Future shelter前編/さまじろ/55815

※捏造設定もりもりH歴6年設定。
※後程部分的に内容を書き変える可能性があります。

@1
 病院だ。驚きはしない。いつかこうなると思った。あの世じゃなかっただけマシってもんだろ。
 首を少し傾けると、神経質そうなスーツに眼鏡の男が座っていた。学校の教師じゃないから警察か。
 そいつ、刑事は手帳を見ながら見たことない機種の携帯で電話をしていた。俺が目を覚ましたのに気が付くとすぐにそれを中断して優しさの欠片もないような顔で俺を呼ぶ。
「目が覚めたか、左馬刻」
 ガキだからって敬語も敬称もなしときた。この世はお役人もクズばっかりだ。近所のお巡りだってもう少しは愛想がある。
「まったく、こんな忙しい時に倒れやがって」
 勝手な言い草だ。市民の安全を守るのが警察なのに。うちのことはちっとも助けてくれなかったくせに。子供が病院に担ぎ込まれてやっと目を覚ましたところへ掛けた言葉がこれだ。でも、警察がここにいるってことは家にも踏み込んだんだろうか。意識を失う前のことはよくわからないけど母や妹が激しく殴られていた覚えもない。俺一人が殴られて警察沙汰になったなら良かった。二人が無事なら。
「待ってろ。今医者を呼んでくる」
 病室を出て行こうとした刑事を引き留める。
「待ってくれ……。妹は、合歓と母さんはどうなったんすか」
 肘を立てて無理やり体を起こした。意識をなくすぐらいだからよっぽど殴られたんだろうと思ったのに、意外なことに体はどこも痛くなかった。ちょっと頭痛があるばかりだ。
 ベッドの上から刑事を見上げると赤い皮手袋をした指で眼鏡を押し上げ、こちらをまじまじと見つめられる。居心地が悪い。
「妹?何言ってんだお前。なんの冗談だ」
「冗談ってなんだよ。親父は捕まったのか?」
「そんなわけないだろう。そうなら俺がこんな悠長にしていられるわけがない」
 まさか。まだ妹と母親は親父と同じ家にいるってのか。
「ふざけんなよ……、帰る!」
 ベッドを飛び降りた。そこで違和感に気が付いた。足元。やけにでかい靴が置かれている。服も、見たことがないし入院着でもない。それに靴の横に下ろした足が、靴にぴったり合うくらい大きかった。何かおかしい。
「なんだこれ……」
 おかしい。自分の声なのにやけに低い気がする。確かに少し前に声変わりしたけど、だけどそれにしたって変だ。喉に手を当てて、その手を目の前で広げた。大人の手みたいだった。
 押し寄せる違和感に戸惑って刑事を見上げると、向こうも困惑した様子でこっちを見ていた。
「左馬刻。お前、まさか親父って組長のことを言ってるんじゃないのか」
「組長って、誰だよそれ。うちの親父は暴力クズだけどヤクザじゃないはずだ」
 もしかしたら俺が知らされていないだけでそうなのかもしれない。でも組長なんて、そんな身分だったらうちも金銭的にはマシな生活ができてたんじゃないか?
 俺が足りない脳みそでなんとか大人の言うことを理解しようとする間に刑事は事態を理解し始めていた。
「…………確認する。お前はそんな冗談は言わないよな」
「さっきから何なんだよアンタ。冗談じゃねぇって」
「お前の言う親父ってのは実の父親のことか?」
「他に誰がいるってんだ」
「妹と母親はどうなってると思ってる?」
「どうって……こっちが訊いてんだろ」
「いいから、憶えてる範囲で言ってみろ」
 強い口調で言われて考えた。倒れたショックなのか、今日の日付が分からない。まだ夏休み前だっただろうか。
「妹は……今が平日の昼間なら小学校いる。母さんはパート行ってると思うけど……親父が捕まってないなら最悪怪我で休んでるかも。アンタ警察だろ?親父が母さん殴るんだよ。月曜の夜ならアイツ大体いるから逮捕しに来てくれよ!」
 そうだ、コイツを家まで連れてって母さんの体の痣を見せたら話が早い。家の近くで隠れていてもらって、親父が暴れ始めたら合図するから、現行犯で逮捕してもらえばいい。
 閉塞した暴力親父との生活に光が差した気がした。なのに刑事はまた訳の分からないことを言う。
「妹は小学生で、母親と父親は健在ってことか」
「母さんは親父のせいでボロボロだから健康じゃない」
「そりゃわかったよ。で、左馬刻。お前は今何歳だ?」
 名前を知っているのに年齢は知らないのか。警察って変だ。
「十四歳」
 答えると、その刑事は盛大に頭を抱えて呻いた。「マジかよ」ってそりゃ俺のセリフだよ。何でこんな変な奴が俺の事件の担当になったんだ。最悪だ。

 つまりはこういうことだ。
 俺は今二十八歳。ヤクザで“ヒプノシスマイク”とかいう新しい武器で喧嘩をする仕事をしていて、変な刑事とは仲間。ヤクザなのに。で、一緒に悪い奴と喧嘩していた時に妙な攻撃を食らって記憶喪失で十四年分の記憶が吹っ飛んで、中学まで頭が巻き戻ってる。
「嘘だろ」
「本当です」
 座ったらケツで踏みそうなほど長く髪を伸ばした神宮寺と名乗る医者が低い声で告げた。とんでもないことを言うけど、この人の言うことは妙に説得力がある。
「先程鏡で見て貰った通り、今君は大人で、ご両親はすでに他界しています」
「マジで母さんが親父を殺したって言うのか」
「はい。もう随分前のことですが」
 そして、母は自殺した。それから妹と二人で暮らしてきたけど、その妹とも数年前に引き離され、今は中王区とかいう新しい区画にいる。らしい。
 中王区。聞いたこともないその土地は女だけが住んでいて、男は立ち入り禁止にされている。数年前にクーデターがあって言の葉党とかいう怪しい政党が政権をとった。そこで女性が内閣総理大臣になって以来、定期的にテリトリーバトルとかいうラップの大会を開催している。でもそれは先月に起こったテロ事件により当面の開催を見合わせている、だと。
 どこの国の何時代の話だよ。何から何までおかしい。現代日本で?あり得ない。戦後復興のどさくさで殺傷事件は絶えないし世の中の不安を食い物にする新興宗教が大活躍だったが、それとは別次元の話だ。
 確かに自分の意志で動く手も足も大人のもので、鏡で見た顔も自分のようでいて自分じゃなかった。でも、だからって。すぐ信じられるような話じゃない。現実と違う世界に迷い込んだみたいだ。
 診察に立ち会った例の刑事、入間は終始厳しい顔をして黙っていた。大人、しかも刑事がそんな態度だと怒られたわけじゃなくても自然と肩に力が入る。しかも入間は診察中の俺たちに構わずどこかにメールを打って、医者の話がひと段落した頃にやっと口を挟んできた。
「神宮寺さん、もう一度お聞きしますが、この状態を治す方法はわからないんですね?」
「はい。使われた違法マイクをよく調べないことには。迂闊なアプローチをした際にどう転ぶかもわかりません」
 外傷はない。すぐできる可能な限りの精密検査を行っても、今現在目に見える異変はなかった。倒れた際の打撲以外、頭を強く打ったわけでもないという。詳しいことは俺には分からないけど、とにかく成功が保証された治療手段がないってことは分かる。つまり、
「しばらくはこの子供の頭で暮らすしかない、と」
 大きなため息。実際迷惑をかけているんだろうが、ちょっと頭に来る男だ。でも仕事は早い。
「仕方ありませんね。私から火貂組の組長に事情を説明します。しばらくは理由をつけて人前に出なくて済むよう取り計らいましょう」
 ヤクザって何してるのかわからないけど一応は毎日やるべき仕事があったらしい。引きこもるにも理由がいるみたいだ。組長ってのが大人の俺が「親父」と呼ぶ人で、警察のクセに入間は組長との繋がりを持っている。
「そういうわけなので、あまり出歩かないように」
「じゃあ家に帰るのか?」
「今の家に、な」
 嫌な言い方だった。
「あと十分ほどで世話係が迎えに来ますから」
 神宮寺先生からも異論はなかったからまた元の病室に戻された。
 病室に戻ってから気が付いたけど、俺の記憶喪失が判明する前から高そうな個室に寝かされていた。ヤクザはみんな一般人と部屋を分けられるのかと思って尋ねると、「お前がここの特室料金を支払えるからだ」と言われた。
 どうもヤクザの中でも下っ端じゃなくて、舎弟がいるような身分らしい。堅気じゃないのがイマイチだけど結構出世してるみたいだ。尚更自分に都合のいい夢みたいで少し笑えた。
 それが分かったから迎えに来る世話係ってのも舎弟の一人かと思っていた。

 病室に駆け込んできたのは二十歳そこそこの若い男だった。長めの髪を真ん中で分けて、スタジャンで小脇にバイクのヘルメットを抱えて。あまり貫禄のない男だった。
「左馬刻さん大丈夫かよ?!」
 ノックもなしに飛び込んでベッドサイドまでずかずかやってきてため口を利く。ベッドに座って見上げる俺の顔をまじまじと見て、横にいた入間に視線を振る。
「……思ったより普通じゃん?」
「赤ん坊まで記憶が退行していたら見た目で分かったかもしれませんがね」
 二人のやり取りを見ていて何となく自分の予想が外れたことを感じて尋ねた。
「おい、……コイツって俺の舎弟じゃねぇの?」
 気の抜けたようなタレ目でアホみたいなことを言っていた世話係が目をかっぴらく。
「左馬刻さんそれマジで言ってんの?!」
「二郎くん、病室ですからお静かに」
 世話係はうるさかった。
「彼は舎弟じゃありませんし、ヤクザでもありません」
「じゃあ友達とか仲間とか……」
「違います」
「じゃあ何なんだよ」
 入間は腕を組んで黙った。二郎と呼ばれた男はこっちを見たり入間を見たり忙しい。
「彼は……」
「おい、アンタ何て説明する気だよ」
 口を開こうとした入間の腕を掴んで二郎が言葉を止めようとしたが、構わず入間は続ける。
「左馬刻の愛人です」
「ちげぇよ!」
「どっちだよ」
 慌てる二郎に二人分の視線が集まる。愛人じゃないらしいけど恥ずかしそうに肩を竦めてヘルメットを抱きしめ、耳を赤くして。
「…………ちゃんと、つ、付き合ってる」

 十四年の時を超えた未来にタイムスリップした俺、碧棺左馬刻。十四歳。
 日本は女とラップとヘンテコマイクに支配され、職業ヤクザ。仲間は不良警官。それから恋人は男。
 頓珍漢なことばかりが見舞うここは、布団の中で見る悪い夢みたいだ。

@2
 風が黒い髪を吹き流して首元から甘い匂いが零れた。ちょっと顎を上げてこっちを見るとまつ毛を透かした光が左右色違いの瞳に反射する。
 その男の名前は山田二郎。歳は俺より、大人の俺より八つ下で二十歳。高卒で兄の経営する萬屋に就職し、実家で暮らしながら働いている。今日も一応仕事が入っていたらしいけど、入間から連絡を受けて残りの仕事を兄弟に任せて駆けつけた。そして、今から俺の記憶が戻るまでは俺の世話係だ。

 病室で顔を合わせた後、入間は俺を二郎に丸投げした。
「これから左馬刻の記憶が戻るまで、住み込みで面倒を見てください。定期報告はこちらのタイミングで行いますから気が付いたことはメモでも取っておくように」
「住み込みって、テメェなに勝手に……!」
 一方的に言い渡されて当然のように文句を言おうとした二郎だったけど、入間は周到に脇を固めていた。
「お兄さんにもこちらから連絡を入れてあります。事情が事情なのでね。私から萬屋ヤマダへの依頼として報酬も支払うことで承諾してもらっていますよ」
「アンタが左馬刻さんのために金出すってのかよ」
「まさか。記憶が戻ったら左馬刻が払います。それまでの期間の生活費、経費は左馬刻の財布から出してください」
「そんなこったろうと思ったよ!」
「おや、左馬刻の世話係は嫌なんですか?」
「いっ…………嫌じゃねぇけどさ」
 威勢が削がれた。俺の顔をちらりと見て「自分の仕事放り出したくねぇんだよ」とぐずぐず言う。
「そうですか。なら仕方がない。他の人間を手配します」
 意外なほどあっさりと入間が頷いた。知らない大人同士の言い争いが頭の上を飛び交ってる間、自分のことだというのに全く他人事にしか感じられずぼんやりしかけたところに緩急がついて入間を見た。嫌味ったらしい顔で眼鏡を押し上げる。
「え、いいの?」
「ええ。結構です。無理強いはしません」
「アンタがそんな素直だと気色悪いな」
「なんとでも。では急いで人を寄越しますから。左馬刻の部屋に住み込みで二十四時間、衣食住を共にする人間をね」
「二十四時間って」
「言ったでしょう。食事も常に一緒、寝ている間も同じ家にいてもらいます。君じゃない他の人間にね」
 別に誰が来ても一緒だ。俺にとっては。でも、二郎には違ったみたいだ。八の字眉毛を寄せに寄せ、唇を噛んで入間を睨みつける。
「それでいいんですよね?」
 ダメ押しに眼鏡の奥の切れ長の目を細めて入間は笑う。悪魔みたいな男だ。
「ちっくしょー……いいわけねぇだろ!」
 二郎が情けない顔で叫んだ。

 俺が倒れて病院に運ばれた際、財布なんかの貴重品は入間が回収して預かっていた。それら一式が二郎に渡される。財布、携帯、マイク、キーケース。
 キーケースにはたくさん鍵がついていた。入間はその鍵束を二郎に見せて一本選ばせた。”今の家”の鍵だ。それを外してスーツの胸ポケットにしまう。
「念のため、これは預かっておきます。君は合鍵持ってるんでしょう?」
 言われて二郎も自分のキーケースを取り出した。俺のと色違いの革製のヤツだった。
「出歩くときは必ず一緒に出掛けるか、最悪、君が同行できないときは私か理鶯を呼んでください。左馬刻を一人にしないように」
 そこらへんで世話係イコール監視役と理解した。どんな心配をしているかまでは考えが及ばないけど、いい気分じゃない。
 二郎も入間に対して敵対心を滲ませていたけど反論することもないって様子でひとつひとつの指示に頷いた。
 病院を出るところからすでに二郎の仕事は始まっている。抱えていたヘルメットを俺に被せ、着ていたジャンパーを脱いで、これも俺に着せた。二人が言うには、俺は有名人だから顔や服装を誤魔化さなきゃいけないらしい。フルフェイスのヘルメットのまま病院内を歩いてるほうが目立ちそうなもんだったけど。
 病院の裏手から出ると、夏だと思ったのにまだ真夏には早い季節だった。病院の脇では薄紫の紫陽花が咲き誇っている。見上げた空は薄曇り。そういうところばかり見ると俺にとっての昨日までと変わらないようにも見える。
 ひっそりと口の中を噛んでみた。痛くて口の中に鉄の味が広がった。他人のものみたいな左手の甲を右手で抓ってみた。これも痛い。
 空気は淀んだ街の臭い。排気ガスと、うっすらどぶの匂いが混じっている。ひどく現実じみた感覚だ。母さんも妹も、誰一人俺の傍に残っていないのに。
 夢から醒めるために景色の綻びを探して辺りを見回していたら先を歩く男に目が留まった。
 大人だけど入間みたいに怖くはないし神宮寺先生みたいに落ち着いているわけでもない。神宮寺先生とはまた別種の艶のある美形だからか、恋人と言われても生理的に無理だとは思わなかった。それでなかったらこれから二人暮らしなんか承諾しなかった。
 駐輪場前で歩みを止めた二郎に近づくといい匂いがした。大人だから香水か何かつけてるみたいだ。大人だけど、俺より少し目線が低い。
「えーと、とりあえずアンタの……大人の左馬刻さんのマンション行くぞ」
「マンションて」
「ヨコハマ」
 実家は川崎だった。当たり前のように住所が違う。閉口した俺に何を思ったか、二郎が言葉を足す。
「あー……今は区画と地名が変わってんだけどさ、住所的には旧横浜市。わかるか?今いるここはシンジュクディビジョン。ディビジョンってのが市とか区みたいなヤツ」
「わかんねぇけどいいよ」
 自由に出歩けないなら地名を覚えたって仕方ない。どうせこれからはこの男と軟禁生活だ。
 バイクに二人乗りで走り出す。ヨコハマまでは距離があった。俺の体調を気にして休憩を挟み、二郎の家があるというイケブクロディビジョンを通過してヨコハマに向かう。
 途中、街の中に高い壁が出現した。ビルが密集して壁みたいだとか、そういうんじゃなくて。コンクリートで塗り固めたような巨大な壁。
 コンビニに立ち寄った際にそれを見つめていると、二郎が教えてくれた。
「気になるか?アレが中王区だよ」
「妹がいるっていう……?」
「そう。つっても俺は詳しく知らねんだけど」
 今日会った大人がみんなそう言う。妹は中王区にいるって。あんな、巨大な刑務所みたいな壁の中に。しかも男は自由に入る事が出来ない。会いたいと言っても会えないんだって。急にそんなこと言われて納得できるわけがなかった。
 バイクはそのうちヨコハマディビジョンに入った。区画が変わったと言ってもヨコハマは旧横浜市を中心とした神奈川県一帯のことらしい。細かな地名はクーデター以前の地名がそのまま残っている場所も多いようで、看板に表示された名称に見慣れた字面が出てくる。街並みは随分変わっているみたいだけど。母親と妹と行ったことのある商業ビルが見えてそこが地元だと分かった。
 ランドマークを見つけるとバイクで走っている現在地もわかるようになった。このまま行けば妹が通っていた小学校の近くだ。俺が大人なんだから妹ももう小学生じゃないだろうけど。
 信号でバイクが止まった。その隙に二郎の後ろから降りて走り出した。
「あ、オイ!待て!」
 すぐに気づかれてもバイクをその場に乗り捨てることはできない。今来た道と逆方向に歩道を走って細い道に入る。建物の外観は変わっても道は概ねそのままだった。
 大人の体だからか、どうも違和感のある手足を動かして走る。息が上がる。それでも走った。妹の通っていた通学路の緑道を抜けて、俺が小学校卒業頃に売り出されていた分譲地を横切る。昔新しかった家も雰囲気が変わっている。俺たちを助けてくれなかった交番。よく買い物に行っていたスーパー。吠えて妹を怖がらせるから嫌いだった犬のいる家は、建物はそのまま残っていたけど庭先から犬小屋は消えていた。
 間違いない。俺の住んでいた街だ。あと一つ角を曲がったところに二階建てのアパートがあって、そこの一階の隅。白い壁が汚れてくすんでいて、外階段の手すりが錆びだらけの。
 記憶にある会計事務所の看板を見つけて胸を弾ませながら角を曲がった。そこは、全く知らない家が建っていた。
 アパートじゃない。一戸建てが二棟。昨日今日建ったような新築でもない。もう何年もここにある家だ。アパートの隣の家は昔のまま。その隣も。そのまた隣は外壁を塗り替えていた。三輪車が置かれていたはずの向かいの家は三輪車の代わりに鉢植えをたくさん置くようになっていた。
 自分の知らない人間が当たり前に何年も生活を続けている景色だ。ここで、俺と俺の家族も暮らしていたはずだったのに。何千回も歩いた道の先にアパートがない。妹が帰ってくるはずの家が。
 途端に行き先も、やるべき事も分からなくなって立ち尽くした。家さえ見つけたら何か分かる気がしたんだ。待っていたら誰か、うちのことを気にしてくれていた隣の部屋の婆さんとか、この間から二階に住むようになった大家の息子とか。妹の行方を知る人に会えると期待していた。
 縋るような気持ちでアパートの代わりに建つ一軒家の表札を見た。知らない苗字だ。大家とも違うし、俺が知る限りではアパートの住人の名前とも違う。
 同じアパートの隣人とは多少の付き合いがあったけど、アパート以外の家とはほとんど付き合いがなかった。見覚えのあるあの家も、この家も、どんな人が住んでいるかも知らなかった。向こうだってうちの家族のことは何も知らないだろう。妹のことだって。
 足元がガラガラ崩れていくみたいだ。世の中で自分だけが独りぼっちで。どうしたらいいか分からない。
 指でひと突きされたらそのまま膝を折って蹲ってしまいそうな、そんな時。エンジン音が近づいてきて一台のバイクが目の前に止まった。
「オイ、勝手にどっか行くんじゃねーよ!」
 バイクに跨ったままの二郎が腕を掴む。捕まえなくたって逃げる気はない。向かう場所がないんだから。
「なんで、ここが分かったんだよ」
「ヨコハマのダチに片っ端からアンタの服装教えてどっち行ったか情報掻き集めたんだよ。手間かけさせやがって」
「マジかよ。アンタ結構すげーんだな」
「はぁ?バカにしてんのかよ……つか、ここ何」
 知らない人間からすれば何にもない住宅街だ。
「俺の家のアパートがあった場所」
「アパート?」
「今はないみたいだけどな」
 一戸建てが並ぶあたりを指差した。今の景色を見ても昔アパートがあったなんて分からない。
 しばらく一緒に見知らぬ家を見つめた。俺にとっても二郎にとっても初めて見る、知らない人間の家なのに。バカみたいだ。
 二郎が改めて腕を引く。
「……帰るぞ。一緒に」
 素直に頷いた。どうせ他に選択肢はない。
 自分とこの男だけが合鍵を預かるヨコハマのマンション。それが今の帰る家だ。

