五度目の朝/さまじろ/8216

 ベッドの枕元に朝の光が差し込んで目が覚めた。慣れた他人の家での朝。
 習慣で枕元に置いた携帯に手を伸ばして、背中に密着していた素肌が離れたことで服を着ていないことを思い出す。直に触れ合って馴染んだ体温の代わりに夜明けに冷え込んだ部屋の空気が背中を撫でる。
 布団から抜け出した片腕も何も身に着けていなくて、今日はいつもの朝じゃないんだと悟る。何が変わったわけでもないと思う。俺にとっては特別なことだったとしても、二人同じ気持ちなんて夢みたいなことはない。でも。
 体の間に隙間ができて寒かったのか、背中を抱いて寝ている男が体を丸めて首に鼻先を擦り付けてきた。再び他人の体温に包まれる。さっきまで自分と同じ温度のように感じていたのに、一度離れてから触れると温かく感じる。
 薄い肉の間で尻が鈍く痛む。昨夜は予想したより大事に扱われたのに、それでも本来の役割を無視してそこを使ったもんだから相応のダメージが残った。一夜明けて、腹の底に渦巻いていた欲求も解消されて、それでも幸福、のような気がするから。
 やっぱり俺はこの男が好きなんだ。
 初めて部屋に泊まった朝や、ガキみたいな触り合いをやらかした翌朝も気恥ずかしさがあって、ちょっとぎこちなくマンションを出た。それから何度も通ううちに自宅よりずっと小ぎれいな部屋を出て早朝のヨコハマをバイクで走って帰る事にも慣れた。
 今朝も、いつもより左馬刻の目覚めが遅かったから、ゆっくり起きて、腰回りに残る違和感を無視して身支度をした。
 付き合いたてのカップルみたいにベッドの中でキスをして起床なんて可愛いイベントはない。一応、体のことは気にしてくれているようで朝食は左馬刻が簡単に用意してくれたけど、それだけだ。いつも通り、軽く食べて腹具合が落ち着くと少ない荷物をまとめて「じゃあ、帰るわ」と玄関に向かう。引き留めたりもされない。いつも通り。
 ただ、リビングを出て扉の並ぶ廊下を通過して、無駄に広い静まり返った玄関で振り返る。
 見送りなんかしてくれないのだっていつものこと。だけど、振りむいてしまった。便所のついででもいいから玄関まで出てきてくれたりしないものかと。
 リビングの扉が開く気配もなかった。
 この部屋の合鍵が入ったキーケースをポケットの中で握りしめて部屋を出る。大人みたいに割り切れない自分に負けないよう、意識的に振り向かないようにしてマンションを後にした。

