※うなじを噛んだら番成立設定です。
両親は典型的なアルファとオメガの夫婦で、オメガバース専門の仲介会社を利用した見合い結婚だったそうだ。
一年中理性的に暮らすベータの運命の人は一人ではないかもしれないけれど、オメガバースの運命の人は本能で嗅ぎ分ける唯一人と決まっている。
それがもし地球の裏側にいて、一生会えなかったらどうなるのだろう。
十四の夏にこっそり受けた検査の結果、俺はオメガだった。運命の人は地球の裏側にいるといい、と思う。
一学期の期末テストが終わった途端、学校中が夏休みに片足突っ込んだようになる。
授業はすべて消化試合だし、先週まで必死にテキストを開いていた女の子たちも雑誌を囲んでキャアキャア騒いでいる。
その様子を人より高い目線からチラリと覗き見た月島蛍は蔑むような目をして、すぐに視線を外した。
「何?どうしたの?」
「オメガバースの恋愛特集だってさ」
小声で吐き捨てるように答えてくれた。
オメガバースっていうのは俺みたいなヤツのことだ。アルファとオメガ。ベータ以外の人種。本能に振り回される脆弱な理性を持つケダモノ。
小さな頃は、人間には男と女の二種類しかないと教わっていた。学校の制服だって、スラックスの男子とスカートの女子。世界は分かりやすく二種類の人間に分かれていた。
だけど、ひらがなばかりの絵本を卒業する頃から、新しい性別の存在を知るようになる。マンガやドラマの中で、オメガ性を持ったキャラクタが登場し、映画の中でアルファが軍隊を率い、痩せっぽちのみすぼらしい男が「なんだ、オメガか」と軍隊を追い出される。
そうした世の中の格差を正式に教わったのは小学校五年生の保健の授業だった。人間には男女の二種類、それを更にアルファ、ベータ、オメガの三種類に、計六種類に分類できるということ。オメガの男は時々女の役割を果たすこと。ベータ以外の人間には発情という生理現象が起きること。
製薬会社が発行している冊子が配られた。女子には生理を説明する冊子と生理用品の試供品も配られたらしい。オメガバースの冊子の最後には発情抑制剤の広告が載っていたけれど、試供品はくっついていなくて、残念だった。もし、突然発情期が来てしまったら嫌だな、と思った。
女の子に生理がくるように、発情も第二次性徴が始まってから起こる現象だと書いてあった。大抵の子どもはその直前頃に検査を受け、自分のオメガ性を知る。ホルモンバランスが安定しない関係で、それより早くに調べられるのはオメガ男性だけなのだそうだ。オメガ男性は他の男体には存在しない子宮があるからわかる。その他はギリギリにならないと正確な判定が出せない。
オメガの可能性が濃い場合や、病気などで別の目的のついで以外では、早期の検査をすることは稀だった。あまり幼い子供に、「お前は繁殖のための母体だ」なんて突きつけるのは忍びないという理由らしい。海外ではもっと早くに男児のみのオメガ診断、その数年後にホルモン診断の二段検査が一般的で、その辺のオメガの扱いにおいて日本は後進的なのだそうだ。
発情は、つまりセックスをしたくなるってことだから、オメガ性そのものがとてもデリケートな存在だ。検査は病院でいつでも受けられるけれど、女性のかかる婦人科と違い、内科を窓口にしている。検査を受け、オメガやアルファだった場合、それぞれの管理団体を紹介される。性的犯罪に巻き込まれたり、差別を受ける確率が高いからだ。特にオメガは。
俺も、オメガ保護団体の名簿に登録されている。定期的なフェロモン抑制剤の送付や、困った際の無料相談が受けられる他、成人するとつがい探しの仲介も頼めるようになる。頼む予定はないけど。発情時に生活がままならなくなった時のレスキューも請け負っているとパンフレットにあった。
オメガの発情期は厄介だ。大体三ヶ月に一度きて、数日間は使い物にならなくなる。性的欲求の他、微熱や、場合によっては軽度の痙攣を伴って、普段通りに動き回れない。当然、外出もままならないから仕事は休むのが一般的だ。強い抑制剤を使用して隠し通す人もいるらしいけど、それでも倦怠感や副作用の頭痛等、体調不良で苦しむことになる。だから、一人暮らしなんかしていると食事の調達ができなくなったり、外で動けなくなる場合があって、それを同じオメガである職員が助けてくれる。アルファやベータではいけない。オメガのフェロモンにあてられてしまう。予期せず急激に発情してしまったオメガを善意で助けようとした相手がフェロモンにやられて起こす性被害が時々あるんだそうだ。本当にオメガ性はろくなものじゃない。
本能は理性を殴り倒す。
「バカバカしい」
その先に沢山の悪口が詰まっている。以前、月島―ツッキーがやけに饒舌に語ったことがあった。
「あんなの家畜だ。運命だとかキレイな言葉で飾り立てたって結局子作りするための相手でしかない」
ツッキーの兄が恋人に捨てられた時だ。長く付き合っていてツッキー自身も親しくしていた。俺も一度だけ会ったことがある。美人で穏やかで、朗らかな彼ととても仲の良いカップルだった。彼女を奪ったのは彼女の“運命の人”。
「あの人の相手、親より年上の孤独な爺だって。フツウに考えたらあり得ないだろ。あの人まだ二十歳になったばかりだってのに」
苦しそうに吐き出した。俺は何と言えばいいのかもわからなくて、小さく相槌を打つばかりだった。それから少し黙り込んだ間に自分で気持ちの片付け方を見つけたツッキーは、とても悪い顔で言った。
「ホント、オメガって可哀想な生き物だな」
だから俺はオメガだけにはなりたくないって思っていた。
放課後の掃除当番がないと、部活までにすこし余裕がある。その隙を狙って女子に連れだされたツッキーを見送った。彼女の友人らしい女子に「ついてくるな」と睨まれたからだけれど、ついていかなくても先の展開は最後まで読めるから追わずに部室へ向かった。
あの子は多分オメガだ。雰囲気でなんとなく分かる子がいる。頼りなくて守ってもらって当然、みたいな。予めオメガとして生きることを心の底から受け入れている子。男には滅多にいないけど、女には時々いる。大抵が料理上手で非力で外見や話術を磨くことに命をかけているような子。
社会的に役立つ能力は圧倒的に劣っているオメガなりの処世術だ。オメガの安定した人生は良いアルファに気に入られることに尽きる。ベータより能力の高い傾向にあるアルファは就職なんかでも優遇されているから、運命の相手が見つからなくたって、優秀なアルファと結婚して養ってもらうのがオメガの夢だ。つがいの相手でなかったら、いつか相手の運命のオメガが現れた時の心配は残るけれど、一生出会えないかもしれない相手を待つよりずっといい。
そういう女の子から見るとツッキーは理想の相手だ。背も高いしかっこいいし、成績も良くて将来安泰の見るからにアルファだから。ツッキーが公言することは絶対に有り得ないけど、実際にアルファだって結果が出ている。兄もアルファだった。だけど、あの子は振られる。あの子がオメガだから。
練習着に着替え終えて部室を出たところでツッキーがやってきた。何にもなかった顔で。
「ツッキー、あの、その、どうだった?」
「どうって、オメガだったよ」
断ったってことだな。それ以上追求せずに部室へ引き返し、ツッキーの支度を待って一緒にバレーボール部の使用する体育館へ向かった。
練習の準備をしている面々に混じるため体育館へ踏み込んだところで大きなダンボールが歩いているのを見つけた。明らかに前が見えていないダンボールの向こうにジャージの足が見える。顔を見なくてもマネージャーの谷地さんだとわかった。女子マネージャーはもう一人、三年生の人がいるけれど、その人ならぎりぎり前が見えていただろう。谷地さんは先輩より十五センチほども小さい。体力もなさそうだし、どちらかというとオメガっぽい雰囲気なのに、何でも自分でやろうと走り回っていて可愛い。ツッキーに言い寄ってくる女子と大違いだ。
助けなきゃと思った矢先、先に彼女に気づいていたツッキーが軽々と箱を引き取った。
「ギャッ!ごめんね!大丈夫だから!」
「いいから、コレ用具室でいいの?」
「う、うん。……でも、あの、片方持ちます……」
「一人で余裕だからいいよ」
取り残された谷地さんに駆け寄る。
「他にも運ぶものある?」
「あ、山口くん。大丈夫だよ、アレだけ」
「そっか」
「……あ、あの」
それならば、と他へ行こうとしたシャツの裾を引っ張って引き留められた。こういうの、憧れていたから図らずもときめいた。
「さっき外で月島くんが告白されてるの見ちゃったんですけど……」
何故か敬語でヒソヒソ打ち明けられた。
「ああ、振ってたんでしょ?よくあることだから大丈夫だよ」
「はへっ…そ、そうなんだ……」
まさか谷地さんもツッキーのことを好きなんじゃ、と疑ったのも束の間。全く他人ごとのような呑気さで体育用具室に入っていくツッキーを見ながら呟いた。
「月島くん、さすがモテますなぁ」
「…………だよね」
俺が女の子でも放っておかない。女の子だったらツッキーみたいな人が相手だったら良かった。いや、やっぱりダメだ。ツッキーはオメガなんて嫌いなんだから。結婚するんだったらベータとする、とまで言っていた。つがいと出会っても無視するって。
「あ、そういえば山口くんたちは夏期講習の申し込みした?」
「あーまだ。締め切りいつだっけ」
「明後日だよ。日向達はしてないって」
「だろうね」
頭の上のカレンダーで日にちを数える。ツッキーはどうするって言ってたっけ。ツッキーがどういう予定でも俺は申し込んだほうがいいだろう。ツッキーと同じ進学クラスだけれど、頭の出来はやっぱりアルファとオメガだ。受験勉強だってツッキーに見てもらったし、今も置いていかれないように試験前は必死に勉強している。
「あ」
もうじきだ。
「ん?」
「いや、なんでもないよ谷地さん」
発情期だ。三回目の。発情期といっても、まだ体が未成熟だからか、平均して一週間程度のものが二三日、症状も軽い。定期的に服用しているものよりすこし強めの薬を飲めば半日ぐらい無理ができる。前回もなんとかやりすごして、顧問の武田先生にだけ伝えて部活にも参加した。
薬だけ欠かさなければ結構なんとかなるものだ。大丈夫。ツッキーに、友達に隠し通すのはそんなに難しいことじゃない。
「うわ、クッセー!」
部室を開けた途端に二年生の田中さんが叫んだ。窓を閉め切った夏場の部室はとんでもないことになっていた。
「早く窓開けろ!扉にそこの、なんか箱挟んどけ!閉まンねーように!」
手分けして換気しても大して風は吹いていなかった。
「ちょっと、これ誰の靴下ですか」
ツッキーが棚に平たく並べられた履き古しの靴下を心底嫌そうに指差す。
「わりぃ、オレの」
田中さんが少しも悪いと思っていない顔でヒョイッと回収した。
「やっぱ窓開いてねえとそんなに乾かねえな」
どうやら昼にでも水で洗って干していたらしい。ツッキーの顔がどんどん厳しく冷たくなっていく。
「こんなところで干さないでビニール袋に密封して持って帰ってくださいよ」
「うっせーな!」
「いや、月島の言うとおりその靴下もう捨てろよ」
「そこまでは言ってないんじゃ…」
しかしツッキー自身が否定しなかった。二年生を牛耳る縁下さんと同じく、捨てろと思っていたらしい。
「芳香剤でも置くしかねえかなあ」
「ヤメロ。前にそれで臭いが混ざりまくって大変なことになったの忘れたのかよ」
「あれは吐けたなー」
ろくでもないことで盛り上がる先輩に背を向けてため息を吐いた。現状だって男が狭い空間に五人も六人も集まって汗だくで着替えているのだから地獄だ。さっさと着替えて出てしまうに限る。
シャツを脱いで顔を上げ、視線を感じて振り向いた。隣で着替えているツッキーがじっと見ている。
「な、何?」
「……山口さ、何かつけてる?」
「え?」
「芳香……じゃなくて、制汗剤?」
「まだ使ってないけど?」
鞄の中には入っている。それが漏れているのかと思って取り出したけれど、ツッキーは首を振った。
「それじゃないヤツ」
「ないよ?」
口ぶりからして特別汗臭いって話じゃないと思ったけれど、一応腕を上げて嗅いでみる。やっぱりよくわからなかった。
「…………?」
俺と一緒になってツッキーも腕に鼻を近づけた。
「やっぱり……なんか、いい匂いする、気がする」
呟くような小さな声だった。何故かドキッとして、そこでヤバイと思って腕を引っ込めた。ヤバイ。毎朝薬を飲むだけで体調にはほとんど変化がなかったから意識していなかった。
「き、気のせいだよきっと。ホントに俺、何にも使ってないし」
多分だけど、気のせいじゃないかもしれない。田中さんたちはベータって、前に何かの流れで聞いたことがある。だからここにいるアルファはツッキーだけだ。もしツッキーだけが何かを嗅ぎとったとしたら、それは間違いなく俺のにおいだ。
