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こちらは独自設定モリモリのオメガバース時々スケベ二次創作です。
様々なデリケート要素が盛り込まれており大変読む人を選ぶ内容となっております。
参考:オメガバースハウスルールまとめ
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気持ちのいいことは大抵我慢すればするほど果たされた時の気持ちよさが鮮やかで忘れられなくなる。
これは罰ゲームのようなキスだ。相手は性格は最悪だし敵だし俺のことを好きなわけでもない。好きになってくれないのに独占するようなことを言う。最悪だ。
なのに口の中を執拗に舐め回す舌が気持ちよくて永遠にそうしていたいような。頭がぼんやりする。
こんな場所、いつ誰が来るかもわからない。元よりすぐそばには息があるのかないのか分からない知り合いが転がっている。多分意識は残ってないだろうが。
ここは駅の横の公園だ。こんな暗い奥まで来るのは後ろめたいことのある人間くらいだけど、後ろめたいことをしようとしている人間が珍しくないことはよく分かってる。俺たちだって触れ合っちゃいけない相手とこんなことして、誰かに見られたら困るんだ。
困るのに、舌先で上顎を擽られると鼻から息が漏れる。頭の角度を変えて濡れた唇が擦れるのもいい。つい自分からも舌を伸ばすと先の方を甘く噛まれて硬い歯の質感にさえ慄いた。
柔らかい頰の内側や張りのある歯肉や硬質な歯。一つ一つを舌で触ってこの男の形を確かめていく。ずっと触りたかった。認めてしまうと尚更に欲が出て慣れた様子で気持ちいいことばかりする男の動きについていこうと、拙いながらに舌を差し出した。
電車が背後で発車する。車輪の音が他の音をかき消すと俺たちの姿まで隠されるような錯覚に陥って、より一層のめり込んだ。
「はいSTOP,STOP,STOP!離れなさい」
通り過ぎていく電車の音の余韻に被ってよく通る声が割り込んだ。それと同時に左馬刻の体ごと口が離れ、離されまいとした指が首に引っかかって爪を立てられた。発情時うなじは性感帯だ。噛まれてもあまり痛まないようになる。引っかかれるぐらいじゃ気持ち良さしかなくておかしな声が出た。
「ンあっ」
自分で手をやるとぬるりとして指に血がついた。こんな傷になっても痛みを感じない。
興奮が冷めなくて荒い呼吸を繰り返しながら、正面を見上げた。
「何すんだテメェ?!離せやァ!ブッ殺すぞオイッ!!」
手の届かない距離で背後からがっちり羽交い締めされた左馬刻が暴れている。一八〇ある俺よりもガタイのいい男がどうなってんだ。熱い体をなんとか動かしてしゃがみ姿勢で身構えると、暴れる左馬刻の陰から先程の声の主、入間銃兎が現れた。スーツの膝を折ってしゃがみ、ハンカチを差し出して首に当てるよう言われる。
「安心しなさい。傷にはなっているようですが、それしきじゃ番にはならないですから」
助けられたのか。まだ状況がのみこみきれず、渡されたハンカチを血のついた手で受け取ったきり動けずにいると舌打ちして赤い手袋をした手がハンカチを取り返し、代わりに首の引っ掻き傷に押し当てた。
「ちゃんと自分で押さえとけよ。ここを隠しときゃ垂れ流しのフェロモンもちっとはマシになる。気休め程度だがな」
頷いてハンカチの上から手を当てると銃兎はすぐに立ちがってまだ暴れている左馬刻に向き合った。
「このバカ。こんな屋外で未成年強姦なんかやらかしたら今度こそ呆れ果ててムショ送りにすんぞ」
「うっせぇ!離せや理鶯!銃兎!テメェら人のことなんだと思ってやがる!?」
「発情してガキに盛る畜生に決まってんだろ?冷静に話ができねぇなら鎮静剤打ち込むからな」
スーツのポケットから蓋の透けたケースを取り出す。中身は注射器だ。見覚えがある。俺も以前、中王区内でヒートが始まってどうしようもなくなった際に使われたものだ。後に残るような薬じゃないが暫くは自分で動くこともままならなかった。
物理的に引き離されたことと他人の介入で多少は状況が理解できてきて暴れ続ける左馬刻が厄介であることもわかった。それでも自分だって兄達に迷惑をかけない為と思ってやっと使用を承諾した強い薬と思えば左馬刻が可哀想に思えて口を挟んでしまう。
「ま、待ってくれ」
背の高い大人達、左馬刻の肩越しに見えた毒島メイソン理鶯を含めた三人の視線が集まり一旦言葉を止めた。唾を飲み込んで言葉を選ぶ。
「えっと、その、その人一応俺のこと助けてくれたんだよ。……そこに倒れてるヤツから」
少し離れた地面を指差すと銃兎が「ああ」と足元で伸びている男の顔を覗き込む。
「コイツは?」
「俺の先輩……なんだけど……」
「油断してたら襲われたわけですね。そこを左馬刻が助けた、と」
「そう!だから……」
「助けた代わりに自分が襲ってたら意味ねぇだろ。ミイラ取りがミイラになりやがって」
話していたのは俺なのに左馬刻に向けて吐き捨てた。
「見たところ息はあるようだが、左馬刻を暴行の現行犯でしょっ引いてもどうせ豚箱から出せってうっせぇからな」
「なんなら息の根止めてやっか?」
「テメェはちったぁ自分の立場を理解しやがれ。……ですが、テリトリーバトル代表といっても刑務所からの出場が認められるかは不安ですからね。二郎くんが正当防衛でやったことにしますか?」
親切そうな、胡散臭い微笑みがこちらに向いた。
「…………そうしたら俺がやり過ぎで補導されるんじゃねぇのか」
「可能性はあります」
左馬刻のフォローはするが、俺が加害者となったら口利きする気はないようだ。
「お断りだ!」
「なら仕方ありませんね。そのボンクラの強姦未遂も左馬刻の暴行容疑も見なかったということで」
俺としても先輩を警察に突き出すとなると被害者のΩとして名乗り出なければならない。素直に頷いた。
左馬刻を捕まえたままの理鶯が公園の出口付近を振り返る。
「銃兎、人が集まり出した」
「あまり目立ちたくないので車に移動しましょう。君も、その状態で一人で帰れます?」
赤い指先で発情状態の体を示されて唇を噛む。たった今左馬刻に煽られたばかりだ。抑制剤を飲んでも落ち着くまでしばらくはここを動けない。
「一緒に連れてけ」
俺の代わりに答えたのは左馬刻だった。暴れるのをやめて理鶯の拘束から解放されている。
「イケブクロまで送るつもりか?」
「ふざけんな。あんなドブ臭ぇところ誰が行くかよ」
「じゃあ家にでも連れ込んで落ち着くまで匿うか?」
イエスなのかノーなのか。返事の代わりに鼻を鳴らした。
それ以上左馬刻に意見を求めるのをやめた銃兎は今度はこっちに振る。
「君はどうします?自分で迎えでも呼びますか?」
一番現実的な提案だった。左馬刻は犬猿の仲である兄ちゃんの顔でも思い浮かべたんだろう。機嫌を損ねて発情とは別のギラついた目で睨んでくる。
兄ちゃんに連絡すればすぐ迎えにきてくれる。だけどヨコハマで予定外のヒートを起こしたことを左馬刻の存在抜きに説明するのは難しかった。だからって正直に言えば今度こそ徹底して左馬刻との接触を禁じられるに違いない。
いやだ。やっと触れられたのに。
また左馬刻のことばかり考えて一人でヒートをやり過ごし、平常時でも今日のことを考えながら虚しい日々を送るのかと思うと堪らなかった。一度本物に触ってしまったから余計に辛い。また兄弟に反対されるのが辛い。
そう思ったら首を横に振っていた。
「一緒に連れてってくれ」
どこに行くのかもわからないのにそう言った。
公園前には騒ぎを気にした人が足を止めては立ち去り、また別の人が足を止める。まだ群がると言うほど人は留まっていないが渦中にいるのが有名人と分かればあっという間だ。
決断を急いだ銃兎は面倒くさそうに承諾した。
「いいでしょう。車を回しますから乗りなさい」
銃兎の車は乗り心地の良いセダンだったが、頭に上着を被せられた犯罪者スタイルで気分は最悪だった。
最初は理鶯を挟んで左馬刻と三人後部シートに押し込まれたが、さすがに窮屈で抗議に抗議を重ね助手席を勝ち取った。
「後ろはスモークシート貼ってるんですけどね。イケブクロ代表の君を連れているのはあまり見られたくないもので」
「なら俺後ろで……」
「左馬刻を助手席に座らせるの嫌なんですよ。かといって二人で後ろに乗せておっぱじめられても困りますし」
「理鶯とはいえ他のαと一緒に座るのは許さねぇぞ!」
というわけだ。黙って流れに身を委ねている理鶯はヒートを起こしている俺が狭い車内にいても顔色一つ変えないので左馬刻の心配こそ杞憂に思えたが。
車は駅を離れ、幹線道路を避けて人通りの少ない道から住宅地方面に向かった。どこに向かっているのか尋ねると「うちです」と即答される。
「言っておきますけど物を取りに行くだけで部屋に上げる気はありませんから。連れて行くと言い出した左馬刻に面倒見てもらってくださいね。こっちも親切にしてられるほど余裕がないんで」
ちらりと横目で運転手を観察して銃兎もフェロモンに当てられていることに気が付いた。αの匂いはしなかったからおそらく俺と同じΩでαフェロモンにやられている。耳の端が赤く、うっすら汗ばんでいた。
一般的に番のフェロモンは互いにしか作用しないものに変質するから俺たちが番だったならばヒートを起こしていても問題なかったんだろうが、左馬刻も俺も独身者だ。そのことに気が付いてルームミラーで理鶯の様子を窺う。こちらはよくわからなかった。ずっと黙り込んでいるのが我慢している証拠と判断するには付き合いが浅すぎる。
間もなくマンションの前に車が停まり、言葉通り銃兎一人が降りた。マンションに入って二分ほどで小さな箱を持って戻る。
再び運転席に乗り込んだ銃兎の手の物を見た理鶯が久しぶりに口を開く。
「それは……いいのか?」
中身が何か承知しているようだった。
銃兎は高級そうなパッケージを開封しながら頷く。中身は黒い革製の首輪だった。内側はフェルトか何かで覆われ、バックルには鍵穴がついている。
「非常事態ですからね。後で手数料乗せて左馬刻に請求して新しいの買い直しますよ」
皮手袋をしたまま説明書も見ずに特殊な留め具を外す。「手を出してください」と言われて言われたとおりにすると、手のひらに銀色の薄っぺらな鍵と説明書を乗せられ、それを覗くべく俯いた首に首輪が巻き付けられた。
「え」
驚いて顔を上げるとカチリと音を立てて施錠される。
「サイズもちょうどいいですね」
「なんだよこれ?!」
赤い指が首輪の内側に差し込まれ、きつくもなく緩くもないことを確かめる。
自分でも触ってみるが、引っ張っても留め具をやみくもに触ってみても外れる気配がない。多少強めに引くと首が苦しいばかり。柔らかな裏地のお陰で擦れて肌が傷むことはなかった。
ことあるごとに文句を言う左馬刻は後部シートからそんな光景を眺めて黙っている。
「番化防止の為のΩ用の首輪です。AVなんかで見たことありません?」
ある。むしろ、あるから訊いている。理性の箍が緩みやすいΩといえど、普通に生活していたら無理やり番にさせられるなんてことはない。暴行被害はあっても噛まれるかどうかはまた別だし、何よりこんなものを着けていたら自分がΩだと教えるようなものだからだ。オメガ性をひけらかして歩くリスクの方が大きいから、それこそ風俗業界で働くΩだって仕事以外では着けないだろう。
これは番化条件が揃っている場面、つまりヒート中にαと一緒にいて噛まれたくないΩが使うものだ。普通、ヒート時にはαと一緒にいること自体避ける。αだって一生に一人きりの番だ。解消事例もあるらしいが、相方と死別して一定期間を過ぎないと体は独り身に戻ってしまったことを理解しない。βよりも性的に乱れた生き物のように言われるαやΩだが、一度番になってしまうと浮気率も離婚率も低い。
それを思えば番化は重く、αだって慎重になる。αには噛まないという選択肢がある。通常はヒート状態でも噛むのを我慢してセックスだけで興奮を収めることができる、らしい。αである兄ちゃんにそう聞いたことがある。一方のΩは行為中に力づくで噛まれてしまう可能性はあるが、その分βよりも貞淑なタイプが多い。あえてαを避けてβやΩ同士で付き合うこともある。抗いがたい本能に揺さぶられるような出来事さえなければそれで十分平和に暮らせる。それだから世の中それなりに回っているんだ。
我慢の利かなそうな状態のαと渡り合おうなんて状況は早々ない。ないはずの状況にある俺には必要ってことだ。
理解して鍵を握りしめた。観念して説明書と一緒にポケットにしまい込む。
「…………わかったよ。つか、なんでアンタこんなもん持ってんだよ」
「つまらないこと訊きますね」
眼鏡の奥で細められた目がちらりと後部シートを見た気がしたが回答らしい回答はなかった。
「余計な事に興味を持つなら首輪なしで躾のなってない方の犬の餌にしますよ」
「誰が躾のなってない犬だって?」
犬が吠えた。
「おや、自覚があるようで僥倖。……で、どこに送ればいいんだ?なるべく近くにしろよ」
