デザイア/アレン+cozmez/8340

 もう荷物をまとめる音しかしない室内にペンを走らせるカツカツという音だけが響いている。
 それぞれ上着とバッグを抱えた夏準とアン。二人はもう楽屋を出ようとしているのに、BAEのリーダーのアレンだけ憧れのMCユニット、武雷管のサインを横に置いて備え付けのメモ用紙を何枚も使ってリリックやメロディを書き散らかしている。いつも携帯しているリリックノートのページは書き尽くして埋まってしまったのだ。
 何度も「帰るよ」と声をかけたアンは黙り、夏準は目を細めて口許だけで微笑む。
「この間行った本屋さんでこういうの見ました。何を言っても耳に入っていなくて、ずっとお気に入りの本を立ち読みし続ける幼稚園児とうんざりする親御さん」
「夏準……殴るよ。腹を」
 誰が親御さんだ。イラつくけれど、美しい夏準の顔をアンは殴れない。好きなものを見つけた幼児並みのアレンの顔をグーで殴るのはやぶさかではないが。
 まだ椅子から転げ落ちる勢いで殴ってはいないが、耳ぐらいは引っ張った。それでも「ああ」しか返事がなかった。
 深々と息を吐いてアンはドアノブに手をかけた。
「もういいよ。二人で帰ろ」
「いいんですか?」
 自分だってアレンを置いていくのに異論はないだろうに、白々しく尋ねる夏準の顔を睨みつける。
「アレンには前科がありますけど」
 前科。こうして泉の如く湧き出る曲のアイデアをメモするアレンを置き去りにして二人が帰った後、外でトラップ反応を起こしている間に、幻影ライブには不可欠の大事なファントメタルを盗まれた“前科”だ。
 その時はファントメタル奪還のために二人も人脈をフル活用したり、空気の悪いスラム街に乗り込んだりと苦労させられた。盗まれた本人には犯人の居場所を調べるツテもないし、そもそもギリギリまで「アイツが盗んだんじゃないかも」などと寝言を抜かしていたので。世話を焼かされている自覚があるが、二人はどれだけ文句を言ってもアレンを見捨てられない。
「じゃあメタルだけ預かっていく!」
 分厚いソールで床を鳴らして大股でアレンのところまで歩いて「メタル預かってくからね!」と声をければ「ああ」と気の抜けた返事がある。センサー式のオモチャでももっと返事のバリエーションがあるだろう。
 ファントメタルだけ回収すれば他に盗まれて困るものはそうない。スマホはパスコードが設定されているので、最悪クラウド保存していないデータが失われるだけで済むし、今日の物販ですでに持っている武雷管のレコードを買ったりしたせいで財布の中身は少ない。
 ついでに言えば、現在のCLUB PARADOXは施工を請け負った翠石組の目が光っている。ライブハウスだけでなく、複合商業施設として規模拡大したが、監視カメラはこれでもかというほどあるし、警備員も翠石組の息がかかっている。翠石組はアンのバイト先のキャバクラのオーナーであり、ライバルチームでもある悪漢奴等だ。今回集められた八つのMCグループの中では親しくしているチームと言える。
 何かあってもまた翌日の講義をサボってスラム街に行くようなハメにはならないだろう。二人は備品のメモ帳すら使い切りそうなアレンを放って会場を出た。

 頭の中が静かになって顔を上げるとき、夢からさめたような心地がする。
 一瞬、自分がどこにいるか、何故ここにいるのかもわからなくなる。
 自分の部屋じゃない。物の少ないきれいな部屋。広い鏡と、自分の周りに散らばったメモ用紙と、武雷管のサイン。
 そうだ。武雷管が主催のライブで、沢山の刺激を受けて作りたい曲のアイデアがいくつも浮かんできて、自分の内から出てくる音に溺れそうで、でも一つも取りこぼしたくなくて夢中でメモしていたんだった。
 室内はしんと静まり返っていた。夏準もアンもいない。荷物も自分のバッグしかない。
「ああ、またか」
 帰ったら怒られるだろうな。きっと二人は声をかけてくれたけど、夢中になっていて気が付かなかったんだ。それで置いて行かれることは初めてじゃなかった。ライブ後の楽屋に置いて行かれたこともあるし、一緒に買い物に行く約束だったのに部屋で曲のアレンジに熱中しているうちに二人が出かけてしまったこともある。よくあることだし、そのたびに怒られている。
