ご依頼は恋の話6/いちひふ/11242

「いち兄!いち兄どこですか?!」
 三郎が二郎不在の時に騒がしいのは珍しい。寝起きで顔を洗っていた洗面所から顔を出せば血相を変えて飛びついてくる。三郎は遠慮がちでこういうことは本当に珍しい。
「あ、あ、あの、これはどういうことなんですか……?」
 震える手でコピー紙を差し出される。何か家で印刷したものだ。それを見ようとした矢先に外でけたたましいエンジン音がして二郎が勢いよく玄関から飛び込んできた。
「兄ちゃん!!」
「おお、早かったな」
 二郎は今日はヨコハマに出掛けていたはずだ。出発時間から計算するとトンボ帰りだった。
 背負っていたリュックサックから途中のページを開いて丸めた雑誌を端が千切れるのも気にせず引っ張り出して三郎同様に突き出してくる。
「これ、ここに書いてあるのは嘘だよね?捏造写真だよね?!」
「当たり前だろ!お前じゃあるまいしいち兄がこんなチャラいことするわけないだろ!」
「うっせぇ!今は兄ちゃんと話してんだからガキは静かにしてろ!」
 白黒の薄暗い写真と細かな文字と、ありきたりな見出しのついた記事を読む前に喧嘩が始まり、それを仲裁しようとしたら今度は電話が鳴った。まだ午前中だっていうのに忙しい日だ。
 携帯の表示を見れば一二三だった。
「はい山田。朝からどうしたんすか一二三さん」
 電話に応じた途端に騒がしかった弟たちがピタリと止まる。
『おっはー。まだいっちん知らねー感じ?』
「なんの話っすか?」
『へへへ……えーっと』
 普段迷いのない一二三らしくもない。返事を待っている俺の目の前に弟たちがそれぞれ手にした紙と雑誌を改めて差し出した。三郎の方はネット記事をプリントしたものだ。雑誌と同じ写真がカラーで載っている。
「なになに?山田一郎、伊奘冉一二三、白昼堂々ショッピングモール駐車場で熱烈抱擁」
『それそれ』
「はぁ?!」
 写真をよく見ると辺りの景色やそれぞれの服装に見覚えがあった。以前二人で買い物に出た際の写真だ。ここに書かれている記事は誇張が酷いが確かにショッピンモールに行った。
 青くなればいいのか赤くなればいいのか。電話口の一二三のへらへらした喋りの向こうで幽霊のような陰鬱さで「すいませんすいませんすいませんすいません」と繰り返すのが聞こえる。そういう一風変わったBGMなんかじゃない。人の声だ。
『それでさ、いっちん今家?』
「はあ……」
『よかったー、今からそっち行くからちょっちお待ちー』
「いや待てよ、今うちに来たら尚更ヤバいんじゃねぇか?また写真撮られちまうだろ」
『いや、おれっちもそう思うんだけどさぁ。うちの独歩ちん言い出したら聞かねんだよなぁ』
 のんびり話すバックで車が止まりドアが開かれる微かな音がした。バタンという音は二郎が帰宅してから開けっ放しの玄関と携帯の両方から聞こえてくる。続いて忙しない足音も。一番に事態を理解した三郎が玄関に走って行って招かれざる客たちの姿を見るや否や叫んだ。
「バカばっかりか!!」
 その叫びの下で観音坂独歩の「すいませんすいませんすいませんすいません」が安定したリズムを刻んでいた。

 応接室に通すと、勝手に座ろうとする一二三の襟を掴んで独歩が叱りつける。
「一二三!遊びに来たんじゃないんだぞ!」
「へーへー。めんごりーぬ!」
「一二三!!」
「あの、いいっすから座ってください」
 放っておいたら永遠に漫才が続く。
 珍客をソファに座らせ弟たちに頼んでお茶と、独歩が持参した菓子折りを茶菓子として並べ、やっと落ち着いて話ができるかと思ったら今度は二郎と三郎が俺の目の前で客に向かって仁王立ちだ。
