※二期終わりぐらいに書きました。
一年も経てば部屋にものが増える。入寮した際に持ち込んだリュックサックに私物を詰め込んでみたが、教材を別の段ボール箱に詰めてみても、逆立ちしても入りきらない。これが一年の重みか。御子柴百太郎が感心しているところへ、一学年上で新三年生の似鳥愛一郎が段ボールの空箱を持ってきてくれた。
似鳥とはこの一年間同室だった。今日から寮の部屋割りが変わってルームメイト解消となる。
「ほら、どうせ新しい部屋に移動したらすぐ開けるんだから、どんどん詰めて。詰め切れなかったら積み上げて持ってってね」
「余裕ッス!」
手当たり次第に箱に投げ込んでいく。新しい部屋も同じフロアだ。
「似鳥センパイ、俺の次の相方ってどんな奴ッスか?一年ッスよね。あー、俺ももうセンパイかぁ!」
中学でも後輩はいたけど、中学の上下関係は比較的緩かった。その点、高校における先輩後輩関係は一味違う。何がどうということもないが、とにかく中学を卒業したばかりの後輩に先輩風を吹かせたいのだ。ここ、鮫柄学園の寮では三年生は三年生同士、二年生は一年生と二人部屋で生活している。二年生は新入生の教育係というわけだ。これはビュービュー先輩風を吹かすチャンスである。
期待の眼差しで振り返ると、水泳部部長として部屋割り会議に参加していた似鳥は赤点の答案を返却する時の先生みたいな顔で言った。
「モモくん、人数調整の関係で三年生とペアだよ」
冷たい風が二人の間を吹き抜けて開け放った扉の向こうへ消えていった。
「えええー?!そんなん聞いてないッスよー!」
「新入生の指導役として一番不安だから満場一致で決まったんだよ」
「俺の何が不安なんスか?!」
「ちょ、カエルの水槽持ちながら迫ってくるのやめてよ!そういうトコだよ!」
似鳥はカエルや一部の虫が苦手なので、一悶着あって以来、一応目につかない場所へ置く配慮をしていた。でも冬眠中だからノーカンだと思う。
「新入生のことは部活で構えばいいだろ!もう、さっさと移動して!」
背中を押して追い出されたら新しい部屋へと行くしかない。箱に丁寧に詰めた飼育箱や、結局入りきらずに箱の上に載せた水槽が傾かないようバランスを取って振り分けられた部屋へ向かう。部屋番号は二〇七号室。プレートを確認し、扉が隙間なく閉じられていることを確認し、ふさがった両手の指を蠢かせた。ちょっと頑張ってみてもドアノブに指は掛かりそうにない。
中にいるのは先輩だし、ノックの代わりにドアを蹴るわけにもいかない。どうしよう。迷っている数秒の間に内側から扉が開いた。相方はエスパーかもしれない。
「遅かったじゃねえか」
「うおっちセンパイじゃないッスか!」
魚住拓也は扉を全開にして、百太郎を迎え入れ、そのまま扉を閉じた。部屋を出ようとしていたわけではないらしい。
「あれ、もしかして俺が部屋の前にいるの分かって開けてくれたンすか?俺まだ何もしてなかったのに」
本当にエスパーなのかもしれない。期待に満ちた目の前で魚住はひらひらと手を振った。
「お前と似鳥がギャーギャー騒いでるのなんかいっつも筒抜けなんだよ。似鳥に追い出されたのが聞こえて、すぐに来るかと思えばなかなか入ってこねえから」
段ボール箱の上の水槽をヒョイッと取り上げて入口側の机の下に置いた。奥の窓際の机にはすでに荷物が置かれている。手前が百太郎の陣地と決めていたらしい。見ればベッドも上段の枕元に魚住の私物らしい音楽プレイヤーが無造作に置かれている。
「あー!俺ベッドは上が良かったのに!」
「うっせーな。こういうのは先着順だ。それにお前寝相悪そうだし、高いところから寝ぼけて落ちたらえらい騒ぎだぜ」
「落ちませんって!でも去年はずっと上だったし、下も秘密基地っぽくていいか。ここらへんに布で目隠しして……」
こだわりがあるようでいて何でもいい。物は見ようだ。小学生の頃に二段ベッドを持っている友だちがいて、歳の離れた兄が一人部屋に移って空き家になった下段を好き放題改造していたのを思い出した。それが羨ましくて親にねだってけんもほろろにつっぱねられたものだ。
「そういうのは後にしてさっさと荷物片付けろよ」
「はーい」
そっと床に箱を置いて上から順に物を取り出し並べていく。服、ペンケース、コツコツ集めたおもちゃ、おやつ、ゲーム、漫画、丸めたプリント、学校のロッカーに入らなくて持ち帰った資料集、便覧。出すだけだして片付けないのであっという間に手の届く範囲内の床がもので埋まった。それを見かねた魚住が勝手に机に収めていく。
昨年度の相方だった似鳥ではこうはいかない。似鳥は真面目そうな見た目に反して部屋が汚い。片付けは苦手だと言っていた。百太郎と組んだことで部屋を綺麗に保とうとする意志はますます消え失せ、この春に卒業していった先輩に叱られたことも何度もあった。懐かしい怒声を思い出してテキパキ動く魚住の姿に頼もしさを感じる。
「ん、これ何だ?」
片付けの途中、魚住が床に並べられた中から茶色いものの詰まった瓶を掴みあげた。中身は土に似ているが、よく見るとおがくずのようだ。傾けて眺め回していると、振り向いた百太郎が大慌てで飛びついてきた。
「わー!ダメっす!ダメ!それは慎重に扱ってくださいよー!」
「だから、中に何が入ってんだよ」
「幼虫ッス。クワガタの!」
「幼虫?どこに」
瓶を奪い返した百太郎が慎重な手つきで瓶を回しながら、わずかに白っぽい幼虫の体が見える場所を探しだした。特徴的な頭部分は内側に向かっていて見えないが、たしかに幼虫の背中のようなものが見える。