左馬刻の返事の前にサイドブレーキを外してゆっくり車を発進させる。フェロモンの充満した車内に留まり続けるのはつらいから解散は一分でも早い方がいい。ここにいる誰にとっても。
「……不動産屋」
「ちゃんと鍵持ってんだろうな」
「おう」
簡潔なやり取りだけで車は五分ほど走り、すでに今日の営業を終了した不動産屋の前で停まった。三階建ての一階が不動産屋、二階から上はベランダが設えられている外観から住居だとわかる。今はどの階にも灯はなかった。
左馬刻に促されて車を降り、その建物を見上げていると助手席のパワーウィンドウが開いた。俺じゃなく左馬刻に向けて。
「一応言っとくが、別に俺は未成年淫行の手助けするわけじゃねぇからな」
やっぱりそういうことなんだ。大体この後のことを予想はしていたが、言われるとドキッとする。
「うっせぇ。コイツ次第だ」
そして背中を押され建物の脇にある入り口から二階へと連れていかれた。単身向けには広くファミリー向けには手狭な部屋だ。寝床や小型の冷蔵庫はあるが、台所に置かれたグラスは茶色の液体が乾燥した状態で放置されているしテーブルにもうっすら埃が溜まっていて空き家特有の臭いがした。排水溝の奥の排水トラップの水が蒸発して下水のにおいが逆流している。少なくともこの部屋では長いこと排水溝に水が流れていない。
「ここ、アンタんち?」
「……の一つだ」
電気や水道、ガスは通っていて水栓を開けるとちゃんと湯も出た。リビングに面した扉をいくつか空けてトイレや風呂を発見している間に左馬刻は奥の部屋、寝室の照明のスイッチを入れて灰皿片手に戻ってくる。しばらく第三者といたお蔭か、移動時間で盛り上がっていた気分が落ち着いたせいか、お互い多少はマシになっていた。
左馬刻は台所の作業台に灰皿を置くと手持ちの煙草に火を点けながらこっちに視線を寄越す。一応ローテーブルはあるが座る気はないように見えた。
「この部屋は俺と俺が呼んだ人間しか来ねぇ。見ての通り滅多に使わねぇから気まぐれで覗きに来るようなヤツもいねぇ」
だから助けを呼んでも無駄だぜってヤツか。漫画脳がそんな展開を予想したが左馬刻は全く別のことを言った。
「テメェで帰れるようになるまで居たけりゃ居ろ。合鍵は置いておく。施錠したら郵便受けにでも突っ込んどけ」
「は?」
左馬刻が出てきたのと入れ違いに戸口から寝室を覗き込んでいた俺はまさか置いて行かれるなんて考えていなかった。
「左馬刻は……」
「さん」
「左馬刻、さんは……このまま帰ンのか……?」
イケブクロに自宅のある俺と違ってここはヨコハマ。他にもあるらしい自宅も近場なんだろうと思う。冷静に考えれば別の家に帰るなりして距離を置くのが一番だ。さっきは空気に流されてしまっただけでお互い関わり合いにもなりたくない、はずだし。
半端な質問にたっぷり時間をとって煙を吐き、左馬刻は面白そうに口角を釣り上げた。
「ここにいて欲しいってか?」
そう聞こえないようにフラットな声音を意識したつもりなのに、正確に本音を見抜かれて焦って乱暴に寝室のドアを閉めた。
「……ンなこと言ってねぇだろ!出てくならさっさといけや!」
家主に酷い言い草だし現在進行形で助けられている身分でよく言えたセリフだが、いくらか冷静になったら数十分前のキスも何もかも恥ずかしい。大声でも出していないと耐えられない。
やけくそで叫ばれても迷惑する隣人もなく、灰皿に灰を落とした左馬刻は一直線に歩いてくる。あからさまに逃げることはプライドが許さなかった。俺の中のΩの部分が逃げたくなかったのかもしれない。
簡単に壁に追い詰められ、赤い目と見詰め合ったかと思うと綿毛でも飛ばすよな吐息で煙を吹きかけられる。煙と濃いαのフェロモン。左馬刻の匂いが鼻腔から入って脳を満たす。
「言ったろ。テメェ次第だ。ガキと違ってあっちの方は不自由してねぇからな。強姦なんてダセェことする気はねぇが、和姦なら考えてやる」
一言一句まで最低だ。なんでこんなクズ野郎が運命なんだ。こんなヤツに抱かれるぐらいなら苦しくたって一人でなんとかする方がマシだ。今すぐ出て行けよ。
言うべき言葉はわかってる。頭にある。だけどひと呼吸ごとに甘い匂いが頭と体を犯していく。本能はいつだって理性を裏切る。
「選択権くれてやってんだ。俺は優しいだろ?」
片手を壁において屈みこんだ左馬刻の唇が数センチのところでふざけたセリフを吐いた。選べる選択肢なんか一つしかないのを分かっていてわざと選ばせる。自分だってこのままじゃ帰れないだろ。俺が受け取っているのと同等のフェロモンに巻かれているなら、この駆け引きも長く続かないはずだ。先の短い根競べ。
負けたのはもちろん、俺だった。
壁から頭を少し離してやればもう一度あの舌にありつける。
「一人でここ弄ってンのか」
スキニーデニムと一緒に剥ぎ取られた下着は粘液でじっとり湿っていて尻との間に糸を引いた。それを指で絡めとられてそのまま尻の間を撫でられると、それだけで泣きたくなる。これは快感とかじゃなく情けなさでだ。
男性器を挿入しやすいような体になってる。そのことがどれだけショックかなんて、きっと男のΩにしかわからないんじゃないかと思う。思春期でΩだと診断されるまで雄に内臓をかき回されて精子をぶちまけられて妊娠する体だなんて想像もしなかった。診断されてもヒートが軽いうちは適当に上手くやっていけばΩとして抱かれることもなく生きていけると信じていて、こんなにはしたなく穴が濡れてくることも知らなかった。
「男のΩ相手にすんのは初めてだが、こんなに柔らかくなってりゃすぐにでも入っちまうな」
ぬるつく体液を滲ませながらひくつく尻を指の腹が何度か撫で、少し力を入れられた途端に簡単に内部へと潜りこまれた。前に自分でそこに指を入れてみた時よりも楽に入った気がする。中指の第二間接まで埋めて中の具合を確かめると、一度抜いてもう一本指を揃えて再度挿入される。それも痛みはなかった。あっという間に指の根元まで押し込まれて肉壁を押される慣れない感覚に息を詰めた。
「おい、なんとか言えや。声我慢してンなよ」
言いたい事なら山ほどある。全部苦情だ。でも口から手を離した途端に自分で許せないような声が出そうで首を振った。
「そうかよ。ま、好きにしな。こっちも好きにさせてもらうわ」
宣言から間髪入れずに内部を擦りながら指が引かれる。
「ンぅ…………ッ」
その刺激で達しかけたのに相手はこっちの反応を細かく見ていて、追い詰めすぎないところで動きを止めて慎重に中に残した指先を抜いた。指にべっとり絡みついた体液を反り返った俺のものに塗り付けて戯れに扱いていくが、こうなると前の刺激に対しては反応が悪い。後ろに連動して勃起してもちょっとやそっとの手淫じゃ足しにもならなかった。
そんな様子を鼻で笑って左馬刻は自分のベルトを外す。とっくにガチガチだったくせに、こっちのΩ器官を嬲るのを優先して服を緩めることもしていなかった。
自分の服は動くに困らないだけ開いてベッド脇の小物棚から取り出したα用のコンドームを着ける。薄ピンク色のそれを被せて上から下までつるりとした質感になったαの男性器は自分の腹の上で反り返っているものとサイズも違うし色も形状も似ているようでいて全く別物に見えた。Ωだって男なら同じものがついているのに、それだけで別の性別なんだと分かる。
簡単な支度が済むと大きく開かされた足の間にひたりと押し当てられた。きっと痛みはない。ここまで頭もΩ器官もぐずぐずなんだからきっとこの後のことも気持ちいいに違いない。だけど一生経験する予定もなかった雌としてのセックスだ。怖くないわけがない。ギュッと目を閉じた。
だけど、ちょっと押せばすぐ入りそうなところへ先端を押し付けて止められ、しばらく待っても左馬刻は動かない。
何をしているか不安になって目を開くと、
「ちゃんと見てろよ、なッ」
綺麗な造りの顔を欲に歪めて笑う赤い目と目が合って一息に押し込まれる。
「やぁ、あっ」
ひどい。甘い匂いに満たされた鼻も、粘ついた水音や息遣いだけを捉える耳も。好き放題かき混ぜられる内部も。遮断できると思った視覚さえも。全部で左馬刻を感じさせられる。こんなのどうせフェロモンに酔った末の処理なのになんでそんなことするんだ。
せめて理性じゃどうにもできない器官だけモノみたいに扱われたなら気持ちなんかひとつもない排泄行為なんだって思えたのに。どうして誰に抱かれているのか分からせるような真似するんだ。最悪だ。
半分ほど納めたところで少し動き、俺が望んだような反応をするのを確かめてから左馬刻は根元まで挿入した。奥まで届くとそれまでとまた別の感覚が襲って腰が跳ねる。
男性Ωの体は内部で排泄器官と膣に枝分れしている。ヒート時には粘液分泌に伴って排泄側が閉じ、腸の動きが止まって食欲もなくなり、体が勝手に交尾に備える。その間に外から穴をこじ開けて挿入しようとすると開いた膣側に入り、奥へと進めば子宮口に当たる。
男性Ωの子宮はヒートが来るようになるまでは未成熟で小さく、思春期に発達し肥大化するまで大掛かりな検査でもしないと発見できない。男女の区別みたいに産まれてすぐには判別できないのに、ある時急にΩ器官は発達し始めてフェロモン分泌が始まり、産まれた時から備わっている排泄器官を押しやって雄を欲しがるようになる。
深いところを突かれた瞬間、反射的に中がぎゅぅと収縮して雄を締め上げた。背中にはベッドがあるのに支えがなくなって落ちて行くような感覚に囚われ、口を押さえるのも忘れて手を伸ばし薄いシャツの背中にしがみつく。
「や、やば、あ、や、あぁ……んっ、んぁ」
抱きついて肩口で悶えると突き離されることなく抱き寄せられる。密着したことでまた甘い匂いが濃くなった。左馬刻も匂いを追って鼻や口を押し付けてくる。耳を甘噛みし、じゃれつく犬みたいに鼻で生え際を掻き分けて徐々に首に近づいていく。
Ωの体で一番フェロモンが濃いのはうなじだ。汗に混じって分泌される。昔見たエロサイトではフェロモンに特別な味はないと言われていたのに首の横手から舌を伸ばしてそこを舐めようとする。首輪に隠れるギリギリまで舌で触り、焦れて革に歯を立てた。
小刻みに下半身を揺すりながら首輪を噛みちぎりそうに何度も噛んで、そのうち癇癪を起こして唸る。
「あ゛ぁ、クソッ」
断りも合図もなく中に納めていたものを抜かれ、勢いで擦られた刺激に震えていると腰を掴んで体をひっくり返され、うつ伏せでのし掛かりながらまたずっぽり咥え込まされる。角度が変わって新しく与えられた快感に戸惑い、シーツの上を逃げようとした手を掴まれた。有無を言わさずまた奥を突き上げられてまぶたの裏に細かな光が弾け散る。
「あ、あ、ンあぁ、ん、やぁ、ひ、ああ」
守りたかった矜持はひとつ残らず焼き尽くされた。深いところを狙って何度も突かれると涙まじりに喘ぐしかできなくなる。脳が焼き切れそうで最早気持ちいいのかどうかも分からなかった。
下半身をぐちゃぐちゃに繋げながら首輪が引かれる。雑に引っ張られると首が絞まって、中を引き絞りながら手足の指でシーツを掻くと引っ張る代わりに首の骨まで噛み砕きそうな勢いで噛みつかれる。殺されるかと思った。
邪魔な首輪を噛みちぎりたくて何度も角度を変えて歯を立てる、首輪からはみ出した肌に歯を立てようとして思うように噛めず唸る。
途中から噛むことに夢中になって煽るような言葉もなくなった。ひたすら奥へ種を送り込もうと腰を使い、雌を自分のものにしたくて首に歯を立てる。人間的な理性を失った獣みたいだ。
そんな左馬刻に噛まれたくて焦れて腰を揺らす俺も、まともな判断力を失って浅ましく雄の子種を欲しがる獣だった。
目を覚ますと白い腕に抱かれていて、いつ脱いだのかお互い素っ裸だった。
動揺も一周するとリアクションが取れない。下手に動いて眠っている男を起こすのを躊躇ったついでに黙っていれば百倍ぐらい綺麗な顔を眺めていると、思ったよりも眠りが浅かったらしい。長いまつげが震えて眉間にしわを寄せ、薄く目が開く。
「…………起きたか」
「う、お、おう」
目を覚ました左馬刻は猫みたいに大きな口で欠伸をするとあっさり身を離してベッドを降りた。離れてしまってから素肌を寄せる感触が惜しくなる。
さっさといってしまうのを追って自分も起き上がろうとしたが、ちょっと動いた途端に腰回りの怠さと散々擦り上げられたところが腫れぼったく痛んで枕に逆戻りした。興奮している間は全く気にならなかったのにヒートが終わったら穴は比喩なしに排泄器官としての役割に戻り、体の主にオーバーワークを抗議してくる。そこらへんはΩの体だから大丈夫ってもんでもないらしい。
内腿も大部分が乾いたようだがまだベタベタするし、実際どれぐらいの時間が経過したのかはわからないが、何時間も体力を使い続けたお陰で腹の虫も騒ぎ出した。いきなり不調のオンパレード。これじゃ余韻浸るどころじゃない。
「なんだよこれ……。あー……クソッ」
ヒートは完全に終わっていた。ちゃんと腹は減るし昨夜のダメージ以外は元どおり、頭も冴えている。部屋には薄っすら甘い匂いが残っていても散々ヤリ尽くした後だからか、心地よく感じるだけだった。
