郊外に借りた家庭菜園用の畑。そのフェンスの周りを土より血の匂いが似合う男たちが背を向けて取り囲んでいる。
折角の自然豊かな農業体験スペースもこれじゃ台無しだ。そんな違和感だらけの景色のど真ん中ではヨコハマディビジョンを中心とした関東系広域指定暴力団を束ねる老父が手拭いを首に巻いて土を掻き分け、丁寧にサツマイモを掘り出している。俺はその横でしゃがんでいる。
会長に急に呼び出されるのはいつものことだが、黒塗りの高級車が農道に突っ込んで停車した時には言葉もなかった。麦わら帽子に手拭い、土色のつなぎとゴム長靴という隙のない出で立ちで先に芋掘りを始めていた会長に直接「こっちに来い」と言われるまで車も降りなかった。
俺の分の長靴と軍手まで用意され、そろそろ肌寒くなったアロハシャツとジーンズに手と足の先だけ農作業用装備。会長と並んで畝の脇にしゃがんでみたが。
「何ボサッと見てんだい。テメェも掘るんだよ。……こうして、な。無理に引っ張ると土ン中で折れちまうから焦ンじゃねぇぞ」
掘った土の中から丸々とした紅紫の芋が姿を見せる。このレンタル農園の主は勤勉に世話をしているようだ。
「…………なんで芋なんすか」
会長の言うことは絶対だ。貴重なヒプノシスマイクを扱うMCとして多少の勝手は多めに見てもらっている俺でも会長には逆らえない。
仕方なく地上に伸びている蔓を辿って土を掻く。土の中にすぐ太った芋があるわけじゃなく、蔓を切らないよう注意しながら掘り進むのは結構な手間だった。性に合わない。
苦労してやっと芋にたどり着いたかと思うと期待より小さく、細く、これならすぽんと抜けるだろうと思って引っ張ったらぽっきり折れた。
「それみろ。下手くそだねぇ、左馬刻」
「……………」
忌々しい芋を後ろに投げて折れた残りを掘り出し、次の蔓を掘る。会長は手際よく芋を掘り起こしては小脇に用意したコンテナに入れていく。
会長の老人趣味に付き合わされるのは珍しいことじゃない。前回は盆栽だった。当然ながら俺は芋掘りも剪定もやったことがないし興味もないが、「お前みたいな男にこういうことさせんのが贅沢ってもんなのよ」と言って無駄なことをさせたがる。
本気でこれで終わる時もあれば、他に用事があることもあった。今回は、後者だった。
「そういやぁうちの孫が来年受験でな、学習塾に通わせるんだと」
芋を掘りながら他に本題があったことに安堵する。要件があるときは話の終わりで帰れるからだ。なけりゃ気がすむまで土いじりさせられる。
「塾通いの護衛っすか」
「そりゃ別のもんにさせるさ。テメェは目立っていけねぇ。それに、まだ塾が決まってねぇのよ。目星をつけてるとこはあんだが……」
言葉が途切れると、ここだな、と思う。芋から顔を上げる。会長は軍手の片手を上げて人を呼び、学習塾のチラシを一枚持って来させた。
どこにでもありそうなチラシだが、名前には見覚えがある。学歴なんかには縁遠い俺だ。建物の前を通ったって名前なんか見もしない。何で見聞きしたんだったか。
「最近一番人気の塾がここだ。なんでも塾生全員が短期間で成績を伸ばしてんだそうだ」
「全員が?」
広告詐欺じゃないのかと思って問い返したが、会長は重く頷く。裏は取ったんだろう。
「左馬刻、俺はよぉ、どうも百パーセントってもんが嫌ぇでな、特に人間のすることで百パーセントときたら、嘘くさくていけねぇ。しかもここの経営者、最近になって羽振りが良くなったっていうじゃねぇか」
言われてもう一度チラシの名前、“アルファ小柴学習塾”の文字列を見て思い出した。知り合いのクラブで派手に遊んでいた連中だ。社長ならまだしも講師の名刺で高価なボトルを入れていったとかなんとか。男の有名大学進学率が低迷する中、学習塾の需要があるのはおかしなことではないが、ぽっと出の講師風情の給料でやれることじゃない。
やけに儲かっていることを踏まえると、確かに塾生全員の成績が上がる魔法の塾なのかもしれない。魔法。つまり本来ありえないことを実現する特殊な力だ。
白髪の狸爺が老獪に笑う。
「左馬刻、お前こういうキナ臭ぇ話好きだろう?」
「好きじゃねぇっす」
だが断る選択肢はない。手をつけていた芋を今度こそきれいに掘り出して放り、軍手を外して立ち上がった。
「その塾でヒプノシスマイクが使われてたらどうすんすか?」
会長は満足そうに頷く。
「そうさなあ、使えそうならそのまましのぎにすりゃいい。コンサルティングの得意な奴がいたろ。使えなきゃマイクだけ頂いとけ。場合によっちゃあテメェと仲良しのサツに売ってもかまわねぇよ」
了解してチラシだけ受け取り畑の外に向かう。用が済んだならさっさと帰りたい。
畑から砂利道に出ようとしたところで会長が思い出したように声を上げた。
「おい左馬刻。芋持ってけや」
要らねぇ。と思っても会長の言葉は絶対だ。コンテナに積まれたサツマイモの半分ほどをビニール袋に詰めて持たされた。
要らねぇ。
◇
ヨコハマディビジョン某所にあるマンションの一室。
部屋に着くなりソファで待っていた左馬刻はキッチンカウンターを顎でしゃくった。そこにあったのはサイズ不揃いのサツマイモが詰まったビニール袋。ちょっとした焼き芋大会が開催できるだけある。
「え、何。芋で何作れって?大学芋とスイートポテトぐらいしかできねーけど」
「料理じゃねぇよ。全部持ってけ」
「どこにだよ」
「家でもどこでもいい。配りたきゃ配れ」
返事は全て投げやりだ。サツマイモはよく見ると買ったものではなさそうだが。
