九つと十九 後編/いちひふ/28856

 小洒落た品の多い居酒屋のメニューを広げて好きな料理を尋ねたら唐揚げって言うから、若い男の子らしいなと思って笑った。運ばれてきた唐揚げは小ぶりで量より質って感じ。食べ盛りが終わらなさそうな若者には物足りないだろうと思って、すぐもう一皿追加した。
 カリカリに揚がってる肉に歯を立てるとジュワッと口の中に脂が広がった。ベーシックな味付けも良かった。
「うっま。ここの唐揚げ美味くね?でかい肉で作ったらこの揚げ加減難しいかな?」
 少しだけと断って一人だけ注文させてもらったハイボールを飲みながらもう一口。再現できそうなメニューは家でも作ってみたくなる方だ。幼馴染と二人で暮らしているから作り甲斐もある。
「料理、上手そうっすね」
「ひひっ。むかーし飲食店のキッチンでバイトしててさー」
「へぇ」
 学生向けのアルバイトといえば接客業が多くて女性が苦手となると選択肢は極端に少なくなった。同僚に女がいるのもダメ、客もダメ。今でこそ同じ空間にいるだけで震えが来るけど、当時は直接会話しない、目を合わせない、数メートル以内に女を入れないって条件でなんとかやってた。多分。当時、今より狭い部屋でルームシェアしてた大学生の頃の独歩がそう言ってた。
 その厳しい条件をクリアしたのが個人経営のレストランで、女性客が来てもあまり視界に入らないよう、奥の方で作業させてもらってたみたいだ。
 恐らくその店とは似ても似つかない居酒屋の壁や天井を仰いで何か糸口をつかもうとするけど、分からなかった。店長の顔も曖昧だし店員の人数もわからない。
「二年くらいかな?結構世話になってたんだけど。店の他のメンバーとか内装とかあんま覚えてないんだよねー。バイトで覚えた料理の技術はちゃんと残ってんのにさ」
 ちらりと確認すると、案の定。一郎が怪訝そうな顔で食べる手を止めていた。
「覚えてない…………ってのは」
 意識的に笑みを作って指先で食事の手が止まっていることを教えた。そんな深刻な顔で聞いてもらう話じゃない。
「さっき驚いたっしょ?女の子の前じゃスーツ着てないとマジ恐怖でダメなんだ、俺」
「女が、怖い?」
 変な顔されるのも無理はない。歌舞伎町で知らぬ人はいないってぐらい名の売れたホストで、おまけに男相手なら余裕で誰とでもおしゃべりできる。チームを組んでいる寂雷先生も最初に話した時は驚いてたっけ。驚いても見た目は落ち着いてたけど。
「そそ。女性恐怖症。昔はもうちょいマシで治そうとして荒療治のつもりでホストやり始めたんだけどー、マジでキツくて最初は二時間ぐらいで倒れちゃうし夢に見て寝つきは悪くなるし。でもここで逃げちゃダメだと思ったから店に無理言って短時間で続けさせてもらってさー」
 これも独歩に聞いた。自分でちゃんと記憶してるわけじゃない。自分のことなのに。
 食事を続けてくれと合図したのに一郎は箸を持ったまま完全に手を止めてしまっていた。助けて貰ったから説明しておこうと思っただけなんだけど、話題を選び間違えたか。
「何でそこまで無理したんすか」
 もう何年も前のことで、今はこんなに元気なのに思いの外真剣に聞いてくれちゃっている。あまり茶化すのも悪い気がして声のトーンを少しだけ落ち着けた。
「何でだろーね。無理続けてたらストレスの限界が来た時にスーツ着てる時だけ女の子大好きな別人になれるようになって、その反動でかスーツ無しだと前より女の子無理になっちゃったんだけど」
「…………」
「なんかさ、その頃の記憶あんまないんだよ。高ストレスに晒されると脳が自分を守るために忘れたりするっつーじゃん。多分そういうの」
「記憶喪失?」
 これに関しては医者にかかったわけでもない。終わったことだし、先生にも話していなかった。
「急に丸っと記憶が抜け落ちたわけじゃないから日常生活に支障はなかったみたいだよ。近日中の約束とか生活習慣はちゃんと覚えてるんだけど、時間経って生活に直結しない、忘れても直近で困らないような部分がゆっくり消えてく……みたいな?だから俺っち自身は困ってなかったけど、ホストの前にやってたバイトは辞めちった」
 ホストをやる別の自分を生みだす直前がストレスのピークで、とてもじゃないがバイトの掛け持ちなんかしていられなくてレストランの方をしばらく休みにさせて貰っていたみたいだ。でもそれが続いてシフトに入らないのが普通になると、バイト先のことが思い出せなくなった。流石にバイトがあったことは覚えていたけど、出勤予定もないからバイト先に連絡を入れなきゃならないと焦る気持ちもなく、ホスト用の人格が出来てホストクラブの勤務時間が長くなった頃にレストランの店長から電話があった。そこで慌てて退職を決めて、一度挨拶に行ったけど、店を見ても何度も通ったバイト先という気がしなかった。
 俺が忘れてもマメに話を聞かされていた独歩が代わりに覚えていてくれて、必要があればあれこれ教えてくれた。だからあまり困らなかった側面もある。でも、慣れ親しんだはずの店がよく知らない場所に感じたのは流石に堪えた。
 もっと何か、日々の暮らしに差し障りなくても大事な記憶まで取り落としているんじゃないかって。その時初めて寂しく思ったもんだ。
「そうだったんすね……」
「そんな顔すんなって!今全然元気だし、自分で選んだことだから後悔してないしさー」
 場の空気を何とかしようとしても当時の俺に何でそんなにも同情してくれるのか、今までこの話を打ち明けた誰より落ち込んでくれる。歳の割に懐の広そうな子だとは思っていたけど意外だった。
 だけど、親身になってくれるのはありがたいけど食事は楽しい方がいい。
「まあでも、元気にホストやれるようになってもスーツ脱げないから彼女とかは作れないんだけどね!」
「…………ああ、そっすね」
 ホスト仲間には結構ウケたんだけど滑った。三十路近くなると二十歳前の男子のツボが分からない。丁度記憶が曖昧な時期と今の一郎の年齢が被るから尚更か。
 薄いリアクションに一瞬肩を落としたところ、やや間を置いて尋ねられて顔を上げる。
「ホストは彼女作ってもいいんすか?」
 意外と興味があるのか気を遣って質問してみただけなのか。楽しく会話しようって様子ではなかったから判断がつかなかった。まあいいさ、別に仕事でもバトルでもない。同じテーブルで会話が続くことが必要最低限だ。
「お客さんにバレたらヤバイけどねー。俺っちはずっと女の子ダメだったし、別に彼女が欲しいってわけじゃないけど楽しそうにデートしてる友達とかは羨ましかったかな?そういう一郎くんは?めちゃめちゃモテるっしょ」
 何しろ伝説のチーム、The Dirty Dawgのメンバーだ。今もテリトリーバトルのイケブクロ代表リーダー。テリトリーバトルの本戦に出場しているというだけで周りからは特別な目で見られる。元々普通のサラリーマンだった独歩も初回のテリトリーバトルで優勝した次の出勤日。家に帰ってくるなり夢から目覚めた人みたいな顔で「お茶が自動で出てきた」と呟いた。自販機の話じゃなくて会社の女子社員がお茶を入れてくれたらしい。要するに突然モテ始めたってこと。
 当然のことを相槌程度に返したつもりが、二十歳前の青年は戸惑いがちに口ごもった。
「いや、俺は……」
 お?案外そっち方面は初心なのか?