拍子抜けだ。左馬刻と初めて会ってからこれまでのヒートは苦しくて、早く終われと思っても終わってくれない。一人で引きこもって耐えていると時間をかけてゆっくり治まっていく。そういうものだった。目が覚めたら終わっていたなんて簡単なもんじゃない。
セックスも、終わった今となっては何も変わらなかった。発情の苦しみから解放されただけだ。当たり前だけど。昨日までΩとして抱かれることの何を恐れていたのか、半分も思い出せなかった。
代わりに昨夜の左馬刻を思い出して思わず他に誰もいないのに布団を頭から被る。思い出したらまた腹が疼くんじゃないかと心配して、布団の中で自分の下半身を確認したら前がゆるく反応しているだけだった。おかずはともかく平常時の反応としてはこれが正常だ。
左馬刻が寝室から出て行ったあと、室内を歩き回る物音と冷蔵庫の開閉音がした。それから煙草片手に水のペットボトルと灰皿を持って左馬刻が戻ってくる。全裸のままだ。
「水しかねーわ」
「ん」
寝たままでは飲めないから体を起こそうとして、完全に座る前の半端な角度で動きを止めた。状態について口で説明はしなかったけど事情は察したらしい左馬刻がベッドに乗り上がって背中側に座り、胡座をかいた上に座らせられる。腰が痛いのは変わらずだけど体重を預けておけると多少はましだ。
水を飲んだ後もすぐには降ろされなかった。
「ケツ痛ぇのか」
「テメェのせいでな!」
明け透けに訊かれて恥ずかしさと悪びれなさに拳を固めたが、膝裏から足の間に忍び込んだ指がまだほんの少しだけ濡れている場所を触ったことで振るうタイミングを逃した。
「な、何すんだ」
「フチめくれてんのかと思って」
昨夜みたいに指を入れるわけじゃなくて摩擦で穴の外に露出した粘膜を戻してやろうっていう純粋な気遣いらしい。どういうつもりだろうと恥ずかしいし、触られるとそこに力が入って内壁が動いてしまう。それで中に僅かに残っていた液体がひとしずく溢れて左馬刻の指を濡らした。今しがた新しく分泌されたものとは思いたくない。
ぬるりとした感触でそれが分かって、一応は真面目に労ってくれていた指先が悪戯に入り込んでくる。
「や、やめろよ。もうアンタだって終わってんだろ」
「まあな」
慌てて腕を掴むと素直に解放された。ついでに胡座からも降ろされる。脱ぎ散らかした服はベッドの下にあって、それを拾い集めてはベッドの上に放られた。
「少し休んでりゃ動けるようになるだろ」
「うん」
「薬は持ってんのか?」
「抑制剤?」
それならもう必要ない。体はすっかり落ち着いている。
「そっちじゃねーよ。ねぇなら持って来させるから待ってろ」
また寝室を出て電話をかけ始める。途中で戸口から顔を出し、
「ついでになんか欲しいもんあるか?」
水だけ手の中にあったから腹が減ったことを伝えた。三十分程でインターホンが鳴って、ジーパンに足だけ通した左馬刻が応対し、玄関先で二食入った弁当屋の包みと薬局の紙袋を受け取って戻ってきた。
まっすぐ寝室に持ってきたからベッドの上で飲食しないという教育に背く心苦しさを感じながらも弁当を受け取る。まだ尻は痛いし怠いがその状態に慣れてきたのでなるべく楽な姿勢を探して座った。ついでに布団の上に投げてあった自分のシャツだけ手繰り寄せて着る。海水浴でもあるまいし、裸で食事は落ち着かない。
時刻はもう昼に近くて、夕飯も朝食も抜きだった。いそいそ弁当を開いていると白い錠剤を二錠、シートから抜いて手渡される。
「先に飲んどけ」
そういえばさっき薬がどうとか言ってた。持っている抑制剤とは違う薬だ。
「なんの薬だよ」
「避妊薬に決まってんだろ。ほんとにテメェはΩの自覚がねぇんだな」
呆れた顔をされて腹は立ったが、それより手の中の錠剤がなんだか怖いもののようでしばらく見つめてしまった。記憶する限りでは生で挿入はされなかったし必要ないんじゃないかと思うのに、顔を上げると目顔で飲めと唆された。
仕方なく口に放り込んで水を含む。どうせ腹の中には何もない。薬だって飲んですぐにどうにかなるもんじゃない。理屈では分かっているのに、無意識に自分の下腹を撫でていた。
携帯を見たのは昼過ぎ。やっとシャワーを浴びて服も身につけ、外に出られるって時だ。帰る話になって連絡先を寄越せと言われて。
見ると兄弟からの着信履歴やメッセージがびっしり並んでいた。元々外で遊んで帰りが遅くなったり泊りになることもあったから、以前ならここまでじゃなかったはずだ。今回はヨコハマに行くと言ってあったのも悪かった。慌てて兄に電話を掛けようとすると、横から「ダチとオールしたっつっとけ」と雑に入れ知恵される。言われなくたって本当のことなんか言えるわけがない。
電話越しに説教されて、やっと通話を切れた。帰宅したら今度は弟とダブルチームで詰められる未来が見える。責められて当然だ。不思議と後悔はないけど、兄ちゃんに顔向けできないことをしたとは思ってる。
「兄ちゃんに嘘ついちまった……」
「そりゃめでてぇな」
「やめろ」
それもこれも半分はこうなることを回避しなかった左馬刻のせいだ。もう半分は同じ理由で俺のせいだから黙っておくけど。
発情状態で冷静な判断ができなかったからといって兄ちゃんを裏切るだなんてとんでもないことをしてしまった。それもこんなクズ野郎のために。
「で、来月からどうすんだ?ヤれば気持ちいい思いしてる間にサクッと片付くのが分かっちまっただろ」
クズ野郎は連絡先を交換した携帯を手の中で弄びながら意地悪く言う。舎弟に連絡して車を出してくれるというから素直に待っているところだった。
「次のヒートも抱かせて欲しいならそっちから頼めや」
兄ちゃんに嘘をつき続けるのは辛いことだけど、その案が吝かじゃないのはお互い様だ。相手の人格はともかく、思ったより悪くなかった。左馬刻だって起きてからも機嫌は悪くなさそうだったし同じ気持ちだろう、と期待している。
でも主導権は握っておきたい。お願いする側に回ったら負けだ。昨夜これでもかと言うほど情けないところを見せてしまった後で格好はつかないが、都合の悪いことは頭の隅に追いやって強気で返す。
「ッたく、クソ兄貴に似て可愛げがねぇガキだな」
煙草を美味そうに咥え、天井に向かって吐き出し白い喉を晒す。
「……まあいい。ヒートが始まったら連絡入れろや。罷り間違えても襲ったりしねぇヤツを迎えに手配してやる」
そんな言葉でこれからの関係を誘われた。また抱くつもりがあるってことだ。
辛いヒートを一人で抱え込まなくていいと思うとホッとした。また会えることを喜んだわけじゃない。
利害の一致だ。テリトリーバトルで会うたびにお互いのフェロモンに煽られてしまうから。好意は関係なく生理現象の処理をするだけ。
Ωは番でなくてもヒート期間を寄り添える相手がいると楽になる。それに都合が良かったというそれだけ。
規則正しく発情する体を処理する定例会にはいくつか約束事がある。
第一にお互いの関係を周囲に隠すこと。
その為に俺は黒いパーカーを新調した。アウターに黒はほとんど着ないから印象が変わるだろうと思って。家を出てから適当な場所でこれに着替えて深くフードを被って顔を隠し、左馬刻の舎弟の番持ちのΩが運転する車に乗る。トレードマークのキャップも着替えた服と一緒に鞄にしまい込む。
合流はヨコハマのホテルが多い。いつも場所が変わる。同じ場所に通うと足がつきやすいからと毎回別の部屋を手配されるから車が停まるまではどこに連れて行かれるのかは分からない。
二つ目は、部屋代や金のかかることは全て左馬刻が持つこと。元からこちらの経済力に期待していないおかげで勝手にそうなっている。
そして三つ目は、絶対に番にならないこと。ことを始める前に俺は首輪を着ける。薬は必ず飲む。そのことは明確に約束させられ、どこで調達しているのかもわからない避妊薬をシートごと預けられた。約束なんかなくてもこっちだって一生を捧げる気はない。
定期的に肌を重ねたってそこに恋や愛があるわけじゃないんだから。
定例会は大抵こっちが先に部屋に到着する。Ω用の首輪はどうも抵抗があって、いつもギリギリまでポケットに入れてあった。
左馬刻は自分が噛むのを我慢して行為を終える自信は一切ないらしく首輪は必須だった。こっちも折角兄弟たちに嘘をついてまで出向いて何もせず即解散も困るから、逢瀬用のパーカーのポケットに入れっぱなしだ。
顔を合わせて、手の届く間合いに入る直前にはめる。カチリという小さな金属音がセックスを始める合図だ。
Ωは発情ピークの約一日間は腹が減らないようになっている。胃腸の動きが極端に鈍るから無理に飲食すると気持ちが悪くなるばかりだ。
一人の時はその食欲の区切りも曖昧で、部屋に菓子類を持ち込んで少しずつ食べて凌いでいた。
αと抱き合うようになったらヒートの終わりが分かりやすくなって興奮が収まる頃にはまともに食事ができるところまで回復するようになった。
「そりゃそうだろ。手あたり次第に盛る犬猫と違って人間様は一人ずつしか産めねえからフェロモンで相性のいい相手を選んでんだ。その相手に種付けされたらそれ以上雄を誘惑して体ボロボロにされねぇようにしてんだよ。ンなことも知らねぇのかテメェは。ほんとに迂闊なΩだな」
ずっとΩであること無視して生きたくて、細かな生理現象の知識からも目を背けてきたせいで運動後のメシのついでにαから色々と教えられる羽目になった。
よくいう「番がいた方がΩは生きやすい。ヒートも早く終わる」っていうのは気持ちの問題じゃなく、適切に体の欲求を処理してやることによって早くヒートを切り上げられる仕組みであることが重要らしい。
番なんか欲しくなかったから聞かなくても一緒だと思って聞き流してきた情報だ。ひとつひとつ教わるごとに「中坊以下」「よく今までやってこれたな」等と馬鹿にされるが、言い返すには分が悪すぎた。
ヒート明けの空腹は一度より二度目の方が酷くて、定例会三回目には弁当を持参してこれまた笑われた。
「テメェんちはセックスに弁当持ってくんのか」
さすがに手が出たが拳が綺麗な顔にめり込む前に捕まり、そのままベッドにもつれ込んだ。
頼めば部屋まで食事も薬も手配されるが、それをやっているのが迎えにきてくれるΩの男と知って、あまり余計な遣いっぱしりさせたくなくて持参することにしただけだ。送り迎えで顔を合わせる相手と思えばお姫様みたいにベッドであれこれ要求するヤツみたいに見られたくはない。
「つっても終わってすぐはだるしい帰り掛けに外食も厳しいんだよな」
体が慣れたらケツや腰がキツくて動けないことはなくなった。違和感は残るし腹のだるさはどうにもならないが、腹が立つことがあればすぐに部屋を出られるぐらいにはなったと思う。そういうのは大事だ。
ベッドの端に腰掛けてでかいタッパーに夕飯の残りや簡単に作った惣菜なんかを詰められるだけ詰めた弁当をつつきながら言うと、横からだし巻き卵をつまみ食いした左馬刻が嫌そうな顔をする。
「こんだけヤられてまだその辺ほっつき歩くつもりかよ」
「体力はあるからな」
「フンッ。あんまりフラフラしてると過保護なニーチャンに叱られるぜ」
「テメェがそれ言うんじゃねぇよ」
初回は予想通り、自分の状況を弁えろとぎっちり叱られたがその後はちゃんと予定を伝えて出かけ、少しでも遅くなる時は連絡を入れることで納得してもらっている。左馬刻は弁当持参を馬鹿にするが、一人暮らしのΩの友人宅に泊まるというと多めの弁当を抱えて出た方が説得力がある。
というような説明をすると納得したような、しないような微妙な顔で勝手に里芋をつまんだ。
「それ美味い?」
「ああ」
「兄ちゃんが作った奴な」
しっかり飲み込んだ喉の動きを見てから教えるとグーで殴られた。
「何食わせんだテメェ!」
「アンタが勝手に横取りしてんだろうが!」
「うっせぇ、自分で作ったもんだけ詰めてこいや!」
そしてくだらないルールが追加された。弁当の中身は自分で作った総菜に限る。
最初こそ本当に体だけ持ち寄ってセックスする集まりだったが、俺が弁当を持ち込んでから何度目か。
移動中の車の中で少し遅れると連絡があって、最初に連れていかれて以来の“不動産屋”の上の部屋でアニメの再放送を見ながら待っていると揚げ油の匂いをさせながら左馬刻がやってきた。食欲はないから食える気はしないが美味そうなことはわかる。
「ちょうど仕事で近く通ったから買ってきた」
前に一度食いたいって言った店のから揚げだった。テイクアウトバッグの中を覗くとまだ熱く湯気が立ち上ってくる。食い気より色気の状況じゃない、百パーセント食い気の時に出会いたかったなんて思いながらキッチンスペースに自分のタッパーと並べて置く。食べ盛りなのに揚げたて皮パリ肉じゅわのから揚げより男のちんぽの方をとってしまうΩの性質が憎い。
それでもしっかり体の方を満たしてもらってから電子レンジで温めて食べるから揚げも十分美味かった。持ち込んだ弁当はいつも温めずに食べるが、から揚げのついでに温めて食べると満足度が違う。胃の底から温まると、日々胸の奥にわだかまるセフレ関係がどうとかこうとかっていうモヤモヤが溶けていく。
「なあ、ほんとに全部俺が食っていいのかよ?」
