第一回テリトリーバトルに向かった高い塀の前でその男とすれ違った。タバコの匂いに混じって脳がざわつくような甘い匂いがする。やくざなんてやってる男だからさぞ高価な香水でも使ってるんだろう。いい匂いだったな。そう思って、完全にすれ違ってから振り返ると、その男も振り返っていて苦い表情と目が合った。
それが馴れ初めだ。
あんな男、好きになったら終わりだ。
あまり踏み込まないコスメグッズの専門店にはキラキラした宝石みたいな香水の瓶がずらりと並んでいた。
今日は女と二人だがカノジョじゃない。仲間の誕生日が近く、そのカノジョがプレゼント選びに付き合って欲しいと言うので拒否して拒否して拒否した末に拝み倒されて同行した。何が悲しくて他人のカノジョに惚気を浴びるように聞かされながら買い物なんかしなきゃならないんだ。
「だってー、じろちゃん前にまーくんと同じのつけてたじゃーん」
「だったら新しく選ばずに同じヤツ買えばいいだろ」
「やだー、アタシが選んだのプレゼントしたーい」
そう言いながらテスターをいくつか手渡される。一度にいくつもの匂いを嗅いでいると鼻がいかれそうだ。
「これは甘ったるすぎる。こっちのは別のダチが多分使ってるから被る」
「えーめんどくさっ」
「めんどくせぇのはお前だよ!」
持っていた分を全て戻して、次の候補を選出すべく棚を真剣に見つめる他人の女は放っておいて、プレゼント用じゃないが自分でもいくつかの香りを試してみた。あの匂い、中王区の入場前に嗅いだ碧棺左馬刻の匂いを探し当てたくて。だけど高価なものまで試してもすべて違う。こんな店に売ってないような品物かもしれない。
「なあ、お前さ、なんかこう……甘くて頭ン中ざわってするような、多分高い香水だと思うんだけどさ、そういうの知らね?」
新しくいくつかテスターを手に取って自分で試していた女が顔を上げる。
「なにそれー。甘いのはいっぱいあるけどザワッてなに?匂いにザワッて言わなくなーい?」
口をへの字にして別の表現を考えてみる。だけどあの、体の内側がざわめくような複雑なにおいを言葉にするのは難しかった。
「っていうかー、それアレだね。Ωのフェロモンの話みたいじゃない?じろちゃんαなの?」
何も考えちゃいない呑気な喋りから零れ落ちたフェロモンという言葉が頭の中に落ちてきた。呆然として女を振り返り、居心地の悪い間を置いて、やっと返した。
「……いや、βだし、ねーよ」
テリトリーバトルは月一回。ステージ上で顔を合わせるのはもちろん、割り当てられる宿舎も同じホテル。食事する範囲も限られるし、そもそも開催地である中王区への入場は全員同じゲートからだ。
また会うだろうと予想はしていたが、実際にその男と再会すると怯む。相手が任侠世界に身を置くガラの悪い男だからじゃない。フェロモンだと思いながら嗅いだその煙草混じりの匂いが、確かに香水なんかとは別物だと理解できてしまったからだ。
嗅ぐとヤバい薬みたいに頭の奥がぼやけて気持ちよくなってくる。アイツは間違いなくαだ。……Ωである俺がこんなにも影響を受けるんだから。
いい匂いにつられてついつい左馬刻に目をやると視線がぶつかる。あっちもこちらを見ていた。
フェロモンは普段から少しずつ分泌されていて発情するとグッと濃度が増す。平常時は遺伝的相性が良くないと感知すらできないことが大半で、生物として近親交配を避ける仕組みなのか肉親者のフェロモンが感知しづらくなっているのは有名な話だ。逆に、相性さえよければ平常時の薄い匂いも余裕で嗅ぎ分けられる。
左馬刻もこっちを見ていた。こっちが左馬刻の匂いをわかるように向こうもこっちのフェロモンを嗅ぎ取っているのかもしれない。発情しているわけでもないのに。
テリトリーバトルに参加する男たちや中王区の役人女たちにも恐らくαはいる。俺はひとより鼻がいい。肩がぶつかる程近くにいれば多分そうだろうという人間は嗅ぎ分けられる。でも左馬刻ほど涼しい顔をして明確にフェロモンを垂れ流している人間は会ったことがない。
あっちがそういう特異体質なのかと思えばそうでもなく、左馬刻が大勢の人間の前を通過したって特別騒がれることはなかった。俺の鼻にはこんなにはっきりと嗅ぎ取れているのに。
おそらく、絶望的に相性がいい。
相性ってのはグラデーションと言われている。その中でも極端に相性のいい人間に遭遇する確率は低く、奇跡的に相性のいいたった一人の異性のことを指してとある古いドラマが“運命”と呼んだ。
『貴方が“運命”の番』
ドラマのヒットと共にそのセリフは流行りに流行り、運命の相手を題材にしたフィクションが溢れかえった。
運命なんて、当事者からしたら呪いでしかない。
俺の運命があの男なら最悪だった。多分相手も同じことを考えてる。
だがどうせ普段の行動範囲は違う。テリトリーバトルの間だけ近くに寄らないよう気をつければクソみたいな運命はいつか干からびて朽ち果てる。
その前に他のもっと相性のいい相手と出会えるかもしれないし、運命の相手だからといって必ず番う必要はない。左馬刻だってこっちには絡んでこないんだから大丈夫。大丈夫だ。絶望することはない。ちょっと気をつけて、普通に過ごせばいい。
という期待はテリトリーバトル開催ごとに萎んでいった。
ステージ上や移動ですれ違うわずかな時間の接触しかないのに、鼻は無意識にその匂いを探して嗅ぎわけ、後からくる。気を張って過ごしている中王区を出るとじわじわ体調に異変を来してヒートが起こる。
Ωは月一で発情するが若いうちは周期が乱れがちで、例に漏れず俺のヒートは自分のオメガ性を忘れかけるほどだった。なのにここしばらくはきっちり始まる。テリトリーバトルから帰った後に。
