ここ、ライブラは秘密結社だ。一般にはメンバーの顔や名前はもちろん、規模もアジトの場所も全てが謎。存在さえも都市伝説のように語られ、その実態を知れば泣く子も黙る。世界の均衡を守るために日夜暗躍する組織なのである。
そんなライブラの事務所に、草野球帰りみたいに泥だらけの少年が、薄汚れて白だか茶色だかわからない子犬を抱えて尻尾を垂れている。子犬のじゃない。子犬のしっぽは上向きに丸まっているのに対し、少年はないはずの三角耳と尻尾が下を向いている。ように見える。
「ダメだダメだ!ダメに決まってるだろう。ここは仮にも仕事場だぞ!」
「スティーブン……最近はオフィスの癒しにアニマルセラピーを導入している会社もあると聞いた」
「クラウスは黙っててくれ」
俺と少年と等間隔の位置に立っていたクラウスの耳と尻尾も垂れた。少年は雑種の小型犬で、クラウスは血統書付の大型犬だ。小さい犬ほど臆病だとはいうが、クラウスはいかつい体格や顔つきに反して大人しく、紳士的で、か弱いものに手を差し伸べずにいられない男だ。だが、見た目は体格も顔もいかついのでなかなか気持ちが伝わらない。先ほどから少年の腕の中の子犬に近寄ろうとするたびに威嚇されている。
「でも、うちのアパートは動物禁止で、ソニックは吠えないし特別に許可貰ってるんすけど、犬なんか飼いはじめたら絶対追い出されちゃうんすよ……」
「なら、すぐに元いた場所に戻してきなさい」
「元いた場所って、コイツ野良猫とか食っちまう異界生物に襲われてたんすよ!」
それで助けに入って奮闘した結果、自分まで泥だらけになったというわけだ。野良犬相手にお人好しにもほどがある。それが彼の美徳ではあるが。
「だとしても仕方ないだろう。野良の生き物は世の中にたくさんいるが、君はそれをすべて拾って面倒見るっていうのか。野生の動物には野生の節理があって、それに手を出すのは人間のエゴってもんだろう。違うかい?」
「それは……そうですけど」
ついつい子供を叱る母親のような気持で説教してしまい、俯いた少年の落ち込みっぷりに胸が痛んだ。彼と親子ほど歳が離れているわけでもなければ、俺に母性があるわけでもないが。彼のこういう優しさを尊く思っているが、だからといって事務所で面倒見るわけにもいかない。前例を一つ作ると次からが断りづらくなるし、生き物を飼うってことは一生責任を持つってことだ。危険な任務はしょっちゅう、明日この事務所が無事かもわからないライブラが、その辺の柔軟性が売りみたいなベンチャー企業のようにアニマルセラピーなどと言って犬用ベッドを備えてやるわけにはいかないのだ。
事務所で飼うことについては絶対に認められないが、彼が鼻先を抱いている犬に舐められるほど落ち込んでいるのもいただけない。
「すぐに戻せというのは撤回するよ。今日の帰りまでにみんなにあたってみるといい。それで里親が見つからなかったら、四十二番街の近くの公園にでも置いてきなさい。あそこらへんは人類の通りが多くて比較的治安もいいから、運が良ければすぐに飼い主が見つかるさ」
なるべく優しく語りかけると、鼻を犬のよだれでてかてかさせながら顔を上げた。
「ありがとうございます」
よしてくれ。実際はさっぱり譲歩していないってのに。残り六時間の間に行き先が決まらなければ、野良犬はまた捨て犬になるのである。彼がまた俯くことのないよう、すぐ飼い主が見つかることを祈ってデスクワークに戻った。
彼は一日よく頑張った。ダメで元々でも根気よく犬を飼えないかと聞いて回ったし、動物愛護団体に問い合わせもしたようだ。HL内の愛護団体はどうにも話が怪しく、街の外に本部を置く団体からは「HL内で保護した動物は信頼できないので受け入れできない」と言われたそうだが。
自分の身づくろいをする時間もランチに割く時間も惜しんで駆けずり回って迎えた六時間後。箱に古い毛布とわずかな餌を入れて、四十二番街近くの公園に運ぶこととなった。
「すまない、私が面倒をみられたらよかったのだが」
