このマンションの鍵を他人に与えたのは初めてだった。
ひとり暮らしでは持て余す無駄な個室の一つに母親の仏壇がある。今は傍にいない妹の写真も飾ってある。
自分の腹の奥底に抱えた傷に密接に関係するものを全て閉じ込めた、ひどくプライベートな空間に自由に出入りさせていいと思える人間が現れるとも思っちゃいなかった。
土曜の夜に帰宅すると玄関にくたくたに履きつぶしたスニーカーがあって、リビングドアにはまったすりガラスから光が漏れている。
ひとの家のソファにだらしなく座って大画面で持ち込んだテレビゲームをやっている、山田二郎。ちょうどゲームで敗北して不本意ながら手が空き、寝間着にしているTシャツ姿で体を伸ばしたついでに「おかえり」と手を振る。
手料理を作って待っている献身も、指の間からこぼれるようなグラマラスな美女でもない。
すぐにゲームを再開して、風呂を済ませた俺が横に座ると「やる?」とコントローラーを差し出して子供同士のような見当違いの気遣いをしてみせたりする。
それでも、二郎がどんな存在かと言えば────
ベッドルームの照明を絞って布団に遊びに来た二郎を迎えると、笑いながら足を絡めてきた。遅くまでゲームで粘っていたせいで投げ出していた足先がちょっと冷えている。
「ゲームは二時間までにしとけや」
自宅でやっているのは構わないが、うちに来て何時間もひとりでテレビを占領してやっているのは問題がある。テレビで見たい番組なんかないが。
「母ちゃんみてぇなこと言うじゃん」
ふたりともそんな風に叱る母親とはとっくの昔に死別しているのに可笑しくて、薄暗い部屋に遠慮するみたいにして笑った。
いつもアホ面で同じようなアホ面の兄弟や同年代の仲間とつるんでいる二郎だが、二人きりで気の抜けた笑い方をすると、手のひらで包み込んで丸めて口に入れて飲み込んで、誰の目にも触れないところに閉じ込めたくなることがある。
感情の調節弁が壊れたみたいにへらへら笑いっぱなしの頬をつまんだ。緊張で落ち着かないのがバレバレだ。無理に引き締めようとして噛んだ唇を舌で何往復もする。根負けして開いた口にかぶりついて親兄弟じゃやらないようなことをする。
いつもそこまでだ。イラつく話だが、二郎との仲について、二郎のブラコン兄貴に言われた「お前の妹にテメェみたいな男が近づいたらどう思う」というド正論が響いていた。その頃の二郎は妹が自分の元を去った時と同じ年齢だった。
それで成人するまではいつでも後戻りできるよう、常に一定の距離を保ってきた。部屋に上げることはあったが鍵をやったのは最近のことだ。食事ぐらいは奢るが、恩を感じさせるような額は使わない。キスぐらいは教えてもその先はしない。
高校生でも周りは年上の恋人持ちは珍しくないだろうし、親の目を盗んでやることやってるガキだっていくらでもいる。奥手の二郎だって一丁前に興味ぐらいあっただろうに、子供過ぎて強請り方も知らなかった。
ずっとお預けにしてきた服の下に手を差し込んで、ぎゅっと強くつむった震えるまぶたに唇を寄せる。成人したといっても急に中身が変わるわけじゃない。だけど。合鍵、深くなるキス、泊り、ベッド。いつでも正気に戻って帰るチャンスはあった。それでも羞恥に耐えながら同じベッドに留まっているのは、今まで積み上げてきた沢山の選択の末にこうなることを望み続けたってことだろう?
筋肉質な太ももを掴んで開かせ、両膝の間に腰を入れて閉じられないようにする。まだ大したことをしていないのに肌が熱くてシャツを脱いだ。逸っているのはどっちだ。二郎の初心を笑えない。
足の間で体を深く折って顔を寄せると自然と腰を押し付けるような恰好になって動揺した二郎が弱く裸の両肩を手で押した。そんなもの抵抗にもならない。
二郎のシャツも胸の近くまでめくれあがっていた。女みたいに柔らかい乳房があるわけでもないのに暴いてはいけないような背徳感に駆られるのが不思議だ。男同士の胸なんか腕とか足と変わらない。隠すようなものでもないのに。
妙な躊躇いを振り切って伸びきったシャツのペラペラの裾を掴んだ時。
ピピルピピピルピピッピッ────。
間の抜けたメロディが部屋の緊張感を貫いた。キャッチーだがダサい。家の中でそんな音楽を垂れ流すのは、二郎のスマホだけだ。
「あ────ッ!!」
メロディが?き消されるほどの大声で叫んだ二郎が体の下で急に起き上がって頭が鼻にクリーンヒットした。
「痛ッ、ゴメン!」
打った頭を適当にさすりながら、頭よりよほどダメージを負わされた被害者に適当に謝りながら、これから服を脱がそうとしていた男の下から這い出た二郎はベッドサイドで間抜けに歌うスマホを掴み、転げんばかりの急ぎ足で寝室を飛び出してリビングのテレビ前に駆け付け、ゲームに使っていたテレビのチャンネルボタンを押して目的のチャンネルを映すと間髪入れずに始まったアニメのオープニングに合わせてコール&レスポンスを始めた。
深夜アニメに負けた。そう理解した俺は床でゆっくり冷えつつあったシャツを拾って着た。
毎週土曜の夜に泊まりに来る恋人は土曜の深夜アニメを見てSNSに感想を書き込み、同じような感想をチェックし、アニメオタクの先人であるクソ兄貴にも感想を送り、クソアニメオタクルーチンが終わるとすっかりやる気が殺がれた俺の横に戻ってきて横になって一分で寝る。
うちのテレビは録画もできるがリアルタイムで見ることを譲らない。最速放送を見逃すと言うのはネタバレと隣り合わせであり、SNSに書き込むことで作品名やキャラクターの名前をホットワードに押し上げることが作品や作者への支援になるとかなんとか。普段は金融のしくみの一つも説明できないスカスカの脳みそを滑らかに働かせて説明された。一緒に深夜アニメを見た後の感想チェックタイムに。
こだわる気持ちはさっぱり分からないが、他のことに気が逸れているときに無理やり抱くのも、アニメに間に合うよう急いでやるのも御免だ。だから金曜日に来るように言った。
「先週から四週連続ハヤオアニメなんだよなぁ。毎回実況盛り上がるから見逃せねぇんだよなー!」
夜がダメなら朝。
「今年のプリイエローはマジで最高に可愛いから! マジで!」
今は数ヶ月前に購入したデカいテレビの処分について真剣に検討している。
2022年アンソロ原稿