場所はヨコハマの端のマンション。いくつか所有している寝床の一つだ。カーテンの隙間から時計代わりに外を見ると空が白んでいた。朝が近い。
数時間前に室内を満たしていたΩのフェロモンはずいぶんと薄まってヒートの終わりを教えていた。
Ωも人それぞれ体質に差がある。一発ハメればさっさとヒートが終わるヤツ、数時間αのフェロモンに包まれていないと収まらないヤツ。意識が飛ぶほど抱き潰されても徐々にしか収まらないΩも少数ながらいるらしい。俺の“雌”は一発じゃ終われないが、ある程度ヤったらきちんと収まる体質だった。アッチの強いαにはΩのヒートが終わるのを嫌がってクスリを使うようなのもいるし、一晩で片がつくのを物足りないと感じる気持ちもあるが。仕事の都合もあってそう何日も付き合っていられない俺としては、まあ丁度いい。
仮にヒートが終わらないうちに俺が一度帰らなきゃならなくなったとしたら、俺としては俺の用意した部屋で一日でも二日でも俺が戻るまで留守番させておきたいが、コイツは多分大人しく部屋に留まっていない。どうせ自力で帰って残りのヒート期間をやり過ごそうとするだろう。兄弟を誤魔化して家を留守にするのを負い目に感じているから。
しかし誰がそんな真似を許すもんか。フェロモン垂れ流し状態で一歩だって外を歩かせる気はない。
そういうわけで幸か不幸か。時間に余裕があろうと一晩ずつしか抱けないと思えば不幸でもあるが。とにかく、傍にいられる間に体もフェロモンも落ち着いて、ドロドロだった下半身も潤み切った目も熱い頬も全て通常営業に戻る。ヒート中は胃腸の活動が止まる影響で食欲が失せていた反動に加えてたっぷり運動したツケも重なって、ヒートが終わった途端に腹の虫と一緒に口を揃えて腹が減ったと大騒ぎだ。
毎回こうだからコイツは弁当を持参している。そんなピクニック感覚でセックスしに来るバカは日本中探しても多分コイツだけだろう。
食べたいなら俺が舎弟に言ってなんでも手配してやるのに、何が不満だか舎弟を走らせるのを嫌がって自宅から残り物の総菜なんかを詰められるだけ詰めた貧乏くさい弁当を持ってくる。貧乏くさいし見た目は大味で可愛げもクソもないが、横から摘まみ食いする俺に「美味いか」と聞く表情は幸福そうで悪くなかった。
今回もTシャツと下着だけのだらしない恰好で身支度より先にメシだとうるさいから煙草を拾いに行くついでにキッチンに置かれた弁当を取りに行ってやった。毎回会う場所は変えているが、部屋の中の荷物の置き場所は大体パターン化されている。今回みたいなマンションやアパートの時は大体がキッチンカウンターの上だ。寝室を出て見に行くと案の定紙袋があって、一つには大きめのタッパーがいくつも入っている。でも今日はもう一つ、弁当より薄っぺらい紙袋があった。中身は、きれいに畳まれた俺のシャツだった。
服なんか何枚も持っているし、仕事で汚れて面倒になると簡単に捨ててしまうこともある。だからクローゼットから服が一枚消えても気にもしなかった。それでも記憶を辿ってみると、確かに以前コイツと会った際に着ていた気もする。一ヶ月か二ヶ月前のことを思い出して察するに、会う直前に汚れたシャツの替えを買っていき、セックスの後に新品のシャツに着替え、脱いだこのシャツを忘れた俺に代わってコイツが持って帰った、と。そんなところか。
二つの紙袋を持って寝室に戻る。
「おい、このシャツわざわざ洗濯したのか」
見たところアイロンまでかけてある。意外と几帳面だと思って尋ねると、先に渡した弁当を広げる手を止めて嫌そうな顔をした。
「ああ……それな。別に俺が洗濯したんじゃねーし」
「じゃあなんだ?まさか、いち……」