 鳴ったわけでもない携帯をポケットから引っ張り出して何の通知も来ていないことを確かめてしまい込んだ。
 顔を上げると応接テーブルを挟んで向かいに座っている舎弟がこちらを見ている。
「連絡待ちっすか?」
 視線も質問も気に入らなくてテーブルを蹴りつけると途端に肩を縮こまらせて俺の返事より先に「すみません!」と謝罪を叫んだ。
「……待ってなんかいねぇよ」
 用事がなければ連絡なんかしないもんだ。喋ることが目的の女なんかとは違う。メッセージアプリの履歴も簡素なもんで、仕事のやりとりや部屋に来る予定の確認がほとんどだ。特に何も用がなけりゃ何日だって、何週間だって間が空く。
 前回の連絡はほんの三日前。ヤツがうちに来る前に寄越した着信履歴だった。
 ついこの間会ったばかりだ。電話もメールもなくたっておかしなところはなかった。これが一ヶ月も音沙汰がないとか、こっちの連絡に返事がないとかなら別だが。
 何度見たって携帯には面倒くさい仕事の連絡だの銃兎からの苦情だの、そんな履歴ばかりだ。
 イラつきを隠さない俺の顔色をうかがいながらも仕事をしないわけにもいかず、地図や写真をプリントアウトした資料と自分の携帯を並べた舎弟が話を進める。
「例の、須藤会絡みの町工場の件なんですが、中王の役人が出入りしてるって目撃情報が上がってます」
「違法マイク造ってやがるって噂のとこだな。わかってんならさっさと潰しゃいいだろうが」
「それなんですが……目撃情報と言っても写真を押さえたわけでもなく噂の域を出ないもんで。これでカチコミかけて何もなけりゃ大事ですよ。あっちもこっちの足元掬うネタが欲しくて堪らないでしょうから迂闊な真似は……」
 問題の工場の地図をつまみ上げた下の紙には従業員や工場に出入りする取引先の人間の顔写真が並んでいた。片眉を上げて顎で続きを促す。
「ですから、工場の向かいのアパートの二階に部屋を押さえたんで、しばらくカメラ持って張り込みさせる予定です。一応、二人一組を三班作って交代の段取りもつけてるんですが」
「なんか問題でもあんのか」
「土曜の日中だけ一人しか確保できなかったんすよ。みんな流行屋台のシノギで出店準備だのなんだのに追われちまって」
 それで困って俺の方で手配できないか相談してきたってわけだ。俺から指示すりゃ断れない人間はいる。それこそ、週一のちょっとしたバイトぐらいならどうとでもなる。今回の件を上手く処理すればいい金になるし親父の覚えもめでたいってもんだ。
「わかった。俺の方で何とかしてやっから携帯の方にこの資料のデータ送っとけ」
 いくつか浮かんだ顔の中でこうした仕事を真面目にこなせる人間を選んで携帯のスリープを解除する。メールの履歴からそいつを探そうとして上からニ十件近く下に埋まっていた「二郎」の名前を見つけて手を留めた。
 メールアプリを閉じてメッセージアプリを選び、通話履歴を最後に会話の止まったチャットに予定を尋ねるメッセージを打ち込んだ。土曜の朝から日曜の朝までの予定だ。

 指定されたバイト先はアパートの一室。目立たない格好で来いという指示通り、顔が分からないよう帽子を目深に被ってマスクもしてきた。自前のバイクもアパートの近くに置いておけないから左馬刻の自宅マンションに置いてヤクザの下っ端が転がす大衆車で送られ、アパート内にいる人間に交代を告げて部屋に入る。
 仕事の概要は聞いている。ヤクザ同士のいざこざに関わる仕事だったから引き受けるかどうか悩む内容だったが、これまでだってシノギの奪い合いに絡む調査仕事は引き受けてきた。言い渡された端的な仕事内容だけ承知して、成果物を左馬刻がどう使うかは聞かない。「知らなかった」が建前でしかなくても建前は大事だ。今回はさすがに聞かないではおけなかったけど、一応は「幽霊目撃情報の出たアパートの心霊調査」という名目がある。調査用のカメラはずっと部屋の外を向いてるけど。
 交代した見張り役やペアを組む漢はヤクザに見えない、威圧感もなく腕っ節に自信もなさそうな、一般社会に紛れても分からないような連中だった。仕事について引き継ぐ程の内容もなく、見張り中に飲み食いしたゴミだけをまとめて「また夜来ますんで」と言って出て行った。それまで明日の夜明けまでの仕事と思っていたから首を傾げたけど、仕事終わりの時間を狙って携帯に左馬刻から部屋に上がるようメッセージが来たお陰で翌朝までの身の置き所を理解した。
「それならそうと最初から言えよ」
 部屋で夕飯を食べながら文句を言えば悪びれず「言わなくたってスケジュールは変わんねぇだろ」と抜かす。まだ自宅のあるイケブクロまで帰ろうと思えば帰れる時間だ。泊まらない選択肢は多いにある。でも勝手な物言いに反論はしなかった。
 就寝の段取りが整ってベッドに入る。この家にベッドは一つきりだし、先に布団に潜り込んだ家主がわざわざベッドの半分を空けているから。一つのベッドに寝て背中を向ける。リモコンで照明が消されて目を閉じた。
 しん、と静寂が部屋を満たす。後ろにいる気配はあっても体のどこも触れ合っていない。それなのに、向けた背中から皮膚の下がざわざわして落ち着かず、眠るどころじゃない。向こうから触れてくるのを無意識に待ってしまう。
 無言で過ごす一分一分がやけに長く、どれぐらいそうしていたかわからなかったけれど、あまりに何も起こらないから左馬刻は眠ったのかと思って慎重に体を捻って振り返った。その途端に片手で頭を掴まれて唇に噛みつかれる。舌を出すといよいよ口を塞がれて腰に手が回った。
 体を擦り付けて尻の肉を掴まれて、“その気”だと分かると興奮する半面で胸のつかえが取れたような気がする。シャツの裾から背中をまさぐって、自分がそうされたのを真似して下着に手を突っ込んで寝間着のスフェットごとずり下ろす。服を脱ぎ捨てて体勢を変えるその時、一瞬だけ目が合った。すぐに顔が近づいてきて赤い目が見えなくなる。
 二度目は体の痛みの程度も、この先どうされるのかも知っていたから怖くはなかった。
 そうして夜が明けて、一人でマンションを出て、次は来週のバイトの夜を待つんだ。