「テメェこの件どう落とし前つけてくれんだ、アァ?!」
「ヒィッ!すいません!」
「観音坂さん、伊奘冉さんはもういい大人のはずですし貴方が代わりに謝罪する場面ではないんですよ。ですよね、伊奘冉さん」
「へへへー、お騒がせしてめんごりんご!」
「こら一二三!すいません!すいません!この度は弊社の一二三が……」
「独歩ちーん、麻天狼は会社じゃねーよぉ」
 ダメだ。話にならない。
 狛犬のように立ちはだかる弟たちを無理やりソファに座らせ、あまり人に見られたくはないが、例の雑誌を応接テーブルの上に広げた。
 当然一二三たちもこれを読んで駆けつけたから驚く者はいない。代わりに顔面蒼白の独歩がウナギのようにぬるりとソファから滑り落ちて流れるように床に手をついた。
「この度は一二三の軽率な行動によって多大なるご迷惑をおかけし誠に申し訳ございません!」
 毎日述べているかのような淀みない詫びだ。二郎がちょっとひいている。
 軽く一二三に合図して土下座はやめさせた。十歳以上も離れた大人が目の前で土下座なんて弟たちの教育にもよくない。
「迷惑っつーか、確かに一二三さんの発案で買い物には行きましたけど写真の通り、その……こういう体勢になったのは不意打ちで現れた女性から庇おうとした俺のやらかしなんで」
「そうそう、目隠し的な?だから大丈夫だって言ったろー?」
 俺から説明するとやっと少し肩の力が抜けた。独歩のだ。一二三は最初から抜けているし人一倍取り乱している独歩のお陰で弟たちの緊張もとっくに解れている。
「もちろんここに書いてあることは誇張ばっかりっすけど、萬屋への依頼の都合で一二三さんたちのマンションに定期的にお邪魔してたのは本当なんで。今後気を付けます。これからはこういうマスコミの監視の目もキツくなるでしょうし」
 弟たちの手前「依頼の都合」とは言ったが、状況確認だけなら電話でも充分だ。わざわざ会いに行っていたのは依頼より一二三に会って食事をすること自体が目的だったからに他ならない。
 取材と称した余計な人間が弟たちに近づくのも問題だし、ホストである一二三の本業にも差し障る。
「当分は余計な接触を控えます」
「うん。みんな驚かしちってごめんな!」
 あっさりと導き出された今後の方針に誰も何も言わなかった。喜んで賛成を表明するかと思った弟たちでさえも神妙に黙り込んでしまったから明るい一二三の言葉が空元気のように響いた。

 待たせていたタクシーに戻ると善良な運転手が気遣わしげに視線をくれる。
「待ってる間に記者っていう男が私にも話を聞きに来ましたよ。断っときましたが」
「すいません、助かります」
 朝呼びつけたマンションまで戻ってもらうよう頼んで後部シートに体重を預けた。
 一二三は仕事明けだったし、俺もなんとか半休を頼み込んでやって来たから戻ったらすぐ出勤の支度だ。
 車が走り出すと一二三は静かになった。横目で見た様子では眠るわけでもなさそうだ。
 スーツは着ていないのに山田兄弟の前でふざけていたのとは別の顔をしている。
「一二三、お前今回は笑わないんだな」
 一二三が視線を投げているのと反対側の窓からイケブクロの街を眺めた。
「笑ってたっしょ?おれっちはいつもこんなもんだよ」
「そうじゃない。お前、俺と暮らしてることを何度面白おかしく書かれたってその度にゲラゲラ笑い飛ばしてたじゃないか」