 若者をからかうのはダメなおっさんの始まりと知りつつも相手の顔色が変わるのが面白くて食いついてしまう。
「ほら、女性誌の取材で好みのタイプとか付き合ってる人は?とかインタビューされるっしょ?ブクロはそういうの断ってる?」
「チャラついた取材は受けてない」
「マジでー?」
「それに、どのみち相手とかいないっすよ」
「えー、もったいない。まだ青春したい年頃っしょ?」
 俺みたいなのが言うのもおかしいかもしれないけど。
 止めていた食事を再開して少し摘んでから「青春ねぇ」と呟いた彼の視線が並べられた皿をなぞって、真ん中の唐揚げの皿から顔を上げてこっちを見た。
「好きな人はいますよ」
 俺の客とは別種の女の子たちを熱狂させる二色の瞳に真正面から見据えられてドキッとした。甘い目線とかってわけでもないのに。
「お、いいじゃん。片想い?」
「まあ、恋愛っつーかガキの頃の憧れてみたいなもんだけど」
「その気になったら一郎くんならイケるっしょ。どんな人?」
 ホストのお墨付き。なんつって、仕事として女の子を口説くのとちゃんと付き合うために口説くのじゃ違うだろうからアテにはならない。でもこんな子に口説かれて少しも響かない女の子も早々いないと思う。
 尋ねると、僅かに眉根を寄せて吐息で笑ってから酷く大切そうに呟いた。
「すげー美人」
 ガキの頃の憧れなんて言うくせに、今も新鮮にそう思ってるみたいな。思い出の話じゃないんだと、なんとなくそう分かった。

 夕飯は俺が仕事の日は作り置きしていく。休みなら独歩の帰宅に合わせて一緒に食べる。折角の二人暮らしだもん。一人で食べるより二人で食べた方がなんだって美味い。
 いつも通りに疲労感ダダ漏れの独歩が料理に箸をつける。味噌汁、副菜、米、それからメイン。近年は特に胃に優しい物を好むようになったから和食が中心だ。ジジイになるにはまだまだ早すぎると思うけど。
 一度米を味わってから積まれた唐揚げに手をつけた。
「ん、久しぶりだな、これ」
 一口食べて気がつく。独歩は鬱々とした顔で食べていてもちゃんと味わっていて、いつもと味付けを変えたりすると気がついてくれる。人の髪型とかには無頓着だけど。
「あー、この間久しぶりに昔のバイト先の話してさー。まだレシピ覚えてっかなーって思って作ってみたんだ。どう?」
「うん、美味い」
 唐揚げのレパートリーはいくつかある。味付けや衣のつけ方や揚げ加減。昔のバイト先で作ったそれは揚げた後にお手製のタレをかけて仕上げている。
「お前、あの頃はしょっちゅう作ってたもんな。忘れないわけだよ」
 それも前に独歩に聞いた。作り方は覚えていても頻繁に作ったことはあまり記憶に残っていなかったから。
「あの店、美味かったのにな」
「独歩も食いに来てたんだっけ?」
「お前が割引券付きのチラシくれたからだろ」
「思い出せねーなぁ。今度休みが合うときにでも久しぶりに食い行ってみる?」
 良い辞め方じゃなかったから足が遠のいてしまって、客として訪れることもなかった。独歩が今の会社に就職が決まったときにルームシェアするためにこの部屋に引っ越してからは物理的にも店から遠のいた。もうメニューも当時と変わってしまっているかもしれないけど。
 忘れた記憶に興味もあって提案すると独歩は適当に頷きかけてやめた。
「そうだ、一二三。あの店閉店したんだよ、確か」
 言うと残りの茶碗の米をかき込んで手を合わせ、食器をカウンターに置いた代わりに携帯を持って戻ってきた。SNSで検索をかけて店のアカウントを見つけ、最後の投稿として綴られた閉店の挨拶を見せられる。外から見た店の写真は間違いなくその店だった。退職の挨拶で訪れた店だ。
 勤めていた記憶が薄くて愛着があるのかどうかもよくわからない。だけどなんだか、初めて思い出せない記憶があると自覚した時のような、抱えていたものを取り落としたような気持ちになった。

 店の表はまだそれとなく面影があった。ガラスに貼られていたカッティングシートは剥がされテーブルや椅子は撤去済みだったけど手すりや、外から見えるカウンターの形はそのままだった。独歩に見せられた写真に。
 やっぱり細かいことは思い出せなくて、現場まで見にきたのに余計に自分の中から抜け落ちた穴を意識させられる。今の、ホストとしての自分に必要なわけじゃないけど。
 折角きたのに何もないせいで用事が一瞬で終わってしまった。他に何か残っていないか、思い出せるものはないかと思って近所を歩き回っても周辺も店が入れ替わっているようで参考にならない。店の表からもう一度中を覗き込み、それから建物の脇に細い道があることに気がついた。ビルとビルの隙間の薄暗い道はビルの外壁を這う少しの配線やパイプと排気口しかなかった。だけどよく目を凝らすと扉がある。店の裏口だろう。開くと思ったわけじゃないけど、誰もいない路地に入り込んで簡素なドアノブに手を掛けた。
「開くはずないかぁ」
 金属のドアノブを何度か動かそうとしても鍵が掛かっている。中にはもう何もないとはいえ当たり前だ。諦めて手を離そうとした時、鋭い声が飛んできた。
「誰だ!」
 即座にドアノブを離して両手を挙げ、裏口から一歩離れる。男の声だったから、管理者かと思った。
「アンタ、一二三さん……」
 呼ばれて明るい通り側をよく見る。細い道を塞ぐように立っていたのは山田一郎だった。仕事か、工具箱を持っている。
「なーんだ、一郎くんかよ」
 もし空き巣と勘違いされて通報されたらどうしようかと思った。知り合いならわかってくれる。
「マージびっくりした。驚かすなよ」
 ヒラヒラ手を振ると、大股で近づいてきた一郎が手首を握って迫ってきた。真剣、切実の方が相応しいか、そんな表情で詰め寄られる。
「アンタ、思い出したのか?」
 見つめ合う。でも俺が何か声を発する前に問いの答えを察して、掴んだ腕を離した。
「え、何、何でここにいんの?ここが昔のバイト先だって教えたっけ?」
「……いや。俺は仕事でたまたま来ただけだよ」
 頭を振ってポケットから取り出した簡素なタグ付きの鍵で裏口の鍵を開けた。扉は開け放って工具箱を持って入っていく。
「仕事?」
「ここの厨房設備の搬出。大きなモンは終わってるから、照明とか、大物搬出する時に車に乗せきれなかった作業台とか」
 振り返らずに仕事を始める背中を裏口から覗く。確かに大きな台や冷蔵庫みたいなものは床に埃が溜まった跡だけ残してなくなっている。
 一郎は店内を歩き回って取り外す機器の場所を確認すると一度外に出て、正面に停めてあるバンから脚立とコンテナケースを持ってきた。脚立に登って照明機器を外してはコンテナケースに並べ、またそれぞれを車に積み込む。
 次は二つだけ残された小さめの作業台だ。小さいといっても学校の一人用の机よりはでかい。
「手伝おっか?」
「いや、いい。服汚れるぜ」
「別にいいよ」
 彼が手を掛けたステンレス製の台の片側を持ちあげて一緒に運んだ。引き出しが付いているわけでもないから軽い。手伝いなんか必要ないことはすぐ分かったけどもう一台も同じように手伝った。ただ見ているのもつまらないし、空っぽの店内を見ても物寂しいだけだっからやることが欲しくて。
 搬出が済んでから頼んで客席側を一周させてもらった。
「なんか分かりそうっすか」
 厨房の方を見ると細かな後片付けを済ませて工具箱を持った彼が離れた場所で待っていた。
「なーんも。付き合わせてメーンゴリン」
 客席と厨房をつなぐ出入り口から厨房側に入って並び、鍵を持つ一郎を追い抜いて先に路地に出た。
「細かいこと全然思い出せねぇけどなーんか寂しいよなー」
「そのうち別の店が入ったらここがどんな店だったかもわかんなくなりますよ、みんな」
「そうかもしんないけどさぁ」
 路地から振り向くとまだ厨房内にいた一郎がキッチンカウンターの向こう側を見ていた。何があったか、戸口から頭を突っ込んだ途端に襟を掴んで中に引っ張り込まれ、背中で安っぽい音を立てて裏口の扉が閉まる。内鍵まで締められた。
「急に何……」
「静かに」
 肩を押されてしゃがみ、口をつぐむ。そうすると外の音が聞こえてきた。若い女の甲高い声だ。
「いないよー?」
「いたんだって、ホント!アレ絶対一二三だったよー!」
「昔ここでバイトしてたって噂ホントだったの?」
「多分そうなんじゃない?」
「でももうお店なくなってるじゃん」
 姿を見なくても震えがきた。胃がせり上がってくるような恐怖で背筋が粟立つ。その背を硬い腕が抱いた。
「大丈夫」
 外の女たちはそのうち扉を見つけて叩き始めた。
「すいませーん、開けてくださーい」
「誰かいませんかー?」
 頼りない扉の向こうに女がいて俺を探してる。怖くて堪らなかった。でも肩を竦めると励ますように強く抱き寄せられた。息を潜めて外の連中をやり過ごす。大きな手のひらが背中を撫でた。上から下に、ゆっくりと。
「……もう大丈夫だ」
 焦りで外の声に集中できない俺に代わって立ち上がり、ガラス越しに店の正面に停めた車の前からも女たちが居なくなったのを確認して手を引いてくれた。
「もう、女いない?」
「いないよ」
 腰を上げて自分の目で確かめて漸く肺いっぱいに空気が戻ってくる。深く吸って、吐いて、手の感触の残る肩を触った。
「なんか、前もこんなことあったなー」
「ああ、中王区でな」
「うん、いや、他にもなんか」
 裏口の扉、扉に耳を当てて聞く外の声。それから誰かと一緒だった。店の仲間じゃない誰か。
 隣を振り向くと目線より少し上に左右色違いの瞳があった。そこでまた何だか分からなくなった。彼のその眼差しは、ただ見ているって温度じゃなかった。
「一郎くん、もしかして昔俺と知り合いだった?」
「知らねぇよ」
 素っ気なく答えて先に路地に出ていく。追って外に出た。こっちを無視して仕事を進めるような、確かにそんな横顔は知らなかった。

 普段はシャンパン。今日はビールジョッキ。皆さん準備はよろしいですか?