お陰でバトルで疲れたから寝込むという言い訳が立った。本当はそんなに弱っちくないから納得はいかないが、家族以外にΩであることを隠し通している以上はヒートで引きこもる際の隠れ蓑としての理由があるのは都合がいい。
オメガ性は常にトラブルの元だ。そのため普通は他人に隠している。生殖に特化した発情する生き物だなんて誰にもバレたくないし、特にΩはヒート中はセックス以外全く使い物にならなくなる。体も普段通りには動かないし息も上がって舌も回らない。Ωをターゲットにしたあらゆる犯罪は抵抗しづらくなるヒート中によくあった。引きこもっても周期がバレていたら、最悪家に侵入された時点で終わる。
だから規則正しいヒートも困りものだった。始まりが緩やかなら不規則の方がまだ隠しやすい。
そういった事情以前に、毎月きっちりヒートが来るということ自体初めてだし、心なしか一回の発情もキツくなっている。繁殖を目的とした体の反応だからいっそ抱かれりゃ楽になるらしいが恋人はいない。本当なら上手くやり過ごして雄なんか必要とせず生きたかったからαの恋人なんかほしくなかった。
うちは兄がα。弟も最近の検査でαと判定された。俺一人だけΩだけど、「本能に振り回されたって最終的には理性で行動をコントロールできるのが人間だから気を落とすな」と兄ちゃんが言ってくれたから。まだヒートも軽く済んでいたし、世の中にはたくさんのΩがオメガ性を隠して生活している。不安がることはない。はずだったのに。
テリトリーバトルから二週間。後二週間ほどでまた開催され、帰ったらまた引きこもるはめになる。
「面倒くせぇ」
屋上の柵に背中を預けてクソみたいな青空を見上げこぼすと、拾わなくていいのにきっちり拾って「何が?」と問われる。天気が良ければ屋上でプチピクニックを決め込む喧嘩自慢の仲間たちにもΩであることは隠している。仲間の性別も知らない。詮索するのは失礼な行為だ。拳で認め合ってつるんでいる仲間に性別の区別なんか要らないし、一番そこを突っ込んで欲しくないのがΩでもある。
「……追試」
「本試験真面目にやるか留年する覚悟したら面倒じゃなくなるよ?」
「それなー。二郎も留年する?」
「お前んちと一緒にすんなや。一郎くんめちゃくちゃ怒るっしょ」
好き勝手に言ってゲラゲラ笑う。元々偏差値低い学校のお陰で不良連中でもテストの点と出席日数不足の際の補講に出れば進級させてもらえた。うちは兄が中退はするなと言うのでそこそこ真面目にやっている。
バトル後にくるヒートも面倒だが、それで休んでいる期間にテストがあると自動的に追試メンバーに入ってしまうのも面倒だった。嘘から出た誠ってこういうのを言うのだろうか。本気で追試が面倒になってきて汚い屋上の床に転がる。
「留年も悪くないって。お陰で君らと仲良く学生できてんだからね」
兄と同い年の同級生が学ランの内ポケットに隠している煙草を出して火をつけた。面倒ごとになりやすいから喫うなら屋上で、という仲間内でのルールを守っている。社会のルールは守っていないが。時々不真面目な教師が屋上で一服しに来ても「今日は眼鏡を忘れたから顔がわからない」と言って見逃してくれる。
一人がやり出すと未成年喫煙者達が続々と喫煙し始める。隣に座っていた仲間の煙の匂いが鼻に残った。上体を起こして銘柄を確認する。
「ん、何?二郎も興味ある?」
兄の方針により煙草をやらない俺が喫うとしたら面白い。そんな顔で残り数本の箱を差し出された。一本摘むとそれだけで「おおっ」とどよめき、左右から同時にライターの火が差し出される。
「やらねーよ」
「ならなに、まつ毛にでも乗せんの?」
また笑いが起きて「まずマッチ棒からっしょ」とマッチの箱が差し出されたが、どっちもやるわけがない。一本の煙草だけポケットに落として喫わずに帰った。
帰ってから、自分の部屋でコーヒーの空き缶片手に火をつけた。友人が来ても禁煙させている室内に煙が立ち上る。左馬刻と同じ匂いだ。
匂いがテリトリーバトルの会場での記憶を呼び起こす。なんていっても何があるわけじゃない。お互い避けているから何も起こりようがない。何もない。一定以上離れたところから姿を見て、バトルではマッチアップもない。左馬刻のチームと小競り合いがあっても左馬刻自身は兄にばかり絡んでくるから会話らしい会話もなかった。
ただ、左馬刻の匂いがすると振り返ってしまう。そんな時は大抵向こうもこちを見ていて、ほんの一瞬だけ視線が絡む。そういうことが何度かあった。これはもう気のせいじゃない。フェロモンの影響じゃなければ特別俺だけが睨まれる理由がない。
でも大丈夫。お互いそこのところを理解していればおかしなことにならないよう避けるだけだ。利害は一致している。二人とも気をつけていればこの運命は回避できる。大丈夫。
心の中で繰り返し唱えた大丈夫という呪文が煙草の匂いのする部屋で上滑りする。
何が大丈夫だ。
左馬刻と同じ匂いのする煙草。すれ違うたびに遠く匂っていたものが部屋の中に濃く残る。すぐそばで嗅ぐとこんな風なんだろうか。でも本当はフェロモンが混じって、もっと甘くて気持ちのいい匂いだ。熟した果実みたいで手を伸ばしたくなる。脳の奥が心地よく痺れてくる。そういう再現のしようがない匂い。
目を閉じて思い浮かべると少し前にヒートは終わったはずなのに、腹の底が疼いて耐えられなくなる。空き缶に煙草を投げ込むとベッドに転がって丸めてあったタオルケットを引っ張って頭から被った。
Ωの男はヒート期間中でなければ他の男と同じように男性器だけでも快感が得られるし、どうしても雌としての器官を使う必要はない。男性器に比べてΩ器官は成熟が遅い。個人差はあっても先に使えるようになるのは大抵男性器の方で、自慰も男性器で覚える。他の同年代の男と一緒に女の話をして、突っ込む側目線の品のない妄想を繰り広げる。
