なんとなく掴んだ手を丁寧に正面から握り直されて握手になった。握手で別れるだけの青春は確かにあったかもしれないが違和感があった。でも、強く握られた手を見ていたら、一緒に体育館で過ごしたたくさんの時間が降ってきて、違和感が違和感でなくなった。
自分より安定感のあるこの手にずっと助けられてきた。この手が拾ったボールを何度も繋いだ。最後には涙が溢れてきた。今日は事あるごとに涙ぐんでしまって駄目だ。
夕日が別れを彩り過ぎた。なかなか止まらない涙を拭うため、自分から手を放した。
折角作ったドリンクが排水口に吸い込まれていく。
青いバンダナの三宅は空になったグラスをさっさと洗浄用のカゴに片付けて深い溜息をついた。
「菅原さぁ、前言ったろ?これはメーカー指定のロゴの入ったジョッキで作るんだって」
「でも、今ジョッキ冷えてるヤツないんでこっちでいいって……」
「冷えてなくてもそういうマニュアルになってんの」
「いや、だから、前に佐々木さんが冷えたグラスの方がお客さん喜ぶからって」
「人のせいにすんじゃねえよ。そういう判断はカンペキに仕事できるようになってからにしろ」
無駄にしたグラスを片付けたっきり、三宅は腰に手を当て説教を始めた。新しいドリンクを作りなおして早く持って行かなければならないから時計が気になって、よそ見をした途端「マジメに話聞け!」と怒鳴られた。
調理場とホール係の接点であるパントリーで立ち往生する二人を置いて他の店員は忙しなく動き回っている。団体客が飲み放題をつけている。ビールサーバーはフル稼働で業務用の洗浄機から返ってくるビールジョッキはグラス用冷蔵庫で冷やされる隙もない。
こんなところで二人も油を売っていたら迷惑だろうな、と思うが、チーフの三宅に注意できる店員はあまりいない。
「すいませんでした」
早く仕事に戻してもらおうと頭を下げても三宅は満足しなかった。
「あとさぁ、さっきもお前……」
人での足りない“今”必要とは思えない説教を三宅が続けようとした時、盆にぎっしり空きグラスを抱えた細山がぬっと現れた。
「三宅さんそれ後にしてもらえます?っていうか菅原くんのトレーナー俺なんで言っときますから」
いかにも重そうな盆で間に割って入り、食器返却代に乗せるとあっという間にグラスを洗浄カゴに収めてしまう。細山はバレー部員を見慣れた俺からすると高身長という程ではないが、しっかり筋肉の着いた肩周りのおかげか体型以上の威圧感がある。加えて、人の回転の早い居酒屋では古株で仕事も一番できた。
テキパキ仕事をしながら話す細山に「でもな……」と食い下がろうとする三宅を制し、
「レジでエミちゃんがレシートロールの予備がないって困ってたんでお願い出来ます?多分レジ下に残ってないから俺か三宅さんじゃないと見つかんないと思うんで」
空になった盆のカドで俺の背中をつついてドリンクカウンターに促しつつ三宅を追い出すことに成功した。
「さっき何作ってたの?」
「ヨンイチのハイボールです」
「ああ、あの人氷ナシでしょ?じゃあさっきと同じグラスでいいよ。冷えてるやつ」
指示する間も手を止めず、次々に生中を作っていく。盆に並んだビールジョッキの液体と泡の境目が一定で美しい。
「ついでに氷アリでもう一個作って。イチサン運んでくれる?」
「はいっ」
「あ、そろそろ例の団体さん飲み放終わるから戻ってくる途中で時間見て、ラストオーダーいってきて。ちょっと人数多いけど菅原くんいけるよな」
背中をポンと叩かれて反射的に「がんばります」と応えた。
入れ違いにパントリーに入った女の子が漸く三宅から開放されたのを見取って「お疲れ」と労ってくれる。背中に親しげな「ちょっと細山さん聞いてよ」という声を聞きながら遅くなった4-1卓へ急いだ。
店内が落ち着いた頃に従業員控え室へ戻った頃には汗だくでユニフォームの黒いTシャツが張り付いていた。オレンジ色のバンダナで額を拭いていたら、一緒に上がった細山に「タオル持ってきな」と笑われた。
「今日は災難だったな」
「バイト入ってから一番混みました」
「それもだけど、三宅さんに絡まれてたろ?」
絡まれてた。やっぱり指導というよりそういうことなのだ。ハイとも答えづらくて苦笑いして誤魔化したが、誰も来ないからと細山は続けた。
「気にすんなよ。菅原くんが何かしたわけじゃないから」
「でも俺だけ、ですよね。目ぇつけられてるの」
同時期にバイトを始めた女の子や他の店員が辛く当たられているところを見たことがない。
「それね、ホールの小宮さんいるでしょ。あの子のせい」
小宮さんっていうのは小柄な美人で、俺より少し先輩の女の子だ。出身が同じ東北だとわかってから少し仲良くなった。
「三宅さん、小宮さんのこと狙ってるけどこの間アドレス交換断られたんだってさ。でも菅原くん、この間小宮さんの方からケイタイ訊かれてたでしょ?」
「あー……俺、別にそういうつもりじゃ」
「小宮さんもそんなガード堅いわけじゃないし三宅さんが警戒されてるだけなんだよな」
言いながら細山の携帯に並ぶ小宮ゆき子の名前を見せられた。多分これを三宅は知らないのだろう。
「たまたま菅原くんが小宮さんと仲良くしてるの見たからって目の敵にしてんだよ。迷惑だよな」
話しているうちに帰り支度を完了させ、シフト表をゆっくり眺めている。なんとなく、待っていてくれるんだとわかって急いで支度をした。
「この後予定ある?」
「大丈夫です」
「じゃあ飲みいこうか」
二十歳になったばかりの六月下旬。居酒屋でバイトを始めてもう少しで一ヶ月。
行き先はバイト先の系列店だった。人手不足の折にはスタッフの行き来があるおかげで細山は顔が利いて、唐揚げを一皿おまけしてもらっていた。
「へぇ、インターハイね」
「はい、今年は北海道なんで、母校の応援ついでに旅行するかってことになって、友達もそれぞれバイトして貯めてるとこなんです」
「すごいじゃん、菅原くんの現役の頃から強かったの?」
はい、と頷くのを少し躊躇ってチュウハイのジョッキを揺らした。
「えっと、三年の時は」
「レギュラーだったんだ?」
これもすぐに答えられなかった。その僅かな間で察したんだろう。間を繋ぐように残っていたアルコールを流しこんでおかわりを注文した。届くまでの間に甘い香りのタバコに火をつける。自販機やコンビニには売ってないから吸いすぎなくていいんだそうだ。
「人数の多い部じゃなかったんですけど、後輩にすごく上手いヤツがいて、スタメンはとれませんでした」
「スタメンじゃなくても出てたなら菅原くんもちゃんと強かったんだよ」
試合を見たこともないのに言い切った。
「菅原くんてすごくマジメに練習してた方だろ?仕事も一生懸命やってるしわかるよ」
あんまりそういうことを言わないで欲しかった。細山の声は親友に似ている。俺より低くて落ち着いていて、こうして近くで見ていると顔は似ていないのにどこか似ている気がする。多分骨格が似てるんだ。親友は細山ほど口数が多いタイプじゃなくて、三年間一緒にがんばってきたけどこんな風に正面から褒めたりすることはほとんどなかった。
酔いのせいにして俯くと余計に頭がくらくらした。
“菅原くん”なんていう改まった呼び方がくすぐったくて、少し沈黙があった後に「下の名前で読んでいい?」と訊かれたときはすぐに頷いた。
「じゃあ、孝支くん」
聞き慣れた声で馴れない呼び方をされて顔が真っ赤になった。
そのあとあまり日を置かずに二回牛丼屋へ行って、また同じ店に飲みに誘われた。
「またスガワラくん連れ回してるんですか?」
店の女の子にからかわれて空のビールジョッキを押し付けながら「まだここは二回目でしょ」と言えば「他にも連れ回してるんじゃないですか!」と水のグラスが押し付けられる。
「そろそろ終電ですよ。お勘定にします?」
「あー……」
携帯で時間を確認してチラリと横目で見上げてくる。
「孝支くんち近いんだよね?」
バイト先と同じエリアの店だ。酔っ払っていても十五分も歩かない。
「泊まります?ちょっとうるさい部屋なんですけど」
「うん。じゃ、ミナコさん生おかわり。それでお勘定で」
話がまとまってからは早かった。家の細かい場所や寝る場所がどうとか話しながらもいいペースで飲み干して店を出た。天気のいい夜だったけれど星は見えなくて、暗い空を見上げてこっそり部活帰りの宮城の空を思い出したりした。天気予報で宮城も快晴と言っていたから、後輩たちは満点の星空を見たかもしれない。都会ぐらしも楽しんでいるけれど、こんなときには帰省が待ち遠しくなる。
ずいぶん飲んだと思っていた細山の足取りはしっかりしていて、十分ちょっとで狭いワンルームのアパートに着いた。
地元の友達と親しい大学の友達を何度か上げたっきりの部屋の玄関に初めての人の靴が並ぶと不思議な気分だ。
「へぇ、案外片付いてるんだな」
「たまたまこの間まとめて雑誌をゴミに出したばっかりなんですよ」
「服とかは?」
「脱いだら直接洗濯機です」
正方形に近い長方形から突き出す形で設けられたユニットバスの入り口前にちょっとしたスペースがあって洗濯機置き場兼廊下になっていた。突っ張り棒をしてカーテンでもすれば脱衣所の出来上がりというわけだが男の一人暮らしにそんなものはない。
「室内に洗濯機あるのか。友達んちは廊下とか学生マンション内共同のヤツばっかりだった」
実家住まいの細山が物珍しそうに洗濯機のフタを開ける。ちょうど3日分ほど溜め込んで洗おうと思っていたところだ。
「今着てる奴洗います?シャツだけだったらすぐ干したら昼までには乾くと思いますけど」
「夜中にやったら苦情来るだろ」
「うち、下の部屋は今空室だし隣は元々夜回す人なんですよ。俺もうるさくて寝れなくなるタイプじゃないから苦情入れたことなくて」
会話を聞きつけたかのように壁の向こうからガコンガコンという音が漏れだす。
「フハッ、うるさい部屋って近所で工事でもしてるのかと思った」
「去年の秋頃は工事もやってましたよ」
「見かけによらず図太いな」
「部活の合宿でも一度寝たら誰が大イビキでも起きなかったですね」
結局シャワーも貸すことになり、細山は着替えのパンツを買いにコンビニまで出かけた。付き添いの申し出は断られたので寝間着代わりに貸せそうなシャツとバスタオルの予備を探した。高校の友人が泊まったときのために一枚だけあるはずだ。
衣装ケースの奥から発見した頃に戻ってきた細山は下着と歯ブラシセットの他にお茶のボトルと菓子の袋を提げていた。
順番にシャワーを使ってから隣人とほぼ入れ違いに洗濯機を回し始める。終わるまでは眠れないので細山の買ってきた食料を小さなテーブルに広げた。つらつら話をしていても細山はほとんど聞き役で、多分あんまり興味がないだろうバレー部の話にも質問を挟みながら相槌を打ってくれた。
洗濯段階から脱水に変わる頃には眠気で言葉が減って沈黙も増えたけれど居心地の悪さなんか微塵もなかった。だから沈没寸前で踏みとどまってえびせんを口に押し込んだタイミングで改まって名前を呼ばれた時にも、細山の様子の変化に頭がついていかなかったし、その後の言葉もノーガード状態で受けてしまった。
「あのさ、今言ったら困らせるかもしれないけど……、俺、孝支くんのこと好きみたいなんだ」
即座に適切な反応は返せなかったけれど意味を取り違えることはなかった。なんとなくわかってたからだ。
最初に飲みに行ってから毎日のようにとりとめのないメールをして、シフトが被れば庇ってもらったり励まされることが何度もあって、そういう夜にもらうメールは開封するのさえくすぐったい。
細山のメールは絵文字が少なくて落ち着いている。会って話をする時の喋りをそのまま文章にしたような文面で、書かれている優しい言葉が簡単に頭の中で音に変換される。細山はマメで常に優しかった。
バイト先の後輩相手にする親切にしては度が過ぎている。と、思いながらも黙って何でもかんでも受け取り続けてきたのだ。
「…………はい」
慎重に顎を引く。
「もちろん友達とかバイト仲間とかそういう意味じゃなくてだよ?」
「わかります」
「………………さすがにヒク?」
自分より大きな男が不安そうにしている。こちらだって何て答えたらいいか正解がわからなくて、不安で、頬の内側にえびせんが張り付いているが噛んで飲み込むことさえ憚られて唾液で湿っていくばかりだ。
ただ、バイト先の先輩から受けるには度が過ぎるメールを浮かれた気分で読んでいたのは間違いない。
「ヒかないです」
キッパリ答えると細山が手を伸ばしてきた。頬を触って、静かに唇が触れる。後頭部を支えるようにされて髪を撫でられた。やり方で女の子みたいに扱われているのがわかる。
目を閉じて身動きしないでいると数秒で離れて至近距離で再び囁かれた。
「好きだよ」
頭の奥が焼けるように熱くなって背骨を伝った熱が腹の底で疼く。返事は浮かばなかった。でも、慎重に、試すように体に触れる手のされるがままになっていた。
「ずっと可愛いと思ってた」
一言ごとに心拍数が上がっていってどうにかなりそうだ。受け身で黙っていると厚い胸に引き寄せられた。つむじに頬ずりしたままで言われた。
「なあ、好きって言って」
「…………………………、……好き」
そこから俺は細山の恋人だった。
シフトの違う日でも従業員控え室で待っていたり近くのコンビニで時間を潰して一緒に帰ったし、細山は何度も泊まっていって、そのうち体を繋いだ。
女の子みたいなちょうどいい体じゃないから手間も時間もかかったけれど、気持ちの上での抵抗はあまりなかった。
ただ、暗黙の了解でお互いの関係は誰にも秘密だった。
二年前の春に喧嘩しながら入部してきた後輩たちが全国の舞台へ。という連絡を受けてすぐにインターハイ開催地への旅行を計画した。
元々予感、もしくは期待はあって、大学のテスト日程が被らないようにしていたから話は早かった。
飛行機と宿泊先の予約は夏休み明けまでテストのない澤村大地に任せた。最低限のスケジュールだけ教えて投げっぱなしにしていたら、テスト終了日の夕方に見計らったかのように事務連絡のメールが届いた。勉強の邪魔はしない、ということらしい。
出発日二日前までテストが終わらなかった東峰旭はなかなか大地から連絡が来ないことに焦って自分だけ置き去りにされることも覚悟したらしいが、俺だったら前日の夜まで連絡がなくても焦らなかっただろう。任された以上、無責任なことはしないのが大地だ。
それぞれがバイトや勉強や私生活で密度の高い初夏を過ごし、七月の終わり頃には三人無事に北の大地を踏んだ。
空港や駅は全国から集ったジャージの高校生でごった返していた。
「みんな強そうだな……」
すでに現役ではないくせに萎縮した様子で旭が呟いたが、会場で見た母校の黒いジャージも負けていなかった。自分たちが現役の頃は県予選一回戦敗退も珍しくなかったことを思うと、地元を遠く離れた体育館に堂々入場する後輩たちの姿を見て涙ぐみそうになった。アレと同じジャージがアパートのクローゼットにある。制服は実家においてきたけれど、ジャージとボールは飾るわけでもないのに持ってきた。
会場では地元に残った仲間たちが駆けつけていた。春休みに帰省した際に烏野商店街のバレーボールチームの練習に混ぜてもらって以来なので懐かしいという程疎遠でもないのだが、引退当時のほぼフルメンバーが揃っているのを見たらやっぱり懐かしかった。
予選グループの試合は順調に勝ち進んだ。初日だというのに旭が感極まって「夢みたいだ」なんて呟くから、大地と二人で左右の頬を引っ張ってやった。夜は地元からの応援団と合流して初日の勝利を祝し、明日に備えて遅くならないうちに予約していたビジネスホテルに引き上げた。