@3
 本当に俺は一人暮らしだったのか。マンションに踏み込んで俄かに信じられなくなるくらい、大人の俺が住む部屋は広かった。
 一人で暮らして、たまに二郎が訪れるだけなのに玄関は下手な一軒家のそれより広いし、靴箱は大量の靴を収納できる。実際何足も靴があった。アパートじゃ俺も妹も運動靴一足、サンダル一足ずつしか持っていなかった。
 廊下にはいくつも扉があった。1DKのアパートに廊下はなく、玄関入ってすぐの空間に炊事場と洗濯機置き場、トイレと奥の部屋への引き戸と、直接風呂につながるすりガラスの扉があった。一方のマンションの廊下に並ぶ扉はどれが何の部屋かさっぱりわからない。一つを開けると、ちゃんと洗濯機が置かれた脱衣所があった。トイレも広いし便座の手元には見たことのないスイッチが並んでる。突き当りのリビングだけ中の灯りが見えるよう扉にガラスがはめ込まれていて、開くと高層マンションのモデルルームのチラシで見たような部屋が広がっていた。そこだけで元住んでいたアパートの部屋の総面積より広いんじゃないかと思う。四人暮らしだった家よりも。
 壁際に置かれた見たことないぐらいでかくて薄いテレビは映画館みたいだったし、その脇には大きなスピーカーとオーディオコンポが、ラックにきれいに収まっていた。テレビ前のテーブルは大理石。座らなくても分かるようなふかふかのソファ。振り向けば対面式のキッチンカウンター。ダイニングテーブルはなかった。広さを贅沢に使っているっていうのか、スペースを持て余しているようにも見える。
 広すぎて居場所に困る部屋できょろきょろしていると、俺よりずっと住人らしく堂々とした二郎がリビング奥の引き戸を開けた。
「こっち、寝室な。アンタはこの家には客呼ばないから、他にゲストルームとかはねーから」
 呼ばれて覗き込む。一人で寝るだけの部屋なのに無駄に広くて馬鹿でかいベッドがあった。黒でまとめられた寝具。カーテンも黒に近いブルーグレー。壁に扉があって、それはクローゼットらしい。ベッドサイドには灰皿と何も入っていない小物トレイが置かれている。
「夜になったら俺はあっちのソファで寝っから。アンタ、今煙草は喫わねぇよな?」
 訊かれて頷いた。何でそんなことをガキに訊くんだと思ったけど、部屋の隅に置かれた姿見に映った自分は確かに煙草が似合いそうな男だった。
 部屋に着いて大まかな案内を済ませた二郎は最初に部屋のあちこちに置かれた灰皿と煙草を回収してキッチンのどこかに片付けた。
「いい機会だから禁煙しろ」
「俺は元々喫ってねぇよ」
 一度ぐらい中学の先輩の喫いかけを咥えさせられたけど自分で喫うには金がなかった。
「よし。そんじゃ……そろそろ夕飯か」
 時刻は六時。広いベランダの向こうは夕焼け空。母が仕事から帰る時間だった。
 そういう感傷を見透かされたか、二郎がさっさとカーテンを閉めた。代わりにテレビをつけて子供番組を選ぶ。
「飯まで一時間ぐらいかかるからちっと待ってろ」
「おい、こんなの見る程ガキじゃねぇよ」
「ちげぇよ、この番組のあとでやるアニメを、俺が、見るんだよ」
 番組自体は十四年前にも放送していて妹が見ていた子供向けシリーズだったけど、登場するキャラクタの顔ぶれとか歌とかは全く知らないものだ。
 二郎が大きな冷蔵庫を開いて腕組して、どこかに電話を掛けた。誰かに夕飯のための買い物を頼んだみたいだった。
 あり物でできる範囲で二郎が調理を開始する。そのあいだ俺はやることもなくテレビを見ていたけどすぐに飽きた。ドラマの中の主人公みたいな部屋で大きなソファの端っこで、無意味にデカいテレビで意味の分からない番組を見ているんだから落ち着いて過ごせるはずもない。
 それで着ているシャツの襟を引いて中を覗き込み、二郎に言った。
「あのさ、風呂入りたいんだけど」
「ああ、そうだな。湯船使うか?」
「いや、シャワーでいい」
「オッケ。場所はさっき教えたろ。タオルと着替え持ってくから」
 簡単に言って野菜を刻んでいる途中のまな板に戻った。別に風呂まで監視しないんだな。当たり前か。
 リビングを出て廊下に並ぶ扉を開いた。トイレだった。その隣が脱衣所だ。脱いだシャツはどうしていいかわからないから、そのまま床に投げて置いた。
 服を脱いで体を見下ろす。どこにも痣や火傷はなかった。古い切り傷の痕はあるけど見覚えがないから、15歳以降に負ったものだろう。
 俺も親父に対抗したくて鍛えてたけど、この体よりずっと薄っぺらだった。背が一七〇を超えても親父には敵わなかった。これが大人と子供の差だ。
 浴室も広い。ここにもトイレ同様に見たことないスイッチの並んだ操作パネルがあった。湯船は大人でも二人くらい入れそうだったし、洗剤のボトルは色違いでラベルがなくて、唯一ラベルのあるチューブも表示が英語でなんだか分からなかった。でもどれも高価そうだ。洗剤の見分けがつかないから二郎を呼ぼうかと思ったけど面倒でやめた。適当に出してみればわかる。
 高いところに設置されたフックにシャワーヘッドを掛けたままでシャワーのものだと思われるレバーを掴んだ。
「ヒッ、うわっ!」
 頭の上から冷水が勢いよく降り注いで飛び上がる。慌ててレバーを回したら今度はどんどん湯温が上がってシャワーヘッドを掴んで浴槽に放り込んだ。
「どうした?!」
 タオルを抱えた二郎が飛び込んでくる。肩で呼吸して振り向くと、説明しなくても大体察してくれて、服のまま浴室に入ってレバーを戻し、シャワーを止めた。
 変なとこ見られちまった。
「悪かったな、説明しないで。ここのシャワー分かりづれぇよなあ。こう動かすと水の量が変わって、こっちは温度。あ、シャンプーわかったか?」
 ちょっと笑って、でもバカにするニュアンスでもなく、並んだボトルを順に指差して中身を教えてくれた。シャンプー、コンディショナー、ボディソープ、洗顔料。残りは子供は使わないからって回収していった。
「何かあったらそこの通話ボタンで呼べよ。キッチンと話せるから」
 壁に埋まった操作パネルの使い方も。それから脱衣所の床に散らばる服を洗濯機に入れて、洗濯機の上にタオルと服を置いた。そこでチャイムが鳴って「ちっとエントランスまで出てくる」と断って出て行った。
 多分、入間は他にアテなんかなかったんじゃないかと思う。俺の世話係に代わりなんか。そりゃ、誰かしらが自分の家に預かることは出来たんだろけど、大人の俺が所有する住み慣れた家で生活の世話ができるのは、この家に出入りすることを許された唯一の人。二郎だけだったんだ。

 夕飯はハンバーグだった。つけ添えは茹で野菜。タッパーに入った細々した総菜と、それからかき玉子の中華スープ。キッチンカウンターに次々置かれたのは好物ばっかりだった。
「これ、アンタが自分で作ったのか」
「左馬刻さんにアンタって言われると落ち着かねぇな」
「何て呼べばいいんだよ。二郎?」
 顔を見て呼ぶとタレ目を細めてはにかんだ。大人の俺はこういうところを可愛く思っていたんだろうか。
「二郎も、俺にとってはそっちの方が年上だからさん付けやめてくれよ。自分のこと呼ばれてる気がしねぇんだよ」
「ンなこと言ったって、大人のアンタと知り合った頃に呼び捨てすんなって怒られたんだよ」
「俺は大人じゃねーし」
 じゃあ、と控えめに「左馬刻」と呼ばれた。そっちの方がちゃんと俺に呼び掛けている気がする。ついでに、これから大人の俺について話をするときに呼び分けやすい。
 言いつけられてカウンターからローテーブルに皿を運んだ。この家はダイニングセットがないから。
 夕食はどれも美味かった。それを二郎はさも当然という様子で鼻を鳴らす。初対面の人間が自分の好みを事細かに知っているのって変な感じだ。
「ホントに俺と付き合ってたんだな」
 率直な感想を述べると複雑そうな顔をして、それから照れくさそうに「そうだよ」と呟いた。
 食べ終えた後の片づけは俺がやった。家では当たり前にやっていたことだし、世話になる身だから当然だ。なのに、大人の俺はそういうことをやらないらしい。いたく感激された。ヤクザなんてやっている時点でどんな風か想像しなかったわけじゃないが、大人の俺はロクなもんじゃないらしい。
 食事が終わると早々にやることがなくなった。二郎曰く、いつもは遅い時間に会うから宵の口に暇になることはないんだって。寝るにも早すぎるからと二郎は入間や実家の兄弟にメールで報告を入れ、テレビを見始めた。俺にとっては馴染みがない番組だ。面白くなくて、ラグの上に転がった。
「……何してんだ?」
 ソファに座った二郎の足元で腹筋していると怪訝そうに見下ろして言われた。
「大人の体ってどんなもんかと思って」
「どんなもんだったよ?」
「いつもより楽に腹筋できる」
 子供より体力があるってことなのか、筋肉がついているからか。疲れるまでやってみたけど普段の倍ぐらい続けられた。部屋の端にあったダンベルも。刻印されたキロ数のわりに平気で持ち上げることができる。面白くてあれこれやって振り向くと、二郎が呆れた表情でこっちを見ていた。
「なんだよ。文句あっかよ」
「いや……筋トレに走るのが左馬刻さんっぽいんだよなぁ。ガキの頃からそんなかよ」
「大人の俺のことなんか知らねーっつの」
 未来の自分のことは知らなくてもいくつもダンベルを置いてる時点でお察しだ。
 リモコンを置いた二郎がゆっくりソファから立ち上がって腰を伸ばした。キッチンカウンターの端の小物入れからゴムを拾ってきて長めの髪を一つに結ぶと、部屋の端の方の広く空いたスペースまで歩く。
「筋トレばっかじゃつまんねーだろ。いっちょスパーリングの相手してやろうか」
「やる!」
 実のところ、重いものがどれだけ持てるかを知りたいわけじゃなかった。体は使わなきゃ意味がない。
 軽く動いて準備体操を済ませた二郎がちょっと身を屈め、片手で「こい」の合図をする。喧嘩慣れしてることはすぐにわかった。頭の年齢差は六歳差。でもこっちはよく鍛えられた体を持ってる。
 大怪我はしてくれるなよ、と思いながら間合いを詰めて拳を振りかぶった。結構いい角度だったと思う。でも最小限の動きで下に潜って躱した二郎に下から肘を打ち据えられて肘から先にビリビリした痛みが走る。
 ダメージを受けた腕を振って衝撃を誤魔化し、反対の手で二郎の腕を捕まえて体を捻った。引っ張られて体勢を崩したところに蹴りを入れるつもりで。だけど二郎の方が先に足をコンパクトに振り上げて遠慮なしに腹を蹴り飛ばされる。蹴りってのは相手と近すぎると難易度が増す。腿が自分の腹につくほど上げて的確な角度で当ててくる。柔軟性と器用さと、ブレない軸足の強さ。我流で喧嘩を覚えたヤツの動きじゃなかった。俺だって中学や高校生の不良連中と喧嘩はしょっちゅうやったけどこんなヤツは見たことがない。
 蹴られた瞬間に吹っ飛ばされると思ったけど掴んだ腕をきつく握ることで耐えてその場に踏みとどまった。自分の体感以上にウェイトがあったのも良かった。
 それでも立て直そうとした瞬間に逆に腕を引っ張られてモロに拳を食らう。脳が揺れる感覚。堪え切れずに膝を折ってその場に蹲った。
「やっべ、頭狙っちまった。大丈夫かー?」
 ストンと腰を落として覗き込んでくる。まさか、一発も入れられなかった。膝を抱えて深く呼吸を繰り返し、やっと顔を上げる。向こうは対称的に涼しい顔だ。
「逆に今のでなんか思い出したり……」
「しねーよ」
「そうかよ。そんなヤワじゃねぇと思うけどちっと見してみ」
 シャツをめくって腹と、最後に当てた顎を上げさせて赤くなった肌を見るとキッチンの冷蔵庫から保冷剤を持って戻ってきた。薄い七分袖シャツとハーフパンツの背姿は上背に対して細く見える。片腕にだけ袖からはみ出た腕に赤い指の後が残っていた。あれを握った自分の手のひらは中学生の手より大きい。力はあるんだ。
 保冷材はタオルに包んで顎に当てるよう指示され、素直に従った。ソファに沈み込む。二郎も隣に座って背もたれに肘をついて無遠慮に横顔を観察されて居心地が悪い。
「なんだよ」
「いやぁ、見た目変わんねぇのにマジで子供なんだなって思ってさ」
「ムカつく」
「拗ねんなよ。俺さ、大人の左馬刻さんにまともに勝ったことねーもん」
 なんだそれ。中学生の俺より二郎は強くて、大人の俺はそれより更に上ってことか。ヤクザなんだからそりゃ喧嘩も強いんだろうけど。
 足も腕も中学の時より伸びてる。リーチが違う。体重も違う。この体の使い方に慣れたなら。
「……今の体だったら、もっとやれるようになったら親父にも勝てるのかな。このまま親と暮らしてたアパートに戻れたら」
 身長だって多分親父より上だ。さっきの二郎の拳より大人の俺のパンチの方が重いなら、あんな気分で殴ってくる親父なんて一発でやり返せる。投げ飛ばされたりしない。蹴られたって丸まって耐える以外の選択肢を持てる。
 同年代との喧嘩に勝てるようになっても親父を前にするとどうしても思うように動けなかった。小さいころからの刷り込みで足が竦む。それでもこれだけの力があれば、母さんや妹を守れる。
 筋肉で太くなった自分の腿を触って、そこに力があることを確かめた。なのに、
「もう戦わなきゃいけない父親はいねぇよ。アンタはもう乗り越えたんだ」
 慈悲のないことを言われて胸が苦しくなる。親父から家族を守るのは俺のはずだったのに。まだ十四の俺にその力がなかったばっかりに。
 親父はいなくなったけど、母親もいなくなった。妹のことだって手元で幸せにすることができなかった。
 そんな現実を乗り越えたのは俺じゃない。俺の倍も生きた、俺の知らない大人の俺の方だ。