「へー、結構でけぇな」
「今年はちょっと自信あるンすよ」
得意気に鼻の下をこする。
「こういうの結構難しいんだろ?意外とマメなとこあるんだな」
飼い主の意向に従って丁寧な手つきで瓶を掲げてじっくり眺める様子に怯えはなく、似鳥との違いを新鮮に眺めた。
似鳥は成虫ならいいが、幼虫は断固として拒否だ。卒業していった先輩も、折角立派に育て上げたクワガタを手渡した途端に逃すなんて言うので、それはもう胸を痛めたものだ。先輩曰く、高校生にもなって昆虫に大騒ぎするやつは百太郎ぐらい。三歳年上の兄もクワガタの価値を分かってくれると言い返せば、御子柴兄弟は特殊なんだと言い切られた。
「うおっちセンパイはクワガタ好きなンすか?」
「んー、どっちかっつうとカブト派だけどな。実家にいた時には近所に小学生の従弟がいたから一緒に捕りにいってやったもんだ」
「マジっすかー!」
「実家が材木屋だから虫かごに入れとくおがくずもたくさんあったけど、幼虫育てようと思ったことはねえなあ」
「楽しいっすよ!昆虫採集でデカイの捕まえるのとはまた違った楽しみで……」
「わかったからお前は片付けの続きやれよ。ミーティングの時間まで余裕ねえんだから」
前のめりの額をぐいっと押し戻された。まだまだ話し足りないが仕方ない。これから一年間、朝も晩も同じ部屋で過ごすんだから時間はいくらでもあった。素直に返事をして振り分けられた収納スペースに服を詰め込んでいく。預けっぱなしのクワガタの幼虫が入った瓶は、音も立てないぐらい優しく百太郎の机の上に置かれた。
<改ページ> 新年度に浮足立った空気を一掃する中間テストが五月の終わりにあった。
最後の英語が終わった途端に足取り軽くプールへ走った百太郎を捕まえたのは似鳥だった。
息を吹き返したように廊下を人が行き交い、答え合わせや開放感で饒舌になった生徒の声のざわめきが響く階段で、踊り場の隅に避けて百太郎のパーカーから手を離した。
「モモくん大丈夫だった?赤点はなさそう?」
「もーバッチリっすよ!」
「ホント?不安だなあ」
自信満々のブイサインに疑いの眼差しが向けられる。
「そんなことよりプール行きましょうよセンパイ。体動かしたくて仕方ないッス!」
駆け出そうとする百太郎のパーカーをすかさず掴んで引き留めた。首がしまって潰したカエルのような声が出る。
「モモくんね、浮かれてるけど定期考査は答案が帰ってくるまで終わってないんだからね?」
真顔で詰め寄った似鳥の不安が的中したのは四日後。
答案と一緒に追試の申し渡しを受けた百太郎が寮の床で頭を抱えていた。それを囲んで見下ろす似鳥の目が「やっぱり」と言っている。
「すまん。俺がついていながら」
深刻そうに眉間に皺を寄せた魚住が頭を下げると、似鳥が首を横に振る。
「そんな、魚住くんのせいじゃないよ。僕ももっと注意したらよかった」
「いや、同室なのにモモがそんなに勉強してねえの見過ごしてた俺が……」
「もー、似鳥センパイもうおっちセンパイもそんなに気にしないでくださいよぉ」
「モモくんはもっと気にして!」
当事者が一番立ち直りが早い。明日すぐに追試が行われるというのに根拠なく「イケル」と思っている。
「幸い追試は数学だけだ。今晩は俺が責任持って勉強見てやるから絶対に受かれよ」
頼もしい先輩の、ありがたい申し出に思わず声が出た。
「ゲッ」
「ゲッじゃねえだろ。お願いします、だろ。オラ、机に答案出せ!」
時間が足りない長い夜の始まりであった。
丸の少ない答案は数学のものだ。プリントには数字とアルファベットと数学記号が並んでいる。国語や英語のような他のテストに比べ紙面がスカスカしているな、と思う。数式ばっかりで密度のある文字は少ないし、途中式も見られるので問題用紙と解答用紙が一枚になっている。
遠目からざっと見てわかることは、情報量が少ない。これで何をどう導けというのか。数字や数学記号は目が滑るし、アルファベットについてはどこからやってきたのかもわからない。アルファベットがxだけだった時代はまだよかった。いつの間にかaやbやc、もしくはoやpやqも出演する。ならばdからnまではどこへいったのか。
もはやテストと関係のない疑問に悩ませていた頭を丸めた教科書でポコンと叩かれた。
「なんでさっぱり手付かずなんだよ。数一でも似たようなことやっただろ」
「去年は割りませんでした」
分数の分母と分子に分数の入った数式が入っているのが納得いかない。ノートに描くと一つの式に4行は費やすことになる。
「授業聞いてりゃわかるレベルだ。自分のノートは?」
気が進まないながらに差し出したノートには板書がそのまま写されている。
「きれいに書いてんな」
「いやぁ、それほどでも」
「で、ノート見てもわかんねーのかよ」
「それは……」
「まさかわけがわからないまま写してたとか言うなよ?」
「えーっと、その、まさかで……」
再び丸めたままの教科書が振り下ろされた。魚住はその凶器を開いて机に並べた。丸めて持っていたせいで全体的にカーブがついている。一年使い込んだおかげて角がとれかけ、全体的に黒ずんでいた。真新しい百太郎のものじゃなく魚住のものだった。
ノートとぴったり同じ問題が載っているページにはところどころ書き込みがある。
「どうせ教科書に載ってる問題を黒板に書いてンだから、それ丸写しするのに忙しくて細かい説明が頭に入らないんじゃ意味ねえんだよ。板書とるのが追いつかないなら教科書に載ってるトコは一々写さないで、説明のトコ書いとけ」
