玄関扉を強く二回叩く音がする。お隣のマリールさんだ。
背後のリビングを気にしながら慌ててドアチェーンをかけたまま扉を開けると予想通りの丸太のような婦人が厳しい角度の眉を寄せて立っていた。
「ごきげんよう、ギルマトンさん。ご在宅だったのね」
「ええ、まぁ……どうしたんです?」
何か疑うようなまなざしを向けられて肝が冷えた。精一杯のポーカーフェイスで尋ねるとマリールさんは部屋の奥を伺いつつ頬に分厚い手を当てる。
「最近ね、ギルマトンさんがお仕事でお留守のはずの時間に物音が聞こえて」
振り向くわけにいかない奥の部屋を心の中で睨む。どんな顔をしていいかわからず「へぇ」と短く返した。
「泥棒かと思ったんだけど、その後もたまに音がするから……アナタ女でも連れ込んでるんじゃなくって?」
「えっ、そんなことは……」
「アナタもお若いし恋人の一人や二人いらっしゃるんでしょうけどねえ、一応ここシングル向けでしょ?あんまりうるさくされるのもねえ」
手に負けず劣らず厚い唇でペラペラしゃべる婦人から視線を逃がし、苦し紛れが口をつく。
「ね、猫っ……を拾って……」
「猫?」
「そう、その、野良猫が、えっと、怪我してたので保護してまして…ペットの飼育は許可されてますよね……?」
苦しい言い訳だ。不在中に奴が何をしてどんな音を立てたのか知らないし、声が筒抜けになるほど壁は薄くないが猫だなんて。
「猫ねえ……」
ほら、やっぱり疑われてる。女だったら見つかったって謝ればいいけど奴はそれじゃ済まない。今のうちに逃げてほしいけど通りに面した5階じゃこっそり逃げるルートはない。あんなに大人しくしてろって言ったのに留守中に何をやってるんだ。
ドアチェーンは絶対に外さない。ドアノブを握った手にも力がこもる。その背後で不意に声がした。
「にゃぁん」
反射的に振り返る。もちろんマリールさんも部屋の奥を見た。壁の隅から覗いたふわふわの尻尾の先がぱたりと床を打った。
「あぁらあらあらあら。本当に猫ちゃんだったのね!」
「そうなんです、だから逃げないように早くドア閉めないと。すいません。ごきげんよう!」
早口にまくし立てると今がチャンス。今を逃したらまた話がややこしくなる。急いでドアノブを引いた。ツマミ式の鍵もかける。追撃のノックはなかった。
納得してくれたのかと安心して奥へ戻ると赤毛の猫がチガヤのふわふわの穂で鼻の下を擦って得意げに言った。
「上手いもんだろ?」
「バカ」
猫を拾ったのは墓参りの帰りだった。
星空のきれいな仕事帰り。花の代わりに酒瓶を携え、墓石に沢山の名前が刻まれた墓を参った。沢山の“家族”の名前が並ぶ中から手で刻まれた一つを指先でなぞる。
そこには何も、何一つ彼のものは埋まっていなかった。何しろ遺体も、機体の欠片さえも回収できなかったから。生存確率は極めて低く、生死不明の行方不明を死と認めるのにも時間がかかった。まだどこかで生きてるんじゃないかと時々思う。もうダメかと思ったのは一度目じゃなかったから、思うように仲間を守れなかったと悔いて顔を出せないだけなんじゃないか。なんて。
彼の他にもたくさん死んだ。すぐには葬式も挙げられなかった。それでも残されたみんなにとって葬式は必要だったから、生き延びるために地球へ向かい別人の人生を手に入れて火星に戻った後でひっそり集まって執り行った。葬式での俺の仕事は花火を上げることのはずで、彼にもそれを望まれたことがあったけど出来なかった。世間的に悪党となった仲間を弔うのに派手なことをやって、残党が名を変え生き延びていることがバレたら元も子もない。代わりに青い花を供えた。
手土産の酒を供えて形ばかり盃に口をつけ、星の瞬く空を見上げてしばらくすると風が強くなった。一晩中でもそこにいたかったのに、風邪をひくから帰れって言うんだろうか。そばにいた頃はよく食事の心配をされていた。自分は無茶ばかりしてついには帰ってこなかったくせに。
「……わかったよ。じゃあね」
離れた所へ停めている車へ戻ろうとした時だ。一際強い風が吹いて薔薇の花びらが頬を掠め、墓の方へと吹き流れていった。薔薇なんてここには生えていない。誰かいる。駆けだすと木蔭で何かが揺れた。やっぱり誰かいる。体力に自信はないが、走って走って、何かに躓いて転びうめき声をあげると追いかけっこしていた相手が足を留めた。雲の流れが速い。月にかかった雲が流され、白い光が照らし出した。