「要らねぇの?貰ってもいいけどさー、理鶯さんとかにもやりゃいいじゃん」
料理が好きな森の番人を差し置いて隣接するディビジョンまで持ち帰らせるのはなぜかと問えば、質問で返される。
「理鶯に大量の芋なんかやったらどうなると思う」
「はぁ?そら喜んで、料理して、芋の礼に食ってくれ……ってカエル肉とサツマイモの煮物なんかを」
「そういうこった。理鶯にくれてやりたいなら俺の名前は一切伏せて自分で届けろ。わかったな」
何故芋を押し付けられたか納得した。家に持ち帰るにしても多いからカエル覚悟で理鶯に半分ほど渡してくるべきか。
キッチンからビニール袋のストックを探して芋を分けていると、
「それからお前、バイト見つかったか」
「単発じゃやってっけどまだ」
先月終わりに愛車のバイクがお釈迦になった。大事に乗っていたのにヤバそうな連中に追われている奴を拾ってしまってニケツで逃げ回った末のことで、本当なら相手に弁償させたいところだが「今度賭場で勝ったら新車買ってやるから!な!」と言われると諦めるより他なかった。
仕方なくツテのあるバイク屋で分割にしてもらって少しずつ支払っている。足がないと動き回りづらいし、小回りが利くと兄も仕事の手伝いを多く回してくれる。中坊みたいな自転車生活という選択肢はなかった。
そのためのバイト探しだったが、定期的に勤務する仕事はまだ見つからない。バイクを乗り換える際に左馬刻にもそんな話をしたら「バイク代出してやるから俺に借金しとけ」なんて言われ、後で何を要求されるかわからないからと断っている。
闇金の取り立ても請け負ってる男に直で借金する高校生はヤバい。というのは冗談だが、対価なく大金を融通して貰うのは嫌だった。そういうところで頼り始めたら対等でいられなくなる。左馬刻がどう思っいるかは知らないけど、俺はそういう風に線引きしている。
芋を分け終えてから別に一本抜いて水でよく洗い、キッチンペーパーに包んで濡らす。それを電子レンジに入れて加熱を始めるとソファから舌打ちが飛んでくる。そんなに芋が憎いのか。
加熱する間にキッチンカウンターごしに左馬刻を振り返ると、畳まれた何かの紙。チラシをローテーブルに放って自分のスマフォを見ていた。
「で?バイト紹介してくれんの?」
「ああ」
「ヨコハマ?」
「イケブクロにも分校がある」
ブンコー。支店なら分かるが突然飛び出した馴染みないワードに漢字変換もできない。
「……何のバイトだよ」
「学習塾に潜り込んで人気の秘密を探って来い。上手くやりゃバイク代一括で払ってやる」
「はぁ?何でやくざが学習塾なんかに興味持ってんだよ」
小遣いをくれる建前の依頼ってわけじゃなさそうだ。左馬刻と学習塾の取り合わせがこの上なく胡散臭い。
「最近急に羽振りの良くなった塾があってな、なんでも成績アップ確実って口コミで流行ってるらしい。実際、こっちで調べた限りでは塾生の誰もが模試結果を飛躍的に伸ばしてる」
「へぇ。そりゃすげぇな」
「いい講師でもいるのかもしれねぇが、それにしても全員頭が良くなるなんてシャブでもばら撒いてんのか疑わしいっつー話だ」
「それを調べろって?」
「いや。シャブなら大勢いる塾生の誰も尻尾を見せないのが不自然だ。となると……」
「なんだ、違法マイク案件かよ」
違法製造された特殊なヒプノシスマイク。だからヒプノシスマイクの扱いに精通した左馬刻の仕事で、左馬刻も調査に俺を指名した。
「ついでに成績上げてもらってこいや、赤点坊主」
アンタにゃ言われたくねぇよ。
俺がへそを曲げたところで電子レンジがチンと音を立てた。
情報収集は得意分野。潜入には名が売れすぎて都合が悪いから身分証を偽り変装をした。他校の制服を借りて髪型を変え、知人に保護者役を頼んでアルファ小柴学習塾 イケブクロ分校に乗り込んだ。
マイクを使って治癒やヒプノシスマイクによる干渉軽減を施す医師もいるぐらいだ。頭が良くなるマイクがあってもおかしくないし、マイクを使えばすぐに分かるだろう。ちょろい仕事だ。
と、意気揚々、申込書を記入した数十分後には肩を落として塾を出ることになった。入塾テストがあったのだ。
「お前そんなにバカだったのか」
帰宅後に責めを覚悟して電話した左馬刻の詰るでもない、素の感想といった声音が余計に刺さる。
「うっせー!最初のテストがそんなに難しいと思わねーだろ普通!」
「ほぼ定員満了してる塾の生徒みんながそのテストに合格してんだ。テメェのバカを認めろやバカ」
「バカバカ言いやがって!そんなに言うならアンタがテスト受けてみろよ?!」
「あ?俺が潜入できるわけねぇだろボケカスバカ」
言葉には力があるからバカを連呼されるたびに知能指数が下がる気がする。
あまりのことに電話しながらベッドの上で暴れていると部屋の扉が乱暴に開けられた。三郎だ。兄ちゃんの敵とこっそり電話してたなんて見つかれば申し開きもできないから慌てて通話を切る。
「何騒いでんだよ二郎!うるさくて読書に集中できないだろ?!」
思わず携帯を布団に埋めながら居住まいを正す。
「う、うっせぇよ。もう騒がねぇから出てけよ」
シッシッ、と手を振るが訝しげな目で布団の辺りを視線がなぞる。通話は終了してるし見つかったって困らないが、後ろめたいことがあると今ひとつ強気に出られない。
しばらく黙って見ていた三郎は面倒くさそうに息を吐いて部屋を出ようとした。さっさと出てけ。マジで。
だけど部屋を出る直前、机に目を留め足を止めた。机の上には塾のパンフレットがある。
「……何これ」