 十時を過ぎると宣言通り、二郎は毛布を一枚ソファに運んだ。
「他にベッドねぇしさ。左馬刻にとっちゃ俺なんて、急に出てきて彼氏面してくるヤベェ大人だろ?寝込み襲ったりしねぇから安心して寝てくれよ」
 冷静に、客観的に言えばそうだけど。二郎自身が自虐的に言う程嫌じゃなかった。大人の男といってもどちらかと言えば二郎は細かったし、容姿も嫌いじゃなかった。襲うなんて、多分そういう性格でもないだろうし。
 でも、だからって引き留める理由もない。俺だって妹と寝てやることはあっても自分から親に添い寝をせがむような歳じゃないし、大人の俺が二郎の恋人だったとしてもガキの俺は今日会ったばかりの人間だ。
 広すぎて落ち着かないベッドに入ったのを確認して二郎は灯りを消した。おやすみを言ってリビングとの間の引き戸が閉められる。そして暗い部屋に一人になった。
 目を閉じて眠ったら、母さんと妹と並べて布団を敷いたアパートで起きられるような気がした。病院で目を覚ましたことも、アパートがなくなっていたことも、二郎のことも。全部「変な夢だった」で済ませて、じきにどんな顔だったかもわからなくなる。夢で見たからってハンバーグが食べたくなったりして、登校前に妹の髪を結ってやりながら話すんだ。

 何時間眠れたんだろうか。おかしなことになって浅い興奮状態が続いていたせいか寝つきは悪かった。やっと眠れたかと思うと親父が帰ってきて母さんを怒鳴り散らす夢を見て、止めようと腕を振り回してもがいたところで自分の手が布団を叩いた音に驚いて目が覚めた。
 部屋は遮光性の高いカーテンのおかげで何も見えない。慣れない部屋のせいで尚更、自分の周りがどうなっているかわからなかった。
 灯りが欲しくて手探りで枕元を探る。確か照明のリモコンがあったはずだ。寝汗がひどくてのどが渇く。
 アパートではいつも小さな明かりを残して眠っていたし、手を伸ばせば届くところに妹か母親がいた。真っ暗な空間でやたら質の良い布団以外何もわからないのが怖い。
 シーツを這っていた手が硬いものに触れた。ベッドサイドテーブルだった。その上で無茶苦茶に手を動かすと金属製の皿のようなものが指に当たって弾き落としてしまう。静かな部屋で金属の落ちる音が肌に響いて心臓が縮む。
 その音を追ってリビングの扉が勢いよく開いた。
「何だ、どうした?!」
 同時に入口の壁に据え付けられたスイッチで灯りがついた。血相を変えた二郎が戸口から室内に身を乗り出して、俺と床の小物トレイを見ると大股でそばまで来てそれを拾い上げて卓上に戻す。
「大丈夫か?怖い夢でも見たのか?」
 屈みこんで頭を撫でようと手を伸ばしてきた。それを咄嗟に肩を竦めて逃げてしまった。最近は、中学にあがってからは特に喧嘩にも慣れて、こんなことで怯えたりしなくなったのに。親父の夢を見たせいかもしれない。
 また変なところを見せてしまった。反射的に強く瞑った目をおそるおそる開いて二郎の顔色を伺った。
「大丈夫だよ」
 優しい声はベッドと同じ高さから聞こえた。すぐ手を引っ込めてしゃがみ込んだ二郎が驚いた表情も見せずに柔和に微笑んでいる。
「怖いことはしねぇよ」
「別に、怖がってなんかいねぇ」
 恐れる相手はここにはいない。なのに小さな頃から染み付いたクセで、大人に目線より上から触れられるのは確かに苦手だった。成長と共に平気になったつもりだったのに。
「はいはい。寝づらいなら灯りつけとくか?それとも音楽の方がいいか」
「……小さい電気」
「オッケ。リモコンここな。嫌じゃなきゃリビングの方の戸も開けとくから」
「うん」
「なんかあったらすぐ呼べよ」
「うん」
 暖色系のほんのりとした灯りの下で再び目を閉じると二郎はベッドを離れてリビングに戻っていった。薄目を開けてその姿を見ていた。
 その夜は寝直しても同じようにアパートでの夢で目を覚ましてしまった。リビングの方も控えめに灯りをつけてあって、開け放たれた戸から出てキッチンで水を飲んだ。それからまた眠くなるまで、ソファで丸まって眠る、大人の俺の恋人を眺めてからベッドに戻った。

@4
 目覚まし時計が鳴らなくて焦って起きると、知らない部屋だった。いや、知ってる。未来の、成長して金持ちになった俺の部屋だ。
 俺は昨日の昼過ぎに目を覚まし、十四年後の世界に放り出された。見知らぬ豪華なマンションに住んでいて歳下の男の恋人がいる。両親と妹はいない。ここでは隣の家の生活音も、先に起きた家族が見ているテレビの音も、何も聞こえない。静かな朝だ。
 唯一、キッチンから流れてくるみそ汁の匂いだけが、俺にとっての昨日の朝とリンクした。
「今日どうする?今の時代のこととか、もっと説明した方がいいのか?」
 どうするって、今の状況を一番理解出来てない俺に訊くなよ。
 世話係は正直言ってあまり賢くない。入間の仕事ぶりを先に見たから比べてしまうのかもしれない。
 知っているタレントがずいぶん老け込んでニュース番組のコメンテーターなんかやっている朝の番組を見ながら朝食を食べた。
 人気監督の映画で初主演をやる話題のシンガーソングライターも知らない女だし、やっと名前を知ってるアイドルが映ったと思えばグループ脱退して女優になっていた。チャンネルを変えて子供番組をつけても、俺が小さいころから七年以上もテレビに出続けていた歌のお兄さんが交代していたし、幼児向けの定番アニメだけはそのままだった。でかいテレビでも堪えるぐらい画質は良くなってたけど。
 チャンネルを切り替えてはあれこれ言う俺を見ていたら十四年のギャップを感じたんだろう。二郎に訊かれて、首を傾げた。
「別にあんまり興味ない。知りたいことがあったらその時質問するし」
 政治のことはよくわからなかったし、妹の所在は訊いたって二郎も分からない。昨日そこのところはよく確かめた。
「じゃあどうすっかなー。うちから漫画でも持ってくるとか?……引きこもるつってもやることねーんだよなぁ」
 暇そうにボヤく二郎を放っておいてチャンネルをニュースに戻した。天気予報の区分けが変わっている。それから、一つの番組が終わって、また別のニュース番組が始まった。番組冒頭は重要なニュースの特集だった。シブヤの一家心中事件。見出しに目を奪われているとリモコンを奪われて子供番組に戻された。
 無言で見つめると二郎が目を逸らす。気の遣い方が下手くそだ。
「そんなに気にしてねぇからいいよ。つか、親が死んだとか言われたって死体見たわけでも葬式に出たわけでもねぇし、妹がどこかに連れていかれてるのと大して気分変わんねーし」
 三人まとめていなくなった。実感があるのはそれだけだ。実際は俺一人が未来に来てしまったようなものだけど。
「親がどうなったか、詳しく知りたいか?」
 二郎だって細かくは知らないと言っていたのに尋ねられて、頷いた。親のことが知りたかったというより今この時間が家族と暮らしていた日々との地続きだって証拠が欲しかった。
「あんま楽しい予定じゃねーけど。まあ、こういうのが記憶が戻るきっかけになるかもわかんねーしな。じゃあ調べてみっか」
 力強く頷いて、二郎は携帯をとった。

 手始めにネットで検索してみたけど、有名人である碧棺左馬刻についての噂程度の記事ばっかり見つかって信憑性に欠けた。それから二郎の弟に電話して、助言を受けて図書館に行くことになった。俺は帽子にサングラスにマスクってかなり怪しい格好で、二郎が選んだ“左馬刻さんっぽくない服”を着せられた。入間は外出するなって言ってたような気がするけど、二郎はバレなきゃオッケーって考えらしい。
 図書館自体は行き慣れた場所だった。昼間から親父が家にいるときは図書館や公園に避難してやり過ごしてたからだ。俺はいいけど、妹を親父の手の届くところに置いておきたくなかった。
 昨日と同じバイクでヨコハマで一番広い図書館にやってきた。目的は古い新聞の閲覧。二郎の弟が調べた川崎の事件の大まかな時期を元に新聞のデータベースを検索する。
 何件かそれらしい見出しをチェックして探し当てた事件は俺が十五歳になって間もなく起こっていた。母が親父を殺害してすぐ自殺し、二人まとめて見つかったために心中として報道されたが、当時の新聞の扱いは小さかった。同時期に戦後の貧困が原因の大規模な暴動が起きたせいだ。両親の事件は遺体の発見も早く、犯人である母も亡くなっていた。事件としての複雑さや赤の他人への危機はなく、世間の関心も低かった。前後数日の新聞にも強盗殺人だの、親類同士の殺人だの。悲惨なニュースが載っていた。混乱した世の中にはよくある事件の一つだった。
 現場は自宅。夜七時頃、兄妹でお遣いに出された長男と長女が帰宅し、呼びかけても鍵を開けてもらえないことを不審に思ってアパート内に住む大家に相談。大家と子供で再度呼びかけるも、親が外出した様子はないのに返事がない。そこで仕方なく大家が鍵を開け、息絶えた両親を発見。通報した。
 親の葬式はやったのか、その後の兄妹がどうなったかは書かれていない。だけど、記事には間違いなく両親の名前が書かれていた。変わった名前だ。同姓同名の夫婦なんてありえるはずもない。
 不思議なもんで、新聞に書かれていると真実のように思えてきた。大人の俺にとっては真実なんだろうし。
「一応お袋さんの墓の場所は俺も知ってるけど結構距離あるから、行きたかったらまた今度な。墓に名前が書いてあるわけでもねーけどさ」
「行ったことあんの?」
「ちょっとだけな。他はお袋さんの実家とかは知らねーし、父親のことは何にも……」
 親父のことはどうでもいい。話を遮って質問する。
「仏壇は?」
「お袋さんの位牌は何年か前に人づてに合歓さんに渡してるはず……。で、今は写真だけ……あ、写真!お袋さんの写真あると思う。合歓さんのヤツも、探せば多分ある!」
「マジかよ、早く言えよ!」
「昨日は俺も気が動転してたんだから仕方ねーだろ!おっしゃ、すぐ帰ろうぜ」
 母親の姿が見られる。妹も。無事成長した妹を見られる。
 肩を寄せ合っていた狭い検索ブースを出て駐輪場に急いだ。
 でも、すぐに帰ることは叶わなかった。図書館を出て駐輪場のある建物脇に入ったところでチンピラ集団に絡まれたからだ。連中はフェンスの向こうのコンビニ前から俺たちを見つけてわざわざ回り込んで図書館の敷地までやってきた。全員大人。二郎より歳は上に見えた。
 喧嘩だ。一人ぐらいなら俺でもなんとかなりそうだけど四人いる。昨夜のことで二郎が強いのは分かったけど人数で押されるとキツイ。どう立ち回るべきか迷って隣を顧みると肩を掴まれ引き寄せられた。二郎が耳元で素早く囁く。
「下がってろ。んで、この中で自分が一番強ぇって顔で黙って突っ立ってろ。何があっても余裕こいて、絶対そこを動くんじゃねぇぞ」
 一人で四人も相手にするなんて放っておけるか。それでもわざわざ変装して出てきた手前、声を出すことは憚られた。そうやって躊躇している間にも相手は得物を振り上げた。でも振り下ろすことはなかった。握っていたのはマイクで、それで殴ってくるわけでもない。
 見れば四人中二人がマイクを持っていて、後の二人は後ろで俺たちを逃さない為に見張っているだけだ。誰も殴りかかってくる気配がない。
「いいところにいたもんだな、山田二郎。今日のツレも正規マイク持ちか?」
「テメェらにゃ関係ねぇだろうよ。どうせ正規だろうが違法だろうが、カス野郎が使ったら全部オモチャ同然だろうが。むしろ改造して出力リミッター外したマイクの方が、テメェらのペラッペラなスキルでもちったぁマシになるってモンだろ」
「減らず口叩きやがって!」
「来いよ。テメェらごとき、まとめて俺一人で十分だ!」
 二郎もまた腰につけていた革製のホルダーからマイクを抜いた。昨日、確かに入間と神宮寺先生が言っていた。特殊なマイクを使った戦いがあるって。その時はマイクといっても、もっと大掛かりな装置があって、車に積み込んで軍隊の特殊兵器みたいに運用されるものかと思っていた。だけど予想したのとは全く違う。
 それぞれがマイクのスイッチを入れると、マイクを持つ一人一人のバックにスピーカーや楽器の幻影が見えた。もちろん映写機なんかどこにもない。実体がないはずのそこから音が流れ始め、音楽に合わせてカウントをとった敵が独特のリズムで歌い始めた。
 即興で攻撃的な言葉を並べて二郎を詰る。例えるなら、チープな悪口を無理やり歌の形にしたような。歌ってのは元々楽しいとか切ないとか、聴いた人の感情を揺らすものかもしれないけど、これを聴いていると二郎本人でもないのに責め立てられてるようで気分が悪い。
 相手の手番の間は二郎は黙って聞いているばかりだ。ラップバトルは拳の殴り合いと違って明確なルールがあった。だけど歌の良し悪しなんかジャッジする人間のセンス次第。どうやって決着をつけるんだ。
 行方が見えないままに向こうのターンが終わり、何かが起きた。
 その時、二郎は相手を煽るように片手を振ったきりだった。だから何がどうなったかは分からなかった。きちんと理解できたのは次の二郎のターンに入ってからだ。
 後攻の二郎のターンも基本は相手の歌と同じ。話すように紡ぐ言葉の端をリズムに乗せて歌にしていく。先のターンでぶつけられた相手の言葉を拾って歌詞を作りながら。
 活きのいいフレーズ、時折混ざる横文字。その中でピタッと音にハマる瞬間があった。相手だってそうやってビートに乗っていたはずだけど、もっと明快で、ラップに慣れていない俺でも分かった。歌詞の内容はやっぱり相手を圧倒するようなセリフの連続だけど、要所の言葉遊びが耳を通じて頭の中で蓄積され、組みあがっていくのが気持ちいい。
 アパートでは古いテレビとラジオしかなくて、俺の知る時代は誰もがラップを聞くような時代じゃなかったからヒップホップには馴染みが薄かった。それでも不思議と耳に馴染んでカッコよく聞こえる。
 一小節ずつ刻まれた詞が締めくくられる瞬間、敵対する連中があからさまに身構えた。ただ歌の手番が回ってくるだけなのに。
 一音一音を強調しながら二郎が宙で手を振る。その手から魔法が飛び出たみたいだった。
 目の前の男たちが体を二つ折りにして地面に崩れ堕ちた。指一本触れてないのに腹でも殴られたみたいに。そのまま嘔吐した奴もいた。何とか耐えた男が絞り出すように反撃したけど声に張りもなく、二郎は微動だにしなかった。
 結局二郎の二ターン目はなかった。相手が二ターン目の最後まで耐えきれなかったから。マイクを持った仲間が倒れるとラップバトルに参加していなかった二人の内の一人が怯えたような唸りを上げてマイクをしまう二郎に殴りかかる。まずいと思って咄嗟に動いたこの手が届くより早く。軽く体を捻って拳を避けた二郎自身がバランスを崩した敵の横っ面に肘をたたき込んで引導を渡してしまった。もうとっくに勝ち目がないことを悟った最後の一人は仲間を助けるのも放棄して走って逃げていく。
 圧勝だ。俺の出番なんか一ミリもなかった。
 敵の手が掠ってずれたキャップを被り直し、二郎がこちらを振り向く。
「おーい、絶対に動くなつったろ」
「わ、わりぃ……」
 半端に踏み出した足が恥ずかしいぐらいだ。俺も、少しもずれたりしなかった帽子を意味もなく深くかぶり直し、バイクの通り道に横たわった邪魔な連中を端に移動するのを手伝った。
 ヒプノシスマイクでやり合って物理的な攻撃は一度も食らってない連中は、息はあるようだったけど完全に意識を失っていた。病院で説明された精神干渉ってのはつまりこういうことだ。昨日は俺も特殊な攻撃を受けて昏倒し、病院に運ばれたんだ。
 わが身に起きたことを察して静かに鳥肌が立った。それと同時に、汗一つかかずにこれだけのことをやってのけた二郎とヒプノシスマイクがカッコよく見えた。