教科書を覗くと、先生が授業中に説明していたような内容が几帳面に書き加えられていた。
「うおっちセンパイ、意外とマメっすね」
「意外じゃねえ。自力じゃわかんねーとこあったら見るから、これ見てもう一回自分でやってみろ」
「はーい」
教科書の内容を順に読んでいくと、途中で話が飛躍したようについていけなくなる。そんな場所には大抵小さな文字で書き込みがあった。
こんな字を書くのか。クセはあるけど読みやすい。
同じ部活の一年違いで丸一年の付き合いでも、手書きの字を見る機会なんかなかったから新鮮だ。丸くて汚い自分の字と比べたらとてもきれいな文字だと思う。
勉強への苦手意識でなかなか集中できない脳味噌を抑えこんで、何度も文字を読む。内容が処理できるようになったら問題の数式に目を移し、途中式を連ね、解けた。
「あれー?」
わかった、という実感があったのに解答の数字が合わない。二段ベッドの下で暇をつぶしていた魚住がすぐに後ろから覗きこんできた。
「おい、これ筆算間違ってる」
「マジっすか」
「何で3×6が19なんだよ」
いつの間にか手にしていた赤ペンで数字を書き換え、筆算をやり直すと、最後には正解が導き出された。
「やり方は合ってるから凡ミスに注意して次の問題行け」
そうしてまたすぐにベッドに戻ってゴロゴロ雑誌を読み始めた。
静かだ。そう思って体を起こした。
不定期にシャーペンのコツコツいう小さな音が聞こえていたが、いつの間にか全く聞こえなくなっていた。代わりに安らかな寝息。
「おい、居眠りしてんじゃねえぞ」
叩き起こそうと側に行くと、指示しておいた問題集はすっかり解き終えていた。自分で採点してやり直しまで済ませている。声をかけてくれたら手伝ったのに。
慎重に問題集とノートを引っ張り出し、途中式や筆算まで合っているのを確かめた。間違えたところは最初の問題のように赤ペンでやり直している。
徹夜も覚悟していたのに、時間にはまだ余裕があった。
「やればできるじゃねえか」
競泳でも集中力にムラがあって、調子のいい時と悪い時で驚くほどの差がある。勉強だって、スイッチさえ入るかどうかなのだ。言葉で褒める代わりにくせっ毛の頭を撫でた。
ずいぶん気持ちよさそうに寝ている。起こすのも忍びないので椅子を引いてベッドに寄せ、なるべくそーっと体を布団の上に移した。それでも起きないのを確かめると、魚住は静かに部屋を出た。
翌日、百太郎は一時間遅れで部活に現れた。屋内プールに水着姿で採点済みのほっかほかの答案用紙を片手にひっくり返りそうなほど胸を張る。
「ほら!見よ、この輝かしい点数!」
はしゃぎぶりを見つけてぞろぞろと集まってきた同級生部員に追試結果を見せつけた。
「満点……」
「一桁から急に満点ってありえねー」
「答え暗記したんじゃねえの?」
「それはそれですごくね?」
口々に勝手なことを言う部員たちにグイグイ答案を突き出し、更に胸を張る。胸を張るというよりも反り返っている。
「そんなに褒めなくていいって」
「追試のヤツなんか褒めねえよ」
いつの間にか一塊になって騒いでいる二年生の群れの中心にビート板が振り下ろされた。
「あだっ」
呻くほどには痛くない頭をさすりながら振り返った先に立っていたのは魚住だ。
「いつまでやってんだ二年」
「す、すいません……!」
蜘蛛の子を散らすような真面目な後輩を見送ってから、まだ百太郎をつついている一部の後輩に声をかけた。
「数学の平山は追試で問題の数字変えてくるから暗記はありえねーんだよ」
言われて追試答案をよくよく見れば、問題の出題範囲も紙面構成も変わらないが、数字はたしかに変わっている。
「ホントだ……」
「わかったらさっさと練習に戻れ」
背中を押してスターティングブロックに追い立てた。それから視線を感じて見れば、百太郎がいつにもまして上機嫌な顔で片手を挙げている。
「なんだよそれ」
「センパイ、これ。これ」
掲げた手のひらを揺するので、同じように手を上げてやると、パシンと小気味良い音を立てて手のひらを打ち付けてきた。
そのままプールに向かって駆けていく。
「コラ!走るんじゃねえ!」
「はーい!」
呑気な返事が高い天井にこだました。
<改ページ> 薄暗い机の下に頭を突っ込んで、土色の瓶を目が乾きそうなほどじっと見つめていた。中身は主におがくずを発酵させた幼虫飼育マットだ。
瓶の中で、この間まで白い蛹だったものが、赤茶色く成虫らしい姿に変わっていた。すぐには動かない。まだ色が薄いし、見た目がすっかり成虫らしくなってもすぐに土から出て飛び回るわけではない。ゆっくり時間をかけて外に出てくるのだ。
だけど、確実に羽化が進んでいる。完成形というべき成虫の姿が見えてきた。今までで一番大きく育ってくれた。瓶に指を並べて測ったから間違いない。去年の夏頃にしばらく姿が確認できず気を揉んだこともあったけど、沢山食べて大きくなってくれた。クワガタの大きさは幼虫の頃にどれだけ大きくできるかにかかっているが、そこは期待以上に上手くいった。あとは無事に羽化できるかが心配だったのだ。これはいける。
こみ上げる感動を噛み締め、立ち上がった。感動は分かち合うものだ。
部屋を飛び出すなり駆け出し談話室に飛び込んだ。東西に分かれた二棟の寮にそれぞれ配置されていて、ソファや大きなテレビが備えられている。入り口に貸し切り札を出してどこかの部活がミーティングしていることもあるが、大抵は社交的な生徒が中心になって、自由時間を過ごしている。
