとどれくらいでテラドマリに着くんだよ」
早くトンネルを抜けて視界を確保したいが出口の光も見えないトンネルでスピードを上げるのも躊躇われる。トンネルの中は霧も多少はマシで、相変わらず対向車が来る気配もなかったけれど。
面倒くさそうにスマホを手にした左馬刻がディスプレイの上部を見て眉を顰める。
「圏外だ」
「ハァ?!」
「トンネルなんだから仕方ねぇだろ」
「そんな……あ、出口だ!」
ようやくコンクリートの壁が途切れて霧に滲んだ光が見えた。ついついアクセルを踏む足に力がこもる。
「……明るすぎる」
眉間にしわを刻んで左馬刻が呟いた。
「あ?」
「トンネル出たらどっかで車止めろ。見通しが悪ぃ」
今日一番強く言われて二郎はただただ頷いた。
トンネルを抜けて間もなく、対向車線側のガードレールの切れ目が見えた場所に車を乗り入れた。スピードを落として慎重に進入したそこは駐車場のようだった。ハザードを焚いて車を停車させた。
「なぁ、ここなら電波入るんじゃねぇのかよ」
「うっせぇな。腕揺するんじゃねぇよ」
運転席から身を乗り出した二郎が左馬刻のスマホを覗き込むが、電波の表示は微弱で地図アプリは上手く動かなかった。
それを見て二郎がポケットから出した自分のスマホも同じ。幸いなことに、あれほど長く感じたのに時刻はまだ昼前だった。早めに霧が晴れてくれさえすればスケジュールが大きくずれ込むことはなさそうだ。
「一応兄ちゃんに連絡いれときたいんだけどなぁ」
電話は通じず、送ろうとしたメッセージは送信失敗。トンネルの前で坂を上ったから山の中に入ってしまって電波状況が悪いのだろうか。少しでも電波を掴めないか車の外に出てスマホを高く掲げてもう一度メッセージ送信を試みる。
両手でスマホを持って天に祈るようなポーズでうろうろしていると、急に左馬刻が二郎とは違う方向に声を挙げた。
「────お袋?」
どちらが進行方向かもわからなくなりそうな霧の中で振り返る。同じように役に立たないスマホを手に車から出ていた左馬刻が立ち尽くしている。
視線の先を追うと、人影がある。霧で判然としないが、大人の女性のように見える。後から駐車場に入って来た車はいないから先客がいたらしい。いつからいたのかは分からないけれど、この霧で動けないのは一緒だろう。
でも今、左馬刻は「お袋」と言った。
車を回り込んで棒立ちの左馬刻より前へ、人影に近づいて目を凝らす。左馬刻の母親のことなんか知らないが、こんなところに偶然いるわけがないってことぐらいわかる。なんだか妙だ。
湿った生ぬるい風がその人との間の霧を押し流す。
細身に活動的なパンツスタイルが板についた女性がそこに立っていた。今気が付いたみたいにこちらに振り向き、優し気な笑顔で片手を挙げる。
その人の顔を、まとう空気の暖かさを二郎は知っていた。
「なんで……なんでいンの」
声が震える。会えなくなってからひとつ歳をとるごとに半透明のフィルターを一枚ずつ重ねていくようにしておぼろげになっていった姿が、その顔を見た今ははっきりと思い出せる。
幼い頃に死別した母の笑う顔。危険な場所に飛び出ていこうとした小さな頃の兄を叱る顔。まだ言葉も喋れない赤ん坊の弟を差し出して抱きしめさせてくれた時の、ミルクのにおいのする弟の肩越しに見た幸せそうな母の姿。
母がいなくなって、父親もいなくなってから色々なことがありすぎて忘れていたあらゆる思い出が浮かんでくる。
もっと思い出したい。自分にかけてくれた言葉やにおいや頭を撫でてくれる手の感触も。
他の何も見えない霧は夢の中のようで、一歩、二歩と近づいていく。とっくに亡くなったはずの母が確かにそこにいる。今、その手を掴めばこの世に連れ戻せるような気がして。
「母さん、母さん……なんか言ってよ母さん……」