掻き消せるのかわからなかったけれど、自然な仕草を心がけて制汗剤を多めに肌に噴きつけた。
「山口あんまシューシューやるんじゃねえ!臭いが混ざってクセェ!」
「すいません!なんか汗ベタベタして……」
そそくさとシャツを着込んで制服を丸めるように畳んで荷物置き場の棚に押し込んだ。季節が冬ならジャージを着て一番上までジッパーをあげていたところだ。
誤魔化せたかな。ツッキーはもう平常通り、田中の大声に眉を顰めながら脱いだ制服をきちんと整頓して棚に収めていた。
他の人は。大丈夫そうだ。こっちのことなど少しも気にしていない。ほっと胸を撫で下ろす横に並んだツッキーが靴を履く。
「行くよ、山口」
「う、うん」
いつも真横を歩くのに、少しだけ後ろを歩いた。
「そうだ、明後日予定ある?」
「えっと、夏期講習」
「その後。部活は休みでしょ」
「ああ、ヒマだよ」
「じゃあ、ちょっと買い物付き合ってよ」
「……うん、いいよ」
明後日なら、発情期を過ぎている頃だ。今日で二日目。これまで二日か三日で終了していた。少し考えて頷いた。
二日前に軽く引き受けた約束を後悔した。あそこで断って、もっと、別の日にしてもらえばよかった。ツッキーだってどうしても今日が良かったわけじゃない。たまたま、一番近くて予定の空いた日が今日だったというだけで。
スポーツショップを出てすぐの道でツッキーが立ち止まったので、俺も足を止めて振り返った。家の最寄り駅から電車で少し行ったところで、商店と個人病院と僅かな民家が入り混じった商店街だった。視線の先はちょうど病院だった。最近塗り直したらしい明るい外壁に「産婦人科クリニック」と看板がかかっている。男子高生にはほとんど縁がない。
「どうしたの、ツッキー」
視線を追ってもすぐにはわからなかった。病院の風除室から幸せそうな夫婦が出てくるところだ。ずいぶん歳の離れた、親子みたいな男女。だけどお腹の大きな若い女性は男性の腕に細い腕を絡めて嬉しそうに笑っていた。女性のものはわからなかったけれど、夫は高そうな靴を履いて、ピカピカの腕時計をしていたからお金持ちなんだろう。見るからにアルファとオメガのカップルだ。アルファとオメガがつがいになると幸せな家庭を作れるというのは本当なんだな、とどこの誰かもよく知らないのにぼんやり考えた。
「あれ、あの人だ」
とっさに誰のことかわからずツッキーの横顔を見た。色をなくすってこういうのを言うんだ。道のすぐ反対側を見ているのに、別の何処かに焦点を合わせているみたいだった。昔の、兄が彼女に捨てられた話をして、オメガを嘲笑う直前の顔。あの、彼女だ。
理解して再度彼女に振り向くと、彼女もちょうどこちらに気づいたようだった。ツッキーを見て一瞬固まったものの、何も言わずに夫と寄り添って行ってしまった。
今日じゃなかったら良かった。妊婦のことはよく知らないけど、毎日病院に来るわけじゃないだろう。何で今日、この時だったんだろう。誰だって見たくない。好きだった人が他人と幸せそうにしているところなんか。
あの時、ツッキーはそんなことひとことも言わなかったけど、彼女が好きだったんだって知っている。兄の恋人だから絶対に表に出さなかったけど、二人で彼女と鉢合わせた時に優しく声をかけられて、珍しくツッキーが照れているからびっくりした。学校のどんな可愛い女の子から告白されても全て受け流していたのに。こういう大人の女の人が好きなのか、さすがツッキーだ、なんて変に感心した。
最初から失恋していた相手だけれど、それでも好きな人だったんだ。彼女が離れていったことを聞いた俺まで裏切られたような気になって、必死に励まそうとした。上手くいかなかったけれど。アレはまだ過去になっていなかったんだ。きっと、ツッキーがオメガを嫌いなうちは。
拳が硬くなる。
「ツッキー、行こう」
立ち尽くしているツッキーに呼びかけた。
「行こう」
まだ前を向かないから、もう一度言って背中を押した。ハッとした顔でこちらを見て、やっと歩き出した。俺の方が前を歩くことってあんまりない。だけど前に立って歩いた。
「次、本屋?それとも喉乾いちゃったしどこか寄ってく?」
「…………本屋」
「じゃあ宮沢書店行こうか。田沢屋より歩くけどあっちの方が広いし」
彼女たちと真逆の方向へ、あれこれ提案して沢山歩いた。すっかり真夏の日差しがジリジリ肌を焼く。書店の中は冷房が強めですぐに汗が引いた。それからまた蝉のうるさい並木道を通ってファストフード店に入った。喉が渇いていたけど、結局ツッキーと一緒にアイスクリームを買った。
買い食いが終わる頃にはツッキーも調子を取り戻していたから、涼しい店内を出た時は隣に並んだ。
「あとどこに寄る?」
「CD見たいんだけど、あんまり行くと帰りの電車の時間になるからいいよ」
「いいよ、一本遅いやつでも。親に連絡しとけば文句言われないし」
夏は日暮れが遅い。夕方の時間帯にも関わらず、少しだけ日が和らいだ程度で、夕焼けには程遠かった。時間帯が遅くても空が明るいと夜になる気がしない。
結局アーケードを抜けた先の店に向かうことになった。景色が真っ昼間でも時間は夕方。買い物や仕事帰りの大人で人口密度が上がっている。そうなると横並びで歩いていられなくなって、自然とツッキーの後を追う格好になった。人混みに蒸されるうちに、なんとなく息が切れてくる。暑いのにちょっと歩きすぎた。さっき冷たいものを食べたから、夏バテっぽいのかもしれない。
少し止まってほしいな、と思ったけれど、段々と歩くペースに差ができて距離も開く。大声を出すのを躊躇っている内にどうしようもなくなって、無理やり走ろうとして失敗した。膝に力が入らず転びかけて、そのままよろけて道端の街路樹の根本にしゃがみこんだ。熱中症だろうか。なったことがないからピンとこないけど、頭が熱っぽい。手足も熱くて体の感覚がふわふわしてきた。
「ヤバイかも……」
なんとか頭を働かせてポケットから携帯を取り出した。救急車だろうか、いや、とりあえずツッキーに。指も思うように動かない。震えを押さえ込みながらキーを押した。どこって説明しよう。ちょうどわかりやすい看板の上がった店のない場所だった。重く顔を上げて首をめぐらした。
「キミ、大丈夫?」
割と近くから声がして振り返ると、仕事帰りっぽい袖をまくり上げた作業服の男の人が屈みこんですぐそばにいた。やけに近いような気がして反射的に仰け反ると街路樹に背中がぶつかる。
「ずいぶん調子悪そうだけど」
「あ、あの……」
「道端に座ってても良くならないよ。立てる?とにかく移動しよう」
差し伸べられた手を握るべきか迷っていたら、わずかに浮かした手を強引に取られて引き寄せられた。
「……やっぱり。キミ、オメガだね」
脳みそが溶けていきそうに熱かったのに、一瞬で冷えた。
「発情してるの?こんなところに一人でいたら危ないよ」
「いや、あの、だい…大丈夫です」
「警戒しないで、確かに俺はアルファだけど、そんながっついてるわけじゃないし。安全なとこまで送るよ」
「いいです、自分で、なんとかしますから」
「車あるし多少遠くても遠慮しなくていいよ」
「や……」
「何してるの山口」
酷く冷めた声の降ってきた方を見上げると、いつの間に戻ってきたのか、携帯を片手に持ったツッキーが見下ろしていた。明らかに様子のおかしい俺と、やっぱりおかしな組み合わせの見知らぬ男を見比べて、男に握られたままの手を凝視している。
「ツッキー……違うんだよ、あの……」
「ああ、ごめん、カレシいたの?」
「違うっ……違うんだよ」
「ごめんね、この子がキツそうにしてたから人助けのつもりで声かけたんだけど」
「人助け?」
微かに眉根が動いた。かと思うと、スッと腰を落として手首を力加減なしに握って男を引き剥がした。あまりの乱暴さに睨まれてもすぐに立ち上がって、高い目線から冷ややかに見返した。
「ご親切にどうも。立てよ山口」
掴んだままの手首を引っ張りあげられる。足腰を叱咤してなんとか立ち上がると、すぐに駅に向かって歩き出した。
「待ちなよ、どのみち彼、体キツイだろう。二人まとめて車で送ってやるよ」
顔だけで振り返る。
「必要ありません、曽木建設の野島さん」
男がサッと上着の胸ポケットの辺りを手で覆う。社名の刺繍が入っていることに、その時気づいた。そうするともう男は何も言わなかった。
引きずられるようにして駅についた。ホームに着くと、最初に予定していた電車が到着したところで、端のシートに押し込まれて座った。席は開いていたのにツッキーは目の前で立っていて、何も喋らない。電車を降りるとまた腕を掴んで引っ張られて、もう流れるような地面ばかり見て歩いた。それで気がついたらツッキーの家の前だった。
「入って」
命令されて靴を脱ぐと、また手を掴まれて部屋まで連れて行かれた。玄関に鍵がかかっていなかったから、おばさんはいたはずだけど、顔を見る前にツッキーの部屋へ連行された。
どこに居ろとも言われなかったから床に座った。いたたまれない気持ちでいっぱいなのに、やっと座れたという安堵もある。
俺の座ったすぐ横のベッドへ、ツッキーが床に荷物を投げ出してどっかりと座り込んだ。
「それで?」
きた。ここまでぼんやりしがちな頭で言い訳をひねり出そうと腐心していたけれど、そんな都合のいいセリフなんかあるわけがない。あんな状況で言い訳なんか、本当に風邪か何かで高熱でもだしてなければ無理がある。熱っぽい気がするけれど、体温計を使ったら大した数値が出るとは思えない。
幼い頃から何度も上がり込んで馴れた部屋のにおいを吸い込んで、なるべく気持ちを落ち着かせるように努めて、腹をくくった。
「ごめん、その、今まで隠してて。お…オメガだって」
ベッドの上のツッキーをちら見してすぐに目があって、慌てて自分の膝の上の手に視線を落とした。
「あ、えっと、ホントは今日はもう……アレが終わってるはずだったんだけど、何か思ってたのと違っちゃって……」
「いつから?」
「へ?……あ、いつ?えーと……半年ぐらい前かな。診断で分かったのは去年だけど。ずっと薬飲んでるから。そう、薬飲んでたら大丈夫なんだ!今日はたまたま、もう大丈夫な日だと思って油断しちゃっただけで……」
そうだ、これが発情なら薬を飲めば解決するはずだ。念の為に鞄の中に入れっぱなしている。思い出して白の錠剤が幾つも並んだ銀色のシートを取り出した。
「あった、コレ、抑制剤飲んだら普通になるからさ。できたら、その、気にしないで……」
それはさすがに無理か。これだけ迷惑をかけたら。思い直して言葉尻がどんどん萎んでいった。
「あの、とにかく、薬飲んで今日は帰るよ。結構すぐに効いてくるから」
なかなか言うことを聞かない手指でシートの角にある粒を押し出そうとした。その手を叩くようにしてシートを奪われた。
「なっ」
奪ったかと思えば部屋の隅へ放り投げられる。床を滑るシートに気を取られている間にツッキーが間近にきていて思わず逃げようとすれば長い両腕を背後のベッドについて囲い込んでくる。
「ソレ使って、一生ベータのフリしてるつもりだったわけ?」
そうだよ。答えは決まってるのに口から出てこなかった。
「僕がオメガを嫌ってるから、僕と縁が切れるまで適当に話を合わせて穏便にやっとこうって?」
「違う!」
「!」
今度は驚くほどはっきり声が出た。
ツッキーがアルファだと判明して、「結婚ならベータとする。つがいなんか一生出会わなくていい」って言った時、俺も一生つがいに出会わなかったらいいと思った。つがいが地球の裏側かどこか、遠いところにいて、赤い糸は伸びきって、出会う前に寿命を迎えたら良かった。
だけど、そんなのは重いよな。運命の相手にだったら一生を誓えるのかもしれないけれど、友達に自分の一生を押し付けたら、ツッキーなんて簡単に幻滅してしまうかもしれない。そんな気持ちを上手くまとめて、重い部分を見せないように包み込んで、どう説明したら納得してくれるんだろう。
俺はいつだって頑張りきれない。オメガだからだろうか。テストでも最後の追い込みってところで気力を途切れさせてパッとしない点数を取るし、徒競走ではゴール前で足がもつれる。部活だって必死にやっても、気づくとコートの外で唇を噛んでいたりする。そんなあと一歩がオメガの宿命なのか。気持ちすらあと一歩、伝えきれない。
一瞬だけ真っ直ぐ見上げたものの、思考が高いところから低いところへ、重量に従って流れ落ちるにつれて首もしおれていった。ツッキーに嫌われたくないし、いつまでも縁を切らさないでいたい。オメガの運命なんか天秤にかけるまでもない。だけど、オメガ性にとってつがいは不可抗力なものだ。
発情の影響で潤んでいた目から抑えきれなくなった涙粒が落ちた。それを見ていたみたいに、影になって見えていなかったと思うのに、勢いまかせに抱きすくめられた。首筋から、ツッキーの体臭が濃く鼻をくすぐる。暖かくてまどろんでしまいそうなのにドキドキする。男なのに、オメガ性がアルファに反応してしまう。元からオメガとアルファはひかれ合うようにできているんだ。つがいでなくても、相手のいない者同士は。