「待って、ライド」
立ち上がろうとして足首を捻ったことに気が付いた。こちらが距離を詰めようとしなければそれ以上ライドも逃げていかない。
「ライド、ねえ、足が痛くて運転できない」
嘘はないけどそんな言葉が逃亡中のライドに響くのかはわからなかった。すぐには返事もなくて諦め半分。呼び寄せるための文句だったけど本当に運転に差し支えそうだ。困ったな。
膝を抱えてブーツの足を擦っていると土を踏む音が近づいてきた。見あげると逆光でもわかる呆れ顔が見下ろしていた。
「バカじゃん」
「こっちのセリフ」
ライドはわざわざ花束を持ち替えて手を差し伸べる。それを不審に思って見ると、花束を持つ腕に布がきつく巻かれ黒っぽい血が滲んでいた。
「え。怪我してるの?」
手をしっかり握ってから訊けば目を逸らされる。引き起こされてからも手は握ったままでいたら放せとばかりに手を振るけど、放したら逃げそうだったから放さなかった。
「ちゃんと手当した?何でも秘密にしてくれる医者がいるからうちに帰ったら来てもらおう」
「いいよ。ヤマギ結構元気そうじゃん。自分で帰れよ」
「足が痛くて運転できないって言った」
「他の誰か呼べばいいだろ」
「端末忘れてきたんだ」
「減らず口!」
「いいから俺の車乗って。……ライドは車は?」
尋ねると長い沈黙の後で離れた場所に隠してあると言ったから、それは放置することにして自分のトラックに向かった。車の側でやっと手を離すとさっさと助手席に乗り込みシートベルトまで締める。まだ車の脇で立ち尽くしているライドに鍵と一緒に一言投げつけた。
「墓参りに来たんでしょ。待ってるから。ライドが来ないと俺も帰れないからね」
「性格わりぃ!」
何とでも言ってくれ。ライドは走って墓に向かい、しばらくすると手ぶらで戻ってきて運転席に乗り込んだ。墓前で俺の悪口でも言って来たかもしれない。
深夜の町は静かだ。数年前、俺たちの家だった鉄華団が上り調子だった頃はテロも珍しくなく、一人で出歩くのは男でも不安があったものだけれど、クーデター犯マクギリスと鉄華団の犠牲の上にギャラルホルンの権威が示されてからは随分落ち着いた。経済的にもマシになると裏路地にも浮浪者が減り、墓から街中にあるアパルトマンに着くまでに騒ぎを目にする事もなかった。道を教えなくてもライドは家の凡その位置を知っていたようで、すぐ近くに来てからようやく駐車場の位置を訊かれた。
エンジンを止める、反対側の腕をつかむ。
「もういいだろ。夜だって言っても誰に見つかるかわかんねーし」
振り払おうと言い募るのに被せる。
「うち、エレベーターなしの五階なんだ」
それはもう嫌そうな顔で大人しく肩を貸してくれた。もちろん、部屋に着いても腕を放してやらなかった。
部屋は手狭な寝室とカウンターキッチン付きのリビング、それから風呂とトイレ。リビングには二人掛けのダイニングセットとソファが備え付けられている。滅多に人は招かないので余った椅子やソファには本や衣類が積まれている。空いている椅子に座らせて明かりの下で腕の怪我を確かめた。止血し直し、消毒して包帯を巻く。医者を呼ぼうとしたら夜が明けてからでいいと言うので手持ちの痛み止めだけ飲ませた。
「ベッド一つしかないんだけど」
「ソファでいいよ」
そしてソファの上の荷物でふたつのダイニングチェアが埋まることになった。
「夜中に出かけたりしたら怒るよ」
「しねーよ。その代わり他の皆にも言うなよな」
「タカキにも?」
「タカキにも」
もってのほかだとばかりに言い切る。仲間の中でも歳近く、一足先に離脱したタカキは今や政治家秘書だ。もちろんライドのことを心配している。だけど、ライドの様子を伝えたところで駆けつけたりはしないだろう。ちゃんと大人の分別で行動ができるから、先生の立場が悪くなるようなことは決してしないだろう。
肘置きに伸びた足を溢れさせてソファに横たわった上に毛布を被せ、何か月かぶりに人におやすみを言ってベッドに入った。
