※
H歴は四つのディビジョンを代表するMC達の活躍により終わりを告げ、新しい男女平等の時代に漕ぎ出した。
そこまでの道のりは平和とは程遠く、H歴の象徴であるヒプノシスマイクを使った闘争や暗殺も発生した。その中でも男性側の信用を失墜させるために政府が企てた“聖母暗殺事件”は日本中の注目を集める悲惨な事件だった。
女性政権から派生した男女平等社会推進派の議員と男性議員が手を結び、平和な社会を再建しようとする中、聖母暗殺事件が男女平等を望まぬ左馬刻による犯行と報道される。生き残った旧政権の残党が保身のために濡れ衣を着せたのである。
旧政権に対して勇敢に異を唱えた“聖母”の熱狂的な支持者は多数存在し、怒り悲しみをぶつける生贄としての犯人を民衆は求めていた。巧妙にでっち上げられた証拠が次々に浮上し、混乱が続く社会で無罪を証明する時間や余裕はない。左馬刻の手元に戻った妹もまた重罪人の身内と知られれば社会生活に支障をきたす。
仲間たちは救済の道を探したが、それが困難なことは左馬刻と、その近くにいた者ほどよく理解していた。
妹を信頼のおける人物に預けた左馬刻は理鶯の仲間の手引きにより海外逃亡を決断する。全ての罪を一人で背負って逃げれば片が付くなら安いもんだ。極道の世界に身を置いた時から人並みの平穏な末路を望めるとは思っていない。
ある春の夜、一人荷物をまとめた。誰にも別れを告げることなく部屋を出ると同じようにリュック一つ担いだ二郎がいつもと変わらぬ気負いのない佇まいでそこにいる。その手には過去に冗談の延長で書いた兄弟への別れの手紙があった。元気でやっていくから探さないでください。そういう内容の手紙だ。
そこに一言だけ、妹を頼むと左馬刻の字で書き添えて一郎のジャケットのポケットに差し込むと二人きりで闇に紛れて船に乗った。
二郎は言う。
「兄ちゃんたちは俺なんかが心配する必要がねぇんだよ。でもアンタはダメ」
それからは長い船旅を経て言葉の分からない土地に渡り、各地を転々とする生活だ。行く先々で色んな人に出会い、長居することなく次の街へ移動する。誰も自分たちを知らない場所を渡り歩く。
広い世界の中でたくさんの人に囲まれてふたりぼっち。左馬刻は二郎を、二郎は左馬刻を、この先ずっとひとりじめ。
■■■高飛びネタさまじろふたりぼっちSS集
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◇プライベートライブ
個室なんて上等なもんはない。カーペットが敷いてあるだけマシな大部屋の隅でやることもなく船に揺れながら座っているとあっという間に飽きがくる。話もした。気まぐれに手遊びもした。知らない言葉を話す他の乗客に絡まれたから指を一本へし折ってやったりもした。
俺らがカモにできないと周囲に知れ渡ると、近くには酒瓶を抱いて転がるおっさんしかいなくなった。
肩を寄せ合って、共有した一枚きりの毛布の下に投げ出していた手に指が絡む。しばらく二人きりになる時間も場所もない。あまり煽ることもできなくて、ただただ手を握る。人の愛し方のわからないガキみたいだ。
それにも飽きると絡めたままの手指が手の甲を叩いてリズムを取り始める。なんとなく、肩に乗った頭の中で流れている曲が分かった。一緒に過ごした部屋で何度も流れていたからだ。
「あーあ。あのCD一枚ぐらい持ってくりゃ良かった」
「プレイヤーなきゃ聴けねーだろ。そうなりゃ電池もいる」
「それぐらいなら大した荷物じゃねーし、船降りたら電池ぐらい調達出来んじゃね?」
「海外の電池って使えんのか?」
「え、電気ってバンコク共通じゃねーの?」
聞かれたって俺も知らない。前に海外旅行に連れていかれた時は同行した舎弟がなんでも手配したし、コンセントが日本とは違ったからそう尋ねてみただけだ。
答えがわからないせいで話は終わり、指は手の甲を突き続ける。擽ったい。
頭の中で流れていた曲が一周して頭に戻る。最初のフレーズはこう、
『 』
壁から低く聞こえてくる何かの機械の音にかき消されるかどうかというささやかな声で舌に乗せた。それでもちょっと振り向けば口から口に直接吹き込めるような距離にいるヤツの耳には届く。
ちょっと歌ったところで肩から退いてしまったが。頭を起こして、顔を見て、未来になんの保証もなく居心地も悪い違法船の中だというのに幸福そうに笑った。
「CDより贅沢じゃん。俺だけの独占ライブ」
コイツの価値観はずっとわからない。いつも金がねぇとボヤいてたくせに小遣いをくれてやろうとすると理由のない金は嫌だとか面倒なことを言ったし、高すぎる飯も喜ばない。無駄に広い部屋よりちょっと狭い部屋の方が好き。それから、ヨコハマの街で築き上げたもの全て捨ててもう何も与えてやれない俺についてきた。
金がないわけじゃないが、組に所属していた頃のような生活は望めないし、日本に残って兄弟と暮らした方がよっぽどマシな人生を送れるだろう。
あんなに兄と弟を大事にしていたくせに。離れてしまってもそんな風に笑うのか。
もっと、とせがまれて先を続ける。喉を商売道具にしていて良かった。この体ひとつあれば、せめてこれぐらいはコイツに与えられる。
そのうち勝手に声を重ねて指を鳴らし始めた。
そうして少し音量が大きくなったせいで酔っ払いが目を覚ました。ずっと背中を向けていたから実は起きていたのかもしれない。
赤い顔したおっさんも他の乗客同様に知らない言葉で喋る。日本に不法滞在してたくせに日本語を喋らない。
上機嫌で手を叩いて、何か喜んでいる。多分褒めてるんだろう。
「なんだよ、俺の独り占めにならねーじゃん」
そう言いながらも嬉しそうで、仕方ねぇなとまた指でリズムを取る。また頭から。今度は二人で。
◇買い物
生活する住民の目線の高さと街のスケールは比例する。
スーパーの棚は日本で通っていた店より高く、棚に詰まった商品もデカい。それを丸々した客がデカいカートに山盛りに放り込んでいく。
そんな住民に紛れて大袋のシリアルをかごに放り込んだ。
「ンな食いきれんのかよ」
「日持ちすっからダーイジョウブだって」
地域住民の多いスーパーで浮かないようつまらなさそうな顔で物色するが、日本ではなかなかお目にかからない商品にテンションが上がってる。味も日本とは違うんだろうか。買ってみたいものはたくさんあるけど、あれもこれも手を出すとまた連れにガキ扱いされるから我慢だ。我慢。
「…………」
「おい、買う気じゃねぇだろうな」
バカでかい塊肉の前で自然と止まって動かない足を蹴りつけられる。
だって肉だぜ?デカい肉!日本のコマ切れ肉の特大パックなんか子供用みたいに思えるほどのデカい肉!