 もう「なんで置いて行ったんだ」とは言うまい。耳に入っていなかった言葉の記憶はさっぱりないが、それでも悪いのは自分だ。文句を言った何倍もアンに怒られ夏準に詰られるのが関の山だ。
 床にまで落ちたメモ用紙をかき集め、武雷管のサインと一緒に大事にバッグに入れた。曲のデータが入ったノートパソコンは夏準が持って行ってくれたらしい。使い古したバッグひとつで楽屋を出た。
「今、何時だ?」
 スマホを見ると思っていた三倍ぐらいの時間が経過していた。アンから何通か、メッセージの受信通知もあった。大方帰りが遅いことへの苦情だろう。
(ヤバイな)
 そう思った時だ。脳の奥底から黒く澱んだ靄が浮き上がってきて視界を塞いでいく。耳の奥で響く何かが割れる音。男女の声。暗くなる視界で赤い炎が揺らめく。
 トラップ反応だ。幻影を使った後は必ずこうなる。普段は記憶の深いところにしまって蓋をして、あまり思い出さないようにして過ごせるようになったはずの、過去の辛い記憶を追体験させられる。
 ライブでステージ上に出現させる幻影の炎なんか目じゃないようなリアルさで、触れば指先が燃えて爛れそうな火が目の前にある。
 割れたレコードと破られたレコードのケースが燃えている。自分で作った曲も、自分の想いが詰まったリリックノートも。大事な、自我の部分を全て灰にして「お前は間違っている」と繰り返される。産まれてからずっと「お前には音楽の才能がある」と褒めそやしてくれた両親に。
 あの時だ。両親が愛していたのはバイオリンの天才である息子であって、自分で好きなものを選んで、自分で生き方を決める、自分というものを持った朱雀野アレンじゃない。そう理解したのは。
 両親の手によって燃やされ、失われたレコードはほとんど買い直した。不幸中の幸いというか、金のない中学生のアレンが買えたレコードにはプレミアのつくような高価なものがなかった。大学生になってから行きつけのレコード屋も増えて、手を尽くして探したら大半のものが見つかった。
 でも、あの日燃やされて消えたのはモノだけじゃなかった。人間が人らしく生きていくのに大切なもの。まだ世界の狭い子供にとっては特に、大部分を親から得て構築されるもの。
 膝から崩れ落ちて見上げた両親のあの目を覚えている。あんな目を、一人息子の自分が向けられるなんて思ってもみなかった。
 クラシックではなくヒップホップが好きな息子なんて、この人たちには要らないんだ。
 燃えカスと一緒に残ったのは、魂を焦がすような酷い絶望だった。

「うん、いいじゃん。こういうフックの入り方好き」
「だろ。ここでイイかんじの音入れてきっかけにしてさぁ。緩急つけてガツンとくる感じで」
「ずっと前に作ってたアレみたいな?」
 コツコツと小さな物音の奏でるリズムに乗せて、やんちゃなニュアンスの歌声が降ってくる。
「それ何年前のヤツだよ。よく覚えてたな」
「いつかどっかで使いたくてさ。つか、珂波汰、コレの途中のヴァースアレンジして使ってたじゃん」
「どれ」
「これ、ここ」
「ああ、そっか。そういえば似てるな。あんま考えてなかったけど」
「これも好きだけど、最近四季と話してたらちょっとイイの思いついてさ」
 また歌だ。独特のリズム。ヒップホップだ。聞いたことのない曲だけど、楽しそうな歌。
「じゃあ次それ作るか」
「今メモってたのいいの?」
「別にちょっと思いついただけだし」
「ンなこと言って。珂波汰、すげー集中してたじゃん。リリックも書いてたし」
「べっつに、こんなの見たからってわけじゃねぇよ。いつもこんぐらい書けるし……」
「あ」
「あ?」
 顔を上げると足があって、その先を辿ると、珂波汰がいた。横からひょっこりと顔を見せるのは珂波汰の双子の弟の那由汰だ。二人は椅子に座っていた。それを床から見上げている。
 アレンが冷たい床から起き上がると二人は目くばせし合って立ち上がった。
