※捏造設定もりもりH歴6年設定。
@8
見知らぬ街で男は目を覚ました。事故に遭ったところまでは憶えているが、記憶は酷く曖昧で、目の前に現れた少女を頼りに新しい世界での人生に漕ぎ出す。
その世界には魔法があった。元の世界では魔法なんかなかったのに男にはその才能があって、少女を守る力を得た。
きれいな絵のアニメだ。戦闘シーンも派手で鮮やかで。結構面白い。
でも二郎はすでに何周かしているらしい。俺の肩に寄り掛かってる。初見のアニメやお気に入りは姿勢を正して真剣に見るから分かる。
俺はコレ、結構好きなんだけど。それでも乗せられた頭の重みやシャンプーの匂いが気になって集中は出来ない。前髪を透かして長いまつ毛が揃ったまぶたのカーブなんか見ていると力任せに抱きしめたくなる。でも所かまわずやったら如何にも節操のないガキって感じで、大人の俺と比べて幻滅されたら最悪だからできない。
腕の中に捕まえていいのはベッドの中だけ。そう自分にルールを作った。骨ばってて余計な脂肪がなくて、大人の男としては薄っぺらな体を抱いて眠ると安心する。同時に体の奥がざわざわして、このままじゃ一晩中眠れないんじゃないかと心配にもなる。背中から密着してもまだ足りなくて、頭から丸飲みにしたいような凶暴な気持ちもある。
だけど焦ることはない。朝起きても二郎は同じベッドにいる。俺が記憶を取り戻さなければ当分は水入らずだ。誰も邪魔をしない。
毎日二郎の作った飯を食って、ラップの練習や筋トレや喧嘩の稽古をつけてもらって、漫画やアニメを見て一緒に寝る。本やブルーレイディスクは二郎の家から借りてきたものばかりだし、外食もしない。新しく何か買いに行くこともないコンパクトな生活をしている。出費は最低限でヤクザ稼業で蓄えた貯金があるから当分は仕事をしなくても金の心配をする必要がない。
もちろん酒を飲んで暴れたり、俺たちを支配するために殴ってくるような奴もいない。誰にもバカにされない。おまけに子供だからって早く寝るよう追い立てられることもない。
ここの生活は穏やかだ。
外が明るくなった気配で目を開いた。生活リズムを維持するためにセットしてある二郎の携帯のアラームは鳴っていない。吐息がかかるほど近くに寝ている二郎を起こさないよう慎重に手を伸ばして充電器に差しっぱなしの携帯を掴み、時間を確認した。六時になったところだ。アラームは七時に鳴るようになってる。
眠気はすっかり消えていて、ふかふかの枕に半分埋まった寝顔をしばらく眺めた。寝ているとちょっと幼く見える。さすがに中学生みたいとはいかないけど、あまり年上に感じなくて可愛い。
普段は俺より先に起きるのに今朝はよく寝ているからそっとベッドを抜け出した。たまには朝飯でも作ってやろうと思って。
二郎の手伝いで台所に立つから俺だって大体のモノの在処はわかってる。フライパン、フライ返し、菜箸、ボウル。必要なものを揃えていると、棚の中にコーヒーの粉末を見つけた。インスタントじゃなくて豆を挽いた奴だ。手に取って、もう少し探すとサイフォンやフィルターを発見した。ハンドドリップ用のペーパーフィルターやドリップポットもある。この間アニメで見たから知ってる。
どうやら大人の俺はコーヒーに凝っていたらしい。二郎は簡単に作って冷蔵庫にボトル二本分キープしている麦茶と買い置きのジュースばっかり飲んでいるし、ここでコーヒーが出てきたことはなかったけど。それってのはコーヒーを淹れるのが俺の役割だったんじゃないか。
発見した用具を並べて、使い方が分かったハンドドリップ用の用品だけ残して元の場所に戻した。朝食用にスクランブルエッグとウィンナーを焼く傍らで湯を沸かしてドリッパーにペーパーフィルターとコーヒーをセットする。それをガラス製のサーバーに乗せて細口のポットから湯を注ぐと本格的でカッコよかった。分量は分からないから本当に美味くできてるのかは飲んでみるまでわからない。でも広がる匂いは母さんが飲んでいた安いインスタントのコーヒーより香ばしくて豊かで、殺風景な部屋が上質な生活の空間みたいに見えてくる。
三杯分ぐらいサーバーに溜まったところでマグカップに注いで味見してみた。コーヒーの良し悪しなんか分からないが美味い気がする。これは二郎も驚くんじゃないだろうか。冷めないうちに起こして飲んでみて欲しい。
そんな気持ちが伝わったか、単純に匂いで起きたのか、慌ただしい足音を立てて開け放っていた寝室の戸口に二郎が顔を出した。
「朝からうっせぇな。頭、寝癖すげーぞ」
カップを持った手で指さすとパッと前髪の辺りを押さえた。
「さ、左馬刻さ……」
「見てくれよ。俺が淹れたんだぜ」
両手にサーバーとマグカップを持ってキッチンカウンターを回り込み、立ち止まっている二郎の前に差し出した。カップの中のブラックコーヒーが揺れて覗き込んだ二郎の寝起きの顔を映す。
「………………すげーじゃん」
「だろ。味も多分ちゃんとしてるから。つってもお湯注いだだけだけど」
二郎にカップを渡すと、浮かれすぎてサーバーまで持ってきたことに気が付いていそいそカウンターに戻る。もう一つカップを用意してる。朝飯もいい具合だ。
配膳を手伝おうとする二郎をソファに座らせて、今朝はすべて俺が準備した。コーヒーも美味いって言われたしチーズオムレツもうまくいったし、機嫌がいい。コーヒーのストックは十分あったからまたやろうと思う。
食事の片付けの最中に二郎の携帯に電話が入った。入間だ。今日は入間と二人で神宮寺先生の病院に行く。この生活が始まってから一ヶ月近く。二郎経由で何度か状況報告はしているが、ちゃんと検査するのは初日以来だ。検査のために時間を確保する都合で日が空いてしまった。これまでの期間に俺の記憶が戻ればこんな検査も不要だったんだろうけど。
「やっぱ二郎は来ねーのかよ」
「萬屋の方に俺指名の仕事がきてんだよ。前から小学生にサッカー教えててさ、久しぶりに見て欲しいって」
「俺もそっちがいいわ」
「バーカ。見た目ヤクザなんだから大人しく検査受けて来いって」
まあ仕方ない。二人きりで閉じこもりすぎるのも良くないって入間が言ってたし神宮寺先生は嫌いじゃない。
「ついでに漫画とか見終えたアニメ持って帰るけど、いいよな?」
「全部?」
「ああ。んで、続きとか新しいの持ってくる」
「バイクに積めるのかよ」
「無理だから兄ちゃんが迎えに来てくれる予定」
「へぇ。山田一郎が来ンのか」
映像の中では何度も見た男だ。大人の俺とも付き合いがあったけど仲違いしたって聞いてる。ちょっと興味があったけど。