なのに、今はちゃんと男でいられる期間のはずなのに、腹の奥が雌としての役割を思い出させる。冗談じゃない。百歩譲ってΩとして生きることを納得したとしてもあの男はダメだ。兄ちゃんの敵だし機嫌の悪そうな顔しか知らないし、深く知ったところでどうせロクな人間じゃない。あの男の何も知らない。そんな相手の顔や声が浮かぶ。指一本触れたこともないのに。
女の子のグラビアを見て妄想するのと同じように左馬刻が自分に親密に接してくる妄想が浮かんで尻の奥が雄を受け入れる準備を始めてしまう。
早くこれを収めないといけない。ヒートじゃないんだから一発抜けば終わるはずだ。だけど前を弄っても満足できなかった。あの男のことを考えないように、つまり、ズリネタを自分で遠ざけようとしてしまうのも良くなかった。
だからって好きでもない男に抱かれる妄想で抜くのも嫌だ。なかなか体の熱を冷ますことが出来なくて、そのうち焦れて頭の中がグズグズになってくる。もういい、こんなの自分の意志じゃなくて、水をがぶ飲みした後の尿意みたいなどうしようもないもんだ。心なんかない。あの男のことが好きなわけじゃない。
行き場がなくてパンパンになった欲求を処理するためだ。尿意を解消するために小便するようなもの。トイレが汚かろうが仕方ない時もある。その程度のこと。そう言い聞かせ、普段は怖くて触らない場所に指を伸ばした。
それは自分が雌であることを認める行為だ。雌として慰められないと生きていけない。そうしてくれる雄と番にならなきゃΩの人生は定期的な苦しみが続いてしまう。腹を埋めてさえもらえれば楽になれるのに。
バカになった頭で一人の顔が浮かんで離れない。まるで恋でもしているみたいだ。
身近な女の子で不埒なことを考えてしまうと申し訳なくなってなんとなく避けてしまうことがある。というのとは全く違うベクトルで、先日不本意ながらネタにして抜いてしまった相手を避けていた。もう匂いがしても振り向かない。ステージ上以外ではなるべく姿も視界に入れないようにした。
会わないのが一番だがテリトリーバトルの代表であり続ける限り毎月一度は対面させられる。仕方ないから本来ならヒートが始まってから服用するフェロモン抑制剤を早目に飲む。これで自分の分泌も抑制されるし他人のフェロモンの影響も減る。元からチーム同士の仲は悪いから避けたってなにもおかしくない。姿が見えたらそれとなく兄弟を誘導して鉢合わせることを避けた。涙ぐましいほどの努力により接触は減ったが、だからといって左馬刻へのあるはずもない関心が失われたり、体が楽になるわけじゃなかった。
だからそんなタイミングで会っちゃいけなかった。
中王区は女だけが居住する地区だ。当然のように男性の利便性に対する配慮がない。敵対するディビジョン代表がまとめて一つのホテルに押し込まれる理由も男性の利用を想定して男子トイレが備わっている宿が一つだけしかないというどうしようもない理由だ。バトル会場だって女性用のトイレは混雑しないようあちこちにあるのに男性用は一ヵ所しかない。月一回、十二人しか利用者がいなければこんなものかと思うが、それにしたって腹の立つ町だ。
今月もバトルが終わり、結果が通達されると速やかに解散となる。取材で引き留められることもあるが、大抵のチームはさっさと帰りたいと思っている。ここでは俺たちは無責任な女たちに消費されるだけのモノだ。気分が悪い。
撤収の途中で兄弟達に断ってトイレに向かった。一ヶ所しかない男子トイレは嫌がらせかと思うような端の方にある。控え室からも遠く、兄を待たせているから走って向かった。あと一つ角を曲がれば見えてくる、というところで角から人影が現われ、急ブレーキをかけた。
学校じゃないが廊下で走っているところを人に見られるのはちょっとバツが悪い。ぶつからずに済んだが危うくぶつかるようなところまで迫ってしまったのも良くない。
「すんません」
顔も見ずに告げてすれ違おうとした。でも、足が止まる。
濃厚な、煙草に混じった甘い匂い。思わず顔を上げると不機嫌そうな左馬刻が同じように立ち止まって見下ろしていた。ぶわりと鳥肌が立って頭痛がするほど脈が速くなる。何か考える前に体温が上がって、数秒遅れて逃げなくちゃならないと思った。
多分俺のフェロモンも濃くなっている。自分の匂いはわからないけど興奮に応じて分泌が活発になるものだから。
これはまずい。そう思っているのに動けなかった。怯えとかじゃなくて単純に、離れがたい。やっと近くに立てたのに。
しばらく見つめ合って、左馬刻が先に動き出した。距離を詰めるように踏み出す。ぶつかる。まずい。それでやっと金縛りが解けて後ずさった。下がれば下がった分左馬刻も歩く。ついには背中が壁に当たって追い詰められた。
近い。さっきよりフェロモンが濃くなっている気がする。匂いに溺れそうだった。立っているだけでこれなら首元に顔を埋めたら、抱かれたらどうなるんだ。
いる場所も場面も弁えずに不埒な妄想が頭を埋め尽くす。でもそんな惚けた脳をぶん殴るのも左馬刻の言葉だった。
「うぜぇんだよテメェ」
甘さは微塵もない容赦ない罵声だ。フェロモン漬けでおかしくなっていた頭が一気に冷えた。それまでフェロモンにあてられてどうかしていたから、まるで恋人にするみたいに扱われることをどこかで期待していたのが急に現実に引き戻されて思考が追いつかない。こんな男だってわかっていたし、こっちとしても好きなんかじゃない。不運にも相性が良くて平常心で向き合えない相手ってだけなのに。何も傷つく必要はないのに、ありもしない恋を失って胸が痛い。
「クセェ匂いプンプンさせやがって、目障りだから代表やめろや」
感情の浮き沈みが激しくてしんどい。でも言いたい放題言われていると適切に腹が立ってきていつもの調子が戻ってきた。