 マンションの玄関からリビングまでの廊下にはいくつか扉が並んでいる。納戸、トイレ、浴室、キッチンとつながった食糧庫、防音のレコーディングブースとして改修された書斎。それから開かずの間。
 開かずの間っていうのは、二郎がそう呼んでいた。実際は家主一人しか住んでいない家でわざわざ鍵なんか設置されていないからドアは開く。でも二郎は入ったことはないという。
「この部屋は合歓さんの部屋なんだよ。一度だけ左馬刻さんがドア開けてる時にチラッと中見ただけだけどさ。左馬刻さんの趣味じゃない机とか棚とかあって、後は段ボール箱のまんま積んであった。合歓さんがまた一緒に暮らせるようになったらすぐ使えるようにしてんじゃねーかな」
 だから俺はドア開けないし中にも入んねぇ。そう言って開かずの間の前に俺を残して二郎はリビングに戻った。
 他の扉と同じ造りで見分けのつかないその部屋のドアノブに手を掛ける。鍵はないと言われた通り、それはあっさり開いた。恐る恐る覗き込んだ中も教わった通り。他の部屋は黒やシルバーを基調にした家具で揃えられているのに、ここだけは木製の机に椅子、棚に箪笥。ベッドには新品らしい布団が包装されたまま詰まれている。その脇には段ボール箱が数箱。机や棚の中身は少ししか置かれていなかった。引っ越し作業の途中みたいな部屋だ。
 妹とはいえ他人の荷物を覗き見る申し訳なさを感じながら段ボール箱の蓋を開いてみると、中には服や本が入っていた。当然記憶にある小学生の妹の持ち物じゃない。知らない女の子の持ち物みたいで尚更悪い気がして元通り蓋を閉じる。
 俺の探し物はすぐ見つかった。机の上に香炉と造花のブーケと一緒に母親の写真が飾られていた。懐かしくもない、つい二日前に見たのと変わらない母さんの顔だ。
 アパートじゃ親父が暴れて壊してしまうと悲しいから、写真はアルバムに入れて棚に収められていた。妹が学校行事なんかで友達と撮った写真を飾っていたことはあるけど、母親の写真を飾っていた記憶はなかった。こうして母一人で写った写真がぽつんと飾られていると、本当にこの世界に母さんがいないんだと思い知らされる。
 部屋に線香のにおいは残っていなかったけど使いさしの線香の箱は近くにあった。棚には半端に本やノートが収められていて、一度は荷物を片付けようとしてやめた痕跡があった。棚に入っている荷物がちょうど収まりそうな空箱が一つ。近くに手をつけかけた様子の、服の詰まった段ボール箱が一つ。妹も年頃になれば自分の服を兄に構われたくないだろう。前の家から荷物を運び出すときは引っ越し屋の女性にでも荷造りを頼んだんだろうか。
 なんとなく大人の自分が何を気にして途中のままにしたか分かってしまう。いいんだ、いつかは妹がこの家に来て自分で片付けるだろうからって。
 いつになるか分からない妹が帰る日を待ちながら一人暮らしの家で、妹のために残した部屋で、机に母の遺影に線香をあげる。大人の俺はそうやって暮らしていた。
 棚から見つけた妹の手帳を持って部屋を出た。アパートより天井が高くて部屋数も多いマンションだ。扉一つとっても襖紙の剥がれかけたアパートと違う。リビングには大きなテレビや、自分で選んで買っただろうオーディオセット。たくさんのレコードやCDや、ふかふかのソファや。実家にはなかったものがたくさんある。確かに自分の部屋ってものに憧れたし、仲間の家で見た兄姉のお古のCDコンポを羨ましがったりした。夢に見た何倍もの金を手にして豊かな暮らしをしてる。
 それなのに、この家には合歓も母さんもいない。家族を失った現実と金銭的な豊かさが同時に襲ってきたせいで、金と引き換えに二人が奪われてしまったような錯覚さえした。
 じわじわ絶望がこみ上げてくる。昨日、病院で目覚めるまでは二人とも同じ家で同じ飯を食っていたのに。それが十四歳の俺にとって何日前の記憶に当たるのかはわからない。でもそう前じゃない。
 この間も、妹が朝飯を食べるのが遅くて文句を言ったら喧嘩になって、小学校まで送ってから中学校までの道を走った。学校が終わったらまた走って帰って、まだ母さんが仕事から帰っていなかったから二人で一つだけカップ麺にお湯を入れて分け合って食べた。俺だって少しぐらい料理ができるけど大抵の夕飯は任せきりだった。自分で作るより母さんの飯の方が美味いし。妹の宿題をみてやって、友達がピアノを習っているのが羨ましいって言うから、カレンダーの裏に鍵盤を書いてやったりした。
 妹と喧嘩もしたし、母さんに怒られて拗ねて一時間ぐらいの家出をしたこともある。それなのにこういう時は良かった思い出ばっかり浮かんでどうしようもない。元の、十四年前に戻れたら元気な二人が家で待っているはずなのに。
 みんなが記憶喪失なんだって言うんだ。俺にとってはタイムスリップしたような感覚なのに。ここでの記憶を持って過去には戻れない。母さんが親父を殺す前に戻って、俺が代わりに殺してやることができない。

 蹲った頭のすぐそこでリビングの扉が開いた。バターの匂いが零れてくる。頭上に人影と一緒に声が降り注ぐ。
「おい、大丈夫かよ。腹痛いのか?頭?」
 目の前に膝をついた二郎が背中を撫でて、それでも顔を上げないと控えめに頬を触った。炊事の途中の手だ。ぬぐい切れなかった水気と食べ物の匂い。水を触っていたからほんの少しだけ冷たい指。俺はこういう手を知ってる。小学校で友達と喧嘩して帰って部屋でいじけていると夕飯の支度を中断して、話を聞いてやるから顔を上げろと触れてくる。母さんの手だ。
 促されて体を起こした。エプロンもしないでキッチンに立っていたせいでちょっと濡れたTシャツに縋りついて。背中に回った手に押されるようにして胸に飛び込んだ。二郎より大きい体は上手く収まれなくて、勢いで後ろに転んでしまった二郎の上に乗る格好でバターの匂いのシャツに顔を伏せて呻いた。
 大人だったらこんなことはしないんだろうな。もっと上手に気持ちを整理して、みっともなく泣いたりしない。本当は二郎だってそういう上手に生きている“左馬刻さん”が好きだったんだろう。
 だけど二郎は何も言わず、俺の気が済むまで床に転がって背中を撫でてくれた。勢いで打ち付けた頭だって痛かっただろうに。
 親父に殴られどおしの非力なガキの頃から絶望ばっかりの人生だ。せめて大人の俺がこの人と出会っていて良かった。

@5
 朝食の皿を運んでいる時、二郎がくしゃみをした。
「風邪か?」
「誰かが俺の噂してんのかね」
「昨日の連中が『また会ったらただじゃおかねぇ』とかな」
「それでくしゃみ出るなら左馬刻さんは一年中重度の花粉症みたいになってるぜ」
 買った恨みの数は俺の比じゃねぇ、と嘯いた。だからどんな暴君なんだよ、大人の俺はさ。
 今朝は魚と卵焼き。卵焼きは実家のと似た味がする。大人の俺がこれが良いって言ったのかもしれない。
 食事を食べ始めてからも二郎は眠そうにしていた。昨夜は俺が寝室で寝付いた後もヘッドフォンを使って深夜アニメを見ていた。俺は夜中にまた起きてしまったけど、丁度アニメを何本か見終わったところだったらしくて、一緒にキッチンで水を飲んで順に便所に行ってベッドとソファに分かれて寝た。
「やっぱソファだと身体に悪いんじゃねぇの?」
 大きなソファだから下手な安布団より快適そうだけど二郎だって身長は一八〇センチある。毛布一枚に包まって丸まって寝る日が続いたら疲れも取れないだろう。
「つったって、他に寝るとこねーじゃん」
「ベッド使えばいいじゃねぇか」
「はぁ?左馬刻の方が図体デカイしもうじき三十路の体だぜ。それこそソファなんか寝かしたら翌朝ガタガタになるんじゃねぇの?」
「だから、一緒に寝りゃいいだろ」
 箸でつまんだ白米の塊を「あ」の形の口の中に入れようとした格好で動きを止めた。
「アンタさ、大人の俺と付き合ってたんだろ?なんでそんな是が非でも別で寝るつもりなんだよ」
 箸から米が落ちた。幸いにも真下に茶碗があったお陰で里帰りしただけで済んだ。
「そりゃお前が嫌かと……」
「今は俺が誘ってんだよ。それとも、まさか俺たちが付き合ってるってのは気持ちの繋がりがどうとかって話だけでヤッてなかったとかは言わねぇよな?」
「あ、朝から何言い出すんだよ!」
 焦りっぷりだけ見るとまさかが真実にも思えた。まさか。奥手そうな二郎はともかく、職業ヤクザの自分が何もしてないのは想像できない。
「いいだろ。俺と付き合ってるって言ったのは自分なんだから。今更じゃねーかよ」
「その顔と声で何度も付き合ってる付き合ってる言ってくんな!」
 世の中の二十歳ってこんなもんなんだろうか。いや、男同士で付き合ってるとこうなのか?
 事実確認なのに全力で照れるし、かと思えば平気で殴り合いの喧嘩もする。特殊な状況だから俺に遠慮している部分もあるんだろうけど。
 二郎は確かにこの家、俺の自宅に詳しい。だけどあまりにも小ざっぱりしてるせいで、恋人より大人の俺に憧れるこの部屋の下宿人と言われた方がしっくりくる。
 初日に「寝込みは襲わない」なんて言ってたけど実際何もないし、同じ部屋で俺が着替えていてもどうでも良いみたいだし。
「気になるのは仕方ねーじゃん。自分が将来男と付き合うとか言われたらさ。そんで、こういうのってどっちが彼氏で彼女になんの?どっちも彼氏か?」
「やめろ、マジでやめろ」
「歳も背も俺が上だし二郎が……」
「黙ってメシ食え!!」
 お望み通り黙って食べた。勘繰りの答えは顔に書いてあったから十分だ。
 しかし、そうすると余計に現状に納得がいかない。自分のオンナに守られてる大人にはなりたくない。だけど現実問題として、喧嘩のスキルは場数を踏まなきゃ上がらないのは承知だし、この時代の喧嘩は拳の勝負とも限らない。
「……あのさ、二郎に頼みがあんだけど」
 照れ隠しにガツガツ食べていた二郎が眉間を寄せて目だけで「何だよ」と応じる。
「俺もラップとヒプノシスマイクの使い方覚えたいんだけど、どうすりゃいい?」
 今日で三日目。大人の俺の記憶はカケラも戻らない。いつ記憶が戻るか目処も立たず、最悪戻らないかもしれない。万が一にも一生このままかもしれないならこの時代を生きるためにラップを習得するのは無駄じゃないだろう。二郎だって、三日目の朝を迎えても俺が元に戻っていなかったんだから長期戦を覚悟してもいい頃だ。
 多分、相手が入間なら嫌がられそうな申し出だ。けど、二郎はダメとは言わなかった。行儀悪く箸先を噛んで天を仰ぐ。
「別にいいっちゃいいんだけどさー、お前が記憶失くしちまったのもヒプノシスマイクの影響じゃん。模擬戦なんかやって頭に悪いショック与えたらマズイよな。寂雷さんも精神干渉くらったらどうなるかわかんねーっつってたし」
「ならバトルしてるとこ見るだけでもいい」
「ああ。過去のバトルの映像とか音源ならあるか……」
 そんな話をしている時に二郎の携帯にメッセージが届いた。俺に一言断って内容を確認して、面白そうに眉をあげる。
「ちょうどいいところに来やがったな」
「何だよ、入間?」
「いや、もう一人のお前の仲間から。キャンプへのお誘いだよ」
 未来生活の三日目の予定はアウトドアに決定した。

 中王区主催のラップバトルのチームはスリーMC。ヨコハマを縄張りとするMAD TRIGGER CREWは俺、左馬刻と入間。そしてもう一人。
 これまで身の回りに出現したのが警察官の入間と萬屋の二郎と、昔の仲間だったという医者の神宮寺先生だったから次はどんな野郎かと思ったら、
「なんだ、横須賀基地のヤツかよ」
 森の奥で二郎の呼びかけに応えて出てきた外国人。毒島メイソン理鶯に素直な感想を述べると、どういうわけかとても気に入られた。元々仲間だからってだけじゃなくて。
「所属は違うが、左馬刻の言う通り、小官は軍人だ」
 そうだろうとも。板についた迷彩服に太い腕。木の枝を鋭く削るこなれた手つき。どう見ても一般人じゃない。 毒島は当たり前のことをやたら上機嫌で肯定した。森の中で合流って時点でわかっちゃいたが、相当な変人だ。
 入間から俺の記憶喪失の件を聞いた毒島は何かの足しになればと連絡をくれた。これを二郎は良いタイミングだと喜んで、ラップバトルの模擬戦の相手を依頼した。それで毒島に会いに行くと言って連れてこられたのが、森。バイクで森の入り口となる公園の駐車場まで来て、あとは一時間も徒歩。二郎は慣れた様子だったけど結構疲れる。
 森の奥地で二郎が草に隠して設置された縄を踏みつけると、どうやら縄の先は鳴子か何かがあるらしい。毒島が出てきて焚火とテントのあるキャンプ地に案内された。もっとちゃんと整備されたキャンプ場を想定していたのに、自由に草木の生い茂る森に勝手に住んでいるらしい。
 焚火を囲んで置かれた丸太に座り、毒島が湯を沸かして入れたコーヒーを貰って落ち着いたところで二郎がマイクを取り出す。俺の今の体がオッサンだからかもしれないけど、二郎は元気だ。
「ラップバトル教えるなら左馬刻に実際にやらせるのが手っ取り早いんだけど、下手に精神干渉して状態が悪くなったら困るからさ。とりあえずガチめのバトル見せてやりたくて」
 昨日のチンピラ相手のバトルはあまり歯応えもなかったし。と語る。毒島にとってもそうした草試合はよくあるらしい。あっさり頷いた。
 毒島のマイクは二郎や昨日の連中と違った。如何にも軍用って形で、後々で聞いたところ、実際に軍用として作られた高出力のヒプノシスマイクらしい。
 模擬戦と言いながらも相対する二郎は昨日の一件より、俺と拳を合わせた時より緊張して見える。
 殴り合いの喧嘩も下手すりゃ病院沙汰だけど、精神に影響を及ぼすマイクでの喧嘩も冷静に考えたら正気じゃない。神宮寺先生によると、脳についてはまだ研究が及ばない部分が多く、ヒプノシスマイクによって引き起こされるあらゆる症状を常に高い確率でコントロールするのは難しいという。もちろん、ある程度はできる。だから先生だってマイクを使うが、違法改造された安定しない製品や特殊な効能のマイクは特に、使用者の予想通りに動くとは限らない。今回の俺の記憶喪失もそんな事例と言える。らしい。
 すでに入間は俺に攻撃した犯人を捕まえて、使われた違法改造マイクを回収、警察の特殊音波犯罪研究施設で解析を始めているけど、音波の解析はできても人間の脳へどう影響するかは、実際にやってみないと分からないだろうって話だった。
 そんな未解明の部分が大きくて影響力の大きな兵器の弾が歌であるラップなんて。中学校に通っていた数日前までの、ただのガキの自分に言っても信じられないだろう。
 先攻は二郎がとった。昨日より沢山の韻を踏んでいる。韻というのは言葉の母音のことで、例えば「トマト」と「小鳩」は両方同じ母音のパターン「オアオ」だ。そうした同じパターンのフレーズを歌詞の中で重ねることを「韻を踏む」というんだと習った。習ってもすぐに韻を完璧に聞き分けるのは難しい。コツを聞いても二郎は「慣れだな」で片付けてしまった。分かっちゃいたけど二郎は人にものを教えるのに向いてない。
 仕方ないから耳を澄まして二人の打ち出す言葉に耳を澄ませた。
 流れるビートは昨日よりスローな曲だったけど、そこに乗せるワードは昨日より多く、俺が分かっただけでもいくつも韻を踏んでいる。攻撃の威力を決めるのは韻だけじゃないが、沢山踏んだ方が良いのは間違いない。昨日より強い。
 これを受ける毒島は安定した立ち姿で、僅かに揺らいだ体をすぐに立て直し、軽く頭を揺すってダメージを振り払った。ヒプノシスマイクへの耐性は精神力による。肉体も屈強な毒島だけど、軍隊に所属して、こんな森で一人暮らししているぐらいだ。精神力も並みじゃない。
 後攻。毒島のバース。低く響く声がリズミカルに、軍靴の足音みたいに韻を踏んでいく。二郎とは違ったスタイルだ。数だけなら先攻の二郎の方が多かったかもしれないが、毒島のラップは独特の力強さがある。そうした歌の印象を裏切らず、マイクを通してダメージを受けた二郎が膝から崩れ落ちそうになってヒヤリとした。
 それでもまだ地面に膝はついていない。身を低くして雲を突くような長身の毒島を睨みあげ、余裕ぶったポーズ、言葉を笑う吐息で震わして煽り、立て続けに踏んだ韻を強調して手番が回る。
 ダメージはちゃんと入っている。毒島が樹皮の分厚い木のような無表情から険しい表情に変わって、片足を一歩下げて踏ん張った。
 だけど二巡目後攻。バースの後半に毒島が「子守」「青い」「迷い」なんてワードを連ねる。多分俺の面倒を見ている現状を揶揄してるんだ。それが分かった時、何故かこれは効くって思った。咄嗟に立ち上がって二郎に向って駆け出した。
 ヒプノシスマイクを使ったバトルは身体的な優劣では決まらない。そうと分かっていても肉体同様に精神も頑丈そうな毒島と比べたら二郎の方が危うく見える。もし、お互いが力加減を間違えたり、当たり所が悪かったら。次に目を覚ますのは知らない病室のベッドの上かもしれない。
 焦って動いた行動の結果は、完全に裏目だった。二郎の気が俺に逸れたせいで耐えられる攻撃が深く当たってしまった。精神干渉もきちんと構えて受けるのとノーガードで受けるのとじゃダメージの深さが違う。
 二郎の細長い体が倒れて硬い木の根に打ち付けられる前に手は届いたけど、呼びかけても苦し気に呻くばかりでまともな返事がなかった。
 血の気が引いて黙り込む俺を毒島が見下ろす。
「大丈夫だ。少し休めば調子は戻る」
 そう言って二郎を軽々と抱え上げ、テントの中で寝かせた。大丈夫だと言われたらそれ以上俺ができることはない。
 テントの入り口から中を覗き込んでいると座って落ち着くよう勧められ、改めてカップを手渡された。飲む気にはなれなかったけど。
 それから二郎が目を覚ますまでの時間に食事を拵えると立ち上がった毒島がいつまでもテントを見つめる俺に言った。
「本当に貴殿は小官たちの知る左馬刻ではないのだな」
 その言葉はそれからずっと魚の小骨のように刺さって取れなかった。