「同窓会と麻天狼の二回目の優勝を祝してカンパーイ」
 あちこちでグラスがぶつかり合って小さな飛沫が弾ける。飲む前からみんな浮かれ調子で居酒屋は大賑わい。その中で何人かいる主役の一人が俺だ。
「一二三久しぶりだなぁ!元気してたか?」
「すっかり有名人じゃねーか」
「つーかマジで今ホストなんだなぁ」
「知ってるか?コイツんち嫁さん四人目妊娠だって」
「俺らもう三十路だもん」
「まだ三十路だろー?」
 早くも薄くなってきた奴、太った奴、服の趣味が落ち着いた奴、全然変わらない奴。でも学生時代の友達はみんな憶えてる。もちろん男ばっかりだ。遠慮がなくて気楽で最高。
「今日は観音坂は?」
「独歩ちんは仕事。みんなによろしくってさ」
「テリトリーバトルで有名になって仕事捗ってんじゃねぇのかよぉ」
「営業成績は絶好調だけどその分仕事が増えて大変なんだってさー」
「人気者は辛いねぇ」
 うんうん、頷く横から別の友人が携帯片手に割り込んでくる。画面にはやっと歩き始めたくらいの子供の写真がでかでか表示されていた。
「見てくれよ!阿東のうちの子供。父親そっくり」
「マジじゃん、男の子?」
「うちのチビ達全員男」
「そんじゃ今度遊び行っていい?奥さんいない時ね」
 写真を切り替えると今度は一番上が五歳くらいの三兄弟が肩を寄せ合って笑う写真が出てきた。親は両親共写っていないのにきっと笑顔でこれを撮ったんだろうとわかる。
「それにしても時間が経つのって早いなぁ」
「今時四人は頑張ったよなあ」
 三児の父、これから四児の父になる男は照れ笑いで控えめにビールを飲んでいる。二十歳の頃はもっと派手に飲んでいたのに今日も自分の足で帰るんだって。
 仲間の手を渡って携帯が戻ってくると、大事そうに手元に置いた。
「一人目が赤ん坊の頃は嫁さんも一人っ子でいいって言ってたんだけどさぁ、ちょっと手がかからなくなると大変だった時期のこと忘れてもう一人家族が増えてもいいかなって思うんだってさ」
「惚気か」
「惚気じゃん?」
 からかわれて酒が増える男の横で肘をついた。
「聞いたことあるなー。産みの苦しみってヤツ?」
「そうそう、一人目が小さくて睡眠時間もろくに取れなかった時期にあった出来事とか見たドラマとかもあんま憶えてないって。二人目からはもうちょっとマシみたいだけど」
「それってさー、子供の赤ちゃんの頃の様子も?かわいい盛りじゃん」
「そこらへんは写真とかビデオに沢山残ってるし、日記も書いてたみたいだよ」
 テーブルに置いた携帯を持ち直すと待ち受け画面にも子供たちが並んで眠る写真が映る。
 ああ、そうだよな。俺は日記を書く習慣がないし、携帯の中の写真も食べ物とか独歩の変な顔とか、いつ撮っても大差ない写真ばかりだ。友達と遊びに行った思い出の写真だって小さな子供ほど変化はないだろうが、
「写真かー……」
 自分の携帯の中のアルバムにある大量の写真を遡っても十年前の写真はない。携帯の形も変わった。せっかく参考になりそうな話を聞いたのに、写真そのものが見つからないんじゃ話にならない。
「何?」
 横から携帯を覗き込んできた友人が首を傾げる。画面はシャンパンタワーや高価なボトルや客から送られた花なんかの煌びやかな写真で埋め尽くされている。見られて困るものはない。
「いや、俺っちさーホスト始めた頃のことあんま憶えてなくってさ」
 打ち明けると近くにいた友人たちは驚くことなく頷いた。
「ああ、あの一二三がホストだもんなぁ」
「記憶の一つや二つ吹っ飛んでてもおかしくないわ」
 理解が早くて助かる。
「だって昔は一生女と関わらない人生を送りたいとか言ってたじゃん。進路希望決めるために女のいない仕事調べたりしてさ」
「登下校もずっと観音坂を盾にして女の子避けまくってたのにラブレター持った女子に待ち伏せされたりしてな」
「あったなー、覆面して下校する作戦立てたり」
 青春時代の馬鹿話ってトーンで交わされているネタは俺からすればトラウマの一つだった。苦笑いで聞き流す。
 側で会話していたメンバーからそのまた近くのメンバーにも話題が伝播して絶え間無く逸話が飛び出す中、あちこちの席を動き回っていた幹事がこっちに戻ってくる。
「一二三が写真探してるって?」
 話題のいいところを拾ってくれた。
「そうそう、十年くらい前の様子が知りたいんだけど、あんま参考になる写真なくってさぁ」
「十年前ね、成人式の頃の写真でよければ同窓会のがあったと思うけど。使い捨てカメラで撮って適当に焼き増しして配ったろ?覚えてない?」
 ない。同窓会があったこと自体はなんとなくわかるが誰がいたとか、何があったとか、どこの店だったとかは記憶の中で透明になってしまっている。
 でも写真なら捨てたりしない。
「サンキュ、帰ったら探してみる」
「見つからなければ手持ちのアルバムを貸してやるよ」
 そう言って笑う親切な友人に礼を言った。
 持つべきものは友達だ。俺が分からなくても、周りの誰かが覚えていてくれるんだ。

 引っ越したのは独歩が新卒で今の会社に入社した頃だ。すでにホストとしてある程度の貯金があった俺が提案してお互いの通勤に便利なシンジュクに部屋を借りた。お互いの部屋にはそれぞれクローゼット。その他に共有の納戸もある。入居直後は段ボール箱を積み上げて必要なものから開梱し、一ヶ月経っても開かなかった箱は箱の表面に名前を書かれた荷物の持ち主がそれぞれ責任をもって収納スペースに押し込んだ。
 久しぶりに踏み入る納戸で「ひ」と書かれた箱を探す。中身は色々だ。趣味が変わって探してまで着なくなった服とか、貰いもののぬいぐるみだとか、買い替えて捨てそびれている古い鍋とか。途中からごみ袋を持ってきて開梱した。荷物の置き場に余裕があると平気で何年も放置してしまう。処分すべきものは手を付けた機会にきっちり始末しなければ。
 そんな断捨離もどきな作業を続けていると見覚えのない紙袋が出てきた。中身は漫画だ。
「あっれー、独歩の荷物混じってんなあ」
 自分も漫画本は持っているけど他の箱にまとめてあった。それにこれは中学の頃に独歩が集めていた長編シリーズ漫画だ。確か独歩の実家に置きっぱなしのはずだけど、これだけ持ってきたんだろうか。一冊引っ張り出してめくっても随分前の本だからかストーリーが思い出せない。大掃除の時に本を見つけるとダメだ。気になって読んでしまう。ちょっと読むと暇なときに読むより面白くて。ダメだダメだ。
 集中していると時が経つのが早い。夜八時を過ぎて独歩から退勤メールがきてから慌てて夕飯の支度をした。夕飯と風呂を挟んで寝る前にもソファで読み続ける。同窓会の写真探しはもうとっくに頭からどこかへいった。
 きちんと巻数順に並べられた本の最後の一冊をとる。裏表紙に何かがくっついていた。見ると未開封のガムで、中身の砂糖コーティングが溶けだして包みの隙間から漏れて張り付いている。引っ越し荷物に紛れていたってことは年代物のガムだ。慎重に剥がして賞味期限を見ると当然のように年単位で期限オーバーしている。
「懐かしい本読んでるんだな、一二三」
 振り向くと風呂上がりの独歩が見下ろしていた。本のカバーに残ってしまったガムを爪先で擦って、それでも残った汚れを差し出し、
「見てくれよー。引っ越し荷物漁ってたら俺っちの方の箱に紛れ込んでたんだけどガムくっついてんの」
 俺が今つけたんじゃないからな、と古いガムのパッケージをもう片手で摘んで見せる。だけど、文句を言うかと思った独歩は予想に反して首を傾げるだけだった。
「紛れ込むも何も、それ一二三のだろ」
 時間差のあるのろまな鏡みたいに俺も首を傾げる。
「はぁ?これ独歩が集めてた漫画だろ?」
「俺が集めてた分は実家だし、途中で買うのをやめてたからって一二三が買ったんじゃないか」
「俺っちが?」
 どうも話が合わない。そこでお互いにピンときた。
「それ、いつの話?」
「多分ホスト始めた頃だ……体験入店の時の金があるからまとめ買いするって。あの頃は漫画のまとめ買いなんかするの珍しかったから憶えてる」
 そう言われると自分で買ったような気がしてくる。記憶は曖昧で、人に言われるとそんなこともあったように感じる。
「何でここだけ買ったんだろ……」
 本とガムを見比べた。自分では買わないコーラ味のガムだ。それを見ていたら独歩の方が思い出した様子で「確か……」と情報を付け足す。
「あの頃、バイト先で小学生の友達が出来たとか言ってた。この子と漫画の話をして読みたくなったからって」
「小学生?なんで」
 大抵の大人がそうであるように、今の俺にも独歩にも小学生の友達なんかいない。知り合うきっかけもないし下手すりゃ子供にちょっかいかける変質者扱いだ。
「知るかよ。そこまで詳しくは聞いてない」
「えーもっと昔の俺っちに根掘り葉掘り聞いといてくれよ独歩ちん」