学生の貧乏旅行だ。「連泊なのでなるべく安く」という希望で「部屋はトリプルになった」と聞かされていた。
「修学旅行みたいだな」
と浮かれ調子で部屋の扉を開けた旭だが、ツインに追加ベッドをねじ込んだ狭い室内を見てみるみるうちにしぼんでいった。
「広さはないけど結構きれいじゃん」
「手頃な宿は軒並み埋まってたから予定より手狭になったけどいいだろ」
入り口で立ち止まった旭を押しのけて口々に感想を述べながらベッドに荷物を放り投げる。そこで我に返った旭が焦りだしたが、残っているのは見るからに小さめの追加ベッドだけだった。
「ちょっと、ちょっと待てよ!」
「なんだよ、早いもん勝ちだろ?」
「聞いてないし!俺絶対コレに寝たらはみ出すだろ!」
「丸くなって寝ろ」
「こういうの体格順とか……」
「図体はデカいくせにちっちゃい男だなぁ」
「スガまでっ……!」
結局、旭必死の直談判によりジャンケン大会となり、まんまと俺が負けた。一番小さいから妥当といえば妥当だったが、妥当だけに納得がいかない。でも、最近はシングルの狭いベッドで自分より大きな男と寝るのにも馴れてきたからちょうどいいような気もした。二人には言わないけれど。
ジャンケンで一抜けした大地は、自分の陣取った真ん中のベッドと窓際の追加ベッドを寄せてくっつけた。
「寝づらかったらこっちにはみ出してきていいからな」
掛ふとんも折り重なるようにして越境しやすく敷き直した。
「大地、スガにばっかり優しい!」
「大きいベッドとったんだからへなちょこは黙ってろ」
騒がしいやり取りを笑いながらも追加ベッドが動かされて出来た窓際の隙間に荷物を置く。
「旭がデカいだけで言うほど狭くないって」
それでもベッドを寄せたまま就寝した。
移動と試合の興奮でみんな疲れていて、修学旅行みたいだなんてはしゃいでいた旭が一番に寝息を立て始めた。大地も静かで眠りに落ちるのを待っているんだとわかる、そんなタイミングでメールが来た。マナーモードだったからバイブになっていたけど、急いで振動を止めた。
差出人は予想通り、細山だった。時間を見るとバイトが終わる頃だった。ねぎらいの言葉と一緒に試合結果や旅の様子を返信するとすぐにまた返事が来て、何度かやり取りした後に『会いたい』と綴られていた。絵に描いたような付き合い始めのもどかしいようなくすぐったさに、仲間と後輩の応援に来ているという状況と同じ現実とは思えなくなっていく。全国進出した後輩のために遠くへやってきて慣れないビジネスホテルで寝ていることも、二ヶ月ほど前に知り合ったばかりの男と付き合っていることも、どちらも夢のなかの出来事みたいだった。どっちも幸せな夢だ。
細山が店から自宅に到着するまでの間だけやりとりをして、それからお互い疲れているだろうからと「おやすみ」メールを送って携帯を枕元に置いた。
「スガ」
すぐ近くで呼ばれて驚いた拍子に手から放したばかりの携帯がベッドの縁まで滑った。慌てて拾って咄嗟に枕の下に押し込んだ。メールのやり取りが始まってから意識が逸れて忘れていたけど、大地はずっと起きていたらしい。メールの相手も内容も知られていないとわかっていても後ろめたくて携帯そのものを隠した。男と付き合っていると知られたら蔑まれるだとか思っているわけじゃない。それでも知られたくなくて、慌てた。
「ごめんっ、携帯の明かり煩かった?」
「いや、」
ベッドを寄せているせいでやけに近くて落ち着かないが、距離を取ろうにも、元々ベッドが狭いせいでどこへも行けなかった。
「今、いいか」
「う、うん」
慎重に大地の様子を伺ったが何もない天井を見上げていた。
「今日さ、あいつらすごかったな」
さっきのメールとは無関係の話題に内心ホッとしながら同じように天井を見上げて頷いた。
「だな。ヤバい場面もあったのに影山も落ち着いてよく見てたし、日向は後輩たちのこと励ましてたし」
「入部した頃の俺らに今日のことを教えても信じないよな」
「絶対信じないな!影山なんかスムーズにハイタッチすることもできなかったのに」
まぶたを閉じると二年前の幼い後輩たちが浮かぶ。喧嘩はしょっちゅうで手を焼いたし、影山は他人とのコミュニケーションが絶望的に下手くそで、日向には落ち着きがなかった。そんな二人が後輩の面倒を見てチームを率いているのだから、年寄り臭く「成長したな」なんて呟きたくもなる。
問題児コンビを中心とした新チームに四苦八苦していた頃を思い出すと、自然と大地と背中を叩き合った記憶も蘇ってくる。高三の春は旭が一時的にチームを離れていたお陰で、三年はマネージャーの清水を除いて大地と二人きり。エースの旭と精神的支柱の一端を担っていた守護神、西谷を欠いて、監督はルールも怪しい初心者の顧問教諭。コーチもいなかった。
日々の練習メニュー、新入生歓迎会での部長スピーチの内容や、離脱しているメンバーを除いた状態で試合に臨む場合のあれこれ。ちょうど同じクラスだったおかげで休み時間も自習時間も大地の机に椅子を寄せて、広げたノートの上で頭をつき合わせていた。大抵のことは大地が一人で考えて決めていて、それを俺がチェックする。経験の浅い監督に意見を求められない代わりに「うん、それで大丈夫」と言うのが俺の役目だった。
新年度になって、入部早々に影山と日向が揉め事を起こした。そのペナルティを受けた二人をサポートするために休み時間を割くようになるまで、これといって用がなくても一緒にいた。あの頃は大地にだけは打ち明けられないことなんかなかった。
「アイツら元から才能とか、身体能力は飛び抜けてたけど、二年前は一緒のコートで戦ってたんだよな」
「うん」
「今じゃ俺たちの手の届かなかったところまできてる」
「……うん」
二つ年下の影山飛雄は天才だった。同じセッターの俺はあっという間にポジションを奪われる形になったけど、強豪相手の試合でボロボロになった影山に代わって出場したこともあった。あの時はまだ天才影山にできなくて、天才でも何でもない俺に出来る事があった。
「アイツらがここまできて、これだけ戦えてることが嬉しいんだ」
「俺も嬉しいよ」
「ああ。…………でもさ、」
空調機の音に混じって深く息を吸う音がする。
「悔しいんだ」
「…………大地」
「もっと何か頑張ってたら俺達の代であそこまでいけたんじゃないかって思ってる。アイツらと一緒に」
「………………」
「もう高校で、あのメンバーで試合はできないのに、二年も経つのに悔しくて堪らなくなる。もっと勝ちたかった。出来る限り努力したはずなのに、まだやれたんじゃないかって後悔が溢れてくる」
喘ぐように天井に向かって伸ばされた腕は卒業しても筋肉が落ちていない。体質のせいかあっという間に細くなった自分とは大違いだ。バレー部員としては小柄だった分を補おうと筋トレに励んだこともあったけど、旭のような腕力がつくことはなかった。
「…………影山たちさぁ、いつも俺よりずっと走ってたんだよな」
ぽつりと言うと大地が振り向く気配がした。
相棒でありライバルである日向と競い合っているうちに決められたメニュー以上に走っていたり、他の皆が休んでいる間にも走り込みに出ていた。元から体力がある二人だったから出来たことでもある。無理に同じ量の練習をしたら同じようにやれたわけでもない。同じになる必要もなかったけど。
「そんなヤツだからここまでこれたんだって納得もしてるんだ。でも、大地の言うこと、わかるよ」
先輩が引退してやっと正セッターと呼ばれるようになったのに、あっという間に入部したての影山にポジションを奪われた。悔しいのに影山のストイックさを見ていると妬むことすら許されない気がした。結局、チームの一員として自分にできることを見つけることができたけれど、負けたくない気持ちと勝てないと思う気持ちはいつも折り合いが付けられないまま胸の底にあった。
「引退の時に全部出し尽くしたってぐらい悔しがったのにまだこんな気持ちになるんだな」
口にしたら部活を引退した高三の日に逆戻りしたように鼻の奥がツンときた。
どう考えても手に入らないものが欲しくて辛くなることって滅多にない。だからこれは多分、今の悔しさじゃなくて二年前の悔しさだ。
「俺ももっと大地と、旭と、……みんなと同じチームで勝ちたかった」
引き返して続きの出来ないもどかしさが、明日もコートに立てる後輩を羨む気持ちになって両手を乗せた胸にのしかかる。息苦しくて浮かした手を大地と同じように伸ばしたら、ほんの少し横へ振るだけで大地の手を取れそうだ。そんな妄想が浮かんですぐに下ろした。
卒業式の日にも衝動にかられて大地の手を握ったけど、今は別れの握手なんて場面じゃない。我ながら意味の分からない行動だった。なんとなく、戒めのつもりで胸の上に戻した手を握りしめた。そうして自分相手に戸惑っていると、滲んだ感傷が引っ込むんだけれど、大地は握りしめた拳を悔しさのしるしだと解釈したらしい。
子供にするみたいに頭を撫でられて何だか胸が詰まった。
「昨日、気づいたら寝ちゃっててさぁ。二人とも何時に寝た?」
「旭が寝てすぐ寝た」
「ホント?俺いびきとかかいてなかった?」
「騒音公害ってぐらい歯ぎしりしてた」
「ウソだっ!」
空になった味噌汁の椀をテーブルに叩きつけながら旭が叫んだ。
「大体すぐ寝たって大地言ってただろ!ウソだよな?スガッ」
嘘だと思っている割にはすがるように振り向くので深刻そうな表情を作って答える。
「いやぁ、歯がすり減って試合観戦返上で歯医者に行くことになるんじゃないかってくらいすごくて…」
「――――っ!スガまで!」
大地が旭にも、おそらく誰にも、昨夜の話をする気がないようだったから。
仲間はずれにするわけじゃないけど、旭の聞いていないところで大地に打ち明けた情けない本音がたくさんある。逆は珍しいけど、わざわざ口止めしなくてもお互いに言いふらさなかった。カッコ悪いところを見せるのは一人で十分だったし、大地は口が固かった。
朝食を終えて決勝トーナメント戦一日目、試合会場へ向かった。
決勝トーナメント進出が決まってから急遽駆けつけたという烏野商店街チームの滝ノ上さんと森さん、嶋田さんと合流した。嶋田さんは「帰ってからが怖い」とぼやいていたのでかなり無理をして来たんだろう。でも、烏野高校バレー部にとっては、日向が小学生の頃に見て憧れた小柄なエース、小さな巨人の時代以来の快挙だった。当時を知っている人にとっては、日向達と一緒だった俺達とはまた違う思い入れがあった。
決勝トーナメント戦の対戦校は昨日の予選に比べると格段にレベルが上がっていて、影山と日向のコンビも苦戦を強いられていた。それでもギリギリのところで勝ち抜き、コートに残った。
明日も勝てる。昨日の勝利の勢いを信じていた。
でも、一日目、二日目を勝ち抜いたどの高校だって勢いを感じている。その中でも三日目を勝ち残れるのはごく僅かで、ほとんどのチームが敗退。最終日にはたった一校しか残らない。
烏野は三日目、決勝トーナメント二日目でコートを去った。一緒に過ごした一年当時から冷静だった月島の目の前でボールが落ちて、思わずといった様子で床を拳で叩いた彼らしくない姿が印象に残った。
挨拶を終えて撤収する途中でどちらからともなくコートを振り返った影山と日向の表情は見えなかった。
「春高がある」
応援していた輪の中で、誰からともなく声が上がった。
冬の寒い商店街の電器店の前で、偶然通りかかった少年が黒いユニフォームで跳んだ選手の腕の一振りに釘付けになる。そういう出会いが昔あった。説明の上手くない日向に聞いた話だけど目に浮かぶようだと思った。
昔ながらの個人商店が集まった商店街。地元の高校の快挙を町全体で喜んで垂れ幕を飾り、電器店の大きなテレビで店番のおじさんが春高バレーを流す。
真剣に応援する人は自宅で見てる。大人は寒い中、わざわざ立ち止まったりしない。空いたテレビの前で子供だけが立ち止まる。
烏野は元々バレーが盛んな地域というわけじゃない。あの頃、野球やサッカーの少年チームは町内にあったけれど、バレーチームは隣町にしかなかった。今では小さな巨人を知る烏養コーチや滝ノ上さんたちを中心に結成された成人チームが存在するが、小さな巨人世代が全国大会進出したのはまさに奇跡のような出来事だった。
もう一回。日向達にはもう一回だけチャンスが残されている。憧れた小さな巨人と同じ春高で、
「もう一回、翔べ」
俺達のエース、旭が言った。
飛行機は予約していたので、空いてしまった時間を少し観光に充てて予定通りにアパートへ戻った。
二年前までは大地や旭と毎日一緒にいるのが日常だったのに、こうして一人暮らしの部屋に一人で戻ってくると現実に帰った気がして寂しかった。
乗り物の待ち時間に細山からのメールを確認して到着時間を知らせていたら帰宅して数分で電話が来て、近くまで来ているというので部屋に迎え入れた。
細山はベタベタするのが好きで、玄関の扉を閉めた途端に抱きすくめられた。甘い煙草のにおいがした。近くまで来ていると言っていたけど、どこかで時間を潰して待っていてくれたのかもしれない。
旅行荷物を整理して洗濯機を回し、細山が申し出てくれたので宅配で送った土産荷物の受け取りと洗濯物干しを頼んで横になった。
実家の親からの電話で目を覚ましたのは暗くなってからだった。届いていたおみやげを仕分けして地ビールを細山に差し出した。
「店とか友達にはお菓子にしたんだけど、細山さん甘いのよりこっちのがいいかと思って」
「飲兵衛だから?」
「それもあるけど、店に差し入れあってもしょっぱいのしか食べないから」
答えると嬉しそうに頬を撫でられる。キスの合図だった。少しじゃれあったところで空腹に耐えかねてストップをかけた。空っぽの冷蔵庫に土産物を収めて最寄りのファミレスで夕飯にした。
旅行先では土地ならではのものばかり食べていたから、食べ飽きているフライ定食を注文した。禁煙席に比べ空いている喫煙席の空調に向かって細山の甘い香りの煙がのぼって消える。
大会の話は上手くできなかった。細山は嫌な顔せず相槌を打ってくれるけど、バレーをやっていたわけでもない、ルールも何もかもよく知らない細山が聞いて楽しい話ではなかったと思う。少しだけ話して、何度か灰皿に灰を落とす仕草を見て話題を変えた。どうしても細山に聞いてほしいわけじゃなかったから。
「――――――それで、列の最後尾に並んでバスに乗ったんだ。混んでたから奥の方に詰めてさ、俺のすぐ後ろに並んでた旭も当然乗って当たり前について来てると思って、発車してから振り向いたら……」
「いなかったんだ?」
「そう、知らないおじいちゃんおばあちゃんしかいなくて、慌てて旭を探したら窓の外で何か焦ってて」
「そのじいさんたちに譲ったってこと?」
「うん。旭が乗ろうとしたところにおばあちゃんが割り込んできて……割り込むっていうか、慌ててバス停に到着したら列の最後尾で乗車順を待ってた旭の前に出ちゃったっていうか。バスは結構ぎゅうぎゅうだったけど一人ぐらい入れても大丈夫だろうと思ったらしいんだよね。旭が一番後ろだったからどうぞどうぞって割り込ませたんだけど、ばあちゃんの後から連れのお年寄りが四人ぐらい来て、ちょうど旭だけ乗れなくて」
「じいさんたち無理して満員のバスに乗るなよなあ。タクシー捕まえりゃいいのに」
「俺たちもどうせ三人だったし最初からタクシー移動すればよかった」
貧乏旅行だからと節約のつもりでバス移動していたが、帰ってみたら結構予算に余裕が残っていた。
「よしよし、それじゃいつかまた北海道旅行するときの教訓にしようか」
「また行くことあるかな?」
「そこは、今度は二人で行こうねって言うトコだろ?」
「……っ!……………………はい」