@6
 雨が降った。これまでなんだかんだで毎日外出していたけど、さすがに今日は大人しく引きこもりだ。いつ抜き打ちで入間が乗り込んできても大丈夫だ。
 二郎は棚から薄く埃を被ったノートパソコンを持ってきた。大人の俺が買ったくせに、パソコンでやりたいようなことは大抵スマートフォンで事足りるからと放置しているものらしい。
 うちの実家は貧乏だからパソコンなんかなかったし、学校の授業で少しだけ触ったきりだった。それでも二郎が検索バーに手早く単語を打ち込んだら即座に目的の動画が見つかって、ダウンロードの待ち時間なく再生された時はちょっと興奮した。未来って感じだ。インターネットでいろんな人が自作の動画を公開できるんだとか、そうした動画投稿サイトがいっぱいあるんだとか。よく分からないがすごい。
 サンプル画像が並ぶ中から一つを選んで再生する。タイトルは”第一回テリトリーバトル本戦、第一試合“。
「テリトリーバトル本戦はちゃんと円盤化されてんだけど、左馬刻さんあんま持ってねぇんだよなあ」
 動画サイトで見られるのはサンプル版だから短いんだとぼやく。
「これは第一回だから三年前ぐらいか。ブクロ対ヨコハマだから俺も左馬刻さんも出てるヤツ。先言っとくけど、俺のチームの方が負けるから」
 結果を先に教えることで悔しさを調整する。
 歓声は高い声ばかりだった。女しか住めない街で開催されたから。スポットライトに照らされたステージ上にだけ、六人の男が立っている。そのうち四人はわかる。俺と、俺の仲間と、二郎。残りの二人は二郎の兄弟だ。
「みんな若いな」
「そりゃな」
「二郎は今よりガキくせぇ」
「今中学生のテメェが言うんじゃねぇよ」
 バトルは一対一を三回やるんじゃなく、三対三で行われる。兄弟のコンビネーションで叩くイケブクロと、昨日見た毒島然り、個の力で押すヨコハマ。種類の違った強さでマイクを通して殴り合う。
 最年少は二郎の弟で、山田三郎。当時十四歳。今の俺と同い年なのに勝気に毒島に言葉を突きつけ脳を刺していく。
 それから、ガキばかりのイケブクロチームを率いるのが長男、山田一郎。三人の連携で攻めるスタイルのチームの中では異質なほどの強さが目に見える。音楽を通した勝負が目に見えるってのもおかしなものだけど、一郎のラップはあの毒島さえ圧倒していた。
 そして大人の俺と渡り合っていた。
 自分のこととはいえ未来の自分なんてほとんど他人だ。中学生の俺はこんな風に即興で歌えないし、ステージ上の六人のうち自分のスタイルが抜きんでて好みってわけでもなかった。両親が死んでからの人生で聴いた音楽が二十五歳の俺のセンスを育んだってことだ。
 カッコいいとは思うが、録音された音声を聞くと、時々親父の声にそっくりの時があるのも嫌だった。大人の自分にとっては最後にあの声で詰られてから十年も経ってるし気にならないのかもしれないけど、つい何日か前まで親父が母さんに勝手を言うのを聞いていた俺にとっては忌々しい未来図だ。
 だけど大人の俺はこの中で一番強い。一郎とタイマンだったら結果は違ったかもしれないが、それでも一郎が大人の俺を仕留めきれなかったのは間違いない。
 未来の自分が身に着けたスキルなら、まだ子供の俺もゆくゆくは習得できるんじゃないかという期待があった。もっとも、二郎にしてみたらラップのやり方だって俺が忘れているだけで、こうしてステージの動画を見せるのも新しく身に着けさせるってよりは、
「どう?懐かしい感じとかデジャヴとかねぇ?」
 本音は思い出すきっかけにしたいんだ。
 だけど、ステージの映像をよく観察したって自分の中にこんな記憶は見当たらない。
「ねーよ。こんなことやってた思い出なんかない」
「そっか」
 まあ焦る事ねぇからな、なんて自分が一番焦っているくせにフォローみたいなセリフを言って背中を叩く。
 一本の動画を見終わると二郎が操作して、また別のヨコハマチームのバトル動画を再生した。一本終わればまた別の。全部ヨコハマのステージだ。中王区で行われたテリトリーバトル以外にも野外イベントの映像や、路上で突発的なバトルをやっているところを誰かが勝手に撮影したらしいものもあった。
 二人並んで座って黙って見ていた。二郎は解説を挟まない。俺がパソコンの操作を覚えて自分で選んで再生するようになったらいよいよ気配を消して、昼食の時間に食い込むほど動画を見続けていた。
「……あ、もうこんな時間かよ。昼にすっか」
 もう午後一時近く。簡単に拵えた炒飯を囲んで小休止する。
「なんか収穫あったか?」
 食べながら広いテーブルの端に押しやられたノートパソコンを示される。
「収穫ってほどじゃねぇけど……ラップにも色々あるんだな。もっとダボついた服着たチンピラみたいなヤツばっかりがやってる音楽だと思ってた」
「ヒプノシスマイクが出回ってからは元々興味なかった奴もいっぱいやり始めたからなー」
「スーツ着たリーマンみたいなのもいたし着物着てる変な奴もいた」
「そりゃリーマンと変人だ」
 シンジュクとシブヤのチームで、変人の方は本職は作家らしい。リーマンは見たまんまだ。だけどくたびれたオッサンに見せかけて、ダウナー系からキレ散らかした刃みたいなラップをぶちかましてくる。暴力的なヨコハマ相手に神宮寺先生とリーマンとハイテンション男のシンジュクが勝ったバトルは観客目線で純粋に盛り上がったし、シブヤ戦では他のバトルと違うダメージの受け方をしていた。全員使っているのは正規マイクなのに使い方ひとつで影響の仕方が変わるらしい。
「ラップの技術的なことはまだ全然わかんねぇ」
「まあ最初はそんなもんか。じゃあ、見た中で好きなスタイルとか、そういうのは?やっぱ左馬刻さんのヤツ?」
「俺のは、カッケーとは思うけど……強いて言うなら、山田一郎のヤツ」
 第一回テリトリーバトルの当時はまだ十九だった二郎の兄だ。他のチームと比べても若いのに自分のスタイルが確立していてカッコよかった。弟たちに信頼されているところも良い。イケブクロは流れるようなマイクリレーが目立つチームで、キャッチボールみたいに軽快に弟たちからのバトンが渡る。二郎からの、絶対キメてくれるって信頼を一身に受けて期待に潰されずバシッと決める。どんなMCになりたいかと言われれば山田一郎だった。
 答えて炒飯を口に入れて顔を上げた。
「…………兄ちゃん、か」
 妙な間があって首を傾げると、食事の手まで止まっていた二郎が急に元気を出して動き出す。
「カッケーだろ!うちの兄ちゃんなんだぜ」
「知ってるっつの」
「兄ちゃんか。そっか。よく分かってんじゃねぇかテメェ。左馬刻さんが褒めることあんまなかったから変な感じすんな」
「そうなのか?」
「うん、ちょっと喧嘩っつーか……色々あってさ。犬猿の仲ってヤツ」
 確かに映像の中でもそんな風だった。馴れ合いナシのライバルだ。一方の山田兄弟はとても仲が良かった。ステージ上の様子だけでそれが伝わってくる。そういうのを見ると、妹に会いたくなったけど黙っておいた。言っても困らせる。
「だったら兄ちゃんの名前で検索したらいっぱい出てくるぜ。バトル以外にもライブやった時の動画もあるし。左馬刻さん、兄ちゃんの参加したCDとか絶対聞かなかったけど兄ちゃんに近いスタイルのラッパーのレコードとかは普通の持ってっから、後でそっちも漁ってみるか」
「ん」
 そこから聴きやすい曲や好きなものを選んで、聴き込んで真似するところから始めた。やったところでヒプノシスマイクは使わせてもらえないだろうけど、この家にある音源を聞き込む作業は大人の俺の経験をなぞる意味もある。二郎がメールで簡易報告を入れている入間も、バトルはダメだがラップスキルを身に着けること自体は賛成とのことだった。どうせ引きこもっていたら他にやれることはあまりなかった。

 毎日家のスピーカーから音楽が流れている。曲は自分で選べる。ずっと勉強のつもりで聴いているわけでもなくて、BGMにして二郎が実家から届けてもらった大量の漫画を読んだり、料理を教手伝ったりもする。
 この間友達の家で読んだ少年漫画の続きを、単行本を積み上げて読めるってのは得した気がする。夏休みでもないのにずっと家で、数学や古典の勉強をしなくてもいい。仕事もない。誰からも殴られず、怒鳴られることもない。親や妹のこと、この世界での身の置き所だとか、すべての問題がクリアになっているわけじゃないけど“楽”だった。
 十四年後の世界で目覚めてすぐにも夢みたいだと思ったけど、二人でマンションに籠って過ごすことに慣れたら悪夢じゃない、現実逃避のために見る夢みたいだと思うようになった。そのうち世界が曖昧になってアパートで目が覚めて、もう少し眠っていたかったって思うような。そんな夢。
 どうせなら妹と再会してまた一緒に暮らすところまで夢で見たいのに。
 それなのに、何が引き金だったかはわからない。
 突然降りかかった意味不明の現実。初対面の大人たち。変な社会制度や現実とは思えないような生活の変化。刺激の洪水みたいな日々に多少慣れて、いくらか細かなことを考えられるようになったからだとか、気持ちの波が落ち込む時期だったんだとか。それらしい理由は大人が後付けで考えてくれたけど。
 とにかく、マンションで暮らし始めて一週間近く経つ頃に上手く眠れなくなった。眠れないせいでイラついたり、不安になったりして。
 パンパンに膨れた風船が破裂したのは用意された食事を素直に食べなくなったのがきっかけだった。
 積まれた漫画を読み尽くした頃から妹の部屋に頻繁に出入りするようになった。母親に線香をあげて、妹の荷物から見つけた手帳を開く。当たり障りないスケジュールと、友達や、俺と撮ったプリントシールが貼ってあった。妹はすっかり大人で美人になっていた。一緒に笑顔で写った俺同様に知らない人のようだったけど小さな頃の面影は残っていたし、母さんにも似てる。
 手帳や、机の上に飾られた母の写真を眺めて十四年も飛び越えてきたこの世界のことを考えた。
 大人だから学校に通う必要はなくても仕事をせずいつまでも過ごすわけにはいかないだろう。ヤクザの仕事は何か月ぐらいなら休めるんだろうか。もし、このまま時間が過ぎて働かなきゃ生きていけなくなったらどうする。二郎だって俺のために本業を休んでいる状態だ。いつまでもこうしていていいわけじゃない。
 こっちの世界で目覚めたその日に訊いた入間の話では、妹は安全に暮らしているという。この街じゃ俺は悪名高い。それに比べれば女しかいない中王区は安全で、大人の俺も一応は承知している。どうも妹が俺の手元を離れた経緯に、妹を保護している誰かと何らかの約束事があったようなニュアンスだった。入間もすべては知らない。大人の俺だけが知っていて、子供の俺が余計なことをしたら妹を危険に晒すかもしれないって形で釘を刺された。そんな言い方はズルい。
 妹に会いたい。妹の所在も何もかも、何日か前に知り合ったばかりのおかしな大人たちに教えられたことだ。信じるに値するのか?みんなで俺を担ごうとしてる、親父の仲間か何かじゃないのか?
 だけど、それにしては大掛かりすぎる。医者も、森の中の軍人も、変なマイクを使ったバトルも芝居とは思えなかった。見たことのない動画サイトや、この間までほんの数巻しか発売していなかった漫画の続きが何十巻も出現した。何より鏡の中の見知らぬ男は口も眉も手も足も、俺の思った通りに動く。
 訳が分からない。疲れた。
 連日流していた音楽を止めて妹の部屋に籠ってぼんやりしているとノックがあって扉の向こうから二郎が呼ぶ。
「飯、できたから早く食えよー」
 最近はよくこうして扉越しに呼ばれる。呼ばれてもあんまり食事が楽しみじゃなくて、感傷に浸っていたくて。食事が冷めた頃に部屋を出て一人で食べた。
 最初のうちは心配して体調がどうとか、医者に行こうとか、不安があるなら聞くだとか。あれこれ言っていた二郎だけど、俺が何も説明せず食事を無視するのを続けていたらイラ立ちを見せるようになった。そりゃそうだ。折角俺の好きそうなメニューを作ってるのに俺がいつまで経っても出てこないから一人で食べて、その後でやってきた俺は美味くもなさそうな顔で黙って自分の分を食べる。
 態度が悪い自覚はある。だけど仕方ないだろう。今一番大変なのは俺なんだ。どれだけ辛いかなんて二郎には分かりっこない。
 だけど俺も分かってなかった。それはこの世界で唯一気を許した二郎に対する甘えで、しかも性質の悪いヤツだってことを。
 ここには二郎しかいないから、不満も甘えもすべて二郎にぶつけることになっていた。中学生の俺に比べれば二郎は大人だけど、大人だって何だって聞き入れて変わらぬ態度で言葉を返してくれるロボットじゃない。
「また遅くなってから食う気かよ。今日カレーだぜ。冷めたら美味くないだろ」
 返事をしなかった。
「なあ、また写真見てんのか。それなら前に言ってたお袋さんの墓行くか?天気のいい日ならバイクでも行けるし」
 墓なんて、母親の名前がそのまま書いてあるわけじゃない。前に聞いた限りじゃ母方の先祖の墓で、苗字も違うらしい。そんなの適当な墓の前に連れて行って「ここがお前の母親の墓だ」って言われても真実かどうか分からない。その程度のものじゃないか。
「……返事ぐらいしろよ。おーい」
 人が不機嫌になる瞬間はすぐ分かる。それでも無視した。
「話したくないことは無理に聞かねーよ。だけどせめて飯くらいちゃんと食えや。左馬刻さんだって機嫌悪くても飯はちゃんと食ってたのに……」
 その瞬間、片手に手帳を握りしめたままぶち破る勢いでドアを開けて後先も考えずに叫んだ。
「うっせぇな!俺はアンタの好きな左馬刻さんじゃねぇんだよ!」
 肺の中の息を全部吐き出すみたいに言って二郎の顔を見た。あからさまに傷ついたって顔。でも一瞬のことで、すぐ顔を背けられた。
「そんなつもりじゃ……」
 言い訳しようとして、頭を振って、こちらを見ないまま言い直す。
「ごめん」
 それから足早にリビングに戻っていった。それを追いかけずにいたら、晩に入間がやってきた。インターホンが鳴った時、俺は見放されたんだと思った。

 合鍵まで預かってるクセに、入間は部屋に上がろうとはしなかった。インターホンで応対した二郎に言われて地下駐車場に向かい、エンジンを切った入間の車の助手席に乗せられた。車は移動式の個室だ。
「二郎に言われて来たのかよ」
 会話を先制すると運転席の男は切れ長の目をスッと細めて鼻で笑う。
「おや、何かあったんですか?今日は時間が出来たんで定期報告のつもりで来たんですけどね」
 墓穴だった、と思ったのが顔に出た次の瞬間にはもっと意地悪い笑顔に変わる。
「何があったかは先に二郎くんから聞いてますけど」
 クソッ。横並びのシートじゃなく向かいのソファにでも座ってたら胸倉を掴んでいたところだ。車の中は人を殴るにも動きづらい。代わりに助手席のドアを蹴りつけると「壊したら弁償請求すんぞクソガキ」と凄まれた。別に大人の俺の財布から出て行く金なんかどうだっていい。
「ったく。……しかしまあ、ガキ二人で一週間ももったんだから褒めてやるよ」
「どういう意味だよ」
「もっと早くに喧嘩か何かして泣きついてくると思ってたんだがな。どっちが頑張ったかはしらねぇが」
 食事も、洗濯も掃除も、俺が不自由しないようにあれこれ動き回っていた二郎の姿が頭を過る。俺だって家事は手伝ったけど、所詮は母親の手伝い程度だ。赤の他人なのに親みたいになんでもしてくれていた。
 クローゼットの服を適当に着ているジーンズの膝のあたりを睨みつける。黒いステアリングを赤い革手袋の指でトントン叩いていた入間がフロントガラスの向こうの無人の駐車場に視線を投げて言った。
「お前、そろそろ世話係チェンジすっか」
 助手席から睨むと横目でこちらの様子を観察してくる。
「……誰に」
「そうだな、都合がつけやすくて左馬刻の面倒が見られるヤツとなると、理鶯」
「アイツ虫食わしてくるから嫌だ」
「……………………」
 俯き加減に眼鏡を押し上げる。思うところはあるらしい。
「理鶯は料理の腕は確かなんですよ。何が入っているか気にしなければ味は良い。まともな食材だけ与えて狩りに出させなけりゃきっと」
「マンションのベランダで雀とかコウモリとか捕まえるかもしんねぇだろ」
「……………………」
 当て擦りのつもりが、入間には冗談に聞こえなかったらしい。やっぱり大人の俺の周りは変人ばっかりだ。
「理鶯以外となると交渉にちょっと時間が必要になるでしょうけど、なんとかならないことはない。どうですか?ずっと同じ人間と閉じこもってたら息が詰まるでしょう」
 もっともらしいことを言う。大人の言うことだ。性格が悪くたって警察だし、一応は俺の仲間なんだから不利益になると分かっていて勧めているわけでもないだろう。もしかしたら本当に別のヤツと過ごした方がいいのかもしれない。
 でも、ここで頷いたらどうなる。険悪な状態でお役御免となってからも二郎は俺に会いに来たりするだろうか。ぐちゃぐちゃなメンタルではポジティブに考えることができない。
 返事が出来ずにいると、入間が話を変えた。
「さっき、今日のことを彼から聞いたって話したでしょう。随分落ち込んでましたよ」
「……俺のせいって言いたいんだろ」
「そういうところ、本当に左馬刻っぽくないですね。大人の左馬刻は自分のせいだろうが何だろうが、だからどうしたって態度とりますよ」
 どいつもこいつも。俺の知らない大人と俺を比べやがる。話を聞くたびにロクでもない男なのに、みんな大人の俺を認めているんだ。
「それに、彼は自分が悪いって一点張りでしたよ。大人の左馬刻なら彼のそういう性質も理解してたでしょうけど、中身が子供じゃ自分のことしか考えられなくても仕方がないか」
「お前ほんっとムカつくな」
「どうぞご勝手に。でも、今後も上手くやれないなら本気で他の人間を手配しますよ」
「わかってる。……もう少しだけ、このままにしてくれよ。やっとちょっとだけ慣れてきたとこなんだよ」
「結構。それじゃあ代わりに良いものをあげましょうかね」
 勿体つけた言い方をして後部シートから紙袋を手繰り寄せる。携帯電話メーカーの袋だった。中からやけに小さな、おもちゃみたいな携帯が出てきた。
「なんだこれ」
「十四年前にはありませんでしたっけ?子供向けに機能が制限された携帯電話です」
 起動すると画面に間抜けなキャラクタが表示される。数字のプッシュボタンはなかった。
「一応スマホなんで、画面のここを触ると……携帯に登録されている相手にだけ電話がかけられます。今は私の私用の携帯の番号だけ登録されているので、他には電話をかけることも、逆に私以外からの電話を受けることもできない設定になってます」
「なんだそれ。うっぜぇ」
「記憶喪失の人に好きに電話なんか使わせるわけないでしょう。二郎くんを仲介せず連絡を取らなきゃいけない時の非常用ですからね。普段は見つからないように管理しておいて下さい」
 定期報告なんて言っていたけどこっちがメインだったんだろう。二郎の頭越しに入間に連絡して、同居人を変えて欲しいなんて言う予定はない。なんだか重たい石を持たされた気分でポケットにねじ込んで車を降りた。