「無茶言うな!」
 濡れた髪をタオルで雑に拭きながら隣に座った独歩が漫画を手に取る。何冊か裏表紙をめくって出版された年月を確認する。
「うん、やっぱりだ。どれも十年前よりもっと前に印刷された本だよ。一番新しい日付がちょうど十年前の二月になってる」
 ガムの賞味期限が十年前の冬頃だった。友達になった小学生に貰ったんだろう。それを本と一緒に紙袋に入れてそれっきり。当時の俺は友達から貰ったガムを開封もせず忘れてしまった。
 友達からでも、店の客からでも、貰ったものをそんな風にぞんざいに扱ったりしないのに。ホストを始めた頃は相当弱っていたらしい。今はどれほど苦しんだかもわからないけど。
「小学生……かぁ。今頃高校か二十歳ぐらい?」
「漫画の貸し借りするぐらいだし、仮に五、六年生だとして十年経ったら、そろそろ成人してるだろうな」
 身の回りに二十歳くらいで疎遠になっている友人は心当たりがなかった。つまり、どれだけ親しかったかはわからないが、俺はその友達を失ったわけだ。恐らく、こちらから連絡を断つ形で。
 顔も名前も知らないのに罪悪感とぬるい喪失感がある。きっと俺は顔も思い出せないその子供を傷つけたんだろう。正式に退職する挨拶に向かうまで、当時のバイト先の飲食店にも迷惑をかけていた。ホストになってからは付き合いが絶えた子供に対しても丁寧に別れを告げたとは思えない。
「あー、クッソー。俺っち昔のこと忘れててもそんなに困らないと思ってたのに」
「実際忘れて困るようなことってあんまりないしな。俺だって一昨日何食べたかも忘れちゃうし」
「一昨日の晩飯は鯖の塩焼きと里芋の煮物とおひたしだよ独歩ちん。その前はキノコあんかけの豆腐ハンバーグな」
 最近のことはそんなことまで覚えているのに。
 二人で並んで買った覚えのない漫画のページをパラパラめくる。自分のものって気がしないのに自分の手元にある。読んでみたら面白かったし、独歩がそう言うならコレは俺が買ったものなんだろうけど。
「まあ、あの頃色々あったからな。お前が覚えてないのも仕方ないよ」
 過去の苦労が滲むフォローに頷きかけて、些細なひっかかりを感じて隣を見た。
「あのさ、俺がホストやり始めた頃って、バイト辞めた以外に何かあった?」
「何かって。そりゃ毎日色々あったろ」
 ホストの体験入店で倒れた話や緊張で客の服に酒をこぼした話、高い酒のボトルを落として割った話や、店のトイレに引きこもって出られなくなった話。ホストとして働き始めた頃の失敗談はこれまでにも山ほど聞いた。当時は毎日独歩に話を聞いてもらっていたから独歩は色んなことを知っていて、忘れた後の俺に教えてくれた。でも、そういうことじゃない。
「店での失敗とかじゃなくてさ」
 店でなければどこでやらかした話が聞きたいのか自分じゃわからない。だけど独歩には思い当たる節があった。
「ああ。貝原先生の葬式のことか?」
「貝原先生って、書道の?」
 小学校の頃に独歩と二人で書道教室に通っていた時の先生だ。二人とも書道にハマることはなかったけど、小学校で上手くやれなかった話や家の話、独歩と喧嘩して上手く仲直りできなくて困っていた時も、なんでも貝原先生は穏やかに聞いてくれた。俺たちは書道そっちのけで先生と話すために通っていた。結局小学校卒業と同時に習い事は辞めたけど先生には毎年年賀状を書いたし、年に一度ぐらいは二人で書道教室に顔を出していた。書道熱心なOBじゃなかったけど、高齢の先生が元気な姿を見るために。
 二人で先生に会いに行ったのは高一の秋が最後だった。それからなんとなく疎遠になってしまって、気がついたら亡くなっていた。俺にとっては知らない間の出来事だった。
 そのことに気がついた時には独歩は簡単に告げるだけで詳しく話そうとしなかった。先生の年齢的に不思議ではなかったし、寂しさはあっても無理に詳細を聞き出すほどじゃなかった。
 それから一度は墓参りに行かせてもらったけど、葬式には呼ばれなかったんだと思っていた。俺も、独歩も。
 俺が食いついたことで以前話を聞いた時にあまり深く説明しなかったことを思い出したらしい。気まずそうに視線が逃げる。
「俺ら、貝原先生の葬式行ったの?」
「いや、まあ……一応な」
「独歩そんなこと一度も言わなかっただろ」
「終わったことだし墓参りは別で行っただろ」
「それはいいんだけどさ。もしかして、そこでなんかあった?」
 疑問形だけどイエス以外の答えはないと確信があった。何か言いづらいことがあったんだ。多分、俺のために隠してくれてる。
「独歩、隠すなよ」
 ここにも俺が忘れたままで思い出そうともしなかった大事なことが隠れている。知らなくても生活は出来る。でも大事な先生とのお別れの時の話なんて、本当に忘れていていいのか?
 迷う独歩に「頼むよ」と言葉を重ねる。
「…………お前にとっては忘れても仕方ない話だぞ?」
 いい思い出じゃない。前置きして独歩は話始めた。

 まず最初に、一二三はホストになる前から女にモテていた。そのことで一緒にいた俺が迷惑したりうんざりしたことも数えきれないほどある。
 男子校なのに登下校や学校のフェンス越しに一二三を見て一目惚れした女が校門で待ち伏せして問題になったり、一二三が女から逃げ回るせいで俺に手紙やプレゼントを託しにくる女の子が後を絶たなかったり。バレンタインなんか最悪だ。学校の正門も裏門も気合の入った女だらけ。学校側が注意しても待ち伏せが学校の敷地から少し離れた地点になるってだけ。友達数人がかりで一二三をガードして、本人は帽子やマスクで変装して、それでも一二三の家の前も女が待っていたから俺の家に帰ってやり過ごした。そこまで苦労したのに次の日には学校から一二三に注意があって、もちろん俺も付き合わされる。一二三が女にチョコをくれって言ったわけでもないのにこれ以上どうしろって言うんだ。
 顔がいいってのは恐ろしい才能だ。これで一二三が極悪非道の女の敵みたいなヤツだったらマシだったかもしれないんだけど、当時は今より多少は女性恐怖症もましで、目の前で女の子がハンカチを落とせば拾ってしまう。実際は指先でつまんで最大限に腕を伸ばして顔を見ないよう慎重に渡すという挙動不審だったのに、女の子の中ではやけに自分を意識してくれるイケメンが「これ」等と言葉少なに目も見れないといった様子で落とし物を渡してくれた運命の出会いとなる。今なら女の子の姿を見ただけでパニックで落とし物にも気が付かないだろうけど。
 一二三にそんな気がなくても女の子たちはちょっとした出会いで一方的な運命を見つけてしまう。それは場所を選ばない。
 俺と一二三の恩師である貝原先生の葬儀は俺たちの地元で行われた。先生の実家は地主で広い自宅があり、そこで昔ながらの葬儀が行われた。
 教え子の一人でしかない俺たちが呼ばれたのは俺の祖父が先生と親しかったからだ。俺の祖父はとっくに他界していたけれど、先生のご家族も俺たちが先生を慕っていたことをよく知っていて連絡を下さった。有難いことだ。
 親に葬儀でのマナーを聞いて、着なれない黒い背広に袖を通し、それぞれバイト代から捻出した香典を持って駆けつけた。一人なら気後れするだろうが、二人だったから多少は気も楽に恩師とのお別れに臨めた。俺は。
 あまりことを深く考えずに駆け付けた俺たちだったけど、受付の前まで来て足が止まった。そこにいたのが女性だったからだ。仕方なく俺が一二三を背中に庇って一二三の分まで受付をした。だけど家の中にはもっと女性がいる。先生には孫娘がいたし、親類にも当たり前のように女性がいる。葬式といっても大往生。俺たちの親よりずっと年上の先生の娘さんなんかは目元を赤くしていたけれど、会場内はあまり悲壮感もなく和やかな空気が漂っていた。先生との関りが少なかった親戚の若い女の子なら尚更だ。
 座って待たされている時に、一二三の隣に高校の制服を着た女の子が座った。見知らぬ制服だったから近隣の学校の子じゃない。俺たちは男子校の出身だけど、他校の女子にも一二三の顔は知れ渡っていた。でも彼女は多分、一二三を知らなかった。
 親戚のおじいさんの葬式で偶然出会ったイケメン。それが彼女にとっての一二三。そこから一二三の一人我慢大会だ。
「おじいちゃんのお知り合いですか?あんまり歳の近い人がいなくって、一緒にいさせてもらってもいいですか?」
 実際老人の葬式は参加者も高齢者ばっかりだ。だからって下手に親世代の近くに座ると面倒な絡まれ方をして厄介なのは俺も知っている。一二三はとても小さな声で「どうぞ」とだけ返した。
「あの、お名前が分からなくてごめんなさい。もしかして北海道の叔父さんちの方ですか?」
「いえ、俺たちは、貝沢先生に昔書道教室でお世話になっていた生徒です」
「そうなんですね。大学生?」
「はあ、俺は大学で、こっちはフリーターやってます」