今はもう風呂の時間も終わって消灯までの暇つぶしに、大型テレビでアクション映画を再生しているところだった。
「うおっちセンパーイ!」
ソファやカーペットの上で思い思いに寛いでいた寮生たちが一斉に振り返った。集まった視線を端から端まで見ても目的の顔は見当たらない。
「うっせーぞー」
「うおっちセンパイ来てません?」
「来てねえよ」
「あれー?どこ行ったんだろ」
「知らねー」
「部屋いねえなら便所じゃねえの?」
談話室でもない。寮の部屋でもない。談話室を出てペタペタ歩きながら無人の洗濯室を覗き、トイレも明かりがついていないのを確認した。それからなんとなく階段を降りたところで思いついて自習室へ向かった。自分は利用したことがないのでまったく頭になかった。明かりがついているのに静かなドアの前で少し迷って、ノックしてからそろりと顔を覗かせた。
「失礼しまーす……」
本棚と机と椅子が整然と並んでいる。広くはない室内で机に向かう人影が二つだけ。
「どうしたの、モモくん」
似鳥と美波が驚いた顔をした。ここにも魚住はいないみたいだ。
「モモくんが自習室に来るなんて……」
「まさか、この間の追試で勉強に目覚めたなんてことねえよな……」
疑うような眼差しを片手でパタパタ振り払う。
「いやーうおっちセンパイを探してるだけなンすけど」
「だよな」
「もう、びっくりしたよ」
“自習室と御子柴百太郎”は食べ合わせが悪い。
「魚住くんに何か急ぎの用事?」
「そうそう、そうなんスよ!ピュン吉が」
「ピュンキチ?」
「モモくんが育ててるクワガタの幼虫」
美波の疑問にはしかめっ面の似鳥が答えた。去年、同室だった間、せっせと世話をしていたのを見ていたからよく知っているのだ。
「羽化したんです!」
「えー、去年のピュン助に比べて時期が早すぎるんじゃないの?」
「似鳥先輩が言ってるのって完全に土から出てくるとこじゃないッスか。埋まったままで蛹から成虫に変わるのが今頃で、成虫の形になってからもしばらくは動き回らないンすよ」
「へぇ」
素直に感心する美波の隣では似鳥が納得いかない顔をしている。
「それじゃあ今すぐ見せなくてもいいんじゃない?」
「えー、でももう成虫らしい格好になってるンすよ!今回はすげー大きくなったんで早く見せたいじゃないッスか!」
「高校生にもなってそんなので寮駆け回るのはお前ぐらいだ」
「えー!でもうおっちセンパイはクワガタ好きだって言ってましたもん」
カブトムシの方が好きだとも言っていたがこの際些細なことだ。
子供っぽく唇を尖らせて主張する。それとは対称的に美波が静かに顔からからかいを引っ込めた。それに気づかずに百太郎が尋ねる。
「っていうか、似鳥センパイたち、うおっちセンパイがどこに行ったか知ってるンすか?」
「ええっ?」
似鳥の動揺を見逃さなかった。
「やっぱ知ってんだ!勿体つけないで教えてくださいよー減るもんじゃなし」
悩ましげに唸った似鳥が美波を見上げる。その視線を受け止めて、代わりに美波が答えた。
「プールで自主練してる」
「マジっすか?!それなら言ってくれりゃ良かったのに」
「わざと黙ってンだよ。邪魔すんなよ」
軽い調子でやりとりしているつもりが、美波のトーンが低い。静かに睨まれると、美形な分凄みがあった。
「そんな、邪魔するつもりじゃ……」
「魚住はモモには知られたくないみたいだけど、言うわ」
「美波くん」
静止するような動きを見せた似鳥を片手で牽制して話を続けた。
「アイツ、魚住さ、今年が最後の大会なんだ」
当たり前のことだ。高校三年生なんだから。美波だって、似鳥だって同じことだ。そういう考えを見透かして美波は言葉を足す。
「ウチの部員は強いヤツばっかだから、大学でも水泳部入るヤツ多いけどさ、魚住は進学しない。地元で家業継ぐから水泳辞める予定なんだ」
「辞める?」
「実家だからな、実業団があるわけでもない。出ようと思えば大会もあるだろうが、どっかのチームで競泳やることはなくなるだろ」
「…………なんで、センパイ成績結構いいのに」
「お前と一緒にすんなよ。受かりそうにないから大学行かないんじゃねえよ。実家の仕事だってやりたくてやるんだ」
「でも、うおっちセンパイ、まだまだ泳ぎたいんでしょ?」
「両立できねえからこの夏に悔いを残さないようにやってんだよ。わかれよな。当然、リレーも泳ぎたいって思ってる。お前だって、今年もリレー出たいんだろ?」
頷いた。中学までは競泳は個人種目にしか興味がなかったけど、去年の夏に泳いだメドレーリレーは価値観がひっくり返るほど胸が熱くなった。誰より早く泳げる自信があるからやりたいんじゃない。あの興奮を味わいたくて、リレーメンバーとして認められたくて泳ぐんだ。あの夏以来、そんな気持ちでいた。
リレーの枠を狙っているみんな、そういう気持ちなんだ。兄が部長を務めていた年までは純粋にタイムだけで選抜されていたけど、昨年からは立候補者の中からタイムで選抜することになった。個人種目に専念したいならそうしていいってことだ。リレー枠を争うのは、リレーが本当にやりたいヤツってことだ。
ライバル関係も悪くない。一つの席を巡って争っているからといって仲が悪いわけじゃないし、そうやって高めあう関係はカッコいい。自分がそう思うから相手も同じだと思って疑わず、毎日楽しかった。でも、センパイはそう思ってなかったのか?