「お前が出かける方が早いから会えねーよ。ほら、さっさと準備しねぇとうるせぇのが来ちまうぜ」
面白かった漫画をちらりと読み返す暇もなく身支度を整えた。二郎のパーカーと帽子を借りて大人の俺っぽくない出で立ちで。到着した入間からの連絡を受けて、玄関先で二郎に見送られて出発した。
車はいつもの入間のセダンだ。今日も入間は非番じゃないらしい。スーツを隙なく着込んで寄り道せずにシンジュクに向けて車を走らせる。
「どうですか。何か思い出したことは?」
「ない」
「そうですか」
期待はしてなかった様子だ。俺自身は母親と妹との暮らしにタイムスリップして戻れるんじゃなければ、大人の記憶なんて戻らなくても良かった。さすがに一ヶ月も過ごせばこの生活にも慣れるし、このまま大人としての暮らし方を憶えて大人の俺の代わりに生きていくことだって考えてる。妹を取り戻す手段は探さなきゃいけないけど、最近はラップも喧嘩も前より上達したし、必要だって言うならヤクザの仕事をやってもいい。女の管理以外なら。
「二郎くんからの報告じゃ、毎日ライブの動画やアニメばっかり見てるみたいですけど」
「外に出られないんだから仕方ねぇだろ。これでも一応、大人の俺っぽいことやってみてるんだぜ」
「ほう。例えば?」
訝しむ表情。また期待してないのが見え見えだ。
「今朝はコーヒーを淹れた。本格的な奴」
「ああ、左馬刻は拘ってましたからね」
無感動に頷いて横目でこっちを一瞥し「どやがお」と鼻で笑った。言葉の意味はいまいちわからないが馬鹿にされたのは間違いない。
「腹立つ野郎だなテメェ」
「いえいえ、子供らしくて可愛らしいことだなと思っただけですよ」
「そういうトコが腹立つっつーんだよ!」
ダッシュボードの下を蹴りつけると通過してもいいタイミングだった黄色信号で急ブレーキを踏んで凄まれた。この不良警官め。
近況を聞かせろというくせに、二郎と見たアニメの話はどうでもいいと言うし、飯の献立も、動画を見て気に入ったバンドの話も。車窓を流れていく景色同然に興味がなさそうだ。コイツが聞きたがってる記憶を戻す手掛かりなんかない。そんなもんがあったら二郎が報告してるだろう。
「ちょっとしたデジャヴとかもないんですか?」
「うっせーな。ねーよ」
「……お前、記憶を戻す気ないだろう」
ノーコメントだ。俺の記憶が戻らなきゃ入間は困るだろうが態度が気に食わない。窓枠に肘をついて外を向くと右側で舌打ちが聴こえた。
シンジュクディビジョンにある神宮寺先生の勤める病院はきれいでデカイ。広々した正面口もあるが、目立つわけにいかないから俺は裏手の夜間入り口から入って直接検査室に通された。初日にもやったけど、念のために脳の画像検査をやるとかで、医療ドラマで見かけるような大掛かりな機器のある部屋に案内され、事情を知る職員と入間の立ち合いの下で検査が行われた。
機械を使った検査が終わると処置室で待たされて、神宮寺先生の手が空いたタイミングで診察室に移動する。前にも来た部屋だ。
「久しぶりだね、左馬刻くん。あれから変わりはないかい?」
脳の輪切り写真を並べた白衣の先生が穏やかに声をかけてくれる。こちらも概要は入間経由で聞き及んでるんだろう。「ない」と答えたって特別落胆する様子はない。
「頭痛なんかの体調不良や、新たに思い出せないことが増えたり、これまで分かったことが分からなくなったりしたことは?」
体は健康そのものだった。思い出せないことは、
「……中学の、クラスメイトとか担任とか、あんまり親しくなかったヤツのことがわかんねぇ。ずっと会ってない小一の頃の仲間みたいに」
「中学生としての記憶も完全ではないということだろうね。重要と感じていない部分の記憶は退行せず大人の左馬刻くんの記憶のまま、と考えることもできるけど……」
確かに大人の俺からすれば中学の頃の同級生なんか憶えちゃいないんだろう。
「でも、大人の俺しかわかんないようなことはひとつも思い出してないぜ」
先生は静かに頷いた。手元の脳の画像を光に翳して見せる。素人目にはさっぱりだけど。
「さっき受けてもらった検査結果を見る限りでは、やはり脳に異常はないようです。今回は精神干渉による心因性健忘、つまり精神的ストレスを原因とする記憶喪失ですが。一般的な治療方法として、支持的な環境で過ごして回復を待つ方法と、催眠や薬物を使った手法があります。支持的な環境とはストレスから遠ざけ安心感を与える、二郎くんとの生活がそれです。もう一つは記憶想起法といって、催眠などにより記憶の空白を埋める手助けをするやり方ですが……ヒプノシスマイクの効果にどう影響するかわからないうちは控えた方がいいでしょう」
先生の手元には心因性健忘に関する書籍が数冊積まれている。だけど、そのどれもがヒプノシスマイクが流通する以前に執筆された本だ。従来の精神医学はさておき、ヒプノシスマイクを用いた治療、催眠に関してはそこらへんの心理学者より神宮寺先生の方がよっぽど詳しい。初日に入間からそう聞いている。その神宮寺先生でも違法マイクによる長期の記憶喪失なんて診た経験がない。
俺の記憶が飛び越えた十数年の間に武器は根絶され、代りに精神に干渉するというヒプノシスマイクが新たな武器としての地位を築いた。銃で撃ったり刃物で切り付けるのとは違う、精神という見えない部分に斬り込む武器だ。気を滅入らせる不協和音なんかとも違う。マイクによる精神干渉によって相手を廃人にすることさえできる。そんな恐ろしい兵器だけど、技術の根幹は中王区の女たちが握っていて、男たちは詳細な仕組みも分からないままマイクを使って争わされている。
「今のところ、記憶が戻らないだけで左馬刻くんが何かに困っている様子もありませんし、治療を急ぐ必要がなければ現状の生活を続けて回復を待つ方が安全かとは思いますが」
先生の視線が俺の背後に投げかけられる。入間だ。俺は急がないけどコイツは別だ。
「その、記憶想起法というのは問題の違法マイクで再度干渉を行う手法も含まれますか?」
「はい。一番効果が期待できると同時に、一番リスクが高い手段です」
眼鏡の奥の鋭い目が壁に掛けられたカレンダーに向く。
「まだ非公開の情報ですが、再来月にはテリトリーバトルが再開予定との話があります。それまでに治らなかった場合は……」
「左馬刻くんの決断に沿った治療を行います」
入間の言葉を遮って告げ、先生は正面から俺と向き合った。
「ヨコハマの皆さんや仕事の都合もあるでしょう。ですが、記憶が失われていたとしても決定権は左馬刻くんにあります」
小児科の先生みたいだ。妹の付き添いで行った病院の。身長はこれまで会った誰より高いのに柔和で優しく微笑む。