「……これでこの値段なら安くね?」
「二人でひと欠片も無駄にせず食いきれるならな」
「大丈夫だって!アンタも肉好きじゃん!今の部屋冷凍庫もついてるしさ!」
日本で、左馬刻の奢りで初めて分厚いステーキを食べた時には毎日でも食いたいって思ってた。そんな可愛い夢が叶うんだぜ!
そして、二人で四本の手に買い物袋を食い込ませて帰った翌朝。私服警察官風の男たちがアパルトマンのドアを叩いた。
夢の毎日ステーキはお預けとなったのである。
◇放浪暮らしもまた楽し
天気がいいと人種や性別、宗教でも無関係に窓を開けたくなる。特に狭苦しい石造りのアパルトマンは締め切っていると息が詰まる。
数日続いた雨上がりに窓辺で煙草を咥える。キッチンでベーコンを焼く香ばしい匂いと煙草と、排気ガスと濡れた街の匂いが混ざり合って互いを薄めながら天に昇っていく。
ちょっと窓枠から身を乗り出して階下を見下ろすと窓辺に観葉植物の葉が見えた。
隣の部屋からはオールドスクールの代表曲が。窓越し、いや、薄い壁越しに響いてくる。うちの同居人の好きそうなナンバーだ。キッチンを振り返ると案の定頭を揺らしながらフライパンを揺すっている。狙ったのか偶然か、手拍子のタイミングでフライパンの底と五徳がぶつかった。
七〇年代の終わりにヒットしてから幾度となくサンプリングされた曲だ。壁を震わせて伝わるビートの低音と窓から聞こえるリリックの端を耳で捉えてずいぶん前に聴いたレコードの記憶に針を落とす。
『I’m gonna freak you here…』
ああ、わかんねぇな。耳は覚えているのに外国語は意味と繋げて記憶できないせいですぐ続きを見失ってしまう。隣室から聞こえてくるリリックも軽快に流れていくので先を暗記していないと乗るに乗れない。
記憶を頼りに二度三度と断片的な単語を呟いているとキッチンから殺しきれない笑い声が聞こえてきて、腹が立ったから日本語ででたらめに歌うと隣の窓から隣人がひょっこり顔を出した。リアクションのうるさい坊主の男だ。俺の顔を見るなり目を丸くして、すぐに部屋に引っ込んだ。坊主頭で目を丸くすると漫画の中のタコみたいだ。
それからバタバタ音がしてキッチンで二郎が「来るぜ」と笑う。
バタン。扉の音。
「3・2・1」
カウントダウンぴったりに玄関扉を打ち破らんばかりのノックが始まる。あんまりのうるささに鍵を開けるとタコが両手を広げて待っていた。
「Amazing!」
「黙れタコ!」
「Tell me lyric!にほんご!かいて!」
見た目はタコだが勉強熱心な男で、日本人の俺たちが隣に引っ越してきてからは日本語学習に熱心だ。日本語ラップも聴くんだといってTDDのCDを見せられた時には二郎が腹を抱えて笑い出して面倒だった。
玄関先で目をキラキラさせたタコを怒鳴りつけていると二郎がフライ返しでフライパンの端を叩く。
カーン。
「アンタら、あんま騒いでるとさぁ…」
言葉の続きは怪獣のような階段を上る足音が代弁した。大家のババアだ。
「Be quiet!!」
丸々太ったババアのくせにうるさくするとすぐにすっ飛んでくる。早口の英語でまくし立ててくるから何を言っているか半分もわからない。
ババアの死角にいる二郎が他人面で笑っていると丸々した人差し指を部屋の奥に向けてババアが叫ぶ。
「You too!Jiro!」
とばっちりだとばかりに渋面をのぞかせた二郎だが、nightとかbitchとかいう単語が混じった苦情を聞いているうちに真っ赤になった。
「違う!違うから!俺じゃねぇから!」
軽い世間話ぐらいなら英語で対応できるくせにあわあわ日本語で否定しながら二人を玄関から追い出して勢いよく扉を閉める。しばらくは扉の外で二人の声がしていたが、タコは素直な男だ。大人しく謝って解散となった。
扉を背に俯いて外のやり取りを聞いていた二郎はそれ以上ババアが余計なことを言わずに去るのを待って深くため息を吐いた。
「………………」
「テメェの喘ぎ声もうるせぇってよ」
「…………ッ!俺のせいじゃねぇだろ!」
人のこと笑ってやがった報いだ。
恥ずかしそうな頬の熱さを確かめたくて手を伸ばしたが、指が薄紅色の肌に触れる前にベーコンの焦げる匂いを嗅ぎつけて逃げられた。
昼飯はパンとほうれん草のサラダと焦げたベーコンステーキ。BGMは懲りない隣人が音量控えめに流すオールドスクール。
食卓の話題は次に移り住む街の話。この部屋に住んでそろそろ三ヵ月だ。
◇夜行列車
十一月の初旬。何軒目かのヤサを押さえられて予定より早く新しい街に向かうことになった。
日本を離れてから初めての誕生日は長距離列車の中で迎えることとなった。
誕生日祝いを何も用意できなかったとボヤく二郎にケーキなんて歳でもないと言ったが納得しない様子だ。日本に置いてきた妹や仲間の代わりに張り切らなきゃならないと思っているらしい。ヤクザ者の誕生日なんて見栄半分、経営している店で祝いの席を設けて金稼ぎ半分。今はそのどちらの意味もないからどうでも良かったが、毎年家族や仲間に祝われて幸せな歳を重ねてきたガキにとっては重要のようだ。