悩むのは得意じゃないのに考えが頭の中で渦を巻き始めて自然と口から唸り声が出た。その肩を似鳥が叩く。
「そんなに気にしなくてもいいんだよ。でもね、魚住くんがこっそり頑張ってることにはそっとしておいてあげてほしいんだ」
「…………はい」
自習室を出てから少し迷って、結局屋内プールに向かった。プールサイドには入らず、廊下の窓から少ない照明に照らされたプールを覗くと、確かにバックを泳ぐ人影がある。少しフォームが崩れて見えた。今日は何時から練習していたのだろうか。同室になってから、なる前からこうして知らない間に自主練をしていたのだろうか。
思い出せば、遅い時間になっても部屋に戻ってこないことがあった。てっきり誰かの部屋で盛り上がっているのかと思って気にしていなかったけど。消灯時間はあってもあまり厳しくないので、自分の欲求のままに相方不在の部屋で就寝していた。そんなときも練習していたのか。
面倒見がよくて頼れる、いいセンパイの顔がぽつぽつと思い浮かぶ。一人きりのプールではもっと厳しい表情をしているんだろうという気がした。
プールから上がるような動きが見えたので、足早に寮に戻って布団を被った。似鳥たちにも言われている。知られたくないことなんだから、知らんぷりしているべきだ。いつ戻ってくるのかなんて気にせず先に寝てしまおう。
だけど、その日はなかなか眠気が降りてこなかった。慎重に静かに開閉される扉の音と、二段ベッドのきしむ音を敏感に捉えた。起こさないよう気を遣ってくれている魚住のたった一つのため息が耳について離れなかった。
部屋に相方の姿が見えない夜はなんだか落ち着かなくて、なかなか寝付けなくなった。もう少し夜が更けたら静かにドアを開けて、プール上がりのにおいを纏ったままで二段ベッドのはしごを昇って布団に入る。
部屋に入ってすぐ、小さく丸めた手荷物を抱えたままで一度ベッド前で立ち止まる。狸寝入りをして背を向けている百太郎には何をしているのか見えないけれど、視線だけ感じていた。ライバル心に満ちた鋭い視線か、もっと穏やかなものか。何を考えているのかわからなくて居心地が悪くて、早くはしごと昇ってくれるように息を潜める。
同室になってからの数か月でずいぶん仲良くなって、考えていることだってわかってしまうつもりだったのに、最近は以前と変わらず笑いかけてくれても素直に受け取れなくなっていた。そんなことで疑うのも、モヤモヤを黙って抱え込むのも性に合わないのに、本人に直接訊くこともできていない。言いたいのに言えないなんて初めてだ。女の子相手だって、フラれても次があると思えるのに、臆病風に吹かれて口に出せない。何を言ったところで魚住に嫌われるシーンが思い浮かぶことはないのに。
生まれてこの方経験したこともないすっきりしない気分が続いたおかげで食も細っていた。
「モモくんおかわりもういいの?まだ三杯しか食べてないじゃない」
二杯目の味噌汁をやっと飲み干した似鳥が器を重ねながら向かいの百太郎のトレイを覗き込んだ。寮の食事は選択制で、おかわり自由の白米と味噌汁が食べ盛りの男子高生達を支えている。
「最近色々考えると箸が進まなくて……」
「モモくん……」
「部屋に戻ってからおやつ食べちゃうんでお小遣いがキビシイッス……」
「うん、それは自業自得だね」
かぶせ気味に言い切られた。
「最近タイムも落ちてるよね。モモくんでも他人のことが気になって調子を崩すなんてことがあるんだ」
「そういうわけじゃ……」
リレーの枠を譲ろうと思ってわざと遅く泳いでいるわけではない。そんな真似、魚住本人が嫌がるだろうし、百太郎自身も嫌だ。練習だってふざけているわけじゃない。真面目に取り組んでいるのに結果が落ち込んでいるのだ。
言い淀んだ気持ちを似鳥はとっくに察していて、頷いてくれた。
「モモくんは気分に左右されすぎなんだよ」
「でも、じゃあどうしたらいいンすか」
「魚住くんとは話してみたの?」
「言えないッスよ。美波センパイが、魚住センパイが俺には知られたくないって。似鳥センパイだって、そっとしておけって言ったじゃないッスか」
ついつい言葉に力が入ってしまった。人気の少ない食堂に残っていた何人かがチラチラ送ってくる。似鳥がその視線に片手を上げて「なんでもない」というポーズをとった。
「スイマセン……」
「そうだ。今夜は魚住くんは自主練にこないはずだから、僕と二人で練習してみる?」
「へ?……いいッスけど」
「部活のときとは気分が変わって集中できるかも」
そういうものだろうか。半信半疑ながら、似鳥と待ち合わせた時間に屋内プールへやってきた。魚住には似鳥から伝わっていて、何でもない様子で「遅くなりすぎるなよ」と送り出された。最近の不調は魚住も知っているので、部長の似鳥と一緒に自主練をすることに不思議はないらしい。