「そんな謝らないでくださいよ。クラウスさんも一緒に里親探ししてくれたじゃないですか」
クラウスは園芸サークルの仲間に声をかけたらしいが、仲間というのはいつ寿命を迎えてもおかしくない年寄りばかりだ。これから何年生きるかもわからない子犬は預けられなかった。本人が飼うという案もあったが、何度トライしても警戒を解いてもらえなかったのだ。
「それじゃ、お先に失礼します……」
寂しげな背中で犬を入れた箱を抱えて帰っていった。窓から差し込む夕日と相俟って儚く見え、声を掛けそうになったが、「やっぱりここで飼っていい」と言えるわけでもない。「ああ」なんてそっけなく見送ってしまった。
それからの仕事はまったく捗らなかった。最低限こなさなければならない量を粛々と消化する間、退屈な事務作業の合間に煤けた去り際の背中が思い浮かぶ。今日は比較的穏やかな一日だったので、このチャンスに溜まっている書類を一つでも多く片付けるつもりだったのに集中できない。
目もくれずに手を伸ばしたカップを口に当てたところで空になっているのに気付き、心の中で舌打ちしたところ、クラウスの執事であるギルベルトさんがスッと現れた。
「定時ですが、おかわりをお持ちいたしましょうか?」
穏やかに尋ねる手元に、いつも先回りしてスタンバイしているティーポットはない。
「いや、帰りますよ」
ただの定時退社だ。今夜珍しく予定がなく、直帰するのもなんなので、四十二番街まで足を延ばした。そこに店を構えている菓子店のシュークリームが家政婦のお気に入りなので。たまには日頃の感謝に買って帰ろうかと。
店を出てから気まぐれに少し歩いて公園を横切る。他意はない。すでに運よく飼い主が見つかって、少年も晴々した気持ちで自宅に帰っている可能性もあったし、アパートを追い出される覚悟で連れ帰っている可能性もあった。律儀に言った場所に犬を置いたかどうかなんてわからない。
でも、彼が公園に犬を置いていったとして、すでに箱がなくなっていたとして、無事貰われていったようだと連絡したら安心するだろう。モノのついでだ。一応。念のため。犬が置かれたと思われる場所に足を向けた。
いた。ベンチの横に犬がいた。ベンチの上には少年と相棒の猿もいたが。
彼が帰ってから二時間ほど経っている。もう陽は落ち切って暗い。人類の多い、比較的治安のいい公園と言っても、所詮はHLだ。頼りない街灯の光の下でも何があるかわからない。言ってやりたいこともたくさんあるし、心配して見に来たと思われるのもいささか癪で、少し離れた場所から悩んだ末に声をかけた。鼻息の荒い異界人が近寄って行ったからだ。何が目的だったかはわからないが、俺が大声で呼びかけながら近づいた途端に進路を変えたので、疚しいことがあったに違いない。
「わかった、俺の負けだ。今夜は彼も、君も、ソニックも。まとめてうちに来い」
冷えた両手を組んでお礼を言う少年の横で、子犬が嬉しそうに「キャン」と鳴いた。
帰る途中に子犬用の餌を買い込み、犬用シャンプーも買った。汚れたままの犬が自宅を歩き回ることと出費を天秤にかけた結果だ。犬を洗うのは当然レオナルドの仕事だ。本人も汚かったので、犬と一緒にシャワールームに放り込んだ。甲高いはしゃぎ声を上げながらシャワールームを泡だらけにしている間、脱衣所に取り残された相棒の音速猿が嫉妬深そうな表情で曇りガラスの扉を見つめていた。
彼にシャワーを貸すのは初めてではないが、こんなに楽しそうな様子で出てくるのは初めてだ。彼が嬉しそうだと妙な幸福感があって、犬の毛でタオルが一枚ダメになってもすぐに諦めがついた。
床にプラスチック容器のふたを置いて餌皿にして缶詰を与え、ダイニングテーブルで家政婦が作り置きしてくれた料理を食べる。メニューは久しぶりに食べたくなってリクエストしておいたローストビーフだ。美味い料理をピカピカの自宅で、風呂上がりでほっぺたを赤くした少年と一緒に食べていると心が広くなる。きれいにしてもらった子犬が足にすり寄ってくるのも悪くなかった。よく洗ってもらった彼は白い犬だった。