その夜はシノの夢を見た。墓参りに行ったからかもしれない。戦いが終わってすぐの頃は眠れない夜も多く、眠れたとしても宇宙に散らばるモビルスーツの破片の夢を何度も見た。かき集めようと手を伸ばしても届かない。機体を改修して強くしないといけないのに。それだけが彼を守れる唯一の術なのに。ボロボロのままのフラウロスに乗ったシノを見送った。その続きを知っているのにいつも引き留めることが出来ない。
背中を押されて目が覚めた。顔を向けるとベッドの隣にライドが潜り込んでくるところだった。
「……どうしたの」
「やっぱソファ寝づらい」
僅かなスペースに体をねじ込まれて壁際に詰めるとそれっきりライドは動きを止め黙り込んだ。
「……昔も一回だけぎゅうぎゅうで寝たことあったね。寝床が足りないから小さい奴が一緒に寝ろって言われて」
今でこそお互いに身長も伸びたけど数年前はまだ体も小さくて、ガキ扱いだと文句を言うライドを宥めすかして同じベッドに収まった。あの頃はまだ俺の方が体が大きかったから、小さな子供の面倒を見ていたライドにとってはプライドが傷ついたのかもしれない。今はライドの方が少し大きい。シングルとは言えあの時のベッドよりも一回り大きいベッドなのに窮屈だ。
見ない間に大きくなったね、と他人事のように思う。
返事はなかった。気配でまだ眠っていないことは分かっていたけれど傷に触らないようもう少し奥へと詰めて目を閉じた。
「おやすみ、ライド」
二度目のおやすみの後は朝が来るまで夢を見なかった。
それから一週間ほど猫はうちにいた。留守の間に本を読んだらしく、食材の名前をいくつか書きつけたメモを寄越して買って帰ると食事を作ってくれた。
元から食に執着がないお陰で疲れて帰ると食べないままベッドに入ってしまうこともあるけれど、自分のために作ってくれると思えば食べないわけにいかない。メモに書かれた肉をわざと買い忘れて文句を言われ、日に日に上手くなる野菜の切り方を褒めては得意顔で明日のメニューのリクエストを尋ねられる。明日があるんだと思うとあまり興味のなかった料理の名前を憶えてリクエストする気にもなった。
何日目か、玄関扉を開けるとすでに料理の匂いがしていて鍋に豆のシチューが出来上がっていた。猫は狭い家のどこを探してもいない。抱えた買い物袋を見下ろして途方に暮れた。俺は料理なんかしないのに。
出ていかない約束を破ったんだから口止めも無効だろう。どのみち黙っているわけにもいかない。
飲み会の誘いを受けて鉄華団の副団長にライドを匿っていたことを伝えた。
「マジか!そういうことは早く言えよ」
「バラしたって気が付いたらもっと早くに出てったかもしれないよ」
「まあいいじゃねーかユージン。元気なのがわかってさ」
「そーゆー問題っすかねぇ」
みんな何か言っては酒を呷った。
猫が自主的に野良になってから随分経つ。世の中がマシになった分、何か騒ぎが起これば小規模でもすぐクーデリア嬢の耳に入ったし、時々は身内の誰かのもとに姿を見せていたお陰で野良猫なりに元気にやっているのは分かっていた。今回のことも定期報告みたいなもので、一週間も滞在していたなら長かったな、と言って酒の肴になる。それぞれに生活もあるから四六時中深刻に心配していられるわけでもないのだ。
ライドと数名の仲間が復讐のために動いているらしいのはみんな知っている。だから標的の動きを見ればライドたちの動きも予想できる。彼らが火星を出ることは難しいから標的が火星にいない間は下手な真似はしないだろうと高を括っていた。
その予想通り、一ヶ月後に帰宅したら猫が食事を作って待っていた。鍵はどうしたのかと尋ねたが、安アパートの鍵なんかちょろいんだそうな。器用すぎるのも困りものだ。
猫が家にいる間は何かと心配で帰りが早い。来るたびに「仲間には言うな」と口止めするので黙っているが、いつも遅くまで仕事している俺が定時過ぎに仕事を切り上げることで周囲も察っして餌を持たされる。
「なにそれ。チキン?ヤマギが買ってきたの?」
「まさか。たまにはこういうのも食えって持たされたんだよ。全部ライドが食べて」
「えー、貰ったのヤマギじゃん。一緒に食えよ」
唇を尖らせたが結局ほとんど猫が食べた。言動の端々から察するに、身を隠している間の食事はやっぱり味気ないものらしい。うちにいることにも馴れて美味そうに自分の作った飯を食べている。