最小限の灯をつけた薄暗い廊下を抜けてプールサイドに出る。プールは照明がなくても窓からの月明かりで明るく見えた。これだけでも十分泳げそうだ。似鳥がパチパチとスイッチを入れると室内の半分だけ照明がついた。静かで、水面に波紋ひとつない。
数時間前に部活で使ったプールなのに、誰もいないというだけで別の世界にいるみたいだった。温度計で見る気温よりも肌寒く感じる。
広い場所で一人きりは孤独が強調されるようだ。寮の部屋で独りぼっちとはわけが違う。孤独感と寂しい気持ちは同じものだと思っていたけど、今まで自分が感じたことのある寂しさとは別の、周りに頼れるものが何もないような気持ちになった。
その新鮮な孤独感を打ち破って似鳥が視界に踏み込み、そのままスターティングブロックに立った。
「じゃあ、僕が止めるまで好きに練習していいから。後でタイムも計ろう」
そしてゴーグルをはめて水の中へ飛び込んでいった。一人分の水しぶきが上がり、一つのレーンだけ水が揺れる。どんどん向こう岸に向かっていく似鳥に置いて行かれるようで、百太郎も急いで入水した。星空を見上げながら泳ぐのは初めてだった。
夜のプールなら集中できるかも、なんて言っていたけど、静けさが落ち着かず、昼間より余計な考えが頭を埋め尽くした。がむしゃらに手足を動かしても早く泳げている気がしない。実際フォームも乱れきって見るからにダメだったのだろう。二往復したところで似鳥に止められてプールから上がった。
「どう?夜のプールっていつもと何か違うでしょ?」
「なんか、本当に世界に独りぼっちみたいな気分ッス」
答えると似鳥は少し驚いた表情をした。
「意外だなあ。モモくんはこういう非日常っぽいものを面白がると思ってた」
そうかもしれない。何も悩んでいなかったらプールを独り占めできてラッキーだとか、泳ぎながら星を見るのに夢中でプールの壁にぶつかったりして。今は普段と見え方が違うのだ。自分自身の変化に戸惑う。
「今、俺ヘンだ……」
何がどうとは説明ができないけど、少なくとも悩みなれていない。どうしていいかわからない。
頭を抱える百太郎とは対照的に似鳥は笑った。笑い声が薄情に響いて恨みがましい目で見上げる。
「ごめんごめん。本当にモモくんらしくないから面白くって」
「似鳥センパイひどいッスー!」
「ごめんってば。でもさ、モモくん、前にストレスを感じたいって言ってたよね?」
同室のときの話だ。大人っぽくなりたくて、大人といえばストレスを抱えている、自分に足りないのはストレスを感じることだと閃き、似鳥に相談したのだ。どうしたらストレスを感じられるのか?結局、苦手なことをしても落ち込むシチュエーションでもストレスを溜め込むことはない、という結論に至って、提案を片っ端から却下された似鳥のストレスだけが溜まっていった。
「今感じてるのがストレスだよ。元気が出なくて、ごはんも美味しく食べられなくて、すっきりしないでしょ?」
「これがストレス……」
なるほど。みんなが解消したがるわけだ。思いがけない発見だ。
「ストレスを感じてみて、大人に近づけた?」
「…………俺、今大人っぽいです?」
「えー?…………うーん、そうだなあ、いつもよりは落ち着いて見える、かな?」
随分間があったが、恐らく、ちょっとは大人っぽくなったという意味だと思う。いつもならば喜ぶところだけど、ストレスというのは厄介なもので、あまり浮かれた気持ちにはならなかった。
「やっぱりいつもと違うね、モモくん」
「そうッスか?」
「女の子にフラれてもすぐ立ち直れるのに今回はダメなの?」
「だって……女の子は明日には気が変わってるかもしれないけど、うおっちセンパイのリレーに次はないじゃないッスか」
「じゃあ来年があるモモくんが譲るの?」
「それもダメです」
「じゃあ頑張るしかないよね。魚住くんもさ、一人で頑張ってるんだもん」
「似鳥センパイ……」
「世界に独りぼっちみたいな気分、わかるよ。僕も去年の夏のリレーに選ばれたくて一人で泳いでたから」
去年も、同室だった似鳥が夜中に自主練していることを知らなかった。去年のリレーメンバーだった先輩たちは知っていたようだったけど、百太郎は後になって話を聞いて、深く考えることもなく「スッゲー!」という薄っぺらいコメントをした。
「人目を気にせずやれると思ったけど、一人で泳いでると自分が今どのへんなのか、ちゃんと強くなってるのかわからなくなって、がむしゃらに泳いでたら山崎先輩に注意されたんだ」
春に卒業した山崎宗介はリレーメンバーで、だけど肩を故障していた。自分に厳しく、無理な練習を続けて怪我を拗らせていた。そんな状態で競泳を諦めるつもりでこの学園に来て、親友である松岡凛がリレーで見た何かを自分も掴みたくてリレーメンバーに加わった。みんなそれぞれが自分のために、みんなのために、山崎宗介のために全力を超えて泳いだ。そんなリレーだった。