テイクアウトバッグの中身を半分以上食べてから残りと左馬刻の顔を見比べながら尋ねた。空腹状態で運動した後の腹はまだイケるって主張している。そういうのが透けて見えるのか、隣でタッパーのおかずを摘まみながら焼酎を飲んでいた左馬刻が鼻で笑う。
「食いたいならそう言えや。俺は前に食ったことあるからいい」
それならありがたく全部食べるけど。から揚げは何度食べたって美味い。それに、
「ほんとに一個も食わねぇの?」
「うっせぇな。全部食えや」
それって俺のためだけに買ってきたみたいだ。そういうことなのか?訊きたいけど黙っておく。訊かなけりゃ、そういうバカげた妄想を続けていられる。
最後の一つを箸先で摘まんだところで視線を感じて顔を上げた。
「……うめぇか」
「うん」
聞くだけ聞いて目を逸らされる。何考えてるんだろうか。
相変わらず面白くもなさそうな横顔を盗み見ながら食べる最後のから揚げが一番美味かった。
◇
壁の外はまだ喫煙者に寛容だ。中王区に来るたびに思う。ここは喫煙スペースがきっちり指定されていて分煙機完備。喫煙席のない飲食店も多い。女の喫煙者は大変だ。
バトルを終えてから申し込まれていた取材で左馬刻が連れていかれ、理鶯も何コウモリだか何ネズミだかを見つけたといって張り切ってどこかに行ってしまった。しばらくすると余計なストレスを溜めた左馬刻と小動物の死骸を吊るした理鶯が帰ってくる。近い将来のストレスを今のうちに煙草の煙に溶かしておくのだ。
貸切状態の喫煙室で深く息を吐くと、音も静かに新たな客が入室して隣に立った。
「お隣いいっすか」
「どうぞ…………」
律儀な隣人を見上げて白い雲を咥えた口をぽかんと開けてしまった。指に挟んだ煙草から長くなった灰がぽろりと落ちる。
「……これはこれは、山田一郎くんじゃないですか」
イケブクロディビジョンのリーダー。そして左馬刻の宿敵である男だ。個人的に声を掛けられることは滅多にない。それ以前に彼はまだ十九だ。
「ここ、喫煙所なんですけど」
「案外堅いこと言うんすね、入間さん」
「一応これでも警察官でしてね」
とはいえ一郎は煙草を持っていないようだった。くれとも言わないから手持ちの煙草も差し出さない。相手が未成年だからだ。喫わないなら喫煙所から子供を締め出せという法律もない。
山田一郎は分煙機に両肘をついて指を組んで横目でこちらを窺う。
これは何かあったな、と思ったが何があったなんて聞くまでもない。どうせ左馬刻の話だ。
「私に用事です?」
「そうっす」
口火を切ってやると即答された。
「厳密には左馬刻に用事でしょう?」
「まあ……アイツとまともに会話できるわけがないんで」
「私はアレの保護者じゃないんですけど」
「そうっすかね」
食えない笑みでかわされる。十も年下でこれだからこの男は苦手だ。嗅がなくても分かるほどにαらしくて反吐が出る。
コメントを返さなかったらそこでまた会話が途切れた。話をしに来たくせに隣に立ったきり、しばらく黙って横から観察されていて気分が悪い。しばらくして発せられた「不躾ですんません」はそうした行儀の悪さに対してだろう。重ねて「突然で申し訳ないんすけど」と続く。
「入間さん、うちのと左馬刻の事情知ってますよね」
末尾に疑問符がつかない。誤魔化しの通じる相手でもない。未成年淫行を見逃している件について責めたいなら責めるがいい。こういう時のためにも左馬刻たちに状況の確認をとっていないのだ。
頭の中で認める範囲と否定するべき事項を整理するとともに、観念して手のひらを挙げた。
「知ってますよ。知ってますとも。でも以前に一度お宅の弟さんが別の男に噛まれそうになっていたところを助けたっきりです。その話はご存じで?」
切り札はさっさと切った。連れがいつ戻るか分からないから早めに切り上げてこの男の傍を離れてしまいたい。
案の定、全く知らなかったらしい一郎が目を見開く。食いついた。
「それ、いつの話ッスか?」
「もう五ヵ月ぐらい前じゃないですか?」
「別の男って……左馬刻じゃなく」
「弟さんの先輩って聞きましたけど、本人が被害届は出さないと決めたので詳しくは……届を出したら彼の体面にも係わりますからね」
左馬刻も噛みかけたに違いないが黙っておいてもいいだろう。
用心の足りないΩが望まぬ相手に無理やり噛まれる被害は圧倒的に知り合いの犯行が多い。噛めば後々の自分の人生が変わるから通り魔的な犯行は稀だ。被害者と面識があり、被害者Ωへの好意を拗らせて一生を支配したいと考えた知人αが加害者となる場合がほとんどだった。
そうした事情は理解してかこっちの発言を疑う前提での追及はなかった。五ヵ月前といえば何か心当たりもあるらしい。
俺は二人を“不動産屋”の前で車から降ろして以降、二人がどうしたのかを聞いていない。左馬刻の様子も、テリトリーバトルで見かけた山田二郎の様子も変わらなかったからどうでも良かった。下手に関わって左馬刻の地雷を踏み抜く方が面倒くさい。
例の夜の数日後に左馬刻方から首輪代の倍ほどの紙幣を渡されてそれっきりだ。上手に噛めたか、なんて揶揄が浮かんだが完全に藪蛇だから黙っておいた。
「その、助けてもらった現場にアイツもいたんすね」
また断定で話す。だからこちらも作り笑いを向けて返事に代えた。
一郎は手を組んだ上に顔を伏せる。吸気口に向けて黒い髪がそよいでいる。
これは関係が続いているな。あの夜はどうせ抱いたんだろうとは思ったが、その後のことはわからなかった。ヒートを過ぎて物理的に離れてしまえば、普通のαとΩなら気持ちも多少はリセットされる。
でもこの兄の様子から察するに、Ωの弟がヒート周期に合わせて外泊でもしているんだろう。嘘の下手な弟を持つと苦労する。まあ、ヒート中の外泊を誤魔化す上手い嘘なんか誰にも浮かばないだろうが。
ご愁傷様。心の中で唱える。
さて、この一本を喫い終えたら出よう。そう決めて黙って喫煙に勤しんでいたら俯いたままで一郎がぽつりと口を開いた。
「うちのは、気持ちと体は別みたいな器用なタイプじゃないんすよ」
こりゃ相当溜め込んでいる。身内のデリケートな話題で、本人はもちろん、まだ中学生の末弟にも話せないだろう。左馬刻を牽制しろという圧力のつもりで俺に話しているのかもしれないが、どちらかというと誰かに聞いてほしかっただけのように受け取った。
「……そのようですね。でも彼、最近は元気にやってるようですけど?」
今回のバトルも絶好調だった。マッチアップする身としてはやり辛いったらない。嫌味を込めて言うといよいよ内心を隠さず髪を掻きむしって顔を上げる。
「あー、そうっすね。……調子崩すようなら反対もしやすいんすけど、そんな軟弱なヤツじゃないんで」
「私が言うのもなんですけど、左馬刻はあの通りラップの腕と顔以外あまり褒められた男じゃない。それでも許すことを考えてるんですか?」
頭ごなしに反対する様子でもないのを意外に思って尋ねると、左馬刻のことをよく知る男は遠慮のない言い草に笑った。
「ほんとっすよ。俺の知る中でも最悪の部類っす。……けど、懐に入れた人間は大事にすんだよなあ」
悔しそうに呟いた言葉は漂う煙と一緒に機械の吸気口に消えていく弱い音だった。
一度は左馬刻の懐の内側にいたせいで否定しきれないとは難儀なことだ。まだ二十歳にもならない子供がそんなに大人でなくてもいいと思うが、Ωの立場からすれば大事にしている身内から番相手を否定されるのは大問題だ。家族が反対するからといってフリーでいて苦労するのはΩ本人。他に家族のお眼鏡に適うαがいてそれを選べるならいいが、運命連中はそうもいかないんだろう。運命の番に出会った経験がないから推測でしかないが。
一人でヒートを耐えていた時期なら経験がある。思春期のΩ男は男性としてのプライドとの戦いでもあって、雌として発情する体と一人きりで向き合い続けなければならないのは他人に説明できない辛さがある。これはαに言っても一生分かりっこない。
好き勝手やっている左馬刻ではなく同じΩである少年の方に肩入れして、ささやかながら口添えする。
「番になると余計に相手を大事にするって聞きますよ」
「左馬刻でも?」
「左馬刻でも」
多分な。保証はできない。
第三者がこんなところで話したって結論は出ない。深いため息を最後に一郎は不毛な話し合いを打ち切った。代わりに人懐っこく目を細めて、
「入間さんはそういう人いないんすか?」
Ωでしょ、と躾の足りないα男は声を潜めて言う。状況が違えば口説いていると勘違いされてもおかしくない。他意がないのもそれはそれで性質が悪いが。
コウモリもネズミも要らないが理鶯が出かけている時に声をかけてくれてよかった。
だけど大人の返事はひとつだ。
「どうでしょうね」
子供に面倒くさい大人の事情を教えてやる義理はない。
さて、煙草も短くなってきた。厄介なのが戻る前に解散するに限る。
喫煙室を出る直前、思い直して一郎を振り向いた。
「うちのはあまり理性的ではないですけど、その分本能だの情だのに流されやすいと思いますよ。お宅の弟さんと似た者同士な部分もあるのでは?」
「ッスね。俺もそう思います」
短い付き合いでも女性関係が続かない男なのはわかっている。それがもう五ヵ月。テリトリーバトルで抜群に相性のいいフェロモンを浴びて興奮したとしても、わざわざ別々に帰宅した子供を呼び出すなんて手間暇かけずとも適当な女に相手をさせればいい。まだ番でもないからそういうことはいくらでもできる。
しかも相手は天敵の弟だ。
そのことがどれほどのことか。左馬刻のことも弟のこともよく知る一郎の方が運命の重さを理解できるのかもしれない。
◇
テリトリーバトルが終わった後、二日中に本格的なヒートが始まり、そこから三日の間にピークがくる。その波は体調にも左右されるがパートナーと会ってしまえばその瞬間からがピークだ。始まったと思ったらすぐに左馬刻に連絡を入れ、抑制剤でだましだまし過ごす。そうすると近日中で都合のいい日を指定されて家から少し離れた場所まで迎えの車が来る。
迎えの時間に合わせて着替えと食事を詰めたリュックサックを抱えて出かけ、途中で簡単に着替えて車に乗り込むと、やけに時間をかけて待ち合わせ先の部屋に送り届けられる。早く着いても大抵左馬刻は後から到着するから、体が焦れていても黙って車窓から景色を眺めている。
これはαの体を借りて体に溜まった熱を処理しないとだらだら続く発情に苦しむことになるから会うだけの、手間のかかる便所程度の意味しかない。
それなのに行きの車の中ではひっそりはしゃいでしまって落ち着きなく両手の指を組んでは解き、イヤホンで聴く音楽に合わせて膝を指で打ったりする。
兄の好んで聴く音楽ばかり選んで入れていたプレイリストとは別に、あの男が好きだといった曲を紛れ込ませたプレイリストを作った。先月のヒートが治まってから解散するまでの時間に音楽の話をしたから。
体の興奮も、好意も、生物としての繁殖機能によって優良な子孫を残すよう仕組まれているだけなのに。本能は巧妙に情動を操って、まるでこれが恋みたいに錯覚させる。
俺のこれが錯覚なら、左馬刻が時折見せる執着や優しさも錯覚の賜物なんだろう。勘違いしちゃいけない。
俺がΩじゃなければ、運命じゃなければ抱くはずもなかった気持ちだ。きっとホンモノみたいな偽物。
「土曜は暇かよ」
いつもヒートが来た報告へに対し定例会の日時決定のお知らせしか寄越さない男から半端な時期に電話があった。ついこの間の定例会で話したライブのチケットをたまたま入手したという、お誘いだった。
まさか無理して取ってくれたのかとも思ったが、ちょっと気になって調べたら今回のライブの主催はTDD時代に縁のあった人物で、チケットの出どころはその辺のようだった。兄との過去に触れるのは避けて過ごしているせいで忘れていたが、この人は元々人気チームのメンバーだった。当然顔も広い。
数ヵ月前にハマったそのグループはまだ注目され始めたばかりだが、ライブチケットは早々に完売する程の人気がある。今回のような小規模のライブハウスでやるのはこれが最後だろうとも噂されていた。行きたいか行きたくないかと言えばもちろん行きたい。
その上、左馬刻も同行するというから知り合いがチケット争奪戦で全滅していることを入念に確認し、なんとなく後ろめたさを抱えつつも欲に負けて誘いに乗った。
当日はいつもの定例会スタイルで黒いパーカーを選び、フードを目深に被った。ラッパーがヒップホップのライブ会場にいたって何の問題もないが、連れが連れなので俺と分からない方がいい。左馬刻にも目立たない格好をしろと言ったら焼け石に水程度に眼鏡をかけてきた。他の客も見れば左馬刻だと分かっただろう。それでも関わっても百害あって一利なしのやくざ者ということも有名だから誰も寄ってこなかった。
時間ギリギリを狙って一番最後に入場し、面倒ごとを避けて二人で後ろに陣取る。それでも十分楽しめた。帰りも人が動く前に早めに出ることにはなったが気分は良い。
「あのDJさ、TOM&RATSのハッカさんすげー意識してんのな!」
浮かれついでについ友達感覚で隣にいる男にしゃべってしまった。
「ああ、これだろ?」
左馬刻は気軽に応じ、片手を耳に当てて頷きながらもう片手で皿を回す動きを真似る。肘の揺れ方に特徴がある。