「え、あー…………それは、あの、たまには勉強しようかと思って」
「そういうのいいから」
一瞬たりとも誤魔化せなかった。仕方ない。俺だって自分が進んで塾通いしたがるのは不自然だと思う。
「……二郎、さっき電話してた相手って」
「誰でもいいだろうがっ」
「碧棺左馬刻?」
「………………」
バレてる。はぐらかそうにも電話中に相手の名前を呼んだかどうかすら思い出せない。
俺が定期的に左馬刻に会いにヨコハマディビジョンを訪れるようになってもう一年ぐらいになる。一応は隠していたつもりだが、兄弟に隠し事するのは得意じゃない。昔から三点のテストとか買ったばかりで壊した分度器とか、そういうものを隠していてもすぐに見つかってしまう。成長するにつれてつまらない隠し事はなくなったけど、左馬刻と会っていることがバレるのは人生で一番ヤバイ。
言い訳を考える間にも三郎の顔は険しくなっていくし、部屋を出ようとしてドアにかけられた手はそのまま扉を閉めた。ベッドの上で思わず後ずさると机の上から学習塾のパンフレットを拾い上げた三郎がこちらへ一歩一歩近づいてくる。
なんだクソ、俺の方が兄貴なのに凄みやがって。
ベッドの端に片膝を乗り上げた三郎はパンフレットを俺の鼻先まで突き出して据わりきった目で迫ってくる。
「いち兄にチクられたくなかったら洗いざらい喋れよ」
「くっそ、ずりぃぞ三郎ぉ!!」
兄ちゃんの名前を出すのは卑怯だ。最強の脅し文句の前には白旗を挙げる外なかった。
◇
僕には兄がいる。誰よりも聡明で尊敬できる兄と、ドがつく間抜けで僕よりちょっとだけ早く生まれたから一応兄ってことになっている男だ。
二郎が敵陣に度々出入りしているのは僕もいち兄も知ってる。ヨコハマの友達に会うなんて言って出かけていくけど、その友達ってのが兄の敵でヨコハマディビジョン代表のリーダーだってことも、なんとなく知っていた。帰ると服に煙草の匂いがべったりついてるし、二郎がこそこそ会わなきゃいけない人間なんて他にいない。
でもいち兄が黙認しているとなれば僕が口を挟むことはできない。二郎は昔から木登りとか、凶暴な犬にちょっかいをかけたりだとか、僕がヤメロって言ったことほどやりたがる。そして痛い目を見ても懲りない。学習能力がないんだ。
それに、いち兄の真似ばかりしていた二郎があの男に懐いたのは必然のように感じているから。僕はあの男のことを何一つ知らないけど、あの男と親しくしていた長兄がある時を境に対立関係になったことだけはよく知ってる。放っておけば二郎だってそのうち同じような道を辿るんじゃないか?
いち兄を崇拝している二郎がやることだから、いち兄を裏切っているつもりはないんだろう。別に碧棺左馬刻の思想に染まったわけじゃない。なら、その時が来るのを待てばいいだけじゃないか。
気に入らないことは山ほどあったけど、一度はちゃんと話を聞くと約束して学習机用の椅子に腰かけた。
どうして学習塾のパンフレットなんか持っていたのか。それはもう最初から最後まで。以前から碧棺左馬刻と交流を続けていること、シブヤの有栖川帝統に巻き込まれて前のバイクを廃車にしたこと、新しいバイク代欲しさに碧棺左馬刻から怪しい依頼を受けて学習塾に潜り込もうとしたら、入塾テストであっさり落ちてしまって左馬刻に報告したらバカ呼ばわりされたことまで漏らさず聞いた。聞いた上で改めて言おう。
「このバカ!お前ほんとバカ!一から十までバカ!この十割バカ!」
「お前もバカバカ言うんじゃねぇよ!」
「他に言えることがあるとでも思ってんのかよ!?」
今回の入塾テストの件は結構堪えたらしく、頭を抱えてベッドの上を転がる二郎を見てさっきの大騒ぎの正体がよくわかった。怒鳴りこんだのがいち兄じゃなく僕だったことに二郎は感謝した方がいい。
緑を基調にした学習塾のパンフレットは他の塾と似たり寄ったり。カリスマ講師の写真が大きく載っているわけでもない。でも、この塾のことを僕は知っていた。人気があることも。
「この塾、ホントにヤバイわけ?」
隅々までパンフレットを読んでから問えば愚兄が布団から拗ねた顔を上げる。
「多分な。本気で何もなけりゃ左馬刻さんだってわざわざ高い金かけて調べろなんて言わねぇよ」
「ふーん……」
この学習塾のイケブクロ分校は僕の通う中学校から徒歩十五分の場所にある。よく行くカードゲームショップの近くで、クラスメイトがここに入っていくのを見たこともある。別に友達じゃないけど、この間のテリトリーバトルが平日にかかったからってノートをコピーしてくれようとした奴だ。断ったけど。一日分の授業の遅れなんて僕にはどうでもよかったからだ。必死に塾なんかいく奴には大事なことなんだろうけど、ノートは要らないと言ったら寂しそうな顔をしていた。
「……この塾で本当に違法マイクが使われてたとして、使われた生徒に副作用が出たりするのかな」
「まあ、違法マイクだし寂雷さんみたいにいい効果ばっかりってわけじゃねぇかもな」
攻撃性や危険性のない能力アップ用のヒプノシスマイクなんてのがあるのなら誰だって欲しくなる。安定して使えるならたった数軒の塾じゃなくて、もっと金払いのいい卸し先だってありそうなものだ。
「ここさ、口コミだけでこんだけ流行ってんのにメディアの取材全部断ってるらしいぜ。後ろめたいことがあんじゃねぇかって話」
違法マイクなんて違法とつくんだからモノの出来に関わらず後ろめたい代物に違いない。生徒は割高な受講料を支払って、実際何をされているかも知らずに通っている。その中には知り合いもいる。