照れて黙った鼻先をザラリとした指で摘まれた。女の子とは中学の時にほんの少しだけ付き合ったことがあるっきりで、その頃の彼女とは照れがあって、こんな風にじゃれあったりしなかった。まるきり不慣れな恋人らしい仕草が、旧友たちとの時間に浸かっていた腕を掴んで現在の現実に引き戻す。
少しの間、黙って食べ残していたキャベツの千切りを口に運んだ。細山は先に食べ終えた皿をテーブルの隅に寄せて新しいタバコに火をつけた。
「あ、そういえば、帰りの飛行機に乗る前のことなんだけど、旭が……」
不自然に始めたつまらない話にも細山は変わらぬ態度で穏やかに頷いている。夜が深くなるに連れて気温が下がって、いつの間にか雨が降りだした。ファミレスから出て二軒隣りのコンビニに入った。終電の時刻が近いけど、帰るとも泊まるとも言われなかった。コンビニでは雑誌だけ買った。
ちょっと買い物していた僅かな間に雨脚は強くなっていて、細山は自然な手つきで外の傘立てからビニール傘を一本引きぬいた。俺たちは傘なんか一本も持ってきてないから知らない誰かのものだ。常習犯だな、と思いながらもやんわり咎めると、食事をしながら話に相槌を打つのと同じ穏やかさで小首を傾げる。
「店の中の客より数あるってことは忘れ物だから大丈夫でしょ」
店内には女性客が一人だけ。傘立てにはまだ傘が残っていた。彼女が傘を失くして帰れなくなることはなさそうだけど、
「そういうこと言ってるんじゃないよ」
「孝支のそういう真面目なとこ好きだよ。じゃあ雨が上がったら今度返しにくることにする」
話を切り上げて傘を開き、ポンと背中を叩いて雨の中へ促された。小さなビニール傘に男二人は収まりきれなくて肩がぐっしょり濡れた。
当たり前に二人で俺の部屋に戻ったけど、出掛けの続きは「まだ旅行の疲れが残ってるから」と断ってしまった。何もしないで、狭いベッドの上で、ただ抱きしめられて眠った。
それが今の現実だった。
「うん、大丈夫」
ルーズリーフに書いた新入生向け部活説明会のスピーチ原稿を返し腰を上げた。
入学式はもうすぐだ。荷物棚の一年生に使わせる段は綺麗に拭かれている。新二年生の段は「新年度だから持ち替えれ」と言ったのに漫画や雑誌が散乱している。新三年生の段には二人分の荷物が左に寄せて置かれていた。右に一人分のスペースを残して。
帰り道、晴れ渡った青空に向かって大地は息を吐いた。
「大地、幸せ逃げてる」
「お、スマン」
旭がバレー部を離れてもうじき一ヶ月になる。エースである旭が部を去って、守護神と呼ばれた二年の西谷も部活動停止で体育館から姿を消しても時間の流れは止まらない。
春休みも大地は予定を組んで平常通りの活動を続けていた。休みの間の部活予定を伝えたメールに旭からの返信はなかった。
二人欠けた体育館ではいつも以上に田中が声を張っている。大地は、旭と西谷不在のギリギリの人員でもチームの体裁を維持していた。練習試合のあてがあるわけでもなく、公式戦まで時間のある時期だったけど、顧問があちこちに練習試合を申し込んでくれているのは知っていた。もし急に試合ができることになっても実のあるものになるように。
メンバーが揃っていないから、主力が抜けているからといって試合に後ろ向きになるのは避けたかった。
でも、そうやって現状に合わせて理想を掲げ直すごとに、二人が抜けてぽっかり空いた穴がジクジクと痛む。
俺は、大地も旭のことで責任を感じていると思っている。
度重なるブロックで心をへし折られ、トスを呼ばなくなった旭の件で自分を責めようとした俺に『自分のせいだとか言い出すな』と言ったのは大地だ。冷静で、誰のせいというわけでもないのを理解してる。だけど、大地は主将だ。
旭が部活に顔を出さなくなってから、俺のように説得に行くわけでもなく、時折何か考え込んでいた。旭のことを考えてるんだ、と俺は思ってる。俺には、誰にも、打ち明けたりしないけど。
「大地さ、もっと思ってること、話せよな」
「……………」
話せといった端から口を噤んで何か考えている。口に出さないことがたくさんある。
「筋が通ってなかったり、つまんないことでもいいからさ」
先に泣いている人がいると自分が泣けなくなったり、自分より怒っている人がいると自分の憤りが引っ込んでしまって宥め役にまわってしまうことがある。俺が悔やむほど大地が自分の気持ちを腹の底に押し隠して表に出せなくなるんじゃないか。
坂の途中で大地が足を止め、フッと笑った。
「大丈夫だよ。多分、スガが心配してるようなことは考えてないから」
同じように足を止めた俺の背中をポンと叩いて再び坂を下りはじめた。烏野高校は坂の上にあって、下校はいつだって重力に背中を押されて足を踏み出す。
「スガが思ってるのはどうせ旭のことだろ?」
「う、……うん」
「考えてないといったら嘘になるけど、さっきは、ちょっと違うこと考えてた」
何気なく滑らせた視線が着地したカラスに留まる。地面に散らばっていた何かを啄んでいた雀が一斉に飛び立った。一羽だけで雀を蹴散らしたカラスがふてぶてしく鳴く。
「“落ちた強豪、飛べない烏”……なんて言われるけど、エースも威勢のいい守護神も欠いた状態じゃカラスってよりあっちだよな」
木に数羽とまった雀を指さした。
「先輩が引退して新チームで、スガが正セッターで、烏養監督の復帰でごたごたした時期もあったけど少しずつまとまってきたと思ってたんだ」
強豪と呼ばれた時代の名将、烏養監督が復帰した。高齢だったから、体調の都合でほんの一時だったけど、厳しい練習に一年が半分以上抜ける事件があった。結局監督と入れ替わりで戻ってきたけど、一度逃げた負い目のある部員を含むチームが落ち着くのには当たり前に時間がかかった。
「監督の復帰で一歩進んだかと思ったら一歩退がって、縁下たちが戻って少しずつ前に進んだかと思ったら今度は旭だ。別に、自分のせいだとか思ってるわけじゃないから勘違いするなよ?」
「……うん」
「ただ、まぁ、たまにはため息も出るよなぁ……」
語尾が宙に溶けた。力を抜いた顔は少しだけ頼りない。いつも正しいと思うことをきっちりやって、「やるだけのことはやった」という潔さで前を見据えている大地にしては破格と言える。
「大地は、主将としても、仲間としても、充分ちゃんとやってくれてるよ」
「うん」
わざわざ弱音を吐かせたのに、励ましになるようなセリフが上手く出てこないのが悔しかった。
足元の傾斜が緩くなる頃、分かれ道に差し掛かる。いつもここで別れて帰る。そこまで満足な言葉は浮かばなかったけれど、ふと思いついて「またな」と言おうとする大地を遮った。
「あのさ、大地、雀の足音って聞いたことある?」
「?」
向こうにしたら何の前振りもなく突然の質問だった。
「ないけど」
大体の人がないだろう。さっきのカラスだって羽ばたく音にまぎれて着地の音はしなかった。もっと体重の軽い雀なら尚更だ。
「じゃあこれからちょっと聞きに行かないか?」
要領を得ないで眉根を寄せる大地を引っ張って分岐路を俺の帰り道方向へ曲がる。二分も歩くと簡素な造りで屋根の低いガレージがあった。トタン屋根の端にサビが浮いている。その軒下にしゃがみこんだ。
「スガ、これ……」
「シッ!」
人差し指をピッと口の前に立てる。素直に黙った大地と並んで屋根の端に切り取られた空を眺めていると、小さな影がいくつか屋根に飛び込んできた。
トトトットトットトトトッ
雀が次々に薄いトタン屋根に着地した。
「!」
無言で確かめるような目顔で振り返った大地に頷いて、雀の群れがひと通り着地するまで耳を澄ませた。
「……雨の音みたいだな」
「そういえば、前に雨の音好きって言ってたっけ?」
「うん、落ち着く」
ポツポツと屋根を叩く穏やかな雨の音。並んで開いた傘の下でそんな話をした。
「雀って、あんなに小さくてちっぽけだけど、ここならちゃんと足音聞こえるべ?ちっちゃい一歩でもさ。だから、えーっと………」
このガレージを見つけたのはまだ先輩がいた頃。練習しても毎日進歩していない気がして、その間に旭と大地は先輩から認められて。焦っていた時だ。
同じ学年で一番背も低くて、入部直後からガタイの良さを買われていた旭が羨ましかった。先輩たちとは上手くやっていたけど、守備力を認められた大地みたいには評価されなかった。
比べてもどうにもならない生まれついての身体や、自分よりひたむきな仲間の努力の成果を見て落ち込んでいるなんて、誰にも打ち明けられなくて帰り道にしゃがみこんだのがちょうどこのガレージの前だった。
小さいけど確かな音がして見上げたら空が青かった。雀の立てた音とわかって物珍しさで気分が変わった。それから後ろ向きな帰り道にはなんとなく、ここで立ち止まるようになった。
「ごめん、上手く言えなかった」
「大丈夫。わかるよ」
髪をかき混ぜて目を合わせて頷く。励まそうとしたのは俺なのに、逆になってる。
照れくさくて乱れた頭を自分でなでつけながら、大地が先に立つのを名残惜しく見上げた。
穏やかな雨の音の中で目を覚ました。窓のすぐ目の前に枕を置いて寝ているせいで外の音がよく聞こえた。そのせいでこんな夢を見たんだ。
体を起こそうとするのを細山の腕が絡みついて阻まれた。次第に土砂降りに変わり、再び目を閉じても夢の続きは見なかった。
いつも荷物の少ない細山がバッグを担いでやってきたのは夏から秋へと移り変わる頃のことだった。
「最近ランチのシフト多くない?大学ちゃんと行ってる?」
「ああ、それ。大学辞めたんだよね」
禁煙はじめたんだよね。とでも言うように簡単に言ったので、一瞬「へぇ」と流しかけて振り向いた。
「えっ」
「去年ウチの店辞めた高野さん、紹介したことあるだろ?あの人が新しく店出すってんで、俺誘われててさぁ。今ウチはスタッフ足りてるから店長とも話して、高野さんとこ行こうかと思ってて」
「………うん」
「あー、要するに、就職しようと思って」
「そっか……」
大事なことを相談されなかった、なんて言うつもりはなかったけれど、もう口を挟む余地もないのに心配してしまう。
高校の時の友達にも、すでに大学を辞めて地元で就職している奴がいるし、それで充実しているなら良かったと思うんだけど。
「それでさ、親は折角入った大学辞めるの大反対で、実家出てけって言われてんだよね」
「えっ」
「だから部屋決まるまで泊めて?」
「えっ、……今日から?」
「ダメ?」
体を寄せて、弱り声で言うから卑怯だ。これまでもしょっちゅう泊めているのだから断る理由はそんなにないんだけれど。
「………………いいけど」
許した途端にご褒美みたいに抱きしめられてキスされて、翌日一度実家へ帰宅してバッグ一つを持って戻ってきた。歯ブラシもカップも以前から二人分並べていたから部屋の景色は変わらなかったけど、細山は「同棲祝い」と言ってビールの缶を開けた。
一緒に暮らし始めて三週間ほどでバイト先の同僚、小宮ゆき子に呼び止められた。
「細山さん、菅原くんちに住んでるってホント?」
シフトがかぶった日に一緒に帰るのは以前からだからバレないだろうと思っていたけれど女の子は鋭い。まさか関係がバレたかと思って身構えながら、余計なことは言わないように、
「そうだけど…?」
「そっかぁ。菅原くん仲いいもんね」
「うん、まあ……」
「ちょっと聞きたかっただけなの。じゃあ、お疲れ様でしたぁ」
細山と付き合っているのがバレたわけではなさそうだ。でも、買い物は一緒に出ているし、生活圏が被っていたら怪しまれるかもしれない。
「…………考え過ぎかな」
「考えすぎでしょ」
細山は少しも心配していないらしい。
「そりゃバレたら困るけど、男同士でルームシェアしてたって普通疑わないよ」
「じゃあ、普通わざわざ帰りに呼び止めてまで一緒に住んでるか聞く?」
「気になったんじゃん?」
「………………」
納得はいかなかったけれど、タイミングを図ったかのようにお互いの携帯が鳴ってこの話は終わった。
受信したメールはバレー部の後輩、山口からだ。今年三年の後輩たちのアドレスはひと通り知っているが、近況を報告してくるのはいつも山口だった。部の動きは一人が代表して連絡を寄越せば充分で、他の後輩はマメな連絡とか、わかりやすい説明が得意ではなかった。
『予選勝ちました!年明けに東京行きます!!』
それから決勝の様子やメンバーのことが書かれていた。それまで話していた埒が明かない心配事はどうでもよくなって返信を打っている間に、今度は着信があった。旭だった。
『山口からメールきた?!全国だって!』
「きたきた。絶対勝ってるって思ってたから旭みたいに驚いてないけどな」
『お、俺だって信じてたよ!』
「ハイハイ。それで?」
『帰省と大会日の予定確認したいし、とりあえず県予選突破祝いってことで集まりたいんだけど』
「いいよ、月曜か次の金曜なら確実に予定空いてるし。どこでやる?」
『じゃあ金曜かな。スガのバイトしてる店は?行ったことないし、遅くなってもスガんち近いだろ?』
言われて、明るい窓辺から玄関に向かって部屋を振り返れば、少しずつ運び込まれた細山の荷物でいつの間にか散らかった部屋が暗く見えた。窓辺に避けて電話を受け、話している間に細山は静かに出かけていった。
「あー………その日さ、団体の予約が入ってて、うちの店じゃゆっくりできないと思うから、……前行ったトコは?安くて美味いって言ってたじゃん」
店に来るのは良かったけど、流れで部屋に上げるのは避けたい。旭たちは男と一緒に暮らしてると言っても今までどおりの付き合いをしてくれるだろうけど、なんとなく、知られたくなくて。
特に疑問を持たれることもなく話はまとまって、金曜の夜に大地のアパートから一駅の居酒屋に集まった。大地の家を挟んで旭とは真逆だったから、理由がなければ中間地点である大地の家の近くに集まることが多い。
それぞれが烏養コーチや、武田先生や、地元に残っている後輩と連絡を取り合って聞いた情報を交換したり、年末の帰省日を確認したりした。去年は都合がついたので三人一緒に宮城に戻ってまた東京へ帰ってきたけれど、今年は俺だけ「予定を合わせる」と言えなかった。バイトの都合とは言ったけど、半分は細山のためだ。
細山のことだからイベント日は一緒に過ごしたがるのはわかっていたけど予定を空けておく約束まではしていなかったから、念のため。
「スガ、クリスマスもバイトなの?」
「まだわかんないよ」
「バイトだったら今度こそスガの店行こうかなあ」
「何でそんなに来たがるんだよ」
「友達が働いてるとこ見たくなるじゃん」
「こっちが汗水たらしてる時に旭が呑気に飲み食いしてたら腹立つけど?」
「俺限定?!」
それから大地の持ってきたバレー雑誌をめくって後輩たちの写真を見つけたり、大学の話を少しして、気がつけば終電時刻を回る頃だった。トイレに立った時に周りの客がだいぶ帰っていたことに気づいた。
「うわ、俺もう間に合わないや」
「じゃあ大地んちに……」
「旭んち方面はまだ急げば間に合うだろ」
それぞれが携帯や腕時計で時間を確認しながら席を立つ。飲み屋の立ち並ぶ通りには駅へ向かうゆるい人の流れができていた。
「大地はいつも俺ばっかり!」
文句を言いながらも旭も駅への流れに乗って大きく手を振って帰っていった。以前もこの店に終電ギリギリまで居座って、慌てて駅に向かったら旭しか間に合わなかった。徒歩でも困らない距離の大地の家に泊まることにして二人で改札に消えていく旭を見送った。
学生向けのアパートにある大地の部屋と俺の部屋の広さは似たり寄ったりだ。俺の部屋はベッドを置いて、ベッドの下を収納代わりにしているけれど、大地の部屋は床に直接マットレスを敷いていて、俺の部屋より造り付けの収納が多い。元々荷物も少ないタイプだ。座卓と並べて置いたカラーボックスにバレー雑誌とテキストが詰まっていて、座卓の下には文庫本が積まれている。服はクローゼットと、部屋の角に置いたカゴに放り込んでいるからぱっと見にはすごく片付いている。