「わかってます。もちろんですとも」
ため息交じりに入間が両手を上げた。
「他に打てる手としては……、例えば、過去に左馬刻と所縁のあった人物に会わせたりするのは構いませんね?」
「そうですね。とはいえ、火貂組やTDD以前のチーム関係者は……万が一、その中に左馬刻くんの足元を掬いたい人物がいたとしたら。そうした人に記憶喪失の件を知られるのはリスクが高い」
「売った喧嘩と買った恨みの数は本人でも覚えてないぐらいですからね。こちらで人選するのも限界があるでしょう」
「左馬刻くんに対するスタンスが明確で、すぐ連絡がつきそうな人、ですよね。例えば、飴村くんや……」
その名前を口にする時だけ先生の声のトーンが落ちた。言葉尻を拾う。
「山田一郎とか?」
俺と先生と飴村乱数と山田一郎は過去に活躍したMCチームだった。なのに俺がこの顔でその名前を言うのがよっぽどおかしいらしい。先生も眉尻を下げて「そうですね」と笑った。
「記憶が戻った時に左馬刻くんは嫌がるかもしれませんが、私からも一郎くんに飴村くんを誘って左馬刻くんと面会する場を作ってくれるよう言ってみます」
「そうですね、その方が良いでしょう。よろしくお願いします」
次の検診の予定は改めて、入間と先生のスケジュールで決めることを確認して診察椅子を立った。
先に出て行く入間を追って診察室を出る直前。振り向いて先生に尋ねる。
「一つ、いいっすか」
「はい」
「さっきの、ヒプノシスマイクで記憶を戻す方法でさ、上手くいったとして。今の、俺のこの一ヶ月の記憶ってどうなる?」
紫陽花色の瞳がすっと細められる。
「残るかもしれません。消えたり、部分的に損なわれて曖昧になるのかもしれません。今はなんとも」
だから君が決めていい、と言われている気がした。
「わかった。ありがとうございました」
再び夜間出入口から駐車場に向かう入間を追って診察室を出た。
@9
マンションに戻ってエントランスで自宅のインターホンを鳴らす。俺は自宅の鍵を持たされていないからだ。だけど待っても応答はなかった。
マンション前にはまだ入間が車を停めて、俺がマンションに入るまで待っている。二度鳴らして、仕方なく入間の車に戻った。
「まだ二郎は帰ってないみたいだ」
「ああ、こっちが予定より早く終わりましたからね」
一旦助手席に戻って車を駐車場に入れ、今度は入間と二人で降りる。入間は部屋の鍵を預かっている。
「一人で留守番できますか?」
「ガキ扱いすんじゃねぇよ」
マンションの部屋の前まで入間に付き添われて部屋の玄関で別れた。さすがにもう脱走する心配はされていない。
無人の部屋は静かだ。漫画も二郎が持ち帰っているから暇で、ネットで動画でも見ようと思ってノートパソコンを探した。一応棚の上に定位置があるんだけど、よく使うものはきちんと片付けられていないことが多い。テーブルの上や下を探してソファの下で発見した。二郎が何か使っていたらしい。ヘッドフォンがつなぎっぱなしだった。パソコンもシャットダウンされていない。兄貴が迎えに来るって言ってたから、出かける直前に何かやっていて、迎えが来て慌てて出かけたんだろう。それならテーブルに出しっぱなしでも良かったのに。ソファの下は埃っぽいから普段はこんなところに置いたりしない。何か隠してるんだろうか。エロ動画か?
ヘッドフォンについた埃を払って装着する。二郎が隠れて見ていたものに興味があった。別に男専門てわけじゃないらしいけど、実際に付き合っていたのは俺だ。でもアニメは主人公が可愛い女の子にモテるラノベ原作のものをよく見ている。じゃあエロ本やAVはどっちだ。よく考えてみると、これまで一ヶ月も過ごしたのにエロい話は一度もしなかった。向こうは俺のことをガキだと思ってるし。俺もそれどころじゃなかった。
今までそれどころじゃなかったけど、別に興味がないわけじゃない。考えてみると四六時中一緒にいても二郎が抜いていた覚えがないし、俺に完全に隠れて処理していたのなら、それはそれでエロい。
完全にエロと決めつけて邪な興味でパソコンを開いた。だけど、予想に反してインターネットブラウザは開かれていなかった。代わりに音楽再生ソフトで何かのファイルを再生途中で一時停止してある。ファイル名は日付みたいな数字の羅列だ。アルバム名とかアーティスト名も設定されていない。完全に肩透かしを食らった気分でシークバーを頭に戻して三角マークの再生ボタンを押した。
ヘッドフォンから流れてきたのは歌だった。それも、俺の声。聴いたことのない、少なくともヨコハマチームや神宮寺先生たちと組んでいた頃に作られたCDに収録されている歌じゃなかった。アカペラで、音質もいまいちでCDからコピーしたものじゃない。
カウントを取って歌いだし、最初はちゃんと詞が乗っていたのに途中からハミングや意味の繋がらないフレーズに変わった。曲を作っている途中に聞こえた。いよいよ言葉が詰まってくると、最後の方に発した単語を拾って新たな声が絡む。二郎だ。二郎が韻を踏んで歌いだす。でも中身はファストフードチェーンやラーメン屋の名前だった。リズムに乗せたらどんな単語でも歌になる。中身は腹が減ったヤツの悪ふざけなのに、意味を理解しようとしなければトリッキーでイカした音楽だ。
二郎の歌に絡めて俺も言葉を繋げ始める。最初の歌とは全く違うものだったけど。しばらくアカペラでやり合ってからキリのいいところで二郎が〆た。
『テメェ割り込んでくんな』
『ンなこと言いながらテメェも乗ってきたじゃねぇか!』
『はぁ……。俺は真面目にやってんだよ』
『全然捗ってなかったクセに』
『チッ。調子乗んなよクソガキ』
『あ?やるならこいよ。…………あ、待ってまだ録音してる』
そうしてシークバーの端まで来て音は途切れた。
なんだこれ。喧嘩して終わった。二郎は、俺にはこんな風に怒らない。音声の終わりに物のぶつかる音がしたから二人でヒプノシスマイクを取り出し、本格的なやり合いに至ったんだろうと思う。
多分、こういうのが本当の二人の日常だ。二郎や入間が言う通り、大人の俺は気が短いしすぐ喧嘩に発展する面倒な奴だった。大人の俺がどんなだったか聞くたびに悪口ばかり教えられるのも納得だ。でも、そういえば、二郎はそんな俺の短所を嫌いだとは言わなかったな。
無音になったヘッドフォンの向こうから小さく玄関の扉の音がした。いたずらの見つかったガキみたいに慌ててパソコンを閉じてヘッドフォンとまとめてソファの下に滑らせる。
「ただいまー!左馬刻、これ運ぶの手伝ってくれ」