母に向かって伸ばした手は届かなかった。それ以上進む前に、反対の手を急に引っ張られて阻まれたからだ。目の前の母親は二郎が歩み寄ってくるのをそこで待っているのに。
「離せよ」
振り払おうとして腕を乱暴に振ったが強く握られてビクともしない。喧嘩では負けなしで腕っぷしには自信があったのに。怯んで左馬刻を見るととても怖い顔をしている。
「お前、今なんつった」
「テメェに関係ねぇだろ!」
「あそこにいるのが、お前には、お前の母親に見えてるのかって訊いてんだ!」
近づいて至近距離で怒鳴られ、呆気に取られて素直に頷いた。
「あの人は俺の、俺らの母さんなんだ……」
揉めている二人を見た母親は困ったように首を傾げている。ちゃんと二郎のことを見ていてくれる。
だけど、説明しても左馬刻は手を放してくれなかった。
「もういいだろ。手ぇ放してくれよ」
左馬刻は立ち止まって動かないし、ウエイトでは二郎の方が負ける。放してくれないと母さんの手を取れない。
焦れて何度も手を揺すって放してもらおうとする。それでも左馬刻は跡がつきそうなほど強く握った手を緩めもしない。
代わりに、奥歯を噛みしめていた口を重々しく開いた。
「…………俺には、ウチのお袋に見えてる」
「え?」
母親を振り返ったが、そこにはやっぱり自分の母一人しかいない。兄弟それぞれに受け継がれた容姿は左馬刻とは似ても似つかない。
「まさか、俺らの母さんがアンタの母さんでもあるってこと……?」
足りない頭で考えてもよく分からなかった。やっとひねり出した発想は間髪入れずに否定される。
「ンなわけねぇだろ」
「じゃあ母さん同士が双子とか……」
「そういう話してんじゃねぇよアホガキ」
でも、二郎の目には左馬刻の母親なんて見えない。左馬刻にも自分の母親一人の姿しか見えない。
「チッ」
舌打ちした左馬刻が手を塞いでいたスマホをポケットにねじ込み、代わりにヒプノシスマイクを掴んだ。霧の中に地獄の番人のような骸骨の姿をしたヒプノシススピーカーが出現する。
「おい、何する気だよ。相手はマイクも何も持ってねぇ母さんなんだぞ!」
ヒプノシスマイクを使った攻撃を食らえばガタイのいい男でも昏倒する。各地の領土を奪い合うディビジョンラップバトルでトップ争いをする左馬刻の攻撃なら尚更。精神干渉に耐性もなさそうな母親に直撃したらどうなるかわからない。
腕に縋り付いてやめさせようとしたのに襟を掴んで車に叩きつけられた。こめかみを強かに打ち付ける。
「こんなモンがアレに通用するかわかんねぇけどな。生きて一郎たちと再会したきゃテメェは黙ってろ」
夢心地だった脳みそが物理的に揺れて、リアルな痛みのお陰で自分を待つ兄弟の顔が蘇ってきた。
兄の一郎と、弟の三郎。両親がいなくなってからもずっと一緒に生きてくれた。二人の兄弟が待つクリアな世界に、目の前の母親を連れていけない。
きっとその顔をみた時から、最初からなんとなくわかっていた。母親のように見える何かを連れていってはいけないってことも、ついて行ってもいけないことも。
それでも会いたい気持ちが膨れ上がって、良い夢を見ていて目覚めたくない朝のようにぐずってしまった。一瞬で気持ちが小さな子どものようになってしまった。
乱暴な男に無理やり起こされてようやく現実を意識することができる。今、自分たちがしてはいけないこと。すべきこと。
「アンタは自分の母親のことぶん殴れンのか……?」
こめかみから目元を腕で強くこすって左馬刻の隣に立ち、最終確認を投げかける。
「ふざけたこと訊くんじゃねぇ。お袋は、俺と妹のことは連れてかなかった」
迷いのない、憤りを押し殺した返事を聞いて、腹いっぱいに息を吸い肺が空っぽになるまで吐き出した。
二郎も自分のヒプノシスマイクを握る。確かな感触のある地面に二本の足で立つ。
そして流れ出したビートに乗せて自分の感傷を振り切るために歌いだした。深い霧をも切り裂くようなラップを。
?