鞄の底まで調べて何もないと分かると車内販売で何か買おうと言いだした。どうせ大したものはないし腹も減ってないってのに。
手っ取り早く黙らせる為にボックス席の向かいから隣に呼び寄せる。
夜を走る電車の窓の外は街灯もない真っ暗闇だ。車内を顧みても寝ている客が目立つ。誰も異国の言語でこそこそ喋っている俺たちを気にしちゃいない。
「美味いもん食うのは次に落ち着いてからにしろ。今はこれでいい」
頭を抱えるように引き寄せて口付けた。
旅に出てからそう言うことを素直に言えるようになった。言われた二郎は照れて視線を落とし、小さく頷いて肩に頭を寄せて目を閉じる。寝たフリをしていれば寄り添っているところを人に見られたって下手に目立ったりしない。
空回りした誕生日への意欲がぶり返す前にそのまま寝てしまえ、と腕を回して肩を貸し、車窓に目を向けた。何も見えないが窓際に座るとなんとなく窓に向いてしまう。
外は変わらず真っ暗で今どこらへんなのかもわからず、景色の代わりに車内灯に照らされた車内を映す。
その中の通路を挟んだ向こう側に座る少女と目が合った。
振り向くと肩を竦めて視線を泳がせる。
確かに誰にも見られていない瞬間を狙ったつもりだったが窓が鏡になって見えてしまったらしい。
わざとらしく視線を外しつつもやはりこちらが気になって仕方ない様子の彼女に視線を送り、口の前に人差し指を立てた。
他人が何を思ったってこれが今の俺の幸せな誕生日だ。見ぬフリで祝福してくれよ。
◇バースデーライブ
「お前、俺に何かして欲しいことはあるか?もうじき誕生日だろ」
尋ねると垂れ気味の目を丸くして「え、覚えてたのかよ」と抜かしやがった。うつ伏せた頭を叩く。
「いてっ」
「日本でも祝ってやってただろうが」
「だってアレはヤスさんたちが企画してアンタはスポンサーだろ?」
確かに舎弟連中が先に二郎の誕生日祝いをしたいと言い出し、俺は金を出すばかりだつた。でもその舎弟たちはもうそばにいない。
それどころかかつての知り合いは誰もいない。俺と二郎の二人きりだ。だから俺だけが祝う。逆に言えば、二人で放浪生活を続ける限りは二郎のことだけ覚えていれば良かった。もう会長や組長の誕生日は忘れた。
祝うつもりはあるが、数ヶ月で引っ越しを繰り返しているから物は贈れなかった。荷物が増える。
そこで何をしてやるか悩んで素直に尋ねてみたが、
「して欲しいこと、なあ。ないかも」
「無欲ぶってもいいこたねぇぞ」
「だって、アンタにして欲しいことってもう全部貰ってるし」
裸の肘で頬杖をついてちらりと視線を寄越した。昔はなかった大人びた微笑みでそんなことを言われると何度でもセックスをおかわりさせてやりたくなるが、こう見えて本人は強請っているつもりがない。これはもうお祝いじゃなく俺のやりたいことだ。趣旨が違う。
二人で日本を離れて一年近くになる。生活のことや日本の情勢は気にしていたが、互いの他に守るべき者がいない生活だ。毎日同じベッドで寝て同じ飯を食って抱き合う。確かにコレ以上やることといえば、籍でも入れるか日本に帰るかだが、そのどちらも難しい。
俺についてきたせいで今年からは家族に祝ってもらえない分も何かせねばという気持ちがあったが仕方ない。美味い飯を食わせるだけで終わりか。
「あ、そうだ。すぐじゃなくていいんだけどさ」
ゴロンと仰向けになって宙に何か見ているように視線を投げて言った。
「ライブ。ライブしてぇな」
「ライブ?」
「路上ライブとか、どっかでサイファーやってるとこに参加するんでもいいけど英語だとついてけねぇかも」
そういえば少し前に小さなライブハウスでライブを見に行った。人がやっていると自分もやりたくなるもんだ。
「いいんじゃねぇか?路上ならこの街でも。ポリが来たら終わりだけどな」
軽く請け負うと嬉しそうに笑う。その顔を見ていたらしたくなって、隣で横たえていた体を少し起こして軽く唇を奪った。
日本に残ってりゃたくさんの人間に祝ってもらえていたのに今年は俺一人だ。叶えられることならなんでも聞いてやりたい。
誕生日当日は朝から買い出しに出て料理をして、腹一杯食べてから色違いのコートを羽織って出かけた。ファーのついたフードで顔を隠して石畳の街角に立つ。
担ぐほどの機材はない。マイク一本ありゃなんとかなる。
この街は小綺麗だが、路地やトンネルにはグラフィティが絶えない。さすがに寒い時期に外で演奏しているヤツは珍しいが、街中で音楽をやる土壌はあった。
「よっしゃ、いくか」
指でカウントして始める。足を止める観客ゼロの最初は二郎の好きなナンバーから。兄弟で作った曲の一部を二人でやれるよう変えて。
ほとんどの通行人は「この寒空に変な連中だ」という顔で通り過ぎていくが、バイト帰りの学生や酔っ払いがちらほら歩く速度を緩める。
続けて旅の合間に作った奴。生活に慣れた頃から行く先々で見た景色や会った人間をネタにリリックを書いていた。
まだ日本にいた頃、最初に二人で音楽をやりたがったのは二郎の方だ。元々敵対関係にあったし、過去にもチームを組んだこともなかった。だけどやってみると悪くなかった。
きっと俺一人で日本を離れていたら曲作りすらやらなくなっていただろう。どこの土地にも、人間にも定着できない生活だ。吟遊詩人みたいには生きられない。