「この近くに住んでるんですか?」
「いえ、今は東京の方に」
 一二三に向かって話しかける女の子と、顔色真っ青な一二三に代わって返事をする俺の会話だ。彼女も俺も実りのない会話だと思ってるけど一二三が黙って座っているだけで余裕がないから仕方ない。
 その場はなんとか耐え切った。だけど彼女の母親や叔母と名乗る中年女性まで来ると、我慢は破裂寸前の風船みたいなもんだ。一二三の代わりに下手くそな会話を引き受けながらもいつ限界を迎えるかひやひやした。
 時間になって会場となる座敷への移動を促された時、一二三は俯いて小刻みに震えていた。それでも葬式に二度目はない。俺が帰るかと尋ねても一二三は首を横に振った。
 でもダメだった。移動の際に女の化粧の匂いがして、一二三はつま先ばかり見ていた顔を上げた。喋りながら前を歩いていた女たちが振り返る。この瞬間に風船が破裂した。
 一二三が突然足を止めて蹲る。そこで嘔吐した。恩師の葬式のために初めて来た屋敷の、座敷へと続く廊下の、古い木張りの床に。
 そして俺たちは焼香もせずタクシーで実家に帰り、後日親が代わりに詫びを入れてそれっきりだ。喪主も俺たちの親も、みんな許してくれたけど、一二三はいつものように楽観して終わったことにしなかった。
 それぞれバイトや学校のために実家からアパートに帰っても調子は戻らない。膝を抱えて悩んでいた。
「俺さぁ、女に会わない仕事を選んで女を避けて暮らしたらこのまんまでもいいと思ってたんだ。だけど、女が怖いまんまじゃ俺は一生誰の葬式にも行けない……。独歩の結婚式にも」
 小さく座った一二三の横に腰を下ろす。
「仕方ないことだってあるだろ。葬式に駆けつけられない人だっているし、別の日に線香をあげに行くことはできるし。……俺と結婚したがる女の子はいないよ」
 いつもなら笑って「そんなことない」と背中を叩いてくれるのに返事もない。
「無理しなくていいんだよ。誰だってひとつくらいどうしてもダメなものってあるだろ。それがお前は女だったってだけだ」
 一二三の女性恐怖症で俺が迷惑するのは、別にいい。今更だ。その病と上手く付き合って生きていけばいい。これまでもそうしてきた。
 昔から一二三といると一二三ばかりモテて俺は見向きもされなかったし、一二三が何かやらかしたフォローに奔走するはめになった。その半面で実家を出てからは自炊のできない俺の代わりに一二三が料理をして食べさせてくれたし、俺たちはそうやって補い合って生きていけばいい。そう思っていた。
 だけど、その一週間後に一二三はホストになった。歪な形だけど、自力で弱点を克服してしまった。
 

 ずらりと並ぶ本棚には同じ背丈の本がぎっしり詰まっている。新刊の棚は平積みされて表紙が見えるから探しやすいけど、たくさんの本から既刊を探すのって結構手間だ。
 欲しい本を一度に揃えたくて大きな書店に来たものの、棚の横に書かれた出版社名を頼りに端からチェックしてみたけど見当たらなくて隣の棚に回り込んだ。
「お、あったあったー」
 引っ越し荷物から発掘した漫画の続きを見つけて最新シリーズの最新刊までまとめて棚から引き抜いた。両手で抱えてレジに向かう。途中で横切った雑誌コーナーで足を止めた。独歩に頼まれていた雑誌がある。「神宮寺寂雷ロングインタビュー」の文字が表紙を飾っている。
 漫画と違ってこれはすぐに見つかった。でも手が塞がっていて掴めない。仕方なく平積みされた別の雑誌の上に漫画を一度置こうとした時、横から伸びてきた手が雑誌をつかんだ。
「はい。これだろ」
 寂雷先生の特集が組まれた雑誌が抱えた漫画の上に置かれる。山田一郎だった。彼も数冊の漫画を持っている。
「お、サンキュー。つか、一郎くんなんでシンジュクまで来て漫画買ってんの。ウケる」
「書店ごとに違う特典がついてンすよ」
「ブクロの本屋じゃ別のおまけが付いてんの?」
「そう」
 一郎が手にした漫画の裏側を見せてくれる。シュリンクの内側にポストカードが挟まれていた。これ一枚のためにわざわざ買いに来たらしい。彼は漫画オタクってヤツだ。
 俺が抱えていた漫画も知っているようで、見つけてちょっと驚いた顔をする。
「それ買うんすか?」
「うん。最近家でこれの前の漫画発掘してさぁ。ずっと前に誰か、友達と一緒に読んでハマってたみたいなんだけど覚えてなくて……」
 これまで何年も忘れていたのに。本を見つけて、独歩から恩師の葬式の話を聞いたら、どうにも気になって仕方なくなった。先生の葬式に行ったことを忘れるなんて、俺にはあり得ないことだった。ホストになった頃の記憶があまり残っていないといっても本当に大事なことは覚えているだろうと思ってた。なのに覚えていなかった。
 そんな時に浮上した、どうやって知り合ったのかもわからない年の離れた小さな友達の存在が胸に引っかかって。足跡を辿るような気持ちで何度か手持ちの漫画を読み返してみたけど今も分からないままだ。
「……全然覚えてないから家で読みしたら続き気になっちゃってさー。一郎くん読んだことある?」
 尋ねると心なしか嫌そうな顔をして、首を縦に振った。
「あるよ。全部ある」
「マジで?うち途中の何冊かしかなくてさぁ」
「それなら……」
「ん?」
「なんでもない」
 背中を向けて彼がレジに向かう。それを追うわけじゃないけど他に探す本はないから続いてレジに向かった。後ろにいるのは分かってるだろうに、彼は振り返らない。心当たりはないけど苛立っているみたいにも見える。
 五つあるレジの隣に並んで会計を済ませる。沢山買った俺が取っ手付きの紙袋を受け取ってから隣りのレジを見ても彼の姿はなかったから先に帰ってしまったかと思えば店の出口のあたりで待っていて、素っ気なく「じゃあ」とだけ言って出て行く。それを引き留めた。ここで出会ったのはいいタイミングだ。
「そうだ。頼みがあるんだけど」
 振り返った一郎は怪訝そうにしたけど構いはしない。これは仕事の依頼だから。
「萬屋って人探しもできるっしょ?」
 前に一度世話になったことがある。
「内容による」
「前に会った店の、ほら、閉店荷物運び出してた。俺の元バイト先のさ、元の店長に会いたいんだよねー。片付けやってたぐらいだし連絡先も知ってっかなーと思ってさ」
「何のために?」
「バイトしてた頃の話が聞きたいんだよ。忘れた過去のこと聞かせてもらったら、なんか思い出すかなって」
 赤と緑の目に覗き込まれる。そんなに迷うような依頼だろうか。
 即決ではなかったけど、断られることはなかった。
「分かった。お安い御用だ」

 数年前に劇的な政権交代があってからというもの、街は区画ごとにヒプノシスマイクを持ったチームの支配下に置かれた。ラップで争って勝った奴が支配者だ。治安を守る代わりに上納金を要求される。かつては夜の街にしかなかったシステムが、今では全ての飲食店、小売店に適用された。
 さながら新しい納税先。区画によってその税率は変わる。支配するチームが変われば境遇も変わる。不安定な時代の到来だ。
 その傾向は都市部ほど強く、地方はチームの乱立が少ない分穏やかだった。中には町長の倅がチームを率いて親父の政治を手助けしてる、なんてところもあるらしい。
 そんな世の中の変化を受けて都心から田舎に店を移したのが多国籍料理店店主の神門だった。
 都心から一郎の運転する車で五時間かけて神門の実家のある町に向かい、居抜きで新装オープンした店を訪れた。事前に連絡したら定休日を教えてくれた。都心に比べて田舎は変化が少ないから男女比も旧政権時代と差がないから、男しかこない喫茶店なんかはない。
 こっちが頼まなくてもそうやって気を遣ってくれるんだから、神門は過去のことをよく覚えているようだ。店の客席で対面すると片手を差し出して僅かに表情を緩めた。
「久しぶりだな。連絡を貰って驚いた。山田くんも、ありがとう」
 一郎は軽く頭を下げるとさっさと店を出ていった。同席してくれても構わなかったんだけど。店の前のベンチで待っていてくれるらしい。
「意外と遠慮深いんだなー」
 扉のはめ込みガラスから見える頭の端を眺めて呟くと神門は小さく「そうだな」と頷く。
「そんじゃ、昔のこと全然覚えてなくて申し訳ないんすけどー、俺っちとの思い出的な?何か覚えてることがあったら教えて欲しいんすよー」
 漠然とした頼みだ。もし悩ませるようなら訊き方を変えようと思ったけれど、意外とあっさり思い出話が始まる。
「お前が覚えてなくたってお前は昔と変わんねぇよ」
「バイトの頃からこんな感じだったんすか?」
「ああ。人見知りしねぇから男の客しかいないときはホールにも出てたし、女が来ると他のバイトがすぐに教えて奥に引っ込んでた」
 我がことながらすぐに想像できた。店長にはさぞ迷惑をかけていたことだろう。