密着した体の心地よさに抗い難く、うっとり目を閉じた。少し荒いツッキーの息遣いや、これだけ近ければ聞こえてきそうに感じる鼓動に集中していた耳に、不意に忌々しげな声が入り込む。
「クソッ」
あぁ。アルファは発情したオメガのフェロモンに弱いって本当だったんだ。知識としては知っていても、用心深く抑制剤を服用し続けていたから、実感したのは今日が初めてだった。つまり、この接近に意味なんかない。ツッキーだって本当は、男でオメガの俺なんか相手にしたくなかったんだ。
オメガも、アルファも、ろくなもんじゃない。
なけなしの理性をかき集めて、両手をツッキーの肩に置いて、力の限りに押し退けた。元から抱きつきたくてそうしたんじゃない。引き離したいっていう俺の意思をすぐに汲んで、簡単に開放されてしまった。ツッキーの下から逃れて、一人で必死に這って先ほど投げられた薬のシートを回収した。止められたりしたわけでもないのに。
それを一錠出して水なしで飲み込む。ツッキーは黙って見届けていた。さっきの怒りは消えていたけれど、何か言いたそうに見えて、それをわざと無視した。
これでいい。今までベータの振りをしてうまくやってこれたんだし、薬を飲めた安心感で少し落ち着いていた。笑え。学校でそうするみたいに。笑って軽く言うんだ。
「男のオメガなんて、やっぱ、カッコ悪いじゃん。俺もツッキーみたいにかっこいいアルファだったら良かったのにさ」
ツッキーだってそう思ってるはずだろ。同調してよ。
「…………」
俺の軽口は几帳面に片付いた部屋の中で空回って硬い床に落ちた。
「……それじゃ、帰るね」
沈黙に耐えかねる頃には多少熱っぽさも治まっていた。元々家は近いし、さっきのような人混みに入っていくわけじゃないから大丈夫だろう。
返事はなかったから、部屋を出て、玄関でおばさんに「おじゃましました」と声をかけて帰った。
体は、その夜が一番酷かった。抑制剤には副作用があるから、本来ならなるべく使わない方がいい。だから、人前に出ることも、動き回る必要もない夜中は使わない。夕方に飲んだ一錠の効果が日付の変わる頃切れて、布団の中で目を覚ました。
妙な体の疼きと下着がべたつくので覚醒して、今までにないほど昂ぶっていることに戸惑った。病気なんじゃないかと疑ったほどだ。おそるおそる股間に触れたらやめられなくなって、夢中で手を動かした。発情期に自宅で昂ぶったら、自分の手で鎮めてやるのが一番手っ取り早い。だけど、今日はそんな簡単には済まなかった。
俯せて尻を上げた格好で、前をいじっている指に奥の方から垂れてきた体液が絡まった。女みたいに粘液が分泌されるということは知っていても、これもやはり体感するほどに至ったことがない。睾丸の裏から会陰を指で拭いあげ、今まで怖くて触れなかった穴に、初めて指を挿し入れた。こんな狭い場所が女性器の代わりになるなんて説明されても納得がいかなかった。平常時の風呂で一度触ってみたことがある。外側から指で押しても硬く閉ざされていて、無理に何かねじ込もうものなら怪我をしそうだった。それを、発情という生理現象はゾッとする程作り替えてしまう。体液で潤った場所を触ると、記憶にあるよりずっと柔らかく、待ち望んだみたいに指を咥え込んだ。
保健の教科書の図解でしか理解していなかったオメガの体というものを、現実として知った。
自分の指とはいえ、体内に何かを潜り込ませる恐怖はあっという間に興奮に呑み込まれた。指一本が二本になり、内壁を強く擦り上げたくてめちゃくちゃに動かした。でも駄目だ。指なんかじゃ満足しないのがわかる。元々男が好きだったわけじゃないのに、今目の前に誰かがいたら、抱いてくれとせがんでしまうかもしれない。
ベータになりたいと思っていた。薬で誤魔化していけばベータ同然の生活を続けられるものだとも。世界のどこかにいるつがいなんか出会いたくない。アルファに愛してもらわなくていい。ツッキーがそう望んでいるみたいに、オメガ性に逆らって、俺もフツウのベータの女の子なんかと理性的な恋愛や結婚をするのが目指すべき将来だと。
そんなの甘い考えだった。本能をむき出しにした今の浅ましい姿でベータのフツウの暮らしなんか望めるわけがない。絶望と同時に、オメガの生態を受け入れてくれる人も脳裏に浮かんだ。アルファ―――――――
「――――ツッキ……んんっ、あっ、はっ、あぁっ」
思い浮かべた瞬間頭の中で光が弾けた。挿入したままの指が肉に絞め上げられる。
「はぁっはぁ……」
前も後ろもベトベトで、これまでしてきた男としての自慰の何倍も消耗していた。お陰で体は少しはマシになっていたけれど、弊害は大きかった。
ツッキーのことを思って達してしまった。尊敬していて、失いたくない友達だと思ってたのに。ツッキーは自分がアルファであることも良く思っていないのに、俺は心のどこかでツッキーをアルファとして見ていたんだ。
「……最悪」
自分のことを軽蔑する。落ち込んでいるのに、ツッキーのことを考えているからか、再び体が熱を持ってくる。
「やだ……ダメだ、ダメ……」
ベッドから手を伸ばしてティッシュを手繰り寄せ、乱暴に汚れた下半身を拭って下着を引き上げた。着替えるつもりだったから、べとつきを拭ったばかりの肌がまた汚れた。それでも今はとにかく頭から不埒な妄想を追い出さなければいけない。ダンゴムシみたいにぎゅっと体を丸めて、二の腕を強くつねった。下半身に触りたい衝動をやり過ごしても、考えないように、考えないようにと唱えるほどに頭の中はツッキーでいっぱいになる。
実は以前から無自覚にツッキーを好きだったのだろうか。たまたま近くにいたから、オメガ性が都合よく求めてしまっているだけなのか。
恋がなんだかは知っているはずだった。近頃は部活のマネージャーに加わった谷地さんが可愛くて、中学の時もクラスの可愛い女の子を気にしていた。俺なんか好きになってもらえるわけがないし、実際誰かと付き合ったこともないけれど、学校で好きな女の子とすれ違ったりする瞬間が幸福だった。それなのに、苦しいほど欲しいのはツッキーだった。今すぐ触りたい、触って欲しい。でも会いたくない。
残された理性が嫌われたくないと泣いている。本能と理性が頭の中で摩擦を起こしてパンクしそうだった。
こんなことなら、早く運命の相手に出会ったら良かった。体を満たしてもらって、せめてツッキーのことをいやらしい目で見ないで済むようになりたい。
地球の裏側なんかじゃなく、すぐそばにいて、会いに来てほしい。やっぱり、オメガを助けてくれるのはつがいのアルファだけなのだ。
◇◇◇
診断結果:α
オメガバース検査の結果はどうでしたか?
あなたの心はアルファとして年齢に応じてかわっていきます。
特に、つがいのオメガと出会うと、それまで恋愛や結婚に興味のなかった人でも、特別な愛情を感じ、一生をともにすごしたいと思うようになります。
たのしみですね。反対に、不安なひともいるでしょう。
この冊子では、これからアルファとしてどんな生活が待っているかを紹介しています。
オメガバースとベータのちがいを知っていますか?
一番のちがいは発情という現象があるかないかです。
オメガはおとなに近づいてくると、一年間に4回の発情期をむかえるようになります。
発情すると、からだが熱っぽくなって頭がぼんやりしたり、わけもなく興奮して、他人の体に触りたくなります。
これは、おとなになってからパートナーを見つけ、子どもを作るためのしくみなのです。
一方、アルファは決まった時期に起こる発情期がありません。
その代わりに、発情期のオメガの近くにいることで、いつでも発情が始まります。
発情しているオメガと一緒にいると、胸がドキドキして、「この人のことを好きなのかな?」と思うでしょう。
しかし、ここで注意してください。他のオメガにも同じようにドキドキするのではありませんか?
アルファの心は発情期のオメガにとても弱いのです。
興奮と愛情はまったくちがうものです。
興奮したからといって思うままに行動してしまうと、おもわぬトラブルに巻き込まれてしまうこともあります。
本当に好きかどうか、よくかんがえてお付き合いをはじめましょう。
「でも、“運命のつがい”との出会いに気づかなかったらどうしよう?」
オメガバースには“つがい”という、とても相性の良い相手がいます。
アルファのつがい相手は必ずオメガです。
つがいは、それまでの見た目や性格の好みに関係なく、本能で選ばれるものです。
つがいは相性バツグンなので、結ばれたつがいはほとんどの場合がしあわせな家庭をきずいています。
ただし、だれとでもつがいになれるわけではありません。
そのため、“運命のつがい”と呼ばれています。
では、どうやってつがい相手をみきわめるのでしょうか?
つがいは特別なフェロモンを出しています。
他のオメガと比べたらすぐにわかるでしょう。
つがいでない発情期のオメガのフェロモンは、接近したアルファを興奮させますが、つがいのオメガのフェロモンは興奮だけでなく、アルファを幸福なきもちにさせてくれます。
あせることはありません。まずは友人として仲良くなってみましょう。
長い時間を一緒にすごす相手として、信頼関係をきづくのは大切なことです。
大切なつがいを見つけたら、アルファとオメガの違いをよく理解して付き合いましょう。
また、オメガは男性でも女性のように妊娠することができます。
発情すると、おちついて判断するのが難しくなりますが、妊娠や出産は一生のことです。
ドキドキする心に流されず、つがいと一緒によく考えて、しあわせな家庭を作りましょう。
子供向けらしい青いシャツの男の子とピンクのスカートの女の子の挿絵満載の薄っぺらい子供向け冊子を、診断書と一緒にゴミ箱に投げ入れた。
自分で選べもしない相手との人生が幸せだなんてありえない。もし本人たちが満足したとしても、それは本能に操られた可哀想な人生だ。
自分のヒーロー像を兄に求めすぎて、行き詰っていた兄を更に追い詰めてしまったことがある。
失敗したと思うのは、いつも誰かが苦しみ抜いてからなのだ。
「男のオメガなんて、やっぱ、カッコ悪いじゃん。俺もツッキーみたいにかっこいいアルファだったら良かったのにさ」
知らなかったんだ。山口がオメガだってことも、僕の子供じみた八つ当たりを気にしていたことも。
検査によって自分がアルファであることを知っても、あまり生活は変わらなかった。オメガのように自発的な発情期がくるわけでもない。大抵のオメガは不要にフェロモンをまき散らさないよう、発情期には閉じこもったり、普段から抑制剤を使ってコントロールしている。オメガのフェロモンは人を狂わせる。
アルファも、地位や財産のある人物になると、誘惑して都合よく扱おうと企むオメガも出てくる。それを回避するためにフェロモンを中和する高価な携帯機器を持っている人もいた。持病を薬で軽減したり、防犯ブザーを持って犯罪に巻き込まれないようにするのと一緒だ。平和に暮らすための工夫だ。
そうしてそれぞれが努力して、ベータ主体の社会に溶け込んでいる。ベータが人間の標準だった。
そもそも、人口分布は圧倒的にベータが多い。アルファやオメガがわざわざそれを公言することは稀だが、ベータを公言しているヤツは珍しくない。
ベータひしめく学校内にもオメガらしい女がいて、発情期には何かと理由をつけて病欠扱いで欠席している。年に四回。それも休日に被ればわざわざ病欠にしなくて済む。意外と目立たないものだ。だから黙っていればオメガだと特定されることもない。
でも、一部のオメガ女はオメガであることが武器だと思っている。告白をわざわざ発情期の始めや終わりの、引きこもるほどではないが、いつもよりフェロモンが濃い日を選び、わざわざもったいぶって自分がオメガであることを告げてくる。
「月島くん、アルファでしょ?わたしじゃダメかな」
フェロモンっていうのはにおいのような、においでないものだ。例えば、バニラエッセンスのにおいをかぐと、甘い味を想像して幸福になったりする。そのバニラのにおいを飛び越えて幸福感を呼び起こす。オメガはアルファを惹きつけるためのフェロモンしか発しないけれど、昆虫や動物には危機を感じて警告フェロモンをまき散らすものもいるらしい。
オメガ女のまとうむやみに浮足立つような空気を嗅ぎ取りながら、図鑑で見た昆虫を思い出した。昆虫女。
知識として知っているから、沸き起こる仄かな興奮が愛情なんかじゃないとわかる。信号を受け取ったから反応した。それだけのことだ。これをわかっていることがベータらしく生きる秘訣だ。
何度か女のオメガのフェロモンを感知したことがあるが、どれも冷静に受け流せた。人間なのだから、獣みたいに簡単に盛ったりしない。大丈夫。
