『あら、棗だけ?』
出かける支度を整えた母がリビングに顔を出したので、テレビを切った。
今日は三つ子の兄弟と母の四人で出かける予定だったが、リビングにいたのは俺だけだった。
『梓はトイレ』
『椿は?』
『ずっと見てない』
『困ったわね。キッチンにもいなかったし待ちきれなくて外にでも遊びに行っちゃったのかしら』
その頃、椿は近所に引っ越してきた老夫婦が飼っている大型犬がお気に入りで、気がつくと老夫婦の庭まで遊びに出てしまっていることがよくあった。
母の予想の答えを知らない俺が黙っていると、ちょうど梓がトイレから戻ってきて母の袖を引いた。
『外じゃないよ、椿。ちゃんと家の中にいるよ』
俺は静かに驚いていた。何しろ、今朝それぞれの部屋を出てから梓とはずっと一緒だったのだ。一緒に朝食を食べて、それぞれの部屋に戻って出かける支度を整え、すぐに出てきてリビングで暇つぶしにテレビを見始めた。たくさんの兄弟がかわるがわる顔を出したが、椿の姿は見ていない。
『梓、椿がどこにいるか知ってるなら呼んできてちょうだい』
すると梓は首を横に振る。
『知らない。外じゃない、と思うけど……』
少しうつむいた後でパッと顔を上げて入り口を振り返った。ドタバタ音がして勢い良く扉が開く。
『あ!良かった、もう置いてかれたかと思った!』
椿だった。俺は何もわからなかった。椿が家にいることも、リビングに来ることも。
椿と梓と俺は三つ子だった。椿と梓は一卵性。二人と俺は二卵性。
二人が俺にわざわざ秘密を作ることは滅多になかったけれど、二人だけがわかっていて、俺がわからないことはたくさんあった。
双子の超能力。
学校の友達がオカルトだとバカにしていたソレを俺は信じていた。物心ついた頃から一卵性の二人のテレパシーじみた言動を見てきたからだ。テレビのバラエティでやるような、見えない所で同じ絵を書いたり、同じカードを選んだりするような如何にもな能力じゃない。当たり前にお互いの考えや行動を言い当てる。いつも一緒にいるから当たり前というレベルではないのは、同じように一緒に行動している俺と比べたら一目瞭然だった。
その、双子のテレパシーが失われた瞬間を俺だけが知っている。
学校から帰宅したリビングで菓子の入った袋を提げた椿に捕まった。ニヤニヤしているから面倒臭かったが、有無をいわさず部屋に連行された。部屋といっても散らかっている椿の部屋じゃない。隣の梓の部屋だ。
施錠されていない玄関を開けて入ると、部屋の主もちゃんといて少しホッとした。いざとなったら梓に椿を押し付けて退散すればいい。
なるべく入り口の近くに座ると、梓を挟んだ向こうに椿が陣取って菓子を広げた。雑に広げた袋から中身が散らからないよう梓が整える。
「棗にも聞いて欲しくてさあ」
ニヤニヤとニコニコの間。いや、圧倒的にニヤニヤかもしれない。椿がココア色のブレザーのポケットから取り出した携帯を操り、携帯で撮影したらしい写真を表示させてズイッとつきだした。椿と梓の制服と同じココア色のブレザーを着た女の子が椿と写っている。
「カノジョ」
聞いて欲しいなんて言うからもっと長い話かと思った。自慢ならこれで果たしただろう。
「良かったな」
役目を終えて立とうとしたところを身を乗り出して引き止められる。
「ちょっと、話は終わってないって」
「自慢ならもう聞いたろ」
「それだけじゃなくってさ」
助け舟を期待してちらりと見た梓はそっぽを向いている。舌打ちしたくなった。
絶対に面倒臭がっているのが顔に出ていたはずだが、椿はお構いなしに俺を引っ張って顔を寄せると、部屋には三人しかいないのに声を潜めた。
「棗、まだ童貞?」
今度こそ本当に舌打ちした。
「椿……」
「いや、違うんだって!俺もまだだよ?まだだから一応確認しておきたいっていうか?」
「確認って何をだよ」
「経験あったら、こう、参考にしたいじゃん?」
顔面を手のひらで押しやって引き剥がし、
「そういう話なら兄貴達に訊けよ」
もう一度梓の様子を確かめて部屋を出た。椿が馬鹿をやっている時によく見る呆れ顔や冷ややかな眼差しはそこにはなくて、何を考えているのか、不満気な声を上げる椿の向こうでじっとこちらを見つめていた。