「だから面倒なバイトだったが。手先は器用だし仕事は早いから、キッチンの方で重宝してたよ」
「今でも家でいっぱい料理してますよ!俺っちは分かんないけど、独歩が『これは店で覚えた料理だ』とか覚えてて教えてくれるし」
「バイトしてた頃も、よく家で練習に作ってみたとか言ってたな」
「俺っちめっちゃ勤勉じゃん!」
「そんなナリしてるとそうは見えねぇんだけどな」
 今日は一応スーツで来たのにこの言われよう。確かにスーツとは言ってもサラリーマンには見えないだろう。独歩が会社に着て行ったらこっぴどく怒られそうな派手なジャケットは椅子の背もたれに掛けてある。
 涼しげなグラスで氷がじんわり小さくなっていく。語られたのは主に日常のちょっとした話だ。親しかったバイト仲間や話好きの常連客との様子。やらかした失敗。一目惚れした女子高生が押し掛けてきた話。神門は自分からプライベートを尋ねたり雑談に興じるタイプではなくて、俺が勝手に喋ったことや他の人間と話していたことの断片的な思い出を教えてくれた。短いエピソードをいくつか話して眉を下げる。
「…………悪いな。昔のスタッフの連絡先が分かったら、俺なんかより役立つ話が聞けただろうに」
「いいんすよー。十分面白かったっすー!」
 昔の話を聞くのは好きだった。独歩に聞くのも、覚えていないのに自分がやりそうな行動ばっかりで、錯覚かもしれないけど記憶が蘇るような気がした。
「お前が辞めてからH歴が始まって、向こうの店も畳んじまって。さすがに寂しく思ってたんだがなあ。そしたらお前、テレビでも新聞でも引っ張りだこじゃねぇか」
「ひひっ。びっくりしたっしょ?あの寂雷先生とチームっすよ!」
「ああ。それに山田くんのことも」
 扉の方に逸れた神門の視線を追って、変わらず同じ場所で待機している一郎に目を向けた。
「店長、一郎くんとも昔から知り合いだったんすか?」
 てっきり閉店作業の際に萬屋を利用して以来の付き合いかと思っていた。なにしろ一郎はその辺のことを全く説明してくれない。
 尋ねると、神門はおかしなものでも見るような目でこっちを見て、それからまた一郎を一瞥して深く息を吐いた。
「そうか、そうだよなあ」
 勝手に納得されたすっきりしない気持ちで眉をしならせる。
「お前が山田くんと一緒に来たから、そこンとこは覚えてたのかと思ってたんだが」
「そこンとこ……って」
「一二三、お前昔、俺の店で山田くんと会ってたんだよ」
 昔。それはつまり、テリトリーバトルが始まるずっと前のことだ。前にも一郎本人に尋ねたことがあるけど、彼は肯定も否定もしなかった。やっぱり会ってたんだ。
 中王区で再会してからこれまでの一郎との記憶が脳の奥でチカチカ瞬いて、何か。遠い記憶に触れたような気がした。

 外がにわかに騒がしくなってきた。腰を浮かせてガラス越しに表を見る。閑散とした通りに似つかわしくない、柄の悪い見てくれの連中が五人ほど集まっていた。こんな陽の高いうちに天下の往来で集会ってわけでもないだろう。
 彼らのリーダーらしい青年が一郎に話しかけ、それまでベンチから動かなかった一郎が立ち上がった。
 相手はあの山田一郎相手だというのに大した自信だ。
「んんん?なーんかアイツらマイクっぽいの持ってんなー」
 目を凝らして見ると、それぞれ体の脇で何か握っている。ヒプノシスマイクだ。
「アイツらは最近都会から戻ってきた連中だよ。都会じゃ強いチームが多くて縄張りを持てないからって地方で幅利かせてやがんだ」
「ダッセェ連中だなぁ。大丈夫かな」
 一郎ならそんな奴らに負けるとは思わないが。一応出て行くか迷った。神門も同様で様子を見ている。
「警察呼ぶか。地元の連中と余所者じゃテリトリーバトルとしても塩梅が悪い」
「うーん。……いや、ちょい待ってください。すぐケリつきそう」
 自分のセリフに既視感じみたものを感じて神門を顧みた。目が合う。
「…………昔もこんなことありました?」
 大丈夫かなあ、警察呼ぶか、待ってあの子やり返してる。そんな風なやり取り。
 誰かに聞いた話を経験したことみたいに錯覚しているだけか。自信を持つほど鮮明じゃない。でも、神門の驚きの滲む表情を見たらおぼろげな思い出が輪郭を持ち始める。昔にもこんなことがあった。店の外で一人で闘う彼の姿を見たんだ。多分。頭の中に、閉店した店の備品の搬出作業をしていた時の光景がチラついた。あの時に掴めそうで掴めなかった記憶に手が届きそうな気がした。
 外では一郎に襲い掛かった男たちが次々に倒れていく。助太刀する暇もなさそうだ。
「一二三、覚えてんのか?」
「うっすら……」
 覚えているうちに入るかも怪しいくらい曖昧で自信は持てない。目で答え合わせを頼む。
「お前がバイトしてた頃、店の勝手口の外で小学生が高校生と喧嘩おっぱじめてな」
「小学生…………」
 当時の小学生というと、今なら高校生から二十歳ぐらいのはず。店の外を見る。今の山田一郎は、確か十九歳だ。
「それってもしかして……」
「ああ、山田くんだよ。助けに出る前に自力で勝っちまったけど、逃げた高校生が自分で警察呼んできやがって、お前は警察から匿うためにあの子を厨房に引っ張り込んだんだよ」
 それが彼と知り合ったきっかけだ。ごく簡単に説明して神門は店のレジにある電話を取りに行った。喧嘩が片付いたのはいいが、一郎がこの町に住んで連中のテリトリーを仕切ることはできない。連中が逆恨みして一郎が帰った後で店に嫌がらせをしないとも限らないから念のため警察や近隣住民に説明しておく必要があった。
 外では最後の一人が膝をついたことで決着がつき、詰まらなさそうな一郎がマイクのスイッチを切った。
 一仕事終えてまたベンチに座ろうとするのを見て店の正面口から手を伸ばし腕を掴む。振り向いた一郎はちょっと驚いた顔で面白かった。そのまま素直に店に引っ張り込まれた一郎を見上げて、
「警察が来るぜ」
 二色の瞳を見返した。いつも強さに裏打ちされた自信が滲んで見えた双眸が、心なしか子供みたいに揺れる。
「アンタ、思い出したのか」
 そうだ、前にも一郎は同じことを尋ねた。
「ごめん。まだあんまし」
 彼と記憶を共有できるほどには思い出せていない。すぐに白状した。わかりやすい落胆を顔を背けることで誤魔化した一郎は手近な椅子に腰を下ろす。その目の前にバッグから取り出したガムを置いて、正面に座る。彼は俯いてコーラ味の赤いパッケージを見つめた。漫画と一緒にしまわれていたこのガム。神門に一郎との出会いを教えられてから、このガムをくれた主が彼かどうか尋ねる気だった。けど、訊くまでもない様子だ。
「やっぱこれ一郎くんかー。知り合いだったなら前に会ったことあるか訊いた時に教えてくれたら良かったのにさー」
「別に、どうせ覚えてないのにわざわざ言うほど深い付き合いでもなかったんだよ。片手で数えられるぐらいしか会ってない」
 拗ねた言い方で、覚えてもいないのに小学生の頃の様子が記憶の奥に過る気がした。
 だけど覚えてないなら意味がないように言われると痛い。記憶がないのは大事じゃなかったからとか、彼との時間が退屈だったからとか、そういうことじゃないのに。覚えていないと弁解しようにも説得力がない。
 実際、高校の頃の友達とか、ホストになる前後にもマメに携帯で連絡を取り合っていた知人とは今も付き合いがある。ホストになったからって過去の人付き合いを捨てようとして捨てたわけじゃない。だけど一郎とは続かなかった。少なくとも、穏やかな別れだったらもっと友好的に振舞ってくれたんじゃないだろうか。そうじゃないってことは、俺はやっぱり小学生の彼を傷つけたんだ。
 これは憶測でしかない。でも、自分が知らずに捨ててしまったのを拾い上げたくて。こっちを見ない彼の、引き結ばれた口元を見つめた。
「その、ちょっとだけの付き合いでも漫画貸したりガムくれたりしたんだろ?」
 当時の気持ちは分からないけど、二十歳前後の男がわざわざ小学生と仲良くしていたんだから、昔の俺にとって特別だったんだろう。
「コレ、漫画が入ってた紙袋に未開封のまんま入ってたんだよね。食べれなくてゴメン」
 ガム一つなんて金額にすれば些細かもしれないけど、小学生の小遣いで買ってくれたものだ。それを昔の俺はちゃんと受け止められなかった。返ってきた漫画を開くこともしなかったんだろう。彼の気持ちが一緒に入っていることにも気が付かないで、そのまましまい込んでしまった。
 嫌そうに顔を顰めた視線の先。テーブルからガムを拾い上げ、パッケージの開封口に爪をひっかけた。幸い、溶けてベタベタになっているのは反対側だ。外装を破って一粒摘まんで、個装を開こうとしたところで伸びてきた手に奪われた。
「食うなよ。腹壊すぞ」
 当然、賞味期限はとっくの昔に切れている。食べても死にやしないとは思うけど、素直にガムを入れてきたポリ袋に入れてバッグにしまい直した。奪われた分も回収して、一粒残らず。