気にならないわけじゃない。
「僕が行ってやるよ」
「あ?」
「だから、僕が二郎の代わりに潜り込んでやるって言ってんだよ。僕ならテストなんか余裕だしヒプノシスマイクにも慣れてるだろ」
折角ここまで言ってやってるのに二郎は素直に首を縦に振らない。眉を寄せて僕の手からパンフレットをひったくった。
「お前に務まるかよ。どんなことやってるかわかんねぇんだぞ」
自分は潜入もできなかったくせに。腹が立ってパンフレットを奪い返した。つるつるした紙が手の中でしわになっている。
「できるさ!お前だってバイク代ほしいんだろ?!」
「そんなの自分で何とかするっつの」
「…………碧棺左馬刻だって困るんじゃないのか」
「……………………」
そこで黙るのかよ。
「は――――っ、クソッ」
深く息を吐いた二郎は荒く髪を掻きむしって「ちょっと待ってろ」と片手で合図して電話をかけ始めた。話の様子からして相手は左馬刻だ。さっきとは打って変わってテンション低めに僕のことを伝える。保護者役や身分証偽造なんかの手配があるらしい。
あまり長くは話さず、最低限の会話で通話を打ち切った。この期に及んでもまだ気が進まない様子で。
「いいか、潜入したら一コマごとに定時連絡しろよ。もちろん何かあったら即連絡。ヤベェと思ったら身の安全優先ですぐ脱出しろ」
バカには似合わない真面目な、兄らしい表情で言う。二郎のくせに。
「わかったな?」
返事をしなかったら強めに念押ししてくる。なんだよ、僕がしくじると思ってるのかよ。
「おい、三郎」
「うるさいな!わかってるよ!」
大きな声を出すとちょうど風呂から上がったいち兄の「また喧嘩か」という声が飛んでくる。
「なんでもないですいち兄!ご心配には及びません!」
詳しい作戦はまた今度にして二郎の部屋を出た。僕も、バカの二郎と一緒にいち兄に秘密を作ってしまった。
それから数日後、指定された時間に母親役の見知らぬ女と共にカラコンとウィッグで見た目を変えて、他校の制服に着替え、まだ新しい塾の校舎に踏み込んだ。
昼休み。彼に声を掛けたら跳ねるほど驚かれた。それから如何にも真面目で少し眠そうな顔に緊張気味の笑顔が浮かんだ。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何?珍しいね、山田くんが話しかけてくれるなんて」
一体僕はどんなイメージなんだろう。確かに同い年のクラスメイトたちとは話が合わなそうだと思って一人で過ごしていることばっかりだけど。
声をかける前に決めていた質問を予定通りに投げかける。
「キミ、塾通ってるよね。アルファ小柴学習塾っていう。近くを通った時に入ってくの見たんだけど」
「うん、そう。山田くんも興味あるの?」
嬉しそうに言った後ですぐに「山田くんの成績なら塾なんて必要ないか」と自己完結する。正解だよ。高い受講費を払わなくたって学びたいことがあれば参考書を買ってきたら十分だ。だけど入塾希望ってことにしておいた方が話しやすい。素直にうなずいた。
「週何日くらい通ってるの?すごく人気みたいだけど、特別な授業でもあるのかな……って」
すでにある程度の情報は二郎から仕入れている。二郎も別の塾生を捕まえて話は聞いていたから。その確認も兼ねての質問だ。
「僕は週三回。月、水、金だけだよ。先生がすごくわかりやすくてね、通い始める前は全国模試でも真ん中よりちょっと上ぐらいだったんだけど、今じゃ結構上位なんだ」
「ふぅん。でもいい先生がいる塾なら他にもあるんじゃない?あそこって結構新しいじゃないか」
「うん、そうなんだけどね、逆にそこがいいんじゃないかな。先生も若い人が多くて、時間いっぱい詰め込むんじゃなくて集中して勉強できるように時間を取ってくれたりして」
集中か。漠然とした“頭が良くなる”効果よりも具体的でイメージがしやすくなってきた。
「山田くんも通うなら、良かったらさ、一緒に通ったりとか……」
「ありがとう。考えてみるよ」
短い休み時間にそれ以上細かい話に突っ込むこともできないから話を打ち切った。本気で通うつもりなんかないし申し込みにもついていく、なんて言われたら面倒だ。だから昼休みや放課後は避けた。
次の授業の準備という口実でさっさと席に戻る。
今日は木曜日。彼は不在の日だ。
学校が終わるとすぐに帰宅して二郎に指定されたビルに向かう。そこで着替えを済ませて前髪の重いウィッグで顔を隠し、水商売の気配がする母親役の女と申し合わせを済ませて早々に塾に向かった。事前の電話予約は済んでいる。
僕は学年に比べて上背があるから高校生コースに申し込んだ。私立高校に通う一年生、風間拓郎という設定だ。
二郎が高校生コースのテストは難しいとしつこく言ってきたが念のため予習もしたし、入塾テストは余裕のクリア。習ってないことだから分からないはず、なんてのがすでにバカの発想だ。出題範囲が予測できるんだから、その分高校生向けのテキストを読み込めば何の問題もない。
思ったよりも簡単で与えられた時間より早くに解き終え、スタッフに答案を渡した。そうしたら結果が良かったからといって追加で別のテストを渡された。問題のレベルが上がっていたけど、数学と英語は高三の範囲までチェックしてきた。二郎があんまりうるさいからひっかけで難しい問題でも混じってるのかと思って。
実際は単純に二郎の学力が中学生以下だったというだけで、二つ目のテストも不安なく解き終える。続く三回目はさすがに難しく、付け焼刃とその場の思考では分からない問題もあった。だけど八割以上回答して採点された結果はスタッフを唸らせるものだったようだ。