「違う違う!三郎!三郎が一昨日俺の部屋から勝手に持ち出して洗っちまったんだよ!」
禁句が飛び出そうになったのを敏感に察知して大慌てで否定されたが、その言い草もどうだ。
「一昨日?テメェがこれ持ち帰ったのは一ヶ月以上前だろうが」
大体にして、洗っちゃいけないような口ぶりだ。訝しんでバツの悪そうな顔を覗き込むと体ごと顔を背けられた。どんな後ろめたい事があるのかと睨んでいると徐々に耳の端が赤くなってくる。
「おい、黙るなや」
どうせ大した理由じゃないんだろうが、こうもあからさまに隠されると気になる。手を伸ばして顔の横に垂れた毛を耳にかけ、人差し指で耳の縁を撫でて軽く引っ張った。漸く少しだけこちらに向いた顔も仄かに色づいている。体温が上がっているようで、心地よい程度に薄まっていたΩのフェロモンが僅かに濃くなった。
「…………だって、洗濯したら匂い消えちまうし」
「匂い?」
咄嗟にその意味がわからなかったんだから俺も鈍い。汗くさいのがいいのかと思ったが、そうじゃない。
意味に思い至ってベッドの下に散らばっているガキのパーカーを拾い上げて嗅いでみた。俺に会いに来るとき、つまりヒート時にいつも着てくるパーカーだ。雄ガキの体臭に混じってフェロモンが染みついている。自分じゃ自分のフェロモンがわからないが、俺の服だって同じようにフェロモンが残っているんだろう。
そういえば、Ωには犬みたいな習性がある。番とか相性のいいαの服や持ち物を自分のテリトリーに溜め込みたがる“巣作り”と呼ばれる習性だ。話には聞いたことがあるが、これまで関係を持ったΩで本当にそれをやっているヤツがいなかったから、番持ちかごく少数のΩのやる癖みたいなもんだと思っていた。まさか番でもなく、ヒートによる性欲処理のためだけに月一で会っているような相手にやるとは思わなかった。
本人も馬鹿げたことをやった自覚はあるらしい。抱えていたタッパーを握りしめてまた顔を背けてしまった。
「クソ……三郎のせいで……」
「いやテメェの弟は関係ねぇだろ。つか洗濯されなきゃ返さねぇつもりだったのか」
「う、うるせぇ、アンタ服ぐらいいっぱい持ってんだろ?!ちょっと借りるくらいでケチケチすんじゃねーよ!」
「返せっつってんじゃねぇよ。で、この服でナニしてた?」
顔を両手で挟んで力づくで振り向かせた。首の力で抵抗しようとして不細工になった顔で唸る。
「今更恥ずかしがるこたねぇだろ。俺様の残り香で抜いてンのかって訊いてんだよ」
「うっせ!エロ親父!抜いてねーし!ちょっと枕にしてただけだし!」
「ほう、枕な」
「…………ッ!こっち見んな!」
揶揄うと首のあたりからいい匂いがする。生憎たっぷりハメてやったばかりだから余裕で我慢が効くが、向けられた背中を抱いて番化防止のための首輪に噛みついてやったら尚更にいい反応があった。時間がないのが惜しい。もう半日あればもういっぺんぐらい抱いてやれたのに、コイツは不良のクセに真面目に学校に行くし俺も仕事がある。ついでに飯にありつけない胃が俺を咎めるように鳴ったから開放してやった。まだタッパーのフタを開けたっきりだ。
もう余計なことは言うまいと無心で飯をかき込んでいる横に座る。紙袋の中の柔軟剤の匂いのするシャツに着替えて床に投げてあったシャツを代わりに丸めて詰めた。何か言うとまたギャーギャーうるさいから黙ってそうした。腹ごしらえが済んでイケブクロまでの送迎を任せている舎弟の車が到着すると、ガキもシャツの入った紙袋を覗いて黙って持って帰った。
いや、一言ぐらい言ってやったか。「部屋に洗濯もの溜め込んで弟に洗わせてんじゃねぇよ」って。
悔しそうにしたが、それ以降はちゃんとやっているらしく、しばらくの間その日貸したシャツは返ってこなかった。