「なあ、俺っちとどんな話してた?」
「どんなって」
「漫画の話とかさ。そもそも何で仲良くなったの?」
「……店長に何か聞いたんじゃねぇのかよ」
「一郎くんが喧嘩で勝った相手に警察呼ばれて補導されかけたところを店に入れた、ってとこだけ」
 当時は店の営業中の出来事だったし、俺と小学生の一郎がどんな会話をしていたかなんて細かなことは神門も知らないだろう。
「俺っちさー、一郎くんに出会った頃……知り合った直後ぐらいだと思うんだけど、その頃に女性恐怖症を克服したくてホスト始めたらしいんだよ。独歩が無理すんなっつーのも聞かずにさ。だから、なんか一郎くんに言われたんかなーと思って」
 なーんて。人生を変える出会いだったら面白いけど、実際のところは遅かれ早かれホストクラブの門戸を叩いていたと思う。今は中王区のお陰で人口比が偏っているといっても人口の半分が女。それを避けて逃げ隠れして一生過ごすのは、性格上窮屈だっただろうし。大事な人の人生の節目には駆けつけたいし、友達が誘ってくれるなら一緒に遊びにも出かけたい。女がいない場所だけ、なんて縛りなしに、人と一緒に美味い物食べてきれいな景色を見たい。
 恩師の葬式の一件からモヤモヤしていた時に一郎くんは目の前に現れた。多分。実際のところは、今となっては本当のことは彼しか知らない。
 俺の知らない全てを知る彼はつっけんどんに答えた。
「そんなの……俺の言ったことの何がアンタに響いたかなんてわかるわけねぇよ」
「まぁねー」
 十年も前のことだから一郎だって細かくは覚えていないだろう。俺にとっては十年の時を経て掘り起こしたくなる出来事だとしても、同じように大事とは限らない。仲が良かったというのも俺の妄想で、彼にとっては本当に語るほど親しいつもりはなかったかもしれない。
 ちょっと、いや、自分で思っていたよりも素っ気ない言葉が寂しかった。覚えてないのに何に期待していたんだか。
 ちょうど神門が電話を終えて戻ってくる。それから事情を聞きに来た警察に一通りの説明をして、遅くならないうちに帰ることになった。帰りも長旅だ。泊りの予定じゃないから長居は出来ない。

 店は商店街の中にあって、駐車場は商店街の角から少し入り込んだところに確保されている。神門に見送られて店を出てから一郎は無口で、取り留めない雑談を振っても話が広がらないから後半は黙って歩いた。そういう空気は大の苦手だけど、なんだか自分の中でも上手く感情の整理がつかなくて。
 これからまた何時間も車で二人きりなのにすっきりしない気分で困っちゃうな。と思いながら道を曲がったところ。先を歩いていた一郎が足を留めた。ぶつかりかけた背中から顔を出して駐車場を見る。
「お、来た来た」
 乗ってきた車の前にバットを持った若者が屯している。さっきの連中の仲間だってことは一目で分かった。
「結構早かったねー」
「遅かったら暇つぶしに車ボコすかって話してたとこだよ」
 ぞろぞろと立ち上がる。頭数はさっきより少し多いくらいか。一郎がスッと片手を伸ばして俺を庇った。
「おい、テメェら。そりゃ俺の車とわかってて言ってんだよなあ」
「もっちろん。田舎じゃ都会ナンバーって目立つからさ」
 一人が車の助手席側のドアをスニーカーで蹴りつけた。不良たちが笑い声を立てる。
「何に睨んでんの。中王区でやり合ってるから地方のガキには負けないってか」
「ハマに負けたブクロの山田一郎と、寂雷のいない伊弉冉一二三だろ?」
「さっき仲間が世話になったみたいだけどさ、俺らの方が強いから」
 無事に車には乗せないつもりらしい。代わる代わる煽る若者たちを、一郎が鼻で笑った。それが奴らの短い導火線に火をつけた。得物を振り上げて殴りかかってくる。
「アンタは下がってろ」
 物理的な殴り合いは不慣れで一瞬躊躇った俺から一歩離れて踏み出し、一郎は殴りかかってきた連中の懐に潜って腕を掴む。腕を握りつぶされた手からバットが落ちる一方で反対側からもう一人が殴りかかってきた。それを目の端で捉えて蹴り飛ばし、片手を潰された男を放り出す。
 元TDDの山田一郎は強かった。ステージ上での強さは知っていたし、昔はヤンチャした、なんて話は聞いていたけど。実際にマイク抜きの喧嘩を見るのは初めてだ。小学生の頃に高校生に勝ってしまった話も頷ける。
 だけど敵もそれなりに自信があって襲ってきた。
「一斉にやりゃいいんだよ!手足合わせて四本しかねぇんだからさ!」
 わっと集まって襲い掛かってくるのを見ながら、それでも腕力じゃ足手まといにしかならない。手伝うに手伝えずにいた時、喧嘩に加わらずに車の近くで傍観していた三人の男たちがマイクを持ち上げるのが見えた。アップテンポなビートが流れ出す。俺が控えているのが見えていたって連中はきっとワンバース目で俺を狙わない。一郎を潰した方が手っ取り早いのは明らかだ。
「そうはさせねぇよ!」
 夜でも昼でも煌めくマイクを起動する。出現したスピーカーに連中の目が惹きつけられた隙を突いて先に言葉を並べる。八小節にタイトに詰め込む。荒い声を挙げながら殴り合う奴らの呼吸もビートに取り込むようにして。過熱した空気ごと頭ン中掻きまわしてやる。
 始まった頭越しのラップバトルによって一瞬敵の気が逸れた瞬間、掴み合っていた男の胸倉を掴んだ一郎が数人まとめてなぎ倒した。
 人数で押せるという計算が狂いだした連中が焦りだす。それでも向こうはマイク持ちが三人。標的を俺に切り替えて叩き込まれるラップに耐えて、切り返す。マイクがあれば俺だってやれる。
 高速でねじ込んだライムに対する連中のバースは綻びだらけだ。頭が聴こえた言葉を処理しきれなかったんだろう。脳の処理が追い付かなくたって精神には届く。一撃で三人まとめて屈服させるような芸当はできなくても。やれる。
 前線で争っているうちに一郎に投げ飛ばされた何人かが失神して使い物にならなくなった。棒切れを振り回していた男も利き手が使い物にならなくなると一歩下がり、ヒプノシスマイクに持ち替える。
 一郎も前線に残っていた一人を殴り飛ばして間合いをとった。俺に並んで、ベルトに差していたマイクを掴む。
 横並びに立つと横目で視線を交わし、乱雑に打ち込むみたいな敵のリリックを受け切って、一郎が踏み出した。俺のバースを真似て足並み揃えた、力強くて心地いいライミング。一郎自身のステージならやらないようなワードチョイス。
 一緒にやろうぜ、と目で言い合ったくせに、俺が合わせるつもりだったのに。まったく予想を裏切られて振り向くと、敵じゃなく俺に向かってしてやったりみたいな表情だ。こっちまで気分と口角が上がる。
 寂雷先生と一緒の時とはまた違った無敵感。喧嘩の勝ち負けとは別のところでアガる。一郎が選んだ韻に重ねて滑らかに舌が歌を走らせる。
 遠方まで来て厄介な連中に絡まれるなんて不運でしかないのに、彼のリリックに重ねて手を振り喉を震わすと楽しくて、目の前に立ちはだかる人間がいなくなるのが惜しい。
 きっと、十年前。彼と出会った日はこうじゃなかっただろう。一緒に喧嘩した記憶はない。思い浮かべてもどうもしっくりこない。まだ子供の君は一人で闘っていた。
 あの日のことを、俺はまだきちんと思い出すことはできないけど。そんな姿を思い浮かべると新鮮にもどかしい。

 帰り道はガラ空きで、車はスムーズに高速に乗った。
 いつまでも心地よく騒いでいるように思われた胸も車が単調な景色に乗り出すと落ち着いて、否応なく帰り着くまでの時間を意識させる。
 往路も一人で運転してきた一郎に交代を申し出たけど、俺がペーパードライバーであることを理由に断られた。まだ初心者マークが取れてから一年も経たない一郎にゴールド免許を見せつけてそんなことを言われるのは悔しかったけど仕方ない。
 流れる防風壁や田畑の緑ばっかりの景色を横目に改めて尋ねた。
「昔出会った頃って、俺達どんな話してた?」
 これで嫌がられたら、今の彼に嫌われる前に諦めようかと思っていた。だけど、今度は質問が返ってきた。
「アンタさ、何で今更思い出そうとするんだよ。忘れてたって困らないだろ」
 車窓から離れて運転席を顧みると、またどこか拗ねたような表情が見えた。
 ポケットの中でポリ袋入りのガムを弄びながら答える。
「昔の俺が君のことを大事にしたかったのに、自分に余裕がなくてできなかったから、かな」
「…………覚えてないのに何でそんなことわかるんだ」
「だってさー、十年経ってるのにちゃんとまた一郎くんにたどり着いたじゃん」
 もし何か一つ掛け違ったら、引っ越しのどさくさで漫画の入っていた紙袋を捨てていたかもしれないし、どこかでホストを始めた頃の記憶を追求するのをやめてしまっても問題はなかったのにここまできた。それって結構すごいことじゃない?