 手間ばかりかかる調査なんて警察の真似事はさっさと終わった方がいい。黒と確定してから敵陣で暴れるのが俺の本分だ。
 違法マイク製造疑惑の町工場と中王区の役人との関係は一朝一夕には暴けなかった。監視は二週間目。週末にもなると張り込みの段取りを担当した男が、尋ねてもいないのに詫びながら成果が上がっていないことを報告してくるようになった。俺のことを短気と思っているのが見え見えなのは気に食わないが、責めることなく聞き流す。
 二郎が金曜の夕方から手が空くと言うから一日早く呼び寄せた。土曜は朝っぱらからバイトだから早めにヨコハマ入りして損はない。
 金曜、土曜。日曜に帰して次は週明けの水曜、祝日。
 張り込み役の一人が水曜は都合が悪いと聞いて、あまり期待せずに前乗りを打診した。ここのところ外泊させすぎだったから、小うるさい兄弟が許すとは思っていなかったが。

 暇なら来い。届いたメッセージにはそんな風に書いてあった。
 一つのソファでテレビを見ていた兄を顧みる。視線に気づいた兄も振り向いて小首を傾げた。
「どうした?」
 咄嗟に左馬刻からのメッセージが表示された携帯を膝に伏せて隠した。
「いや、えっと……」
 明日は兄も仕事の予定がなくて、一緒に買い物にでも行こうと言われていた。なんでもないよ、と答えようとして口を開いて、閉じた。膝の上の携帯を見下ろして唇を噛む。
「…………あのさ、明日の買い物のことなんだけど」
「ああ」
「友達から急にバイトの人手が足りなくなったから手伝って欲しいって連絡が来て……」
 兄が眉を顰める。肝が冷えた。嘘ってわけじゃない。多少の語弊はあるとしても。
「そりゃ、今夜中に出かけて明日帰ってくるって話か」
 伏せた携帯を握りしめる。
「違うよ……明日の朝から出かけて夜に帰る予定」
 バイトの時間に合わせて行って帰ったんじゃ、左馬刻と過ごす時間はないかもしれない。だけど泊りなんて言えなかった。そもそも兄との約束をキャンセルするはずじゃなかったんだ。今の今まで。兄の顔を見たその瞬間にも。
 深いため息と共に兄が正面に向き直って視界から追い出される。意志の強い目から逃れられてホッとした。
「買い物の約束をやめにするのは構わねぇよ。だけど、二郎。お前最近泊りが多すぎだぞ」
「うん、ごめんよ兄ちゃん。気を付けるよ」
 OKの返事を送るために携帯を持ち直す。泊りはナシだ。帰りもあまり遅くならないうちに。
 メッセージを打っている俺を横目で一瞥して、兄ちゃんがもう一言。
「ハメ外しすぎんなよ」
 全て見透かされているみたいでギクリとした。それでも手元ではメッセージの送信ボタンを押すんだ。