二人で暮らしていると美味いもの、不味かったもの、きれいな景色や気に食わない人間の姿。良いことも悪いことも口に出せた。忘れたくないものは携帯のストレージに入りきらなくなった写真の代わりに詞にした。
多分今日のこの日も二郎の気分で新しい何かになる。
曲の合間に酔っ払いに声を掛けられた。
「寒いのに頑張るね」
二郎は白い息を吐きながら答える。
「誕生日ライブだからな」
「誰の?」
「俺の」
にかっと笑って自分の指で赤い鼻を指すと酔っ払いは拍手や指笛で騒ぎ立て、「まだここでやっててくれよ」と言い残して何処かへ行った。
「なんだ?酒でも持ってきてくれんのか?」
「さあ?」
そのまま気の向くまま、自分たちの曲も他人の曲のカバーも一緒くたに歌っていると、酔っ払いが仲間を連れて戻ってきた。酒瓶じゃなく楽器を持って。
アコースティックギターにカホン、それから名前もわからない民族楽器。俺たちを囲んで酔っ払い同士目配せすると俺たちの歌にするりと音を絡めて奏で出した。
原曲にはない音がぴったりと曲についてきて、勝手に広がっては収束して、作った俺たちも知らない賑やかな曲に生まれ変わっていく。
酔っ払い楽団が盛り上がるほどにギャラリーも増えていく。この騒ぎじゃじきに警察が来そうだ。
そう思った矢先に観客の一部が遠くを見て、こっちに手振りで取り締まりの襲来を教えてくる。派手のやり過ぎだ。
ちょうど歌の終わり。満足そうな二郎と酔っ払いたちに合図して撤収する。警察を振り切るまで走って、息が上がっても二郎は笑い続けていた。酔っ払いは千鳥足のくせに「よし、次は酒場だ」なんて言う。
今年は祝ってやれるのが俺一人なんて嘘だった。生まれた土地を遠く離れてもコイツの周りには音楽が好きで楽しいことが好きな連中が寄ってくる。
きっとそれはいくつ歳を重ねても変わらずに。
素面で酔っ払いと笑い合いながら歩く姿は逃亡者の悲壮感なんてまるでない。幸せな誕生日の主役そのものだった。
◇うわごと
もうじき春が来る。この逃亡生活を始めてからやっと一年が経とうとしていた。
日本では春といえば花見だったが、この国では桜なんかどこにも生えちゃいない。年中暑い地域だったから、次はもう少し涼しい土地に行こうと言っていた矢先だ。
二郎が熱を出して寝込んだ。年齢的に体力のピークを過ぎた俺よりも体力があって、慣れない土地での生活でも元気に過ごしていたのに、ある日体調不良を訴えて朝食をもどし、ちょっと休めば治るからと滞在中のアパルトマンのソファで横になった。それから俺が一人で買い出しを済ませて戻ってくるまでに四十度近くまで熱が上がった。
医者は点滴をして内服薬を置いて行った。二、三日で熱は下がるだろうと言われたが、解熱剤の効果が切れるとまた熱が上がる。飲食物経由で感染する日本ではあまり知られていない病気だった。現代日本の衛生管理下ならほとんど感染しない。
俺がこんなところまで連れてきたからだ。そんな考えがどうしてもまとわりつく。簡単に帰国させられるなら治った翌日にでも送り返したかもしれない。ただの風邪ならそこまで思わなかっただろうが、よく知らない病気で、昨日まで怒鳴り合っていた相手が指一本動かすのも億劫そうに胸を喘がせていると堪らなかった。
薬と水と氷枕を用意したら、後は何もできない時間が続く。ベッドの横に座り込んでずっと様子を見ていた。
深夜。すすり泣くような声で目が覚めた。
薬で二郎の熱が下がって呼吸が穏やかになると布団の端に顔を伏せて一緒に眠っていた。額に手をやるとまた熱が上がっていて、緩めてある襟元から体温計を差し込む。薄く開いた左右色違いの目に涙が滲んでいた。表面張力で支え切れなくなった雫が熱い頬に零れるのを指で拭った。
カサカサになった唇が動く。
「にいちゃん……」
小さな子供みたいな頼りない声がつぶやいた。
「…………ああ、ここにいる。もう少し寝ろ」
額を撫でると瞼が閉じてまた一筋涙が伝った。
薄く開かせた口に薬と水を含ませてしばらくすると二郎はまた眠り始めた。無性に酒を呷りたくなった。だけど今は飲めない。また何かあったらすぐ起きる必要がある。
無力さを噛み締めながら髪を撫で続ける他ない。
最初に発熱してから三日目の明け方頃。俺の眠っている間に起きた二郎は自力でシャワーを浴びて着替えを済ませ、布団に戻る段階で俺を起こした。起こさないようにそっとベッドを抜け出したからだが、気がつかずに寝てしまったことが悔しかった。
二郎は熱が下がった途端腹が減ったと騒ぎ出し、半日後にはほとんど通常運転に戻った。体が鈍るのを嫌がって動きたがるのを怒鳴りつけ、喧嘩半分に大人しくさせた。
それから二週間でその部屋を引き払って次の国に移動することになった。飛行機で降り立った空港からは日本行きの便も出ている。今帰せば桜の時期にも間に合うだろう。
帽子と眼鏡で顔を隠して案内表示を見上げていると、
「何ぼんやりしてんだよ。さっさと行かねぇとバス逃すだろ」
背中を押されて、黙って歩き出した。
◇手紙
『ご無沙汰しております。皆さんお変わりございませんか?