 三十路の男二人で暮らして仕事以外に女っ気がないとなれば色々言われるものだ。何気ない行動を切り取って騒がれる。正直な話、今回のゴシップ記事も相手が俺ならどうってことはなかった。
 出勤前の時間に知人からの連絡で話を知った時、一二三はいつもと様子が違った。
「それは独歩はほぼ家族っつーか、今更だし」
「一二三、俺たち何年の付き合いだと思ってんだ」
 強めに言うと言い訳をやめた。それで充分だった。
 ガチじゃないか。ため息が出る。
「自分の年齢わかってるのか。十歳も離れてる」
「わかってるってー。だから“いいお友達”ってヤツ」
「テリトリーバトルでこれをネタにやり込められるかもしれないし」
「シブヤのヤツの賞金全ツッパ話よりヤバくなくね?」
「アレは本人が全然気にしてないからどう見たってノーダメージだろうが!!」
 つい大きな声が出た。ミラー越しに運転手の心配そうな視線とぶつかって咳払いで誤魔化した。
「俺も……最近は休日まで接待で忙しくて買い物とか付き合えなかったのは悪かったよ。これからはもう少しスケジュール調整して俺が一緒に行く」
「うん」
「先生も心配して連絡くれてたし、何かあれば言ってくれって」
「じゃあ今度三人で買い物だな」
 それはきっと楽しいし他の誰かと行くよりも安心できるだろう。だけど、その楽しい約束までの時間に俺は取引先との会食に付き合わされて、運が悪ければそこに先方のご令嬢も同席する。実際にしばらく前にあった別の取引先との会食でそういうことがあった。要するに見合いだ。テリトリーバトルに出場してから女性からの誘いが増えている。増えているというか、それまでは皆無だったのに誘いが発生するようになった。
 上司からは直接見合いの打診をされて断った。この間の会食でも俺が陰鬱で気が利かないばっかりにご令嬢に失望され、そこから先のお誘いはなくなったからどうせまともな見合いも上手くはいかないだろう。
 それから同僚や学生時代のクラスメイトという人物からの連絡も増えた。こちらは誰だったかも覚えてない人間だ。強引な誘いに負けて飲みに行くと、俺が面白おかしく話ができないせいで興味もない向こうの近況を聞かされたりする。高校で一緒だったという小鳥遊という名のリア充は今年結婚予定の彼女がいるんだそうだ。結婚式に出席して余興を頼みたいという話だった。当然あれこれ理由をつけて断ったけど。
 テリトリーバトルで有名になってから突然周囲の目が変わった。それまではプライベートな話をする相手もごく限られていて狭い世界に過ごしていたからあまり気にならなかったのに、シンジュク代表の名前につられた連中との付き合いが増えるごとに世の中の動きが見えてくる。少なくとも俺は、このまま会社員としてやっていくなら、いつか結婚とかいう厄介な社会制度と向き合わねばらなくなるだろう。正直面倒だとは思うがポリシーがあって独身でいるわけじゃない。よく知らない女性と一から関係を築いて一緒に暮らすことのハードルが高い上に、家事を任せられて料理の上手い幼馴染と暮らしているお陰で独身なりの不便ってものがないだけだ。
 ずっとこのまま暮らしていけたら楽だと思うけれど、周囲を見ているとこのままではいけないような気もしてくる。一二三が誰かのことを大事に思っているなら尚更だ。別に相手が女性じゃなくてもいい。長く続いた二人暮らしの外側に目を向けることは、きっと悪いことじゃない。
 それに結局彼と上手くいかなければ毎日俺の飯ばかり作って休みには先生と三人で釣りに行く生活に戻ってきたっていいんだ。
 これは幼馴染の勘だ。お前、今回のことは結構真剣だっただろ?