愛想のいい椿は男女問わず友達が多い。椿と梓とは別の高校に通っているが、たまたま学校の友達数名と歩いていた椿に遭遇したとき、同じグループの一人の女が椿を意識しているのはすぐにわかった。見せられた写真と同じ女だったかは覚えていないが、そのうちこういうこともあるだろうと思っていた。
人並みに思春期を迎えている身としてはさっぱり気にならないわけではないが、驚くことでもなければ羨ましがって地団駄を踏む程でもない。人並み外れて人数の多い兄の内の一人がホストまがいの女ったらしだが、安売り同然にばら撒かれた愛に釣られる女たちはつまらないものに見えたし、椿はどちらかというとノリの軽いこの兄に近かった。本人が嬉しそうなので祝福してやるが、羨むことはないだろう。
カノジョができてから、それまでいつも一緒だった梓が一人で帰宅することが少しだけ増えた。
あの日もそういう日だった。自宅マンションのエレベーターで一人きりの梓と会って、部屋に誘われたからそのまま上がり込んだ。梓も素直というわけではないが、ニヤついた椿に誘われるよりずっといい。椿と別行動が増えて退屈なんだろうと思った。梓も友達が少ないわけじゃないが、梓の友達の大半は元々椿の友達だ。椿抜きでも上手くやれるんだろうが、椿抜きでワイワイやるのが好きなタイプでもない。
今日は先日のように茶菓子が用意されているわけでもなく、ゲームやDVDを見る準備をするわけでもない。人を招いておきながらも梓はだんまりでベッドに座った。キッチンに寄って何か食べてからにしたらよかったかと思いながら梓の表情を伺うと、椿の馬鹿な話に付き合わされたあの時のような、何を思っているのか読み取れない顔でぼんやりしていた。
「梓?」
宙を見つめるメガネの奥を覗き込もうと屈んだ時だ。
「棗は、キスしたことある?」
「……今度はお前かよ」
椿に比べたらかわいい質問だが。そんな俺の返事なんか元から聞くつもりがなかったのかもしれない。梓は会話になっていないような平坦さで続けた。
「俺はあるよ。相手は椿だ」
「オチはそんなトコだろうな」
「違う」
鋭い声が俺を制す。
「椿がふざけてやるのと違うよ。椿がこの部屋で寝ちゃった時に、俺がした。ほっぺたとかじゃない。ちゃんと、唇に」
ようやく梓がふざけてるんじゃないと理解した。スキンシップ過剰な一卵性の間でキスなんて大した意味は無いと思っていたが。
やっと梓がこちらを向く。言葉より雄弁な眼差しに捕まってしまう。
「…………椿が女と付き合うの嫌だったなら、そう言ってやれば良かっただろ」
無理だとわかっていて言った。案の定梓は首を振る。
「弟がそんな風に口を挟めるわけないだろ」
お前らならそういうのもアリなんじゃないか。椿は梓に言われたら考え直しそうな気もする。でも口にだすのはやめた。そんな言葉を欲しがってるわけじゃないだろう。
「棗、椿には言わないで欲しい」
「言わねえよ」
即答すると、少し顔を上げて腕を引かれた。促されるまま梓の横に腰を下ろす。いつもなら椿の指定席だ。
「絶対だよ」
「言わねえって」
それで納得したのか、無表情に近かった顔を緩めた。
「珍しいな。椿には内緒で、俺と棗だけの秘密」
大して表情の変わらない梓が楽しそうに見えて、頭の奥が揺れた気がした。
無自覚に長く見つめていたらしい。気がついたら梓の顔が迫ってた。
「梓、」
呼びかけを無視して俺の頬に指先が添えられる。あまりにも簡単に唇が触れ合った。薄いと思っていた唇が思いの外柔らかくて焦る。驚く俺に対し、梓は軽く口を開いて食むように動かし、薄い皮膚をくすぐって離れた。細かな波紋のようなざわめきが首筋に、背中をひっそり震わせて腰に蓄積される。
「…………棗ならすぐに怒るかと思った」
「あ?」
「椿と違って、こういう悪ふざけは嫌いだろ?」
至近距離のまま返答に窮していると、梓がそっとまぶたを閉じた。試すように、誘われている。何で俺が“する”と思うんだ。自分で「悪ふざけは嫌いだろ」と言ったくせに。でも、薄く開かれた唇を眺め下ろしていたら唐突に頭をよぎった。
『椿には内緒で、俺と棗だけの秘密』