 夕飯は食べて帰る。そうメッセージを送らせて部屋に連れ帰った。飯なんて何でもよかった。
 素直についてきたくせに帰宅時間は遅らせられないというから、食休みにソファで肩を抱いて口の中の柔らかさだけ確かめる。続きはまた今度だ。
 晩酌で酒が切れたからと言って一緒に部屋を出て、エレベーターに乗った。会話はなかった。マンションを出たところで二郎もコンビニに寄ると言い出して、バイクを押してついてきた。
 最寄りのコンビニは、この時間は大抵同じ店員が店番をしている。こっちの顔も見飽きた様子で会計のその時まで見向きもしない。特に用もないのに二人並んで雑誌を見て、つまみを見繕いに乾き物コーナーに向かうと二郎もスナック菓子を物色してアニメの絵のカード付きの菓子を検分する。だらだら過ごすうちに二郎の携帯にメッセージ受信通知があった。
「やべ、帰んなきゃ」
 顔を上げた二郎は、どうせ大好きなニイチャンからの連絡だろうに、情けない顔をしてこちらを見る。それから目を背けて手近にあったチーズと酒瓶を掴んでレジに向かった。店番は一人しかいないから二郎も同じレジに菓子を持ってくる。ひったくってまとめて会計して店の前で別れた。
「じゃあ、また……土曜な」
「おう」
 愛車で去っていく後姿が角を曲がって消えるまでコンビニの前で立ち尽くした。次に会うのは三日後だ。

 金曜の昼にヤクザから電話があった。左馬刻の舎弟で、工場の見張りのバイトを仕切っている男だ。
 ついに狙っていた人物が工場に出入りする現場の写真を押さえたという。だからもうバイトは終わり。明日は行かなくていい。金は左馬刻から受け取る約束だった。
 左馬刻からの連絡はなかった。
 夜、夕飯の後で寝間着を小脇に風呂の脱衣所に向かうと先に入浴して着替えたばかりの弟が髪を拭きながら生意気に鼻を鳴らした。
「なんだ、今日は出かけないのかよ」
「悪いかよ」
「べっつにぃ?」
 人を小馬鹿にした態度の弟を無視して着替えを置き服を脱ぐ。相手にされないとわかると弟は間もなく出て行った。乱暴に脱衣所の戸を閉めて、気に入らないって様子で。
 風呂上がりに台所へ行くと兄がホワイトボードに書かれた予定を消しているところだった。
「お、風呂空いたか?」
「うん。あと兄ちゃんだけだよ」
 家族の予定を書いておくホワイトボードを見ると、兄の明日の仕事の予定が白紙になっている。隣の行の俺の予定は「バイト」と書かれたままだ。
「あ、俺も明日バイトなくなったから」
「そうなのか?じゃあみんな休みか」
 兄がクリーナーで俺の予定を消すと土曜の予定が横一列真っ白になった。
「お前がいいなら明日は三人で出かけるか?三郎はいいって言うだろうし」
 俺だって去年なら二つ返事で兄との約束をとった。だけど今は。
 即答できずにいると、肩を叩いて兄が台所を出て行く。
「そんなに悩むなよ。別にどうしても行かなきゃいけないわけじゃないんだ。明日出かける時に行きたきゃ一緒に来い」
「うん、ごめん……」
 その夜は遅くに寝付くまで、何度も携帯を確認してしまった。こっちから約束を取り付けるのに丁度いい用事なんて、急には思いつかなかった。
 翌朝は一番に身支度を済ませた弟がやけに絡んできて、喧嘩を仲裁しに来た兄が「三郎は二郎と一緒に出掛けたいんだろう?」と言うから三人で出かけることにした。弟自身は絶対に認めたりしなかったけど。
 久しぶりに兄弟水入らずで出歩くのは悪くなかった。俺には嫌味か文句しか言わない弟だって機嫌が良かったし、帰りにスーパーで夕飯用に総菜を買って帰った。もう日暮れ。あと少しで夜になる。
 バイトだったらもうじき交代の人間が来てアパートを出る時間だった。