 場所は、恐らく楽屋だ。通路に出たはずが戻っている。それから、どういうわけかcozmezの二人がいる。
 cozmezは今回のライブの出場者の一角だから会場内にいるのはいいが、アレンと同じ楽屋にいるはずがなかった。
「やっと起きたかよ」
「すげーうなされてたじゃん」
 床からなかなか立ち上がれないでいるアレンを馬鹿にしたように笑うが、二人だって同じステージで幻影ライブをやった。トラップ反応があるはずだ。
「……なんで、お前たちがここに」
 珂波汰に向けて尋ねたつもりだが面倒くさそうに眉間にしわを寄せて舌打ちされた。代わりに肩を竦めて那由汰が答えてくれる。
「なんでって、ここ、俺たちの楽屋だし」
 言われて改めて室内を見回すと、BAEに割り当てられた部屋とは左右対称の作りになっているようだった。
「俺たちがトラップ反応終わって出てみたらドアの前に倒れてる迷惑なヤツがいたから、楽屋に引っ張り込んでやったんだよ」
 ドアを親指で指して「感謝しろー?」と顔を覗き込んでくる。
「ハァ……那由汰が恩売っとこうっつーから助けてやったんだ。今度きっちり謝礼してもらうからな」
 椅子の背もたれにふんぞり返って珂波汰が不本意そうに付け加えた。善意と勘違いされたら困る、っていう表情だ。
 わざと厭味ったらしく、嫌そうに言うのに、アレンにはそうした態度が一切通じない。
「ああ、もちろんだ。助かったよ、二人とも。ありがとう」
 真面目に頷いて一人一人に視線を送り、素直に感謝する。珂波汰は苦虫を?み潰したような顔をした。
「うっせぇ。オラ、もうこっちのエリア閉鎖する時間過ぎてんだよ。さっさと出るぞ」
 顎で促されるまま、アレンもなんとか立ち上がって傍にあったバッグを掴んで楽屋を出た。硬い床に転がっていたせいか、トラップ反応特有の疲労感に加えて体もギシギシ言う。でも自力で帰れないほどではない。
 双子の後を歩きながら話しかけても珂波汰には無視されるし、那由汰がたまに応えてくれるけどほとんどが冷たい返事だった。だからほとんどアレンがひとりで「腹が減ったな」とか「さっき歌ってた曲、完成したら聴かせてくれよ」などと一方的に話している。そういうのがアレンはあまり苦にならなかった。家でも義理程度の相槌しかくれない夏準相手に新しく見つけたヒップホップクルーの話なんかをしている。
 相手が夏準ならもう少しぐらい聞き流してくれるところだったが、ライブハウスエリアを抜けてショッピングエリアに出たところで珂波汰の苛立ちの限界が来た。
 くるりと振り返ってアレンのジャケットの胸倉を掴み上げる。
「てめぇ、さっきからうっせぇんだよ!」
「あー!那由汰と珂波汰じゃん!」
 珂波汰の怒鳴り声に被って明るい声に呼び止められ、三人は一斉に振り返った。
 悪漢奴等の玲央だった。それから長身の北斎もいる。
「あれ、SUZAKUもいる。一緒に残ってたの?」
「一緒じゃねぇ!」
「一緒じゃん」
「コイツが勝手に俺らの部屋の前でぶっ倒れてたんだよ」
「あー、トラップ反応か」
 頷く玲央だって、その後ろで心配そうに顔を曇らせる北斎だって、今日のステージでライブをやった。時間からして二人もトラップ反応明けだろう。心なしかちょっと疲れが滲んでいるようにも見える。
「大変だよねぇ。ウチはこの上の階の部屋を予約してて泊りにしたんだー。家でトラップ反応待ちすると、さっさ帰らなきゃだし。ついでに美味しいもの食べて帰りたいし?」
「あー……その手があったか。俺らも今度からそうすっか、那由汰」
「楽屋だとソファしかないもんな。ベッドある方が助かる」
 玲央のお喋りには素直に返事をするらしい。アレンがぽかんとした顔で話を聞いていると、不意にアレンに目を向けた玲央が眉を上げて首を傾げた。
「あれ?SUZAKU、メタルつけてないの?」
 玲央が自分の胸元を指さすのを真似するようにアレンも自分のパーカーの胸元に手をやってみる。そこにあるはずの硬い感触がなかった。
「あれ?」
 咄嗟にその場にいた四人を見回した。途端に珂波汰が声を荒げる。
「オイ、今回は俺じゃねぇからな?」