呼ばれて急いで玄関まで行くと、三和土に大手通販会社のロゴの入った段ボール箱が二つ。持ってみるとずっしり重い。中身は漫画だった。
「おかえり。こんな重いのよく一人で持ってきたな。呼べば下まで迎えに行ってやったのに」
「玄関前までは兄ちゃんがついて来てくれたんだけどさ、なんか気遣ってくれてすぐ帰っちまったんだ」
「俺は二郎の兄貴のことなんとも思ってねぇのに」
それに、近いうちに山田一郎とは会うことになるだろうし。
「あー、それもあるだろうけど」
他に何があるんだ。
「俺らが水入らずで住んでる家だからって」
照れ笑いする。堪らなくて手が出た。抱きしめて、首元に鼻先を擦り付ける。大人の俺にもこんな風にはにかんで見せたりしたんだろうか。それとも、大人の左馬刻には見せない一面だったりするのかな。前に吐露した弱音みたいに。
帰ってきていきなりだ。スニーカーも脱いだばかりで、驚かせた。でも、ゆっくり背中に腕が回って後頭部の髪に指が潜り込む。なんだか慰められているみたいだ。シンジュクで先生に聞いた話も、今しがたのパソコンのことも黙っていたから、二郎にそんなつもりはないんだろうけど。
首元から顔を上げると、何かいい匂いがした。最初に二郎と会った病院の帰りにもかいだ匂いだ。手首。髪に絡んでいた方の手首を掴んで鼻を寄せる。
「犬みてぇ」
笑っていい匂いのする手で頬を撫でた。
「香水?」
「家で持ってくるモンかき集めてたら目に付いたから、ちょっとな」
「いい匂いだ」
服装は今朝と変わらないのによそ行きという感じがする。いつもと違うような。でも似合ってる。
八の字眉毛を僅かに寄せて微笑んで、二郎は自分の鼻の近くに手首を引き寄せてまつ毛を伏せた。
「いいだろ。左馬刻さんが前に使ってたのくれたんだ」
左馬刻さん。
「記憶なくても匂いの好みって変わんねぇんだな。つか、玄関先で何やってんだって話だよな。部屋入ろうぜ」
段ボール箱一つ持ってリビングに行ってしまう。
唐突に妹のことを思い出した。ある日におい付きの消しゴムを持って帰って、どうしたのか訊いたら仲良しの友達がお揃いにしたいからくれたんだと言った。妹はその友達に随分と気に入られていて、女子グループの中でそんなプレゼントをされたのが妹だけだったのを原因にちょっとした喧嘩になって落ち込んで帰ったこともあった。二人だけの特別が良かったんだって妹の友達は言っていたそうだ。あの時はバカバカしいと思ったが、それが友人関係じゃなかったなら。消しゴムじゃなくて指輪とか。匂いとか。それはつまり、俺のもんだって印だ。
アイツ、二郎はちゃんと分かってんだろうか。
段ボール箱には縦に二段詰めで漫画がぎっしり入っている。でも家主が読書家でないこの家に本棚はないから、要らない段ボール箱を持ってきて半分詰め替え一段詰めにして部屋の端に並べて置く。フリーマーケットの古本市みたいに。部屋が無駄に広いから邪魔にはならない。
アニメのソフトもいっぱいある。これはテレビの前に積んでおく。
見るものはたくさんあるけど、学校や仕事がないと暇な時間も多くてすぐ見終えてしまう。今日運び込まれた分も一ヶ月も経たずに読み尽くすだろう。
月末が近い。入間はテリトリーバトルが再開するまでには俺の記憶をなんとかしたいと思ってる。早ければ一ヶ月後には、入間達はヨコハマチームとして何らかの決断をしなけりゃならない。一ヶ月。この漫画やアニメを消化する頃だ。
手に取り掛けた本を置いて、夕飯の支度をする二郎を手伝いにキッチンに向かった。急いで読む必要はない。入間の都合なんか知るか。まだ俺と二郎には時間がある。
キッチンカウンターを回り込んで隣から二郎の手元を覗き、手に取ろうとしていた玉ねぎを横から拾って剥く。並べられた材料から察するにナポリタンスパゲッティと野菜スープだ。玉ねぎ、ピーマン、パスタにしめじにウィンナー。それから余りものの野菜とコンソメキューブ。
うちも、母さんが作るナポリタンはいつもウィンナーだった。俺が欲張って厚く切ってほしいと頼んでいた。二郎も親指ほどのウィンナーをざっくり三枚に切る。逆にピーマンは薄く。存在感を消すように薄く。
パスタだけじゃない。この部屋で食べた料理はアパートで妹と食べていた母さんの料理に似ていることが多かった。こうしてくれって言ったことはないのに。俺の記憶の限りでは。
フォークにパスタを絡めて先端でウィンナーを突き刺す。よその家の飯って気がしない。こういうのも支持的な環境ってヤツなのか。
「どうした?今日、病院でなんか言われたか」
「別に、なんでもない」
見つめていたケチャップ色の麺を口に突っ込む。
「何かあったら遠慮なく言えよ。銃兎の野郎がすぐ腹立つこと言うだろ」
それはある。あるけどわざわざ愚痴を聞かせるほどでもない。それより気になるのは、パソコンで聴いていた音源のこととか。
気にはなるけどわざわざ突っ込んでも藪蛇の気がする。保留だ。保留でいい。
代りに新しくパスタを巻き取りながら尋ねた。
「このウィンナー、大人の俺に言われてこういう切り方してんのか?」
「ウィンナー?」
二郎が自分の皿からウィンナーを見つけ出してフォークでつつく。
「これ?」
「そう。あんまりこんなデカく切らねぇだろ」
「ああ。お前んちはこれぐらいの大きさに切ってたんだろ?」
やっぱり知ってた。当然、情報源は大人の俺だ。
「……大人の俺にもこういうの作ってたのか」
付き合ってたんだから何らおかしいことはない。でも、未来の自分なんか他人みたいなもんだ。二郎に優しくされていたかと思うと面白くない。
記憶喪失の複雑な悩みを知らない二郎は首を横に振った。
「いや。いっぺんぐらいは作ったかな……。焼きそばはよく作ってたけど。パスタ作るときは左馬刻さんの方が変なこだわりあってさ、高いベーコンとか小さい瓶入りのオイルとか使って店で出せそうなヤツ作ってたぜ」
「俺も料理すんの?」
「人に作らせた飯食いたい時の方が多いみたいだけど、自分でも結構作ってたし上手ぇんだよな。俺にも材料費出すから高い食材買えとか言うし。パスタも、そういえばウィンナー使ったことねぇな」
金持ちで趣味が料理ってところか。イヤミな男だ。
「じゃあ、今は食費節約してるってことか?」
「そりゃ節約した方がいいんだろうけど。食べたけりゃ生ハムのパスタとか作ってやろうか」
生ハム。食べたことがない。美味いらしいから一度ぐらいは食べてみたいけど。こういう毎日の食卓に並んで欲しいかというと。
「いや、いい。普通の飯でいい」
「だろ?」
行儀悪くフォークの穂先をこちらに向けて二郎が満足そうにする。