「……一二三、一郎くんはいい子だ、と思う」
 振り返らなかったけど一二三がこっちを向いたのはわかった。
「お前が後悔しないなら、俺はそれでいい。落ち込むことがあっても、一応、俺がいるし」
「なんだよ、急にカッコいいこと言うじゃん」
 だって親より誰より長く一緒にいるんだ。俺がコイツのことを認めなけりゃ誰が認めてやれる。一二三は口笛なんか吹いて茶化してきたけどそのうちやめてポツリとつぶやいた。
「サンキュ、独歩ちん」
 顔を向けないままで拳を軽く持ち上げる。間もなく同じように軽く固めた拳がコツンと当たった。

 電話を受けに行った三郎が変な顔をしてすぐに戻ってきた。また無言電話だ。前から無言電話や実りのない依頼メールはあったが、最近は特に多い。
「この間の週刊誌発売からだよな。ホスト野郎のファンが僻んでやってんのかね」
「こら、失礼だぞ」
 ぼやいた二郎を諌めはしたがタイミングが良すぎた。マメにこちらの様子伺いの連絡をくれる独歩にこの話を漏らすと平謝りで、一二三本人には言わないように頼んだが少し後で一二三本人と連絡を取り合った際には把握されていた。独歩が隠そうとしても不安が表に滲み出てバレるらしい。
 先週までは続けていた一二三の自宅での昼食もやめている。代わりに電話で報告を頼んでいたけど、広神みたいに直接会わない代わりに携帯での連絡が増えるなんてことはなかった。むしろなんとなく遠慮が生まれて疎遠気味になっている。
 もうすぐテレビアニメの切り替わりシーズンだ。客との話題のために一緒に見ようと誘われていたシリーズも始まるが、この分じゃ先のどんな約束もなかったことになる。
 妙な感傷と捗らない仕事にモヤモヤを抱えていた。
 そんなある日、久しぶりに依頼人から電話があった。一二三からの報告を受けるたびに簡単にメッセージを送っていたが、向こうから連絡してくるのは久しぶりだった。
『その、何もないかもしれないけど、一応報告しておくんだけどね』
 困惑した様子で告げられたのは広神が仕事を辞めたらしいという話だった。転職の可能性はあったが、そこまでの話は本人でないとわからない。依頼人も人伝てに聞いたっきりで、何度も「別に大したことはないかもしれないんだけど」と躊躇いを見せた。
 だけどタイミングが悪い。一二三は同居している独歩とのゴシップ記事は何度も書かれていて、その度に笑い話にしていた。実際同居はしていても何もないんだからどうしようもない。店ではいっそ持ちネタ化しているらしい。でも相手が他のディビジョンの代表っていうのがよくない。週刊誌の記事の中でも面白おかしく書かれていた。
 どうやら一二三の部屋に通い始めた頃から目をつけられていたらしく、部屋通いを始めた正確な時期まで書かれている。それはつまり、一二三が広神に来店を控えるように言った時期だ。
 念の為に一二三にも伝えた。今も広神と頻繁にメッセージのやりとりを続けているというのに、広神は一二三に退職の件を伝えていなかった。
『なーんか嫌な予感すんなぁ』
「そういうわけで、しばらく身辺に気をつけて何かあったらすぐ連絡下さい」
 それから萬屋の仕事で出掛ける時にも出先からシンジュクに向かうルートを意識する日が三日続いた。
 四日目。最近では珍しく新規依頼の打ち合わせが入った。ここのところリピーターの仕事ばかりで迷惑電話の影響もあってから、新規依頼は減っていたから今度こそ、という気持ちで待っていた。
 月曜の昼間だ。弟たちは学校で留守だし事務所まで来るというので一人で事務作業をしながら約束の時間までの暇を潰していると、一二三から電話が入った。
『あ、いっちん今どこ、家?俺っち近くまで来てるんだけど』
 声に焦りが滲んでいる。
「どうしたんすか、まさか……」
『いや、だいじょぶ、俺は大丈夫なんだけど、ちょっと……』
 一二三が言いかけたところで呼び鈴が鳴った。新しい依頼人と約束した時間の少し前。律儀な依頼人がやってきたらしい。
「すんません、打ち合わせ予定の客が来たみたいなんでまた後で聞きます」
『あ、ちょっ!』
 施錠していない入り口のドアが押し開かれ、依頼人の姿が見えると待たせても置けない。通話を切って出迎え、ソファに案内した。