お兄さんからのご連絡もないままでしょうか。こちらも相変わらずです。
兄から連絡があったらお伝えする約束ですが、今日は別の要件なのです。ぬか喜びさせてしまったらすみません。
この手紙と同梱したCD-Rのことです。
現在の住まいを引っ越すことになり、預かっている兄の荷物を少し整理した際に見つけました。
中身は音楽データです。二人で作ったもののようですが、政府解体後に私が匿われた頃には兄たちは録音機材も一切合財手放していましたから、旧政権時代に収録したんでしょう。
他にも探して見ましたが、正式にチーム活動していた際の音源しか見つかりませんでした。
ラベルも手書きでしたし、ここにしかないものだとしたら山田さんにも聴く権利があると思い、この度送付させて頂きました。
二人の秘密を暴くようで気が咎めますが、もしよろしければそちらで保管なさってください。』
几帳面な字で綴られた手紙と一緒に送られてきたディスクをプレイヤーに挿入し、再生ボタンを押すと、十年ぶりに兄の新しい声が聞こえた。
旧政府解体計画の中でどうしても泥を被り裁かれなくてはならなくなった彼女の兄が失踪して十年。同時にうちの次兄がいなくなって十年だ。
新政府は旧政府に比べれば随分マシだが、彼女と彼女の作った新しい家族は今も政府の監視下にある。うちだって似たようなものだ。兄から連絡があればすぐにでも捜査の手が伸びる。
僕たちの生活が無遠慮な連中に踏み荒らされないために、二人ははがきの一通だって送って来やしない。
だけどみんな心配なんかしていなかった。彼女の兄のことは僕は今も認めちゃいないけど、うちの兄がついていたらどこでもやっていける。
上の兄と二人でスピーカーの前に座り、手紙の続きを読んだ。
『私にとってラップは暴力の象徴でした。
人権なんてないステージの上で倒れ込み、血を吐き、苦悶する皆さんを見ていましたから、固めた拳と何ら変わらない人を傷つけるものとばかり思っていたのです。
テリトリーバトル制度がなくなっても抵抗感は消えず、耳を塞いで過ごしていました。
だけど兄の居場所がわかる手掛かりになるのではという期待が捨てきれず一人で聴いてみたのです。
後はお聴きいただければわかるでしょう。
この中には何の手掛かりもありませんでしたが、ラップがまさしく音楽であるということを今更知りました。
ラップで傷つけあうのがこの国最大の娯楽であったH歴でも、兄はこんな音楽を作っていたのだと知りました。
よろしければ、今度そちらにお邪魔する機会がありましたら皆さんの作った音源を聴かせて頂ければ幸いです。』
手紙を畳んで封筒に戻す。兄は抱えた膝の上に顔を伏せていた。
そりゃそうさ。こんなの聞いてるこっちが恥ずかしくて顔なんか上げてられないよ。
◇祝福
illustration:たまこ様
< 本文印刷用PDF >
小さな手に引かれて並べた二つの手には同じ指に同じデザインの指輪がはまっている。
「宝石がないじゃない」
ペアリングにまるまるい目を輝かせていた五歳の神父ががっかりした顔で言った。
彼女は隣の家の末っ子だ。両親は親戚の結婚式に出かけて行った。
「なんでチビは連れてってもらえなかったんだよ」
留守番を任されているハウスメイドがそこらへんを掃く手を止め、たまたま買い物帰りに庭で遊んでいた彼女に捕まった俺たちの疑問に答えをくれる。
「新郎新婦が大の犬好きなんですよ。挙式にも大型の愛犬を三頭も連れてくるんですって」
「ちっちゃなワンちゃんだったら大丈夫だったかもしれないのに…」
大の犬嫌いがぶつくさ言うが、リードをつけたポメラニアンとすれ違っても涙目のお子様だ。
「犬が別室待機でもなけりゃ無理だろ」
「無理って言わないで!お姫様みたいなドレスの花嫁さんが見たかったのに」
ふんわりレースやキラキラしたティアラ。可憐な花を束ねたブーケ。彼女はそういうのが好きだった。その夢のような世界観で空間が満ちるイベント。それが結婚式だ。
ドレスならクリスマスのパーティーでも着ていたはずだが、生憎と家に長くて白い石造りの階段や舞い落ちる花吹雪の演出はない。
「お前が将来結婚するときは犬抜きでやれよ」
「当たり前でしょ!」
元ヤクザの外国人相手にも気丈に言い返す。
肝は座っているが、それでもまだ五歳児だ。
「あー、やだー!やっぱり行きたかったぁ!」
芝生の上で手足をバタつかせて駄々をこへはじめた。
「つっても今更どうしようもねぇだろ?次のチャンスがあるって」
「じゃあ貴方達が式をやって挙げたらどうです?」
いい加減に慰めてすぐそこにある家に帰ろうとした俺に、ハウスメイドがにっこり笑いかける。ハウスメイドも子守が面倒なのだ。他にやるべき家事もあるのに今日のお嬢様はご機嫌斜め。押しつけられる先があるなら押しつけたい。
「白詰草を編んで冠や指輪でも作ったら可愛らしい結婚式ができますよ。今日はこんなにいいお天気なんだもの」
「ナイスアイデア!」
飛び起きて芝のかけらを撒き散らしながらバンザイした少女に連れが顔を顰める。
もうこうなったら家に帰ってもしつこく呼び鈴を鳴らされるだろう。焚きつけたハウスメイドは当然あてにならない。
この家に引っ越して二ヶ月半。海外赴任なんて理由もなく、アジア人の男二人きりで生活する俺達は、周囲には夫婦ということになっている。実際、母国で籍は入れなかったけど、恋人関係から国外逃亡の共犯者になり、何年も二人きりで暮らしてきた。事実婚と言っても嘘じゃない。