「意識っつーかモロにカバーしてたしな」
「え、どれ」
「知らねぇか。四曲目。トムラの“beans”ってアルバムに入ってる」
「それうちにねーわ」
「興味あんなら今度貸してやんよ」
「マジで?」
申し出にも驚いたが、それ以前にまともに返事があって驚いた。いつも文句を言うか怒るか腹の立つことを言うかで、同じものを同じように楽しめた記憶がない。そういう仲でもないし、今日はたまたま、特別だった。
「じゃあさっきの、最後の方にやってた……」
「“拝啓”か“BeerFighter”か」
「それ、多分“BeerFighter”の方。なんで言おうとしてたタイトルわかんの?」
「どっちもハッカ節って感じだから」
「“拝啓”の方はわかんなかった」
「お前トムラの初期の方しか知らねぇんだろ。“beans”以降も名盤揃いだぞ。貸してやるから聴け」
音楽の話をすると軽快に棘のない言葉が返ってくる。友達や兄ちゃんと過ごすような気安さで、楽しくて。会場付近に待機していたいつものΩ男が運転する車の後部シートで話し込み、行き先に口を挟まずにいたら車は来たことのあるホテル前で停まった。
今月のヒートは終わっているし、ちゃんと管理しているとαと一緒に行動していても節操なく発情することはない。だけど腰を抱いた左馬刻の手がパーカーのポケットの中に首輪があるのを確かめて車を降りるよう促したからそのままついて降りた。まだ話を続けたかったし、今日が楽しかったから離れがたくて。
それは理性だろうか。やっぱり本能に騙されてるんだろうか。
兄を挟んだ関係やテリトリーバトルの敵対関係抜きに知り合っていたら。レコード屋とかライブ会場で顔を合わせたりして、友人になれる可能性もあったんだろうか。性別抜きに知り合って、混ざりけのない自分の意志で好きになったりして。
でも元々男が好きってわけじゃないからそういう発想になること自体がフェロモンに毒されてるってことなのかもしれない。抱かれ慣れてこの男を恋愛対象として見ることに違和感がなくなっていた。
肩を抱かれてフラットな体でビルに踏み込む。エレベーターに乗ると更に抱き寄せられて唇が重なった。
今日は大丈夫なはずなのに、そうされると簡単に腹が疼きだす。話したいことがまだいっぱいあったのに。
だけどポケットから出した首輪を、自分の意志ではめた。
カチリと始まりの音がする。
周期外れの発情は緩やかだ。いつもと比べるとずいぶん余裕がある。
部屋に入って改めて舌を絡めあってから今更のように尋ねた。
「今ヒート中じゃないけどすんの?」
やめようと思えばやめられるタイミングだけど、ここまで来てお互いそれはない。何より首にはめた首輪がその気であることを教えている。
もう何回も外そうと弄り倒して外せなかった首輪の金具を指先で撫でながら左馬刻は答える。
「ヒート中じゃなくてもオナニーぐらいすんだろ」
「そっか」
確かにする。月一でセックスしたら残りの二十九日を禁欲で過ごせる歳じゃない。ただ、ヒート中以外は普通に男として男性器だけを慰める。言われて納得したが、やっぱり俺にとっては一人でする自慰とは違った。
今日は下着を下ろしてもそこはまだ十分には濡れていないし、枝分かれした器官の切り替え途中で普段閉じられている膣側が開ききっていない。左馬刻はそれを承知でいつもはさっさと弄り始める後孔を放置し、パーカーをめくりあげて胸にしゃぶりついた。大体いつも早く繋がり合いたくて前戯はおざなりだから頭がしっかりしている間にそういうことをされるのは珍しい。
薄い唇が小さな乳首を挟んで吸い上げ、形の良い鼻先で肌を擦りながら赤い舌で突起の形をなぞる。その光景に興奮して膝が落ち着かない。
腰をもぞもぞやっていると胸元に顔を伏せたまま吐息で笑って手が尻の間に伸びる。指の腹で穴のフチを揉み解すように押して体液が滲むとそれを絡めていつもよりゆっくりと入り込んでくる。そこの感覚も興奮が高まりすぎると鈍るのかいつもより鋭敏で、指が入り込む感触を生々しく感じ取った。内部がふたつの器官に枝分かれする分岐点を指が這う。完全に開ききると排泄側は完全に閉じてしまって触っても襞に紛れて分からなくなる。その辺りを撫でつけるように往復された。それで未完全だった体の切り替えが加速する。
「ずいぶん開いてンじゃねぇか」
受け入れ準備が進み徐々に柔らかくなる肉筒を傷つけないよう丁寧に指で探りながら揶揄されて腕で顔を隠す。ヒート時の方がよっぽどドロドロに雌化して恥ずかしいはずなのに、今日の方が居たたまれない。
囁かれる声だとか、勝手に緩んでいく体を助けるよう動く指だとか、興奮を高めるために他の場所を擽る舌だとか。そういうもので開かれていくのが堪らなくて力を抜かなくちゃいけないのに開ききる前の穴で埋め込まれた指を締め付けた。
甘い匂いがぐっと濃くなる。
自分の方のフェロモンは自分ではわからない。下半身がこうならフェロモンも濃くなってるんだろうが、それがいつからなのかはわからない。もしかしたら車中ですでに溢れていて、知らないうちに左馬刻を誘ってしまったせいでここに連れてこられたのかもしれない。何のしがらみもなく友人になれていたら、なんて考えたりしていたはずなのに。
αフェロモンに包まれるといつも考えがまとまらなくなる。
ヒート中じゃないし途中で引き返せたはずなのに始めてしまったこのセックスは本当にいつもの“処理”なんだろうか。
いつもより弱い発情状態のせいか普段細かく感じることのできない感覚に意識を向けることができた。咥えこまされたモノの形や、後ろから抱え込まれた際に下腹を這い回る手の動き。与えられる感覚全て記憶しておきたくなって理性を塗りつぶそうとする快感に首を振り奥歯を噛みしめる。
一方では冷静な自分がいる。抱かれる感触なんか覚えておいてどうするんだ。一人で過ごす夜にでも思い出そうっていうのか。ちゃんと男として生活できる時間に思い出して、それでどうする。
番にはなれない男だ。そう約束したから毎月欠かさずに迎えが来る。
定期的に抱かれるようになってからは何でもない日にまで左馬刻のことで頭がいっぱいになることがなくなった。肉体的に満たされたから体に振り回されなくなったんだと思っていた。それなのにわざわざ思い出したら、また以前みたいに幻の恋に苦しむことになる。
左馬刻よりずっと大事な兄弟たちにも反対されている。左馬刻自身もセフレ関係以上は必要ないと言う。
俺だって。体さえ満たされたらそれ以上に必要なものなんかない。辛いヒートが解消されたら十分。そのはずだろうが。
今夜も下半身の責めと同時に首輪が噛まれ、首輪からはみ出した肌に歯があたる。首輪が邪魔になって十分には噛めないようになっている。だけど首の後ろがむずむずして、来る予定もないその瞬間を期待してしまう。
番は一生。うなじを噛まれたらセックス以上に取り返しがつかないことになる。本来は婚姻とセットで行われるような行為だ。
だけど、運命のαに惑わされたΩに冷静な判断力は残されていない。噛まれたいもどかしさに焦れて枕に頭を擦り付ける。噛んでもらえない代わりに腰を突き出して腹の中を抉ってもらう。
でも、セックスじゃこの男を手に入れることができない。
一度やったことは二度目からは心理的ハードルが下がるもんだ。ライブから帰宅した後、もしかしてヒート以外の要件で連絡してもいいのかと思って用事を見つけて連絡したら何の咎めもなく返信があった。
音楽以外に何の話なら許されるかわからなくて音楽と、時々メシの話をした。
共通して好きなものを見つけると安心する。フェロモン以外で、まともに左馬刻を好きになってもいい理由みたいで。
事が起こったのはいつもの定例会だった。今日は郊外にあるモーテルだ。
いつもの迎えの車に乗り込むと、運転席にいたのはいつものΩ男じゃなかった。でも左馬刻の舎弟だ。前に一度、いつもの運転手が事務所に寄ると言って車を停めた際に事務所ビルから出てきたのがこの男だった。その時はホテルじゃなくマンションの一室で、部屋の鍵を受け渡してすぐ男は事務所に戻っていった。若く見えるがいつものΩ男同様に余計なことは言わない。
訝しむ顔で見ているとルームミラー越しに目が合って、「いつものヤツは今日、アレなんで」と曖昧に教えられた。
アレってのはヒートだ。今まで周期が被らなかっただけでいつもの運転手だってΩだ。寡黙に仕事をきっちりこなす姿が人間味の薄い男だったが、自分と同じようにヒートを迎えていると思うと親近感がわく。
今日の車は淀みなく走っていつもよりずっと短い時間で到着した。それでいつもの男がどれ程遠回りしていたのかに気が付いたが、その理由を深く考えられる頭じゃない。運転手代理は「左馬刻さんは自分の車で来られます」と言ってΩ男と変わらない愛想のなさで帰って行った。
平屋建てのモーテルに先に一人でチェックインする。携帯に特に連絡がないのを確認してベッドに転がった。
ラブホテルの類は窓が開かないようになっている。少なくとも行ったどこの部屋もそうだった。平屋建てのモーテルでも会計しないと出られないよう窓らしい窓はなく、場所も人の少ない郊外だから静かだった。換気扇だけが外と中を繋いでいる。
馴染の男を待つ高揚感と体の熱っぽさで蕩けた頭がぼんやりする。
遅いな、と感じる頃に外から人の声が聞こえた気がした。そこそこ防音性があるお陰で内容まではわからないが、何人かの男が叫んでいる。入り口、各部屋に一台分ずつ設置されたガレージ側だ。まさかこの部屋のガレージで騒いでいるのかと思う程に音は近い。
いつものように動かない体でも万が一の時にはやらなきゃならない。マイクを握りしめて玄関ドアの近くに待機した。
わざわざこんなところで騒ぎやがる、と思っても入り口は自由には開けられない。フロントに電話して開けてもらう必要がある。定例会では極力余計な人間との接触を避ける約束のため、ドアに何かがぶつかる音がするまで開けなかった。
しばらくして声が止む。玄関扉にぶつかる音がした。内側から扉に張り付くと左馬刻らしい声が「開けろ」と言う。何かおかしいと感じながらもフロントに電話を入れた。いつもは左馬刻が自分で直接電話して開けさせるから、こういうことは初めてだった。
何事かと思って慎重に扉を開いたが見慣れた姿が見えて安堵し、扉を大きく開いた次の瞬間に白いアロハシャツの袖口付近から下が血に塗れているのが目に入った。返り血かと思って赤く線になって下に向かう血流を目で追う。違った。腕を大きく切られて伝った血が今も白い手の先から地面に垂れている。
「どうしたんだよこれ!?」
「うっせぇ、騒ぐな」
明らかに何者かとやり合った後だ。手早く部屋に迎え入れながら外を確認するとガレージのシャッターが降り切っていなくて、その周辺に何人か倒れている。
普通なら車庫入れと同時にシャッターが閉まって車ごと利用者を隔離するはずだ。シャッターの下に何か挟み込まれて降り切らないようされたらしい。
襲撃にしては用意が良かった。左馬刻を追ってきて入庫してすぐにそんなことできるんだろうか。
左馬刻と外を見比べて、残党を警戒してすぐにドアを閉める。オートロックで施錠された。
かなり失血していてふらつく左馬刻を支えて奥へと連れて行く。その間にも床には転々と血が滴り落ちて歩いた経路に模様を作った。
とにかく止血だ。タオルを探して傷口のやや上をきつく縛り上げる。傷口から下の腕はもう真っ赤だった。備え付けのタオルを全て使って血を拭き取る。赤く染まったタオルと拭ってもまだ赤く汚れた腕。大惨事だ。
「そんな焦ってんじゃねぇよ……待ち伏せしてやがったカスどもは全員転がしてやったから、電話、電話寄越せ……外の連中片付けさせる」
「わかったから、迎えの人に連絡入れる。ああ、あと救急車だ。なんか顔色も悪くなってねぇか?!」
多分血圧が下がってる。救急車が先だ。自分の携帯で119にコールした。
「すんません、怪我人で出血多くて……場所?どこだここ、えーと、ホテルエリーゼの……外になんか人倒れてる部屋。あ、違う、部屋の中に怪我人がいんだよ。外のはまた別で、あ、はい、はい、止血だけしました……」
焦りで手際悪く話す肩に無事な方の腕が掛かる。抱き寄せられて甘い匂いがした。思わず振り向くと、肩に置かれた腕は冷たいのに熱っぽい目が間近にある。
こんな状況なのにやたらと濃いフェロモンを撒き散らしていた。それを吸い込めばそれどころじゃないのに体は反応して、怪我を見て逸っていた脈拍と体の興奮の区別がつかなくなる。
「ちょ、なんでこんな時に。そんな場合じゃねーだろ!」
そりゃヒート中だから玄関で会った時から左馬刻だって俺の匂いを感じ取っていただろうし、体調が悪くても一度始まったヒートは止まらない。それにしたって急に、やけに匂いが濃くなった。セックス中みたいだ。
肩から滑り落ちた冷たい手が携帯を持つ俺の手に絡む。もう救急との通話は切れていて、次は左馬刻の舎弟にかけようとしていたのを手首を掴んで阻まれた。自分が電話って言ったのに。動物じみた仕草で首元に鼻先を擦り付けてくる。
「ふざけてる場合かよ、アンタ今ヤバイんだって」