「……黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって。その言葉そっくりテメェに返してやんよ!」
こっちばっかり責められる筋合いはない。顔に出なくたってコイツが冷静じゃないことは匂いでわかる。こんな甘ったるい匂いさせておいて何とも思っていないなんて嘘だ。
「誰に口利いてンのか分かってんのか?あ゛?」
左馬刻が更に前に進み出ると、あと少しで触れそうになる。一度は冷えた頭でもその体に触れることを意識したらまた熱っぽくなってきた。殴り合いになっても上手くやり返せるか不安になる。
でも結局殴り合うことも触れることもなかった。
「二郎!何してる!」
後を追ってきた兄弟たちが廊下の端から走ってくる。それを俺と同時に振り向いた左馬刻は舌打ち一つ残して一歩後退すると踵を返し、廊下の反対側に歩き去った。兄ちゃんが呼んでも立ち止まらなかった。
気が抜けて壁に背をつけたままズルズル座り込む。まだ目の前の空間には左馬刻の匂いが残っていて、呼吸するたびに肺を犯した。
「二郎、大丈夫か?何された?」
傍らにしゃがみこんだ兄に顔を向ける。
「大丈夫、何もされてないよ」
大丈夫と言ったのに、兄ちゃんも、その後ろの三郎も、しこたま殴られた相手を見るような目でこっちを見ていた。それから兄ちゃんが額に手を当てる。熱っぽいとは感じるけど風邪の時のような寒気はない。実際に熱が出ているのかは自分ではわからない。
手のひらで検温した結果を兄ちゃんは口にせず、左馬刻の消えた角を睨んでいた。
兄と弟はαだ。肉親のフェロモンは感知し難い。でも、発情した際の濃いフェロモンが分からないわけじゃない。俺がぼんやりしている間に二人は全てを理解していた。
その日は兄に背負われて中王区を出た。表向きは疲れで体調を崩したことになっているが、実際のところは副作用の強い緊急用のフェロモン抑制剤を注射したことによって情けなくも意識を失ってしまったからだ。普段ならよっぽどのことがあってもそんなもの使わないが、男を異物として扱う中王区を通過するのにヒートを起こしているのはまずかった。
壁の外に出た後は医者であるシンジュクディビジョンのリーダーの車で家まで運ばれた。その際の話は後で聞かされた。
曰く、相手が何者であれΩの幸福とはこの上なく相性の良いαと番うこと。それは感情的な問題だけではなく体調管理上の都合もある。左馬刻が一郎をどう思っていようとも、一郎が左馬刻をどう思っていようとも。左馬刻は全否定されるべき人柄でもない。番うに相応しい相手を認識しながら無視し続けたらまたこういうことも起こるだろう。それでも他の道を選ぶなら相応の困難を覚悟しなくてはならない。
医師である寂雷はそう話したそうだ。保健体育の教科書にでも書いてありそうな話だった。
その上で兄から切り出されたのは左馬刻と番えなんて話ではなくて、他に相手はいないのかと言う話だ。運命の相手と出会ったとしてもすでに他の番相手がいて運命の相手と積極的な接触を避けられるならば随分マシになる。ヒートだって特定の相手と抱き合えば一人で耐えるよりも早く収めることができる。左馬刻と番うつもりがない前提では一番現実的な案だ。
でも、残念ながらそういう相手はいない。Ωであることも不本意だったし、知る限りで一番魅力的なαは兄だったから無理な相談だった。兄より素晴らしいαがいるなら考えてもいいがそんなヤツは多分太陽系の外まで探しても存在しない。
きっぱり言うと兄は困った顔をした。萬屋の応接セットで俺の正面に座る兄のその後ろに立っている三郎は深く頷いた。兄が全人類の頂点である点に関して三郎以上の理解者は存在しない。
「そうなると……俺が他人だったら番ってやれたのに、ごめんな」
考えようによっては兄が魅力的すぎて弟に番が出来ないという話だ。心酔しているのはこちらの勝手だし謝られることじゃないが、兄弟でなければ番になれたかもしれないと思うと少しは嬉しい。向き合っただけでグズグズになる程の激情を経験した後ではどんなに大好きな兄でも左馬刻以上に心をかき乱してくれるとは思えず、兄弟関係と変わらない穏やかな過ごし方しか浮かばなかったけれど。
「大丈夫だよ。他人じゃなくて兄ちゃんが俺の兄ちゃんでよかったって心の底から思ってる」
何も解決はしないがずっと心配そうにしていた兄ちゃんの表情が和らいだ。代わりに三郎がソファを回り込んで俺の隣に立った。
「いち兄がダメなら僕が噛んでやるよ!」
「なに言ってんだお前」
三郎は怖い顔で一直線に俺を見つめている。兄ちゃんも驚いて三郎を止めに立とうとしたが三郎は兄ちゃんを見ない。バカなことを言ってる自覚があるから兄ちゃんの顔が見れないんだ。
「番になったらもう外で無様にαに反応して醜態晒すこともないんだろ?!」
「だからって……」
「二郎はアイツの前で自分がどんな風だったか見てないからそんな呑気でいられるんだ。このままじゃそのうちアイツに噛まれちゃうよ。そんなの許さない」
番は発情中のΩのうなじをαが強く噛むことでホルモンバランスが変化し、Ωが分泌する番化のフェロモンをαが受けることで成立する。一旦薬で強制終了させられて落ち着いた今の体に何をしても番にはなれないが、本気を見せるようにして三郎の手が俺の首に伸びる。それを掴んで止めた。弟が傷ついた顔をする。
「そんなんで番になっても意味がねぇんだよ」
Ωと判定されてからずっと番なんか要らないと思っていたし、動物じみた本能で伴侶を見つけることに生物としての生殖目的以外の意味があるなんてことも考えたことがなかった。なのに今は不便だからてっとり早く番を作るとか、誰よりはマシだから番うとか、そういうのは違うと思うようになっていた。