愛情なんかじゃない。
「クソッ」
思わず吐き捨てた。体が勝手に動いた。理屈を承知する冷静さも理性も置き去りにして、山口をどうにかしたくて堪らなかった。僕が犬だったら噛み付いていたかもしれない。蛇だったら丸呑みにしていた。全くそんな場面じゃなかったのに。
山口がオメガであることをひた隠していたことに腹が立って、詰ってしまった。僕は山口にアルファだったことを打ち明けていたのに裏切られた。僕がオメガに嫌な思い出があるからって、勝手に気を遣って空回ったんだろう。勝手に心配して、勝手にがんばって、結局しくじるのは小学校からの山口の十八番だ。ついついキツい物言いをして、ハッとして、すぐに言い過ぎたと思い直した。珍しくきっぱり言い返してきたから。だから、少しぐらい謝ろうと。でも、高いプライドが邪魔してすぐには謝れなかった。
グズグズしている間にも抑制剤を飲めていない山口のフェロモンが濃くなっていく。アーケードの脇の街路樹で座り込んでいるのを見つけたのは偶然とか運とか努力なんかじゃない。ふわりと脳がしびれるようなにおいがして、においの出処を追ってきたら山口がいた。近づくほど頭の芯が熱くなって腹の底を撫で回されているみたいに落ち着かなくなった。受け流せないフェロモンを浴びるのは初めてだった。経験のない感覚は怖い。だけど、山口の手首を掴むと妙な感動があって、手を離したくなくなった。外を歩くうちに馴れたのか、少しマシになったと思ったのに、気がついたら腕に抱き込んでいた。
自分の行動がわからない。本能がそうさせたのならば恐ろしいことだった。アルファの遺伝子に負けたくないと思っていたのにこのザマだ。悔しさが口から出た。自分が情けないことに腹を立てたんだ。そのまま抵抗されなかったら、もっと発情に流されていたかもしれない。
肩を押されて引き離された。力が入らないんだろう。山口の焦った表情に反して優しく押し返された程度だったけど、抵抗されたというそれだけで充分だった。僕のすることには大抵理解を示す山口が拒否したっていう、それだけで。
頭が真っ白になった。謝った方がいいことだけは辛うじて覚えていたけど、すでに何から謝るべきなのかがわからなかった。
山口は夢中で発情抑制剤を飲んだ。小学生の頃は錠剤が苦手で、カプセルだって飲める僕のことを「すごい」って言ってたくせに。部屋に飲み物がなかったから、薬だけ飲み込んだ。オメガじゃないから薬の効能は知らないけれど、飲んでからあまり待たずに帰っていった。家は近いから、窓から見送った時の足取りを見るに、途中でまた座り込むなんてことはないだろう。万全とはいえなくても、ちょっと無理したって、僕のそばから離れたかったんだ。
窓枠の外側に山口が消えていくのを見ながら唇を噛んで壁に拳を叩きつけた。かっこ良くなんかない。アルファは賢いっていうけどとんでもない。所詮本能に振り回されたケダモノだ。部屋に微かに残った山口のフェロモンが、抱きしめた瞬間の興奮をよみがえらせた。
山口は意外と根性がある。
高校は偏差値が高いわけでもなく、分数の割り算で躓き続けている脳みそ筋肉男でも入学できるレベルだった。なのに、成績と進路希望で振り分けられるクラス分けで僕と同じになるためにずいぶん勉強していた。
別に音痴ではないけど、合唱は目立ちたくなくてあまり声のでないタイプだし、楽器も得意ではない。だけど、選択授業で僕が音楽を選ぶと言ったら当然のようについてきて、同じグループの女子に文句をつけられながらも半笑いでやり過ごしている。
最近はベータになりきることに励んでいて、正真正銘のベータ連中がオメガを揶揄するのにひっそり加わっていることもある。
勿論、僕に対しても気持ち悪いくらい平常運転だ。物理的な距離が近づきすぎるとボロが出て、ギクシャクしながら離れていくけど。
「ツッキー、はい、枕」
僕らはセット扱いで、合宿所で寝るときは自動的に隣の布団に配置される。それを動かすのは不自然だと思うのか、控えめに僕のいる反対側に寄って寝ていた。朝晩、抑制剤も飲んでいるみたいだった。そのおかげか、元々平時のオメガはそういうものなのか、事故的にぶつかっても特別な匂いは少しもしなかった。
このまま過ごしていたら、いつか山口の思惑通り、山口がベータであるように錯覚して、再びオメガのことでモメたりする前に縁が切れるかもしれない。それぐらい徹底してオメガ性から逃げ回っていた。そんな涙ぐましい努力に反して、ベータの可愛い女の子と仲良くなる兆しはひとつもなかったけど。
僕は、ひたすらイライラしていた。あんなに濃いオメガのフェロモンにあてられたのは初めてだった。そのせいか、山口がどんな立派なベータぶりでも忘れられそうなにない。アルファはオメガの発情にあてられて発情する。
抱きしめてしまったあの夜は体の奥で熱がくすぶり続けていた。抜いてしまえばいいと思っても、山口を思い浮かべずにいられなかったから我慢した。日中出かけた疲れがあるはずなのに、なかなか眠気はこなかった。そしてやっとのことで眠ったら、山口の夢を見て、起きたら下着が汚れていた。
自分が嫌になる。
夢の中の山口は僕を拒まなかった。それが願望だと言われているようで、次の夜には妙な夢を見ずに済んでホッとした。
やっぱりフェロモンに惑わされたせいだ。
まさか、本当に山口が性的に好みだったのかと不安になるほどに頭の中を占領されていたから、胸の中でお題目のように唱えた。
それでも、その後も、あの日を思い出すたびに理性が端からチリチリと焼けていくのだ。
部活中に山口が倒れた。再び詰襟を着る季節だった。
駆け寄った顧問の武田先生が訳知り顔で、慎重に集まってくる部員の顔ぶれをこっそりチェックしたあたりでピンときて、小声で「事情はわかってます。僕が保健室まで連れて行きます」と引き受けた。
保健室では詳しいことは説明されなかったけど、武田先生に聞いた話と合わせると、抑制剤を使い過ぎたのでは、ということだった。
「時々あるんです。このくらいの歳ではまだ受け入れられなくて当然のことですから」
親が迎えに来る前に一度目を覚まして、寝ぼけた様子でもそれなりに受け答えしていたので、病院は後日でいいと判断された。
おばさんが車で迎えに来て、断わり切れずに僕も荷物持ちとして乗せてもらった。短い距離とはいえ遠回りしてうちの前で降ろしてもらうのは遠慮して、山口の家の前で別れた。
家に向かう途中で、部活用のバッグの中で携帯が鳴った。自分の携帯は間違いなく制服のポケットにある。バッグを山口のものと取り違えたみたいだった。山口自身が自分の携帯にかけている可能性を考えて携帯を探り出した。他の誰かのものならしなかったけど、山口との付き合いの長さから遠慮がなかった。操作しないまま表示されている名前だけ。
『嶋田さん』
知らない名前じゃなかった。春頃知り合った山口のバレーの師匠だ。高校の部活のOBで、地元のスーバーの倅だ。
いつも二人で帰っていた山口が、僕らは常に約束していたわけでもないのに「ごめん、今日一緒に帰れないんだ」と断りを入れてくる。その行き先でもある。
純粋に練習を見てもらっていることはわかっていたけど、向こうの都合がつく限り頻繁に通っていったのは、僕と距離を置こうとしていたんだとも思う。結局お前も離れていこうとしてるんじゃないか。
顔色をうかがいながら「ごめん、ツッキー」と言う山口を思い出して腹が立って、少し悪いとは思ったけど電話にでた。練習の約束があったなら早めに嶋田さんにも伝えるべきだと自分に言い訳した。
「もしもし。忠、今日来ないのか?」
案の定、山口は嶋田さんのところへ行く予定だった。
「バレー部の月島です。山口は倒れて家に帰されたところです」
「は?ツキシマって……ああ、メガネくん?」
「月島です」
「何だ、お前忠んちにいるのか?」
さすがにちょっと怪訝そうに確認された。面倒だから「そうです」と答えた。
「倒れたって大丈夫なの?」
「別に、病気とか怪我ではないんで」
そこで嶋田さんに考えるような間があって、
「……ああ、そろそろ時期か」
独り言みたいに呟いた。この人は知っているのか。
「山口から聞いてるんですか」
何がとは言わなかったけれど通じた。
「まあ………月島、今日これから時間あるならウチ来れる?わかるよな、店」
ちょっと話そう、と誘われて、山口のバッグを担いだまま徒歩圏にある嶋田マートへ向かった。
嶋田マートはすでに客も少なく、店先に積んだ売り出し品を少しずつ撤収しているところだった。
片付けで忙しい時間帯ではないかと訊いたら苦笑を返された。
「いいんだよ。休憩時間ズラして先に働いといたから。それより、忠の様子は?」
どこまで説明していいか見極められなくて「一応、大丈夫です」と曖昧に返事した。それでも嶋田さんは頷いて、店の裏手でビールケースをひっくり返して座り込んだ。同じようにビールケースを逆さにした椅子を勧めてきて、座ると缶ジュースを渡された。自分は缶コーヒーのプルタブを開ける。
「月島は、忠がオメガだって聞いてるんだろ?」
先に言われたのが思いの外癇に障った。こっちが確かめようとしていたことだ。嶋田さんの方が知っていて当たり前みたいに聞こえる。
顔には出してないつもりが、「睨むなよ」と言われて、自分がどんな表情なのかわからなくなった。
「知ってます。今日は薬を飲み過ぎてたみたいで、部活中に倒れたんです」
「そっか。あんまり抑制剤で押し込めずに、割り切って一日二日ぐらい休めって言ったんだけどな。もっと強く釘さしとけば良かった」
「…………」
「何でそんなことまで聞いてるんだって顔だな」
「別に……」
なるべく興味なさそうに振る舞ったつもりが、嶋田さんはさも愉快そうに口角を釣り上げた。何で面白がってるんだ。てっきり山口のことを心配しているばかりだと思っていたのに。
「まあ、先生や親御さんもそんな深刻そうにしてなかったなら本当に大丈夫だろ。体質とか、貧血や寝不足のコンボで副作用が強く出ただけだろ」
この人の言う先生というのはバレー部顧問の武田先生のことだ。確かに、目を覚ました山口から事情を聞いた武田先生がそんなようなことを言っていた。先生本人に質問したわけではないが、武田先生もオメガなのかもしれない。
嶋田さんをじっと見つめると、不躾な態度にも気を悪くした様子なく小首を傾げた。
「何だ?訊きたいことあるんだろ?」
「…………嶋田さんは、アルファなんですか?」
促されたと思ったから言ったのに、呆れた顔をされた。
「いきなりデリケートなことつっこんでくるなー」
「すいません」
「別にいいけどさ。ベータだよ。店継ぐにはアルファの方が良かったんだろうけど、生憎凡才でな」
まったく気にしているようには見えなかったが。
「月島はアルファだな」
「…………山口が言ってましたか?」
「いや、なんとなく。そういうの、忠は訊かれても答えたりしないだろ」
「山口のこと、よくわかってるんですね」
つい口を滑らせてから失言だったと思って顔を上げると、嶋田さんが意味ありげに目を細めて笑っていた。この人は苦手だ。
「そりゃ世間話ぐらいするさ。俺は他のバレー部連中と親しくしてるわけじゃないし、他で話しづらい話題ってのもあるだろ?」
「……そうですね」
オメガバースのことは、確かに誰にも話せなかっただろう。山口はクラスメイトにも部活の仲間にもベータだって偽っている。
「…………ベータの振りをやり通すのって、そんなに厳しいものなんでしょうか」
「うーん、そうだな。少なくとも抑制剤には副作用があって、適量でも体質によっては頭痛に悩まされたりする。それでも発情状態がキツいなら学校や仕事は休むしかないけど、そこを何とかしようとすれば忠みたいになる。不便な体だよな」
俺、ベータだから実際のところはわかんねーけど。と軽く付け足した。唇を噛む。
「忠はベータになりたいんだと。月島の影響かな?」
わざとらしく視線をくれた。
「また、“なんとなく”ですか」
「忠が何か俺に、月島とのことを話したと思ったか」
「………………帰ります」
立ち上がったら本気と見て、服の裾を捕まえて引き留められた。
「待て待て待て、折角休憩時間ズラして時間作ってやってんだから、もうちょっとお喋りに付き合えよ」
うんざりしたが、こっちだってわざわざ部活帰りに足を伸ばして来たのだ。仕方なくビールケースの椅子に座り直した。
「月島はアルファなのが不満なのか?」
「本能のままに生きるのが幸せだとか、まるで動物でしょ。元の人間関係をぶち壊してでもつがいを選ぶなんて洗脳みたいで、気持ち悪い」
「ハハーン。お前、カノジョをつがいに掻っ攫われたことあるだろう」
「!」
「あるよなー。俺も二十歳の同窓会で中学の時のマドンナがもっと美人になってて、仲間みんなそわそわしてたんだけどさ、その子が実はアルファで、いかにもオメガってかんじのオメガの婚約者にべた惚れでさー。俺らベータ軍団の動揺ったらなかったね!」