 高速に乗って最初のパーキングエリアに立ち寄った。広い駐車場の中で、建物の目の前の混んでいるエリアを避けて端の方に車を停める。飲み物でも買ってこようかと丸めてあった上着を広げようとしたら、シートベルトを外してステアリングに両肘を置いた一郎がフロントガラスの外を眺めながらぽつりぽつりと話し始めた。
「アンタさ、会えなくなる前ぐらいに、何か苦手なことを頑張って克服しようとしてるって言ってたよ」
 それが十数分前の話の返事だと分かって振り向いた。彼は相変わらず、あまりこちらを見ようとしない。
「知り合ってすぐの時にはそういうこと言ってなかったから、うぬぼれかもしれないけど、俺が言ったことの何かがアンタを動かしたのかもしれないとは思う」
「きっとそうだよ」
 今となってはわからないんだからそう思ったってかまわないじゃないか。一郎は横目でこっちを見て渋い顔をしたけど、俺はそういうことだと思い込むことにした。
「あとは……そうだな、漫画の話とか。俺の生活してた施設のことも話したし、店の割引券くれたこともあった。それで食べに行ったんだ」
「えー、めっちゃ仲良しだったんじゃん」
「どうだかな。アンタは施設育ちのガキ相手のボランティアのつもりだったかもしれねーし」
「そりゃわかんないけどさー、十年前から付き合いのある十歳も離れた友達って他にいねーよ」
 人の役に立つことは好きだけど、それだって誰にでもするわけじゃない。
「つーか、一郎くんさ。なんで今まで教えてくんなかったの?」
 ずっと素っ気なかったのに、今だって楽しい話をしている風でもないのに。急に素直に話し始めたのが不思議だった。俺との過去に嫌な思い出があったのかと少しぐらい疑ったほどだ。
 ダッシュボードに身を乗り出して顔を覗き込む。そうするとまた顔を背けられたけど返事はあった。
「……嫌だったんだよ。アンタが覚えてないのをいいことに、俺の都合のいいよう吹き込むみたいになるのがさ」
「一郎くんそんなタイプじゃないっしょ。つか、都合いいようにってなんだよ。俺が一郎くんにお金借りてるとか?」
 笑い飛ばしたけど一郎は一緒に笑ってはくれなかった。結構真剣に悩んでくれていたみたいだ。
「アンタがすげー俺を気に入ってたとか」
 そっぽを向いた耳の端が赤い。なんだよ、可愛いな。俺に気に入られたかったって言ってるも同然だ。
 笑ってしまいそうになるのを表情筋に力を入れて堪えて、真面目に応える。
「きっと気に入ってたよ」
「わかんねぇだろ、そんなの」
 どうしても否定したい様子の頭に手を伸ばして癖のある髪をかき混ぜる。嫌がられるかと思ったけど意外と大人しく受け入れられられた。
「分かるよ」
 だって、目の前の彼はステージ上で弟を引っ張って戦う歳以上に大人びた十九歳じゃなくて、悩みも不安ある一生懸命な子供だ。きっと二十歳の俺もそんな彼を放って置かなかったよ。

 スポットライトがステージ上を照らす。築き上げた拳に呼応するように黄色い歓声が野外に特設されたライブ会場を震わせた。たまには勝ち負けを競わないライブもいいもんだ。客として気兼ねなく楽しめる。
 出演した三人の兄弟がステージからはけるのに合わせて紛れ込んだ観客席から抜け、少し歩いたところにあるこじんまりとした喫茶店に移動した。三十分ほどで携帯が鳴って、店の名前と席の場所を返信した。更に五分で行くと連絡があった。まだ会場だろうに。
 急がなくてもいいと返してのんびりコーヒーを飲んでいると、本当に五分ぴったりで隣の椅子を引いて彼が現れた。会場からここまで歩いて七分強ってところか。若者は元気だ。
「お疲れー!ちょーカッコよかったよ!」
「あざっす。つか、アンタ今日スーツじゃねーのか。大丈夫だったのかよ」
「一応スーツも持ってきてるけどねー。ライブは男限定だったし、この店マスターしかいないし」
 店員が男しかいなくて、客も女性がほとんどこない店をいくつかチェックしてある。そのうちのひとつだ。必然的にマスターが堅物だったり女の子向けのメニューがなかったり敷居高めだけど、その分客自体少なくてゆっくりできる。
「つーか、打ち上げとかいいのかよー。弟くんたちは?」
「ちょっとだけ抜け出してきたからすぐ戻る」
「マジ?無理してくんなくても今度でもよかったのに」
「無理だったらちゃんと言う」
「ほんとかー?」
 手元のおしぼりを汗の浮いた首にあてると面白いぐらい肩を竦めて嫌そうな顔をする。尚更面白くて笑う。
 向かいに彼が向かいに腰を下ろしたから少しは時間があると見て席から直接カウンターに声をかけた。彼はいつもコーラだ。これ一杯でまた弟たちのところに戻るというから、少し小腹が空いていたけど追加でオーダーはしなかった。
「一二三さん、これ。この間の続き」
 ビニール袋に入った漫画の束がテーブルに乗る。
「お、サンキュー!なんだか借りっぱなしの本多くなっちったなー」
「いいよ、じっくり読んでくれ」
「オケまる。そしたら全部読んだら連絡すんね。んで、返しついでに山田家に遊びに行きたいんだけどさー」
 前からオタク青年の蔵書に興味があって提案すると、また難しい顔をする。でも嫌ってわけじゃないんだってことは最近理解した。彼はお喋りってわけじゃないから細かく説明してくれないけど、こういうちょっとしたことでも何か悩むことがあるらしい。
 しばらく腕組して考えてからオーケーされた。
「前日に言ってくれ。片付けすっから」
「散らかってんの?そんなんダイジョブだってー。独歩ちんも部屋散らかし魔だしー」
「そういうわけじゃねーけど」
「あ、わかった。エロいフィギュアとかっしょ!」
「!」
 うっかり図星を指してしまっていよいよ渋い表情だ。
「そんなん今更じゃーん。オタクなのは知ってっし、男の子だし?」
「いいから!急に来ンのはなし!」
 笑うと「一二三さん!」と叱られた。だって、さっきまでステージで貫録を見せつけてたのにさ。オタクであることを隠してるわけでもないのに変なところで焦っている姿は年相応に見える。気を許されてるってことかな。
 それぞれのグラスが空になるまでの短い時間を過ごして店を出る。財布を出そうとするのを止めて会計は大人が持つ。本のお礼だって名目があるから素直に受け入れてくれたけど、返却がてら遊びに行ったときに材料持ち込みでから揚げを作って食べさせようと思う。お礼として。昔のバイト先で食べたから揚げが美味かったって言ってたから。
 駅の近くまで一緒に歩いて俺はタクシーを拾った。電車は女の子がいるから乗れない。
「じゃあライブ誘ってくれてサンキュー!」
「ああ、また男ばっかでイベントやるときは教える」
 彼は結構律儀な子で、車が出るまで見送ってくれる。ホストの素質がある。
 開かれた後部シートの扉の横で短く言葉を交わして車に乗り込む。そのドアに手をかけて、彼が背の高い体を屈めた。
「また連絡する」
 それからその手でドアを閉めた。
 携帯にはお互いのアドレスが登録されている。電話も、メールも、メッセージアプリも。
 仕事の依頼をしたときに電話番号だけ交換したけど、追加でメールとメッセージアプリのIDも交換しておこうと申し出た時、彼は言った。昔は入所していた児童保護施設の固定電話しかなかったけど、今は携帯を持ってるんだって。十年前のあの頃、せめて高校生だったら連絡を取り続けられたのにって。
 今はもし携帯を失くしてもお互い見失うことはないだろう。お互いの店の名前で検索すればすぐに職場の番号が調べられるし。
 でももう忘れない。話したことも、彼のリアクションがどんな風だったかも。全部一緒に憶えておく。二十九の君と「そんなこともあった」なんて笑えるようにさ。