「……なんだよそれ。まさかアイツのこと好きだとかいうんじゃないだろうな?!」
「それは……」
「三郎、そこまでにしとけ」
強い口調で兄が割って入る。叱るわけじゃなくて、手招きして三郎を呼び寄せ隣に座らせると肩を抱いて落ち着かせた。
「二郎の言うことはもっともだ。番は一生モンだからな。俺にもお前にもいつかそういう相手が現れるかもしれないし……」
「……僕はいりません」
俯いて拗ねる弟を兄は笑って、俺は笑えなかった。俺も他人なんか要らないと思ってた。人並みに外の人間と恋愛することがあったとしてももっと穏やかで、こんなわけもわからず会えない時間に相手のことを考え続けたり対面した途端に何も言えなくなったりする感情は予想しなかった。
「今は要らなくても、相手が現れたらどうなるかわからない。きっと二郎は今そういう状態なんだよな」
目顔で確かめる兄に頷いて返す。三郎もいつかわかる。今の俺への執着と運命の相手への気持ちの違いが。これを恋愛と呼べるのかは未だにわからないけど、受け入れ難くて苦しくて面倒で、だけど手放したくもない。本能ってのは恐ろしいものだ。兄弟たちにも運命が訪れるならもっと優しくて、人間としても尊敬できるいい人だといいのに。
それを思うのは兄も一緒だった。
「お前も俺たちもまだ混乱していて何かを決める時期じゃない。左馬刻と次に会うのは一ヶ月も先だ。その時は絶対にお前を一人にしない」
「うん」
「悪いが、俺も三郎と同じく左馬刻とのことを応援はできない。運命なんて言うから世界にたった一人だけの相手のように感じるかもしれないが、もっとじっくり過ごせば他にももっと相性のいい相手だっているかもしれない」
「うん」
素直に頷く下では心臓が嫌な音を立てていた。誰よりも信じている兄に反対されることが辛い。自分だってあんな男とは番いたくないはずだったのに、おかしい。俺の中の本能を練り固めたどうしようもないヤツが「他の相手なんかいない、左馬刻がたった一人の運命だ」と喚く。性欲に振り回されるばかりの本能なんて理性よりずっと信頼できないのに、本当の心はそこにあるとでもいうように心臓を叩く。
本当にこんなのはおかしい。大事な兄弟にも反対されてる。相手のことをよく知りもしない。罵倒されたことしかない。相手が自分のことを好きなわけでもない。そんな相手を好きになるわけがない。これはきっと恋じゃない。長く続く気の迷いなんだ。
一人の部屋に戻ると煙草を投げ捨てたっきり片づけていない空き缶が目についた。もちろんとっくの昔に煙は消えている。こんなものはあの男との繋がりですらない。なのに、どうしようもなく切なくなって布団に顔を埋めて泣いてしまった。
やっぱりΩになんか産まれなきゃよかった。
◇
今回のバトルはつつがなく終わった。あとは帰るだけだ。と思っていた時に便所から戻った我らがリーダーが発情したα特有のフェロモンを垂れ流していた時は倒れるかと思った。役人に見つかったらどんな処遇が待っているかわかったもんじゃない。
即刻控え室に押し込んでさっさと帰りたがるのを押し留め、α用の鎮静剤を無理やり飲ませて落ち着くのを待ってから帰った。
なんでも持っておくもんだ。万が一困った時のために過去に肉体関係を結んだ相手の持ち物からくすねたものだった。立場のある人間になると悪質なΩに誘惑されて過ちを犯すのを恐れ、そういうものを持ち歩いたりしている。それでも過ちを犯したからこうして悪質なΩに薬をちょろまかされたわけだが。
兎にも角にも、αの発情は一人では起きない。必ずΩのフェロモンにあてられて始まる。左馬刻を発情させた相手がいるってことだ。
なんとか無事に乗り込んだ愛車の中で真っ先にそれを問い質した。世話を焼いたんだから聞く権利ぐらいある。
左馬刻は随分渋っていたが、車がイケブクロの山田家付近を通過する際に左馬刻が山田家方向を見つめていたとかいう理由で理鶯が「山田一郎か」と尋ねたのに反発する形で「弟の方だ」との回答を得た。
左馬刻と同じく理鶯の発言にギョッとしたのできっぱり否定されれた時は安堵したが、その弟でも良くはなかった。ややこしい。
しかし言われてみれば山田二郎の様子がおかしいことはあったかもしれない。兄の宿敵だからそんなものかと気にも留めなかったが。αである理鶯は前々から気がついていたらしい。山田一郎発言はわかっていてハメたようだ。真面目そうに見えて侮れない。
「イケブクロの少年たちと対面すると大抵Ωの匂いがするからな。銃兎はΩだから分からないかもしれないが、最近はなかなかに分かりやすいフェロモンが漂っていたぞ」
「そんなのもうテロじゃないですか」
「いや、鼻か相性が良くなければ大したことはない。小官は前者だ」
「知ってますとも。で、左馬刻は後者……というか、向こうだって面倒ごとは避けてるんだろうに、こんな短時間でここまで興奮させられてんだ。よっぽど相性が良くて困ってんだろ」
ルームミラーで後部シートに踏ん反り返る男の様子を見ると不機嫌の極み。運転席の背凭れを蹴りつけられた。
「蹴るんじゃねぇよ!足癖の悪ぃ野郎だな」
「おう、やるか?車止めろや」
「二人とも落ち着け。左馬刻はフェロモンの影響でまだ本調子ではないんだろう。小官の作ったリラックス効果のある…」
「いや、もう絶好調だ。その水筒はしまってくれ」
無事車内に平和がもたらされた。
「それにしても、テメェの運命様が山田一郎の弟とはな」
「運命じゃねぇっつってんだろボゲ」
「番ってやらねぇのか」
「するわきゃねーだろ」
言うとは思ったが、山田二郎には多少同情する。こっちがこうならあっちも同様。今回帰宅するにも苦労しただろう。その上、運命の相手はこのヨコハマイチ厄介な男だ。α側はシングルでもそう困らないが、Ωの人生は番うα次第。こんな男でもいないよりマシのはずなのだが、当の本人がこの調子では山田二郎の未来は暗い。