さっき会ったばかりの母親代理は「これまでどんな教育を?」なんて褒められて赤の他人のくせに謙遜までしていた。ボロを出さなけりゃそれでいいけど。
「高校一年生のコースに申し込みだけど、二年生か、三年生向けコースにもついていけそうだよ。キミは神童だね」
「恐れ入ります。先生がふさわしいと思うコースに入れてください」
コースを問わず塾生全員が能力アップしているんだからどこでも一緒だ。問題が解けるからって本気で解答してしまったのは失敗だったかもしれないけど、学年を書いた名札を付けて過ごすわけじゃない。黙っていれば生徒の中で目立つこともないだろう。
訪れた時間が早かったために当日の夜の授業から参加していいと言われ、先に帰る母親代理にこっそり二郎への言伝を頼んで塾に残ることになった。
渡されたテキストにざっと目を通したが変わったことはない。出版社もいたって普通。少し建物内を歩き回って、トイレなんかも覗いた見てけど何もなかった。当然トイレに煙草の匂いがこもっていたりゴミ箱から怪しい薬のパッケージが発見されたりもしない。
トイレの個室で二郎に定時連絡を入れた。まだ何も見つかってないっていう冴えない報告だ。
やっぱり何かがあるのは授業だ。
チャイムが鳴って生徒たちが教室を出てくる。僕は他の塾に通ったことはないけど、学校の授業の後ってのはもっと疲れたり、眠そうな顔をしている生徒が多い。だけどここの塾生はみんなやる気に満ち溢れた顔で出てくる。授業後にそのまま自主室に流れて勉強を続けるらしい。みんながみんな。
左馬刻が薬物疑惑を口にしたというのも頷ける。
やがて部活後の学生が集まる夜の部が始まって、指定された教室の隅に席を確保した。幸いなことに、ここの塾生は新顔にもそんなに興味を示さない。講師が入ってくるのを心待ちにしたような様子で前を向いていて、なんだか、気色が悪い。
授業開始のチャイムの直前に講師はやってきた。三十前後で優しそうな顔立ちの男だった。でもオーラがあるとかそういう印象はない。
講師は教卓まで来るとインカムを装着した。教室は広いし僕のいる教室の奥側にも堂々とスピーカーが設置されている。違法マイクを疑っていれば怪しく見えるけど、そうとは知らない他の生徒は気に留めないだろう。
始まった授業は確かに分かりやすくマメに生徒に声掛けをしているが、騒がれる程のものじゃない。
ヒプノシスマイクによる精神干渉もなかった。
講師や授業に当たり外れあるんだろうか。
だけど授業が折り返しに差し掛かる頃、忙しく黒板にチョークを走らせていた講師が手を止めた。
「それではここまでで一旦リラックスタイムです」
指についたチョークの粉を払って装着しているインカムをズレを直すみたいに触ると、両手を広げてゆっくり動かす。
「みなさん、上手にリラックスすることで集中力が高まりますよ。ゆーっくり息を吐いて、吸って、肺が空っぽになるまで吐いて、ゆっくり吸って」
声と同時に小さくヒーリングミュージックのような音楽が流れ出す。
「良い休憩が良い吸収に繋がります。一旦頭を楽にして、遠くを見て、呼吸して、吸って、吐いて、ワン、ツー、ワン、ツー……」
それと同時にせわしなく響いていたペンの音が止み、見渡す限りの生徒たちの後ろ頭が少しずつ低くなる。突っ伏すわけじゃないけど、みんな一様に俯いて頭が僅かに下がる。
ひどくゆっくり脳が揺れるような感覚があって、やがて講師の声が止まると急に頭がすっきりして目の前のものがクリアに見えるような気がした。
これだ。ヒプノシスマイクだ。確信して講師の顔を見たら、あちらと目が合ってしまった。ゆっくり、慌てたのが悟られないように俯く。他の生徒はみんなマイクの影響で俯いているところだった。
ほんの五分程度の小休憩だった。
後半の授業は難易度がぐっと上がって説明のペースも速くなる。だけどどこからも不満は漏れず、授業が終わるとやっぱりみんな自習室へと流れていった。だらだらする生徒は一人もいない。二郎の報告を入れている間に取り残された。
講師は急ぐことなく片付けをしている。今日のこの教室での授業は最後だった。
他の生徒が全員出て行って講師と二人きりになる。急いでテキストを鞄に突っ込んでいた時に呼び止められた。
「キミは今日から入った風間くんだね」
声も表情も穏やかで友好的だけど、僕は少し焦っていた。周りの様子なんかチェックせず教室を出てからトイレかどこかで報告のメッセージを打ったらよかった。
「初日だけどついてこれたかな?入塾試験はかなりの好成績だったみたいじゃないか。職員室でも天才だって話題でね」
「お気遣いありがとうございます。たくさん予習してきたお陰ですよ」
荷物をまとめた講師が僕の後ろの出口に向かって歩いてくる。後ろにはスピーカーもあった。学習能力を伸ばす効果のある違法マイクに攻撃的な性能がないとも限らない。
不審に思われないように話を続けながら教室を出なければならない。
「自分でここまで勉強が出来るなら上等だよ。塾なんて通わなくても高卒までにはどんな大学だって狙えるようになるんじゃないかい?」
戸口に向かうと思った講師は机の最後列で僕のいる隅に向けて軌道を変えた。教室を出るのが遅すぎたと思う半面で思う。これはチャンスなんじゃないか。
インカムを回収できれば御の字だし、会話は教室に入ってから録音し続けてる。講師の口から失言を拾える可能性もある。