 今回は。つまり、過去にやったことはある。アレンが過去にファントメタルを失くした事件の犯人が珂波汰だった。疑われても仕方ない立場だ。それを珂波汰自身が一番分かっている。
 でも、珂波汰が次の句を口にするより早く、アレンが声を挙げた。
「当たり前だ! 珂波汰がやるわけない。……多分、今度こそ俺が倒れた時に落っことしたのかも…」
 床を見つめてぽつりとつぶやくと、くるりと踵を返した。スニーカーで床を蹴って楽屋に走り出そうとした、その肩を北斎が掴んで止める。
「待って。落とし物なら、管理人室に届いてるかも」
 珂波汰とアレンを見比べていた玲央も「そうそう」と頷いてスマホを取り出した。
「とりあえず管理人室と運営と、あとアン達は?」
「……先に、トラップ反応が来る前に帰った。俺が曲のアイデアをメモするのに夢中だったから」
「え、それって何時間前の話してるの?」
 アンの面倒見の良さは時々遊んでいる玲央も承知している。あのアンに置いて行かれるなんて。
「まあいいや。じゃあ心配してるだろうから電話かけとこ。SUZAKUは北斎と管理室に電話ね。北斎が番号知ってるから」
 てきぱきと分担して、それからすぐにアンに電話をかけてくれた。北斎はゆっくりした手つきでスマホの電話帳からCLUB PARADOXを探し出して発信ボタンを押す。
「繋がったら変わるから、メタルの特徴、伝えて?」
「ああ、頼む」
 管理室の電話に繋がるより先に玲央の方が繋がり、アンと話し始めた。
「アン?こんな時間にごめんね。今SUZAKUと一緒なんだけど」
 遅れて北斎も電話口に向かってしゃべり始めた。
「……あ、もしもし。翠石組の柾木です。……そうです。お疲れ様です。落とし物の確認をしてもらいたいんですが……」
「そう、まだ会場。それでSUZAKUがメタル失くしちゃったみたいでさぁ……」
 北斎と電話を交代するのを待ちながら、玲央の方に聞き耳を立ててはハラハラする。体が怒られ待ちになっている。
「はい、落とし物の特徴教えて、だって」
 北斎から差し出されたスマホを受け取ろうとした、その時だ。
 玲央がパッと振り返って手を振った。
「────アンが持って帰ったって!」
 目を丸くするアレンの横で北斎が再び自分の耳にスマホを当てて、管理人に落とし物が解決したと伝えて通話を切る。
「……っていうか、SUZAKUにメタルのことメッセージ送ってあるって言ってるけど」
「え、あ、あー! すまん、ちゃんと見てなかった……」
「SUZAKUメッセージ見てなかったって」
 玲央が耳から離して向けてきたスマホからアンの怒声が聞こえる。
 慌ててメッセージアプリを開くと、確かにアンから説明が届いていた。数時間前、二人が帰宅した時刻のメッセージだ。
「ごめん。みんな心配かけて悪かった……」
 トラップ反応明けの疲れている時に心配をかけてしまった。珂波汰なんて特に不安にさせてしまったし。
 項垂れるアレンの頭に、そっと手が乗せられる。
「大丈夫。メタル、見つかってよかった」
 大きな手が優しく頭を撫でた。北斎の向こうでは玲央がアンにフォローを入れて、親指と人差し指で丸を作っている。恐らくフォローがあっても家は針の筵だろうが、その優しさが身に染みる。
 そして、珂波汰と那由汰だ。
「珂波汰たちも、さっき助けてもらったばっかりなのに、すまん……」
 深々と頭を下げると、しゃがみ込んでいた珂波汰と目が合った。勢いよく顔を逸らされる。
「ハァ? 心配なんかするわけねぇだろ」
「いや、でも……」
「しつけぇな。もう帰るからついてくんなよな」
 那由汰を連れて出口に向かう珂波汰に北斎が眉尻を下げる。
「帰り道、一緒だよ」
 この施設は再開発で拡張されたものの、徒歩客の入退場は昔から存在する海に架かる桟橋だ。橋を渡ったところに、バスや、待機タクシーの乗り場がある。今回のライブへも、みんな桟橋を渡って来た。
「俺もこれから帰るんだが……」
 戸惑いがちのアレンかけた追い打ちで那由汰が小さく噴き出した。
「那由汰!」
「だってウケるじゃん」