「すみません、お世話になります」
 化粧の濃い顔に反して声は弱い女だった。
「今お茶淹れますんで、ソファの方でお待ち下さい」
 応接セットに案内して簡単に用意してあったお茶を取りに行く。一応客商売だ。二十歳そこそこの社長が一人で切り盛りしているといっても最低限の応対設備ぐらいはある。
 ポットに用意していた湯で日本茶を淹れた湯呑みを二つ。盆に乗せて事務所に戻る。
「お待たせしました」
 ドアを開けるとすぐ見える位置にある応接セットに女の姿はなかった。目が室内を見渡す僅かな時間。視界の端に陰を捉えて一歩引き、突き出された包丁を避ける。バランスを保った盆に下から振り回された女の手が当たって湯のみが跳ねた。
 湯が掛かった女は慌てて跳び退き、入り口前の床で二つの湯のみが割れて水たまりを作った。
 反射的に手を腰のマイクにやったが距離をとって相手の姿を見ると、嫌に切れ味の良さそうな包丁を握ってはいるが細腕の女だ。精神干渉にも慣れているとは思えない。ダメージをコントロールすることは出来るが、それでも余りにも弱そうな人間を相手にするとやり過ぎてしまう恐れがあった。こういう繊細な仕事は寂雷辺りが得意だ。
 得物があろうと素人の女一人ぐらいマイクなしでいける。そう判断して両手を開き、念の為交渉を試みる。両手を挙げて、ゆっくり一歩踏み出し。
「おい、それを手放してくれ。そうしたらこっちからは何もしねぇから」
 女はこちらが詰めた距離の倍後ずさった。腰が引けてる。こっちが丸腰でもやられる気はしない。だけど女もそれは分かっているらしい。無言のままにこちらに向けていた包丁を持ち替え、自分の首筋に当てた。袖口が滑って包帯を巻いた手首が見える。
「やめろ、早まるな。アンタが何かしてもすぐ医者を呼ぶから無駄に痛い思いするだけだ」
 それでも女は小さく首を振った。鋭い刃が肌に当たりそうだ。
 最悪怪我はしても死なせはしない。隙を見て踏み込んで、怪我をしても止血と救急搬送すれば助かる確率の方が高いだろう。だからといってすぐに強引な手段に出る判断は下せない。
 困って見つめ合っていると入り口に新たな足音が近づいてきた。走っているような忙しない音を立てて呼び鈴も押さずにすぐそこまで来る。間が悪い。ちらりとそちらを伺った時、俺より先に、こちらには返事をしなかった女が叫んだ。悲鳴みたいな声だった。
「一二三!」
 その声で一瞬女から目を切らして扉を振り向いた。スーツ姿の一二三が扉を押し開け、躊躇いなく室内に飛び込んでくる。
「子猫ちゃん!」
 こちらには目もくれず、腕を広げて包丁を持った女に近づいていく。女も包丁を首から離した。
 女、広神はこわばった表情のまま一二三の腕の中に納まった。そう、彼女は広神だ。写真で顔は知っているつもりだったのに化粧で騙されるなんてとんだヘマをした。
 包丁はまだ彼女の手の中にあったが、俺が近づけば余計な刺激となる。緊張したまま抱いた女の頭を撫でる一二三を見つめた。
「ああ……ここに来ると思っていたよ。あんな連絡を寄越すから心配したんだよ」
「一二三……ごめんなさい」
「いいんだよ、自分を大事にしてくれたら」
「ごめんなさい……」
 半分死角になった一二三の背中のあたりで女の手が抱き返すように動く。でも抱き返すにはおかしな動きだ。それに違和感を覚えて近づこうとした時。
 スーツのジャケットに差し込まれた包丁がその布地を派手に切り裂いた。縫い目付近で裂けた布をもう片手で引くと正面のボタンを留めずに着ていたジャケットが簡単にずり下がって肩から落ちる。
「あ」
 そのことを自覚した一二三がぴたりと動きを止める。白くなっていくその?に片手を添えて女が顔を近づけた。
「ヒィッ……!」
 短い悲鳴とほとんど同時に一二三は女を突き飛ばし、その勢いで自分も床に尻餅をついた。一二三の登場により血を見ずに片がつくかと思われた事態が一変する。
 すぐに一二三に駆け寄って肩を支えたが、その間に女はまた距離をとって、今度は応接セットと事務机を挟んだ向こう側で再度首に包丁を当てた。本気になれば俺が駆けつけるより女が自分の首を切りつける方が早い。