海を離れて車はぐんぐん坂を上った。何度カーブを曲がっても同じような森の景色だったけれど、先の見えない霧の中のトンネルと違ってきちんと前に進んでいる実感があった。
運転を交代した左馬刻は意外なほど丁寧なハンドルさばきで山を登りきり、その地域で有名だという弥彦神社までたどり着いた。
おそらく、あれは人間の心の隙間に付け込んで現れた幽霊の類だろうという話になってお祓いを優先させることになった。
弥彦神社の広い境内の空気は真夏だと言うのに澄んでいて涼しく、山に抱かれるように聳える本殿は立派で、それだけで穢れが消えていくように感じられた。
「うわ、ニイガタの心霊スポット記事に載ってンじゃん」
神社脇の土産物屋で匂いにつられて買った玉こんにゃくを齧りながら二郎が呻いた。自分たちの囚われたものの正体が気になっていくつか単語を変えて検索したところ、それらしい話がヒットしたのだ。
どこのディビジョンにも一つや二つは話題の心霊スポットがあるものだが、霧が出始めたあたりで見つけた中央分離帯の木はまさしくその一つとしてネット記事で紹介されている。
「まあ、トンネルがあっちの世界と繋がってるってのも定番だしな」
本当だとは思っていなかったが、こうやっておかしな体験をしてしまった今となってはバカにも出来ない。
トンネル、母親の幽霊などという直接的な単語では全く同じ体験をした人の記事を見つけることはできなかったが、盆という時期柄や、怖がる気持ちが引き寄せるという説など。自分たちの身に起きた出来事の原因について、まるで心当たりがないとも言い切れない。
普段から霊感が強いわけでもない二人には、結局のところ、あの正体不明のものが身の回りから消え去ったのかがわからないので、左馬刻の分厚い財布にものを言わせて最高ランクの御祈祷をしてもらった。神主も「ご安心ください」と言っていたし、もう大丈夫だろう、と思いたい。実際のところは確かめようがないとしても、気持ちはだいぶ楽になったので、高い金を払った甲斐はあったと左馬刻は思う。
「あ、あのさ……兄ちゃんたちには、俺が母親の幽霊見たって言わないでくれよ」
弥彦神社のある弥彦山を下り、再度海沿いに戻って賑わう鮮魚市場のレストランで海鮮丼を食べながら二郎が切り出したのは、そんな心当たりの話だった。
「言うも何も、テメェのクソカス兄弟と喋ることなんざなんもねぇよ」
「クソでもカスでもねぇっつーの!」
新鮮な刺身やいくらがこれでもかというほど乗った贅沢な丼にカニの足やエビの頭がゴロゴロ入ったみそ汁を前にすると兄弟に申し訳ない気分だが、美味いものは美味い。番屋汁という郷土料理のお代わりを頼もうとしたら露店で串焼きも食えるから満腹にするなと左馬刻に止められた。
腹のあたりで停滞しているモヤモヤを、美味い食事を胃に押し込むことで中和する。
「もしかしたら兄ちゃんに聞いて知ってっかもしんねーけど、うちの母親は俺らがガキの頃に亡くなっててさ。あんまり小さい頃だったから、今じゃはっきり覚えてることも少ないんだけど……」
ヒプノシスマイクのお陰で母親の幻は霧と一緒に消えてなくなった。あんなにはっきり存在するように見えていたのに。文字通り霧散した後には前と同じ。幼い頃の曖昧な記憶に戻ってしまった。
「三郎がやっと達者に喋るようになった頃の記憶が一個だけあるんだ。朝起きた三郎が、お母さんの夢を見たって言いだして、兄ちゃんも母さんの夢を見たことがある。同じだ、って言ったんだ。母さんは俺たちのことを心配していつも見守っていて、夢で会いに来てくれたんだって。ほら、夢枕に立つって言うだろ?」
もう運転する気がないらしく酒を注文した左馬刻は返事もせず、刺身をつまんではグラスを傾けている。別に相槌も要らないと思ったから二郎は続けた。
「兄ちゃんの夢では弟たちを守ってね、って言ったんだって。でも、俺の夢に母さんが出てきたことはない」
厳密にはあるのかもしれない。昔の夢自体はたまに見る。両親がいる設定の夢だ。でも、ちゃんと母親が輪郭を持った登場人物として夢に現れたり、二郎に話しかけてくれることはなかった。