久しぶりに来て自分の部屋の現状と比べると、本当に同じ広さだったか疑わしくなる。
客用布団なんて丁寧なものはないので座布団を並べて予備の毛布を借りた。布団に一緒に入っていいとも言われたけど、それはダメだと思って断った。細山のことを打ち明けられない以上、説明はできないけど。
「そろそろ客用布団買うかな」
「そんなに誰か泊まりに来るか?」
「たまに旭がくるぐらい……やっぱり要らないな」
大地は真顔で結論を出した。でも、座布団だけは部屋の広さと比べても多めに用意してあって、全て並べたら旭だって足がはみ出さないだろう。俺は一枚を二つ折りにして枕にした。
「旭といえば、」
さっさと灯りを消した暗闇の中で大地が振り向いた。
「最近スガが付き合いが悪いって心配してたぞ」
「そ……そうか?あー、えっと、バイト忙しいから……」
後ろめたいからだろう、細山のことを言われている気がして早口に適当なことを言った。
「いや、そこは真に受けなくていいんだ。しょっちゅう会う約束したがる旭の言うことだから」
「…………うん」
旭は寂しがりだからな。それで話を片付けられると思った次の瞬間、
「スガ、何かあったか?」
外からの光もろくに差し込まない部屋で、闇に馴れた目が、ぼんやりと大地の視線を受ける。電灯を消した後で良かった。まともに見つめられたら誤魔化せない。
ほんの一瞬、細山のことを打ち明けてしまったら楽かと考えた。でも、大地に細山との関係を知られることを思ったら苦しくてすぐにやめた。あんまり苦しくて大地がどんな反応を示すかまで想像することもできなかった。大地は親友で、細山は大事な恋人だ。でも、絶対に紹介することはできないと思う。男同士で付き合っているというハードルを差し引いても俺の中で酷い矛盾になっていた。大地を信じていないわけじゃない。だけどダメだ。
気づかれないよう重く細く息を吐いた。
「何もないよ。バイトがちょっと忙しいだけだよ」
見えていないとわかっていても笑顔を作った。嘘をつくのってこんなにしんどいことだったか。
「…………そうか。別に仕送りは充分あるんだし、春高は旅費かからないんだから無理するなよ」
頭が動く気配で視線が逸れたのがわかってホッと息をつく。
「明日は予定ないんだよな?起きたらすぐ帰るのか?」
「別に決めてないけど、昼一緒に食べに行く?」
「いや、……朝がいいかな」
「飯?」
「違う。ちょっと連れて行きたいとこがあるからついでに駅まで送る」
「何?」
「また明日な」
答えないまま背を向けられ、呼びかけても返事のないまま、眠りに落ちて朝になった。
大地に連れて来られたのは個人経営の小さなスーパーだった。まだ開店前でオレンジと白の縦縞が薄汚れた日除けの下でシャッターが降りている。
狭い日除けの下に入り込んで、大地は口の前で人差し指を立てた。
「もしかして……」
小声で呟いた先を代わるように日除けに小さな影が降り立つ。
トトットトットトトッ
ほんの数羽だけ着地した雀は店の前を自転車が通過した途端飛び去ってしまった。
「スガに聞かせてもらった時のトタン屋根と違って傘の下みたいな音だったろ?」
今日の天気は晴れ予報だった。うっすら雲の流れる青空を小鳥が飛び交う。少し待っても第二陣が来ないので見切りをつけた大地が日除けから先に抜け出した。前も、先に立った大地を引き止めたい気持ちでぐずぐずと後に続いた。
「俺さ、そんなに何か悩んでる風だった……?」
「気のせいだったらそれでいいだろ。スガが元気にしか見えなくても、そのうちここに連れてくるつもりだったよ」
駅に体を向けた大地が動き出さない俺を振り返ってやんわり肩を押す。歩き出したらすぐに手が離れていった。名残惜しいけど、そう思うのもダメの気がする。昨日から自分にダメ出しをしてばかりだ。
駅について別れ際、
「もし本当に何か困って、言えるようになったらいつでも聞くからな」
曖昧に頷いたけど、心の中では首を横に振っていた。一本見送ってゆっくりホームに向かっても良かったところを急いで改札を抜けた。
優しい恋人ができて、昔の仲間と後輩たちの応援で盛り上がって、だけど今は恋人が待つ家に帰りたくない。否応なく進んでいく季節の中でどこへ向かえばいいのかわからずに足踏みをしているみたいだ。
クリスマスはイブも当日も高野さんの店を手伝うという細山に合わせて翌日の時間を空けた。
それからバイト先で計画された遅い忘年会に参加して、なんだかんだで宮城に戻ったのは三十日だった。
大晦日の朝に大地にメールを送った。三十一日は大地の誕生日だ。送信から一分ほどで携帯が鳴った。メールの遅い大地にしては早いと思いながら確認すると、大地ではなく細山からだった。細山も元日だけは実家に顔を出すと言っていたけど、実家を追い出された手前、年末年始も基本的には帰らないつもりらしい。
細山の部屋探しは難航していた。ただ本腰を入れていないだけかもしれないが、一緒に不動産屋を回っているわけでもないので実情はよくわからない。
高校卒業して実家を出るまでは大晦日の大掃除に駆り出されていたけれど、実家を離れてからは戦力にカウントされていないので、細かい買い出しを頼まれたついでに烏野商店街のバレー部OBの人たちに挨拶をしてきた。商店街は烏野高校バレー部の春高バレー全国進出を祝う垂れ幕やポスターがそこかしこに飾られていた。地元だから顔見知りも多くて、知り合いに会うたび「バレー部スゲーな」なんて声をかけられる。バレー部OBの滝ノ上さんの話では、家業の店を継いでいる人たちはみんな親や奥さんに頼み込んで大会当日の仕事を休むんだそうだ。
「俺は決勝までいったら会場まで行くけど、その時は店のテレビで試合を流しといてくれるよう親父に頼んである。嶋田マートは優勝したらセールやるってさ」
滝ノ上さんは電器店で嶋田さんはスーパーの跡取りだ。
買い物途中で一年下の後輩、田中に会った。高校を卒業しても坊主頭のままで私服もジャージなもんだから、あんまりにも時間の流れが感じられなかった。
「俺らみんなで縁下と木下んち行くんスよ!」
田中の学年のバレー部員は五人。半分が宮城や近県に残って、縁下と木下はそれぞれ進学のため東京と埼玉にいる。
「じゃあまた会場で!」
元日は大地、旭、俺たちの代のマネージャーだった清水。それから清水の参加を聞きつけてすっ飛んできた田中と西谷で初詣がてら後輩たちの全国優勝を祈願してきた。「また会場で」と言っていた田中とあまりに早い再会をしてしまった。
元日が誕生日の旭は新年の挨拶より先に誕生日の「おめでとう」を言われ、昨日が誕生日の大地とまとめて屋台の食べ物をプレゼントされていた。数日後に誕生日を迎える清水には「とっておきがあるので今日前倒しでお祝いすることはしません」と言う田中と西谷に、清水は「予定、埋まってるから」と非情な一言を放った。
「先に潔子さんの予定を押さえておくべきだったのかっ…………!」
「俺としたことが、準備に盛り上がりすぎて一番大事なことを忘れるとはっ……………!」
「…………早くに言われてたとしても、予定、空けないから」
「冬風よりクールっす潔子さん!!」
「オ、オイ……こんな人の多い所で騒いだら大地が怒るからヤメロよ」
参拝客の注目を浴びるのを嫌って清水が早足で先頭を歩く。それに続いて田中と西谷。二人の後ろをオロオロと追いかける旭。そんな高校の頃のような騒ぎぶりの三歩後ろを歩く俺たち。
「やっぱり西谷たちがいると俺たちだけでお参りするより賑やかだな」
「賑やかどころかうるさい」
西谷たちを「うるさい」と斬り捨てる大地だってバレー部の頃のようだ。こういうのは安心する。
三ヶ日を実家で過ごし、五日からの大会より早くに東京へ戻った。
一緒にバレー部で過ごした日向たちの最後の大会、最後の試合は春高決勝戦となった。
相手のユニフォームは赤。宿敵、東京の音駒高校。母校、烏野とは昔から好敵手として練習試合を重ね、カラスとネコの“ゴミ捨て場の戦い”と呼ばれていた。
「豪華なゴミ捨て場だな」
全国で一番を決める広い体育館で慣れ親しんだ黒いユニフォームが跳ぶ。
遠目にも夏とは後輩たちの顔つきが違うのがわかった。音駒も記憶にある二年前と違う。見ている方も息切れするような試合展開。第三セットまでもつれ込だ。点差のつかないまま順に二十五ポイントを超える。あと一点を守って、あと一点を追う。果ての見えないこんな試合を覚えている。
高校最後の夏、宮城県予選で影山の宿敵といえる及川徹の率いる青葉城西と戦った。その頃にはとっくに影山に正セッターの座を奪われていたけれど、一度交代して大地と、旭と同じコートに立ち、第三セットの息の詰まるようなラリーはこんな風に、外側から見ていた。
思わずキツく握った拳に大地の手が重なって、山口のフローターサーブから敵のレシーブが乱れ勝ち取った一点に烏野応援団が、山口の師匠である嶋田さんが叫んだ瞬間にグッと力が入る。
すぐに立て直し熟練したレシーブを見せる音駒のアタック。入部当時はレシーブが苦手だった月島がエースの重い一打を上げ、落下地点に素早く踏み出した影山が長い両腕を柔らかなバネにように動かし、コートを切り裂く。その先には明るい色の髪を首や額にべったり張りつかせながらも跳ぶ日向がいた。
誰の上にも重力がある。何度も跳んで、走って、倒れこんでもボールを追って、次第に体が何倍も重く感じ始める。ネットが高い。酸素の足りない頭に天井のライトの光がチカチカする。もう無理だ、足が思うように動かない。それを「もう跳べない」と思ったら終わりだ。体はとっくに限界を訴えていて、それを無視して限界の先の一歩を踏み出す。それでも高さが足りない。さっきは届いたブロックが届かなくなる。
コートの中の重力が烏野にも音駒にも平等にのしかかる中、日向だけが解き放たれていた。未だ小さな体の細い背中に羽根が生えているようだ。苦しい場面で必ずトスを呼ぶ声がする。日向は最初は“最強の囮”だった。当時のエース、旭や田中を活かすための。それでも今は違う。
「まさに、小さな巨人……」
大地が呟いた。その向こうで、応援で白熱する兄に連れられルールもよく知らないまま観戦しているらしい小さな少年が振り向いて再びコートを見下ろす。夢をみているように呟く。
「小さな……巨人」
日向が何度跳んでも音駒の足元にはボールが落ちない。
「もう一回ィィ…!」
足は止まらない。それでももうじき本当に跳べなくなるだろう。背中の黒い羽根が軋む。
「まだだ!」
「もう一回っ」
あと一点。あと一回。ボールが向こうの床に落ちるまで、その羽根が溶け崩れないように祈った。二年前よりずっと遠くコートから離れた場所から。
――――ダンッ
床に叩きつけられるボールの音。
それを追って短い笛の音が鳴り、会場は束の間の静寂に包まれた。
烏野の優勝が決まってひとしきり喜んですぐ、地元からの応援団は帰っていった。商店の跡取りたちのもぎ取った臨時休暇は今日限り。明日は仕事なので、打ち上げは後日、地元でやるそうだ。嶋田マートは安売りの準備もせねばならない。
関東住まいの俺たちと田中たちはその日の晩に打ち上げをやった。半数以上が未成年の後輩たちだから遠慮しようとしたけれど、あんまり勧めてくれるから俺たちは少しずつアルコールも頼んだ。年末やっと二十歳になった大地は正月に実家で勧められたが、「初めて飲む酒は後輩の優勝祝いのときに」と断り、これが初めて飲むビールらしい。元日に二十歳になった旭もそういう気持ちでいたが、年始の挨拶の席で酔っ払った親戚のおじさんの勧めを断りきれなかった、と何に対してかわからない涙で目を潤ませながら語った。
今回は普段こういう集まりに参加しない清水も一緒だった。地元で進学した清水は友達の家に泊まって翌日帰るというので、それに合わせてあまり遅くならないうちに解散した。護衛のつもりで帰る方向が同じ旭と一緒のタクシーに乗せたが、箸が転んでも優勝のシーンを思い出し、涙で頬を濡らす旭の背中を支えているのは清水の方で、見送る大地が「介護」と評した。
予定より早めの時間にいい気分で帰宅すると、アパートの部屋は無人だった。いい気分のまま散らかった部屋を少し片付けて居場所を作り、心地いい疲労感に目を閉じていると、玄関の鍵を開けて細山が帰ってきた。
「おかえり」
「……ただいま」
仕事帰りという格好ではなかったから食事にでも行ってきたんだろう。お互い様だけど、炊事は得意ではないから、自分一人ならすぐ外食にしてしまう。細山の新居探しが家賃条件で引っかかりガチなのも、そういう生活姿勢が原因ではないかと思う。
「孝支、結構早かったんだな」
「後輩もいたし俺らの代のマネージャーの子も来てたから早めに解散したんだ」
「ああ、地元に残ったっていう子ね。結構大人数で飲んでたんだ?」
「九人かな?こんなに集まるの久しぶりだったなぁ」
またスッと目を閉じる。それが気持ちよかったけど、ずっと閉じていたら寝てしまいそうだった。
「そっか。…………あ、まだシャワー使ってないよな。先使ってもいい?」
「うん。タオル出しとく」
「ありがと」
言いながらさっさとバスルームに消えていった細山に何か違和感を覚えて鈍い頭を回らせる。
(あ、試合結果訊かれなかったな)
興味のない試合の結果をわざわざ自分で確認しておく人じゃない。いつもなら真っ先に尋ねて、隣で話を聞いてくれる。穏やかな声で相槌を打ちながら。
でも、どうしても聞いてほしいわけじゃなかった。今日のことは大事に胸に収めて、溢れた分は仲間たちと分かち合って、行き場のない気持ちはひとつもなかった。とてもいい気分だった。
二月のある日、細山が熱を出した。
大人が発熱することってそんなにない。風邪薬の買い置きがなく、内科がすぐそこだったので、とりあえず病院に送り出してスポーツドリンクを食べられそうなものを買いに走った。
実家では看病されることはあってもすることはなく、実家を離れてからは一人で暮らしていたから、何を用意したらいいか迷ってゼリー飲料やリンゴを買ってみた。
ローテーブルに物資を並べると解熱剤が少し効いてきたらしい細山がベッドの上で「張り切ったな」と笑った。
「あとは……食べられそうになったらりんごすりおろすから」
一人暮らしを始める際に鍋や包丁と一緒に“自炊に必要そうな道具”として揃えたっきりのプラスチック製のおろし金とりんごをまな板の上に並べる。
やったことはないけどなんとかなるだろう。
「へぇ。孝支んちで風邪っていったらりんご?」
「え、いや…………」
実家ではゼリーやプリンが定番だった。たまたま家にあればりんごだって出てきたけど、わざわざ買ってくるようなメニューじゃなかった。反射的に「失敗したな」と思った。
「俺のうちじゃやらないけど、看病してもらってるって感じるよな」
「う、うん……」
曖昧に頷いて落ち着かず視線を彷徨わせた。そこで目に止まったシフト表を拾って携帯を取る。
「細山さん、店に連絡入れた?」
「ああ、今日休むってことだけ」
「明日もウチの店のナイトシフト入ってるじゃん。俺代わるって連絡しとくから、熱下がってても明日も休んでちゃんと治したほうがいいよ」
返事を待たずに電話をかけた。繋がるまでの僅かな間に、穏やかな細山の「ありがとう」の声に心苦しくなる。
シフトを代わるぐらいなんてことない。ただ、話を変えたかっただけなのだ。
風邪の日にすりおろしりんごが定番なのはうちじゃない。大地の家の話だ。親戚が青森にいて送ってくるから、冬の風邪は必ずりんごなんだって。