日中暇をしているだろうと思って料理の本を見繕って帰ったら床に積み上げていた本がきれいに収納されていたこともある。ソファからダイニングチェアに、ダイニングチェアからも追いやられた本は床に積まれていた。新しく購入した料理本も収納の端に追加され、食べたいメニューを見つけたらページの角を折るルールが出来た。
食事の時に向かいに人がいて、おやすみを言って眠る。鉄華団があった頃みたいだった。違うのは目を覚ますと隣で猫が眠っていること。
何度目かの居候中に猫と約束をした。出ていく日には買い出しメモを作らないこと。
律儀な猫がペンをとらなかった朝、お互い分かっていながらいつも通りに部屋の奥で挨拶を交わして出勤した。誰に見つかるかわからないから玄関では別れることが出来ない。
「いってらっしゃい。気をつけてな」
こっちのセリフだと思いながらも言えなかった。
それから半年間、猫は姿を消した。
たまたま朝のゴミ捨て場でマリールさんに会った。相変わらず丸太のような体に鋭角な眉ラインを描いてぼってりした口で喋る。
「最近猫ちゃん見ないわねえ」
見るも何も姿は見ていないはずだが、物音で敏感に察知しては猫の好きそうな合成肉や毛玉のようなおもちゃをくれようとする。つまり猫好きらしい。家に招いて猫を見せて欲しいというアピールは全て見なかったことにしているが、その話をすると猫が調子に乗って窓を開けて鳴き真似を披露したりするので厄介極まりない。
「野良っていくつも別荘を持ってるっていうものね」
うちにも寄ってくれていいのに、と頬に手を当て溜息をこぼす。生憎と身内の誰もがここのところは姿を見ていなかった。ただ、数か月前にノブリス・ゴルドンが暗殺された。犯人は不明のままということになっているが、付近の目撃情報からして間違いなくライドたちだとユージンが言った。幸いノブリスは恨みを多く買っていて、報道もされなかった鉄華団団長射殺事件とノブリスを関連付けられる人間が当時の関係者以外いなかったから逃げ切れるのではとも言われている。クーデリア嬢は立場上、無理をしてまで庇うことができない。彼女にも守るべきものがたくさんあるから仕方がない。彼女の側にいる仲間たちが言い訳のできるギリギリのところでライドたちを守るために手を尽くしていた。
生身で戦い続けるライドを守るために俺が出来ることは何一つなかった。
四ヶ月後。結婚するのといってマリールさんがまさかの引っ越しを果たした。何年も五階まで上り下りした健脚で相手の経営する農場を手伝うらしい。
仲良くしていたわけでもないのにちょっと寂しい気がした。
六ヶ月後。若者同士の抗争で死者が出た。第一報は仕事の休み時間に見ていたテレビニュース。その後、いち早く詳細な情報を収集したクーデリア嬢から身内が関わっていないという連絡が届いた。その報せが来るまでみんな心配そうにしていたが、ライドたちが無関係とわかったところで所在不明は変わらず。いつかニュースの当事者になるのではないかという不安が募った。
七ヶ月後、墓参りに行くと墓石の周りに花が咲いていた。供えられた花の種が落ちたんだろう。後々に知ったことだけど、繁殖力が強くて地球では駆除対象になっている植物らしい。荒れ地でも根を張り花を咲かす。きれいな花だ。
花に囲まれた石碑に刻まれた名を触り、目を伏せる。いつのことだったかライドが言っていた。自分が死んだらどこで死んでもこの墓に名前を刻んでほしいと。どうして自分が死んだらなんて言うんだろう。自分が先に死ぬものだと決めつけて勝手なことを言わないでほしい。残された者の気持ちは分かっているはずなのに。
「シノ、本当はね、あの時言いたかったんだ。……行かないで、って。俺はまた言えなかった」
復讐なんてよしたらいいと思うのに、そうしたい気持ちもわかってしまうから何も言えなかった。シノが仲間のために怪我をした腕を縛り付けてまで出撃した時も、その言葉を言ったらいけないと分かっていて戻る見込みの薄い出撃を見送ってしまった。そのお陰で今があるのだと言われたら尚更何も言えなくなってしまう。遺志を継いで生きることはできても、あの日の自分は今も記憶のどこかで泣き続けている。