「魚住くんも多分そうなんだよ。無茶してないか、様子を見に来てるから、そこは大丈夫だけどね」
これでも僕は部長だし。わざとらしく胸を張る。先代部長に指名されたときはどこか不安そうな顔をしていて、それでも同じ学年の仲間からは「お前しかいない」と認められていて、祝福するみんなが「似鳥を支えてやる」という顔をしていた。だけど、今は誰も「支えてやる」なんて思っていないだろう。見た目以上にしっかりした似鳥のことを、みんな頼もしく思っている。
「モモくんの調子が出なかったら、魚住くんはずっと一人ぼっちでがむしゃらにやるしかないんだよ。それって、全力を出して負けるよりもすっきりしないと思わない?」
「でも、俺……」
弱気を追い払うように背中をバシンと叩かれた。
「男だろ、御子柴百太郎!思い悩んで立ち止まるのが大人だと思うなら子供のままでいいよ。僕らはモモくんに大人っぽさなんか期待してないんだから」
「イタッ……何スかそれ!大人な俺の魅力をもっと見出してくださいよ!」
「言っとくけどストレスを感じてる部分に魅力なんてないから」
「ええー?!」
苦情を受け付けず立ち上がると、似鳥はつけ直したゴーグルのゴムを後頭部で引いてパチンと鳴らした。
「さ、そろそろ休憩終わり!フォームの乱れに気を付けてもう一本だよ」
「…………センパイ、俺、うおっちセンパイに勝っていいンすよね」
「勝てるもんならね」
首に下げていたゴーグルを引き上げた。両手で頬を叩く代わりに似鳥の真似をして、思いっきりゴムを引いて後頭部を打つ。
「おっし!」
そして静かに揺らぐ水の中に舞い戻った。
二日後も空の澄んだいい月夜だった。
あんまり月が明るいので、自分一人のために照明をつけるのがもったいなくて、月明かりだけを頼りに泳ぎ続けた。
泳ぎ始めてから十五分ほどでドアの開閉音がして、似鳥が様子を見に来たのだと思ってスターティングブロックの陰から顔を出した。照明をつけていないおかげで入り口付近は薄暗く、予想通りに一人の人影を見つけたけれど、様子見の似鳥とは違う、水着姿だった。
「誰だ」
声をかけてすぐに魚住は気づいた。
「センパイ、すいません。ここにいること、美波センパイたちに聞いちゃいました」
ここに来るってことはそうだろう。寮で同室なのだから、いつかはバレることだった。ただ格好悪いから、仲間に口止めしていただけだ。後輩を出し抜こうと知らないところで必死に練習しているなんて先輩の沽券も何もあったもんじゃない。
知ったら、百太郎は一緒に練習すると言い出すんじゃないかと思っていたから、水着で現れたのも不思議には思わなかった。
「別にいいぜ。謝られることでもねえよ」
許したらすぐに犬みたいにコロコロ駆け寄ってきて隣のレーンに入るものだと思っていた。だけど百太郎はプールサイドで立ち止まって頭を下げた。
「魚住先輩、俺と勝負してください」
面喰って言葉が出ない。ただ、いつもとは違うんだな、と理解した。いつもはふざけてばっかりいるのに、今はちゃんと名前を呼ぶんだな。
何か尋ねなくても硬い意志で来たのだとわかる。
「わかった」
隣のレーンを示すとキャップとゴーグルをつけて入水した。ゴーグルのゴムを引っ張りパチンとやる。この春に競泳をやるためオーストラリアに旅立った松岡先輩みたいだ。先輩の真似をして似鳥もそれをやる。気合を入れる儀式だ。
多分、この勝負は特別だ。正確なタイムは計れない。合図をする者もいない。リレーメンバー選抜には関係のない勝負だ。だけど、きっとここでの勝敗が決定的に優劣をつける。そういう勝負だと思った。
スターティンググリップを握って壁に足の裏をつけ、力をためる。
適当にセットした携帯のアラームが鳴って、二人同時に壁を蹴った。
ほんの一瞬宙に体が放り出され、すぐに水に潜る。スタートから15mまでは潜水したままバサロで進み、15m地点までに水面に顔を出す。百太郎はバサロが速い。スタートからすぐに百太郎が先行した。魚住にとっては承知のことだ。勝負は水面に浮かんでからだ。
体を滑らかに動かし、肩は油の効いた機械のように、左右乱れなく動かす。体は腹筋に力を込めて真っ直ぐに。ひとかきひとかきをなるべく遠くまで手を伸ばし、水を掴み、推進力を得る。体が船のように進んでいく。
ターン目前で百太郎に並び、僅かに早くターンした。そこからはまた15mまでバサロが許されている。百太郎よりも早い地点で水面に浮上し、先にバックストロークを開始した。
すぐ近くに百太郎を感じる。焦りでめちゃめちゃになりそうなフォームを制御して、早く、強く、だけど正確に水を捕まえる。誰も見ていない、何にもならない勝負なのに、これまでの大会よりも一番速い泳げている気がした。