「うっせぇ、黙ってろ」
囁くような小さな声だ。息切れの合間に言葉を吐き出す。
失血で弱っているのは間違いないのに左馬刻のフェロモンはどんどん濃くなる。抱き合っていても嗅いだことのないような噎せ返るような甘い匂いが肺に満ちる。瞬く間に全身を巡り、指先まで痺れるような錯覚があった。なんだか燃え尽きる前のろうそくみたいだ。怖い。
血の気が引くような気がした。それなのに下腹は熱くて、何もしていないのに汗ばんだ。
肩にしなだれかかった左馬刻の口が首筋をなぞる。
「おい、左馬刻さん」
携帯を手放して冷たい手を揺すったが返事はなかった。でも甘えるみたいに頬や鼻を首に擦り付けてくる。出血でぐったりしているとしても様子がおかしかった。
「左馬刻さん!」
近くにいるのに呼びかけても聞こえているか不安で大きな声を出した。その途端に冷たい手が腕を強く握って体側に押さえつけられる。同時にうなじに熱い吐息がかかった。
ああ、今日はまだ首輪をしてない。
顔を見てからでいいと思っていたからポケットの中だ。着けようにも手は塞がっている。
だったら逃げなきゃならない。番にはならないって約束だ。相手が正気じゃないのは見ればわかる。
首にかかる呼気を避けて上半身を屈めたが、そんなの抵抗のうちに入らない。背中に半分覆い被さって上から体重をかけられる。首に柔らかな唇が当たったのに驚いて体ごと押しやろうとした。
まず体にまとわりつく腕を退けようと、拘束されていない方の腕を動かす。その手にぬるりとした感触があって目を向けるとじわじわ滲み出た血が再び手を濡らしていた。
「あ」
反射的に動きを止めた手に手が絡んできて俺の片腕も血だらけになった。怪我のある腕は添えられた程度で大して力は入っていなかったが、怪我のことを思えば迂闊に振り払えない。
「じっとしてろ」
うなじにちゅっちゅっと吸いつきながら命令されて本当に動けなくなった。
本気で逃れようと思えばできる。でも、逃れたくない気持ちと逃れられない理屈が揃ってしまった。
いや、逃げなくちゃダメだ。そういう約束だ。番になったら取り返しがつかない。兄ちゃんが俺の立場ならたとえΩだったとしても毅然として回避するはず。本能からくるまやかしの気持ちに負けるなんて心が弱いからだ。
兄ちゃんみたいになると決めて十七まで生きてきたから、追いつめられると自然と頭に兄ちゃんの背中が浮かぶ。だけど兄ちゃんはαだ。男の腰に足を絡めて泣き縋ったりしない。最低なクズ男のすべてが欲しくて残りの生涯を引き換えにしてでも噛まれたいなんて思わない。前提が違いすぎて想像上の兄に手を伸ばしても掴めない。
絶対的に正しい兄という手本が分からなくなった途端、心許なくて堪らなくなった。噛ませちゃいけないってことだけがお題目のように頭を回る。
だけど怪我人相手に手荒なことはできないし、今なら噛まれても仕方ないじゃないか。最低な考えがフェロモン酔いした頭を過ぎる。
いやダメだ。ダメだろ。正気じゃない、こんなの。初めて抱かれた夜もちゃんと左馬刻の意思がそこにあった。でも今判断するのは俺一人だ。左馬刻は話にならない。二人でいるのに、二人の大切なことなのに一人でどうにかしなきゃいけない。不安で、なんだか寂しい。
「左馬刻さん、左馬刻さん、……なあ、アンタ何しようとしてんのかわかってんの?」
ヒートで元から落ち着かなかった下半身が期待でざわめく。声が震えた。
「……るせぇよ」
ギリギリ会話にはなっているが苦しそうだ。
「しっかりしてくれよ、今おかしくなってんだよ」
「…………」
「アンタ後悔するって」
そう思うなら俺が回避してやるべきだ。なのに口先で止めながら、それも振り切って噛んで欲しい。浅ましく願う。
「左馬刻さん……聞こえてんのかよ」
返事がなくなると不安になった。そのまま死んでしまうんじゃないかって。俺だって喧嘩で殴られることはあるけど、ガキの小競り合いでは本気で殺す気で周到に狙われたりしない。今更ながらにこの男との生きる世界の差を実感する。
言葉が途切れても噛むのを堪えるように、助走のように、舌でいつもは首輪に隠された辺りを撫でられた。ぞくりとする。そこを噛まれたらどんなに気持ちいいかわからない。
しばらく舌や唇で撫で回した後で僅かに離れ、フッと息がこぼれる。
「……左馬刻さん?」
「っせぇな……お前のここ、すっげぇ、いい匂いすんだよ……」
苦しそうなのに甘い声だ。大きく開いた口が髪を巻き込んで首に触れ、硬く鋭い歯が皮膚にあたる。息を飲んだ。
ゆっくり、確実に顎に力が込められる。
「うっ、わ……あ、あぁ……」
食いちぎりそうに強く噛みつかれて歯一本一本が肌を裂いた。傷に反して小さな痛みと強い快感が背筋を走る。それはやがて脳と下腹の奥で弾けた気がした。
首が熱い。噛み傷から溢れた血を、まだ歯を立てている口の中で舌が舐めとる。頭がガンガンする。血の流れが早く、首の辺りでドクドクいった。熱く湿って血も流れている気がするのに痛覚は鈍りきっている。
そのうち荒かった呼吸が静かになって首から口が外れた。あんなに甘く匂ったフェロモンも急激に薄れていく。
肩にずっしり重みが掛かったのを振り落としてしまわないよう気をつけながら顔を向けると、左馬刻は真っ青な顔で目を閉じていた。
まさか本当に死ぬのかよ。番った次の瞬間に未亡人なんて洒落にならない。鼻に届くαフェロモンが弱くなっても頭は痛いし脈はうるさく、焦り通しで番ったことへの感想なんか一つも出てきやしない。今や番かセフレかわからない男の生き死にを差し置いて考えられることなんかない。
救急車の音が近づく中、首の歯形から血を垂れ流しながら怪我のある腕を高く上げさせて幹部付近を握りしめ、祈った。もう何でもいいからこの人を助けてくれって。
◇
廊下をパタパタ駆ける足音が近づいてくる。どこのバカかと思ったらこの病室の前で止まって、開け放っていた戸口で山田一郎が叫んだ。
「二郎!」
ベッドサイドのパイプ椅子から首だけで振り返って教えてやる。
「隣りの三〇八号室です」
確かにここは部屋番号のプレート位置が紛らわしいし、戸口に看板代わりの理鶯が立っているから勘違いもするだろう。こっちは左馬刻が寝ている病室だ。あまり騒いで起こさないでほしい、という願い虚しく一郎の声で左馬刻が目を開いた。
寝起きから機嫌の悪そうな目が一番近くにいたこちらを向く。
「……ここ、どこだ」
「チンピラとやり合って失血多量で搬送された病院だ」
一郎が戸口で呆然と立ち尽くして口を噤む。彼には病院からは知人の付き添いで来院していた弟が倒れたとだけ伝わっている。その知人というのが左馬刻であることぐらいは想像したんだろうが、詳細は告げられていなかったはずだ。一郎は左馬刻の身内ではないから個人情報保護の都合がある。
病院側の配慮、というよりはトラブル回避のための自主的な判断によって左馬刻は個室に入れられていた。本人に確認を取ったって個室を希望しただろう。入り口とベッドの間にはカーテンが引かれていて横たわった左馬刻から一郎の姿は見えない。
お陰で血の気を失い過ぎた怪我人の目覚めは緩やかなものになった。医者にも安静にするよう言われているし。
まだぼんやりしている左馬刻と、状況を把握していない一郎と。知りたいことは同じだろうと思って聞こえるようにこの数時間中の出来事、こちらで把握した情報を話した。個別に話すのは二度手間だ。
「意識ははっきりしてるな?聞きたいことは色々あるだろうが順に話す。まず、チンピラ連中は左馬刻が病院送りにした奴らで全部だ。動機は左馬刻への復讐。心当たりはありすぎてわかんねぇだろうから割愛するが、内一人は前にヨコハマ駅の横でボコった山田二郎を襲った男だ。お前らの関係を睨んで山田二郎のヒート周期を狙ってつけ回し、落ち合うところをゴロツキ共と一緒に待ち伏せてたらしい」
大人しくトラバーチン模様の天井を見つめながら聞いている左馬刻だが、二郎を狙っていた男の話を聞いて「やっぱとどめ刺しときゃよかった」などとぼやいたから心配は必要なさそうだ。
ボンクラ野郎は二郎と共通の知人を使って二郎が出歩かなくなる時期を調べ上げ、特定したヒート時期に普段と違った様子で外出するのを見つけて左馬刻との逢引場所まで何度も尾行していた。二郎を送迎している車はいつも入念に遠回りして追跡者を撒いていたが、今回ついにホテルまでの追尾成功して仲間を呼び寄せ、後からのこのこ現れた左馬刻の襲撃に及んだという。
これだからヒート周期が安定するのも困りものだ。個人差はあるがヒート中は抑制剤で多少抑えたとしても注意散漫になりがちで、恨む相手がαかΩなら俺だって相手のヒート中を狙う。左馬刻がしくじったのも浮ついていたのが一つの要因だろう。
「まあ、あの時しょっぴかなかったのは俺の落ち度だ。だが待ち伏せされたとはいえ深手を負わされたのは純粋にお前の不甲斐なさのせいで……」
「不良警官が囀るんじゃねぇ。余計な事喋ってねぇで続けろ」
「まったく、もうちっと血抜いとくぐらいで丁度よかったんじゃねぇか?……クズどもは今度こそ豚箱送りだ。んで、山田二郎は……お前の傷の応急処置して救急呼んでここまできたが、処置中に倒れて隣の個室で寝てる。医者が言うには噛まれたショックで一時的に発熱してんだろうってさ」
「…………噛まれただと?」
不穏な声を出したのは戸口の一郎だった。その声が発せらる前に左馬刻はベッドを降りて裸足で部屋の出口に向かい、カーテンを乱暴に避けたところで山田一郎と鉢合わせた。とてもじゃないが怪我人と見舞い人には見えない。一瞬で限界まで張り詰めた空気に舌打ちが出た。
どうすんだこれ。パイプ椅子から腰を浮かした時、廊下にいた理鶯が二人の空気を無視して告げる。
「少年が起きた」
先に目を逸らした方が死ぬのかというほどお互いを目で刺し合っていた二人が隣の病室を振り向いた。理鶯の横で足を止めている一郎を押し退け、左馬刻が三〇八号室に大股で踏み込んでいく。それを追っていこうとする一郎を理鶯が片手で止めた。賢明な判断だ。
パステルカラーのカーテンの向こうに影が揺れる。
「あ、左馬刻さん大丈夫……痛っ」
どうやら首の傷でも触られたらしい二郎が短く呻く。
「テメェ、それ誰にやられた」
「は?」
「誰に噛まれたっつってんだよ」
「誰って……」
恫喝された二郎は黙り込んだ。戸口からは見えないが、左馬刻の機嫌が秒刻みで損ねられていくのが目に浮かぶ。αってのは丈夫なもんだ。急に動いてガンガン血圧を上げて、よく生きていられると感心してしまう。
左馬刻が病院に運ばれたという連絡はすぐに俺のところに届いた。最近では左馬刻自身が指名しなくたって揉め事の中心にアイツがいるだけで俺にお鉢が回ってくる。まさか死ぬとまでは思っていなかったが、事情聴取も兼ねて来てみたら付き添いしていたという山田二郎も熱でダウンしていた。首の後ろにべったりとガーゼを貼りつけて。
事件関係者と警察という立場を利用して二郎の状況を尋ねた医者が言うには、通常よりもずいぶん深く噛まれていたらしい。興奮していたって人間だ。恋人を番にするために噛む際も普通は手加減するものだ。医者は「野犬にでも噛まれたのかと思った」などと言った。
うなじを噛まれて番に変わる際、急激にホルモンバランスが変化するので体調を崩しやすい。倒れるほどダメージを受けるΩは多くないだろうが、一時的な発熱や倦怠感はよくあることだった。
番相手の名を告げる前に本人が倒れたから俺だって本当のところは知らないが、山田二郎は番を得た。野犬みたいなαだ。
「なんで黙ってんだ……まさか、あの連中かッ……。殺り損ねたヤツがいたのかよッ」
息が弾んでる。やっぱりまだ元気に動き回って怒鳴り散らす体調じゃない。それでも安静にしろを声をかけないのは、もういっぺん倒れてくれた方が手っ取り早く静かになるからだ。言って聞く奴じゃない。
カーテンに映る影が揺れ、パイプベッドが軋んで早口に攻撃的な言葉を並べたてようとする左馬刻の声が途切れた。
「…………やっぱ憶えてねぇのかよ」
「あ?」
きっとここにいるボンクラ駄犬野郎以外の誰もが分かってる。こちらに視線をよこした理鶯も、地獄みたいな顔した山田一郎も。
二郎を診察した医者はこうも言っていた。
『私もね、大昔にカップルで遭難した人の話で聞いたっきりですよ。こう言ったら馬鹿にしているようで失礼ですが、いるらしいんですよねえ八月の蝉みたいな人が。死にそうになって意識が朦朧としてくると残りの体力を繁殖行動に振っちゃうの。普通に生きてたら死にそうなときに丁度よく近くに相手がいるなんてことないんで都市伝説みたいなもんですよ。まあ、あの子を噛んだのがあの人なら、の話ですけど』
少なくとも俺は左馬刻のにおいがわからなかった。寝ていたからとかヒートが治まっているっていうのとは関係ない。αは番を持ってもΩみたいに外見ではわからないからわざわざ鼻を近づけてまで嗅いでみた。以前なら隣に座ればもう少し感知できたフェロモンがさっぱり嗅ぎ取れなかった。そうなるとこっちにとってはβとの区別もつかない。
でも、番の二人はお互いの匂いなら嗅ぎ取れるもんだ。アイツ、貧血で鼻が死んでんじゃねぇのか?