「記憶がふっとんで知らない生活に放り込まれたんだから、飯くらいギャップないモンの方がいいかと思ってさ。つっても、左馬刻さんそんなに子供の頃の話しねぇからどんだけ碧棺家の味に近づけてるかはわかんなかったけど」
「それってさ、俺のため?」
「当たり前だろ。他に何があんだよ」
ずっと二人で飯食ってんだぜ。もっともなことを言われて頷いた。そうだ、二郎はちゃんと俺を大人の俺とは別に見てくれてる。そのことを思い出したらパソコンで再生されていた音源のことや入間の言うことが些末なことに思えてきた。我ながら現金だ。料理もさっきまでより美味く感じる。
ガツガツ食べる俺とは対称的に二郎は残り少しのパスタをゆっくりかき集める。
「…………ま、外食出来ない代わりに時間はあるし、たまには高い肉でも買って凝った飯作るのもいいかな」
「俺は別にいい」
「欲がねぇなあ」
二郎の方が良い飯を食べたかったのかもしれない。眉尻を下げて小さく笑う。
「高級品より二郎んちの家庭の味ってねぇのかよ」
二郎が俺のおふくろの味ってのを作ってくれるなら俺だって覚えたくて尋ねた。
「うーん、うちもとっくの昔に両親亡くしてるし、暮らしてた施設の飯は……受け継ぎたいようないい思い出じゃねぇしな。後は兄ちゃんと分担して作ってたし」
「じゃあ二郎の味が山田家の味ってヤツか」
「継ぐヤツがいねぇけどな」
男同士では一生二人きりだ。それも悪くない。うちの味はきっと妹が憶えているだろう。
食べ終わって皿を片付けようかというタイミングで二郎の携帯が鳴った。応対した時の反応が分かりやすい。兄貴だ。要件は病院で話していた件だろう。
積もる話は昼間のうちに済ませたらしく、電話はすぐに終わった。こちらを振り向いた二郎に先回りする。
「山田一郎と飴村乱数に会う日が決まったってか」
「なんだ、知ってたのかよ」
電話の間に先に立ってシンクで皿を洗う俺の向かいでカウンターの端に置かれた卓上カレンダーに予定をメモする。この部屋には元々カレンダーがなかった。大人の俺はスケジュールは全部携帯に登録して管理していたらしい。二郎も紙のカレンダーはあまり必要としていなかったけど。俺が携帯を使えないことや代わり映えない日々で日付感覚が狂うのを理由に、二郎が家から余っているカレンダーを持ってきて置いていた。
「兄ちゃんは別の用事済ませてそのままシブヤに行くっつーから俺たちはいつもの送迎車だってさ」
俺のお車係、入間か。警察の仕事が忙しそうだけど、俺に関する用事には時間を割く。そんなに記憶を戻したいってことだ。
あまり気乗りしないが仕方ない。見せられたカレンダーの日付を頭に入れて話を変えた。
二人で眠るようになってからは寝つきが良かった。深夜に起きることもほとんどない。
久しぶりに外出した日は尚更で、良い具合に眠気がやってきたから深夜のアニメ鑑賞もやめて布団に入った。二郎もついてきてくれて、腕に抱いておやすみを言った。
その夜更けに目が覚めた。部屋は真っ暗だ。起床時間には早過ぎる。
いつも一晩寝て起きる頃には腕から二郎が転げ出ていて隣に眠っているけど、深夜ならまだ腕の上に引っかかっていたりする。なのにちょいちょいと腕を動かしても体にも髪の毛にも手が触れなかった。二郎がいない。
頭が急に覚醒する。夜目が利かなくて手探りでシーツの上を探したけどやっぱりいない。便所か?そう思って扉を振り返った。窓からの僅かな光源を頼りに目を凝らす。扉は閉まってる。寝室に引っ込んだ時は開いていたのに。この家には二人しかいないし、二人で眠る時はわざわざ閉めたりしていなかった。
またアニメでも見てるんだろうか。一度は一緒に寝ると言ったのに。
ふと、脳裏にテレビの光を受けた白い横顔が思い浮かんでベッドを飛び降りた。アニメが見たいなら一緒に見る。少し寝て眠気も落ち着いたし、気が済んだら二人でベッドに戻ればいい。
大股で歩いて扉を開けた。大きなテレビモニターは寝室に向かって設置されている。だから扉を開ければまっすぐ光が差し込んでくるはず。なのに、リビングは真っ暗だ。
こっちはカーテンの閉め方が甘く、テレビがついていなくても月明かりで多少は室内を見渡すことができた。
真っ先に見たトイレのある廊下につながる扉は閉まっている。キッチンも静かだ。照明のリモコンの定位置であるローテーブルの近くまで来て、ソファの上にこんもりと毛布が山を作っているのに気が付いた。
ガキみたいだ。頭まで毛布を被って隠れたってそこにいるのはバレバレだ。
「おい」
声をかけると毛布の山がびくりと反応した。
「こんなとこで何やってんだ。寝るならベッドに来りゃいいだろ」
毛布の端が動いて頭が見えた。毛布にすっぽり包まったまま顔だけ出す。
「ご、ごめん。後から行くから先戻っててくれよ。ちゃんとそっちで寝るから」
早口に言って自分は毛布から出ようともしない。
「本当か?ンなこと言って、このまま寝るつもりじゃねぇだろうな」
「寝ない、寝ないから!」
何か隠されてる。焦ってリビングから追い出そうとしてる。
そこで唐突に昼間の音源が頭を過ぎった。俺の留守中に二郎が聴いていた、大人の俺と二郎の会話を録音したものだ。それをきっかけに毛布の下にヘッドフォンを隠してるんじゃないかって疑いが生まれる。夕飯の時には些細なことだと思えたはずなのに。大人の俺との思い出に浸るのは仕方ないが、隠さることに腹が立った。
どうしようもない嫉妬だ。毛布を掴んで引く。二郎も抵抗してますます毛布の端にしがみつく。頭側を引いても綱引き状態になってしまってダメというなら腰の方を引いてやればいい。速やかに引っ張り合いを放棄して、足で絡めているだけの腰側の毛布を掴んで一気に引っ張った。
「う、うわっ」
勢いで二郎がソファから転げ落ちる。それに先行して何かがごとりと床で音を立てた。ヘッドフォンじゃなかった。落ちてきた何かのチューブに被さる毛布と、その上に転げる白い足。
「いって…………あ」
床で腰を打った二郎が俺を見上げて、俺の視線がどこに向いているか気づいて慌てて毛布を巻き付け直す。下半身が、裸だった。
「違う、これは違うから」
何も言っていないのに。毛布で体を隠してソファの前で後ずさる。でもそんなんで誤魔化される程ガキじゃない。
「別にそんな慌てることねぇだろ。毎日一緒でゆっくり抜く暇ないのは分かってる」
「う、うん、だからちょっとだけ放っといて欲しいんだ」
了承しようとして、ふと立ち止まる。大人の左馬刻と寝ている時にも一人でベッドを抜け出してまでこんなことするんだろうか?