何気ない一言がおかしいぐらいに気持ちを揺さぶる。梓の肩に手をかけて口を寄せた。
俺たちは兄弟だから、顔の作りも似ている。椿と梓はもっと似ていて、それを思うと抵抗がないわけではない。でも、三人とも性格の差が顔に出て、確かにみんな別の人間だった。
梓のことを、梓が椿を想うような意味で好きだったことはない。でも、例えば、風呂あがりの赤い首筋。濡れたまつげ。控えめに笑う顔や、勉強を教えるためにノートの文字列を辿る繊細な指先。そういうものに色気を感じることは一度や二度ではなかった。だからといって、それは梓だからじゃない。いやらしく感じられるものへの興味は年頃の都合、仕方がない。色っぽいと想うアンテナは広く、沸点は非常に低い。
重なった唇の隙間から舌が絡むと勢いがついて、呼吸が乱れるほど梓の口腔を荒らした。苦しそうに溢れる吐息が興奮を煽る。格好つけようもない薄っぺらな理性を打ち砕かれてベッドに押し倒してやっと二人の間に距離が戻った。見上げてくる梓は密着しながら思い浮かべていたより乱れてはいなかったけれど、唾液で濡れた唇と細められた双眸は充分に扇情的だった。
このまま雰囲気に飲まれちゃいけない。やっとそう考える余裕が戻って、梓の頭の両脇に腕を突っ張ったまま頭を振った。
裏腹に、されるがままになっていた梓が指の腹で俺のうなじを撫でる。
「棗、俺は、棗のことは本当に大事な弟だと思ってるんだよ」
言葉と行動が噛み合っていないが、それを突っ込むだけの余裕がなかった。
「わかってる……俺もそうだよ」
お互いわかっていると思うから踏みとどまろうとしているんだ、俺は。
はっきり言わなかったが、梓は最初から俺なんか相手にしていないんだろう。イヤになるほど正面から顔を覗きこまれている。俺たちは兄弟だから、俺と椿だって似ている。
「棗、もう一つだけ二人の秘密を作ろうか」
梓は賢い。俺が自覚していないことだって見抜いている。的確に言葉を選んで、メガネを外した。裸眼になった顔に椿の陰がよぎる。頭がぐらぐらした。
首に回された腕に引き寄せられて白い首筋に顔を埋めた。
同じ親から、同じ時に産まれて、毎日同じ飯を食べて育ったのにこうも違うものか。特別体を鍛えているわけではない梓の体は俺のものとは違って華奢に感じた。身長は同じだったはずだが、体重は梓のほうが間違いなく軽い。筋肉の量が違う分細い太ももを掴みあげて無理なぐらいに開かせた。
突然こんなことになって、俺には何の知識も準備もなかったけれど、梓は違った。何かと手間のかかる男同士のやり方をわかっていて、少ない言葉でくだされる指示のままに体を開いていく。
だけど、こなれているとは思えなかった。外側から押し入られることに馴れていない秘部をこじ開けると、整った眉を寄せ唇を震わせた。ハンドクリームを絡ませて摩擦を減らしながらなんとかつながった頃にはお互いに疲れが見えていたし、体を揺すると短い悲鳴を漏らした。苦しそうで罪悪感が波のように背中を打ったけれどやめられなかった。少しずつ馴れてこぼれ落ちる声も甘く溶けていく。
後から思えば、梓にとっては苦痛が勝って気持ちよくなんかなかっただろう。最中の俺が想像していたよりずっと負担だったはずだ。身体の欲求で頭がいっぱいで気にかける余裕がなかった。
身勝手な欲望を梓の薄い腹の上に放って、ようやく梓の目尻に涙の筋が出来ていることに気づいた。謝ろうとした口を力ない手が塞ぐ。
「いい?俺と棗は共犯だから、一人だけ謝って楽になるのはナシだよ?」
一度きりの過ちにはさせない。そう読み取って後悔と期待がいっぺんにきた。暴走しがちな身体はもう梓の味を覚えている。
部屋についているシャワーでひとりずつ体を流して出て、制服を着直すのを躊躇って梓の部屋着を借りた。
ベッドで携帯をいじっている梓の横に腰を下ろすとどっと眠気が襲ってきた。引き寄せられるまま肩を借りる。
「…………今日は椿、まだ帰らないのか」
「……うん、泊まりだって言ってたし」
「そっか……」
柔らかくもない体に密着しているのが心地よくて静かに目を閉じる。だけど、隣室の扉の音で一発で目が覚めた。隣室は椿の部屋だ。瞬間、くっついている梓の体が強張るのも伝わってきた。