「まさか……なんで避けなかった?!首輪は?!抵抗できねぇひ弱じゃねぇだろうが!」
「ふざけんじゃねぇぞクズ野郎ッ!!」
一方的に責め立てる左馬刻に向かって二郎自身じゃなく、兄が叫ぶ。室内に乗り込むのは間一髪で理鶯が羽交い絞めにして阻止した。乱闘騒ぎはさすがにマズイ。
「兄ちゃん……」
左馬刻の手でカーテンが開かれるとベッドの上が見通せるようになる。運び込まれた際に着ていたインナーのままベッドに座った二郎の襟足には剥ぎ取られたガーゼのメディカルテープが髪に絡まってぶら下がっていた。首には紫に変色した歯形がくっきり残っている。確かにその辺の夫婦じゃ見ないような派手な痕だった。
番った際の傷は一生ものだ。生傷が塞がってもαの残した所有印は一生残る。あの妄執じみた歯形を、あの子供はこれから一生背負うのだ。
「覗き見たぁいい趣味だな、クソ偽善者よぉ」
「黙れ。やっぱテメェにゃうちの弟は任せらんねぇ」
一郎は噴き上がる憤りを膨張しないよう力づくで圧縮したような厳しい顔で細く息を吐いた。それから腰から自分のヒプノシスマイクを抜いてそのまま俺に差し出す。やり合う気はないってポーズだ。
「仕方ないですね。理鶯」
マイクを受け取ると同時に理鶯が一郎を開放する。一郎はまっすぐベッドに向かって歩く。目は左馬刻を牽制し続けていたがベッドの横まで来ると頼りなく見上げる弟を痛ましく見つめてその手を取ろうとした。それを左馬刻が跳ねのける。
「そいつに触んじゃねぇよ」
「番でいる気のないヤツに割り込む権利はねぇ」
「うるっせぇ、まだこっちは話が終わってねぇんだよダボ」
「自分の責任棚上げで一方的に文句言い続けんのが話し合いか?」
「その気なら先にテメェが相手すっか?」
「俺はもうテメェに用はねぇよ。二郎を連れて帰って金輪際会わせねぇ。そんだけだ」
左馬刻だって丸腰だ。寝てる間に貴重品であるマイクは俺が預かった。だから腕力に頼る。縫合傷のない側の手を一郎の胸倉に伸ばした。
「待って!……待ってくれよ、兄ちゃんも、左馬刻さんも」
ベッドの上で二人の胸元に向かって両手を伸ばした二郎がストップをかける。左馬刻の手は空を切った。
改めて一郎が弟の頭に触れようとして手を伸ばす。だけど弟は二人に向けた手の、左馬刻の方を更に伸ばして薄い色の院内着の裾を掴んだ。掴んだ服のあたりを見つめて兄に背を向け言う。
「兄ちゃんごめん、心配かけて。でももうちょっとだけ、ちょっとだけでいいから出てって待っててくれる?」
その瞬間に左馬刻の顔からいくらか棘が消えたのを見てしまった。俯き加減の二郎には見えなかっただろうが。
「…………………………わかった」
長い沈黙を経て一郎が戸口の外まで戻ってくる。さぞ修羅のような顔をしているかと思いきや、拗ねた子供そのもので自らの手でスライド式の扉を閉めた。
「大人ですね」
「やめてくださいよ……」
頭を撫でてやりたい気がして、撫でる代わりに背中を叩く。一郎より背の高い理鶯は素直に頭を撫でた。
お兄ちゃんは大変だ。
◇
ドアが閉まるまで左馬刻は兄ちゃんの背中を睨みつけていた。
俺も今日家を出るまで隠し通してきたつもりだった左馬刻とのことを知られた動揺で完全に二人きりになるまで変な汗をかいた。
トンと軽い音を残してドアが閉まるとベッドの脇に立つ左馬刻を見上げ、脂汗が浮いた額を見て既視感を覚える。
「おい、アンタまだ調子悪いんじゃん」
「うっせ」
「いいから、ここ座ってくれよ」
入院して数時間で騒いで倒れるやくざってどうなんだ。そうなる前に傷のない腕を引いて隣に座らせた。さすがに体がしんどいらしく、鼻を鳴らして大人しく腰を下ろした。思ったよりも素直だ。それだけ重症なんだろう。
俺は着の身着のままだけど左馬刻は上だけ院内着だった。白いシャツが血まみれだったから仕方ない。俺はパーカーだけ脱いで血のついていないTシャツになっている。手についていたはずの血はきれいに拭われていた。
隣を見ると、顔色は悪いがぼんやりはしていない、いつもの不遜な顔がこっちを見ている。首に残った生々しい歯形を睨んで、身を乗り出して鼻を近づけるとすぐに離れた。舌打ちされる。
「マジで噛まれてやがんのに匂いすんのな。傷持ちのΩなんざβと変わんねぇのに」
「そりゃ、噛んだのアンタだもん」
番関係が成立すると相手以外のαやΩとフェロモンのやりとりができなくなる。番以外はβ同様。ヒートがきてもほとんど匂いがわからなくなるらしい。フェロモンで誰彼かまわず誘惑してしまう動物から、匂い以外の行動が全ての人間に変わる。いい匂いで強烈な興奮を与えてくれるのは番相手だけだ。
今も、左馬刻からは甘い、落ち着くような、心の奥がざわざわするような匂いがする。
俺の返答が気に食わなかったのか左馬刻がイライラした仕草で尻のポケットを探った。でも目的のものは見つからない。持ち物は全部抜かれて別の場所で保管されているんだろう。
「ここ禁煙だぜ」
「チッ、うっせぇな」
禁煙じゃなくたってそんな顔色で喫うもんじゃない。煙草が喫えない代わりに背中からベッドに寝転んで、布団に飛び込んだ衝撃で傷が痛んで顔を顰めた。
匂いはするけど番になっても態度は何も変わらない。
「まったく、怪我見たぐらいで血迷いやがって」
「アンタは怪我したぐらいで血迷っただろうが」
「あ゛?」
確かにあの時は左馬刻は普通じゃなくて、俺も体が自分の物じゃないみたいにふわふわする程フェロモン酔いしていた。
もっと冷静だったら拒めただろうかと考えるけど、責められたって上手く後悔することができない。自己満足で噛ませて相手の将来を奪うような真似、ダサくて最低なのに。
もう死ぬまで番は解消できない。俺はどうせ他のαとどうにかなりたいと思わないから関係ないけど、左馬刻には複数女がいる。ザマァみろだ。怒ってもう二度と会わないと言われたならそれでもいい。兄ちゃんもそうした方が安心するはずだし、離れたって首の傷は消えたりしない。
無意識に首に手をやった。自分じゃ見えないのが惜しい。
「軽蔑するならしろよ。もうなんでもいい。アンタは嫌なんだろうけど、俺は……今回のその場の空気に流されたとかじゃなくてさ、俺はずっと、アンタに噛まれたいって思ってた」
ぽつりぽつり話しながら投げ出された長い足を見ていた。靴も病室に運ばれているはずだけど左馬刻は裸足だった。
「……フンッ。噛まれながらヤるとすげぇイイって言うもんな」
心底馬鹿らしいような口調で揶揄される。
「違ぇよ」
「じゃあ他に何があんだよ」
何って、Ωがαに噛まれたいと望む理由なんか決まってる。
「アンタのこと、好きだから」
初めて口に出した。心の中でも思うたびに錯覚だって否定したし、今も錯覚なのかもしれないと思う。他にどうしようもなく頭を占領する相手が居ないから、本物の恋を知らない。
やや間があって、
「馬鹿だろ」
予想通りのリアクションだった。予想していても悲しくて左馬刻の足からも顔を逸らした。そうすると傷が目立つ首の後ろが左馬刻の側に向く。
「……ガキは青臭くて参るわ。体の相性が良くてセックスが悦けりゃすぐ運命だなんだって勘違いしやがる」
「わかってんだよ、そんなことは。……エッチもこういう気持ちもアンタ相手にしか知らねぇし。勘違いじゃない恋とかよくわかんねーんだよ」
左馬刻と知り合う前に他の誰かを好きだったらよかった。今はもう他の誰も要らないからきっと一生“本物の恋”が分からないままだ。
「今はテリトリーバトルで定期的に会うからどうしても体は反応しちまうしさ」
やっぱ体か。なんて言われるのを予想してすぐに言葉を続ける。
「でも、もし、いつかテリトリーバトルがなくなったりして、ガチで何か月も何年も離れて、他に兄ちゃんぐらい尊敬できる人を見つけたりしてさ、それで好きになることがあったら、やっぱアンタのことは勘違いだったとか思うのかもしんねぇけどな」
「…………」
まあ、そんな奇跡みたいなことがあっても首に噛み傷のあるΩを相手にするαはいない。きっと一生片想いだ。どっちに転んでもダメならその相手は左馬刻がいい。
しばらくコメントを待ってみたが、くだらない仮定を小馬鹿にすることも否定もしてくれないから自分で茶化した。
「……なんつって、そんな未来より左馬刻さんがまた刺されて死ぬ方がよっぽど確率高そうだけどな」
「調子乗んなクソガキ」
「うっせ」
足で左馬刻の足を蹴る。さっきまで寝ていたからお互い素足だ。反撃のために左馬刻はわざわざ起き上がて俺の頭を叩き、その後、急に起き上がったのがキツかった様子で額を押さえた。俺も気が長い方じゃないがこの人はすぐ怒るし手が出るし忙しい。
「…………体がいいんならこれまで通りセフレしときゃ良かっただろうが」
額を押さえた手の下で左馬刻の表情が見えない。でも咎めるって口調じゃなかった。
「体だけじゃねぇし」
「ガキのくせにホテル通いの奴がよく言うわ」
「チクショ、信じてねーな?」
ホテル通いは俺のせいじゃなくて毎回場所を指定しているこの男のせいだ。セフレ関係だったのは本当だけど、それだってもっと恋人らしく過ごす選択肢もあった。部屋で会うなり抱き合って、落ち着いたら腹ごしらえしながら迎えが来るまでの時間に少しだけ取り留めない話をする。そういうのも終わりかと思うと楽しい思い出だった気がしてくる。
最初は間違いなくフェロモンに惹きつけられていただけだったのに、なんでこんな男にハマってしまったんだろう。嫌いなところはいくらでもあるのに好きなところなんか片手で足りてしまう。
短い間の出来事を思い出しては一つ一つ指を折った。
「んーと……音楽詳しくて俺の知らなかったヤツ教えてくれるし、俺の作ったメシ美味いっつって食ってくれて、結構俺の言ったこと覚えててから揚げ買ってきてくれたこととか……あと、うーん……」
本人に言うのは恥ずかしいもんだ。横顔に視線を感じながら俯いて数え上げる。親指から折り始めた指は中指で止まったけど。
一緒にいて楽しいことは会うたび増えた。好意に体以外の理由があるとフェロモンに騙されてるだけじゃない気がして嬉しかった。
「……アンタを好きにな理由なんてこれで十分じゃね?足んないならこれからいっぱい探すし……いだだっ」
理由が足りず折り損ねた残りの二本指を握って反らされた。曲げた指まで開きそうだ。
気に入らないにしても地味な抗議だった。もう頭を叩く体力もないのかと思うとそうでもない。解放された手を振って痛みを散らしていると今度は首にちょっと鼻を寄せ、匂いを嗅いでから塞がっていない傷を人指し指が辿る。
「……これ、痛ぇのか」
労わるようなセリフを吐きながら歯型のひとかけらに爪先を当てて押してくる。ガーゼを剥がされてから髪が当たるたびに小さく痛んでいた部分に新鮮な痛みが走って肩を竦めた。
「ッ!そうやって抉られりゃ決まってんだろ!痛そうって思うならやめろバカ」
手を退けようとしたけど怪我のある方の腕だったから躊躇って、そのままにさせた。爪で抉るのは一瞬で終わった。
目を眇めて傷を観察されるとなんだか恥ずかしい。首なんて元々隠すような場所でもないのに。望んで受けた首の傷は、Ωにとっては特別だった。
「噛まれてるとき、どんな感じすんだ。マジで気持ちいいのかよ」
質問が下衆だ。怒っている様子はない。忌々しく思うんじゃないか心配していたのに横目で盗み見た顔は憎しみってのとは違った。眉間にしわを寄せて難しい表情だけど嘲るでもなく、声も穏やかで。セックスの後のいつもの左馬刻みたいだった。怪我で貧血を起こしたお陰なのか、兄ちゃんが怒鳴る前に勢いで責め立てられた後は意外なほど普通に会話ができている。
「えー、そりゃまあ……ほら、噛まれたくないって思わないようには出来てんじゃん?」
セックスだって痛いばっかりだったら誰もやらないだろうし、生き物としてやらなきゃ困る行動は往々にして気持ちいいようになっている。噛まれた瞬間のことは様々な理由からくる興奮で細かくは覚えていないけど、断片的な記憶から食い込む歯の硬質な感触とか荒い息遣いとか、濃厚なフェロモンと、痛みの代わりに首から体に広がっていった感覚を掬いあげて顔や耳が熱くなった。もちろん首も。
素面では噛まれてどうだったなんて恥ずかしくて言えなくて、言葉を濁せば何が気に入らないのか低く唸る。
「…………あ゛ー、クソッ」
それから肩を引き寄せられた。モーテルでそうされたみたいに、抵抗しないでいると歯型に合わせてぴったり口を当てて傷に歯が触る。体の他の部分に比べればまだ痛覚が鈍っているものの、興奮が治った今同じように噛まれたら痛そうで身を捩る。
「え、待てよ、噛む気かよ?!」