隣を行く百太郎も知る限りでは一番速い。最近の不調が嘘のような迷いのなさで進んでいく。元々実力があるのだ。ムラッ気があるけど、去年のリレー以降は心が決まったみたいに集中できていて、近頃調子を崩すまで好調な日が多かった。その中でも今が最高だ。その百太郎と張り合っている。
少しでも気を緩めればすぐに置いて行かれる。体を速く、でも姿勢をキープして腕の角度も乱さない。頭に酸素が足りない。無駄のない動きを求めて考えを張り巡らせる一方で、計算も余力もすべてをまとめて出し切るように体が動く。脳に使う酸素も惜しいほど強く体を動かす。もう星空も、明るい月も滲んでわからない。夢中で泳ぐうちに壁に手がついて、水面に顔を上げ、呆けたように上を向いた百太郎を見た。
ああ、負けたのか。直感で理解したけど、酸欠のせいか悔しさはまだ浮かばず、脳がしびれるのを気持ちよく感じた。ガラス越しの星空を見上げた百太郎は、自分から勝負を申し出たくせに何も言わず、見開いた大きめの目にキラキラ光を反射させていた。いつものうるさい子供の顔じゃなく、どこか別人のような大人びた顔で。その横顔から目が離せなかった。頭がぼんやりして働かないせいだ。
「すげぇ」
ポツリと、やっと百太郎の唇からこぼれ出た。一度発声すると堰を切ったかのように喋り出す。
「スゲー、なにこれ、ヤベー、今、スッゲー!」
「うっせぇぞ。何言ってんのかわかンねえよ」
声をかけられて隣に人がいることを思い出したみたいにハッとして、胸でゴーグルとキャップを握りしめた。叫び出しそうな顔で、言葉を選ぶ間があった。
「俺、あの、今、すっげぇ気持ちよかった。今まで大会で調子いい時とか気持ちよく泳いでたけどそういうんじゃなくて、なんか、今日まで悩んで覚悟決めて楽しく泳ぐつもりなんかじゃなかったのに、センパイがずっと隣にいるのがわかって、負けたくねーって思ってたら、この一本があっという間で、わけわかんねーくらい、気持ちよくって…………たまんねぇ」
震える腕を自ら握って、ギュッとまぶたを閉じた。
ゾクゾクする。見たことのない百太郎がそんな風にまつげを震わせている姿に。絞り出すように漏らす言葉に。
泳ぎ終わった直後の疲労感とは別の何かが体を這い上がって酸素を奪っていく。わけがわからない。どうにかなりそうだ。
そう思った瞬間、思考とは別で体が動いて、自分より小柄な体を抱きしめていた。筋肉をフルで動かした後の体温が密着した胸にしみこんでくる。濡れた肌の感触を味わったら現実と混乱が一度にやってきた。
「わ、わ、悪い、いや、違う、これは……」
反射的に自分に言い訳するような言葉が口から飛び出したが、百太郎は抱擁の意味なんか理解していないんだろう。何のつもりか腕を背中に回して抱き返してきた。魚住の背中にキャップとゴーグルが当たる。
そうか、これは互いの健闘を讃えるスキンシップなのかもしれない。いや、絶対にそれとは別の動機だが、自分でも理解していない魚住はそういうことにした。体を離して顔を上げた百太郎がとても健全ですがすがしい表情をしていたから。
「センパイ、これからも夜練するンすか?!」
「あ、ああ。リレーがなくても個人種目はあるからな」
「じゃあ、俺も一緒に練習していいッスか?!」
「別にいいけどよ……」
「ヨッシャー!」
拳を突き上げた先にある空を再び仰ぐ。そうやっていると瞳に星が写し取れそうだ。
「この間似鳥センパイに誘われて初めて夜のプールで泳いだンすけど、そのときはモヤモヤしてて、こんな広いとこに二人しかいないのが落ち着かなくて全然楽しくなかったけど、今は泳ぎ放題だし星見て泳げてスッゲーラッキー!って気分ッス!」
全力で泳ぎ終えたばかりだというのにすでに次へのエンジンがかかっているらしい。雄たけびをあげてキャップとゴーグルを被りなおした。
「うおおおおおー!調子上がってきたー!」
その勢いのままグリップを握って自分で「ゴーッ!」と叫ぶと同時に後ろへ跳び、向こう岸に向かって泳いでいった。さすがに体は疲労を覚えていて、みるみる沈んでいったけれど。
「…………ホンット、敵わねえなあ」
百太郎がやっていたのを真似して見上げた星空は滲んで見えた。きっと、大会のリレーでは誰よりも速く泳ぐんだろう。それを応援する自分が確かに瞼の裏に浮かぶのだ。
その夏は最高の夏だった。個人レースでは僅差で魚住が一位を勝ち取ったが、リレーは改めて自ら辞退して個人種目に専念した。もう一度勝負して百太郎に勝てるかどうかの自信はない。特にリレーに関しては、個人種目よりモチベーションが高く、テンションに大きく左右される百太郎ならば個人レースよりも速く泳げるだろうという信頼があった。
何度でも味わいたいけど、これっきりでいい。けじめには申し分ない時間を過ごして夏が終わった。