「兄ちゃんと三郎がその話をしていた時、俺は母さんの夢見たことないって言えなかった。……俺だけ会いに来てもらえないって、言いたくなくて。もうずっと昔の話だし、最近じゃ誰も母さんの夢を見たとか言わないからすっかり忘れてたんだけどさ。なんか……ちょっと疎外感? みたいなモン感じてたのかな。昨夜の旅館で兄ちゃんが三郎の横で寝ちまってさ。幸せそうな顔見てたら、急にそんな昔のこと思い出して気晴らしに外に出たらアンタと鉢合わせするし、今日はこんなことになるし。ダセェから誰にも言わないでくれよ」
繰り返し頼むと面倒くさそうに整った眉を顰めて鬱陶しがられる。
「言わねぇつってんだろ。さっさと食え」
話に夢中になって止まっていた箸を動かして、米の大きな塊に刺身を乗せて口に運ぶ。気落ちしていても粒の形がしっかり感じられる程よい硬さに炊き上げられた米も、海鮮ならではの甘みのあるホタテやマダイの刺身も、口の中で弾けるイクラも。口の中に味が広がって幸福感を生み出してくれる。喉元までぶり返してきた感傷を美味い物で押し流す。
先に箸を置いた左馬刻はガラス製の冷酒器から流れ落ちる日本酒ばかり見ている。自分の奢りだが、二郎の食べっぷりにはさほど興味がない。
「夢なんざただの願望だ。現実で満たされないヤツが見るもんであって、夢枕だとか予知だとか。そんなもん、死んだ人間の意思や現実の出来事とは関係がねぇんだよ。っつーか、あってたまるか」
ガツガツ食べたせいで頬っぺたに米粒をつけた二郎が目で続きを促すと察しの悪さに口をへの字に曲げ、酒で濡れた唇を舐めて話を続けてくれる。
「つまり、小さすぎて母親が恋しい弟や、長男っつー責任感でナーバスになってたダボ兄貴と違って、テメェはまあまあ満たされてたってことだろ。落ち込む理由がねぇ」
「だから元気出せってこと?」
「うるさくすンならずっと落ち込んでてくれて構わねぇがな」
それ以上は説明してくれなかった。
終始不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、酒が空になるとさっさと席を立った左馬刻を追って、二郎も慌てて残る料理を掻き込んだ。
二郎の母親のお返しに、などと言って自分のことは語ってくれたなかったから、結局左馬刻のことは何も知らないし、どちらかと言えばイヤな奴だと思う。でも、これはきっと照れ隠しなんだと分かって背中でこっそり笑った。
?
明るいうちから賑わうナガオカディビジョンで開催されたゲーム大会は三郎と友人のペアが優勝した。決勝になんとか間に合った二郎もその瞬間に立ち会うことが出来た。誇らしげに見せられたトロフィーは友人が譲ってくれたので、三郎の大事なお土産のひとつとなった。
大会の後、BusterBros!!!のファンだという会社の社長と合流し、社屋の屋上で花火を見ながらのバーベキューに参加した。街中は予想以上の混雑ぶりで、遮るもののない場所から落ち着いて空を埋め尽くすような大きな花火を眺められたことに感謝した。
長岡花火は長い歴史のある伝統行事だという。中でも昔、大きな地震があって街も人も被害を受けた。その復興祈願と慰霊のために上がる一際盛大な花火がある。打ち上げ花火の大音量にもめげずにしきりに兄弟たちに話しかけていた社長も社員たちも、その瞬間には明るい夜の空を見つめていた。
『Yo!移動は押さない、駆けない、立ち止まらない!従わないガキはしょっぴくぞ!』
大通りには高所作業車が数台停まっていて、上ではマイクを持った警察官が交通整備をしている。人が多すぎて、通行人と同じ高さに立って声を張り上げても届かないんだろう。その高所作業車組の警官の中にはヨコハマから招待された入間銃兎もいた。ディビジョンラップバトルで全国的に有名になったお陰で、警察の誘導に注目を集める目的で駆り出されたのだ。
そのことを二郎たちが知ったのはイケブクロに帰ってテレビのニュースを見てからだったし、ニイガタ港に寄港していた護衛艦に乗る旧友に会いに毒島メイソン理鶯もニイガタを訪れており、知らぬところで左馬刻がリーダーを務めるMAD TRIGGER CREWが勢ぞろいしていたことは知る由もない。
三日の旅は無事終わり、兄弟たちはイケブクロへ。左馬刻らはヨコハマへ帰った。霧の中の出来事は二人だけの秘密である。