「ウケねぇよ。さっさと行くぞ!」
「はいはい。じゃーな」
 頑なに振り向かず、足早に出口に向かう珂波汰の代わりに那由汰が振り返ってアレンに目を合わせ、それからすぐに珂波汰を追って去っていった。
 二人の背中が見えなくなって、代わりに悪漢奴等の仲間たちがエレベーターの方からやってくる。それに手を振る玲央にアレンが尋ねた。
「なあ、ついてくるなって言われたけど、そろそろ俺も出発していいか?」
 時計を見て「まだ早いか?」と首を傾げる。遊園地のお化け屋敷の入口みたいに、律義に。
 玲央は腹を抱えて笑い出した。

 ライブ後の会場周辺は様々なものが落ちている。キーホルダーやアクセサリーの一部。飲み物や軽食のゴミ。シケモク。
 帰路の途中。道の脇の植え込みのあたりで何かが光を反射して瞬いた。
 地面に落っこちているものを見つけるのは得意だ。特に、小さくてキラキラしたもの。金で物を買うことを覚えてから音楽で生計を立てられるようになるまで道の小銭を拾って腹の足しにしていたからだ。ラップで稼いだ賞金で食えるようになってからも長年のクセは一朝一夕には抜けず、ぼんやり歩いているときはなんとなく地面を見ている。
 しゃがみ込んで拾ってみると、それは高そうな宝石のはまった指輪だった。売ればまあまあの金になるだろう。
「指輪?」
「ああ」
「ライブの客のかな」
「かもな」
 指で土を払う。
 会場からは離れているが最寄り駅までのルート上だった。
「会場戻るのだるいな。駅前の交番にでも投げとくか」
「こっち側あったっけ?」
「知らねえ」
「ま、いいか。駅の向こう側牛丼屋あるんだよな」
「腹減ったな」
 ピカピカの指輪は普通の金属でできている。ファントメタルじゃない。触ると、なんとなくわかる。
 ポケットに入れて、会話が途切れた。
 六歳ぐらいの頃。やっぱり道端で指輪を拾った。いや、ネックレスのトップだったかもしれない。とにかく価値のあるものだ。
 小銭を探していてたまたま拾っただけだった。金じゃなくてがっかりしたけど那由汰の瞳と同じ色の石がついていてキレイだったからポケットに入れた。そうしたら、その様子を見ていた見知らぬ大人が走ってきて強く腕を掴み、殴られた。
 激高した大人に「スラムのコソ泥」とか「親の顔が見てみたい」と罵られ、言い訳しようと言葉を発しても耳にも入らないみたいだった。当時は、落とし物は交番に届けるのが良識だと言うこと。貴金属を上手に換金する手段。そのどちらも知らなかった。ただ拾っただけ。
 一番古い記憶がそれだ。それ以降、人に疑われた経験は数えるのも馬鹿らしいほどたくさんある。実際、疑いが真実だったことも多い。こっちの言い分も聞く気がない連中に疑われてもどうでもいい。こちらだって他の連中を信じていない。
 逆に、誰かに信じてもらった経験は、たった一人の兄弟を除けばなにもなかった。
 どんなにいい人間になろうとしたって、過去の悪事を知る人間が信じてくれるわけがない。過去の罪もラップは糧になるからこの道を選んだ。
 ライブで幻影に巻かれて喜んでいた連中だって、珂波汰が何かの犯罪で捕まったとニュースになれば「やっぱりな」と言うに違いなかった。
 二人で歩いた道には人はもうほとんどいなかったけれど、駅までくると急に人が増える。ライブ後に徹夜した客や、早朝の仕事のために駅を利用するスーツ姿の人間。
 時折向けられる視線を無視して駅向こうの交番を覗き、若い駐在員に「クラブからの帰り道で拾った」とだけ告げて指輪をカウンターに置いた。まともに会話すると書類作成だの身分証提示だのとうるさいからすぐに交番を出た。
 牛丼屋の看板を見つけて真っ直ぐ歩く。
 カウンター席で牛丼に温玉を乗せて掻き込み、半分ほど食べて腹が落ち着いた那由汰が言った。
「良いことしたあとの飯はうめぇな」
「ばーか」
 一度や二度の善行の何万倍も人に非難されるようなことをやってきたのに、これぐらいで今更飯が美味くなったりするわけがない。
 でもライブ明けのすきっ腹に詰め込む牛丼は美味くて、腹の底から温かくなった。