別に隠すことじゃない。隠すことじゃないのに細山に言いたくなかった。大地に細山のことを言い出せなかったときと似ていた。
同じ友達の話でも、例えば旭のことならいくらでも話せるし喋ってきた。話したくないのは大地のことだけだ。理由は考えないようにしていた。
細山の代わりで出勤すると、ちょうど従業員控え室兼用の事務所で机に向かっていた店長に声をかけられた。
「今日も代打で来てくれてるのに悪いんだけどさ、明日のシフト延長してもいい?休憩挟むからさ」
シフト表にはすでに“菅原”の名前のラインがあって、そこの端をトントンとペンの尻で叩く。
「? 大丈夫ですけど」
「ごめんね。助かる。細山くんに続いて小宮さんも熱出したって電話してきてさ」
「風邪、流行ってるんですか?」
「どうだかね。ウチは今のところ二人だけだし」
そこで店長は他に誰も居ないのを確認しながらも少しだけ声を潜めた。
「細山くんと小宮さん、付き合ってるってホントか知ってる?」
「!」
声は出なかったけど、うろたえた顔をしていたかもしれない。店長は俺の反応を気にすることなく話し続けた。
「ちょっとそういう噂あってね。別にいいんだけどね?そういうのでモメて急に辞められるとさあ、ね?」
「はぁ」
「で、菅原くんどうなの。細山くん居候させてるんでしょ?知らない?」
「…………すいません。あの、そういう話は聞いてません」
絞り出すようにして答え、次の質問が来る前に退散した。嘘はついていない。細山からも小宮からも何も聞いていない。
でも、心当たりがないわけじゃなかった。はっきり「二人は付き合ってるのか」と言われるまで考えないようにしていただけだ。まだ確定したわけでもない。
でも、おかしなことに、店長の言葉で細山への疑いがはっきりした形になったとき、胸の奥に溜まっていた重たい石がひとつスッと消えた思いがした。本当なら細山の恋人として胸を痛めたり腹を立てたりする場面のはずなのに、そういう激しい気持ちはひとつも湧き上がってこなかった。
二日休んで復活した細山は予定通り、俺が出勤する裏で高野さんの店へ出勤していった。三月が近づくと、学生を中心に何人かバイトを辞めていく関係で忙しくなった。高野さんの店も同じ事で、向こうに駆り出されがちな細山とは職場で顔を合わせなくなった。家でもすれ違いが増えて、たまにゆっくりできる日には、買い出しを提案しても細山は腰を上げず、なんだかんだ言いくるめられて抱き合ってばかり過ごすことになった。別に楽しいわけじゃなかったけれど、ごちゃごちゃと考えこんでいるよりずっと楽だった。
三月の始めには俺が風邪を引いた。
人手不足でお互いシフトに入れる限界まで組まれていて、欠勤の連絡を入れるのも申し訳なさでいっぱいだった。その上、細山にまでうつすわけにはいかない。そう理由をつけて細山にはしばらく他で寝泊まりしてもらうよう頼んだ。元々一人暮らし用の狭いアパートだ。布団だって一組しかない。
でも、心身とも弱っている今は距離を置きたい、というのが一番の理由だった。
寝ていれば治ると思ってそうしたものの、冷蔵庫を開けても缶ビールしかない現実には打ちのめされた。日頃から自炊をさぼっているとこうなる。何か食材があったところで調理する気力も残っていなかったけれど。
自力で買い出しに行くにも熱が高すぎた。ちょうど週末で最寄りの病院はやっていないし、このまま正味二日も一人でろくに口にできるものもなく過ごすのは恐ろしく、携帯を開いて、かなり時間をかけてメールを一通送った。
「おじゃましま……うわっ!散らかしてるなあ。大丈夫かー?」
最寄り駅に到着したと連絡が来た時点で鍵を開けておいた玄関から勝手に入ってきた旭が大きな体を揺らす。
「前はもうちょっときれいにしてただろ。風邪で片付けてないってレベルじゃないよなあ」
足元を確認しながらベッドの横まで来て両手に持ったパンパンのビニール袋を下ろした。中身はスポーツドリンクとゼリー類。市販の風邪薬と冷却シートもある。
「起き上がれるか?コップ……あー、待って。今洗うから、そしたら起き上がって薬飲め」
コップとスプーンばかりのシンクで取り急ぎグラスを一つだけ洗って持ってきてくれた。何も食べられそうになかったから、スポーツドリンクを多めに飲んですぐ横になった。
「ごめん、旭」
「いいっていいって。どうせ暇だったしさ。暇ついでにここらへん勝手に片付けるけどいいよな?」
床に散らばっているのはほとんど細山のものだったからあまりよくなかったけれど、止めるのも面倒で黙って見ていた。雑誌を一つの山にして、ゴミを集めて、脱ぎ捨てたものと取り込んだ洗濯物と区別のつかない衣類を回収し。その途中で手が止まる。
「……スガ、今誰かと暮らしてる?」
きた。家にあげたらすぐバレると思った。何も片付いていなかったおかげでカップが二人分あることには気づかなかったようだし、風呂場まで行かなかったから歯ブラシの数も見ていなかったけれど、明らかに俺の趣味じゃない雑誌やサイズすら違う服でわかったらしい。
「うん」
助けを呼ぼうとしたとき、候補は三人きりだった。細山と、旭と、大地。細山は呼び戻したくなかった。家にあげれば細山のことがバレるだろうと考えたら、すぐに旭のアドレスに手が伸びた。
服をかき集めてベッド脇まできた旭がしゃがんだままビタッと固まるのを枕に埋まりながら見ていた。以前ぐちゃぐちゃ考えていたときに想像したほど不安や心配でいっぱいにはなっていなくて、うろたえる旭を冷静に観察できた。
「あ、あの……あのさ、スガ」
「付き合ってる」
「え?」
「一緒に暮らしてるヒトと。バイト先の先輩だけど、実家を追い出されてからアパート見つけるまでって約束でずっと泊めてる」
「………………」
打ち明けるのは案外簡単だった。旭はベッドの下のセックスのための道具と身じろぎもしない俺を見比べて、眉尻を下げた。
「……そうか」
ほら、旭は男と抱き合ってると知っても否定したりしない。
「その人は今日帰ってこないの?」
「仕事が忙しいから、同じ部屋で寝泊まりしてうつすわけにいかないし、しばらく出てってもらってる」
「買い物も頼めない?」
「呼びつけてごめん」
「ああ、そういう意味じゃなくて……」
高校の時から変わらず長い髪を一つに括った後頭部に手を当て唸る。
「なあ、どうして俺を呼んだの?」
少し質問が変わった。熱でしゃっきりしない頭でも、その違いがよくわかって、すぐには答えられずにいたら、理解できなかったと思われたのか、旭が言葉を足す。
「何か事情があって恋人に頼めないのはわかったよ。でも、距離なら大地の方が近いよな。大地の方がこういうときも役に立つだろうし、いつも頼りにしてるのは俺より大地だろう?」
「…………」
「大地だってさ、その、男の人と付き合ってるからって嫌な顔するタイプじゃないよ……多分。」
「……うん、俺もそう思う」
「でも、大地には知られたくないんだろ?」
「………………うん」
遠目には大柄で恐く見えるけど、少し彫りが深めで、大型犬のような目でじっと見つめられた。見た目に反して気持ちが弱くて、一度言った言葉さえ自信がなくて濁してしまったりする。そんな旭がゆっくり質問を重ねて俺を暴きにくる。ついに居た堪れなくなって枕に顔を埋めた。こんなしっかりした態度の旭は久しぶりに見る。
「はぁ…………」
「ごめん……」
「え、いや、別に怒ってるわけじゃないけど」
やや間があって、諭すような穏やかで真面目な声音で続けた。
「別にスガが好きなら男でも女でもいいと思うし、一緒に住むのもいいと思うよ。だけど、大地に言えないような相手はやめとけよ」
旭はいつだってそうだ。自分がダメと思うからダメだ、とは言わないで、「大地が怒るよ」と言ってダメを言う。そんなどうしようもないところが、二十歳になった今も変わらない。せめて、今だけでも「俺はダメだと思う」って言ってくれたらいいのに。
また他人に、考えないようにしていたことを整理された。次はどうして旭には言えて大地に言えないのかを考えなくちゃいけなくなる。
消去法で旭を呼んだのだって正解じゃなかったのかもしれない、と恩知らずに腹を立てて、枕の中からやっと言い返した。
「…………大地大地って、大地は保護者かよ」
旭が弱り声で「それは嫌だなあ」と言うので笑ってしまった。
◇◇◇
うんともすんとも言わない携帯をそっと上着のポケットに戻した。
返事を待っているメールは来ないが、要らない誘いは舞い込んでくる。つい最近も何かの用事のついでで会ったはずの旭に誘われて食事に来ていた。
「俺ばっかり誘ってるじゃん。大地も誘ってよ」
と言うが、俺が旭の顔を見たくなるより先に旭から次の誘いがくるのだ。こんな調子でも大学の友達付き合いも充分こなしているというから不思議だ。
「あれ、また携帯見てたのか。大地が、珍しいなあ」
「一昨日送ったメールの返事が来ないから、体調でも崩してるのかと心配になってただけだ」
誰が、とは言わなかったのに、当たり前のような顔で旭が頷いた。
「スガか。一日もあれば絶対返してくるもんな」
「…………」
「この間の風邪はもう治ってると思うけど、またインフル流行ってるみたいだしな」
お通しの切り干し大根を摘みながら聞いていない話をする。頭ごと振り向いて見据えると、あからさまに「しまった」という顔をした。
「この間っていつの話だ?」
「え、えーっと……この間の土曜?」
「そんなに具合悪かったのか?」
「まあ、寝込んでたぐらいだし…………いやっ!いや、でも月曜に治ったって連絡来てたからっ」
「俺には何の連絡もきてなかったが」
「そりゃあ…………」
何か知っている。でもすぐに大きな両手を口に当てて首を振った。舌打ちしてスガに電話をかける。
「だ、大地、ホントにスガが自分でもう大丈夫だって……」
「…………出ない。ちょっと顔見に行ってくる」
「えぇー?今から?」
上着を取って立ち上がると呆れ声が焦りに変わる。
「ちょっと大地、頼んだ料理まだ出てきてもないのに……」
「全部やる」
そう言って財布から割り勘代には充分な金額を置いて店を出た。旭は一度中腰になったものの、自分まで料理を待たずに出るわけにもいかず追ってこなかった。後で追加注文するつもりで頼んだから、一人でも食べきれるだろう。
駅のホームに立つのと同時に電車が滑りこんでくる。ほとんど足を止めることなく乗り込んだ。時計を見る。思っていたより遅くに着くことになりそうだ。背中を閉ざされた扉に預けてそっと目を閉じた。
後一時間授業を受けたら昼休み、という短い休み時間をぼんやりと過ごしていた。次も移動なく教室で座学だ。机に突っ伏したら負けのような気がして、椅子の背もたれを支えに座ってそっと目を閉じた。喧騒が遠い。と思った時、旭の声が聞こえた。気のせいかと疑いつつ目を開ければ、教室の入口からこちらへほぼ一直線に向かってくるスガが見えた。
椅子や生徒、乱れた机など、障害物はいくらでもあるはずだが、まっすぐこちらを見据えて向かってくる様子は一直線以外に言い様がない。そんなスガの向こう側、教室の入り口に背中を丸めた旭を発見した。幻聴ではなかったようだ。
スガは無言ですぐ横まで来て、予告なく額に手を当てた。あまりに迷いのない行動に、避けることも出来なかった。
「三九度」
「……そんなにないよ」
手を軽く振り払ってなるべく平気そうに見えるよう表情を作った。スガに通用するとも思わないが。
「保健室いくべ」
「大丈夫だって。この後は午後も座りっぱなしだし、放課後には落ち着いてる」
「そんな自信あるなら保健室で熱計るぐらいいいだろ。行くぞ」
「でも……」
「わがまま禁止!」
腕を引っ張りあげられ渋々立つと、すぐ近くまで来ていた旭がスガを眩しそうに見つめて「大地にそんなこと言えるのはスガだけ……」と呟くので脛を蹴っておいた。
その日は朝練もなく、二クラス離れているおかげで体育も合同でないスガとは会わないで過ごしていた。朝から調子が悪かったから、休み時間も極力教室の自分の席を動かなかったぐらいだ。
結局三人で保健室に向かうことになった。付き添いのスガはいいとしても、旭は完全におまけだったが。
「旭、スガに余計なこと言ったろ」
ズンズン先頭を歩いて行くスガの背後で声をひそめる。
「余計なことって、調子悪そうだったのはホントだろ?」
「だったらスガに言わず直接俺に言えよ」
一時間目が旭のクラスと合同の体育で、不調を見破られても「大丈夫だ」と言えば旭は引き下がった。大きな体に似合わず気が小さいので、強く言われるとそれ以上食い下がれないのだ。
「大地」
コソコソ話している俺たちを振り返らずにスガが低い声で呼んだ瞬間、俺と、ついでに旭は、あからさまに肩をびくつかせてしまった。
「旭に聞かなくたって昼にでも会ったらバレるんだから観念しろよ」
「でも、なぁ……」
「でもじゃない。三八度以上あったらちゃんと早退して休めよ」
「断る」
「少なくとも部活に来たら追い返すからな」
「馬鹿言うなよ。今俺が休むわけには……」
「一日ぐらいいなくたって大丈夫だから休め!」
ハッキリ言われて腹が立った。高校二年の六月のおわり。三年生が引退して、俺が主将、スガが副主将になって間もなく、名将と謳われた烏養監督復帰の噂が流れる中、浮き足立ったチームをまとめるのに必死だった時だ。
雨が降りだしてすぐに幼い弟が風邪を引いて、どうやらそれをもらったらしかった。とはいえ、小学校に上がったばかりの弟と高校生の自分では体力も身体の丈夫さも違う。少しの熱や倦怠感で休むわけにはいかない。三年生が引退してから、練習のやり方を少し変え、烏野が強豪だった頃の練習にもついていけるようメニューを少し厳しくした。烏養監督が復帰する今年、それから来年こそが全国の舞台へ舞い戻る時だと信じて。
そんな大事な時期に主将が風邪で休むなんてありえない。それをスガはすっぱり否定した。
「大地がいなくても俺と旭でちゃんとやっとくから心配要らないから」
「……俺がいなくてもいいって?」
体調が悪いせいで感情のコントロールが上手くなくて、普段よりも素直に憤りが声に出た。保健室の引き戸に手をかけてピタリととまったスガが日頃の愛嬌を剥ぎ取ったような顔で睨んだ。さすがに怯む。
「……質問で返すけど、大地は俺たちのこと信頼出来ないって?」
「!」
「大地と同じにやれるわけじゃないけど、一日ぐらいフォローできると、俺は思ってるんだけど?」
大きめの目が突き刺すようにこちらを見ている。細い矢じゃなく、太い槍みたいな。スガは顔の作りが小奇麗で、よく笑うから優しそうに見えるし、それで最初は舐められることだってある。でも、まともに付き合うとそればっかりじゃないのがわかる。芯が強くて、ここぞというときは、少し恐い。
見つめ合っていられなくなって視線を落とした。
「…………悪かった。今日のことは任せて休ませてもらう」
いつの間にか俺の背中に隠れていた旭が背後で安堵の息を吐いた。
養護教諭に早退許可証の記入を頼んで熱を計っていると、今まで堪えていた分まで熱が上がっていくようなどうしようもない倦怠感に襲われた。一度認めてしまうとダメだ。気持ちまで緩んできてため息が漏れた。
「……やっぱり部活、休みたくないな」
「大地、」
「大丈夫。わかってるよ」
素早く咎めるスガに手を上げて完全降伏した。こういう時のスガに逆らうのは、熱でフラフラの頭じゃ無理だ。万全の体調でも怪しいかもしれない。
「わがまま禁止だからな」
「はいはい……」
「その代わり、元気になったら朝練でも早朝でも昼でも付き合うからな」
「あ、俺も俺も」
スガが威圧を止めた途端に旭が横合いから首を出した。それからチャイムが鳴るギリギリに教室に戻って荷物を拾って早退した。真昼間の自宅の布団で居心地悪く寝返りを打ちながら、