「心配してやがるならテメェが面倒見てやれや」
「生憎と俺はαじゃねぇんだよ」
「じゃあ理鶯。テメェでもいいぜ」
無茶苦茶をいう。コレは相当機嫌が悪い。理鶯だってそんな無茶振りされたって困る、という予想は外れた。理鶯はあっさりと首を縦に振った。
「やぶさかではない」
「…………」
「……理鶯でもそんな冗談言うんですね。驚きました」
一度静まり返った車内の空気を何とかすべく半笑いでフォローを入れてみたが、理鶯は更に驚くべきことをいう。
「小官だってαなのでな。あんな健気にフェロモンを持て余しているのを見れば心動くこともある」
本気か?本当にそんなことがあるのか?表情の変化の薄い横顔からは読み取れない。青い目はルームミラー越しに左馬刻を観察している。
「だがまあ、小官でなくともあの少年のフェロモンを受容できるαがいれば遅かれ早かれどうにかなるかもしれないがな」
「変に鼻の利くヤツはいますからね。他人に焚きつけられた発情でも食えりゃなんでもいいαはザラにいますし」
事実として述べると、今度は横目でこちらを観察してくる。ああ、さっきのは冗談だ。間違いない。不義理を働き続けるこの身を咎めているだけだ。
面倒くさいな、と思った頃にしばらく黙っていた左馬刻がまた運転席を蹴る。
「止めろ。降りる」
すでに場所はヨコハマディビジョンだった。子供じゃないんだから自力で帰れるだろう。付き合いきれないので素直に路肩に車を寄せ、停車した。
「俺の荷物は事務所届けとけ」
「その辺のドブに捨ててやらぁ」
こっちは左馬刻の舎弟じゃない。便利に使われる気はない。だが、本気で荷物なんかどうでもいいらしく、それ以上言うこともなくさっさと車から遠ざかっていった。
車内に助手席の理鶯と二人になる。
「……行かないのか」
「行きます」
なんとなく気詰まりで左馬刻を見送っていたが、促されて車を出した。
大体のことは自業自得だ。仕事を円滑に進めるためにΩの武器を使っていることも、どうしても気乗りしなくてフェロモン分泌に差し障る相手と会う前に理鶯を利用しているのも、全部俺の勝手だ。一応の承諾は取っているが理鶯が快く思っていないのは知っている。
だが、嫌なら付き合わなくていいと言っても仕込み目的の逢瀬を断らない以上、理鶯も合意の上のはずだ。体がその気になるまで過ごして、後はコトが終わるまでお預けを食らわせる。他人のタネにまみれて帰ったら風呂場でよく洗い流して後は理鶯の好きにさせる。相性がいいと分かって以来、そういう付き合いをしていた。
ただ、うなじを噛むことだけは許さない。それをやったらもうこの交渉手段は使えない。Ωがα優位の社会で上り詰めるにはこうした小細工が必要不可欠だった。
だから興奮している間は必ず噛まれないための首輪をする。最中は容赦なく首輪ごと歯を立てられ、革製の首輪を一度買い換えている。
「……何か言ってくださいよ」
二人きりになった途端に会話がなくなって、責められるつもりでそう促した。責めてくれていい。やめたくなったらそれも受け入れる覚悟をしている。
理鶯は落ち着かない俺を小さく笑った。
「そう身構えるな。少年のことを考えていた」
「おや、さっきのは本気だったんですか?」
「その質問は嫉妬と受け取っておこう」
全く可愛げがない。どれもこれも日頃の不貞への些細な報復なのかもしれない。
「少年は銃兎のように前向きにΩ性を生きられないだろうと思ってな」
「なかなかストレートな嫌味ですね」
「もちろん良くは思わないが、銃兎のその不屈の精神は認めている」
だから抱き掛けの体を他人に明け渡すんだろうか。先方との待ち合わせが近いからもういいと言えば必ず解放された。行かせないと言って無理に拘束されたことはない。やろうと思えばできるだろうに。
見上げた忍耐力だ。いつもそれに助けられているが、本音を言えば理不尽にも不満を感じている。
「Ωの苦労も番がいればいくらかは一緒に背負ってやれるものだろう?」
「山田二郎の話ですか?私の話してます?」
「どっちもだ」
これは何度目かのプロポーズにカウントしていいんだろうか。多分理鶯とは運命ではない。相性はかなりいいが、左馬刻の様子を見たら、こんな風にはなれないと分かってしまった。だとしても運命に出会わず寿命を迎えるΩやαは多い。大抵は自分の人生ではこの相手がピークと思う相手と結ばれる。稀に後から運命と出会ってしまった人間の話も聞くが、それでも連れ添った相手を選ぶことの方が多い。
だから別に一生番いたくないわけじゃなかった。
「前も言いましたけど、この体が使い物にならなくなるか警察に未練がなくなったらその時は好きにしていいですよ」
プロポーズの返答としては最悪だが最大限に譲歩している。本当は今夜にでも噛まれたいが仕事の都合も捨てられないから待ってくれなんて言えっこない。
それでも理鶯は察して、素直に頷く。
「もしくは、首輪を噛みちぎれたら、だったな」
「勘弁してくださいよ。結構高いんですよ、アレ」
引っ張られると首も絞まるし揺さぶられながらでも首輪を引っ張られすぎないよう革に指を掛けておかねばならないこっちの身にもなって欲しい。
「買い換えなければいい」
「お断りします。……それで行き先はどちらに?」
車は間も無く理鶯の住む森と市街地との分岐に差し掛かる。
「まずは、左馬刻の事務所。それから、……銃兎がいいならば首輪の状態を見させてもらおうか」
どうだったかな。もうそろそろ二本目の首輪も危なかったかもしれない。今日は持ち堪えるだろうか。不安は期待と紙一重だ。
短く了承すると市街地に向けてステアリングを回した。
◇