今帰ってきたなら椿には何も聞かれていない。ここから下手を踏まなかったらバレたりしない。
冷静に考えて意図的に肩の力を抜いた。そして、ふと気がついて動揺の残滓がチラつく梓の顔を見た。
小さい頃は椿がそばに来るのを敏感に察知していた梓が、大きな音がするまで気づかなかった。
幼い頃の記憶と、友達が馬鹿にした双子の超能力の話が脳裏をよぎる。
双子のテレパシーが、消えた。
それから三ヶ月もしないうちに椿は元通り、梓とべったりで帰ってくるようになった。それとなく話を聞くと、呆れるほどあっさり「なんか違ったんだよなー」と言った。相手の子は運が悪かったと思うが、二人の間に割り込むのは並大抵のことではないのだ。一緒に産まれた俺が断言する。
それでも、梓にとって俺は不要にはならなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
出張を終えて数日ぶりの自宅アパートにたどり着いた。
ネクタイはとっくに緩めてある。少ない泊まり荷物と仕事道具の詰まったカバンを片手に担いで鍵を回すとチェーンが掛かっていて、軽い足音を立てながら梓が解錠に出てきた。
「ごめん、おかえり」
「なんだ、来てたのか。今日まで出張だって伝えてあっただろ?」
「今日帰ってくると思ったから来たんだよ」
言いながら、俺がこの部屋を借りて以来ずっと預けっぱなしだった合鍵をシンクの作業台に置いた。渡して以来、必ずすぐポケットにしまわれていたそれが置きっぱなしにされる様子を見て全て察し、そっと自分のポケットに収める。梓は何も言わなかった。
「それで、今日は泊まってくのか?」
「ううん。すぐ帰る。……それから、もう誰にも内緒で来るのはやめる」
「ああ」
梓と二人だけの秘密を持ってから八年になる。どちらかに情が芽生えて釣り合いが取れなくなるのが先か、お互いにとってこの秘密が必要がなくなるのが先かと思っていたが、後者のようだった。あっさり頷いた俺に梓が眉尻を下げる。
「……結構簡単に納得するんだ」
「ダダこねろってか。今までさんざん振り回してきて、どの口が言うんだ」
部屋に来るのはいつだって梓の都合だった。
「ごめん」
素直に謝るのを咎めようとして、やめた。共犯関係はこれで終わりなのだ。案外あっけなかったな、と思って何もない天井を見上げる。
何度体を繋いでも、苦しい時に限って二人で会っても、恋人などではなかった。誰と交際するのも寝るのも咎めなかったし、どちらかが終わりだといえば終わりで良かった。八年も経てばお互いの事情も変わる。
本当にお茶の一杯も飲まずに入れ違いに玄関へ向かった梓が振り返る。
「もう、棗に秘密は必要なくなったの?」
訊かれて密かに驚いた。未練のように聞こえたからだ。元から梓が内緒で部屋を訪れる時以外はただの兄弟だったが、これからはずっとただの兄弟だ。険悪でなく、時々近況を確認して、困ったときには助け合える。離れたいと願うことがあっても離れようがない兄弟。永遠の別れじゃない。兄からの召集一つですぐに再会することになる。寂しいことはない。
「…………ああ。とっくの昔にな」
それも、一度目のあの日に。梓が椿のことをわからなくなった瞬間に溜飲が下がってしまったと言ったら何と思われるだろう。まさかそんなこととは予想しないだろう梓はキョトンとしていた。
玄関で靴を履き、段差で数センチ低い位置から振り返った。スッと伸びた腕が、繊細な指が出張疲れの滲んだうなじを撫でる。本当に終わりにする気があるのかと尋ねたくなる。この八年に何度も繰り返したように、誘われるまま身を屈めて口づけた。本当に触れるだけの乾いたキスだった。
即物的な付き合いを続けてきたから、キスというのは前戯でしかなく、触れるだけで終えるのは初めてかもしれない。
急に感傷的になって強く抱きしめた。肩口で梓が笑う。
「じゃあね、棗」
「またな、……梓兄」
今日一番おかしそうに笑って梓は扉を閉めた。ポケットに残った自分のキーケースと、返却されたばかりの合鍵を無意味に指でかき回す。
部屋が静かになると、それを待っていたように部屋の奥から飼い猫たちが姿を見せた。