(俺が部活休みたくないって言った理由、部が心配だからじゃないってすぐわかるんだな)
当たり前のような、大事なようなことを考えた。体は熱でふわふわしているのに、部活の時間が恋しくて堪らなかった。主将としての務めじゃなく、ただバレーがしたかった。
久しぶりに訪れる駅名のアナウンスで目を開いた。寝ていたわけではないけれど、寄りかかった扉が目的地まで開かないのをいいことに目を瞑ったままだったから、同じ車内でも乗車した時とは随分景色が違って見えた。
駅とスガのアパートの間にはコンビニや遅くまで営業しているスーパーがぽつぽつあって、その灯りが見えるたびに差し入れを買うべきか迷って止めた。様子を見てから買ったほうがいい。もし、本当にろくに動けない状態だったら水分しか摂れない可能性もある。スガのアパートの近くにも色々な店があったはずだ。一度顔を見てからでも大した手間にならない。
全くの手ぶらで記憶を頼りにスガのアパートの通りまで来ると、二階の部屋の玄関が開いていて、室内の灯りが目の前の通りまで光の帯を作っていた。スガの部屋も二階だった。見上げると、玄関の開いた部屋こそがスガの部屋だった。戸口に男が一人立っていて、何か話しているようだった。
大学の友達だろうか。何人か偶然会って紹介されたことがあるが、正直顔も名前もあまり覚えていない。でも、自分より先に見舞いに来てくれる友達がいるのだと思うと寂しい気もする。
部屋の内側に立つスガの陰が見えた。寝込んでいるわけではなさそうだ。焦って駆けつけたのが急に間抜けに思えてきたが、ここまできて会わずに帰るのも間抜けだ。スガの部屋と隣の部屋の間にかかる外階段を昇ろうとして、揉めているような声に動きを止めた。
「ちゃんと話そう、孝支」
「ごめん、………細山さんが悪いんじゃなくて、俺のせいだから………勝手でごめんなさい。家が決まるまで荷物は預かるから」
「そういう心配してんじゃなくてさ、俺に愛想尽かしたならそう言ってくれよ」
「違う!俺が悪いだけなんだ……」
「じゃあ、まだ話し合う余地アリだろ?」
「…………ごめん」
少し間があって、男がため息混じりに言った。
「…………わかった。今日は別のところに泊まる。でも後でまたちゃんと話そうな。俺はまだ好きなんだ」
スガの返事は聞こえなかったが、じきに扉の閉まる音がして、外に伸びた光が細くなって消えた。俺は咄嗟に階段の裏に隠れた。顔は見えなかったが、相手は全く知らない男だったと思う。
玄関横の小窓から光の漏れるスガの部屋を呆然と見上げた。立ち聞きした内容は男女の別れ話みたいだった。男は確かに「好きなんだ」と言った。
高校時代のスガが脳裏によみがえる。毎日のように見た、優しく笑うきれいな顔。バレー部としては小さめだが、学年で比べたら特別小さいわけでもなく、一緒に部活で鍛えた腕や足はちゃんと筋肉質だった。体質で思うほどには筋肉がつかず、俺や旭と比べて拗ねたりもした。あのスガが。
案外細かに覚えているスガの顔や、身体のパーツを思い出すうちに頭がカッと熱くなって、慌てて首を振った。
やっぱりこのまま会わずに帰るべきなのだろうか。でも、気落ちしているのは間違いないと思う。それなら、折角来たのだから、体調を崩しているわけじゃないことだけでも確認しよう。
それから少し迷って近くの弁当屋まで引き返した。大会で負けた後はコーチにたくさん食えと言われて泣きながら食べた。体を作るための飯だったけれど、それだけじゃないと思っている。温かい味噌汁や優しい味の煮物で腹の奥から暖かくなると安心する。スガはマメに自炊をするタイプではないし、何かあった後なら余計にきちんと食べているか怪しかった。唐揚げ弁当を大盛りで二つ包んでもらって、豚汁もつけた。
アパートに戻って、少しだけ躊躇って呼び鈴を押す。灯りはついていたし気配もあったが、すぐに出てこないのでもう一度押した。解錠の音の後でゆっくり細く扉が開かれる。
「…………細山さん、何か忘れ物でも――――」
「スガ」
僅かな扉の隙間から玄関前の硬い床を見ていたスガがパッと顔を上げる。目をまんまるにして。
「大地………!」
驚きと動揺が顔いっぱいに広がって眉間に皺が寄る。その顔をあまり見ていられなくて、弁当の袋を目線の高さに上げた。
「………旭にスガが風邪で寝込んでたって聞いて顔見に来たんだ」
「旭のヤツ…………寝込んだって先週の話だから大丈夫なのに」
「治ったとは聞いたけど、連絡とれなかったから、また調子崩してるんじゃないかと思ってさ」
少し、苦しいな、と思った。連絡が取れなくて心配したのは本当だけど、先週寝込んだ時点でスガが連絡を寄こしていたら「治った」の報せをそのまま受け取っていたと思う。俺の家より距離のある旭だけが呼びつけられたことが納得いかなくて、無理にやってきたのだ。
数カ月前から様子がおかしい時があったのも気になっていたが、それもこれもさっきの男に関係しているんだろう。理解がないと思われているのもショックだが、実際に酷く動揺しているのだから仕方ない。そう自分に言い聞かせた。
「ごめん、ちょっと、その……色々あって、何も返事してなくて」
「いいよ。俺が勝手にきたんだ。元気だってわかったら充分だ」
「…………ほんとにゴメン」
「いいって。飯はちゃんと食えてるか?差し入れに弁当買ってきたから食べろよ。一応俺の分もあるけど、大丈夫ならこのまま帰るから、明日にでもスガが食ってくれ」
口を引き結んだり、何か言いかけたり落ち着かない様子で言葉を躊躇うスガに弁当を押し付ける。玄関の扉はチェーンこそかかっていなかったが、いつものように大きく開かれることはなかった。向き合うのを拒むような幅でお互いなんとなく目線が合わないまま会話していた。
話したくないことを無理矢理聞こうとは思わない。さっきの男だって、また戻ってくるかもわからない。相手は別れ話に納得したわけでは無さそうだったし、そうなったら俺はあっと言う間に邪魔者になる。その場面に居合わせたくなかった。
スガが包みを受け取ると同時に階段に体を向けた。
「それじゃ、また……」
「………待てよ!」
さっさとこの場を離れようとしていた足を止める。
「あの………俺……」
「スガ?」
「あー………その……」
呼び止めたものの、言いたいことがまとまらないようで、意味のない声をこぼして頭を振った。
「えっと、時間、大丈夫だったら、ちょっと上がってけよ。……ほら、折角ここまで来てくれたんだし」
「別にそんなの気にしなくていいからゆっくり休めって」
「そうじゃない。違うんだ。…………ダメかな」
頼りなく上目遣いで見上げられ、それまで考えていた色々なことが一瞬頭から抜けた。「ああ」とか「じゃあ」とか、曖昧に頷いて、玄関扉の内側に踏み込んだ。
ワンルームの玄関に入ると左手に短い壁があって、壁の向こうに狭いキッチン。その向こうの壁から突き出すように手狭な脱衣所兼洗濯機置場。その僅かなスペースを挟んで風呂場とトイレがある。玄関から見て突き当りに窓があって、窓に垂直に、川の字でベッドと長方形のローテーブルとテレビやカラーボックス、勉強机やなんかが置かれていてる。広くはないから一つ一つのモノの間隔は狭いものの、一人暮らしには充分な間取りだ。
スガはマメに片付けをするタイプではないから、遊びに来て無駄なものがひとつもなく整っていたことはない。その代わりに、雑に生活してもそれなりに片付くよう工夫している。取り込んだ洗濯物を放り込で畳む気が起きるまで放置するための大きなかごがあるし、頻繁に使う上着や財布やカバンをひとまとめに放り込んでおくかごもある。ローテーブルの脇にはマガジンラックがあって、読みかけの雑誌でも勉強道具でも何でも突っ込んでいた。自炊はあまりしないお陰でコレといった工夫をしていないキッチンスペースもそれほど散らかっておらず、隅にゴミ袋が少し溜めてあるばかり。いつ来てもそういう部屋だった。
玄関に入ってスガが目の前を退いた途端に飛び込んできた光景に絶句した。記憶にある部屋とあんまりに違いすぎて。
インテリアが違うとか、壁に趣味じゃないポスターが貼られているとか、そういうことじゃない。ただ散らかっている。スガの趣味と違う服がいくつかの山を作っていたり、雑誌やCDがテレビ前を中心に散乱している。物の量が多くて従来のスガ方式で片づけ切れていない。
驚きで玄関で立ち往生している間、スガはローテーブルにあった灰皿を素早くシンクに移動させた。スガはタバコを吸わないし、今まで会った大学の友人に喫煙者は多分いない。靴を脱いで歩きながらゆっくり部屋を見渡してもタバコやライターはなかったから、スガが吸わないのは変わっていないんだろう。だとすればきっと男のものだ。この荷物も全て。頭の奥がチリチリする。
「ご、ごめん、散らかってて……」
急いでローテーブルの上の本をどけ、テレビ前の床に積んだ。マガジンラックはすでにいっぱいだった。どうやってもテレビ前は簡単には片付かないので、ベッド側の物をどけて二人分のスペースを作ったスガは、座る暇なくキッチンに戻って冷蔵庫の中身を確認し始めた。確保してもらったスペースに腰を下ろす。何度も来ているスガの部屋なのに落ち着かなくて、ついあちこち見回してしまう。
そういえば、ボールが見当たらない。大体床に転がっているバレーボール。物が多くて埋まっているのかと目で探し、ベッドの下で発見した。ちゃんとあったことに少しホッとして伸ばした手がピタリと止まる。ボールの横に見慣れないものがあった。だけどそれがどういうものかわからないわけじゃない。
使いかけの潤滑剤のボトルとコンドームだった。あって当然だ。スガと男は恋人関係で、一緒に住んでいたんだから。
ちっとも考えなかったわけでもない。だけど、こうして現実を突きつけられて、頭の中が真っ白になった。三年間を一緒に過ごしたスガとそれらが結びつかないと思うのに、ショックから数秒かけて解凍されてきた頭はろくでもないことを考える。着替えであらわになる白い腹とか、合宿所の風呂で見たツルンとした背中。夏場にハーフパンツの裾を捲り上げて「ハーパン焼け!」と笑って見せられた日に焼けない太ももや、汗ばむ首筋。なんてことない、部活に捧げた日々の思い出が次々浮かんで頭を振っても振り払えない。
信頼して、信頼されて過ごした大事な思い出を下世話な現実に結びつけてしまう自分に腹が立つ。後ろめたさから指先に触れそうだったバレーボールに触れないまま手を引いた。冷蔵庫を閉める音で慌てて向き直る。必死で表情を取り繕った。
「ごめん、飲み物水しかなかった。これから買ってくる」
「別にいいよ。カップの味噌汁もあるからお湯だけもらえるか」
「それ飲み物じゃないべ」
そう言いながらもお湯を沸かす支度をして再び冷蔵庫を開け、首だけで振り返った。
「大地、飲む?」
弁当を袋から出していた手を止め見ると、ビール缶が二本。スガが飲みたいんだろう。俺が断ったらスガもやめてしまいそうだったから頷いた。年末に二十歳になってから何度か飲んでいるが、まだビールの美味さはいまいちわからなかったけれど。
テーブルの上に弁当とビールと豚汁を並べると、スガが手を合わせる。それから箸を片手に持ったままビール缶のプルタブを開けて口をつけた。合わせて俺もプルタブを引く。軽く一口飲んでもやっぱり美味さはわからなかった。「そのうちわかる」とよく言われるが、好んで飲んでいるはずのスガも美味そうには見えなかった。
酒で喉を潤したスガは弁当の唐揚げを壁で口に運んでいく。注文してから、病み上がりならもっと軽く食べられるものが良かったかと考え直したりもしたけど。
「……大丈夫そうだな」
「何が?」
「風邪。それだけ食えるなら充分だ」
「だからホントに治ったんだってば。今日もバイトだったし。旭も蒸し返すなよな」
「言い出したのは旭じゃなくて俺だよ。メールの返事が来ないって話の流れでさ」
「あー……ごめん。ちょっと、色々あって」
箸が止まって缶に手が伸びた。水か何かみたいに、自分を落ち着かせるように液体を飲む。
「いや、俺が勝手に心配しただけだから気にするなよ」
「どっちみち心配かけたってことだろ?」
本気で反省しているようで、俯く頭に手を乗せた。後輩にするみたいに髪をかき回してやる。スガはされるがままになっていた。心配させたことをスガは気にするけど、そうやって大人しくされると余計に本調子じゃないのが伝わって不安になる。長いこと頭を触って、なんとなく、乱した髪を指で梳いてから手を離した。入れ違いにスガが自分の襟足に手を当てる。
それから食べ終わるまで無言になってしまった。食べるのに集中して残ったビールを食後に流しこんだ。時計を見ると終電は終わっていて、旭から着信とメールが入っていた。スガの安否を確認して一緒に夕飯を食べた旨をメールして返信を待たずに携帯を上着のポケットにしまい直した。
腹が膨れると少し気分がマシになる。ずっとどうすべきか迷っていたけど、腹を決めた。食事の後片付けを終えてベッドを背もたれに一息ついたタイミングで真正面から訊くことにした。
「あのさ、さっき、ここに弁当持って来る前に、スガが誰かと部屋の前で話してるの、聞いた」
並んでベッドに体重を預けてぼんやりしていたスガがあからさまに体をこわばらせた。言葉を選ぼうとしたけど、どう言っても結局は同じ事だと思い直す。
「盗み聞きになって悪い。とやかく言おうと思ってるわけじゃないんだ」
「…………」
「ただ、気になっているものを聞かなかったフリで黙っているのも居心地悪くてな。訊いてもいいか?」
「…………いいよ」
少し声が震えていた気がした。それでも構わず続けた。
「さっきのヤツがここで一緒に住んでたんだな?」
「うん」
「それで、それは友達とかじゃなく………付き合ってたのか?」
現在進行形にするか過去形にするか迷って、過去形にした。当たっていると思ったから。スガが細く長く息を吐く。ベッドに寄りかかって天井を仰いで目の上に拳を乗せた。泣いているようにも見えた。
「…………うん。最近、別れ話して、それで、とっちらかってて、メールも返事してなくて、ごめん」
「そうか。話しづらいこと聞いて悪かった」
「いいって。旭は何か言ってなかったか?」
「聞いてないけど何か知ってる様子なのはバレバレだった」
「隠し事できないヤツだなあ」
「旭だからな」
顔から拳を外したスガは再び冷蔵庫から缶ビールを出してきた。男が置いてったものだというので余計に不味くなったが、飲まずに話し続けるのも辛いので受け取った。
「いつから、そういうことになったんだ?」
「付き合ったのは……インハイ見に行くためにバイト始めて、しばらくしてから、かな。バイト先のヒト」
「……………………。夏にはまだ一緒に住んでなかったよな」
「それは、秋ごろだったかな。実家住まいだったんだけど、事情があって、部屋を見つけるまでの間って約束で居候させてたんだけど、今頃までずるずる続いちゃってさ」
そういうのを同棲っていうんじゃないだろうかと思ったが、スガは、今はそう言いたくないのかもしれない。
「荷物、多いんだな」
「片付けられないヒトなんだよな。人からよく物をもらうし、捨てるのが苦手だからって増えてく一方だし。悪い人じゃないんだけど」
別に、別れたならそこでフォローを入れなくたっていいんじゃないか。イラついてビールに口をつける。
「そういう生活が合わなくて……ってうわけじゃないのか」
「別れた原因?」
「…………スマン。聞きすぎた」
「気にしなくていいけどさ。………まあ、ちょっと困ってるけど、これが原因ってわけじゃないよ」
両手の間で缶を転がして首を俯けた。缶の上に空いた真っ暗な穴の奥に何かを見ているみたいだ。
「………………………俺が悪いんだ」