母国で指名手配されている罪は冤罪だったけど、それをすぐに立証するのは難しく、家族や仲間のために国を離れた。今でもれっきとしたお尋ね者だ。
それを隠すために隙のない嘘を考えるより、母国は同性夫婦に不寛容だから移住したのだと答える方が楽だった。実際、母国は同性愛への理解においては今ひとつだ。
とはいえ、
「理解がありすぎるのも問題だな」
まんまと子守を押しつけられて青空結婚式が始まった。
新郎が二人だから二人ともお姫様ね、ときうトンデモ理論で花冠は二つ用意された。文句を垂れる割りに連れは手先が器用で、白詰草の編み方をよく知っていた。
教会は庭の芝生。サムシングフォーというおまじないになぞらえて、新しいもの、古いもの、借りたもの、青いもの揃えた。俺たちが買ってきた新品のCDと中古のレコードと、青い石のついた彼女の母のブローチだ。勝手に持ち出して後で怒られるのが目に浮かぶ。
神父役の彼女は俺たちが指にはめているペアリングを検めて、石のないシンプルなものであることに不満を漏らして蒲公英の指輪も作った。彼女の夢は大きな宝石のついた指輪なんだそうだ。
「はいどーぞ。わたしは指輪を運ぶ妖精さんだからね」
神父兼妖精の命令は絶対だ。連れが俺の手を取りペアリングと同じ指に通してくれる。
「これ花が重くてすぐ回っちまう」
緩く作られた指輪は手を動かすたびに大きな黄色い花が揺れてしまう。
「茎を締めてやりゃいい」
もう一度手を取った連れが一度指輪の結び目を解き、指にフィットするようきつめに結び直した。
「さすが素敵な旦那様だわ」
「もうぶち切らなきゃ外せねぇけどな」
「ずっとつけてたらいいじゃない」
永遠の誓いだもの、と言って肩に白いタオルを掛けた神父が絵本を開く。
「さぁ、誓いの言葉よ。いい?」
空に浮かんだ雲が太陽の前から退いて明るい光があたりの芝生を照らす。
雲間に演出されたスポットライトの中で身長100センチで舌ったらずな少女神父はえへんと咳払いをした。
「やめるときもすこやかなるときも……えーと、一緒になかよくすごしましたか?」
「過去形かよ」
「なによ!」
新郎が小さく吐き捨てた文句に素早く言い返す神父。怒ったときの彼女のママそっくりだ。
「いいじゃん。合ってるよ。すごしました」
割り込んで片手を上げ、答えるとすぐに機嫌は治った。
「はい!こっちの新郎は?」
ちゃんとしてよ、という目で促すけど案の定、
「どっちも新郎じゃねぇか」
また神父を怒らせる。やる気がないように見えるけど、でもままごとに付き合うだけの誠意はあるから許してやって欲しい。
「答えて!」
「はいはい、すごしました」
二人分の返事を受け取ると彼女は大きく頷いて手にしていた絵本をパタンと閉じた。
「よろしい!ふたりは永遠に良き夫婦です!」
その誓いの言葉があんまりデタラメで思わず噴き出した。神父っていうより学校の先生みたいで。
「はぁ、やっと終わったかよ」
集めた花弁を俺たちの頭に振りかけながら彼女は言う。
「あなた達、結婚式やってないんでしょ?」
「そんなモン要らねぇからな」
「必要よ。祝福された二人は幸せになれるんだから」
俺たちはその言葉に何も返さなかった。
大事な家族に次会える日も分からない逃亡生活は、彼女の言う幸せとは違ったから。
結婚式も誓いの言葉も俺たちにはなかったけど、共犯関係と異国でふたりきりの生活が何よりも強固な繋がりだった。
「へぇ、駆け落ちしたの?いいねぇ、ロマンだね。俺も若い頃は金持ちのご令嬢に惚れてた。財産じゃなくて優しげな彼女自身にね。だけど意気地がなくて何もせず何年も経って、気がついたら気の強い嫁と見合いしてたわけよ」
暇そうな宿の主人がカウンターに頬杖をついてチェックインの書類を書く間にペラペラ喋る。身分証の確認も適当だし部屋の管理も適当だ。几帳面な弟だったら絶対嫌な顔する。そんな宿だけど、これまで宿泊してきた様々な宿を思えば主人も疑り深くないし客も少なくて気楽な方だ。
「アンタの嫁の話よりネットは使えるのかって聞いてんだよ。外に貼り紙してただろ」
「おお、そうだった。あっちの部屋にパソコンがあるから自由に使っていいよ。時々近所のじいさんが借りに来るから、そうしたら代わってやってくれ」
戸板もない戸口から隣の部屋を覗くと、意外と新しい機種のデスクトップパソコンが木製の机に一つだけ置かれていた。壁も床も土で塗りっぱなしの床板も壁紙もない、天井の隅で古い扇風機が回っているばかりの部屋でパソコンだけが浮いている。
チェックイン手続きを済ませて連れを追いかけ、パソコンのある部屋に入ると、ブラウザのアドレスバーにはすでに暗記したURLが打ち込まれエンターキーを押すところだった。
とある日本人女性のなんでもない日常が綴られるブログだ。作った料理の写真やレシピ、友人と撮影した写真や街のポートレート。タレントや何かの専門家でもない一般人のブログだから、恐らく読者数もそう多くない。ごく個人的な、連れの妹の日記だ。
数ヶ月住んでいた街から移動して国境を越え、車中泊を繰り返し、ようやくたどり着いた宿のある街でインターネット環境のある施設を探しここに決めた。ブログを見るのも久しぶりだ。
元気に更新されていることだけ確認したらすぐに閲覧の痕跡を消して接続をやめる連れが、今日は画面をじっと見つめていた。