「な……なんだよ」
しゃがみ込んで毛布の足先の方を掴む。
「や、やめろって!」
着物の裾みたいに合わせて重なっているところを暴いた。股間のあたりは二郎が毛布を押さえるのが早くて隠されたままになったけど。太股に手を置いて二郎の顔に迫った。キスする角度で近づくと触れる前に二郎が仰け反って距離をとる。九十度分逃げて後頭部が床につくと逃げ場を失って顔を背けられた。
「アンタさ、大人の俺とヤってたんだろ?」
言葉で拒絶する代わりに両膝を強く閉じている。手で引いても足を開いてはくれない。
「大人の俺といる時でも一人で深夜にコソコソやってたのかよ」
「…………未成年に見せるモンじゃねーだろ」
「アンタが俺と知り合ったの高校生の時だろうが」
うっ、と呻いて横目でこっちを見た。
筋力は俺の方があるけど喧嘩じゃ未だに勝てない。やろうと思えば力づくで逃げ出して俺を殴りつけるぐらい出来るはずだ。そうしないのは完全にダメじゃないから。勝手にそう解釈する。
向けられた?に口付けた。次は口の端。何度かちゅっちゅっと吸いついて舌で唇を舐める。抵抗が緩んで顔が僅かにこちらを向いたのを逃さず、手で頭を押さえ込んで口元にかぶりついた。
キスはさせてくれる。舌を入れるようなのじゃないけど。眠る前にしても拒まれなかった。子供の俺のことを少しも相手にしたくないなら、それも許されてないはずだ。
大人のやり方なんか知らない。薄く開いた隙間から舌をねじ込んで、引っ込んでいる二郎の舌先を掠めたり、舌の届くところ手当たり次第に口内を舐める。
「んっ」
鼻から漏れた声に体の奥がざわざわする。頑なだった毛布を押さえる手に手を重ねて、撫でる。もっと俺にも許して欲しい。大人の俺にさせたことを。
この先、俺の記憶が戻るかどうかはわからない。ずっとこのままかもしれない。そうしたら二郎はいつまでも一人で自分を慰めて過ごすつもりなのか?俺じゃダメなのか?
しつこく舌を動かしていると逃げていた舌が控えめに応えた。ぬるりとして柔らかくて、舌同士擦れると気持ちいい。
必死にそれを追ううちに跨いだ膝が落ち着かなくなる。それと一緒にガードが緩んだ隙を逃さず毛布の下に手を突っ込んだ。寝間着のシャツはめくれ上がっていて、生肌に手が当たる。直に温かい勃起を握った。ちゃんと勃ってる。安堵して手を動かした。
俺はキスを受け入れてもらった時点で全て許されたような気になっていたけど、下半身を触られた二郎は正気に返ったみたいに俺の腕を掴んだ。
「やっぱダメだ!」
「何でだよ。またガキだからって言うのか?」
二郎は一度押し黙って、それから絞り出すように答えた。自分だって大人の俺にとってはガキだったから困る問いかけなんだ。
「……そうだよ」
「じゃあ、もし俺があと三年このままだったらどうする?」
肉体はとっくに大人だけど、頭は十四歳。三年経過したら十七歳。二郎が大人の俺と出会った歳だ。
「三年なんて……」
記憶喪失のままいるわけない、と続くのを聞きたくなくて遮った。二郎は入間なんかとは違うと信じてたから、一番言って欲しくなくて。
「わかんねーだろ!」
一度吐き出すと腹に溜め込んでいたものが堰を切ったように溢れてくる。
「三年ぽっちの話じゃない。先生だってこの先どうなるか分からないって言ってた。何もしなかったら一生このまんまの可能性もある。もしそうなら、俺は、これから仕事のこと勉強して大人みたいに食い扶持稼げるようになって、この時代ではマイクが使えなきゃやってけないって言うのならそっちも強くなって……。ちゃんと、この時代で生きていくつもりなんだよ!」
叫んだ。言ってしまった。恐らくこんな風に一生なんて言ったのは初めてだ。勢いに脅えたみたいに二郎の表情が歪む。
「これでも真面目に、将来のこと考えてんだよ。叶うなら、アンタと生きたくて……。それでも、アンタも俺に記憶を取り戻して欲しいって言うのか?!」
怒鳴るつもりなんてなかった。前に怒鳴ってしまった時のことは忘れてない。でも半ば怒鳴りつけるみたいになってしまった。性的な興奮と怒りは色が似てる。おかしな勢いがついて、上手く止まることが出来ない。
疑問形のクセに答えなんか聞きたくなかった。勢いに押されて固まってしまった口を塞いで、強めに握ってしまった手を緩め、宥めるように優しく動きを再開した。
腕を掴んでいた手が解ける。代わりに俺のシャツの胸の辺りを握り締めた。胸を押し返そうとしたようにも、しがみつくみたいにも見える。少なくとも明確な拒絶じゃないから無視した。
手淫で先端が潤んでくると、じんわり浮いてきた体液を指で塗り伸ばして鈴口を擦る。
「ん、うっ、あっ」
小刻みに甘ったるい声が漏れる。自分のことも触って欲しくて服をずり下げ、二郎のものに擦りつけた。
体が大人ってことはこっちも大人だ。自分のものじゃないような色形をしてる。毛の生え具合も子供の体とは違うし、誰にも言わないけど、こっそり風呂で扱いてみたこともある。記憶がなくても体の機能が損なわれてるわけじゃない。股間を見下ろして、コレで二郎と抱き合ってたのかと思ったら難なく勃起した。その時はこんな風に迫る予定はなかったけど。
二本のちんぽが擦れるとそれだけで興奮する。俺はゲイだったわけじゃないのに。
だけどそこから先はどうしたらいいのか分からない。扱いて射精すりゃいいのか。順番に?一緒にイクってことが出来るのか。それから後は?
