ガキの頃は苦労が多かった。あの頃に比べりゃ力と金のある今はずいぶんと楽なもんだ。
養ってくれる親はいなくて、養うべき妹はいた。戦後で孤児自体は大勢いたが、うちは事情が違った。
暴力親父のせいでガキの頃から散々で、そんな姿を見て育っちまったせいか、自分で稼ぐようになって我が身を振り返れば拳と顔で飯を食っている。
そんなヤクザ者に山田二郎は眩しすぎた。
少女漫画のクライマックスみたいな夕暮れに、消えかけの強い光を瞳に反射して燃えるような目でこっちを見ていた。ガキは踵を返して温かい家族の待つ家に帰る時間だ。そのまま振り返らず進んでしまえばあっという間に夜になる。
『す、好きなんだ、アンタのことが』
昔、妹の趣味で見た青春映画のワンシーンみたいだった。ヤツはスクリーンの中。俺は客席で足を組んで見ている。まさか自分が同じフィルムの中の人物とは思えない。俺には酒や煙草や金のにおいがしない「好き」を言われた経験がなくて、利益どころか立場上不都合しかない相手に駆け引きなしで告白なんかしてくる二郎のことが理解できなかった。
黙る俺にキャップのつばを引っ張って顔を隠して「気持ち悪いよな」と口を引き結ぶ。「勝手に決めつけんな」と返したのは言葉通りの意味しかなくて、受け入れるつもりはなかったが、パッと顔を上げた二郎の目元が陽の代わりに街を照らすその辺のネオンと一緒に瞬いて星みたいだった。
『ならいいんだ。言いたかっただけだし』
空に向かって伸びをして大股で追いついてくると、そのまま追い越して腹が減ったと騒ぐ。近くのラーメン屋で千円分も食えば満足するからといって安易に奢るのがいけなかったのか。今更こうなった理由を探しても仕方ない。
何度も連れて行った店で千円ちょっとの飯を食わせて、いつも通り勝手に喋るどうでもいい話を聞き流し、勝手に「じゃあまた」と言うのを見送った。
あの夕方の数分のことはやっぱり映画と混同した夢か何かだったんじゃないかと思う。
成人した二郎と会ったのは誕生日から数日後。
成人祝いにいい酒を飲ませてくれと言うんでシャンパンを用意した。二十歳になっただけのガキに味の良し悪しはわからないだろうが、良いものは酔い方も違うもんだ。
リビングのローテーブルに簡単なつまみを作って並べてやる。酒に比べたら全く金のかかっていない料理の方が「店で出るメシじゃん!」と大喜びだった。夕飯は外食にしたから大したものはない。手製のつまみでこんなにはしゃぐなら来年は最初から家でもいい。自分のための自炊はしないが、妹と暮らしていた頃、妹のために料理をするのは好きだった。
飲ませすぎないよう加減してグラスに注いでやる。自分でやらせたらコンビニで一本一五〇円のジュースみたいに並々注ぎやがる。繊細なシャンパングラスを扱わせるのも不安で途中からグラスを替えた。
ヤクザと懇意にしているくせに真面目な兄貴の言いつけを守って未成年飲酒はせず、最近飲酒解禁になった。酒量もわからないんで用心してやっていたが、夕飯で腹が膨れていたお陰か。ほどほどのところでほんのり赤くなった頬でフッと息を吐いてグラスを手放すとソファのクッションに背中を埋めて満足そうに体の力を抜いた。
酒の味の残る唇を濡れた舌がひと舐めして静かになる。
夕方に合流した時にはきちんとセットされていた黒髪が緩んで乱れた額の髪を指でかき分け、指の背で額を掠めると、肩を竦めて振り返った。これしきのことで眠気も吹き飛んだって表情だ。
ああ、でも、殴り合いの喧嘩以外で触ることはほとんどなかった。気持ち悪いと思うわけじゃないが、女と付き合うのと男相手じゃやっぱり違う気がして付き合い方がよくわからなかったからだ。歩く時にも肩を抱くわけにもいかないし、二人きりで近くにいても二郎の方から体を寄せてきたりしない。何かのきっかけで口論になって二郎が殴りかかって来た時はホッとしたぐらいだ。好きだと言ってもコイツは殴ってくるし、こっちもやり返していい。個人的に親しくなってから幾度となく喧嘩している。喧嘩と飯で分かり合ってきたようなもんだ。
だから繊細な触れ合いは、もしかしたら初めてだった。
細く整えられた眉が困ったように尻下がりになる。
一度だけ好きだと言われてから、重ねて告白のような言葉を言われることはなかった。何もなく時間が経ったんで心変わりしていてもおかしくなかったけれど、この様子じゃ杞憂だった。
邪魔な長い前髪を梳いて耳に掛けむき出しになった額に額を押し付ける。女にやる手癖とは違うやり方で、硬く閉じられたまぶたと鼻、唇。順に口づけた。キスする唇が真一文字に結ばれてガチガチなのも、舌先で催促しても口を開かれないのも初めてだ。どうも悪いことをしている気になる。
口も割らせられなきゃどうにもならない。強張った体を抱き込んで耳殻を親指の腹で撫でた。耳が熱い。
「ん、ひっ」