「何かあった?」
パスポートをしまいながら丸めた背中に声を掛けると、ぽつり。
「合歓が結婚した」
驚いて肩をぶつけてパソコン前に割り込み画面にかじりつく。
モニターには連れた同じ色の髪を結い上げて花をあしらったヴェールをつけ、真っ白いウェディングドレスで微笑む花嫁の写真が写っていた。
きれいだった。
「そっか……良かったじゃん」
近くでおめでとうを言うことはできないけど、こうしてブログに書いておけば兄が見つけてくれると思って載せたんだ。幸せに暮らしていることを教えたくて。
「ああ、旦那も、まあ悪くねぇ」
ずっと日本で暮らしていたら妹の連れてきた相手がどんなに誠実そうないいヤツでも一発ぐらい殴っていたかもしれないシスコンが。自分の手の届かないところにいる妹を大事にしてくれる男のことをそう評した。
結婚を報告する記事はいつもより長く、何枚も写真が添付されていた。
友人たちとの写真、参列した俺の兄弟と写る写真。彼女は今でも俺が兄と一緒にいるってことも信じてくれてる。
「ん。なぁ、なんか変じゃね?」
「変?」
何枚目かの写真で気が付いたが、花嫁のブーケが二つある。一つは彼女によく似合う白や淡いピンクのブーケ。もう一つは鮮やかな青と白の薔薇で作られたブーケだ。まとめて持つと半々に色が分かれた珍しいデザインのブーケのようにも見えたが、でも違う。ブーケは二つある。
「サムシングブルーって奴だろ。青いものがあると幸せになれるっつーゲン担ぎだ」
「そりゃ聞いたことあるけどさ……」
結婚式に夢見る少女が隣人だった頃に聞かされたから。
「でも普通そういうのって別の小物とかに取り入れるんじゃ……あ」
スクロールして新しい写真が現れる。
「────これさ、もしかして、俺たちの分?」
花嫁と俺の兄弟たちが三人でカメラに花を差し伸べている写真だった。
持つべき主役に渡そうとするアシスタントみたいに柄を見せて、花嫁が青と白の花束をカメラに差し出している。兄弟たちは薔薇とは別の、枝にいくつも花のついた白と紫の花を一本ずつ。
「この花ってなんて花?」
「俺がそんなの知るわけねぇだろ。……蘭じゃねぇのか?」
似てるけどよく見たことのある胡蝶蘭なんかじゃない。
「結婚式の花で検索してくれよ。一本だけ持ってんだからなんか、なんかあるんだって!」
結婚式に人気の花を調べて写真を見ていくが、これというものが見当たらない。
「…………結婚祝いの花、か」
検索ワードを変えて調べていく。そうすると間もなく兄弟たちの手にしていた花が見つかった。デンファレという洋ランの仲間だった。
花屋のウェブサイトで花の写真に併記されたデンファレの花言葉は
────お似合いの二人。
長旅で土ぼこりと汗で汚れたシャツの肩を震える手が抱く。そのぴかぴかの新郎には程遠く汚れた手に手を重ねて握りしめた。
そのブログは妹から兄へ元気に暮らしていることを伝える日記だった。世界中でただ一人のために日々更新される。
結婚式の記事はパートナーや仲間と一緒に元気に過ごしているというメッセージだ。みんなに祝福されて幸せだっていう。
それから、この写真はきっと俺たちへの祝福。
いつか聞いた舌ったらずな言葉を思い出した。
『祝福された二人は幸せになれるんだから』
寄り添って何年目かの青空の日だった。
◇二人だけのバカンス
故郷の友人から久しぶりに連絡があり、電話で声を聞いた。何気ない話の途中で「ちょっと待っていてくれ」と言われ、「構わない」と告げて待機していたらものの数秒で戻ってくる。
「I kept you waiting,Nightingale.By the way,Was breakfast this morning as some insect?」
先程まで聞こえていた友人の声に似せてはいたが地声が似ていない。声の主はすぐに思い至った。
「No, it is a bagel sandwich of ham and egg.」
「なんだ、もう虫や蛇食ってねぇのか」
「たまには食べるが、もう森では暮らしていないのでね」
間違いなくこの男は友人だ。席を外したのとは別の。消息を絶ってから随分経つが、生きているとは思っていたから驚きはない。
「連絡があるとしたらそろそろかと思っていたよ」
「たまたまだ」
「どうだかな」
しばらく前に日本でとある元女性議員死亡のニュースが流れた。海外メディアでは取り上げられなかっただろうが、ネットを見ていれば世界中どこにいても知れる。
十数年前にはよく名前を聞いた女だったが、政権交代して世の中が落ち着くにつれて忘れ去られていった。持病により亡くなったとの報道があってもとっくの昔に過去の人。
だが、過去のある事件に関わった人間はそれからの彼女周辺の動向を静かに、注意深く見守っていた。
彼女は我々の大事な友人に罪を着せてこの国から追い出した人物だ。男女平等な時代の訪れと共に表舞台から退いて尚、女性たちから宗教じみた支持を得て一定の権力を握っていた。その力の及ぶ範囲内でなら、彼女が白といえば黒いものも白となる。
証明の困難な冤罪により友人は海外へと逃れた。旅立ちの前に少しでも助けになればと、いくつかの情報を渡した一つが故郷の友人の連絡先だった。それも今まで使われたことがなかったのだが。
今は例の女性の死により国内の裏事情が変わりつつある。