まだ僕の体感でヒプノシスマイクを使用していると判断しただけで、証拠を押さえたわけじゃなかった。左馬刻に伝えても塾側がシラを切って証拠隠滅に走れば作戦は失敗だ。違法マイク使用を認めさせるのが第一の目的なんだから。
二郎は僕が潜入するのを嫌がったけど、アイツより僕の方が頭は回るんだ。撤退するタイミングを計るついでだ。深入りしすぎなきゃいい。教室を出るまで話を合わせる、それだけ。
「恐れ入ります。僕はまだ行きたい学校も決めてないんですが、母が熱心で」
「このご時世だからお母様が心配するのも無理ないさ。男の子は特に進学も不利だから、うちの生徒もみんな真剣にやってるよ」
「そうですね。授業が終わった後もみんな疲れも見せずに自習に向かったみたいで驚きました」
「ああ、みんな帰宅してからも夜遅くまで勉強してるんだよ。適切な集中の仕方が身につくと何時間でも続けられるんだ」
夜遅くまで、か。クラスメイトも時々眠そうにしていたような気がする。注意して見ていたわけじゃないけど、それは塾通いの日の翌日だったかもしれない。それって適切なんだろうか。
「キミもそのうち身につくよ」
「がんばります」
「でも、その前に……その前髪は切った方がいいね」
それまでゆっくり動いていた講師の手が躊躇いなく迫ってウィッグの前髪をめくった。眼の色はカラコンで誤魔化しているとはいえ、テリトリーバトル参加者として何度もメディアに晒されている顔を真正面から見られる。
焦る僕に対して講師は驚く様子もない。
「やっぱりもっと髪は短い方が似合ってるよ、山田三郎くん」
マズイ。逃げなきゃと思って距離を取ろうとしたらそんな考えはお見通しですかさずブレザーの襟を掴まれた。引っ張られてバランスを崩したところを抱き留めるみたいにして胸で支えられ、そのまま背後から拘束される格好になる。バサバサ音を立てて講師の持っていたテキストや小物が床に落ちた。
「放せ!」
「驚かせてすまないね。こう見えてもMC.LBのファンなんだよ。テストの結果が非常に良かったっていうから気にかけていたんだけど、まさか山田三郎くんだとは思わなかった」
首を締めあげるギリギリの強さで片腕を首に絡めながら、もう片手で器用に胸ポケットの何かを抜く。この男、予想以上に力がある。腕から逃れようともがく間に首に鋭い何かを当てらて抵抗の手を止めた。
「高校生コースだからまさかと思ったんだけどね、確かに中学生の中じゃキミの身長は目立つからいい判断だ。でもその高い声、キミのファンならわかっちゃうものだよ」
「……それはどうも」
「今回キミを寄越したのはお兄さんかい?」
尋問が始まった。固く口を引き結んで黙る。左馬刻を庇うわけじゃないが、喋ったところで解放されるわけじゃないだろう得がない。
「違う?なら誰のおつかいで来たのかな?」
「……勉強しに来ただけですよ、素顔で来るとご指摘通り目立ってしまうので」
「そうかい。それじゃあおうちの方がお迎えに来るまでここで待っていようか」
生徒たちが出て行ったままに開け放たれた扉の向こうの廊下にはもう人影もない。閑散とした教室と廊下に、次の授業開始を知らせるチャイムが鳴る。他の階では授業が始まった頃だ。人の気配がさっぱりないわけじゃないけど誰もここには来ない。来たところで塾スタッフなら敵が増えるだけだ。
首に巻き付く腕に掛けていた片手を下ろして腰に提げたヒプノシスマイクを掴もうとした。だけどそれを体の間で挟むようにして男が体を寄せてくる。
ファンってのは嘘ってわけじゃないらしい。いたいけな男子中学生の尻に腰を押し付けて鼻息を荒くしている。大人の中でも最低の人種だ。大事なヒプノシスマイクに汚いものを擦りつけやがって。気色悪さに鳥肌が立つ。俯いて奥歯を噛みしめた。
耳元で男が囁く。
「三郎くん、大人しく事情を話してくれたら悪いようにしないよ。別にウチは悪いことをしてるわけじゃないんだ。生徒のみんなだって保護者だって喜んで通ってる」
「悪いことしてねぇならうちの弟放せや」
廊下から声がしてパッと顔を上げた。耳に吐息を触れさせていた男も顔を上げて戸枠の向こうに視線を向ける。
次兄が険しい顔で、腰のベルトから抜いたヒプノシスマイクを掴んで大股でこちらに一歩一歩向かってくる。
「ふざけた真似してんじゃねぇぞクソ野郎!」
「二郎……」
僕が安心しかけたのと逆に、男は焦りで後ずさる。腰がひいた代わりに首に当てられたものが食い込んだ。これ、ナイフじゃない。
「それ以上近づくな!……大事な弟に傷をつけたくないだろ?」
その言葉で二郎が足を止める。男は巧妙に手に持った得物の正体を隠しているけど、多分先の鋭いペンか何かだ。
「二郎、大丈夫だッ……!」
僕に構うなと言おうとしたら腕に締め上げられて声が潰れる。
「三郎!」
大丈夫だから、二郎が本気でやれば僕がどうにかなるより男が倒れる方が早い。いち兄や二郎みたいに喧嘩慣れはしてないけど僕だってこの場を凌ぐことはできるつもりだ。
だけど二郎は口の高さに構えていたマイクを下ろした。
男は勝ち誇った顔で、首を締め付ける腕が少しだけ緩む。
二郎のマイクが専用の形状からフラットな形に変わるのが見えた。スイッチを切って完全に攻撃をやめたんだ。
でも、二郎がやめても流れるビートは止まらなかった。二郎のマイクによるビートが変調したみたいに後を継いで別のビートが場を支配する。
『ガキ捕まえてガキに勝った気か?ダセェカス野郎にゃもう飽き飽きだ。パチモンマイクで粋がる三下に教えてやんよガチのライムだ、耳かっぽじって聴きな』