「…………」
とやかく言うつもりはないから口に出さないけど、本当にスガだけが悪いとは思えなかった。恋人だろうがなんだろうが、居候の身でこんな図々しい生活をしていて、スガが寝込んでも助けを求められない。そういうヤツなんだろう?きちんと会ったこともない相手だけど、スガが庇えばイライラした。
黙って話の続きを待ってみたが、それ以上は言わない。スガが喋りたくないラインまできたらしい。でも、黙ってしまったスガが何を考えているか知りたくて仕方がなかった。
酔いで白い首がほんのり赤くなっている。髪の間から覗く耳も。柔らかなカーブを描く頬も。
問いただせない代わりに少しでも何かを感じ取りたくて、じっと見つめていたらいつの間にかかなり近くなっていたスガが顔を上げる。意識しないまま体がゆっくりと傾いて距離が詰まっていて、お互いがその近さに驚いた顔をしたけれど、まだ頭はぼんやりしたままだった。どちらも慌てて飛び退いたりはしない。
そのうち眠るようにゆっくりとスガが目を閉じた。僅かにこちらを見上げたまま。身じろぎしただけで触れそうだと思う。
実際少し身を屈めただけで口が触れ合った。眠気でまぶたが閉じるみたいに、吸い寄せられるように近づいて、多分俺の方から口づけた。冷静になったらバカなことをしたけど、混乱のせいか酒のせいか、元からバカだったのか。一度合わさった唇は簡単には離せなかった。
柔らかさを確かめるように少し角度を変えては押し付ける。スガがくすぐるように、食べるように口を動かした。そのうち服の腹のあたりの布地を引かれて体に手を回した。先に舌を出したのはどちらだったかわからない。誤魔化しもいいわけもできないようなキスになるのに時間はかからなかった。
温かく濡れた舌を追うのに夢中になっている間にスガの手が下半身に触れた。偶然当たったのかと思う間もなく、明確な目的を持ってそこを指先で撫でられる。ベルトを外し、とっくに苦しくなっていた股間をくつろげ、下着越しに形を確かめるように丁寧に触られて堪らず口を離した。
あさましく反応していることをからかわれるかと思った。ここまできてもどこかで冗談にしておかなければならない気がしていたからだ。でも、輪郭が焦点を結ぶほど距離ができたスガは笑ったり蔑むような顔はひとつもしなくて、切なそうに眉根を寄せたまま目を合わせず身を屈めた。
二人で食事するだけのスペースしか作っていない床で窮屈そうに体を丸めて、無言で下着から取り出したものに口をつける。迷いのない動きで、止めようとした言葉は短い呻きに変わった。
「うっ……」
温かな口の中で舌が絡みつく。丁寧に凹凸を舌先でなぞられたかと思えば、唇と指で扱き上げられる。ますます余裕を失う頭の隅で、考えなくていいことがすきま風のように差し込む。
――――こういうのもあの男に教えこまれたのだろうか。
目を開ければ部屋中に散らばる男の私物が否応なく飛び込んできて、どうしてかムカムカする。苛立ちのままに髪を一瞬だけ掴みかけて首を振った。
熱心にそこに吸い付くスガのやり方が一段階変わったところでのけぞって後ろに手をつく。その手が何かにに当たってゴトッと鈍い物音がした。
物に溢れている部屋だから咄嗟に何を倒したのかわからず、振り向いた。
「あ」
透明のボトルがフローリングをわずかに転がってコンドームにひっかかって止まっていた。スガが股間から顔を上げて動きを止める。中途半端に放置された欲望と濡れた赤い唇を見てため息が漏れた。
でもこれで良かったんだろう。お互いの気の迷いとしか説明ができないコレは、どこかでやめなくちゃいけなかった。その場の空気でどうにかなったらお互い後悔する。
がっかりする気持ちは見ないことにして乱れた下半身を整えようとした。それを阻むようにして体を寄せ、スガが俺の背後に腕を伸ばした。潤滑油とコンドームを手繰り寄せてベッドに這い上がる。それを期待と困惑の中で見ていた。
スガはゆっくりとシャツを脱ぐ。少し肌寒い部屋の中、白い上半身が蛍光灯の白い明かりの下であらわになった。
このへんで止めとこう。悪ふざけもさすがにやりすぎだ。酔っ払いすぎだよ。
ここで終わりにする言葉を言わなければならない。俺が言わなかったらスガは止める気がないようだった。ただ、完全にその気になっている体がなかなか理性的な文句を言わせない。グズグズして、目の前の体から目が離せなくなっている間に、スガが口を開いた。
「…………………」
開いた口が何か言葉の形になって、声にならず閉じられた。それから少し迷うような間があって、
「…………大地」
弱く呼びかけられた。体の奥がざわざわする。それでもまだ動けず、言葉も出なかった。
部屋の何処かで携帯のバイブ音がする。これだけ散らかっていてもどこにあるのかはわかるらしい。スガは反射的にローテーブルの脇のあたりを見たが、取りには行かなかった。着信ではなくメールだったようで、すぐに鳴り止んだ。
――――多分、アイツだ。
携帯はどこにあるのかすらわからなかったし、スガは何も言わなかったけれど、相手はあの男だと直感した。こんなときに存在を主張されて腹が立つと同時に閃いた。さっき、スガが言いかけた言葉。それはあの男の名前だったんじゃないか。疑いだすとそれが真実のように思われた。
相手は傷心中の酔っ払いだ。別れた原因は自分だと言いながらも悲しそうな顔をして。別れを切り出したものの未練があってもおかしくない。それで、あの男の代わりを求めていたんじゃないか。
気持ちが弱くなるとバカなことを考えるのはよくあることだし、始まりのキスは自分からだった。被害者のつもりはこれっぽっちもない。それでも突如濃くなった見知らぬ男の陰に脳みそがグラグラ煮えて、体の中で暴れだす。頭が熱くなって酔いがグッと回った気がした。
体の奥で噴出したドロドロして、熱くて、底からブクブク湧き上がる何かが、勝手に腕を動かし、足を動かし、ベッドに乗り上がってシャツを脱ぎ捨てた。
上擦った声が上がるたびに興奮で腰がズンと疼く。そのくせ欲ばっかりで頭がいっぱいにならないのが不思議だった。
セックスっていうのは不格好なことばっかりだ。男同士だと受け入れるための準備にも手間がかかる。
段取りがわからない俺が見ている前で、なるべく視線から逃れるように姿勢を変えながら、潤滑剤をたっぷり塗りつけた穴に指を出し入れする。その間もお互い黙っていた。ここまできて止める気もないのに、何か言ったら終わってしまうような気がしたからだ。
居心地悪い沈黙の中で、散らかった部屋の狭いベッドの上で、一人で自分の尻を弄るのはしんどいだろうな、と思う。でも、そんな姿に興奮して、半面で腹を立てた。知らないうちにこんなことを覚えて、知らない男に犯させて。イライラする。
指が抜かれるのを待って、スガに促される前に自分で支度をして力任せに肩を押した。
「わっ!」
バランス崩して背中から布団に倒れこんだスガの白い足を掴みあげると全てが丸見えになった。今更ながらに慌てて隠そうとした手を掴んで頭の脇に押さえつける。手荒なことをしていると思う。ずっと大事だったスガを傷つけたいと思ったことは一度もない。でも今は優しくできない。それが、性欲に目が眩んでいるせいじゃないことを、とっくにわかっていた。
見下ろした顔に怯えがにじむ。行動は衝動に振り回されているのに、握りつぶされるように胸が苦しくなる。
苛立ちも罪悪感も振り払いたくて頭を振る代わりに体を進めた。さっきまで指が出入りしていた場所に先端を押し付けると、まだ少しも入っていないのに、白い体がビクついた。やっぱり怯えられているのか、と躊躇ったのを見抜かれたか、自由な方の手が首に回った。腕一本分の重さに引き寄せられてキスをする。少しだけ舌を絡ませて離れると怯えのような色は消え失せていた。
中に、侵入する。
潤滑剤のおかげか指で馴らされていたおかげか、思ったほどの抵抗はなかった。ぎゅうぎゅう締め付けてくるのに腰を動かせば難なく深く飲み込む。
体を揺するたびに悩ましい声が鼻から抜けた。いつも横で笑っていたスガがこんな声を上げることをずっと知らなかった。少しでも多く肌を欲しがるみたいに背中に絡まった腕に力が入る。
抜き挿しするうちに夢中になって、ひときわ声のあがる場所があればそこばかり狙って腰を使った。気がつけばスガの目からボロボロ涙が溢れていた。
「………だっ、ン……大地っ…………」
ここぞという時のまっすぐなスガの目には逆らえない力がある。こんな時でさえ、涙でグズグズなのに、正面から見られるとダメだった。ぎゅっと抱き寄せる腕や、俺を深くくわえ込んで引き留めるように締まるそこや、切なそうな声で間違いなく呼ばれる名前が、誰かの代わりじゃなく、本当に俺を欲しがっているみたいに勘違いさせる。一晩だけ慰めて元通りになんてなれない。
そんな心を見透かされないように汗ばむ額を寄せ、喘ぐ口をキスで塞いだ。この期に及んで優しくするやり方なんかわからなかったけど、そうしたら少しでも、体だけじゃなく気持ちまで通わせられるような気がして。
かれこれ二回も吐精した後、きつくしがみついていた腕から力が抜けてベッドにパタリと落ちたところで体を離した。同じように何度か達したスガの荒い呼吸が急速に静かになっている。
「…………スガ?」
目を閉じたまま穏やかに息を吐く頬を触った。反応がない。腕が離れた辺りで眠りに落ちたらしい。いや、失神したのか。
バイトから帰ったところだったとも言っていたし、精神的にも参って、アルコールも入っていたから、疲れて眠ったのと区別がつかなかった。
ティッシュかタオルか、とにかく拭くものを探して部屋を見渡したが、これだけ物がある割に、カーテンレールにハンガーで干してあるタオルしか見当たらない。身を屈めてベッドの下を覗きこんでやっとティッシュボックスを発見した。箱を取ろうとして、その向こうにバレーボールが転がっているのを見つけてしまった。暗いベッドの下に追いやられても白と赤と緑の鮮やかさが胸を刺す。
白い腹を精液でベタベタにしていても、寝顔はバレー部の合宿で疲れ果てて眠っていたあの時とまるで変わらない。何より大事な親友で、副主将として俺を支えていたあの時のままだった。スガが何も変わらないのと同じく、スガへの気持ちも変わっていない。――――ただ、気づくのが遅かっただけ。
途端にその場に留まるのが耐えられなくなって、最低限の後始末だけしてスガに毛布を。自分は服を着込んで、定位置にあるかごの中から鍵を掘り出し、眠るスガを残したまま部屋を出て施錠し、扉についている郵便受けに放り込んだ。
最低だと思う。二十年生きてきた中で一番。自分がこんなヤツだとは思わなかった。昨日までの自分に話したって信じないだろう。怒りで好きな子を抱くなんて酷い話。
スガを好きだと思えば思うほど自己嫌悪はどこまでも深くなった。光さえ遠い奈落の底に沢山の後悔が渦巻いている。
それでも、恋心を抱えたそのことにだけは、後悔はなかった。
あてもなく歩き出し、最寄り駅と違う方向へ進んでいることに気づいて一度立ち止まった。道を戻る気にはならなかったし、いっそ次の駅の方が近いようだったので、そのまま行くことにした。
ふと思い出して携帯を開き、旭からの未読メールに当たり障りない返事を打った。そろそろ始発が動くかという時間なのにすぐに携帯が鳴った。ポケットに戻しかけていた携帯をメールのつもりで開き直した拍子にボタンを押して、電話に出てしまった。
『――――もしもし、大地?』
目の前に持った端末のスピーカーから旭の声がして、仕方なく耳に当てる。
「………なんだよ」
『なんだ、って……大地がこんな変な時間にメール送ってくるからスガと何かあったのかと思ったんだよ』
「…………………」
どうしてこういうときに勘が鋭いのだろう。旭とも高校一年からの付き合いだ。沈黙を肯定と見なして気遣わしげな態度になる。
『今どこ?大丈夫?』
「…………今、スガの家を出たとこで――――」
咄嗟に場所がわからずに見回して、近くのファミレスの扉に書いてあった地名を言った。ちょうどスガの最寄り駅の隣りの駅名と同じだったので旭にもすぐわかったようだった。
『何でそんなトコいるんだよ』
「なんだっていいだろ」
『…………今から行くからその店入って待ってろよ』
「………………」
『行くからな』
めったに発揮しない強気で言い切って通話が切られた。そんなに心配されるような声音だったのだろうか。自覚がなかった。
それでも曖昧にしか場所のわからない駅に向かうのも億劫になってきて、言われたとおり店に入る。
二十四時間営業のファミレスといえども始発が動き出す時間とあって閉店休業同然だった。禁煙席を指定して通されたのは禁煙席と薄い仕切り一つ挟んだ席だったが、数十分後に喫煙席に人が入ったあとには店員が一人でも目を配りやすいのだと納得した。
何も食べる気がしなかったので飲み物だけでテーブルに突っ伏した。もう一組っきりの喫煙席の客は二人きりで幾つか料理をオーダーしていて、俺が入店してから一人しか見かけない店員が何度も隣の通路を行ったり来たりしている。
そういえば、スガも飲食店でバイトしていた。居酒屋だが、接客担当だから、そのうち旭と内緒で行って驚かせようと話していたこともあった。スガも客として三人でバイト先の店に行くのはなにかと理由をつけてスガが断っていた。その理由を知った今となっては計画がまとまって店に行かなくてよかったとも思う。その男に笑顔で料理を運ばれるのも、作った料理を食べるのもまっぴらゴメンだ。
この一年のことを思い起こせばスガの行動のあちこちに男の陰があったような気がする。でも、自分の好意に気づかなかったのと同様、スガがまさか男と付き合っているなんて思わなかったし、隠されていた。旭は先に知っていたみたいだったけど、俺には言わないよう口止めされていた。
(何で――――)
相手が男だから、理解されないと思ったのか。女の子が相手だったら打ち明けられたのだろうか。相手が女だったら自分は諦められたのか。
徹夜明けで静かな場所でテーブルに伏せていても色んな声が頭に湧き上がっては出口なく跳ねまわって眠気はさっぱり来なかった。静かすぎるのがいけないのかと思えば、喫煙席の女が上げた甲高い声が耳障りでイライラした。朝っぱらからどうしてそうテンションが高いんだ。
一度耳に入り始めると、意思とは関係なしに隣の会話を拾ってしまう。受験勉強していた頃に「勉強にBGMは欠かせないが、知っている言語で歌の入っているやつはダメだ」という友人がいた。脳が勝手に言葉を追ってしまうからだそうだ。
「――――ほんとサイテーですね」
「はいはい、大抵のことは俺が悪いよ」
「さっさと部屋決めちゃえば良かったのに」
「ミナコさん、引っ越しってそんな簡単じゃないの知ってた?」
「別に下宿代払ってたんじゃないんでしょ?ちょっと節制したら敷金ぐらいすぐ貯まると思うけど?」
「そこは否定しないけど、それだけみたいに言うのやめてよ。好きな子と同棲ってロマンじゃないの」
「好きな子、ねえ。その好きな子を放っておいて浮気三昧で何言ってるんですか」
「だからこそ帰る家はひとつってヤツじゃない?」
「ホンット、クズ。みんなこんなのに引っかかっちゃって、よく今までモメなかったわ」
「まあまあ、ミナコさんだってサイテーだクズだって言いながらも面倒見てくれてるわけでしょ」
「店長にもササヤマくんが店にいる限りは世話焼いてやってって頼まれてるんでね」
「店長に愛されてもなあ」
「店長のタイプ、使い勝手が良くて外面良くて仕事がそれなりにできる人だからね」
「知ってる」
男の控えめな笑い声に被って女がこれみよがしなため息を吐いた。
「ホンット、ヒドい人。スガワラくんが可哀想!」