なんとなく、男同士でも挿入出来ることは知ってる。前に二郎が抱かれる側なんだろうと揶揄った時にも否定はされなかったし。大人の俺が許されていたことは俺もやらせて欲しい。
体を伏せて薄っすら筋肉の浮いた腹にちんぽを擦り付けた。髪の張り付いた首を吸って耳の下まで這い上がり、傷ひとつない耳殻に歯を立てた。
「なあ、教えてくれよ。後はどうしたらいい?」
二郎が振り向くと耳が逃げていく代わりに?が目の前にきて節操なく啄ばんだ。
「マジでやんのかよ。お前、男が好きなわけじゃねぇだろ?左馬刻さんだって俺と付き合うまで女ばっか相手にしてたんだぞ?」
「うっせーな。俺はサマトキサンと違って女覚える前にアンタと出会ったんだよ。きっとアンタのサマトキサンだって、俺ぐらいの歳でアンタと会ってたらそうしてる」
「……左馬刻さんが中学の頃なんか俺、小学生か、最悪保育園だぜ」
妹より歳下だ。確かに小さな頃の二郎が目の前に現れても世話を焼くのに手一杯で、十数年を待って恋人になりたいとは思わなかったかもしれない。
でも、俺は十四歳の頭でここにいる二郎は二十歳だ。
「細けぇこと言うなよ。俺は今、この歳でアンタと知り合った人生をやり直してんだ」
もしこのままいつまでも記憶が戻らないなら、消えた人生の半分の時間。大人の俺が好きでもない女と過ごした時間を二郎と過ごして埋めたっていいだろう。
「俺だってアンタの左馬刻だ。別人なんかじゃない。記憶がなくなっても、ちゃんとアンタを選んだんだよ」
だから大人の左馬刻と同じように愛して欲しい。
胸のあたりでシャツを握り込んでいた二郎が明確に肩を押した。拒絶を受け入れられなくて腰を抱きしめる。
「違うって。床じゃ体痛くなるからベッド行くぞ」
「……逃げるんじゃないのか」
「逃げねぇよ。心配なら手繋いで行くか?」
俺は本気にして頷いたんだけど冗談のつもりだったらしい。二郎がちょっと笑った。
「今こっちにゴム置いてないからどのみち寝室行くことになるし。ほら、どけよ」
やんわり押されて腰の上から退いた。先に立ち上がった二郎は本当に手を差し伸べてくれて、ベッドまで手を引かれた。
「後は、俺が全部やるから。仰向けに寝てろ」
一緒に広いベッドに乗って、二郎はベッドの上からベッドサイドテーブルの引き出しを開ける。暗くて見えないけど何か取り出した。
見たいのに見えない。
「なあ、電気つけたらダメか?」
何かをカサカサやっている途中で頼むとベッドの枕元に投げてあるリモコンで照明をつけてくれた。一番暗い、オレンジ色の光がぼんやりと室内を照らす。
「あんまり明るいと恥ずかしいからこれで我慢しろ」
薄暗くても何をしているかくらい見える。二郎の指が俺のちんぽに触るのも、先端から丁寧にゴムを被せて、黒いチューブから絞り出したものを塗りつけるのも。
「俺、本当に何もしなくていいのかよ」
「うん。今ならすぐ入るから」
さっきとは逆に二郎が俺を跨ぐ。腰を浮かして、ちんぽの頭の方を掴んで尻の谷間にあてた。
「……つっても久しぶりだからちょっとキツいかな」
俯いた二郎の顔に影ができた。表情が分からない代わりに息を詰める気配や、努めてゆっくり呼吸するのがわかる。
腰が降りてくる。手でやるのなんか比じゃない。ぐっと押し当てられた穴に入り込み始めると狭い輪にゆっくり扱かれる刺激で頭の奥で白い光がパチパチ弾けた。俺の方が呻いてしまいそうで口をひき結ぶ。
時間をかけて頭が飲み込まれたあたりで一度止まって、僅かに体を前傾にして角度を調整すると更に根元近くまで。大部分が尻に収まると苦しいのか、細く息を吐く。一方の中は内壁が絡みついて、根元の近くで不規則にぎゅっぎゅと締め付けられる。経験のない気持ちよさで今にも出してしまいそうに思うのに、まだダメだと思えば思いの外我慢が利いた。
射精を我慢できても未知の感覚を上手く処理できるわけじゃない。出し入れして強い刺激を追いかけたくて、半分無意識に両手で尻を掴んだ。その腕をやんわり掴んで止められる。
「まだダメだって。もうちょい我慢、な」
吐息交じりに言われたら余計に我慢がキツくなるってもんだ。
山田二郎って男は顔は艶があって美人だけど、言動も作る飯も大雑把で、健康的に明るく笑う。ずっと四六時中、それこそ眠るときまで一緒にいたのに、こんなエロい顔するなんて思ってなかった。
これまでは二郎の内面が良くて大人の俺も惚れ込んだんだろうって思ってた。女だって選び放題だっただろうに、ヤクザでも最終的には精神的な拠り所を選ぶんだなって。もちろんその予想は正しいに違いない。だけど、男の恋人を選んだからってセックスに妥協したわけじゃなかった。
休憩を終えてゆるゆる腰を上下させ始める。ガツガツ動きたい欲求を溢れさせて溺れさせるみたいに中がうねる。フチは搾り取ろうとするみたいにぎゅっぎゅっと締めつけてぱんぱんに膨れた陰茎を扱き上げる。
鼻にかかった気持ちよさそうな声や、腰が浮いた時に見える挿入部のシルエットもヤバい。セックスに慣れた大人の体でも精神の若さのせいか、早々に果てるのは避けたかったのにどうにもならなかった。
俺が無理やり腰を揺すったことで我慢の終わりが近いのを悟った二郎が俺の太ももに触れて膝を立てるよう促す。
「ちゃんといい子で我慢したもんな。ほら、動けよ」
浅いところまで抜いて唆された。もう何も考えられない。脳みそを働かせる血液全部下半身に奪われたみたいだ。
手加減することも忘れて強い力で掴んで固定した尻を突き上げる。多分俺だけが気持ちいい角度で。乱暴だったと思う。夢中で腰を振っている間に降ってきた悲鳴じみた喘ぎが快感だったのか痛みだったのかも憶えていない。自分のことばっかりで。この尻の中にぶちまけたくてめちゃくちゃに動いた。
結局あまり長くはもたなくて、なるべく深く入るよう押さえつけて動きを止めた。たくさん我慢した後で射精管を精液が駆け抜けていく強烈な快感。
いつの間にか汗が浮き出た額を二郎の手が拭う。それを捕まえて手のひらに頬を擦り付けた。ちょっと辛そうだけど、シーツについた手を支えに姿勢を保って心配そうにこっちの様子を伺っている。