低い声が聞こえた瞬間こわばった男の体が2秒後にはぐらりと揺れる。その隙を狙って思いっきり頭を後ろに振って後頭部を男の鼻頭に叩きつける。
「ぐ……、うわっ……!」
精神干渉と物理的な衝撃で二重に脳を揺さぶられた男は拠り所を求めて腕を振り回しながら派手によろけた。
その隙に飛び出して戸口まで走った。すかさず二郎が僕を庇って前に立ったけど、とっくに勝負はついていた。
まともに攻撃を食らった机や椅子にぶつかったところで気を失って机の上に伸びている。
まだ僕の心臓はバクバクいっていて、男が動かなくなっても近づくことはできなかった。
代わりに二郎の後からやってきた左馬刻が気負いない足取りで歩み寄り、男の足元に散らばった荷物の中からインカムを拾い上げる。見た目は普通のインカムだ。使用中も今も形状は変わらない。
「おいガキ。例のマイクはこれか」
インカムを上から下から眺めてから聞かれ、素直に頷く。左馬刻は鼻を鳴らし、下階からやってきた舎弟らしいスーツ姿の男に手渡す。これだけ騒いでもスタッフが誰一人来ないのを不審に思っていたけど、僕が報告を入れた時点でやくざ連中が踏み込んでいたらしい。
左馬刻はしゃがみ込んで残りの荷物を調べていたけど、他には興味を引くようなものがなかったらしい。そのまま手ぶらで僕たちの脇をすり抜けて教室を出た。
そこで二郎が左馬刻のシャツの胸ぐらに飛びついた。
「ちょっと待てや、なんでさっきやりやがった」
涼しい顔をした左馬刻を見上げて唸りあげる。ステージ以外でこんなに起こっているところは久しぶりに見た。
「クズ野郎ぶっ殺すに理由なんかねぇだろうよ」
「そうじゃねぇよ、三郎が捕まってんのわかっててやったろテメェ!」
仕事終わりに難癖つけられた左馬刻は面倒臭そうに舌打ちしてシャツに絡む手を叩き払った。
「うっぜぇな。テメェらの弟がアレぐらいでくたばるタマかよ」
その言葉は二郎に向けられたものだったけど、二人の成り行きを見つめていた僕の頬を打った。目が醒める思いで瞬きする。
そうだ。僕は過保護に守られなきゃならないほど弱くない。二郎にだって、守ってくれなんて言ってない。
二郎の肩に手をかけて左馬刻から引き離す。まだ怒り混じりの目が不満そうに振り向いた。
「二郎、やめろ。悔しいけどコイツの言う通りだ」
「なんだよ三郎。テメェは黙ってろ」
「嫌だ。僕の話なのに僕を蚊帳の外に置くな!バカのくせに保護者ぶって!」
「今バカは関係ねーだろ?!」
「うるさいバカ!僕はさっき、お前が足を止めた時、気にせずやれって言おうとしたんだ……あんな奴くらい自分でなんとかできるって。なんで碧棺左馬刻よりお前の方が僕を信じてないんだよ、バカ!僕でもやれるって思ったからやらせたんじゃないのかよ、バカ!」
叫ぶと何か言い返そうとして二郎が言葉を飲み込んだ。横で待っていた左馬刻が耳に小指を突っ込みながら深く息を吐く。
「うっせぇガキども、兄弟喧嘩は帰ってからやれや」
階段の方からまた別のやくざが顔を出す。車の支度が出来たと言われ、左馬刻が歩き出すのに従って黙って建物を出た。
塾の前に待機していた車のうち、僕はワゴン車の方に案内された。着替えが積んである。支度が済んだら家の近くまで送ってくれるらしい。
そんな説明を受ける間に二郎は黒塗りのセダンに向かった。当然左馬刻もそっちだ。
「……家に帰んないのかよ」
「兄ちゃんに泊まりだつっつっとけ」
だそうだ。勝手にしろよ。
帰宅すると家に明かりが灯っていて、玄関扉を開けると甘いバターの香りが溢れてきた。
「ただいま帰りました」
匂いの出所、台所を覗くと長兄がエプロン姿で振り向いて迎えてくれる。
「おかえり。二郎はどうした?」
「えっと、今日は友達の家に泊まるそうです」
バカのために尊敬するいち兄に対し嘘をついてしまった。この貸しは大きい。
いち兄はそれ以上追及することもなく、オーブンレンジから黄金色の塊を取り出した。スイートポテトだ。手作りだから大きめでボリュームがある。
「そりゃ残念だな。二郎がこの間もらってきたサツマイモでスイートポテト作ったんだが」
「わぁ!二郎の分まで僕が食べますよ!いち兄のスイートポテト大好きです!むしろあんな奴に食べさせるのはもったいないので二郎が帰ってきても僕が食べます」
二郎め、後で悔しがっても遅い。スイートポテトを兄のエプロン姿と一緒にスマフォのカメラに収めてから二人でダイニングテーブルを囲んで食べる。
うちではスイートポテトの時は牛乳が定番で、それぞれの専用のカップに注ぎながらいち兄は怒るでもなく言う。どちらかといえば呆れを滲ませて。
「また二郎と喧嘩したのか?」
頬張ったスイートポテトを飲み込もうとしたら喉に詰まって、注がれたばかりの牛乳に口をつける。喧嘩はしょっちゅうだけど今回は特別だ。いち兄に説明ができない。
「……はい。でも、あの、ご心配には及びませんので」
いつもなら二郎が如何にダメな奴か続けるところをそんな風に打ち切ってしまった。いち兄は形の良い眉を持ち上げて、「謝るべきことがあると思うなら早めに謝っとけよ」とだけ言った。謝るべきなのは圧倒的に二郎の方だけど。
大好きな兄と甘いものを食べていると一日の疲労や緊張がほぐれ、ささくれ立った心が凪いでいく。残っていた芋すべて使って作ったというスイートポテトは思ったよりもたくさんあって、結局一人分程度残ってしまった。二郎がさっさと帰ってこないなら明日の僕が食べる分だ。