「やっぱりダメなの?私も一二三と一緒なのに……スーツを着てなくてもその男にはあんなことさせてたのに」
「誤解だ!」
「何がよ。アンタでしょ、一二三に私と会わないよう命令したのは」
 ゴシップ記事の弁明をしようとしたのに図星を指されて一瞬返答が遅れた。それを肯定と見抜いて女が声を荒げる。
「やっぱり!やっぱりアンタが私のこと邪魔にしたんだ!」
 駄目だ。恐らく俺が何を言っても火に油だ。
 流血と精神干渉を瞬時に天秤に乗せ、自分のマイクを取ろうと、女に見えないよう手をやった。その手を一二三が掴む。
 震える手で、それでも強い力で手首を掴んで止められた。横目で一二三を見ると真っ青な顔で彼女を見つめ続けている。過呼吸寸前で喉を通る息が嫌な音を立てている。そんな中、搾りだすように呟かれた声は体を支える俺の耳にだけ届くような微かなものだった。
「ご……ご、ごめん…………でも、俺が、俺がっ、やん、やんなきゃ……」
 一二三は俺の手を放すとその手で自分のマイクを握り、体の陰でスイッチを入れた。でもバトルでやり合えるような精神状態じゃない。ヒプノシスマイクは刃物や鈍器よりずっと使用者の腕前や精神力に依存する武器だ。今の調子じゃ、そのへんの一区画を仕切る程度の雑魚チームとやり合ったって負ける。
 やっぱり無理だ。もう一度俺もマイクを掴もうとすると首を振る代わりに小さな声で止められる。
「お、俺が助けなきゃ……だ、だから、手ぇ出さないで」
 女が怖くて別人格まで作り出したのに無茶苦茶だ。複数での喧嘩なら動ける奴が動けない奴の分まで働くもんだ。ろくに動けない人間に無理をさせてもいいことなんかない。
 でも、女と一二三は真っ直ぐに見つめ合っていた。失望と恐怖で染まった目で。
「自分で、助けたい」
 震える足を叱咤してなんとか立ち上がり、支える手から重みが消える。立ったかと思えばすぐにフラついて、また支える。それでも一目もこちらを見なかった。隠れようともしない。頭を抱えることすら。
 一緒に出掛けた日には女を見るたびにパニックを起こして背中に隠れて、頭を抱えてしゃがみ込んだのに。一人で女に遭遇した時なんかトイレに隠れてずっと出てこられなかった。そんなにも恐ろしいものが俺にはないから、それと立ち向かうのがどれほどのことかもわからない。
 それでも今、スーツという鎧なしに向き合おうとしている。自分を苦しめる存在を助けるために。
 一二三はなんとか踏ん張っているが、まだ体は震えているし頼りない。その薄っぺらな背中に手を当てて、グッと力を込めた。
「……わかったよ。大丈夫だ、アンタは宇宙一カッコいい男だからな」
 宇宙一カッコよくて強い男になるための魔法。ホストとして煌びやかなフロアに立つための。女を幸せにしてやれる最強の男になるための魔法の呪文を唱える。
 僅かに一二三の体から余計な力が抜け、煌めくマイクを持ち上げた。辺りの空気が一瞬で華やぐ。それを見た女がグッと刃を首に食い込ませたが、一二三の表情の変化に目を奪われて手が止まった。
 その時、俺が間近で見たその横顔は蒼白なのに美しくて、酷く優しい微笑みを称えていた。

「いやー、今回もお世話になりました!」
 椅子に座って深く頭を下げる一二三と一緒に俺も頭を下げた。寂雷は悠然として首を振る。
「女に狙われるたびに先生頼みってわけにもいかねーしぃ、今回は自分でやれっかな?って思ったんすけどー」
「俺も見込みが甘かったせいで結局先生に頼っちまってすんません」
「一二三くん、一郎くん、顔を上げて。私は医者の本分を全うしたに過ぎないんだからね。君たちが頑張ったお陰だよ」
 顔は上げても素直に喜べるわけではなかったけど、隣の一二三は照れ笑いと苦笑の中間のような曖昧な表情で笑った。
 事件は一週間前に遡る。
 萬屋の事務所で包丁を構え、自殺を仄めかした広神と対峙した俺たちは睨み合った。一二三のスーツは切り裂かれてホストモードを奪われて、それでもなんとか一二三はワンバースをやり切った。それと同時に広神が刃物を取り落としてその場に崩れ落ち、それを見た一二三も極度の緊張から気が抜けてしまってその場に倒れ込んだ。
 二人がそれぞれ呼吸しているのを確かめた後、シンジュクの寂雷に連絡を取って二人の受け入れを依頼し搬送した。