@7
 朝から棚の引き出しがうるさかった。断続的に小さくカタカタいってる。しばらくは無視してたけど、何度も何度もバイブが呼ぶから流石に無視しきれなくなって二郎が携帯を取り出した。大人の俺の携帯だ。
「ちょっと指貸せ」
 言われて利き手の人差し指を立てると違ったらしく、手を開かされて親指の腹を携帯のホームボタンに押し当てられた。指紋認証でロックがかけられているらしい。ちょっと未来の携帯って感じだ。
 携帯のロックを解除して今朝からずっと連絡を寄越し続けている相手を確認する。大体予想はついたけど、同じ女だった。今日だけじゃない。一昨日ぐらいから何度も着信やメールが届いている。
「知り合いか?」
「知らねぇけどどうせ左馬刻さんの元愛人だろ」
 元愛人からの電話で着信履歴が埋まってる。ロクデナシの携帯だ。
「でも一応去年ぐらいに関係切ったつってたんだけどなー」
 自分のことながら、それは信じられる言葉なのか疑わしい。今回の女以外にも遡った着信履歴は女の名前ばっかりだった。記憶喪失の間は、俺が極秘の仕事に掛り切りになっているという設定で組関係の人間が俺に連絡しないよう組長から指示が出ている。だから連絡を寄越すのは組との直接の繋がりがない女だけなんだと二郎は言うけど。
 二人ともあんまり気は進まなかったけど切羽詰まった様子で連絡を重ねてくる女の要件を確かめないでおくのも怖い。組の事務所に押しかけてこられても迷惑だ。メールフォルダを開く。そうすると、案の定というか、最新のメールがその女だった。
『電話出てください』
 嫌な字面だ。新しい方から順に何通もあるメールを開く。
『逃げないでください』
『今忙しいって聞きました。お時間とらせないので電話だけでも出て下さい』
『責めるつもりはないんです。電話出て下さい』
『突然のことで信じられないとは思いますが、一度きちんとお話しさせてください。連絡待ってます。』
『お金が目的じゃないんです。言葉が足らなくて誤解させたくなくて。真剣にお話ししたいので電話させてください。』
『お久しぶりです。急に連絡してごめんなさい。大事なお話があって、本来なら直接会って話したかったんですが、返信も電話も出てもらえないので…。実は、二ヶ月ほど前に出産したんです。恐らく貴方の子供です。事後報告になって申し訳なく思っています。でも分かって欲しくて連絡してしまいました。一度会いに来て欲しいです。電話待ってます。。。』
 目が文字を追って、脳が意味を解釈する。理解すると同時に携帯のディスプレイから顔を上げて二郎を顧みた。
 二郎も色のない顔をして俺の顔を見ていた。いや、俺じゃない。大人の、ロクデナシの顔を見てる。
 俺じゃない。でも、俺の未来。どうしようもない男だと分かってたけど。でもこんな、よりによって本人が記憶吹っ飛んじまってる時に?
「ち、違う、俺は……」
 記憶がないから知らない、なんて当たり前のことを言い訳しようとした。二郎だってそこのところは説明されなくても分かってるのに。俺が何を言っても二郎の失望は変わらないのに。
 焦って言葉を詰まらせる傍らで再び携帯が震え出した。電話の相手はもちろん元愛人だ。規則的に着信を知らせているだけの携帯に責められている。
 根気強くコールが続く。震える指が画面の電話のマークに触れた。受話操作する前に深呼吸して、二郎が携帯を耳に当てた。
「はい。……すんません、えっと、左馬刻さんのツレです。今電話出られる状態じゃなくて……はい。いや、それは……」
 電話の向こうの声が少しだけ漏れて高い女の声がした。俺が出た方がいいんじゃないかって考えが頭を過ったのは、どうにか出来ると思ったからじゃなくて二郎に盾にしておきたくないからだ。
 だけど携帯を奪って交代するような真似は出来なかった。
「メールの方は左馬刻さんも把握してるンすけど……本人もまだ驚いてると思いますし……いえ、今仕事で。…………そこんとこは詳しくは教えらんないんで勘弁して下さい。後で必ず連絡するって言ってるんで、もう少しだけ……。は、いや、今日中とかは……明日?ちょっとそれは……」
 悪いのは二郎じゃないのに責められているみたいだった。こっちの事情は誰にも説明できない。それでも女だって早く左馬刻を出せって、電話口に出た二郎を困らせる。
 大人の左馬刻はいない。今は、大人の左馬刻の喉を持つ俺だけだ。
 二郎の肩を叩いて電話と反対側の耳に囁いた。
「明日、俺が電話するって言え」
「…………!」
 肩を竦めて驚いた顔をして、電話に応対する言葉が止まった。妙な間ができて、向こう側の耳元から微かに不機嫌そうな声がした。
「……あ、や、すんません。そんなつもりじゃないっす、明日、分かりました、明日には……なんとかします。はい……はい、すんません」
 電話が切れた。なんなんだよ、これは。
 肩を落とした二郎の背中に手を添えようとしてやめた。こんな事態を引き起こした男の顔では何をしても慰めにならない。見た目は大人の碧棺左馬刻なのに、こんな時大人ならどうやってフォローするかわからない。
 自分の中に問いかけても一向に記憶を戻す気配のない大人の自分に腹が立つばかりだ。
 終話画面も消えた携帯を握っていた二郎は意を決した様子で自分の携帯を掴んでスピーカー設定で電話をかけ始めた。相手は入間銃兎。
『どうしました?』
「仕事中悪い。ヤバイことになった」
『ヤバくなきゃかけてこないでしょう。どうぞ』
 電話越しだと余計に感じ悪く聞こえる声が一段低くなって話の先を促す。
「左馬刻さんの昔の愛人が、左馬刻さんの子供産んだから会いに来いって」
『は?』
 こんなこと言われたら十人中十人がこんな反応になるだろう。無性にイライラして髪を掻きむしった。
「何日か前からめちゃくちゃ電話とかメールとか来てたから流石に用件確認したら、そういう話で……。仕方なく俺が電話に出たらすげーキレてて左馬刻さん本人を出せって、もうずっと無視されてたんだから明日までになんとかしろって」
『…………どこからツッコめばいいんだよクソッ』
 机かロッカーか、何かを蹴る音がした。でもすぐに冷静に返ってくる。さすがに大人だ。
『そもそも、それは相手の女が言ってるだけですよね?証拠でもあるんです?』
「うん。俺も嘘なんじゃねぇかと思う……あの人、そういうとこはすげーちゃんとしてるし」
『目的は金ですか。それとも認知だけしてくれって?』
「金目的じゃないってメールは来てたけどわかんねぇ。本人と話しさせろって一点張りでさ」
『で、明日中に左馬刻が返事をすると約束したわけですか』
「う………うん」
『ふざけんじゃねぇぞクソボケ!』
 目の前にいたら胸ぐらを掴みあげられるような恫喝は警察よりヤクザみたいだ。慌てて口を挟んだ。
「待ってくれよ!悪いのは大人の俺だろうが!それに俺が二郎に明日電話するって言わせたんだ」
 見た目も声も、頭の中以外は大人のままだ。他人になりすます訳じゃないし、こうなったら他に選択肢はない。弱り切った眼差しで背中を丸めた二郎に見上げられてようやく背中を撫でることができた。
『はぁ……、なんにせよ親子鑑定しないことには父親としての責任もクソもありませんからね。こっちでDNA鑑定の予約をして採取日と場所を連絡します。明日の電話で鑑定日に約束を取り付けて下さい』
 テキパキとやることを示されると少し気が楽だ。
『くれぐれもボロは出さないよう、よーく練習しといて下さいね』
 きつく念押しされたけど、なんとかなるだろう。とにかく検査して違えばいいんだ。二郎も違うと思うって言っていた。
 通話が切れた携帯をソファに放り投げ、自分自身も崩れ落ちるようにして座った二郎の傍に膝をつく。
「心配すんなよ。二郎は向こうの嘘だと思ったんだろ?」
「うん」
「なら検査すりゃすぐ分かる。結果出てから心配しようぜ」
「うん、ごめんな。お前の責任じゃないのに」
 首を横に振った。俺が責任をとって当然と思われていない。だって俺は相手の女と会ったこともない十四歳だから。今はそのことで十分だった。
 話を聞く限りでは女とは一年近く会っていなかったようだ。多少のことは誤魔化しが効くだろう。細かい思い出話が出てきたら最悪忘れたフリをしたっていい。こっちに大人の記憶がないのを向こうは知らないんだし。俺たちが隠したい記憶喪失の件を誤魔化すぐらいはなんとかなる。する。
 そのためにはまず、
「二郎、ステージ以外での大人の俺のこと教えてくれ」
 ロクデナシな未来と向き合わなきゃならない。

『えー、二郎くんサマトキ様の過去の女に興味あるの?刺す?』
「しねーよ!」
 未来の俺を探る旅の始まりは携帯のメール履歴からだった。それらしい女と交わした文面を見ると、愛想がない。 とにかくシンプルで口説くそぶりもない。女の方から声を掛けてくるのに答えているだけだ。
 これじゃ分からないと言う俺に二郎は「こういう人なんだよ」と納得した様子で頷いてみせる。
「基本的に勝手に女が寄ってくるから口説いたりしねーんだよ。でも無碍にもしないし、相手に恥も欠かせない、みたいな」
 舎弟たちの受け売りそうだ。流石に二郎には誘惑してくる女の誘いに乗るところなんか見せないから実際の様子は分からない。
 そこでメールを遡る途中で見つけた、二郎も知り合いだという水商売の女性に取材することになった。俺はバレると面倒だから、二郎が電話して、横でイヤホンで会話を聞いた。
 愛人というと仄暗い付き合いのようなイメージだったけど、耳元で聞こえる声は明るくて普通の女の子だ。それを後で二郎に言うと「接客業だからな」と言った。
『まーアタシは愛人ってわけじゃなかったけど。要するに女の子の扱いってことでしょ?』
「そうそう。普段どんな喋りしてたとかさ」
『普段のエッチの時?』
「……いや、普通に飯食うときとか」
 女が鈴を鳴らすような声で笑った。二郎よりあっちの方が大人だ。
『別に普通だと思うけどなぁ。特別ベタベタしてくるわけでもないし赤ちゃん言葉になるとか妙な性癖もないし。サマトキ様って男友達とつるんでる時の方がいい顔で笑うタイプじゃない?』
『あんましょっちゅう笑わねぇけど?』
『二郎くんは友達じゃないでしょ』
 二郎が返答に困ると女は楽しそうにする。
『上手くいってるみたいで良かったぁ。まあ、本命と遊び相手は一緒じゃないかもしれないけど、二郎くんに喋る時と同じじゃないかな。裏表ある人じゃないし』
「確かに分かりやすい人だとは思うけど……」
『それ二郎くんがサマトキ様に言ったら怒ると思うよ』
 二郎を見ると不本意そうに目を逸らした。通話中、ずっとこんな調子だ。これをやっとけば大人の俺ぽい、とか、そういう便利な特徴はなかった。
 結局、二郎の思い描く大人の左馬刻像を目指すことになったけど、
「────そういう時、左馬刻さんはもっと、こう……見下した笑い方で」
「入間みたいな?」
「あそこまで性格悪そうじゃなくてさ。フンッ、くっだらねー……みたいな」
「わかんねぇな。参考までに入間はどんなだよ」
「フンッ」
「いっしょじゃねぇか!わかんねーよ!」
 大人の俺を真似て見せた煙草片手に鼻で笑って見下してくる仕草までまるきり入間と一緒だった。参考にならない。
「つか、女に優しいなら女相手にはそういう態度とらないんじゃねーの?」
「そ、そっか?」
 大人の俺の演技指導は、言葉遣いの細かい訂正以外は嫌な奴になるための指導だった。面倒くさそうにしろ、とか、短気に怒れ、とか。短気で口が悪くて女が複数いてやくざで、なんだってモテていたのか。子供の俺には全く分からない。
 女にモテる大人の男に近づいた実感が一切ないまま翌日になり、予定通り電話で連絡を入れた。入間に指定された日に指定されたビルに来てもらう約束を取り付けるのがノルマだ。
 こっちから電話を掛けると、五コールぐらいしてからやっとつながった。携帯も持ってないガキが家族と友達以外に電話することってなかなかない。知らない女の声に内心ちょっとだけビビったけど、相手は一年前まで関係を持っていた愛人だ。意識してやや低めに、当たり障りなく、会話する。
「よう。ずっと連絡できなくてすまねぇな。大事な仕事を任されてるところでよ。……その、元気だったか?」
『こっちこそごめんなさい。本当だったらもっと早くに言わなきゃいけなかったのに……』
「いや、あー……そっちも色々大変だっただろ」
 昨日の二郎の様子からして女に怒鳴られることも覚悟していたのに、好きな男には嫌われたくないってことなのか。しおらしい様子で女が電話に出た。
 こっちは愛想がなくて口が悪いが女に優しい男の匙加減が分からなくて二郎に視線で問いかけようとすると、ノートに何か書いてる。カンペだ。大人の左馬刻っぽいセリフを授けてくれるのか。
“ボロでる前に本だい”
 漢字が少なすぎて読み辛いせいで一瞬悩んだし意味を理解してもクソの役にも立たなかった。内心舌打ちして、俺と別れてからのあれこれを語る女の話を適当に遮る。大人の俺にとっては愛人だったんだろうけど、妊娠中はどうだったとか産まれたばかりの時はどうだったとか聞かされると母親カテゴリでしか見られない。
「……そうか。えーと…それで。いっぺん子供に会いたいんだが」
 ここからが重要だ。会う話を切り出すと女は喜んだが、続くセリフで一気にテンションがガタ落ちた。
「気は進まねぇと思うが、一度会って親子鑑定をさせてくれ」
『……やっぱり疑ってるのね』
 声のトーンが低くなった。足場が狭くなったような緊張感があるが想定内だ。入間から入れ知恵された言い訳がある。
「知っての通り、俺は筋モンだし星の数ほど恨みも買ってる。俺の子供となれば余計な苦労を負わせることになる」
 便利な言い訳だけど真実だ。子供は親を選べない。だけど、保護者が子供の得にならない人間を親から外すことはできる。
 うちだって、理不尽に暴力を振るって家族を詰る父親なんか要らなかった。それでも母親は親父と離れられなかった。当時はまだ中王区みたいな女性に手厚い特区もなかったし、俺が服の下に痣を作っていたって誰も気づいて保護してくれなかった。クソ親父は理性なく暴れる動物じゃなく、プール授業のある夏には頭以外殴らなくなるような、理性で暴れるクズ野郎だったから。
 虐待を受けて育った子供が親になった時、自分もまた子供を虐待してしまうという話を聞いたことがある。俺がそうなるかは分からないし、大人の自分の性質がどうだったかも知らない。でも、少なくとも今の俺は大人になったって子供なんか欲しいと思わない。妹だけ守って生きられたらそれで良かった。
 きっと大人の俺だって考えは変わらなかったんだろう。愛人の女たちを捨てて男の恋人を選んだくらいだ。
 入間に言えと言われたセリフではあるが、これは本心だった。もし本当に血縁関係があったとしても、金銭援助だけして、どうしても父親が必要と思うなら別の真っ当な男と結婚した方がいい。だが、血縁関係もない人間の嘘に付き合って援助するような仏でもない。金が有り余って困ってるわけでもない。大人の俺のメンツなんかこの際どうでもいいけど、二郎の気持ちの整理をつけるためにも。事実確認は必要だった。
『そんな、左馬刻さんはそんな不誠実な人じゃないでしょ……?』
「悪いとは思ってるが、急に言われたってこっちも実感ってものがわかねぇんだ。本当に俺の子だったら……それでも堅気でもねぇ俺が父親ヅラして会っても良いことはねぇだろうよ。それなりの責任の取り方をさせてもらう」
『…………』
 話の合間に何度か口を挟もうとするのを無視して言い切った。これがマトモじゃない人間の最大限にいい父親としての立ち回り方だ。
 電話口で悩む気配があった。何度も何か言うために息を吸って最初の一文字目が明確な音になる前に飲み込む。黙って決断を待った。
『………………わかりました。どうしたらいいですか』
 諦念。そんな様子だけど承諾を得て心配そうに成り行きを見守っていた二郎に視線を送る。俺はもうこの時点で勝ったようなつもりだったけど、明るい表情は返ってこなかった。
「────じゃあ、当日三時に待ってる。気を付けて来い」
 手元に用意した日時と場所のメモを読み上げ、向こうがメモし終えたところで話を終えた。向こうもこれ以上電話で食い下がるのは諦めたようだった。
 ちゃんと通話が切れたのを確認してから大人のフリをやめる。
「おっし、やってやったぜ!入間の野郎にちゃんとやれたって連絡してくれよ」
 背中を叩くと目が覚めたみたいに不自然な動きで二郎が携帯を操作し始めた。
「どうした?俺、どっかおかしかったか?」
「いや、すげーそれっぽかったから大丈夫だと思う」
 もっと褒めて欲しいのに。それっきり、二郎は入間にメールを入れて折り返しかかってきた電話で喋りながら寝室に消えた。後で大人の俺っぽい服や携行品を揃えて戻ってきたけど。電話の成功は、あまり喜んでくれないみたいだった。