食事を終えてソファに移動しても子犬は少年の膝に乗ってご機嫌で、肩の上のソニックがずっと厳しい目を向けていた。新しい動物を飼うときは先住動物との相性が大事だと聞いたことがあるが、下手な人間よりよっぽど賢い猿においてもそれは当てはまるようだ。少年があんまり子犬ばかり構うので、彼の気持ちも少しは理解できたが。
彼があんまり嬉しそうなので、このままうちで面倒を見るのも悪くないような気がしてきた。俺自身はライブラ同様、明日どうなっているかもわからない身だ。近いうちに死ぬ予定はないにしろ、ひとたび事件が起きれば重傷を負わされ入院して帰宅できないこともある。だけど、その間も家政婦を雇っているから、ついでに犬の世話ぐらい頼めるだろうし、少年に頼んだっていい。むしろ少年に犬の世話を焼きに通ってもらえば俺自身は場所と微々たる餌代を提供するだけだ。なかなかいい案じゃないか。何故最初に思いつかなかった。
自分の中で話がまとまる頃には、レオナルド少年と犬と猿はソファで眠り込んでいたので、そっと毛布を掛けて明日提案することにした。広いベッドに一人で眠る寝室に引っ込むのがほんの少し、惜しかった。
朝は家政婦と一緒にやってくる。温かな朝食とカーテンを開けはなった窓から注ぐ朝日が健康的な一日のスタートには不可欠だ。
合鍵で入ってきてキッチンで支度を整えていた彼女はリビングから聞こえたかわいらしい鳴き声に控えめな歓声を上げた。
「おはよう、ヴェデッド」
「おはようございます、旦那様。こちらはレオナルドさんの新しいお友達で?」
グズグズ眠り続けていた少年の腹を蹴ってソファを飛び下りた彼がヴェデッドの足にまとわりついて頬ずりした。彼女は気に入られたようだ。
子犬のキックで目を覚ました少年が、眠いのかどうかわかりづらい糸目をこすりながらヴェデッドにあいさつをして五秒。ゆっくり沈みかけていた顔を上げた。
「そうだ!ヴェデッドさんがいるじゃないですか!」
「はい?」
「ヴェデッドさんちのお子さんたちが猫を欲しがってましたけど、犬じゃダメっすかね」
朝飯前の突然の質問。彼女は戸惑いがちに、だけど誠実に「犬も好きですよ」と応えた。彼女とレオナルドが出会ったのは、ザップが探していた猫をヴェデッド一家が飼うつもりで拾ったのがきっかけだった。結局猫はザップに引き渡してしまったので、可愛いペットを求めていたヴェデッドの子供たちはお預けを食らっている。
「コイツ、飼ってくれる人を探してるんですけどなかなかみつからなくって。どうっすかね。ヴェデッドさんちなら安心なんすけど……」
彼女はしゃがみこんでフワフワの子犬を抱き上げる。子犬は丸まった尻尾をパタパタ振って喜びを表現した。
「そうですね。これも何かの縁ですし、子供たちもきっと喜びますわ」
あまりにあっさり話は決まった。手早く朝の支度を済ませた彼女は善は急げとばかりに子犬のための備品をリストアップして、家族に合わせるべく一度帰宅した。犬用シャンプーと残りの餌は持ち帰ってもらった。
「あー良かった」
「ああ。彼女なら大事にしてくれるだろうし、またすぐ会うことだってできる」
これ以上ない里親だ。だけど、見送って閉められた玄関扉の前で少年と二人、立ち尽くしてしまった。なんだか寂しくて。
結局、昨晩中に家で飼う決意を固めたことは言いそびれてしまったし、犬の行き先が決定した今更言うことでもない。すごくいい案だと思ったんだけれど。
ぽかんとする少年の背中から駆け昇って来たソニックが、「俺がいるだろ」と言いたそうに少年の頬をつつく。
「ああ、ごめん。そうだよな。お前はうちの子だもんな」
小さな相棒を肩に乗せて笑顔を見せる少年の薄い肩を抱く。
「さあ、冷めないうちに朝食にしよう」
素直にダイニングに向かう彼の肩を触り続けていたら、わざわざ反対側の肩から移動してきたソニックに親指を引っぺがされた。君も俺も嫉妬に忙しいな。
猿と喧嘩する自分がおかしくて笑うと、肩の上の攻防を知らない少年がきょとんと見上げてきた。