色気の足らない声が可笑しくて吐息が弾んだ。開いた隙を逃さず口の中に舌を割り込ませる。奥の方で縮こまった舌はちっとも馴れていなくて、誰の手垢もついていない。
逃げ腰の頭をじわじわ追い詰めてキスでソファのひじ掛けに縫い付け、胸を押し返す格好で半端に当てられた手を無視して、無駄な肉のない腹を手のひらで胸元まで撫でると緊張が肌から伝わって来た。ひとつの場所で手を止めるとすぐに二枚の薄い皮膚の間が汗ばんでくる。体温が高い。
背中、背骨。普段の運動量に反して薄っぺらい。筋トレで身に着いたんじゃなく、萬屋の仕事やその辺で売られた喧嘩の片づけで人並み以上に動いた結果として、無駄のない筋肉がついている。運動神経が良くて体幹も強いが、鍛えようとして鍛えている人間と比べると軽い。
体を重ねて体重をかけると、胸を押していた手が観念したかのように退く。
密着した体を軽く揺すってまだゆるく火がついたばかりの下半身を押し付け、背中にやっていた手で尻をわし掴んだ。
二郎の手が背中に回り、シャツの布地をギュッと握りしめ、
「どぅらァッ……!」
シャツを力いっぱい引く力に合わせて体を捻り、ソファから叩き落された。背中を床に打ち付けたのに続いて勢い余った二郎の体が上から落ちてくる。
「ぐッ、ゲホッ……はぁ、急に何しやがンだ!」
押しつぶされた肺に空気を吸い込んで咳込み、天井の室内灯の光を背負って見下ろす二郎を睨みつける。
「何って、何って……こっちのセリフだ!」
顔を真っ赤にして、突っ張った腕なんか震えている。見える肌のどこもかしこも赤い。
「アンタ、お、俺のことなんか好きじゃないのに、急に、なんなんだよ、これ!」
乱暴に頭を掻きむしって苦しそうに胸を押さえて、真下を向いた瞳は表面張力の限界まで潤んでいる。
「急じゃねぇだろ。誕生日に美味い酒強請って、ひとりで部屋まで来ておいて何言ってやがんだ」
「え? いや、え、でも、え?」
戸惑うのは頭の悪さに自覚的だからだ。こっちが自信もって言い張ると、自分の主張が間違いなのか不安になる。酒も入ってりゃ余計に考えもまとまらないんだろう。
「だって、アンタが好きなのは女じゃん?」
「うっせぇな」
「今まで何にもしなかったし」
「つい最近まで酒も飲めねぇガキだっただろうが」
「でも、お、俺なんも言われてない、なんも、わかんねぇに決まってンじゃん……」
怒った顔で見下ろしていた二郎が一言ごとに小さくなる。背中を丸めて胸の上に蹲って。呼気が染みた胸がじんわり温かくなった。不規則に引き攣るような動きをする背中に手を回す。服の上からだ。
「……あー、悪かったな。悪かった。……泣いてんのかよ」
片手で顔を覆ってヒクついている肩を押す。
深く眉間にしわを刻み込んだ二郎が、喉の隙間から漏れるような声で呻いた。
「ウッ……吐く…………」
馴れない酒からの物理的大回転。そりゃあそうなる。
特別なその夜、初めて素っ裸を余すところなく見たが股間は反応しなかった。手早く二人分の体のゲロを洗い流して着替えさせ、寝かすのが急務でそれどころではなかった。
誕生日祝いのすべてを片付けてベッドに戻ると今夜の主役は成人早々にやらかして布団をかぶって唸っている。
酔っ払って大人しくなったところを見ると一丁前に艶っぽく見えたりしたような気もしたが、誕生日っていう暦に引かれた線を過ぎたところで急に大人になるわけじゃなかった。当たり前だ。
こんな間抜けなガキでも横から誰かに奪われることもあるだろう。お互いを取り巻く状況が変わって気軽に会えなくなる可能性も。心変わりの可能性も大いにある。のんびり気長に構えていられない理由はいくらでもある。何より俺が自分で思っていたよりもその気になってしまっていた。
暮れかけの景色の中でもキラキラ輝いていた「好き」と同じとは思わない。アラサーヤクザにあんな青春ができるか。
だけど。ベッドまで水を持ってきたら布団の端から生えた手が小指に絡んできて布団の中に引きずり込もうとする。
「今日はもうさすがにヤんねぇぞ」
「あ、当たり前だろ!」
布団の下で意外と元気な返事があった。
ベッドの場所を空けるよう押しやって隣に潜り込み、胸に頭を引き寄せる。
「また今度な」
頭が動いて胸に額が擦りつけられた。
*****
「今夜はパスだ」と言って大自然ディナーをひらりと躱し夜の通りに消えていったヤクザ男を見送った数時間後、奴が宿敵の弟とホテルに入ってくのを目撃し、あまつさえ不意に振り返った奴と目が合ってしまったお陰で次に会った時にはお互い目が泳いでしまったが、こういうのは繊細に扱おうとするからいけないのだと考え「あの夜はどうだったんだ」とわざと下世話に聞いてみたところ、鬱陶しそうにするかニヤニヤ笑って見せるかという予想を裏切り、男は苦虫を?み潰したような顔をして「次がある」と呻いたのだった。
2022年アンソロジー寄稿