「うっせ、今思い出そうとしてっから黙れ。……いや、噛んだ時喋ったのと同じ喋ってろ」
「なんだそれ!覚えてねーよもう!」
実際に歯が食い込んでくることはなかった。代わりに傷の上も歯型の間も関係なく舐め回されてくすぐったい。左馬刻も発情状態にないからか、衝動的に噛みたいわけではないらしい。
舐めたり弱く吸ったりしながらたっぷり匂いを嗅いで、独り言か判断のつかない小さな声で言う。
「やっぱ甘い、すげぇいい匂いしやがる」
アンタ素面でもそれを言うのかよ。
声を出さずに笑って肩に置かれた手指を引く。
「なあ、今ヒート中じゃないから、そこ噛まれても何にもなんないからさ、どうせならこっちがいいんだけど」
ちろりと舌を見せると僅かに眉尻が下がって、それから素直に唇が重なった。
◇
初夏。足を突っ込んだ浅瀬の岩場で波が跳ねて捲り上げた履物の裾を濡らしていく。もっと上まで捲るべきだった。
「最近テメェんちのガキがクッソ生意気なんだが」
「へぇ、三郎がなんだって?あ、左馬刻さんそっち塞いどいて」
ちゃっかりロールアップパンツで太腿の中程まで足を露出した二郎がバントを警戒する内野手みたいに手を構えながらこっちの足元の岩場を指差した。岩でできた天然の檻の隙間、魚が通りそうな穴に適当な石を拾って詰めてやる。
「あのチビ、この間のバトルでたまたま鉢合わせた時に何つったと思う?」
中王区では相変わらず二郎に張り付いて行動する三男坊が珍しく一人で歩いているところに出くわした。毎月否応なく顔を合わせているが、日に日に一郎に似てくるようで余計に気に食わないガキだ。顔は一郎似だが喋りは兄貴のどちらにも似ていない。出会い頭に真正面から言い放った言葉がこれだ。
『どうも、お疲れ様です。未成年に手を出してのうのうと生きてる恥知らずな碧棺さん。うちの愚かな方の兄が大変お世話になってます』
中学生にしてこれかと思うと苛立ちを通り越してぞっとする。これの兄は高三にもなって海で小魚なんか追いかけまわしてるというのに。
「まあ事実だし」
水の中の魚に夢中で話の後半は耳に入っていない。楽しそうなのは結構だが、一緒になって魚とりに勤しむ気がなく囲い込み漁業の堤防役に徹しているこっちは暇だ。ほとんど突っ立っているだけなので濡れていない手で煙草をつまみながら、海水で濡れた内腿とかを眺めている。
「ったく、お前んとこの教育はどうなってんだ」
「教育なぁ、うちの弟度胸あんだろ。お、よっ……と、クッソ逃げた!」
名前もわからない小さな魚は俊敏に泳ぎ回って二郎の足の間を抜けて広い海へと逃げて行った。この入り江に来た時には五匹は見えていた魚もすでに逃げつくして手の届くところにはいない。
「素手で獲ろうってのが無理だろ、このボゲ」
「何も持って来なかったんだから仕方ねぇじゃん。次んときは銛と網だな」
「またやんのかよ。テメェは夏休みの小学生か」
馬鹿にしてやっても今日の二郎は機嫌よく笑って、砂地を踏み浜に上がる。タオルは持ってきたらしいが車の中だ。肘までびしょ濡れの手を振って雫を落とし、膝上まで濡れている足を見下ろして履物の裾を下ろすかどうか悩んでいる。
今日は二郎のリクエストで海に来た。最初に「海」と言われた時にはまさか水に足を浸けて磯遊びする羽目になるとは思わなかったが。
αとしてΩの番を得たのが二ヶ月ほど前。最初の一ヶ月は過保護な兄弟連中が先回りして予定を入れ、二郎に暇を作らせなかったから番う前とほとんど変わらずヒート期間くらいしか会えず。なんだかんだしていたら夏も近い時期になった。
関係に番という名前がついたって付き合いそのものは大して変わらない。番成立と法的な結婚もまた別で、相手はまだガキだし、何より兄弟が気に食わないから籍を入れる予定は今のところない。この世で一番憎んでいる男と親族なんてまっぴらごめんだ。向こうも籍はもちろん山田家の軒下にさえ入れる気がない。銃兎と理鶯が大人の責任がどうとかうるさいので一度は挨拶に出向いたが門前払いに終わった。当然二度と行くつもりはない。
生活圏は二つのディビジョンを跨いで遠く、二ヶ月間で三度会ったうちの二回はホテル、一回はテリトリーバトルの会場だった。次のテリトリーバトルが近い時期に会うのも立場上よくはないが、やっと都合がついた日を逃したくなくて今に至る。
二郎自身はもう身内だが、残りのイケブクロ代表メンバーは今現在も純粋に敵だ。むしろ次男坊を番にされた恨みでブラコンの殺意は増しに増している。お陰様でステージは盛り上がった。
変わったことといえば、ヒートが始まった連絡を受けてホテルで抱き合い体がひと段落した後、それまではすぐ解散していたところをもう一日時間をとって一緒に過ごすようになった。周期に関係なく暇ができた際には連絡を入れて自分で迎えに行き、適当なホテルに連れ込みもした。結局やっていることは同じだが、前より手元に置きたくて気軽に会えないことに少し焦れている。
会えば二郎はいつも機嫌がいい。他人の匂いが嗅ぎ分けられなくなったこと以外に変わったことはないと言うが、前より素直に笑うせいか、番の欲目か、間抜け面が五割増しで可愛く見える。
変化はどちらかといえば俺の方にあった。
番になった後、本当に他人に反応しなくなったのか興味があって何度か試してみたが、無理じゃないが面白くもなく番のフェロモンが欲しくなって余計に溜め込んでしまうからやめた。月に一度か二度の逢瀬以外は高校生のガキみたいなしょっぱい生活をしている。
元々やくざ者は番を持つのに向いていない。しのぎの道具になる女を体でたらしこんでおくことが難しくなるし、番自身が弱点になる。何かと不便だから他人には黙っておくが、仕事の都合があるから上司には報告しなければならなかった。
退院前に上司が見舞いに来た際に相談を兼ねて番の話を打ち明けた。一番目に笑われて、次に「仕事辞めるか」と尋ねられる。大事な女と番関係を結ぶためにこの世界から足を洗う決断をするやくざは時々いる。だけど俺は首を横に振った。上司も本気で辞めさせる気はない。
今後支障をきたしそうな仕事は別に回す代わりにその他の面倒な仕事を引き受ける約束で話をつけた。番になることを拒んでいた理由の一つがこれだが、想定内の範囲でケリがついたからまだいい。その辺の話を二郎に教えるつもりもない。
余計な心配をされるより邪魔臭い小舅どもをなんとかする方が急務だ。柄でもない健全な生活に追い込んだ張本人が兄弟のガードが堅くて何もできませんじゃ、こちらも納得できない。当面実家住まいを続けるというのならクソどもを出し抜いて会いに来いと言ってある。努力はしているらしいが、現在までの実績は二ヶ月かけて一度きりだ。
番になっても会う際は人目を避けてホテルを利用している。だけどセックスばかりしていると不安がるから、手っ取り早く二郎に何がしたいのか訊いてみた。
俺は酒とセックス抜きの付き合いがさっぱりわからない。ベッドに連れ込む段取りとしての食事や買い物はやれるが、自分がそれを楽しいと思っているわけでもない。以前ライブに行ったような、連れて行くのに手頃なイベントもちょうど見当たらず、何をすればガキが喜ぶか分からなくて考えることを丸投げした。その答えが「海」だ。
『エッチなこと抜きで遊んでくれよ。ケツ触るのもナシ。匂いするくらい近くにいるとすぐ体触ってくるからそういうの全部ナシ。できれば外がいいな。ダチとはカラオケとかゲーセンとか行くけど、あんま人に見られると困るし……あ、海。海行こうぜ。まだシーズン前だし人のいないとこ』
繁殖本能じゃない理性からの好意ってのに拘ってそういうことを言う。体目的みたいな言い草が気に食わなかったから迷わず承知した。間違っちゃいないがなんとなく腹は立つ。
体目的っていうのは最終的に抱けないと分かっていたら何も与えない関係のことだ。最低でも月に一度は抱くことが決まっている相手と思えば否定はできない。最初は完全にセックスしかしなかったし、他に何かしてやる時も嬉しそうにしている方が好みだったからだ。暗い顔をしてるヤツを抱いても面白くない。
だから体には何もしない約束で出かけるっていうのは二郎の言う理性的な好意をふるい分けるに丁度いいのかもしれない。シャツを捲り上げて覗いた腹とか、伸ばした髪が邪魔で括り上げて丸出しになったうなじの噛み痕なんかを眺めながらそう思った。潮風でフェロモンが吹き流されて分からないこの状況で、視覚的に興奮するのは理性的な好意とやらにカウントされるんだろうか。
番の噛み痕ってのはΩものの人妻AVの定番要素だ。匂いのしないΩなんか見て喜ぶのはΩのエロさに夢を見ているβぐらいなもんだと馬鹿にしていたが、これが自分のものと思うとなかなかそそる。
男女の区別と違ってオメガ性は見た目ではわからないもんだ。αとΩは相性次第ではお互いを嗅ぎ分けることもできるが、平均的なパーソナルスペース外にいれば通常はほとんど判別がつかない。その中で見た目で分かってしまうのが噛み痕を持つΩだ。首を見られれば非処女のΩだとわかる。仕組み上は抱かなくたって噛むことはできるが、処女の番ってのは普通はいない。
αを誘惑して高い妊娠能力で健康な子供を産むことを得意とするΩはΩであるというだけで下衆な目で見られる。噛み痕なんかあれば尚更。だから二郎は長めだった髪を更に少し伸ばした。家でもうなじの傷が兄弟の目に入らないよう下ろしているらしいが、今日は俺しかいないからと言って迂闊に首を晒している。
「なあ、こっち蟹いるぜ」
「蟹なんか巣穴ごと埋めとけ。じきに日が暮れるから車戻るぞ」
「えー、貝しか採れなかったじゃん」
「貝も持ってくんな」
岩から剥ぎ取った貝は遠くの波間に投げられた。砂を払って道路脇に作られた簡素な駐車場に戻り、半分乾いた手足を拭って運転席と助手席に乗り込む。砂が少しついてきてシートと足元に散らばった。
二郎はまだ遊び足りないようなことを言っていた割に満足げだ。車のエンジンをかけるとカーステレオに自分のスマフォを接続して、この間貸した音源を突っ込んだプレイリストを流し始める。
「久しぶりに海来たけど楽しいな。夏本番になったら人多くてこの辺来れねぇのもったいないぐらいだ」
ここはヨコハマディビジョンの外れにあって今の時期は車の通りも少なく、立ち止まる人なんかほとんどいない。車も高級車は目立つからと普段乗らない大衆車を借りてきた。
そんな配慮が必要なのは、俺たちが敵対するディビジョンの代表同士だからだ。
「貸切にゃならねぇけどこの辺りはシーズン中でもそこまで混まねぇよ。テメェの兄弟とでも来りゃいい」
兄弟なら多少は有名人に食いつくミーハーどもの目に晒されるとしても堂々と遊べる。クソ兄貴も仕事の都合で乗用車を持っているはずだから弟たちが強請れば海水浴の一度や二度、喜んで連れてくるだろう。
「あー、そりゃ兄ちゃん達とも来るかもしんないけどさ……」
来るのか。だったらいいじゃねぇかと面白くない気持ちで走り出す。海沿いの車道はガラガラだ。街中で事故でもなければイケブクロディビジョンの境界まで一時間弱で着ける。
さっきまで青かった空はもう夕焼けに染まり始めている。二郎が尻すぼみに口を閉じると車内にはTOM&RATSの最新曲だけが響いた。
最初のフックに差し掛かった辺りで解き忘れていた髪から輪ゴムを抜き取りながら二郎がつぶやく。横目で見ると唇を尖らせて窓の外を見ていた。
「……今日が楽しかったから左馬刻さんとまた来たい……って話じゃん」
ガキの拗ね方は分かりやすい。
車は市街地行きのラインが横に伸びた案内標識の下をまっすぐ通過した。ウィンカーにかけていた指を外し、そのまま海岸線を走った。青と赤のグラデーションだった空はあっという間に真っ赤になって、後からくる濃紺に塗りつぶされていく。夜が近い。
「約束、また今度にしろ」
告げると窓枠に寄り掛かって静かにしていた二郎が体を起こして何度か瞬きした。
「約束って?ちゃんと海来たじゃん」
「海じゃねぇ方の約束だよ」
防砂林の途切れ目に平屋建ての建物群とレトロな看板を見つけてウィンカーを出した。電光掲示板に“空室あり”の文字が光っている。
理解の遅いガキはモーテルの敷地に入ってから言葉の意味を分かって慌てだした。今更照れることもないだろうに。
車庫入れしてシャッターがきっちり下がってから運転席を出ると渋々って顔で、それでも遅れることなく車を降りてついてくる。人目はないから肩が当たるほど近くで寄り添って。
「……また今度っつったの忘れんなよ?」
まんざらでもない表情に目を細めて結び癖のついた髪を指で梳いた。髪が揺れると潮の残り香に混じって、噛み痕のあるうなじから優しい甘い匂いがふわりとこぼれた。