「思い出に浸ってるところすいませんけど、そういうのと一緒にしないで下さい」
「うんうん、自分の失恋だけは美しいんだよな。いやー切ない青春だなあ」
「…………帰ります」
「待てってば」
心の底から冷えきった目で見下ろすと、指先でダサいメガネのブリッジを押し上げて仕切りなおした。
「えーと、まあ、洗脳ってのは当たってるよ。つがいってのはオメガがアルファを虜にして成立するもんだ」
「……学校の授業では絶対にそんな風には言いませんけど」
「そこはまあ、大人の面倒くさい事情ってのがあるんだよ。ここ十年ぐらいで子供向けのオメガバース教育が変わったのは知ってるか?」
「保健の授業の内容が?」
「そうそう。今はベータもオメガバースも同じクラスで生活してるけどさ、昔は抑制剤の質も悪くて、今ほど当たり前じゃなくてさ。十歳くらいで検査して、中学からベータとアルファとオメガでクラスや学校ごと分けてた時代もあるんだぜ。だけど、抑制剤の普及でオメガ性を簡単に隠せるようになったら、オメガ性で所属分けするのが差別だーとか言われ始めて、同時に教育内容も薄っぺらくなって、代わりに“差別はやめましょう”とかって文言が加わった。オメガバースのガイドブック、子供向けでも挿絵に動物が使われてないだろ?あれもそのせいなんだぜ。獣と一緒じゃありません!ってさ。だから、お前たちの世代は何も知らないようなもんさ」
「そんなの、大人の勝手ですよね」
「まあな。そのゆとり教育が原因で悩める若いオメガを量産してるんだと、俺は思ってるけどな」
量産なんていうけど、つまり、山口のことだ。
「山口は……」
「ん?」
「そんなに悩んでましたか」
山口が僕のことをなんでも知っているような顔をするのと同じに、僕だって山口のことは要らないことまで知っているつもりだった。山口はポーカーフェイスも上手くないし、隠し事は出来ないと思っていた。でも、抑制剤の副作用に耐えていたことに少しも気づかなかった。
「別に俺に相談してきたわけじゃないけど、今日みたいなことになったのはよっぽどベータになりたかったってことだろ。男のオメガは大抵そう思ってるけどな。ガキの頃から男だと思って育ったのに、急に診断書一枚でメス認定だもんな」
教科書にはそんなあけすけな書き方はしていなかったけど、現実は単純で残酷だ。
「だから、必要以上に薬でなんとかしようとする奴も珍しくない。でも今回は病院行きってほど重症じゃないんだろ?」
「はい。部のみんなには貧血ってことになってます」
「じゃあ、薬の効き目が切れてきたら大丈夫だろ」
山口は学校で一度目覚めて支えられながら親の車に乗った。車内ではずっと僕の肩で寝ていて、家に着くと疲れ果てたように玄関に座り込んでうずくまっていた。肩を貸すほど近くにいても、山口から何も感じ取れないのが不安だった。
出会ってからこれまで、わざわざ山口のことを知りたいと思ったことはほとんどない。こちらから求める前に本人が話してくるからだ。つまらないことも困っていることも、僕が話に乗り気でなくても一生懸命に隣で喋っている。ちょっとうるさいくらいが常で、山口が静かで落ち着かないなんてことはなかった。
黙りこむ僕に、ニヤケ笑いを引っ込めた嶋田さんがポツリと言った。
「“つがいは地球の裏側にいるといい”」
「…………なんですかそれ」
「――――って忠が言ってたよ」
「…………」
「忠がオメガ性から逃げたがってる一因は月島なんだろ?」
「…………確かに僕は自分がアルファなのも、身近の人間がオメガなのも不満ですけど、僕は山口の親でもなければ将来を誓った恋人なんかじゃないんだ。ベータになりきろうとして無茶したって責任持てませんよ」
イラついてキツい言い方になってしまった。本人に言ったわけではないにしても。父や兄のように山口を見守っているらしい嶋田さんは怒るかと思ったけれど、苦笑してゆっくりと頷いた。
「そうだよな。ただのトモダチが一生一緒にいるわけじゃないもんな。ところでさ、オメガバースには地球の裏側より遠い場所があるって、知ってるか?」
「は?謎かけですか?」
「さて、どうかな」
年寄り臭く「よっこらしょ」と膝に手をついて立ち上がる。
「悪いけど、もう休憩時間は終わりなんだ。オメガバースのこと、後は自分で調べな。学校で教えなくなっただけで、調べりゃすぐにわかるからさ」
言うだけ言って、引き止める間もなく裏口から店に戻っていった。遊ばれている。何か知っているならはっきり言えばいいのに。
地球の裏側に大した意味は無い。一生ベータらしくいるためにつがいなんか要らないってことだ。僕のために。つがいの幸せは一番遠い場所に置き去りで。
「…………」
話し相手の去った店の裏手にぽつんと取り残されて、なんだか胸の周りがスースーした。
その帰り、もう一度山口の家を訪ねた。バッグを取り替えなければならない。
応対してくれたおばさんに訊けば、山口は食事も取らずに布団で眠って起きないらしい。嶋田さんの言ったとおり、おばさんも「心配しなくていい」と言っていた。だから、そんなに心配していたわけじゃない。だけど、一目だけ、と思って部屋に上がらせてもらった。
部屋の明かりはつけなかった。月が明るいおかげで、明かりはいらなかった。普通に眠っているようで、鼻に手をかざしても穏やかに呼吸をしていたし、額に触っても熱かったり冷たかったりしない。
この部屋は山口のにおいがする。小学校以来の付き合いで、山口が自分の後をついてくるのが当たり前だった。そのせいか、山口のフェロモンを浴びても、興奮の片隅で、座り馴れた椅子の背もたれに体重を預けるような安心感があった。アピールしてくる親しくもないオメガ女にはない感覚だ。
今はもう薬の効果が薄まっているのか、興奮でも不安でもない胸のざわつきが細かな波のように繰り返している。
山口がこんな風に頑張ってしまうのは、僕のせいだ。でも、頼んだわけじゃない。ベータのフリが辛いなら無理を止めたらいい。オメガ性を隠さなくたって、そこですぐに友人関係が終わるわけじゃない。そんなことまで僕に合わせる必要はない。卒業したら一緒に行動することもなくなるだろう。依存をやめて、少しずつ離れていく時期にきてるってだけじゃないのか。
言ってやりたいことは山ほどあった。口に出すのは暑苦しいから言ったことはない。だけど、黙っているせいで今日みたいなことになるのなら、
「…………」
兄を捨てた彼女のつがいと、三ヶ月前に山口に声をかけてきた見知らぬ男を思い出した。どちらも顔は覚えていなくて、服装や背格好だけぼんやりと記憶に残っている。どちらもイイ奴には見えなかった。彼女のつがいよりも兄の方がよっぽど見栄えもするし、歳も近くて、人柄だって負けてないだろう。それなのに、つがいがあんな男だなんて、自分だったら損だと思う。仕事帰りに高校生をナンパなんかする男もろくでもない。
冷静に見れば趣味の悪い男が相手でも、本能が選ぶならばつがいになってしまう。つがいにならなくても他のアルファに拠り所を見つけるのかもしれない。オメガの人生はアルファありきだ。それを思ったら自然と眉間にシワが寄った。
見た目ではアルファもオメガもベータも差はない。それなのに、オメガバースは面倒がつきまとう。貧乏くじだ。
「つがいが地球の裏側にいたって楽になれるわけじゃないだろ」
相手が見つからない限り、誰かれ構わず惹きつける厄介な体を持て余す。それを上手くやり過ごすほど山口は器用じゃない。そんな不器用さにイライラする。固めて床に叩きつけた拳がバッグの横に置いておいた缶に当たり、音を立てて転がっていった。
何も知らない。腹の立つ大人の言葉が小骨のように引っかかる。重い腰を上げて中身の詰まったジュースの缶を拾い上げた。
「母さん、古い教科書ってどこにしまってる?」
家の中でバタバタ動き回っていた母を呼び止めた。
「蛍の中学のは自分の部屋じゃない?小学校の分はダンボール箱に詰めちゃったかもしれないけど」
「僕のじゃなくって…」
「明光のなら部屋か物置の右側のみかん箱。マジックで書いてあるわ」
兄は仕事のため別居している。部屋は母の手によって整頓され、兄が帰省するときにだけ使われていた。
本棚は自由に見ていいと、許可を出されている。そこで探したものの見つからず、納戸にこもって「明光」と書かれたダンボール箱も調べたけれど、すでに廃棄したのか、兄の代で使われたオメガバースのテキストは見つからなかった。
次にパソコンを立ち上げた。単純に「オメガバース」で調べると、それをビジネスにしているウェブサイトがわんさかひっかかる。欲しい情報をよく見つめなおして、キーワードを追加し、ずいぶん渋くなった検索結果から一件をクリックした。
【オメガバースの生態について】
a)オメガバースと社会
オメガバースは人間社会では不便があっても、繁殖を人生の目標とする生物としては、ベータよりも優秀と言える。
世界各国の調査でも、ベータに比べてオメガバース夫婦の出産率、子供が成人まで育つ率が高く、離婚率は低い。劣性遺伝であるオメガバースが一定の人口割合を維持しているのは、その性質故と分析されている。
b)つがいのしくみ
つがいは厳密にはただ一人ではなく、遺伝子の相性が一定の水準を上回る個体のうち、すでにつがいを持っているものを除外して、先に出会った一人のことを言う。
数値化など、具体的な目安は解明されていないが、つがいに対する相性の水準は非常に高く、もし遭遇しても、相手がつがいを持っている場合はフェロモンの種類がつがい独特のものに変容しているため、自動的に除外されると考えられている。
そのため、つがい化のハードルが高く、一般的に“運命の人”等と呼ばれることがある。
好相性の基準としては、遺伝的に遠いことが条件の一つと判明している。
男女間で、思春期の娘が父親の体臭を嫌う現象と同じく、近親相姦のリスクを避ける目的がある。
また、つがい化する個体は、正式につがいになる前から人間関係が良好である場合が多い。
つがい関係が成立した後に、つがいの片割れが死亡、もしくは一定期間以上離れ、戻る見込みの無い場合はつがいが解消される場合がある。
仮にオメガが失踪等により、つがいのアルファから長期間に渡って離れた場合、オメガのフェロモンの効果が薄れ、アルファの価値観がつがいと出会う前に戻ることがある。
逆に、オメガがアルファを失った場合も、徐々にフェロモンの性質が変化し、つがい化以前同様に不特定多数のアルファを誘引するものに戻り、新しくつがい対象と出会うことでつがい向けのフェロモンに転換する。
しかし、オメガバースにおいては浮気願望が生まれにくく、夫の長期出張などで長期間離れたとしても、面会ごとにフェロモンが上書きされるためにつがい解消にまでは至らず、現実的には死別や完全な失踪以外でのつがい解消は報告されていない。
c)年齢とフェロモン分泌の…
手元でカチカチ音を立てていたマウスから手を離し、メガネを片手で外して眉間を揉んだ。
飾り気のない文字ばかりの画面から知りたい知識を掬うのは骨が折れる。ざっと読んだ結論は、つがいっていうのは世間で“運命の人”なんて言われているほどロマンチックなものじゃないってことだ。先着順で一人しか選ばれないから一人というだけで、相手になれる可能性なら一人じゃない。
優良な子供を残せるつがいを見つけてつがいにならない限り、オメガは何十年も一人で発情を繰り返す。
つがいを見つけられなくても、一人で抱え込むには苦しい体を持て余して、すぐにパートナーを作るんだ。統計資料にはつがいに関わらず、成人オメガの未婚率はとても低かった。つがいでない場合は離婚数も高いけれど、元々一人で生きていける生き物じゃない。
今、何を思っていようが、いつかは山口も兄を捨てた彼女みたいにつがいを選ぶんだろう。
暗い部屋の中でパソコンのモニターだけが輝いていた。情報を探し飽きてウィンドウを閉じる。背景の白いウェブページが一瞬で消えて、あとはデスクトップの黒っぽい壁紙が表示される。灯りというほどには明るくもない薄暗いモニターが、部屋の中で唯一つの灯りにだった。
一日休んだ翌々日、学校は休みだったけれど部活はあった。山口も出てくるというのでいつもより少し早く家を出て山口を迎えに行った。いつもは通学路の合流地点で山口が待っている。
家の前で僕の姿を見つけると、驚いたような困ったような顔をして、駆け足で隣に来た。
「ごめん、ツッキー。心配かけちゃって」
「その辺でまた倒れられたら僕が待ちぼうけるでしょ」
「さすがにもうやらないよ」
言った端から段差に躓いてよろけた背中に腕を回して受け止める。言わんこっちゃない。近づくと山口のにおいがした。興奮を煽るようなフェロモンじゃなくて、山口の家の山口の部屋のにおいだ。こっそりホッとした僕の気も知らないで、山口は慌てて体を離した。