強い風が吹く。風がこぼれかけた涙を押し留めた。それがやむと土を踏む音がして振り返る。
猫が拳銃を片手に携えてこちらを見ていた。
「……ライド」
月が雲に覆われ目元に暗い影を作った。地面に手をついて立ち上がり、駆け寄ろうとするのを鋭い声が制する。
「来るなっ」
反射的に足を留めてしまうと踏み出すのに勇気がいる。ほんの二十歩ほどの距離が遠い。
「ライド、」
「団長の仇討ったんだ」
自分へ向けた言葉か墓前へか咄嗟にはわからなかった。
「でも、なんでかすっきりしなくて、やっと叶ったのに、これからどうしたらいいのかわかんなくなっちゃって」
墓には俺たちの団長、オルガ・イツカの名前も刻まれている。
「ノブリスだけじゃダメなのかな。ラスタルも殺さないと」
「とっくに戦いは終わってるんだよライド」
遮るようにして努めて強く告げた。団長が目の前で死んだ日からライドの未来は死んだ仲間の示した方向から外れてしまった。
「ヤマギだって憎いはずだろ?!」
「憎いよ。殺したいって思う。俺がクーデリアさんならあんな風に向き合えないよ」
強力な兵器を以って無慈悲な指揮を執り、俺やクーデリア嬢や、みんなの大事な人を奪った男は今やこの世界で一番の地位に就いている。今や火星を代表するクーデリア嬢と共にヒューマンデブリ撲滅や孤児支援を謳い、みんなに平等に権利が与えられる世の中の旗頭だ。そこまでの道程で不遇の中生き抜いた子供たちをどれだけ虐殺してきたと思っているのか。戦争とはそういうものだとしても簡単に納得できるものではない。
風に背中を押されて一歩踏み出す。猫は逃げなかった。
「憎いけど、もうあの戦いは繰り返したくないんだよ。無謀な作戦に出る大事な家族を見送るのは、嫌だよ」
目の前までたどり着くと銃を握る手に手を重ねた。
「もう危ないことは終わりだよ」
赤毛を揺らして首を横に振る。
「終わりなんだよ。どこにも行かないで」
「……なんでそんなこと言うんだよ、バカ」
「ライドがバカだからだよ」
額が肩に乗ると布越しにじんわり熱いものがしみてくる。
「団長たちの仇は一生許せねーよ……」
「俺も、みんなも、許したりしないけど……仇討ちに命かけたりすることとは別だよバカライド」
「バカバカ言いやがって」
今はもう自分より大きな体の青年が寝食を共にしていたあの頃の小さな少年に戻ったみたいで、つられて小さな俺も一緒に泣きじゃくった。日々の生活ややるべきことに追われる間は忘れている悲しみや悔しさの為に。お互いに涙を捧げた相手は違うけれど、生々しい悲しみを負ったあの頃よりは早くに涙が枯れる。これから先もきっと何かのきっかけで幼い自分が顔を出しては泣く。こんな夜をまた繰り返すのなら、また一緒がいい。
今回は問答無用でユージンに報告した。夜中だって言うのにすぐ向かうと言うからうちを指定したら玄関先で開口一番「何でお前んち五階なんだよ」と文句を垂れた。駆けのぼってきたらしい。
小さなテーブルを挟んでユージンと向かい合ったライドは借りてきた猫だった。肩身を狭くしてこれまでの動きや他の仲間の居場所を打ち明けた。
「わかった。お嬢にも伝えてどこかで保護するから他の連中にも連絡しとけ」
すぐにそう言い切った副団長は手を伸ばして俯きっぱなしのライドの頭を撫でた。その姿が団長みたいだった。下を向きっぱなしのライドが鼻をすするのが横のソファからよく見えた。
世の中が平和なほど犯罪は重くなる。モビルスーツで戦っていた頃の方が恨みもない相手を何人も殺めていたはずなのに、改めてノブリス殺害の一件をニュースで見るたびに食事の手が止っている。かといってそのこと自体に後悔があるわけではないらしい。ことをしでかした自分が匿われて炊事ばかりしながら生活している間に副団長やクーデリア嬢があれこれ手を回してくれることの方に罪の意識を感じるようだ。それでも誰もライドたちが裁かれるのは望んでいない。正義に守られてこなかった俺たちは正義のために生きてはいない。
猫は野良を返上して首輪をつけた。チャームは鈴じゃなくて部屋の合い鍵だ。引きこもり生活は変わらないが、時々帽子とメガネで下手な変装をして出かけている。