洗い物まで兄が引き受けて風呂を勧めてくれたからダイニングチェアを立ち、台所を出る直前、エプロン姿の兄の背中に問いかけた。
「あの、いち兄にひとつ聞いてもいいでしょうか」
「何だ、改まって」
顔だけで振り返って兄は笑う。そんな表情を見ると言い出しづらくて、一呼吸分躊躇ってから尋ねた。
「僕をチームに誘って下さったのは、僕を信じてくれたってこと、ですよね」
「当たり前だろ。お前たちとならどんなチームととも戦い抜けると思ったから組んだんだよ」
即答だった。いち兄は迷わず欲しかった言葉をくれる。目の前が急に明るくなった。
「ありがとうございます!すぐお風呂入ってきます!」
「おう、ゆっくり温まってこいよ」
「はい!」
返事の声が大きくなってしまっていち兄に笑われてしまった。塾での一件の反動で浮かれすぎている。
もう二郎のことなんかいい。いち兄が認めてくれているならいいんだ。
後日、仲直りらしいやりとりはないものの、なんとなく普段通りに戻った二郎から塾のその後の話を聞いた。
違法マイクを使っていることをネタに経営者と交渉した末、塾の営業を続けさせて上納金を巻き上げることになったらしい。新しいシノギってやつだ。金額までは知らされていないけどそれなりの額だろう。今後、継続的に金が吸い取れるとなれば二郎のバイク代なんか微々たる出費だ。
左馬刻は約束通り、バイク代分の金を現金で二郎に渡した。二郎はろくなコメントもなく札束の封筒を僕に差し出してきたけど、報酬とはいえやくざからの金を受け取る気にはならない。そもそも僕は金が目的じゃなかった。受け取らない代わりに二郎には大きな貸しにした。
塾潜入後の週明け。諸々の顛末を聞いた後。学校で塾通いしているクラスメイトと下駄箱のところで鉢合わせた。
前回、塾に誘ってくれているのをさっさと話を打ち切ってしまったせいか控えめな態度で「おはよう」と言われた。月曜の朝だ。夕方になったら彼はまた塾に通う。違法マイクと言っても過剰に集中してしまう事以外、今のところは副作用らしい効能は見つかっていない。見つかっても頭を押さえているのがやくざだから野放しかもしれないけど。
「おはよう。今日も塾?」
「あ、うん。やっぱり山田くんも興味ある?」
「いや、僕は行かないけど」
事実をそのまま述べたら案の定、肩を落とす。百歩譲って僕が塾通いするとしても高校生コースだ。
「あのさ、一生懸命に勉強するのはいいけど、たまに眠そうにしてるでしょ。睡眠不足には気を付けた方がいいよ」
「え、あ、うん!ありがとう!」
精神干渉を受けていたら時間の確認なんかできないのかもしれないけど。勉強のし過ぎで調子を崩すなんてことになったら馬鹿らしいというだけ。それだけなんだけど、彼が嬉しそうにするから、そのまま教室まで一緒に歩いた。クラスメイトだから。
◇
自宅マンションの風呂から出てくるとソファに転がったバカがまだ唸り続けていたから鬱陶しくて蹴り落とした。
面倒くさい気配は車に乗る前から濃厚だったが、弟と喧嘩して帰宅を拒んでうちに来るという状況が面白く感じて許してしまった。今は面白さより面倒くささが上回っている。
「いつまでやってんだウジ虫野郎。そんなに気になってんなら今からでも帰れや」
「うっせぇ!」
「うっせぇはこっちのセリフだボケ」
転げ落ちた床でも柄になく落ち込みっぱなしで、頭を冷やせと強引に風呂に向かわせて戻ってきてやっとマシになった。唸る以外に口が利けるようになった、程度のマシだ。
煙草片手に携帯に届いた学習塾の直近の売上表を眺めながらガキの愚痴を聞く。二割ぐらいだけ理解して、後は聞き流しているが。
「アイツは俺らと違って腕っぷしはからっきしのクセして生意気ばっか言いやがってさ、弟ってマジ面倒くせぇ!」
弟って面倒くせぇだけ理解した。学習塾は予想より儲かっていて、マイクを押収して新しい事業を始めるより手っ取り早くいい金になる。違法マイクの出所はまだ口を割らないようだが、それは追々でも今回の仕事の元は取れそうだ。
「おい、左馬刻さん聞いてねーだろ」
「うっぜぇな。弟が面倒くせぇんだろ」
「そう!」
「面倒くせぇ弟が二人いるクソカス兄貴はンなこと言ってなかったぜ」
多分な。あまり思い出さないことにしているから一郎が弟の愚痴を漏らしていたこともあったかもしれない。細かいことを思い出す気はない。
真偽はともかくとして、長男を崇めるこの次男坊には覿面のセリフだった。兄のようになれない自分と弟への感情で「あー」とか「うー」とか言いながら抱えた頭を振った末に俺の方にぶつかってやっと大人しくなった。
「弟のこと守ったり、信じたり、兄貴って難しいもんだな」
「何を悟ったようなこと言ってやがる」
「左馬刻さんだって兄貴じゃん」
だけどうちは妹だ。手元にいたなら頼まれたって危ない目には遭わせない。ヒプノシスマイクを握って戦える男とは違う。
でもまあ、二郎の言うことが少しも分からないってわけでもない。
仕事のメッセージを送って携帯を放り出した。残りはもっと情報がまとまってから、明日以降で十分だ。
携帯を手放して空いた片手で背中を抱いてやればやっと素直に頬ですり寄って黙った。仕事したのはコイツじゃないが、今回の成果を鑑みて報酬のおまけ程度に慰めてやることにした。
うちに弟はいないが手のかかるガキはいる。自分はどこにでも突っ込んでいくくせに弟のこととなると無自覚に過保護で厄介な奴だ。
ああ、やっぱり一郎も一度ぐらい言っていたような気がする。弟ってのは面倒くさいって。