「ご、ごご、ごめん!」
「……ハァ。今日ホントに部活やる気?」
「うん、武田先生は事情知ってるし、もし無理っぽかったら見学でもいいし。あ、あと、この間みんなに迷惑かけちゃったからって母さんがコレ持ってけって持たされたから配らないと」
視線の先で紙袋の手提げがパンパンになっている。
「クッキー?」
「母さんの同僚の家がお店やってて、売り物にならないヤツをまとめて売ってくれるんだって」
「確かに、部活のみんな質より量って感じだからね」
「ツッキーには別でちゃんとお礼するよ」
「今更そんなのしなくていいって、おばさんに言っといてよ。こっちが逆に気を遣うんだから」
「あはは、何かもらったらおばさんすぐに“お返し!”って言うよね。バレンタインでもツッキーが貰いっぱなしにするからおばさんがホワイトデーのプレゼント用意してきてさ」
僕が正確なチョコレートの数を申告しないから、少し多めに用意したのを押し付けられて、余りは大抵山口に押し付けていた。そうすると、次に山口の家に遊びに行った時のお茶菓子がグレードアップする。山口の母親だってお礼とかお返しをせずにいられないのだ。付き合いも長いし、何でもお互い様なのだから、面倒なことはやめたらいいと思うけど。
体育館を覗くと、すでに暑苦しい面々が大はしゃぎで動き回っていた。見ているだけでうんざりする。
「なんか、休んじゃうと入りづらいなあ」
「しかも、みんなの前で倒れてるしね」
追い打ちをかけられ肩をすぼめる山口の向こうからマネージャーが一番に気づいて駆け寄ってきた。三年の清水先輩だ。お世辞抜きの美人で、もの静かで、親しくはないけど仕事が出来ていかにも賢そうな人。日頃あまり変化のないすました顔に少しだけ心配の色を乗せている。
「山口、もう大丈夫なの?」
「あ、は、はいっ。……あの、すいませんでした」
「別に、大丈夫ならいいから無理しないで、………………?何か、甘いにおいする……」
清水先輩が利き手で髪を耳にかけ、身を乗り出してにおいを嗅いだ。わけも分からないまま照れた様子の山口になんとなくイラついた。そこで突然浮かんだ考えにマズいと思って、反射的に山口の肘を強く引いた。バランスを崩してよろけたところを受け止める。
「わっ、な、なに?」
清水先輩も驚いた顔で僕を見た。その足元に山口が手を滑らせて落としたクッキーの紙袋が落ちる。先輩は拾い上げて中身を確かめてから、「はい」と紙袋を差し出した。
「コレ…………お菓子だったの?割れちゃったみたいだけど」
山口は手に触れないように遠慮がちに受け取る。恥ずかしいんだろうけど、それ以外にも、清水先輩の指を触ったなんて知れたらうるさい人達がいるから賢明な対処だ。
「はい、元々割れたり焦げがついてるはね出し品なんで。この間みんなに心配かけちゃったから……こんな見た目の悪いヤツばっかりなんですけど」
「よく見る前に口に放り込んじゃうでしょ、みんな」
先輩の言うみんながわらわら集まってくる。
「山口じゃん!もういいのかよ」
「あ、なんか持ってるー!それ食べていいの?」
「日向ボゲェ!勝手に手ェだしてんじゃねえ!」
「ハッ!まさかそれ、潔子さんへの贈り物とかじゃねえだろうな?」
「いや、あの、この間のお詫びっていうか、沢山あるからみんなで食べろって持たされて……」
「やったー!いただきまーす!」
「だから、お前は手ェつけるのが早すぎンだよ!」
僕が危機感なんか持っているのがバカみたいな、山口を含む日常が押し寄せる。主将たちも寄ってきては調子を尋ね、強がり混じりの返事をして、山口はさっきまで不安がっていたことさえ忘れたように人の輪に溶け込んでいった。僕は愕然として集団の後ろで立ち尽くした。
さっき、清水先輩が山口のフェロモンを嗅ぎとっていたのかと思った。女のアルファはほとんど知らないけど、先輩ならアリだという気がした。発情期がほとんど終わりになって、適量の抑制剤で誤魔化しているのにフェロモンを感じ取れるなんて、つがいみたいじゃないか。
まさか、と思ったら黙っていられなくて、体が動いた。清水先輩は知るかぎりでは文句の付け所のない人なのに。信じられない。これはもう、ろくでもない相手とつがいになるかもしれない不憫な山口を心配しての行動じゃない。紛れも無い、嫉妬だ。
一度認めてしまうと過去のイラだち全てがそこに繋がって、答え合わせが進んでいく。
僕は山口が好きなんだ。だけど、僕らはつがいじゃない。フェロモンを感知できる歳になって、山口が発情を迎えていても、出会えばわかるというつがい特有の何かがわからないからだ。これから先、つがいを見つけたら、山口のことさえどうでも良くなるのだろうか。
アルファだと宣告されてから、本能に振り回されるのなんかまっぴらだと思っていた。だけど、気づけばオメガバースの運命を受け入れている。好きな相手がつがいではないから結ばれないんだなんて、呆れるほどオメガバースらしい発想だった。
僕のつがいも、山口のつがいも、地球の裏側にいるといい。そうでなかったら、地球の裏側より遠いところに。
オメガ用の抑制剤は処方箋がないと買えないんだそうだ。ソレ以外では、オメガと診断されると紹介される保護団体に登録すると、定期的に送られてくるものらしい。母が製薬会社の名前の包みを受け取るのを見たことがある。小さな頃は中身を尋ねても誤魔化されていたけど、今はそれが抑制剤だと知っている。
薬局の棚には置かれないようになっていて、あるのはアルファ用のフェロモン中和装置だけ。なんでも低温加熱して薬剤シートを溶かすことでアルファの持つ感知機能を一時的に麻痺させるんだとか。鼻に栓でもしたみたいにシャットアウトして、目の前で発情していても影響を受けないらしい。
本体、薬剤シート二枚入りで税抜き四二〇〇円。眉間にしわを寄せて値札を睨んでもゼロが減ることはない。諦めて棚から離れようとしたところで背後にいた客にぶつかった。
「すいませ……」
「なになに?そんなに誘惑されて困ってんの?高校生のくせにヤラシーな」
「…………嶋田さん」
運が悪い時期のことを何というんだったか。大殺界。そう、今は大殺界なのかもしれない。
私用らしい嶋田さんが買い物カゴを片手に立っていた。フェロモン中和装置を物色しているところなんか誰にも見られたくないが、特に面倒な人に見られてしまった。案の定、メガネの奥で愉快そうに笑っている。
「別に、ちょっと見てただけですから」
「誰のフェロモンから逃げようって?当ててやろうか」
こっちの話なんか聞く気がない。人差し指をピッと立てて名探偵気取りだ。
「ズバリ、忠」
「答えませんよ」
「お前、意外と素直だよな」
本当に腹が立つ。
「さすがにもう抑制剤でギッチギチに抑えこもうなんてしないだろうしな。しょっちゅう一緒にいたら間違いも起こるってもんだ」
「起こりませんから」
「その心配してこんなモン買おうとしてたんじゃねーの?」
虫除けアイテムみたいな見た目の中和装置を指さして、その指を値札にスライドさせる。
「……リッチだな高校生」
「買いません。親に頼まれた買い物をしに来ただけです」
本体自体は大した価格じゃないが、取替え式の薬剤シートが高価で、高校生が買うような物じゃない。大人だって、社会的に地位のある人や、財産があって詐欺などに遭う心配をするような人以外は常備したりしないだろう。大きな薬局になら置いてあるが、種類も在庫も少ない。
高価なのはわかっていた。ただ、ちょっと見てみただけだ。
成熟したオメガの発情期は一般的に一週間。無理のない範囲で抑制剤を使っても三日前後は引きこもることになる。残り四日はベータなら影響を受けないで済むが、アルファはダメだ。見境なく襲うような真似はしなくても、また夢に見たりするかもしれない。自衛できるならそれが一番だけど、現実は財布の中には二千円もない。
「そんなもの買うより、つがい見つけたほうが手っ取り早いんじゃねーの?」
つがいになると、オメガはつがい以外の相手を誘惑しなくなる。同時に、アルファもまた他のオメガのフェロモンの影響を受けにくくなる。不特定の相手に見境なく発情するような体が厄介なのはアルファも同じだ。つがいを持った方が楽なのはお互い様なのだ。だけど、
「簡単に言わないで下さい。この歳でつがいがみつかったら奇跡ですよ」
運が悪ければ死ぬまで出会えない。それだけハードルが高いのがつがいだ。大人になると、積極的に仲介会社の見合いに参加して相手を探すオメガバースもめずらしくない。その辺の難しさを冗談にできるのは、やっぱり島田さんがベータだからだ。
「奇跡ねえ」
腕組みで呟いた時だ。向こうの通路からバサバサッと音がして、女性の慌てた声が聞こえてきた。反射的に棚から顔を出す。
「いいから、アタシが拾うから」
スーツを着こなした女性がしゃがみ込んで床に散らばった商品を拾っているところだった。隣で気弱そうな妊婦が赤ん坊と子供の間のような子を抱いてオロオロしていた。子供はままごと人形のものみたいな靴を履いた足をじたばたさせている。陳列されていた商品を崩した犯人はこの子だろう。なんとなく、二人が両親だとわかった。女性同士で子供がいる。必然的にオメガバースだ。
「…………間下」
一緒になって通路を覗いていた嶋田さんがひとりごとみたいに言った。するとスーツの女性が振り向いて、優しい弧を描いた眉をヒョイッと上げた。すごく美人で、気の強そうな人だ。
「嶋田くん!」
僕を残して嶋田さんが歩み寄り、彼女の手に抱えきれなかった分の商品を拾って棚に戻した。
「ありがとう。久しぶりなのになんか変なとこ見せちゃったね」
「ホントにびっくりしたよ。……こっちは、奥さん?」
「そう、同窓会のとき話した子」
そこで彼女は奥さんに向き直って嶋田さんを紹介した。
「この人、中学まで一緒の嶋田くん。ほら、嶋田マートの御曹司」
「やめろよ。そういう間下のほうが今じゃ高給取りだろ。仙台に住んでるんじゃなかったのか?」
「二人目が産まれるから里帰りしてきてるの。アタシは明日には戻るんだけど」
「そっか。早いなあ」
「そりゃあ、ベータに比べたらね。同級生だってまだ独身の方が多いんだから」
品物を戻し終えた彼女が奥さんの抱いていた子を引き受ける。人見知りらしく、嶋田さんの顔を見つめながらピタリと大人しくなったので、彼女は笑って子供の背中を優しく叩いた。
「いくつ?」
「一歳。かわいいでしょ?母親似なの。小さいころそっくり」
「はいはい、ごちそうさま。またこっちに来るときは店寄ってくれよ」
「じゃあ嶋田くん、ちゃんと店番しててね」
そのつがい夫婦はずっと幸せそうにしていて、手を振り別れても、三人がレジのある通路へ消えるまで嶋田さんは動かなかった。
「じゃあ、僕もこれで…」
何故か居心地悪く感じて一声かけると、嶋田さんが振り向きもせずに話し始めた。誰もいない売り場をぼんやり眺めて。
「あの子ら二歳差だけど幼馴染でさ、同じ高校入って、高卒まで毎日のように会ってて、大学進学で初めて離れたんだって。それから再会したら急にビビッときてすぐにプロポーズしたんだって言ってた」
「言ってたって……同窓会で?」
「そう、覚えてるか?前に話したの。見ての通り美人だけど、女でアルファってのも大変なんだよな。今は政治家とか、起業家とかって女のアルファがバンバンテレビに出てるけど、そうじゃなかった時代は女の癖に…なんて言うヤツもいてさ」
古いドラマでそんなシーンがあったような気もするが、今なら女性議員がツバを飛ばしてクレームを入れそうな話だ。
「オメガの扱いはもっと悪かったんだぜ。ジイちゃんバアちゃん世代は雌腹って言って、つがいなんか関係なくオメガを子供を産ませるモノみたいに扱ってた地域もあるんだと。そういう差別意識がギリギリ残ってたのが俺らの世代で、さっきの奥さん、いじめにあってて、つがいだってわかった時には一生守るってすぐに結婚申し込んだっていうんだからすごいよな」
「…………あの人と嶋田さん、親しかったんですか」
「友達だよ。アイツ男女関係なく友達多かった中の一人。奥さんの方は学年が違うからあんまり知らないけど」
もし、恋人になろうとしても、ベータとアルファは難しい。つがいが現れたらそこでおしまいだ。そのせいか、元々見込みがなかったのか。嶋田さんは今も気兼ねなく妻子の自慢をされるいい友達でいる。
「俺のこと、ベータのくせに詳しすぎるって思ってたか?オッサンにも切ない青春があったって言ったろ」
彼女たちが完全に店から出て行った頃に買い物を再開した。といっても僕は何か買うわけでもなく、嶋田さんに荷物持ちを押し付けられて渋々レジまで付き合った。
「なあ、この間の謎かけの答えわかったか?」
「“地球の裏側より遠い場所”ですか」
「なんだ、もしかしてまだわかんない?」