突然飛び込んできた名前に反射的に顔を上げた。仕切りがあって向こうの顔は見えないとわかりながら振り向く。
「何でミナコさん、今回に限ってそんな同情的なの?コウシと何かあった?」
「アンタじゃないんだからバカ言わないで下さいよ。男の子が気になってるって言われたときはびっくりしたけど、会ってみて納得しちゃうぐらいスガワラくんイイ子だったんだから、そりゃ味方にもなりますよ」
聞き間違いではなかった。他に店内に客はなくて、BGMも音量が絞られている。それに、今その名前を聞き間違えたりするはずがなかった。
声は覚えていないし、姿も夜道を歩く後ろ姿しか記憶に無い。それでも仕切り壁の向こうにいるのは間違いなくアイツだった。
真っ暗な穴に埋まり込んでいた頭が急に覚醒して火が放たれたように熱くなった。丁寧に考える前に体が動いて、仕切りを回りこんで早足で喫煙席に踏み込んだ。独特の甘いタバコのにおい。ちょうどこちらから顔の見える席にいた女の方が気づいて怪訝そうな顔をしたが、構わず距離を詰めて男の顔を見た。知らない顔だった。それでも服は昨晩と同じように思えた。
「…………何スか?」
突然現れて無遠慮に顔を見る俺を見上げて声をとがらせる。その胸ぐらを掴みあげると女が悲鳴を上げた。殴りたい衝動はあったけれど殴る資格はなかった。水の一杯もぶっかけてやりたかったが、生憎とグラスはテーブルの奥側にあって手が届かない。大きな声を出す代わりに腹の底から低い声で言い放った。
「金輪際、スガの前に現れるなっ」
突き飛ばす勢いで放した。
「ぐっ…………ケホッ……、誰だよお前!スガ?…………もしかして、孝支の友達か」
「……………」
頷けなかった。恋人などではない。でも、今となっては友達かもわからなかった。
答えないままいる俺を見上げていた男が首元を押さえて息を整えながら質問を重ねる。
「…………もしかしてお前、アサヒってヤツ?」
スガはどう話していたのだろう。否定しようと口を開くより先に男は自ら首を振った。
「いや、違うな、……ダイチの方だろ」
言い当てられて驚いた。表情で正解を悟った男は嬉しそうな顔ひとつせずに前髪を掻き上げて「当たりかよ」と吐き捨てる。
「おトモダチだからってこういう話にでしゃばって暴力?」
「何とでも言えよ」
「お前な……」
「ちょっと、ササヤマくん……」
女が止めに入るのと、トラブルに気づいた店員が駆けつけてくるのが目に入って、男が舌打ち一つで荒くなる語気を抑えた。店員に片手を上げて二人の席を離れる俺に、少し落ち着いた調子で男が投げかける。
「孝支にチクるのか」
「スガが知らないことならわざわざ言わない。でも、俺はお前を許さない」
背中で二度目の舌打ちを受けた。新しい客が入店した音が響く。それで完全に男は黙った。人目のあるところで騒ぎの的にはなりたくないらしい。
仕切り壁の向こうの席に置きっぱなしだった荷物と伝票を掴んでレジに向かう。右往左往していた店員が俺の動きを見て会計に走る傍らで、女がポツリと言うのが聞こえた。
「あの人、ササヤマくんと声そっくり……」
一秒でも早くスガに会わなければいけなかった。会って謝らなければ、あの男を蔑む資格もない。
外はいつの間にか雨が降り出していた。傘はない。それでも気にせず急ぐ途中で駅に着いた旭から着信が入って、早足で歩きながら受けた。
『あれ?大地今走ってる?外?』
「走ってない、歩いてる」
『どのみち店にいないんじゃないか!』
「ああ、そうだな」
『俺、もう駅から向かっちゃってるのに』
「…………途中にコンビニあるか?」
『あー今傘を買って出たところ』
「じゃあ…………」
一つ頼み事をしてすぐ通話を切った。もうスガの部屋が見えていた。
階段が音を立てるのも気にせず駆け上って呼び鈴を押す。まだ眠っているかもしれないと思ったが、もう一度と呼び鈴のボタンに指をかけたところで扉が勢い良く開いた。
「…………大地!」
シャツに下着だけの薄着のままチェーンもかけずに出てくることはまったく想定外で、扉を開けてもらうために部屋の前で土下座も辞さなかった覚悟は行き場を失った。それどころか、開口一番に謝る予定さえもスガに先制される。
「大地……、ゴメン!」
「何でスガが謝るんだ」
「だって、俺が……」
途中で道を歩いていく学生のしゃべり声が聞こえ、顔を見合わせて、部屋に上がってから、ということになった。
「ほら、タオル」
「悪いな」
この部屋の中で距離をとって話すというのは難しくて、スガはベッドの頭の方で正座をして、俺は足元の方に腰掛けた。頭に掛けたタオルからはちゃんとスガのにおいがする。
起きたばかりなのか、スガはシャワーも浴びていないようだった。テーブルの上の空き缶や弁当のゴミをまとめて口を縛った袋も出た時のままだ。ただひとつ変わっていたのは、バレーボールがベッドの上に移動していたこと。
「あの、昨夜は俺……酔っ払ってさ」
「うん、だから俺が謝るつもりで来たんだ。ごめん」
座ったままでできる限り深く頭を下げた。ベッドに正座したスガが慌てるのが揺れで伝わってくる。
「ちょ、ちょっと、大地が謝ることじゃないだろ!俺が……」
「最終的に手を出したのは俺だろ?」
「そんな、さ、誘ったのは俺だし……」
尻すぼみに小さくなる声が涙で潰れる。潰れながら「ホントは……」と呟いたきり堪えきれなくなって乱暴に目元を腕で擦ったまま唇を噛んだ。
俺は卑怯だな。スガが責任を感じないよう、もっと上手く立ち回れたら、喋れたらいいのに。
静かに泣くスガに手を伸ばして触れる前に引き戻した。スガには見えない。躊躇った手も今の俺の表情も。
「スガ、すごく情けない話、聞いてくれるか」
涙で濡れた腕が僅かにずれてぐしゃぐしゃの顔が見えた。こういうスガを久しぶりに見る。やや間があって、しっかり頷いた。
「あのな、スガは、昨日は気持ちが弱くなってて、酒も入って、寂しかったからああいうことになったんだと思う」
じっと黙って聞いていた。縦にも横にも首を振らなかったけど、潤んだ目を逸らすことはなかった。
「でも俺は違う。ああいうタイミングになったのは酔ってたり、いきなり色んなことを知って混乱してたせいもあるけど、それだけじゃないんだ。スガのこと、好きで……誰かに、それも男に抱かれてたって思ったら、我慢できなくなった」
「待て大地」
「ごめん。本当に酷いことしたと思ってる。でも、自覚した気持ちをすぐに忘れて元通りにはなれない」
「待てって」
「悪い」
「だから待てって!」
もう一度深く下げた頭を遠慮無く叩かれて顔を上げると、正座からそのまま両手を前について身を乗り出したスガが、驚きや悲しみや怒りや何だかわからない色んな感情を混ぜっぱなしで顔に乗せて唇を震わせていた。
「何で大地が俺を、す、好きなんだよ」
「理由、説明するか?」
「え、いや、え?……しなくていい」
首から、耳の先から、鼻から順に赤みが差して真っ赤になった。さっきまでまっすぐ向けられていた目が泳ぎだす。
「…………それ、大地責任感強いし、ヤったから一時的に勘違いしてるとか、責任取ろうって思ってるんじゃないのか?」
「違うよ」
「大地が男を好きなんて聞いたことなかったし」
「俺だってスガがそうだとは知らなかったし、わかってたらもっと早く自覚したかもしれない」
「いや、基本的には女子の方が……あ、いや、そうじゃなくて、……あーもうわけわかんねー!」
顔面を両手で覆って布団に転がってしまった。真剣に謝りにきておいて不謹慎ながら、丸くなって唸るのが可愛いだとか、下着しか穿いていないせいで隠されていない内腿を気にしてしまう。この期に及んでこの無防備さ。高校時代によく何事も無く過ごしていたものだ。
「…………スガが、下心を抱えたままの俺でも縁を切らないでいてくれるなら、それでいい。距離をおいた方がいいと思うなら――――」
「やだ」
急にハッキリ聞こえて、煩悩から目を逸らすために背を向けていたスガに振り向いた。体を起こすとグッと近づいて、簡単に触れる距離になるのが悪い気がして仰け反ったのに、スガの方が手で一歩踏み出してシャツの裾を引く。
「スガ?」
「大地より俺の方がバカで情けないんだよ。しかもズルいから、嫌われたくない。ちゃんと、全部話すけど嫌わないでほしい」
引いた上半身を戻すと、尚更シャツを強く引いて肩に額をぐりぐり押し付けられた。本当にズルい。嫌うなんて無理なことをわかっているくせに。
待ち受けているかもしれない後悔を引き受ける覚悟をして肩を抱き寄せた。
「つまんない心配すんな」
返事の代わりにそっと顔を上げた。間近で赤い目をして。
「俺も、ずっと大地が好きだよ」
「!」
「細山さんに会う前から。でも、俺もそれがわかんなくて、あの人ちょっと大地に似てるから」
「似てない」
「え?会ったの?」
「………………」
「大地」
「…………ちょっとな」
「別に怒らないって……」
やっと少し笑った。
「顔とかじゃなくて、雰囲気とか似てるんだ。生活はだらしないけど、バイト先ではバイトのリーダーみたいな人で頼られてて、俺も助けられてたし」
「……あんまりアイツを褒めるなよ」
つい口を挟んで、カッコ悪いな、と思ったけど、スガが嬉しそうに表情を緩めたので帳消しになった。
「でも一番似てるのは声かな」
「………………」
「自分じゃわかんないだろうけどさ、兄弟とか親子かってぐらい似てるんだよ」
少し話した時のことを必死に思い出すがさっぱり納得いかなかった。録音した自分の声が違って聞こえるみたいに、自分の思う自分の声と他人が聞く声は違うということか。
「バイト先の他の人とちょっとモメてた時に庇ってもらって、親しくなって、大地とおんなじ声で優しくされて、口説かれたらもう何だかわかんなるぐらいドキドキして、細山さんが好きなんだと勘違いして…………付き合ったけど、段々そうじゃないってわかって別れてもらった。最悪だよな。大地はあの人の方が悪いと思ってるかもしれないけどさ、俺が勝手に勘違いして振り回したんだ。しかも説明できなくて追い出すみたいにした直後に大地が来て、やめとけばいいのに引き留めて……あ、一応家に上げたときはそのまま帰したくないってだけだったんだけど」
「うん」
「近くにいるうちにチャンスじゃんって、もう今までみたいじゃいられなくなるかもしれないのに、一度でもヤれたら少しは報われるような気がして。寝て起きたら一人だったから夢かと思ったけど、体もその辺にあるゴミも全然夢じゃなくて、また最悪な判断したって後悔したのに、大地が途中で萎えたりしなかったのすげー嬉しかったから後悔しきれなくってさ」
徐々に俯きがちだった頭を胸に引き寄せて、これ以上無理というほど強く抱きしめた。体勢が悪くてそのまま二人で布団に転がって、苦しそうに顔を上げたスガの目元に口づけた。
恋人同士だと当たり前にキスをするものだって知識はあっても、映画で見るような「気持ちが昂ってしてしまう」というのがわからなくて、他人ごとのように思っていた。でも、どうしようもないぐらい可愛いと思ったら体が動いた。少しでも近づいて、触れ合って、一ミリでも多く自分のものにしたいけど、他人を取り込むなんてできないし体を繋ぐのは簡単じゃない。だから抱きしめたり、指を絡ませて、皮膚の薄い唇で触れ合う。
友達と思っていた時だって確かに好きで、大事だった。でも、理屈じゃなく触れたいと思ったら、それはもう。
卒業式の帰り道に前触れ無く手を掴まれて、卒業の感傷的な気分が吹き飛ぶほど心臓が大きく鳴ったのを覚えている。掴んできたスガ自身、どうしたいのかわからず戸惑っているようだった。そのまま間違いとして流したってよかった。でも、俺の方が離したくなくなって、正面から握り直した手をずっと離さなかった。スガの方から手を解かれたのが名残惜しくて、一晩中そのことを考えていた。
ひとしきりじゃれ合ってから乱れた呼吸の間でスガがいたずらっぽく言った。
「これってさ、両思いじゃん」
「うん」
「ホント俺バカだ」
「俺“ら”がな」
スガはまだあの男に悪いことをしたと悔やんでいるようだったけど、向こうだって一途じゃなかったのだから痛み分けだ。わざわざ告げ口する気はないが、スガが自分を責めるたびに「あっちも悪い」と言い張るのは憚らない。
話しながらお互いの体を確かめるみたいに触っていたけど、昨夜みたいな興奮よりも安心が勝って、疲れが残っているらしいスガのまぶたが静かに落ちる。
外は雨が降り続いていた。雨の音は落ち着くから好きだ。腕の中には暖かい体があって、頭を埋めた布団からはスガのにおいがする。
やっと昨夜から一睡もしていないのを思い出した。スガの髪を撫でている途中でゆっくりと記憶が途切れた。
――――ピンポーン。
「おーい、スガー!大地ー!…………あれ?……おい、開けるぞー?」
解錠音なしにドアノブを回す音がして雨の音が近くなる。
「鍵かかってなかったぞ、不用心――――」
買ったばかりのビニール傘を玄関の隅に立てかけた旭が部屋の奥を見渡して絶句した。跳ね起きたスガも絶句した。
「おい、返事する前に開ける奴があるか。親しき仲にもっていうだろ」
「……え?あ、わ、悪い………え?」
旭を上げるには散らかりすぎているので、寝起きに面倒だと思いながらもスガのものではないと思われる荷物を雑に拾い集めて一箇所に積み上げた。ものの種類ごとに山にするなんて丁寧なことはしない。自分のものは自分で片付けるべきだし、まして他人の部屋に無遠慮に置きっぱなしたものをどう扱われようが自業自得というものだ。俺は部屋の主じゃないが。
「頼んだもの、書かせてきたか?」
「あ、ああ……」
手を出して三枚ほどの着払い伝票を確認する。住所が実家なのか新しい寄生先なのかはわからないが、とにかく届け先の郵便番号から番地、部屋番号まで記入してあり、受取人に細山と書いてある。
「…………三枚じゃ足りなかったか」
部屋を振り返って呟いたところでようやく察したスガがそばに来て手元を覗きこんだ。
「荷物、送るの?」
「取りになんか来させるか。二度と会わせないし、大体こんなだらしない奴がすぐに取りに来るとは思えないからな」
「二度と会わせない、って言ってもバイト先一緒なんだけど……」
「ああ、それなら……」
旭がスガに向いて、この季節にしては非常に薄着で露出が高いことに動揺してサッと目を逸らした。
「えーっと、『来週からタカノさんの店に本移動だから安心しろって伝えて下さい』ってさ」
「敬語?」
「え?」
スガが俺を見る。
「なるべく眉間にしわ寄せてタメ口でいけ、とは言った」
「うわ、年下と思われてないな、それ」
「そういう風に俺を便利に使うのヤメロよ大地」
「それより腹減ったな」
「ええー?」
ファミレスは鬼門なので反対方向の店に行くことに決め、スガが大量の洗濯物を回しながら浴室に入っている間に掻い摘んで旭に事情を説明した。百面相していたが、案外驚いた素振りは見せなかった。
「それってさあ、これから俺が、二人のこと誘いづらくなるじゃん」
「そういうことになるな」
「否定しろよ!そこは、『気にすんな、親友だろ』とかさあ」
「旭は元々無駄に人を呼び出し過ぎなんだよ。ちょっと遠慮するぐらいでちょうどいいべ」
「ひどい!昨日大地に取り残された俺がどんだけ寂しかったと思ってんだ!」
俺には文句ばかりだった旭だけど、スガにはこっそり「よかったな」と耳打ちしていた。丸聞こえだったが。
玄関を出ると止みかけの小雨になっていた。音もなく注ぐ雨の向こう、雲に透けて太陽が輝く空をスズメが群れをなして渡っていく。
細道を縦に並んで順に水たまりを飛び越える。少し行くと坂道があって、ジャージ姿の男子高生が三人競いあうように駆け下りていった。