 大人の俺はヘビースモーカーだ。でも中身がまだ喫煙を覚えていないガキだからって初日に二郎に取り上げられている。当日も赤ん坊の前だし本当に喫煙する必要はないけど、例えば検体採取後に改めて話し合いを求められて対面時間が長引いた時。一応煙草を気にするフリぐらいはやっとけってことで煙草やジッポまで用意された。ヒプノシスマイクも。気まぐれで使おうとしないように、当日渡すと言われてる。
 立ち居振る舞いも改めて指導が入った。もっと落ち着いた動きで。女以外にはキレてすぐ手が出るとか。翌日には時間を作ってきた銃兎とマンションの地下駐車場で対面して、大人の左馬刻として振舞ってチェックしてもらった。
「はいダメ。左馬刻はそんな悠長に怒りません。もっと短気で即手が出ます」
「……なあ、女と会うんだからそこまで厳しくやんなくてよくねぇか?」
 子供の頃の理想の大人になれる奴なんか滅多にいないんだろうけど入間たちの知る左馬刻には死んでもなりたくないと思う。
 いつぞやの車の助手席で火をつけない煙草を手の中で弄びながら深くため息を吐く。
「大人の俺って聞けば聞くほど酷いヤツじゃねーか。なんで二郎も、愛人やってた女もそんな奴がいいんだよ」
「顔と金じゃないですか?」
 身もふたもない。
「女はわかんねーけど二郎は違うだろ。顔なら兄貴だってかっけーし」
「うわ」
 運転席に収まっている、こちらも外面は人並み以上に整った男が紫の斑点を背負った新種のカエルでも見るような目を向けてくる。山田一郎と仲が悪かった話は聞いているが、そんな顔をされるほどか。
「顔の好みは人それぞれですけど、まあ色々あったんですよ。左馬刻だって横暴な振る舞いをしてもなんだかんだで舎弟には尊敬されてますしね」
「尊敬、ねぇ」
「彼だってどこかしら尊敬してるからこんなに尽くしてるんじゃないですか?」
 喧嘩やラップの強さだろうか。だけどそれも山田一郎は俺とタメを張るらしいじゃないか。兄弟仲の良さはうちの兄妹に匹敵するっていうし。
「大人の左馬刻みたいになりたいんですか?」
「まっぴらごめんだ」
「質問を変えましょうか。彼に惚れられたいんですか?大人の左馬刻みたいに」
 煙草が音もなく足元に落ちた。運転席のいけ好かない男を凝視する。すました顔で、俺が何も言わないのに尋ねてもいない結論を突きつけられた。
「なれませんよ」
「なりたいなんて言ってねぇだろ!」
「そうですか?」
「だって、それじゃあ俺がアイツのこと、す、好きみたいじゃねーか!」
 言葉にして口に出すと恥ずかしくて耳が熱くなる。そういうのが大人の俺っぽくないらしくて、また気色悪そうにされた。
「違うなら結構。ややこしいのは十分ですからね」
 そうして入間は勝手に話を畳んで終わりにしたけど、こっちはそんなこと言われたら変に意識してしまう。十四歳の俺が二郎を好きなわけじゃなくて、入間のせいで妙に気にしてしまうだけ。こんなのは呪いみたいなもんだ。

 一人で寝室に引っ込んで布団に入っても呪いは続いた。あの野郎、変な言い方しやがって。
 全部アイツの勘違いだ。中学生として元のアパートで暮らしていた頃には男を好きだと思ったことはないし、学校には可愛いと思う女子だっていた。同じクラスの美人。
 頭にまとわりつく二郎の色気のある目元だとかを追い払うために同じクラスの美人の顔を思い出そうとした。でもどんな容姿だったか、曖昧で頭の中で線を結ぶことができなかった。仮にも特別可愛いと思っていた子だ。この生活になってから、まだ夏休み程も時間は経過してない。なのに思い出せない。
 急に不安に襲われて落ち着かなくなる。学校の間取りや玄関に飾られている水槽のでかい金魚とか、そういうものは思い出せる。でもクラスメイトはほとんどダメだ。繋がりや思い入れが薄い相手ほどわからない。担任も名前すら思い出せない。記憶力は悪くなかったはずなのに。
 まさかと思って妹や母の姿を思い浮かべてみた。こちらは鮮明に覚えている。顔、よく来ていた服、声、好きな食べ物。でも、今はまだ思い出せてもこれからもっと時間が経ったら?
 考えちゃダメだ。また眠れなくなってイラついて二郎に当たったら最悪だ。世話係を交代して欲しいなんて思わない。
 無理に布団を被って底から湧き上がる不穏な考えを無視して寝た。目が覚めたってことは多少は眠ったんだ。
 起きた時、まだ真っ暗闇で深夜の気配がした。もう一度寝ようとしても寝る前の不安がぶり返してなかなか寝付けない。
 そうだ、アルバムを見よう。妹の部屋の。家族の顔を見たら忘れないし、不安も少しはマシになる。
 そう思って、リビングで眠る二郎を起こさないよう慎重にリビングとの間のドアを開けた。前に怒鳴ってしまってからずっと、眠る時はドアを閉める習慣になっていた。
 音を立てないよう、ゆっくり開ける。そうすると足元に細く青緑の光の筋が伸びてきた。テレビがついてる。扉を十分に開けて見ると、寝室を背にしたソファにヘッドフォンをつけた頭が覗いている。暗い部屋で二郎がアニメを見ていた。
 邪魔しないよう静かに通過しようとしたけどさすがにヘッドフォンをしていてもソファの横まで来ると気がついて、ヘッドフォンを外した。
「びっくりした。どうした?」
「ごめん。ちょっと妹の部屋に用事」
「そっか」
 それ以上追及されなかったからそのまま妹の部屋に行って、アルバムを持って戻ってきた。またヘッドフォンをつけていた二郎の隣に座ると、二郎は再びヘッドフォンを外してテーブルに置いた。恐らく録画かブルーレイなのに停止することもない。本当に見たいアニメを見ている時にはアニメ優先で俺のことさえ適当になるのに。
「アルバム?」
 控えめに手元を覗き込んでくるからよく見えるよう膝にアルバムを広げた。テレビの光に照らす。
「うん。妹の荷物から持ってきた」
 写真屋がサービスでくれるダサい表紙の、ペラペラな紙製で角がボロボロになったアルバムだ。
 めくると妹と俺と母の写真がたくさん出てくる。まだ赤ちゃんの妹や、青い船の絵柄の子ども用ランチプレートにちまちま惣菜や魚を盛り付けた、貧しい生活の中の精一杯って感じのお食い初めの写真。スーパーの大きなチラシで折った兜を二人で被ったこどもの日の写真。保育園の運動会やお泊まり会で妹が友達と写った写真。小学校入学式の日の写真が一番俺の知る妹の姿に近い。黄色い帽子にランドセルを背負って、綺麗な格好の母と写っている。俺がシャッターを切った写真だ。
 めくるごとに妹は成長したけど、確かに母親はアルバムが切り替わるところでいなくなった。後は妹ばかりだ。俺の写真も少なくなる。俺にカメラを向けるのは母さんだったから。
 クソ親父はひとかけらも写っていなかった。まさか写真に撮ったことがないわけじゃないだろうけど、多分意図的に抜かれている。
「これ左馬刻?女の子みてぇ」
「髪長いからだろ」
 母さんは手先が器用じゃなくて失敗したらみっともないからって、あまり自宅で髪を切りたがらなかった。そのせいで小さな頃は髪が長い時も多かったけど、今の二郎だって結べる程長い。二郎が小さな頃にもこんな髪型をしていたら、同じように女の子みたいって言われたに違いない。
 アルバムの最後まで来る頃にでかいテレビの画面が暗いシーンに切り替わって紙面が見づらくなった。素直に閉じて、テーブルの上のヘッドフォンに並べて置く。妹の部屋に戻すのは朝になってからでいい。
 正面のテレビ画面ではアニメの次回予告に続けて次の話が始まった。二郎はヘッドフォンをつけ直さなかった。無音の中、画面上でキャラクターが動き回っている。
「二郎は何してたんだ。これ、何度か見てるヤツだろ」
 アニメは真剣に見るタイプだ。話しかけても途中で止めることもしないし、これが見たくてわざわざ深夜に起きているわけじゃないだろう。
 セリフも何も聞こえないのに瞳に画面の光が反射してテレビの色合いの変化と共に色を変えた。
「うん。ちょっと、眠れなくて」
 テレビの青白い光が横顔の輪郭を浮かび上がらせて儚げに見せた。
「作戦のこと心配してんのかよ。俺ちゃんとできるって」
「ん、期待しとく」
 目を細め、いつもの騒がしさが嘘みたいな静かさで微笑む。
 喧嘩したら俺より強くて安いチンピラなんか敵じゃないのに下がり眉が頼りなく思えて、手を伸ばした。頭を撫でて、肩に誘う。大人の俺ならこんな時そうするんだろ?
 素直に肩に重みがかかって、二郎が上目遣いにこちらを見上げ何も言わずに目を伏せた。頭の座りが悪いのか肩の上で小さく動いたのが頬ずりされたみたいで体の奥がざわざわした。
 入間のせいだ。変な揶揄い方をするから。俺は別に大人の自分と違ってバイじゃないし、可愛いと思う女の子もいた。顔も思い出せないけど。離れがたいのは、この体の本来の主が二郎の恋人だからだ。きっと。

 当日は入間と二郎を伴って、貸切にしたDNA鑑定を請け負う会社のオフィスに大人の左馬刻の装いでやってきた。予定時刻より早くに到着して個室に陣取る。移動は入間の車で、ビルの目の前に横付けして最短距離で建物に入った。
 それというのも雲隠れ中の左馬刻の姿を余計な人間に見られたら面倒だし、部外者の女性が出入りしていると、万が一にも待ち合わせている女と間違える恐れがある。容姿は入間が調べて写真を持ってきたけどやや古いもので、水商売をしていた頃の化粧や加工が施された画像だった。今も同じようなメイクをしているんでもなければアテにならない。
 今回は入間は普段通りの仕事スタイルで、二郎は着なれないスーツとサングラス姿で舎弟という設定で帯同している。受付は入間が済ませて案内された個室の前に二郎が待機した。俺はなるべく余計なことは喋らずにやくざの左馬刻っぽく座っている役だ。
 女は時間通りに来た。まだ首の座らない赤ん坊をハンモックタイプの抱っこ紐に大事そうに抱えて。当然、見覚えのない顔だった。化粧で隠しきれない疲れが見えたが十分美人だ。資料写真では派手な服を着ていたけど、よくいる若い母親の服装だった。偶然町で会っても写真の女性とは思わなかっただろう。
 二郎が扉を開けて彼女を通し、俺も椅子から立って迎えたが何を言うのが自然かわからない。彼女の出方を待ったが、向こうが目を合わせることすら避けていた。
「すみません。お待たせしました」
 誰に対してでもない形式的な言葉は入間が拾う。
「こちらこそ、お忙しいところ無理にお呼びたてして申し訳ありません。どうぞ、そちらにベビーベッドがありますので」
 部屋の角を手で示す。親子鑑定は今回のような赤ん坊の父親の調査も多くあるようで、個室には ベビーベッドが完備されていた。だけど彼女は首を横に振って、守るように腕の中の子を胸に抱き寄せた。
「…………まあ座れや」
 やっと絞り出すようにして口を開き、自分の隣の椅子を引く。大人の左馬刻としてセーフラインだろう。
 並んで椅子に座ると腕とおくるみに埋まった赤ん坊の口元が見えた。しきりに自分の小さな指をしゃぶっている。服から覗く腕や手はまろやかな脂肪がついていて、関節のところでキュッと締まってレンコンみたいだ。
 あれ程しつこく会って欲しいと言ってきたのに、彼女は赤ん坊を庇うみたいに抱えて「見てくれ」とも言わなかった。疑われている状況だからか。
 あまり喋るなと入間に言われているし、向こうが何も言わないなら黙っておくのが正解かと思ったけど。迷った末に自分から声を掛ける。
「顔見てもいいか」
 尋ねると控えめに頷いて、胸元で守るように抱いていた腕を緩める。顔に影を落としていたおくるみの布地がずれて、まだ顔の横幅の方が長そうなふくふくした赤ん坊が見えた。鼻も小さいし眉や髪も薄い。
 自分から見せてくれと頼んだはいいが、赤ん坊なんて数年前に妹が産まれて以来でどうしていいかわからなかった。すぐ泣かせてしまいそうだ。手を出さずにただ見ていると地蔵のように閉じられていた目が開く。それを見たら、ああ、俺の子供かもしれないと思ってしまった。
 赤ん坊の顔なんかみんな似たり寄ったりだと思うけど、目の色が俺たち兄妹とそっくりで。アルバムで見た妹に似ていた。かわいい子だ。
 赤ん坊は恐れずこちらを見つめてくる。濁りのない目と見つめ合うと、ちょっと居た堪れなかった。
「……この子が目を開いた時、左馬刻さんに似て見えて驚いたんです」
 女が赤ん坊を見下ろして柔らかな?を指で触りながら言う。同意も否定もできなかった。返事に困っているとノックの音がして検体採取スタッフが入室し、説明がはじまった。
 今日やるのは検体の採取と書類へのサインだけだ。DNA鑑定というと採血でもするのかと思ったら、綿棒で頬の内側を擦るだけだった。二人分の検体を採取して、立ち会った全員が間違いなく双方の検体であることを確認したことを証明する書類にサインしたら終わりだ。
 俺の番はすぐに終わった。自宅で自分で検体採取して専門機関に送るとネットや郵送で結果が得られるキットもあるらしい。わざわざ出向いて採取するのは、お互いが間違いなく検体を提出したことを確認するためだ。他人の検体を提出したら、当たり前に親子関係はナシという判定が出る。
 この部屋に来た時から顔色の悪かった女だけど、赤ん坊の番になってスタッフが近づくといよいよ険しい顔つきになった。そしてスタッフが赤ん坊に手を伸ばす直前で立ち上がった。椅子が床を擦る音がやけに派手に響く。
「…………やっぱりやめます」
「え?」
 足を留めたスタッフと入れ違いに女が立ち上がって足早に部屋を出て行こうとする。背中を丸めて一目散に。
「おい、待てよ!」
 咄嗟に追いかけてしまった。そうすると彼女は焦って部屋を飛び出して走り出した。ロビーから直結の小部屋が何室か並ぶ構造で、受付の前を通過するともう出口だ。その先はビルの内階段とエレベーター。階段に出たら危ないと思うより先に入り口のエントランスマットの辺りで突然体のバランスを崩した。厚みのあるマットの端を踏んだらしい。受付カウンターから見ていた事務員が悲鳴をあげる。女は抱いた子供ごと硬い床に飛び込みそうになった。
 間一髪。お仕着せのスーツの腕が二人を受け止める。
「うおっ……と、大丈夫かよ」
 腕と胸で女を支えて転倒を回避した。女はそこで膝から力が抜け、二郎の体を支えにずるずる腰を落とし、床にへたり込んだ。
 みんながホッと息をつく。代わりに遅れて赤ん坊が泣き出した。
「うぇっ、どっかぶつけたか?俺潰しちまった?もう大丈夫だから泣くなよ……」
 大人のフリも忘れて自分そのものの歩き方で歩み寄り、一人焦る二郎の背中を叩く。
「いや、大手柄だ」
 子供は多分驚いただけだ。ずっと母親が受け身を取ることも考えずに大事そうに抱えていた。
「うっ…………」
 泣いて赤くなった赤ん坊の顔にぽたぽたと雫が落ちる。
「うあぁーん……ヒッ、ご、ごめんなさ……」
 子供みたいにしゃくり上げる大人の女性の背中をさする。個室から飛び出したスタッフは入間の指示で部屋に戻り、撤収を始めていた。静かな白いロビーの壁に母娘の泣きじゃくる声がこだました。