バカにするような態度にカチンときた。僕をからかって楽しんでいる、この人の考えそうなことが答えだ。今までの言動を思い出すうちに、ついさっき、店内であったやりとりを思い出した。わざわざ僕にとっては何の縁もない人間の苦労話を聞かせたことからして、
「……幼馴染」
「ピンポーン」
うんざりした。どんなにオメガバースについて勉強していようが所詮は他人ごとのベータなのだ。
「僕は一年前からフェロモンをかぎとれるようになってました。山口も最初の発情期は今年の春で、抑制剤を使ってたとしても、一度も“つがいだ”なんて確信したことないんですよ」
「勉強不足だな。つがいってのがどんなものか調べたんじゃなかったのか」
「調べましたけど」
「フェロモンってのは突然全開で分泌されるもんじゃないんだよ。誰もわからないぐらい僅かなところから徐々に増えてくんだ」
「知ってます」
薬局を出ると日が沈みかけていた。
「ずいぶん日が短くなったよな」
「じきに冬ですから」
「でも、毎日ちょっとずつ短くなってるから驚いたりしないんだよ」
「そりゃあ…」
「そのうち冬至になって、また半年で夏至になるだろ。だけど、急に変わるわけじゃないからいつの間にか昼夜の長さが変わってるんだ。それと一緒だよ。フェロモンの薄い時期から毎日のように会ってると、ある程度フェロモンが濃くなって“こいつがつがいだ!”って衝撃を受ける前に慣れちゃうんだよ。間下の話によると、な」
「調べてもそんな記述ありませんでしたけど」
「珍しい事例なんじゃねーの?」
「だとしたら、どうやってつがいかどうか判断するんですか」
「間下は進学を機にしばらく会わなくなって、久しぶりに会ったらすぐわかったって。一度馴れたオメガのフェロモンから開放されないとダメなんだろうな。まあ、判断できなくたってつがいになれる相手には違いないんだから、もしかしたら自覚すっ飛ばしてポロッとつがいになれることもあるんじゃないかと思うけど」
横目で視線をくれる嶋田さんと目が合った。一度受け止めてから目を逸らした。
「…………僕と山口がくっついたら嶋田さんは面白いんですか?」
「嫌な言い方するなよ。俺は、忠の味方をしてるだけだって」
味方といっても望むことばかりしてくれるわけじゃないよな。山口はこんなの喜ばないんじゃないか。
「生憎ですけど、知っての通り、僕らにとってはベータとして生きていくのが一番ですから」
接客の人みたいな表情のない型通りの笑顔を作って会釈をした。
「何かとご心配ありがとうございました。それじゃ」
嶋田さんに背を向けて、夕焼けで伸びる影の方向へ早足で歩いた。
万が一僕らがつがいでも、お互いがベータとして生きたいんだったら逆に好都合だ。つがい化しないような距離を保っていたらいい。他につがい相手が現れて奪われる時の心配が要らなくなるんだから。
部活帰りに山口が「今日はちょっと」と言わない日はホッとする。一緒に帰らないと言い出す日は必ず嶋田マートの裏で自主練をする日だからだ。
部活の片付けを全員で済ませ、帰り支度を整えて山口が追いついてくるのを待つ。時々誰かのやらかしたことに巻き込まれて時間を食うけど、置いて帰ることはない。
昔は隣を歩かなかった。少し後ろをついてくるので、金魚のフンなんて言われて、僕までバカにされているようだったので「並んで歩けよ」と言ってから隣を歩くようになった。元から許可なんか要らなかったのに、言われた山口はちょっと嬉しそうだった。
「今日、母さんたちが出かけてるからコンビニで夕飯買って帰るけど、山口は?」
「じゃあ一緒にいくよ」
高校からの帰り道を少しだけ遠回りしたところにコンビニが一軒ある。遠回りと言っても、僕の家までの距離はあまり変わらない。山口だけが遠回りになるようなものだから、毎回一応の確認をするけど、断られた試しはない。
「ツッキー、決まった?」
早々に弁当を決めて菓子コーナーを物色していると、棚の向こう側から声がした。
「うん。山口は何か買うの?」
棚を回りこんで合流して見ると、山口は普段食べないミントタブレットを握っていた。僕の買ったものを一粒あげたことがあるけど、あんまりピンとこなかったようだったのに。
「これさ、ミントの臭いでフェロモンが誤魔化されないかな……と思って」
自分でもバカバカしいアイディアだと思うんだろう。言いながら徐々に目を逸らして、またチラッと僕の表情をうかがった。
「…………まあ、フェロモンも臭いといえば臭いだから、もしかしたらちょっとぐらい効くかもね」
心にもなかったけど、抑制剤みたいな体への負担のない方法で解決しようという気持ちだけ肯定しておく。半ば嘘みたいな返事だというのはわかっているはずだけど、山口は肩から力を抜いて頷いた。
「じゃあ買ってくる」
「僕も」
二つあるレジでそれぞれ会計を済ませて一緒に店を出た。店の前の駐車場に、正面ガラス張りの店内から明かりが溢れていた。山口は店の前で早速一粒口に放り込んでいた。美味そうな顔はしなかったし、それで何かが変わった気配はなかったけど、本人が満足そうだからいい。店のドアの前から歩き出してすぐ、店内の明かりからやや外れた暗がりで人影が動いた。喫煙スペースの脇だから、仕事帰りのサラリーマンか何かだろう。薄暗い中人相を確認するほど興味もなく去ろうとした、その時だ。
「山口?」
呼ばれて僕らは反射的に振り向いた。人影が店の明かりの届く場所までゆっくり歩み出てくる。サラリーマンだっと思った相手は近隣の高校のブレザーを着ていた。顔に見覚えはあるけど、興味がなくて名前が出てこない。二文字くらいの、たしか――
「志賀」
それだ。小学校で一緒だったけど、特に興味もなかったのでろくに憶えていない。何の係だったかも、足が速いか遅いかも。憶えているのは、コイツが山口をいじめていた一味の一人だってことぐらいだ。
「なんだよ、今部活帰り?……あ、未だにバレーやってんだよな?」
「う、うん……」
「お前らと同じ烏野に槇田がいってんの知ってる?アイツから話聞いたわ」
槇田も中学まで一緒だった、ろくに親しくない一人だ。志賀の子分のようなものだけど、単体では気が弱いせいで、高校に入ってからは声をかけられたことすらない。
小首を傾げる山口に、志賀が下衆っぽく笑った。
「山口さ、お前オメガなんだって?」
思わず息を止めた。隣に立つ山口も血の気が引いている。僕らが何も言わず黙っていても、志賀はヘラヘラと話し続けた。
「この間倒れたんだってな。ちょうど槇田が保健室近くに通りかかって、話聞いちまったんだと」
「…………」
「あ、違うって言わねーんだ。やっぱマジなんだ?俺同年代のオメガって初めて見るんだよな。みんな上手く隠してるから、ベータにはわっかんねーんだもん」
外見のどこかにオメガの印でもあるみたいに、首を動かして山口を眺め回す。当然何にも違いなんてない。
「今は発情期じゃねーんだろ?フェロモンちょっとぐらい出てんの?発情期になったら山口みたいな奴でもエロく見えんのかな」
自分の発言に一人で大笑いして、沈黙する山口に飽きたのか僕を見た。
「もしかして、月島ってアルファ?高校入っても毎日二人で帰ってんだろ?アレ、もしかしてつがい……」
「違うっ!」
山口が鋭く叫んだ。拳を白くなるほど握りしめて志賀を睨みつける。
「ツッキーは、アルファじゃないよ。ベータだし、俺がオメガでも、…つがいなんかじゃないから、ヤメロよ」
言葉を選ぶような僅かな間を置きながら、それでもきっぱり言い放った。勢いに押された志賀が少しだけたじろぐ。
「…………はぁ?何必死になってんだよ。余計怪しいつーの」
「……っ!」
大声で言い切ろうとも、元から嘘だ。山口は器用な嘘なんかつけない。すぐに返答に詰まってしまった。
その肩に軽く手をかけ、半歩前に出る。
「僕のことアルファだって思ったんだ?ベータの自分よりそれっぽいって?」
「あ?」
「それ、僕より自分が劣ってるって思ってるってことでしょ」
自分で言い出したことを改めて指摘されて眉間にしわがよる。こんなにおつむが弱くて、よく他人を馬鹿にするものだ。
「今の今までお前がどこの高校に行ってたかも知らなかったけどさ、こんなことで憂さ晴らしして、女の子に相手にされないとこんな風になっちゃうわけ?」
「なんだと……」
掴みかからんばかりに睨みつけてきたけど、人間だって動物と同じで体の大きい相手には本能的に圧倒される。見下ろされて志賀が躊躇った間に、コンビニ前に車が滑りこんできて水を差された。部活をやっているのに喧嘩なんかするわけがない。この時間帯はまだ車や自転車の通りがあるから、すぐにひと目について大事にはできないのがわかっていた。
「じゃ。行くよ、山口」
いつもは反射的に返事をする山口が、志賀をチラチラ振り返りながら黙って後を追ってきた。
コンビニ前を過ぎると振り返っても志賀の姿が見えなくなる。
「やっぱりツッキーはすごいよ。俺じゃあんな風に冷静に言い返せなかった」
「何が冷静だよ」
冷静だったら、山口より先に何か言えていたはずだ。腸が煮えくり返って何も言えなかった。
今頃になって嶋田さんの話を思い出していた。薬局であった女性たちがオメガ性を理由に苦労してきたっていう話だ。思い返せば心あたりがある。オメガっていうのはオメガだと診断される以前からいじめられやすいんだ。
大抵のオメガは運動でも勉強でも、人並み以上の才能なんか持っていないしリーダーシップもない。尊敬されることが少ない一方で、なんとなく気になる何かを持っている。目立つわけじゃなくても気になるノロマがいたら、それはいじめの格好のターゲットだ。
成長すればくだらないいじめは減る。だけど、オメガとバレたら再びからかいの的になるのは当たり前だ。男なのに女みたいな体なんて、僕らの年頃で無視しろという方が無理だ。
悪意がなくても、発情期で休んだりするたびに遠巻きに好奇の目に晒されるかもしれない。志賀なんかは小学校の頃にも僕とは反りが合わなくて、多分未だに根に持っていたんだろう。口喧嘩では僕に勝てなかったから、山口がオメガと知って、僕らと鉢合わせる日を楽しみに待っていたのかもしれない。
今回は言葉だけで貶されただけだった。だけど、運悪く発情期の間に会ったら何をされるかもわからない。フリーのオメガのフェロモンは元から人を狂わせる性質のものだ。悪意だって簡単に引き寄せる。それを今まで具体的に考えてこなかったんだ。嶋田さんに教わったのに。
お互いにずっとつがいを作らず距離を保って行きられたらいいだなんて、僕が楽なだけで、山口の幸せなんか少しも考えていなかった。一緒にいればフォローしてやれるなんて言うのも思い上がりだ。今までだって、さっきだって庇われるのは僕の方だ。
「ツッキー?」
自然と早足になる僕を心配そうに覗きこんでくる。何で僕が心配されてるんだ。嫌な思いをしたのは山口なのに。
あっという間に僕の家の前まできて歩みを止める。
「あのさ、今度槇田にも俺から言っとくから。ツッキーはベータだって。変な噂を流さないでくれって、さ」
「別にいい」
「でも……」
「僕のことなんかなんだっていいだろ!」
「ツッキー、どうしたの?」
もっと上手く立ちまわっていたら、山口だってオメガだとバレなかったかもしれない。僕は山口が倒れるより前からオメガだってことを知っていた。それを、騙されていただなんて腹を立てて、ベータになりすます苦労もよく理解せずに放っておいた。山口を好きだと気づいてからもだ。自分にイライラする。
月明かりが山口の顔色を白く見せた。倒れて眠っていた日を思い出した。
「じゃあ、俺帰るね」
発情でつらい体を押して僕から逃れるように帰っていく頼りない後ろ姿が過る。
『つがいなんかじゃないから』
冷やかしをかわすための嘘に混じった真実の言葉が頭の上を回る。
「帰るな」
手を取った。放さない。山口が驚いて目をまん丸くしている。逆らったりしないのをわかっているけど、掴んだ手をギュッと握りしめた。
「話があるんだ」
真っ暗な家の電灯のスイッチをいれて、夕飯用に買ったコンビニのパスタと唐揚げはダイニングテーブルに置きっぱなしに部屋に上がった。リビングの妙な広さが居心地悪かったからだけど、自分の部屋に山口を入れるのは山口がオメガと知った日以来だったから、拒まれたことまで思い出してしまった。
所在なさそうに床に座る山口の目の前で、僕も目線が合うように座った。
「山口、もう無理にベータのフリしなくていいよ。僕のことも庇わなくていい」
何から話せばいいか迷って、そう切り出した。それをどう受け取ったのか、山口が前のめりに首を振る。
「だ、大丈夫だよ。俺が倒れたことだったら、次からもっと上手くやるし、槇田も同じ学校の連中に言い回ったわけじゃなさそうだから、よく話せばコレ以上広まったりしないと思うし…」
「槇田たちにも山口が話す必要ない。話を付けなきゃならないなら僕がするから山口は引っ込んでろよ」
「う、まあ、俺よりツッキーの方が上手く交渉できるとは思うけど……」