彼女の指示で口を閉ざしていた人物が今になって新たな事実を証言したのだ。まだ公表されていないが、これは我々にとっては大きな一歩だった。
「今は理鶯一人なのか?」
「ああ、パートナーは今も仕事が忙しくてね。……もし側にいたとしても黙っていたさ。彼は人一倍後悔していたからな、次にお前と話すときは全ての証拠を揃えた後だ」
「それがいい。元気にやってんなら他に言うこたねぇよ」
俺のパートナーは警官だ。過去の事件では自分の立ち回り次第で冤罪を防ぐことが出来たのではないかと悩み、友人がいなくなってから真実を明らかにするための証拠集めに奔走していた。
彼は強い男だが繊細で柔らかい心を隙のないスーツに隠して生きている。今も証言者との交渉に神経をすり減らしているところだ。吉報とはいえ悪戯に心をかき乱すのは得策ではない。
「こちらのことは心配はいらない。みんな元気だ。彼女も……」
お前の妹も元気だと伝えようとしたところ、友人が言葉に言葉を被せる。
「そういやお前、最近どんぐり蕎麦なんて作ったんだってな」
「よく知っているな」
「定期的に見てる料理ブログに載ってたんだよ。載ってたのがコウモリ料理なんかじゃなくて安心したわ」
「なるほど、そういうことか」
友人の妹はあまり目立たないよう暮らしていたが、数年前からブログを始めた。料理上手な女性だったので、周りも気分転換になるならと応援していたわけだが、本当の目的はきっとこれだったのだ。
地球上のどこにいるかもわからない兄に自分の安否を絶えず伝えるための日記。可憐な見た目によらず強かで聡明な女性だ。
二人きりの兄妹が離れ離れで暮らしているのだからお互いさぞ心配だろうと思っていたが。一方通行とはいえ少し安堵した。
「そっちはどうだ。電話口は一人なのか?」
「んー……」
声が尻すぼみに遠くなる。何か背後で騒ぐような声がした。
「テメェのダチ連中とカードで勝負してるが、お前に教わったイカサマ全部筒抜けでだいぶ弱ってやがる」
「イカサマとは人聞きが悪いな。ちょっとした手品のテクニックだ。昔仲間内で流行った技でね」
「最初から勝ち目ねぇんじゃねぇかよ」
また電話口から離れて背後に呼びかける。「タネ全部バレてるってよ」に対して聞き覚えのある声が文句を垂れた。元気そうで何よりだ。
「二人とも、こちらへ来る予定はないのか?」
「さあな」
「完全解決にはまだ時間がかかるだろうが、もう間もなく必要な証拠が集まる」
「アイツはやる男だからな」
面と向かっては褒めないくせに、俺が伝えないことを承知でそういうことを言う。
「だけどお前らにゃ悪いが今の暮らしも悪くねぇんだ。まあ、気が向いたらいつか戻るわ」
「そうか」
軽く言う背後でまた友人のパートナーの賑やかな声がした。いくつになってもあまり変わらない様子だ。
もしかすると、彼らはまだ長いハネムーンの途中なのかもしれない。日本にいた頃は敵同士から始まり、ややこしい立場や複雑な執着心がしがらみとなっていたようだった。
耳だけで拾う友人はいつもイラついていた昔よりも肩の力が抜けて楽しそうに聞こえる。
「それじゃあな」
「ああ、いや、他には誰かに伝言もなしか」
あまりにもあっさりした終わりを引き留める。彼らの様子を知りたい者は多い。俺だけが連絡を受けたのは口の硬さと余計な詮索をしないという信頼あってのことだろう。
尋ねられてから数秒悩んで友人は言った。
「それならヤツに先月のアメリカのヒットチャートで一瞬だけトップになった新人バンドのアルバムを買えって伝えてくれ。配信版じゃなくCDの方だ」
その伝言は正確に受け取り、友人のパートナーの兄に伝えた。誰からの、とは言わなかったが、こちらも察しのいい男だったので黙って頷いてくれた。
その数日後。山田一郎から連絡があった。先日のアルバムの件だ。
「理鶯さんは聴きました?シークレットトラックなんすけど」
そのCDアルバムには配信版には含まれないシークレットトラックが存在した。現物を持った山田一郎と会ってそれを聴いた途端に笑ってしまった。プレイヤーに繋いだイヤホンをしたまま山田一郎を見れば彼もにやけた笑顔で「アイツら馬鹿でしょ?」と呟く。
ライブ音源のそのトラックにはアルバムのアーティストの他に数名の声が混じっていた。そのうちの二人は紛れもなく我々の知る人物で、昔山田一郎が使っていたパンチラインをアレンジしたリリックを堂々と歌っていた。
山田一郎自身は海外でも知られたアーティストだからコアなファンならネタが分かる。同時にファンがこうしてパンチラインを借りることはそう珍しくない。この曲だけでステージに紛れ込んだ二人の正体を断定できるものではない。
加えて、山田一郎のファンは恐らく彼ら二人の味方なのだ。わざわざ日本国外のアルバムのシークレットトラックを見つけて通報したりしない。
「捕まりゃしねぇと思って随分楽しいことやってんじゃねぇか。心配して損したぜ」
しかも俺が好きそうなバンドだって分かってて聞かせやがったな。悔しそうに言う様が面白い。
「この調子だと他にもどっかに紛れ込んでるかもしれねぇから探してみます」
「もし見つけたら教えてくれ」
「もちろんすよ」
頼もしい承諾からしばらくして、有言実行の萬屋がいくつかのCDと海外ニュースの画像を持ってきた。そのどれも二人寄り添って笑い合っている。
やはりこれはバカンスなんだろう。音楽を辿ればきっと、世界の何処かに二人はいるのだ。