 聞けば、彼女もおそらくは俺の子供じゃないと分かっていたらしい。最後に会った時期とは被るが、その際には別れ話のみで性交渉がなかったから、計算上も微妙だったし、大人の俺は愛人に子供を作らせるような男じゃなかった。俺と別れてから寂しさで容姿の似た男と寝たことがあり、相手は多分その男らしい。
 あまりつわりもなく元々の生理不順のせいで気づくのが遅れ、安定期に入って随分経った頃に判明した。だけどその頃には相手の男とは連絡も取れなくなっていたし、そもそも誠実な付き合いじゃなかったから本名もわからない。一人で産む覚悟を決めたが金銭的に厳しく、なんとか出産して家に帰るところまでは出来たけど、新生児を抱えて働くこともできずに先が見えてしまって実家に泣きついた。
 疎遠にしていた親だけど孫の顔を見たら無碍にはできないだろうと思ったそうだ。だけどアテが外れた。
『ちゃらんぽらんなアンタひとりじゃどうせ育てられないよ。あたしらだって養う余裕はないんだ。父親を連れてこなきゃ赤ん坊は施設にやる』
 実母に言われて困った彼女は俺に連絡をつけようとした。俺なら女が困っているのを放っておかないだろうと。愛人という立場だったけど叶うことなら大人の左馬刻と結ばれたかった彼女にとってはここが最後の望みでもあった。
 それでもきっぱり否定されるか恩情をかけられるかだと思ったから、検査という話になった時には随分迷ったようだ。もしかしたら、低い確率でも俺の子供かもしれない。そういうギャンブルのつもりで承知してはみたけど土壇場で怖気付いた。一応検査してみるかと尋ねても、
「元から分かっている結果を見るのが怖いからいいです」
 泣き腫らした顔で「お世話かけました」と頭を下げた。
 一度泣き始めたのをきっかけにオムツやらミルクやらで支度に時間のかかる子供に彼女が手間取られているうちに、部屋の外に入間を引っ張り出す。
「おい、アレ、なんとかしてやれねぇのか」
 自分の子供じゃないといってもこうも関わってしまうと、血縁関係がないから無関係と割り切って投げ出す気にもなれない。
「父親としてご実家について行ってあげますか?」
「それは、できねぇけど……俺の貯金とかから利息なしでいくらか貸したりとかさ」
「私の金じゃないんでダメとは言いませんけど捨て銭も大金となるとお勧めできませんね」
 俺だって自分の名義の金だとしても自分で稼いだわけじゃない。現在無期限休業中で貯金を食いつぶしているところだし、妹が戻ってきた時に使ってやる金でもある。
「……直接金をやる前に、国の支援制度を調べたらどうですか?H歴になってから女性向けの優遇措置や支援制度が増えたんですけど、制度が変わったばかりであまり知られていないものもあるみたいですよ」
 目の前で携帯にいくつかキーワードを打ち込んだ検索結果を見せられる。何か難しい漢字の羅列がずらずら出てきたけど、母子家庭の支援とか女児の特別就学支援金なんかのページみたいだった。
「後は、もし相手の男を探したいなら、左馬刻のコネや二郎くんのところの萬屋がお得意でしょうね。私なら期待しませんけど、相手の男は子供が産まれたことを知らないわけですから、万に一つくらいはまともな対応してもらえる可能性もありますし」
 まあ、頭を使えばなんとかなるでしょう。女にだけは優しい世の中ですから。
 ニコリともせずに知恵を与えてスーツのポケットに携帯を戻した。
 俺は、きっと大人の記憶が戻ったって親にはなれない。職業ヤクザの横暴野郎が人の親になるべきじゃないと思ってるし、子供を持たない分の金や手間は妹にかける。でも目の届く範囲にいる縁のあった子供ぐらいは、俺たち兄妹みたいな、母さんと俺たちみたいな苦労はせずに暮らしてほしい。
 ほとんど入間に言われたことそのままだったけど彼女に教えて、必要なら相手の男の調査も請け負うことを伝えた。
「俺は父親にはなってやれねぇし、それを補うぐらいの支援もしてやれねぇけどさ。それでも二人で何とかやってけるように手を貸すから、困ったらまた連絡してくれよ」
 妹に似た子供が優しい親元から引き離されたりするのは見たくない。というのは口にはしなかった。
「他に真っ当に父親やってくれる男が見つかりゃいいんだろうけど、変に焦ってロクでもない男を捕まえたら元も子もねぇ。子は親を選べねぇけど、親が子供の親を選んでやることはできるんだ。まともで優しい男を見つけな」
 母親の顔をした美人もぐずぐずに泣くとどこか幼く見えて手入れが行き届かない髪を撫でた。子供の目からは細かいところまでは見えていなかったけど、俺の母親もこうだったかもしれない。
 すっかり身支度が整った赤ん坊は口の端によだれをこぼしながら眠り始めた。帰りはタクシーを呼んで、往路分も足して多めに車代を渡した。俺はあまり顔を晒せないからオフィスの出口で見送り、タクシーまでの付き添いは二郎と入間に頼んだ。
 母子はこれからが大変だけど、これでこちらとしては一件落着だ。入間の車でマンションに帰って引きこもり生活を再開する。
 
 久しぶりの外出から帰ったその夜、いつもの時間になっても煮炊きの匂いは部屋に満たなかった。
 いつもはどれだけ動き回っても炊事ぐらい平気でこなしていた二郎が、着替えを済ませてソファに座ったきり呆けていた。
「おい、腹空かねぇの?」
「ああ、ごめん。今やるからもうちょい待っててくれ……」
 声を掛けてようやく腰を上げようとしたから押し留めて俺が代わりにキッチンに立った。俺だって料理くらいできる。冷蔵庫にあった材料で一番上手く作れると思ってピラフを作った。大人の体だとフライパンも軽く感じるから楽なもんだ。
 それからコンソメスープを作って生野菜をちぎって盛りつけただけのサラダや冷蔵庫に残っていた惣菜と一緒にだした。思えばこの日は朝からずっと褒められるのを待っていたように思う。女の件で上手くやれたとか、飯が美味かったとか。だから一人だけ調子が良くて二郎のことは何にも見えちゃいなかった。大人の俺なら早くから察してやれていたんだろうか。
 疲れた様子でも二郎は食事が出来上がると食卓のセッティングを手伝って一緒に夕飯を囲んだ。揃いのスプーンに程よく味のついた米を掬って口に運ぶ。
「どうだ。美味いだろ。結構自信あんだよ」
 スプーンを咥えて頷いたから良かったと思ったんだ。でも顎を引いたきり俯いてしまった。長めの髪が顔を隠すように垂れ下がって表情が覗けない。
「おい、どうした?具合でも悪いのかよ」
 首を横に振る。それからやや時間をかけてやっと上がったその顔は、涙は溢れていないけど泣きそうに見えた。
「ごめん……、どこも悪くないし美味いよ」
「いいって。無理すんなよ」
「ほんとに、美味いよ。左馬刻さんもこういうの時々作ってた」
 不意に未来の自分が立ちはだかる。上出来だと思った食事を見下ろすと、途端につまらないもののように思えた。
 そうして俺が口を閉ざす一方で、一度話始めた口からぽろぽろ零れ落ちるみたいに言葉が続いた。
「……なんかさ、最低なんだけど、俺、すげーホッとしたんだ」
 食事の話かと思った。前に怒鳴ってしまって以来、大人の俺の話はあまりしなかったけど、懐かしい味とかで里心でもついたのかと。だけど違った。
「この間からずっと、本当に実の子供だったら左馬刻さん責任とって向こう行っちゃうんじゃないかって不安だったんだ」
「行かねぇよ。アンタがいるのに」
 はっきり否定しても二郎はそうは思わないみたいだった。
「あの人と結婚とかしなくてもさ、自分の子供だぜ。放っておける人じゃねえよ。現にお前だって、結局血縁じゃないだろうって話になっても心配してただろ?」
「…………近所の顔見知りのガキ心配するのと一緒だ」
「本当の親子じゃなけりゃそうかもな。でも、顔見に通ったりしてるうちに子供の方が大事になるんじゃねぇか、とか。あの赤ん坊にとっても、金もあってそれなりに責任感ある父親はいた方がいいに決まってるし。そう分かってんのに自分の都合ばっかり気にしてた。嫌なヤツだ」
 いいや、そんなことない。俺の方が自分のことばっかりで二郎のことを全然考えてやれなかった。
 そう返そうとしたところに絞り出すような声が被る。
「男の俺は何年付き合ったってそんな風に繋ぎ止めたり出来ねぇのに、ってさ」
 ああ、これはきっと”左馬刻さん”には絶対言えない言葉だろう。俺が好きな男じゃないから吐き出せたんだ。
 二郎や入間たちに大人の自分と比較されたり記憶を取り戻して欲しいような気配を感じると不満に思ってた。気を遣ってはくれるけど所詮は十四歳の俺じゃなくて、ちょっと記憶喪失になっている大人の俺を見てるんだって。
 だけど今この時は間違いなく、外見通りの大人じゃなくて、俺がずっと認めて欲しかった子供の俺として話していた。
 皿にスプーンを置いて膝で距離を詰め、横から腕を回して薄っぺらなシャツの下で背中を丸めた体を抱きしめた。子供の俺じゃ二郎より小さくて抱きしめても不格好だっただろう。大人の体は薄ぺらい恋人の体を上手く抱き込めるようになってる。
「俺は何があってもなくても他のヤツのトコなんか行かねぇよ」
「左馬刻さん……」
 大人の方を呼んだ。混乱してるんだ。訂正はしなかった。
 テーブルの上の二人分の皿が冷めていく。二郎がもう大丈夫だというまでそうして、それから二人で湯気の立たなくなった食事を食べた。

 深夜。また目が覚めてリビングルームへの扉を開いた。
 予想した通り、昨夜と同じように二郎は起きていて見るともなしに暗い部屋でアニメを流している。
 今夜は妹の部屋には行かない。ソファに向かって、振り向いた二郎の頭からヘッドフォンを外す。
「眠れねぇんだ」
「またかよ。俺もだけどさ」
 二郎はちょっと笑った。眠れないくせにタレ目のせいか目がとろんとして、もう眠そうにも見える。
「一緒になんか飲むか?体は大人なんだしちょっとぐらいなら酒でもいいかな」
 キッチンに向かおうと立った腕を引く。
「要らねぇ」
「じゃあ、眠くなるまでテレビでも……」
「一緒に寝て欲しい」
 驚いた表情は一瞬だった。大人の顔で背中を叩く。
「お前今中学生だろー?赤ちゃん返りかよ」
「そうだっつったら?親の代わりに添い寝してくれっつったらしてくれんのかよ」
 詰め寄ると目を伏せて後ずさる。逃げたがる腕を放さずいると、眉尻を下げて軽い口調を作った。
「……夕飯の時のこと心配してくれてんならもう大丈夫だからさ」
 二郎は嘘が下手だ。俺の記憶が戻らないのが原因か、そもそも大人の俺の素行が問題なのか。何が二郎を追い詰めるのかは俺には分からないけど、じわじわ溜まったものがついに溢れてしまった。
 直接的な引き金の大小に関係なく、怒りとか悲しみとかもどかしさとか、コントロールできない気持ちが表面に染み出してしまうのは俺も経験がある。爆発してもそれですっきりしてすぐ楽になるわけでもない。一人で持て余した不安をどうにかしてやりたいとは思う。
 でも、そうじゃなくて。
 無理して笑顔の形に作った唇を奪った。チカチカしたテレビの光のせいで瞳が揺れて見える。
 突き飛ばされたりしなかったから、もう一度。さっきは掠めるだけだったから、柔らかさとか温度とかカサつきとか、細かな感触を意識して長めに押し当てた。大人の上手いやり方なんか知るか。こんなに他人に触れたいと思ったことは他になかった。
「理由なんか何でもいい。来てくれよ。アンタ、俺の恋人なんだろ?」
 正確には俺の将来の、だけど。
 少し待ってみても答えを出せないでいるから強引に寝室に引きずり込んだ。無理やりとは違う。ベッドで一度手を離した。それで、大人しく布団に入ってくれたから腕枕と迷って背中から抱きしめた。
 腕の中で体を捩って二郎が顔を見せる。何も言わないから薄く開いた口にちょんとキスすると、またもぞもぞ動いて背を向けた。
 ちゃんと眠るつもりで連れて来たのに腹の奥底が落ち着かなくて、胸がはしゃぎまわってもうしばらく眠れそうにない。
 好きなんだと思う。入間の勘繰りが本当になってしまったのは癪だけど。
 落ち込んでいるなら俺がどうにかしてやりたい。手放したくない。自分と同じ造りの体だけど、その肌に触れたい。そういうのが好きってことだろう?
 大人の俺が恋人だからじゃなくて、今の俺が好きになった。大人の俺は二十歳過ぎてから出会ったけど、俺は中学のうちに知り合って二郎の人となりを知って好きになった。それだけの差だ。
 一人じゃ広すぎて居心地の悪かったベッドはでかい男二人で眠るとちょうど良かった。

@閑話休題「一応付き合ってる」の話
 特に深い興味はない。ちょっとした待ち時間を埋めるために適当に振ってみた話題である。
「一応付き合ってるって、何で“一応”なんです?」
 例えば交際をオーケーしてもらったはずがろくに会ってもらえず交際の実感がない時にネガティブなニュアンスでつけたのなら分かる。しかし彼は、俺の知る限りでも定期的に恋人のマンションに泊まって朝帰りしている。まさかガキのお泊まり会みたいな付き合いしかしてないなんて言わないだろう。
 それで自信のなさの根源について尋ねたのだが、渋い顔して開口一番に「兄ちゃんが」と言い出した。兄ちゃん、とは極度のブラコン且つ、恋人様の宿敵と言える男だ。
「兄ちゃんが、俺に文句言う左馬刻さんに『ちゃんと付き合ってもないテメェに四の五のいう権利はねぇ』っつってさ、それに対抗して当てつけみたいに『じゃあちゃんと付き合ってやんよ。それなら文句ねぇだろ』って」
 告白をすっ飛ばして兄に報告。職業柄、痴情のもつれやおかしなカップルの話もいくつも耳にしたが、こんなパターンは聞いたことがない。
 痴話喧嘩にブラコン兄が介入するという地獄の三者面談開催も恐ろしい話だ。
「まったくもって意味がわかりません。前提として、君と左馬刻はお兄さんまで巻き込んで何で喧嘩してたんですか?」
 喧嘩はしょっちゅうだろうが、彼だって兄と左馬刻の険悪さは承知だ。左馬刻とのことを泣きつくとも思えない。
 彼は腕組みして「そこは深い事情があったんだよ」などと浅そうな顔で唸った。
「簡単に言うと、兄ちゃんの知り合いから受けた萬屋への依頼を俺が任されたんだよ。んで、頻繁に依頼人と会ってたら左馬刻さんがなーんか勘違いしてさ。キレてくるからこっちもふざけんなっつって。そんで丁度近くにいた兄ちゃんも駆けつけて、今度は俺の代わりに兄ちゃんと左馬刻さんが喧嘩始めて」
 それで先の発言、と言うわけだ。いくつも歳下の恋人の仕事相手に嫉妬して、やはり歳下の宿敵に仲裁に入られた挙句のこのセリフ。自分のチームのリーダーかと思うと頭が痛くなる。
「だけどそれを君は了承したんじゃないんですか?」
 付き合ってると認めたのは彼自身だ。元から事実上の交際関係にあったわけだし、随分前に左馬刻は女性関係を清算してる。全てかどうかは不明だが、たまたま左馬刻の愛人だった女がとある事件の端っこに引っかかり、左馬刻に顔を繋いでくれるよう頼んだ際に「今は連絡もとってない」と言われた。付き合いの長い女だったから詳しく話を聞いたら別れたっていうんで、ヤクザのくせについに落ち着く覚悟を決めたのかと思った記憶がある。
 だから俺はとっくの昔に真面目な付き合いをスタートさせたものと思ってたし、無論、愛人呼ばわりしたのはただ揶揄っただけだったのだけれど。
「いや俺も、『兄ちゃんに何てこと言いやがる』ってマイクでやり合っちまったから」
「だとしても後で仕切り直し出来たでしょう?まさかその喧嘩から今日まで、改めて自分たちの関係に言及することなくきたとでも?」
 関係に名前をつけることが全てじゃないが、はっきりさせないことには彼の保護者たる兄も納得できないだろう。彼だって正式交際は満更でもない様子だったのに。
「仕切り直し?ンなもん………………………」
 ない、と言いたげにした顔が沈黙の長さに比例して赤くなる。何か思い当たる節があるようだ。
 予言してあげましょうか。恐らく君が思い出しているのは仕切り直しではなく、この件をダシにした言葉責めか何か、さぞや楽しかった夜の思い出だ。話さなくていい。
「はぁ。もういいですよ。君たちが如何に話し合い下手か思い出しましたから」
「なんだよ!」
 落ち着いて話せば解決できそうなことで痴話喧嘩するのがライフワークみたいな連中だ。理路整然と主張するより韻を踏んで殴り合う方が楽なんだろう。
 だが、記憶が中学まで巻き戻った左馬刻は当然ラップなんか出来ない。神宮寺医師が過去の記憶喪失事例として挙げた中には結局記憶が戻らなかった話まであったし、この状態がいつ回復するかは誰にも分からない。
 世話を押し付けておいてなんだが、先の苦労を彼は本当に理解しているんだろうか。これから相手にするのは恋人そっくりで恋人の名前を持った赤の他人。それと新規に信頼関係を築きながらいつ戻るか分からない恋人を待つ、果てのない生活が始まったのだ。

最終更新2019/8/4 @閑話休題