仕事を取り上げられて悔しそうなのが不思議だ。どうせ嫌なことを言われることになるのに。
「別に、山口が上手くやれないって言ってるんじゃないよ。僕がフォローするって言ってるんだ」
「いいよ、俺のことでこれ以上ツッキーに迷惑かけられないし……」
「何でだよ」
反射的に少しキツい口調になった。山口が肩をすくめる。
「だって、ツッキーが折角アルファだってこと隠してるのに、俺のせいで疑われちゃったし…倒れた時も、前の…買い物に行った時にも迷惑かけちゃったしさ。でも、俺だって自分の体のことわかってきたし、これからは大丈夫だと思うんだ。いつまでも頼ってるわけにいかないよ」
山口は見た目よりよっぽど根性がある。それが今は歯がゆい。
「これからもっと大変になるかも知れなだろ。さっきの志賀みたいに簡単に引き下がるとは限らないし、発情期になれば、ピークの数日休んで出てきても、アルファなら嗅ぎ取れちゃうかもしれない。そうしたらまた辛い思いするのは山口なんだぞ」
「もう、小学校でいじめられてた時の俺じゃないんだよ」
「…………っ!」
真面目な目ではっきり言われた。怒ってるみたいだった。また間違えたんだ、僕は。言うべきことが違う。山口を弱い奴扱いして懐に入れようとして失敗した。本当は山口が弱くないことなんか知っていたのに。
片手で顔を覆って俯いた。往生際の悪い情けない顔を晒したくない。僕が言葉を返さないでいると、心配になったのか、床に手をついて様子見に近づいてきた。自分から近づいたくせに、顔を上げると距離のなさに驚いてパッと退こうとした。床から浮いた手に手を重ねて床に縫い止める。
「な、なに……」
「僕はベータみたいに生きるのをやめる」
至近距離で目を丸くするのがよく見えた。山口の目の真ん中に僕が映っている。
「もし、本能がそうだっていうならつがいを作るよ」
「…………そっか」
丸くした目を伏せて目を逸らされた。寂しそうに見えて、フェロモンが濃くなったみたいに体の奥がざわざわする。開放してほしそうにジリジリ動かす床の手を逃がさないように、もどかしく指を絡めた。
「山口がつがいならいいと思ってる」
大きく瞬きして恐る恐る振り返って、僕の顔を見た。冗談なんかじゃないってわかるだろう。僕がこんなことを悪ふざけで言わないことぐらい、山口ならわかってる。
「嘘だ」
「何でそう思うの」
「だって、俺達、今更つがいの可能性なんかないだろ?」
「ある、って言ったらどうするの?」
眉間にしわがよる。まだその可能性が信じられないんだ。だけど、目が潤って光を反射してキラキラしている。床の手はもう逃げようとはしなかった。
「フェロモン分泌が始まる前から毎日のように一緒だと、気づかない間に徐々に相手のフェロモンに馴れていってわからなくなるんだってさ。みんな、こんな近くに運命が転がってるなんて思わないだろう。だから珍しい事例みたいだけど、そういうこともあるんだって」
「…………ツッキーが、俺の、つがい?」
「だといいと思ってる。そうしたら山口を守れる」
「守ってほしいわけじゃないよ」
「知ってるよ。でもつがいになれたら、他の誰かがフェロモンにあてられて山口に寄ってくるのを見てイライラしないで済む」
いつの間にか唇を震わせて真っ赤になっている。時期的に発情期はまだ先のはずだけど、なんだかいい匂いがする気がした。
「確かめたいんだ。可能性が本当にあるのかどうか」
「わか、わかんないよ……小学校から一度も離れたことないし」
「じゃあ一度離れてみる?高校卒業したらチャンスだよ。その間にお互い別の相手が出来て、もし僕らがつがいである可能性が残ってても、外で見つけた新しい幸せを壊さないために二度と会わないほうがいいって絶縁する可能性もあるけど」
「それはヤダ!」
わざと意地悪な言い方をすれば即答だった。
「なら今確かめるしかないね。つがいになれるかどうか試してみるしかないよ」
「つがい……試す……」
「何すると思ってんの?スケベ」
「だ、だって……!なら、試すってどうするのさ」
「つがいの仕組みを知ってる?」
「授業でやったことなら……」
当然内容の薄っぺらい授業だ。自力で調べたことを説明しないといけない。
「オメガはつがいを見つけるまで、誰かれ構わず誘惑するフェロモンをばら撒くだろ?あれは惹きつけた中からつがいを探すためで、つがいが見つかったって本能が理解したら、遺伝的に合うつがいにしか効かないものに変わる」
「本能で理解……?」
「うん。そうすると、それまで広く浅く効果のあったフェロモンと違う、濃いフェロモンで惹きつけられたアルファはつがいだけに愛情を注ぐようになる。運命の人なんてロマンチックなこと言ってもからくりなんてすごく動物的なもんだよ」
「本能……理解……そんな急に言われたって」
難しい顔で唸る山口に焦れて絡めた指をいたずらに動かす。僕はもう運命に選ばれなかったときの心配をしていなかった。
「要するに、一度僕が自分のものだって思ったらいいんじゃない?」
「そ、そ、そんなの」
「僕は山口のつがいになりたいって言ったよ」
また目元を潤ませてますます真っ赤になった。恥ずかしさに耐えかねて俯いた首筋まで赤くして、もうそれだけで充分だった。もし、僕らがつがいではなくて、いつか失うことになるかもしれないと思っても、その時がくるまでは山口は僕のものでいてくれるだろう、多分。つがいでないオメガバースとの恋愛なんか時限爆弾を抱えた不安定なものだ。わざわざそんなものにハマり込む必要なんかないのにと思っていたけど、今ならつがいでない彼女と付き合い始めた兄の気持ちもわかるような気がした。
「ねえ、僕の言葉を疑ってるわけ?」
「…………」
「何かしたら信じてくれる?」
「…………」
「何かして欲しいこととかないの?」
少し間を置いて、ゆっくり、慎重に顔を上げた。前髪の隙間から上目遣いで、蚊の鳴くような声がした。
「………………抱いてほしい」
答えなんか一つだ。口を開きかけた途端に早口で遮られる。
「あ、ゴメンッ、撤回!今の撤回するから!……今は発情期でもないし、無理だよね」
「……馬鹿なの?お前さ、つがいが三ヶ月にいっぺんしかヤラないとでも思ってるの?」
「それは……」
「むしろ今のほうが都合いいよ。万が一失敗して妊娠させても自分で責任取れないし、“発情期のフェロモンにアルファが弱いから抱けたんだ”とか言いそうだし」
「う……」
まだ迷っている様子の山口を一度開放して、改めて腕を差し出した。
「僕のこと、やっぱりイヤになったら中断してもいいよ」
「イヤになんかならないよ」
膝でにじり寄ってくるのを捕まえた。腕に抱き込んで唇を重ねた。お互い慣れていなくて、探り探り角度を変えて舌を出す。
それだけで実験は充分だった。鼻に馴染んだ山口のにおいが変化していくのがわかる。脳みそを蕩けさせるような、濃くて官能的で、泣きたくなるように切ないにおいだ。
大事にしたいと思うのに昂っていく体が恨めしくなる。本当は甘やかしたい。だけど、服の下の肌を好き放題に触って泣かせたいとも思う。山口の発情したフェロモンをかいだあの時はこんな風じゃなかった。
フェロモンが変化したって言うことは、オメガがつがいを得たと本能で認めたってことだ。山口のくせに、僕が自分のものだと思ってる。昔から自信がなくて欲張るのが上手くない山口が。
おかしくてキスの息苦しさに離れた瞬間に笑うと、山口もなんだかわからないまま笑った。
「……よかった」
涙でぐしゃぐしゃの笑顔で呟いた。
なぜだか出会った頃のことを思い出した。同じ小学校だったけど、最初は友達じゃなかった。いじめられている現場を見つけた。でも、いじめられっ子は山口だけじゃなかった。他にも学年問わず何人か、からかわれやすい子供、弱気で跳ね除けられずに辛そうにしている子供を知っていた。今思えばほとんどがオメガだったんじゃないかと思う。
現場を見つけたって、いじめる方もいじめられる方もバカだと思っていたから立ち止まったりしなかった。山口を見つけて足を止めたのはたまたまだ。でも、違うのかもしれない。無自覚にわかっていたのかもしれない。それが自分の運命だってことを。
地球の裏側より遠い場所に、僕のつがいはいた。
レジカウンターに缶コーヒーを乗せると、屈んでレジの下にレジ袋を補充していた店員が発声と同時に顔を上げた。
「いらっしゃいませ!……おっ」
「休憩、いつですか?」
不本意ながら尋ねると、店員は人の悪い笑顔でレジを打った。
「フッフッフッ」
休憩に入った嶋田さんにバーコードに会計済みのテープを貼られた缶コーヒーを差し出すと、当然のような顔で受け取ってビールケースをひっくり返した。
「笑い方が気持ち悪いんでやめてもらえますか」
「ツ、ツッキー…!」
「いいって、忠。月島は照れてるんだろ?今日ぐらい大目に見てやるさ」
そう言って腕組で頷いた。
考えを変えた経緯を説明するために、どうしても嶋田さんと会ったことを話さなければならなくて、言ったら言ったで「お礼しなくちゃ」と言い出した。変に律儀なところが母親譲りだ。僕があんまり渋るんで、会いに来る名目の半分は「心配をかけたお詫び」になったけど大差はない。
「ええっと、お陰様で、俺達がつがいだってことがわかったんで、何かとありがとうございました」
ペコリと頭を下げた山口に「いいってことよ」と手を振る姿は殿様みたいだ。どうにも偉そうで、一応の感謝の気持も萎んでいく。僕はまだ嶋田さんに遊ばれていた可能性を疑っている。人間、歳を取ると他人の事情に首を突っ込みたくなるものだ。烏養コーチが相手もいないのに結婚をせっつかれているとぼやいていたことがあった。
「これで忠も安心だな。発情しても他のヤツには反応されなくなるし、つがいがいると体調も少しはマシだって聞くぜ」
「はい、抑制剤の処方も種類が変わるみたいで、副作用の少ない薬でいいみたいです」
「うんうん。いやー、それにしてもあんなにオメガバースのこと不満そうにしてた月島がなあ」
「唆したのは嶋田さんでしょ」
「別に、ちょっと若者の知らない昔話しただけだろ。結局つがいは惹かれ合うってヤツなんだよ」
視線を送られた山口が照れている。山口は心の底から感謝している。なんだか癪に障った。
「とにかく、これからはご心配要りませんから、ご自分の相手探し頑張ってください。ベータにはつがいはないんですから」
「ちょっと、ツッキー!」
「それ言っちゃうのか!言っとくけど、俺まだ二十六だからな!」
「アラサーってやつですね」
「んな…っ!忠っ、お父さんこんなヤツとの交際認めないぞ!」
「認めてもらわなくても、ホンモノのご両親とは家族ぐるみで仲良くしてもらってますから大丈夫です」
「ツッキーもうその辺にしといて!」
僕が調子を上げてくると同時に山口に背中を押され、拳を突き上げて振り回す嶋田さんにおざなりな別れを告げて嶋田マートの裏手を離れた。
並んで家路を歩く。去年よりも近づいて、風が吹いたら冬の鳥みたいに身を寄せ合って。十年後も、想像もできないずっと先まで。
c)年齢とフェロモン分泌の変異
オメガのフェロモン分泌が始まるのは、平均して十五歳頃。早くても十二歳頃と言われている。男性の方が遅い傾向にあり、二十歳を過ぎてから初めての発情を迎えた例もある。
自覚のないまま、平常時にごく薄いフェロモン分泌が始まり、一度発情を迎えると、三ヶ月ごとにフェロモン分泌のピークを繰り返し、五十歳を過ぎると徐々にフェロモン濃度が薄まり、六十歳頃には発情がほとんど起こらなくなる。同時に、フェロモン分泌機能の低下が始まると、男性オメガは子宮が極端に縮小・硬化し、完全に妊娠ができなくなる。
フェロモンによりアルファを惹きつけ、安定した育児に必要なつがい関係を維持しているため、フェロモン分泌機能が弱まると、関係が解消されやすくなるが、現実には、それまでにはフェロモンが介在しない信頼関係が築かれており、離婚事例は少ない。また、出産から約十年は濃度が変化してもフェロモンの分泌が続くため、高齢で出産した場合は発情期ピーク時のフェロモン濃度が下がるだけで、日常的なフェロモン分泌は継続される傾向にある。
アルファがフェロモンを感知できるようになるのはオメガの発情よりやや早く、平均で十四歳頃、大抵の場合は前後二歳の五年間に始まる。二十歳を超えても発情時のオメガのフェロモンを感知できない場合、感知機能の発達障害を疑われるが、影響の受けやすさには個人差が大きく、つがいの発情フェロモンを受けても自身は発情に至らないケースも稀にある。
感知機能自体は一生涯働くが、加齢に伴い、発情を促すフェロモンの影響を受けにくくなる。一方で、つがい化後にオメガから日常的に発せられるフェロモンは性的興奮を伴わない好意を誘発させるものであり、この限りではない。つがいのフェロモン分泌が続く限り、つがい関係を維持するためのフェロモンの影響を受け続ける。