兄ちゃんはやると言ったらやる男だ。三郎も根性はある。有言実行。テリトリーバトルで中王区にいる間、必ず二人のどちらかは俺の側にいるようになった。一人一部屋割り当てられる宿も三郎が一緒に寝ると言い出してシングルベッドに枕を並べている。大事なバトル前に何をやっているんだと思うが、ヨコハマ相手の士気は上がっているようで善戦していた。
こっちがガードされていることは向こうにも伝わる。通路ですれ違う際にもさり気なく兄弟が並んで歩いて壁際に追いやられる。その徹底ぶりに向こうの眼鏡が笑っていたが、食ってかかるとヨコハマ連中を足止めすることになるので出来なかった。
左馬刻も二度とこっちを見ない。俺も見ないようにする。テリトリーバトルの際に中王区内でトラブルを起こさないためという名目で医者に相談して抑制剤の処方も変えてもらった。世界が若干無味になる代わりに、左馬刻と一瞬すれ違うぐらいならなんともなくなった。
浮き足立った気持ちや興奮が消えてなくなると、寂しさだけが残った。
それから三ヶ月も過ぎた頃だ。しばらくは兄弟、特に弟に止められてヨコハマの知人に会いに行くのもやめていた。でも、喧嘩による怪我でしばらく入院していた先輩が退院したから祝いに来いと言われて久しぶりにヨコハマを訪れた。ヨコハマと言っても広いし用が済んだら直帰するつもりで。
駅で目的の先輩と合流して何人かの仲間と食事にカラオケ。すっかり元気な様子に安心して遅くなる前に解散させてもらう。仲間はまだ遊ぶらしいが、退院したばかりの先輩も帰るというので一緒に店を出た。
外はすでに青空が夕焼けに変わるところで、帰宅を急ぐ人や夜遊びに向かう人で大通りは混雑している。
何もなかったな、とポツリと思って慌てて首を振った。もうテリトリーバトル以前の気持ちに戻ったつもりだったが少しばかり未練が残っていたようだ。何も期待することなんかない。今日は快気祝いのためだけに来た。入院で健康的な生活に慣れた先輩は顔色もいいし、久しぶりにこちらの仲間とも楽しく過ごせた。何も足りないことなんかない。
それでもマナーなく歩き煙草する人の近くを通ればつい顔を見に振り返る。匂いも記憶の中でなんだかわからなくなっているのに。
あの煙草と、それに絡む脳がしびれるような匂い。通り過ぎる喫煙者の煙の匂いや香水。雑踏の中で入り混じるどれも違う。アレはもっと甘くて頭の中をかき乱されるような。
記憶を辿った答え合わせをするように一瞬だけあの甘い匂いが鼻先を掠める。目を見開いて弾かれたように顔を上げ、辺りを見回した。
「おい、二郎どうした」
驚く先輩をほったらかしでさっき匂いのした方向に数歩進み、人混みの向こう側まで見渡した。
「あ」
横断歩道の岸にその姿を見つける。見つけた後のことは考えていなかった。その場で立ち尽くして見ていると左馬刻がこちらを振り向き、目が合う。近づくことはしなかった。声も発さなかった。でも、目も逸らされなかった。
そのうち歩行者信号が青に変わり青信号のメロディが鳴る。対岸から駅に向かう人の群れが川のように流れて左馬刻との間の壁となった。人が通り過ぎて疎らになった頃、横断歩道の袂に左馬刻はもういなかった。信号待ちしていたんだから渡ったんだろうが、その先どこへ行ったかも見失ってしまった。
どうしようもなく気持ちがぶり返してきて拳を握りしめる。
なんにも終わってなかった。気持ちを封じていた瘡蓋は簡単に剥がれてしまう。
今しがたの一瞬ではフェロモンだってロクに浴びていない。左馬刻だとわかる程度でしかない。なのに頭の中がぐちゃぐちゃになる。ずっとフェロモンにあてられているだけだったはずじゃないのか。姿を見ただけでこんなになるのはどういう理屈だ。
追いかけてきた先輩に肩を叩かれるまでその場を動けなかった。
「大丈夫かよ。誰かいたのか?」
首を横に振る。誤魔化しを考えるのも億劫だった。
「すんません。駅行きましょう」
顔を上げると、そんなにしょぼくれた顔をしていたんだろうか。先輩は眉根を寄せて覗き込んでくる。
「……お前ホントに大丈夫か?その…調子悪いんじゃねーのか?」
「大丈夫っすよ」
「そんな風に見えねぇよ。こっち来な」
大丈夫だと言っているのに腕を取られて強引に駅の脇に作られた日当たりの悪い公園に連れて行かれる。何か嫌な空気を感じても相手が先輩だから無理に振り払うことはせず、平気ですと繰り返した。最初はそれに一々否定を返していた先輩も面倒になったのか返事をしなくなった。何かおかしい。
公園の奥までくると、この先にあるのは公園と駅の敷地とを区切るフェンスだけだ。駅の建物やビルの陰になっていつも薄暗いし植物の手入れはマメでなく、公衆便所は落書きだらけ。空気が良くないから入り口近くのベンチはともかく奥までくる人は少ない。
どうも怪しいが退院したばかりの目上相手に暴力は躊躇われる。黙り込んで何も言わないようなら腕を振り払って帰るか。そんな甘いことを考えている間に強く腕を引かれてフェンスに背中を強かに打ち付けられた。病み上がりだと思っていたが腕力は心配するほど衰えていなかったらしい。
抵抗しようとした両手首を掴まれ、金網に押し付けられる。一々容赦がなくて手の甲に金網が食い込んで痛い。
「ってーな……急に何しやがる」
つい敬語が抜けたが咎められなかった。代わりに足の間に丸太のような太ももを押し込まれる。
「二郎さ、お前、Ωだったのか?」
そこにきてαフェロモンに気がついた。道に人が多かったせいか。相手との相性の都合か。嗅ぎとれてもこっちの反応は悪い。それでも首元に鼻先を押し付けられて鼻息がかかる。
「あれー?あんま匂いしなくなってきたな。でもまだ残ってる」
「やめろや」
力一杯手首で押し返そうとした。でもこの体勢は押さえつけられている方が圧倒的に不利だ。手首を下にずり下げて逃げようとすれば金網で皮が酷いことになる。なら下半身を蹴り上げてやろうとすると腰を押し付けてこられた。