 彼女は入院して寂雷のケアを受けることになった。家庭の事情を考慮して面会謝絶扱い。入院費用は相談となるが、退院するまでは日本で一番信頼できる医者の下で安全に過ごすことができる。
 一二三も目が覚めたらいつも通りだった。スーツは一着ボロボロになったが怪我はないからとその晩も気丈に出勤し、一週間後に二人でまた寂雷を訪ねて経過を聞いた。
「今は随分落ち着いてるよ。精神干渉の後遺症も見られないし。一二三くんの心配をしていたけど会うべきではないから会おうとは思わないと、自分ではっきりそう言っていた」
「そっすか。あざっす」
 ホッとした様子で一二三はまたぺこりと頭を下げた。
「もう少ししたら自助グループにも参加するそうだよ。彼女と一緒にね」
 その話は俺に向けて。
「重ね重ねありがとうございました」
「何もしてないよ。私は彼女に取り次いだだけで、交渉は君が全部やったんだからね」
「彼女?」
 一二三が首を傾げる。実際に行動する時になってから説明しようと思って言いそびれていた。
「ほら、前に一二三さんを刺した女性っすよ。彼女、今依存症の自助グループのミーティングに定期参加してて、俺が事情を説明して協力してもらったんす」
 依存症は寂雷のヒプノシスマイクを使っても一朝一夕に完治するものではない。当然、依存しているものから切り離すことは必要だが無理に取り上げたらそれで終わりってことにはならない。
 そんな重い依存状態に悩む人が集まって自分の体験を話したり人の話を聞くことで回復を目指すグループが存在する。
 そのことを調べた時に一度寂雷に相談して彼女を紹介してもらった。広神に一番共感できる人間だと思ったからだ。
 当然直接交渉してみて無理だったら諦めるつもりもあったが、彼女は落ち着いた様子で話を聞き、最終的に引き受けてくれた。それが一二三への償いになるなら、と。
『今も一二三のことは大切だし、何かしてあげたいと思う。でももうお客さんにもなれないし、一二三に求められたわけでもないのに尽くしたいと思うのも、今は怖いの。押し付けの好意は本当に相手のことを考えてるわけじゃないでしょ?今回協力することも、一二三の助けになりたい自分のエゴじゃないか悩んだわ。もし一二三が少しでも嫌がるならすぐにやめるから、そのことは分かっていて』
 当然一二三は嫌がったりしなかったが、リアクションを伝えることもしない約束になっている。結局、彼女に協力を求めたことで一二三と繋がりのない生活を送ろうとしていた彼女を僅かでも引っ張り戻してしまったのは俺の罪だ。
 二人のことは今後も定期通院を通して寂雷が見守ってくれるという。当然俺も、広神の友人である依頼人を通して様子はうかがって行くつもりだ。力になれる事があれば言ってくれとは伝えたが、少なくとも広神は俺の手を借りたいとは思わないかもしれない。
 とにかく、長くかかった依頼は終わった。広神が一二三の前に現れることは二度とない。後は残った借金をどう返し実家を離れて親の干渉を受けない自立した生活を送るか、依頼人の世話になっている弁護士の助言や活用できそうな公的サービスを模索しながらやっていくことになる。
 寂雷の病院から出る直前、一緒に歩いていた一二三が足を止めた。
「いっちんもサンキュ。長いこと付き合わせちったし、あの時は俺っちのワガママ聞いてくれて、さ」
 一歩先でこちらも立ち止まって振り返る。
「こっちこそ、すげー世話になりました。めちゃくちゃ具合悪そうなのに無茶しやがると思ったけど、それでもアンタならやってくれそうな気がしたから任したんすよ」
 一二三は茶化した笑い方をして大股で俺の立っている位置に追いつき、追い抜いて先に病院を出た。外は良く晴れていた。
 そのまま一二三は自宅へ、俺は別の依頼の現場に向かうためにそこで解散した。
 これでこの話は終わりだ。
 携帯のメッセージアプリを開くとメッセージの新着順にトーク相手の名前が上にあがってくる。一週間もしたら一二三の名前は随分下の方に埋まって、見ようと思って探さなければ見えないところへいった。
 後はテリトリーバトルで会うかもしれない。それだけだ。