 ヒプノシスマイクを引っ提げて親父に同伴した席はあまりにあっけなくケリがついた。
 関東を縄張りとする組織の間では中王区に取り入るようなマネはご法度だ。H歴が始まって間もなく、精神干渉を用いた拳銃や刃物の接収によりどこの団体も武力解除状態に陥った際にはみんな新政府のやり方に強く反発し、万が一にも新政府と手を組もうものなら他の団体全てを敵に回すも同然。新政府に媚びへつらえば利益が出ると分かっていても抜け駆けする者はいなかった。
 だが、いつかそんな日が来る。中王区が大部分の技術を握ったヒプノシスマイクの開発は、本音を言えばどこの組だって手を出したい話だ。合法なシノギが収入源の大半となった現代においても。ヒプノシスマイクを欲しがる人間は多く、裏では高値で取引されている。それが多少粗悪な違法マイクでもそれなりの値が付いた。
 その暗黙のルールを破った須藤会の幹部を呼び出して証拠写真を突きつけた。言い逃れのしようもない。同席した須藤会の構成員は全員がヒプノシスマイクを持っていたが、これは使い手の力量をモロに反映する武器だ。ご自慢の違法マイクで頭数を揃えようが俺様の敵じゃなかった。
 勝ち目ナシとみて内通している人間に応援を頼んだようだったが、向こうはさっさと見切りをつけた。頼みの綱も失って打つ手なし。中王との繋がりを失って半端な技術だけが残った工場と須藤会の縄張りはウチのものとなった。
 首尾よくことが進んで上機嫌の親父に連れられて食事を済ませて時計を見ると深夜には少し早い時間帯。どうせ家には誰もいない。二郎にも連絡がいっているはずだ。もっと手間取るかと思った仕事が思いのほか早く済んでしまったせいで次の約束がなくなった。また数週間音沙汰がなくても当然の日々に戻る。
 仕事は順調なのにどうにも気が晴れない。飲みにでも出ることにして家と逆方向に向かおうとした。そんな時に携帯にメッセージ受信通知が入って、ディスプレイに二郎の名前が表示される。
『今日いつ帰んの?』
 その一言で踵を返した。マンションの地下ガレージには見慣れたバイクがある。玄関にはスニーカーが一足あって、部屋には光があった。リビングまで来るとソファに転がって面白くもなさそうなドラマを見ていた二郎がちょっとだけ顔を上げて「おかえり」と言う。勝手に上がり込んで帰宅を急かしたくせに喜ぶそぶりはない。
「お前、バイトは終わりだって連絡受けてねぇのか」
「聞いてる。だから今日は兄ちゃんと三郎と遊んできたし」
「じゃあなんでいンだよ」
 つい責めるような言い方になった。それに対抗するみたいに、ソファのひじ掛けに頬杖をついただらしない姿勢で不機嫌そのものの顔で睨まれた。
「だって、また土曜っつったじゃん。アレ、バイトの話だけかよ」
 虚を突かれて不覚にも生意気さに怒りそびれた。ソファに近づくと場所を開けたつもりか、寝そべっていた体を起こして座り直す。その隣には座らずに背もたれに肘をついて、未だ眉間にしわを寄せてメンチ切ってくる顔の上に屈みこむ。照明の光を遮って顔に影が落ちる程近くに来ると意識的か、無意識にやっているのか、口が小さく動いてうっすら開く。
「ちげーよ」
 答えた言葉の吐息がかかるほど近くで告げると駆け引きをぶん投げた雑な手つきで首を引き寄せられた。

 一、二、三……多分五度目の朝だ。
 慣れたと思ったのにこれまでとちょっと違った体勢を強いられたせいで背中の辺りがバキバキになっている。眠ったのも遅かったし、熟睡して起きた頃には大分日が高かった。
 俺が起きると左馬刻も目が覚めていたようで、さっさとベッドを出てキッチンで冷蔵庫を開けた。だけど今朝はベーコンを焼くことも、トマトを切ることもせずにコーヒーだけ二人分淹れて、「冷蔵庫にロクなもんがねぇ」と言った。
「お前が帰る時にコンビニで食いたいもん買ってやるからそれで我慢しろ」
「別に無理に食わしてくんなくてもいいけど」
「うっせぇ。俺の分のついでだから黙ってついて来いつってんだよ」
 それでコンビニまで行って、深夜バイトに比べてハキハキした店員のレジでパンやサラダを買い込んだ。俺はイケブクロの自宅に着くまで食えないし、家に行けば食べるものはちゃんとあるんだけど。
 一人分ずつ別で袋詰めさせた商品を鞄に詰めて店の前で解散する。
「じゃ、……また」
「おう」
 歩き煙草しながら店の前で信号待ちする左馬刻を置いてバイクで走りだした。直線を少し走って丁字路を曲がる。そこで赤信号に捕まって、ふと後ろを振り返った。多分、コンビニ前の信号はもう青に変わっているはずだった。だけど朝の光で白っぽいシルエットがまだそこに立っていた。
 不器用な大人だ。でも、そういうところも含めて、今朝は確かに幸福だ。