観察者の朝/青道/1615

※沢村1年目、敗退後の話

1:部員A

 その夜はなかなか寝付けず、いつまでもすすり泣く声が耳に張り付いていた。

 純さんが泣くのは珍しくない。
 去年の今頃も三年生の去った部屋で隠れるように泣いていたし、卒業式にも泣いていたし、先月も少女マンガを読みながら鼻を啜っていた。それを同じ三年生の亮介さんにからかわれて鼻声のまま怒鳴り返し、横にいた丹波さんがこっそり吹き出したのを見逃さずにまた怒鳴る。
 今朝の静かな背中を見ながら思い出して鼻の奥がツンときた。
 昨日までは早朝から気合を入れるためと言って大声を出し、寝起きの俺たちをうんざりさせた。
 今朝の起床が少しだけ遅かったのは純さんの声が聞こえなかったからだ。
 俺たちが起きた時、純さんは黙って荷造りをしていた。
 挨拶をすると「遅い」だの「休みでも気合入れろ」だの文句が飛んできたが、じきに言葉を詰まらせた。
 純さんと共に俺たちは言葉を失い、嗚咽ばっかりが部屋に満ちた。

 昼ごろ、それまで静かだった隣の部屋から話す声が聞こえてきた。
 「じゃあ、元気でな」という一言だけ聞き取れた。そして扉が閉まる音。
 それを合図にするように純さんも立ち上がった。
 俯いたまま。表情は見えない。
「じゃあな。俺がいなくなってもシャキッとしろよな。」
 純さんは日が高いので蛍光灯を点けない室内から、陽光で眩しい外へ踏み出した。
 大きくはない戸枠で切り取られた外の世界は広く明るいのに、純さんを溶かしてしまうようで怖かった。

 背中を丸めた純さんは部屋の前で背筋を伸ばし、バッターボックスに入るときのように丁寧に頭を下げた。

2:クリス

 顔を洗いに出た際に丹波に会った。目を充血させて、くまもあった。きっと俺も似たような顔をしていただろう。
 『節水』という張り紙を無視して数秒間水を垂れ流してから手を突っ込んだ。出始めの水はぬるい。
 冷えた水が出るのを待って水を顔に叩きつけてもまだぬるい気がした。
 顔を上げると、丹波は頭から水をかぶっている。涼しそうだ。
「便利な頭だな」
「お前も真似していいぞ」
 タオルで拭いた頭を指してニヤリと笑う。
「遠慮しておく。俺には似合わん。」
 濡れた前髪を掻き上げる。毛先の雫が跳ねた。
 それぞれ蛇口を閉めると何となく言葉が途切れ、自然と話題を探した。
 つまらないことでいい。つまらないことがいい。
 けれど、丹波が先に沈黙を破る。
「クリス、あのな…」
 言いかけて先を躊躇う丹波の表情に懐かしさを感じる。

 丹波光一郎という男はキツめの目元や長身にスキンヘッドという見た目に反して気が小さい。一年生の頃など先輩に声が小さいと言われてはビクついていた。
 同じ学年にも小柄ながらに気の強い小湊がいた。
 小湊と丹波は見た目も内面も正反対で、丹波がうじうじしていると小湊から嫌味がとんでくることもあった。そのたびに真に受け、俺が相談を受けたこともある。投手と捕手という関係もあって俺たちは打ち解けるのが早かった。
 あの頃も、情けないことと思いながら話を始める時、決まって一度言葉を切ってこんな顔をした。

「…すまない」
 そんなことだろう。という予想はあった。しかし、言わせたくはなかったと思う。
 昨日、学校へ帰って一区切りついてから何度も目が合った。そのたびに視線を外した。短い会話の際にも何か言いたげな気配があって、そのたびに話を逸らした。
 謝られる理由がない。
 丹波は俺に謝罪なんて言うべきじゃない。でも、言わずにはいられないのかもしれない。
 俺の高校最後の夏は制服を来て、ベンチで終わった。
 ベンチから見えるマウンドは酷く遠く感じた。
 そんな遠くで戦ってきた丹波に謝られて、俺は何を言える。
「顔、もう一度洗って戻れよ。」
 少し顎を引けば背中を丸めても視点の高い丹波から顔を隠せた。
「あ、ああ…」
 揺れる声。脇をすり抜け、肩を叩いて先にそこを離れた。

 さっき水で冷やした目元がすでに熱い。
 まだ八月が始まったばかりだった。