「まさかお前がそうとは思わなかったよ。エロいツラしてるとは思ってたけどな」
「俺もアンタがそーゆーシュミだとは思わなかったわ。このゲス野郎」
「雌のクセして相変わらず威勢がいいよな。……なあ、ケツ使ったことあんの?」
片手でも離せば反撃されると分かっていて腰ばかり擦りつけてくる。下腹を勃起で擦られるのは最低の気分だ。
「あんま調子くれてんじゃねぇぞ。α様だろうと喧嘩の腕はこっちのが上だろうがッ」
「ならやってみろよ。お前の薄い体じゃこうして捕まった時点で負けなんだよ。しかもΩなんだろ?なあ?俺はお前のこと結構好みでさぁ」
がむしゃらに腕や足を動かしても体重をかけられると解くことができない。踵でひたすらに脛を蹴る。首元に伏せている頭の耳を食いちぎってやるつもりで首をひねるが上手くいかない。
湿った吐息がかかる首筋で、卑下た笑い声に続いて最悪のセリフが囁かれた。
「うなじってさ、どこからだと思う?真後ろから噛まねぇとダメか?横から、こうやって噛んだらさぁ」
音を立てて血の気が引いた。
「やだ、やめろ!ふざっけんなよ?!」
最早興奮なんてしてないんだから噛まれたって番化は成立しないかもしれない。それでも好きでもない相手に噛まれるのは嫌だった。めちゃくちゃに頭を振っても首元に頭突きを食らわすのは難しい。
「嫌だ、マジかよ、冗談じゃ済まねーんだぞ?!」
ヤバい。マズい。こんなの考えてなかった。自分がΩだとしても喧嘩の腕には自信があったし、先輩だって悪い人じゃなかったはずだ。警戒なんてする必要ないと思ってた。油断した。なんでコイツはこんな興奮してるんだ。俺はもう嫌悪感しかないのに。俺がΩでコイツがαだからか。あんなに濃いフェロモンをやりとりしても左馬刻は指一本足りとも触れてくれなかったのに。なんで左馬刻じゃないヤツがこうなる。イヤだ。コイツの匂いなんか嗅ぎたくない。イヤだ。もっと良いものを知っているのに。
頭が真っ白になった。全身が緊張して、思わずきつく目を瞑る。
俺の喚きをかき消すように電車がフェンスの向こう側でホームから発車し、車輪の音が辺りを満たした。
「おいテメェ、人の雌横から食おうとしてんじゃねぇよ」
電車が通り過ぎた後の空白に声がした。涙の滲んだ目を開き、通り側に向ける。首に顔を押し付けていた男も首筋を離れて後ろを振り向く。
逆光の中に人が立っている。陰になって顔は見えない。ただ、遠くの駅前の明かりが白い頭とシャツの輪郭を照らしていた。
「左馬刻……」
俺が呟いたことでその正体を知ったクズ野郎が慌てふためいて体の上から飛び退いた。背中を向け続けていたらサンドバッグになっていたかもしれないが、逃げようとしたところで結果はあまり変わらなかった。
目の前では闇に紛れての暴行が続くが俺の緊張の糸はもう限界で、その場にしゃがみ込んで次々に溢れてくる涙を袖に吸わせながら次に出発した長い電車が通過するのを待った。車輪の音が遠のくと砂利を踏んで歩み寄る音が聞こえる。ドブみたいな空気の淀んだ公園で、それが近づくと甘い匂いがする。
「おい、噛まれてねぇだろうな」
声は上からでなく近くからした。左馬刻もしゃがんでいる。
「おいこら、返事しろや」
「……うるせぇ」
泣き顔を見せたくなくて腕に伏せたままでいるとキャップごと頭を掴んで無理矢理顔を上げさせられる。顔を上げると一段と強く匂いを吸い込んでしまう。
甘い香りに反して目の前には無駄に整った悪人ヅラがある。
「みっともねぇツラだな」
「テメェのゲスなツラよりはマシだろ」
「助けられておいて可愛げがねぇな」
強い言葉を吐いていないと腹の底には弱音と甘えた言葉しか残っていない。じんわり熱くなる体を感じながら精一杯の虚勢を張り続けた。
拭った端から涙がこぼれてくると頭を離した手が頬を包んで親指で涙跡を拭う。そうされるとまた涙腺が弱ってきて、これ以上泣くまいと目に力を入れた。表面張力で眼球の上に留まった水分が遠くの光を滲ませる。
左馬刻は濡れた手で頬から顎を伝い降り、首筋を辿って中指と薬指の腹でうなじを撫でる。嫌悪じゃない鳥肌が立った。そこが自分のものだとでも言うみたいに何度も撫でる。でも欲しいのはそれじゃなくて、柔らかい指でなく、硬い歯の食い込む感触。
久しぶりに嗅ぐフェロモンはやたらと脳に効いた。俺がグズグズになってるってことはΩフェロモンも過剰なほど分泌されているはずだ。その証拠に顔を覗き込む左馬刻の目も最初の小馬鹿にしたような色が別のものに変わっている。今にも頭から食らいつきそうにギラギラして、全て差し出したくなってしまう。
だけどやっぱりこの男はダメだ。口を開けばろくなことを言わない。
「安心しろや。俺は子供作ることにゃ興味がねぇし、テメェにしか勃起しない人生なんざまっぴらだ」
そんな噛みたそうな顔をしてよく言う。
「……じゃあなんで助けたんだよ」
「バカか。テメェは俺の雌だっつったろうが。他の雄に横取りされてたまるかよ」
自己中心的すぎる言い草に呆れかえって二の句も継げない。番にする気もないのに割り込んで、フェロモンを撒き散らして、噛む気もないうなじを撫で続けている。
番う気がないならまずその手を離せ。言ってることとやってることを一致させろ。誰も許可してないのに所有物みたいに扱いやがって。
言い返す言葉を選び切れずに欲の滲む赤い眼を見ていたらその顔がゆっくりと近づいてくる。断りもなく、あと少しで唇が触れそうな距離。
ダメだ。うなじに噛み傷なんか作らなくたって油断した瞬間に囚われてしまう。
こんな男、好きになったら終わりだ。
逃げなきゃ。今ここで終わってしまう。
そう思いながら近づく噎せ返るような甘い匂いに唆されて目を閉じた。
おわり。