何もしないとどうしても気が咎めるらしいと聞いたザックの提案で最近在宅の仕事を始めた。エンブレムや広報物のデザイン作成だ。最初の内はザックの営業に便利に使われていたものの、メールで直接依頼を受けるようになったら火星経済活性化の恩恵もあってそこそこの収入になった。
二人の収入が増えた頃、副団長命令で引っ越しをした。狭いだろうというのは建前で、メインは五階まで顔を見に来るのが疲れるという理由だ。ユージンはあちこちに一人ずつ匿われている仲間の下を頻繁に訪れてケアに努めている。
新居は二部屋ある賃貸だ。エレベーターもある。初日からいつものメンバーが酒瓶を持って押しかけてきて、朝まで飲み明かしていった。全員見送ってから後片付けは諦めてベッドに潜り込む。部屋は二つあるけれど、ベッドは金銭的な都合により一つしか買っていない。その代わり大き目のものを買った。さっさと布団に入った俺の横に猫が潜り込んでくるから。おやすみライド。また明日。
おやすみ、ヤマギ。
ソファの上から寝室に入るのを見届けて目を瞑ったけど眠気は一向に来ない。情報収集のため少し無茶をやって怪我を負ったばかりだ。怪我の代償に目的に一歩近づいた。胸の上で拳を固める。
これからの計画を告げたら心配するんだろうな。ヤマギがあんな屁理屈をこねて強引に連れてくるとは思わなかった。喧嘩が得意じゃなくて、周りが喧嘩を始めるといつだって仲裁に回ってたくせに強かになったもんだ。そうでなければこの数年を生きてこられなかったのかもしれないけど。ヤマギだけじゃない。時々仲間たちの様子を覗きに行くけど、みんな新しい人生を受け入れて元気にやっている。安心するけど悔しさもあって、見つかったとしてもあまり話はしないまま立ち去っている。みんなが正しく団長の願いを果たしているのはわかっていても俺たちはガキのまま、割り切れないでいた。
初めて立ち入る一人暮らしの部屋は散らかっているけど立派に自立して生活しているのが伝わってくる。キッチンはほとんど使っていない様子で、ゴミは几帳面にまとめてある。中身はほとんどレトルトの空容器だ。ちゃんと食べてはいるらしい。俺の知っているヤマギは大人しいけどしょっちゅうシノの兄ちゃんに「メシ食え」って言われる子供のままだった。流れる時間のギャップに目まいがする。地上五階の部屋は静かで時計の音がうるさくて、そのまま朝まで眠れないかもしれないと思った。
その時、微かに呻くような声が聞こえて耳を澄ます。寝室から聞こえる。毛布をソファに置いて静かに寝室の扉を開いた。あまり物のない部屋の壁際にシングルベッドが据え付けられていて、壁に向かって背中を丸めたヤマギが眠っている。ベッドサイドテーブルに酒瓶と小さなグラスが置いてあるのが目についた。女みたいに伸びた髪と小奇麗な造りの顔に寝酒は似合わない。
あんまり苦しそうだから具合でも悪いんじゃないかと思って額を触ろうとしたとき、か細い声が言葉になった。
「……シノ、ごめん」
息をのんだ。元気にやっていると思っていたのは間違いだったのかもしれない。食事をして仕事をして、家賃を払っていれば割り切って生活できているなんて思い違いだった。命の危険のない生活に落ち着いてもまだ眠れず、眠っても失った大切な人の夢で魘されるんじゃないか。目が覚めても部屋には一人きり。団長たちは俺たちに生きることを託したけど、今の生活は本当にヤマギのあるべき生活なんだろうか。まるでCGSにやってきたばかりのチビたちみたいだ。起きている間は気丈に動き回っていたのに、突然心に冷たい風が吹き込んで泣き出してしまう。
丸まった背中を押してヤマギを揺すり起こした。魘されていた自覚はあるだろうか。振り向いた顔をカーテンの隙間から差し込んだ光が照らしたけど涙はなかった。
隣に潜り込んで背中をくっつける。小さな子供の面倒を見ていたときは甘い菓子を食わせて頭を撫でて、一緒に眠ってやった。大人の慰め方なんかわからない。シノの兄ちゃんならもっと上手くやれたんだろうかと思ったけど、俺があの人になれるわけじゃないから意味がなかった。
それでも背中に温かさを感じながら眠ったら朝まで何も聞こえてこなかったから、次の晩もまたコイツが魘されないか確かめてから出ていこうと思った。ヤマギが眠りながら謝る姿を仲間の誰も、シノの兄ちゃんさえも知らない。俺しか知らないんだから。