抱かれ慣れてるんだ。今やっと実感を伴って理解した。もちろん最初からこうだったわけじゃないだろう。大人の左馬刻が時間をかけてこんなエロく仕込んだんだ。
充足感と、多少冷静さを取り戻した頭で大人の自分への嫉妬が再燃してくる。
ハメたままの下半身は芯を失って、ちょっと二郎が動いたらあっけないほど簡単に抜けて、伸びて脱げかけたゴムがぺたりと肌に張り付いた。
後始末の正しいやり方は知らないから適当にとったティッシュで包んで丸める。何でもかんでもやってもらうのが情けない気がして気怠い体を動かし率先してやった。
ひと段落して見ると、二郎の方は射精した痕跡もないのに半ば萎えている。
「悪い、俺ばっかり……」
「別にいいって」
穏やかに笑って、でも疲れた様子で二郎が隣に体を横たえる。いいって言われたって気にするに決まってる。重力に従って頭垂れたそこに手を伸ばしてやり直そうとした。二人とも満足しなきゃフェアじゃない。
だけどストップをかけて腕を背中に誘導された。素直に抱きしめる。首元に二郎が顔を伏せて温かな吐息が鎖骨のあたりにかかった。顔が上向く。キスをする。最初は軽く触れて、忙しなく呼吸していたせいで乾燥した唇に舌を這わせた。舐め濡らしていた唇の間から舌が覗いて誘われて食らいついた。口なんて日常的に食べ物が通過する場所だ。それが他人と舌を絡めるとこんなに気持ちいいなんて、人間をこういう風に作った奴はド変態だ。
性懲りもなく下半身が落ち着かなくなってきて、二郎の腰を引き寄せた。まだ拭い足りなくてべたべたの股間を押し付けると、二郎の方も俺の足に足を絡めて密着する。
背中を背骨沿いにくだる。尻のふくらみに差し掛かって谷間に指を忍ばせた。指の腹でヒクつく穴を撫でる。たった今この中の味を覚えたばかりだ。自分ばっかり、なんて言いながら再び犯したくなって腹の底が疼く。自分のガキさ加減が嫌になる。
そっと深呼吸して尻から手を離し、二人の体の間で二郎のちんぽを握ろうとした。
「いいってば」
二郎のためにやろうとしていたことなのに頑なに断られると意固地になる。
「よくねーんだよ。アンタも気持ちよくなってくんないと」
「だからさ」
俺の腕を引いた二郎がシーツの上を転がって仰向けになった。見下ろすポジションで、泣きぼくろの甘い目元に誘惑される。
「今度はもうちょい優しくしてくれよ」
もう一度やれるならって。当たり前だ。今度こそちゃんとする。俺は大人の俺よりアンタを大事にするって決めてんだ。
早起きは二日も続かなかった。
起きた時には随分と陽が高くて、ベッドには俺一人だった。先に起きて何でもしてやるつもりだったのに。
転げ落ちるようにしてベッドを降り、寝室を飛び出した。キッチンにはいない。姿を探す鼻先に煙草の匂いがして視線を左から右に振った。
ベランダで青い空を背景に煙草を咥えた二郎が振り返る。眠った時と同じシャツと下着だけの格好で、まだ大分長さのある煙草を携帯灰皿に押し付けた。
「おはよ」
ベランダから戻って掃き出し窓を閉める。喫煙道具一式はまとめてキッチンの奥の方にしまい込んだ。
「煙草、二郎も喫うのか」
「いいや?超レアだぜ」
茶化して朝の支度に向かおうとするのを捕まえて抱きしめた。
「なんだよ。着替えとってきてシャワー行くだけだって」
「うっせぇ。ちょっとじっとしてろよ」
自分の思い通りになったはずなのに。望んだとおり受け入れてもらって、一夜明けても二郎はここにいるのに。ちっとも手に入った気がしない。
顔を寄せると素直に目を伏せてキスさせてくれる。今朝は煙草の味だ。大人の俺の味だ。
@9.5SS
住み慣れた他人のベッド。背中にフィットする他人の体。逃げようなんて思ってないのに腹に絡む腕。服の上から下腹を掠める指。
気づかれないよう詰めた息をそっと逃がして骨ばった手をつかんだ。
「ん?」
今日は起きてる。半分だけ身を捩って顔を向けた。
「あのさ、コレ、癖なのか?」
コレ。掴んだ手の甲を指先でトントン叩くが、通じなかった。
「コレってなんだよ。今何かやったか?」
「無意識かよ……」
この間は半分寝ぼけていて振り返っても起きなかったからそうかもしれないと思ってた。
「今、俺の腹のあたり触ったろ。ちょっとだけ」
布団の中から手を掴みだすと、サマトキは自分の手を暖色の薄暗い照明に翳して人差し指の先で親指の腹を弾いて「ああ」と頷いた。
「これか。たまたま当たっちまっただけだろ。最近爪伸びてんのに噛めてねぇから」
「爪?」
宙に浮いた手を引き寄せて触ると、確かに伸びすぎだ。
「爪噛み癖なんかあるのか」
「大人の俺はもう治ってんだな。俺もだせぇから止めたいんだけどさ」
本気で気にしている様子で頻りに親指の腹に人差し指や中指の爪を立てている。
ガキの頃は、昔暮らしていた施設や小学校では何人も爪を噛む子供がいたように思う。三郎だってやっていた。俺は爪の間にシャーペンの芯を突っ込んだり外を走り回って泥を詰めたりしているような子供だったから自分がやった記憶はないけど。
爪を噛むのはストレスや精神不安が原因と言われている。一時期、三郎の爪噛み癖がひどかった時、小学校の保健室で養護の先生に言われたことがある。大抵は大人になるにつれて治っていくものだって。大人になると、爪を噛む以外にもやれることが増える。みっともないと思うかもしれないけれど、やめられないうちは爪を噛むことで自分のバランスをとっているから無理にやめようとしなくてもいいんだって。
サマトキは、中身はまだ中学生だ。家庭環境は複雑だし、今はもっとややこしい状況で見ず知らずの俺となんとか暮らしている。そりゃストレスだって溜まるし不安は尽きないだろう。
「別に女みたいにネイルやったりするわけじゃねーんだからなんだっていいと思うけど。つか、噛んでねーじゃん」
触った爪は表面が少しザラついているところがあるくらいで、生えて伸びたままの滑らかな形を保っている。
「だから噛めてねぇんだよ。無意識に口に持ってって歯当ててるんだけど、歯ごたえっつーか、何か違和感があって気が付くんだ」
「へぇ。それで伸びたけど爪が伸びてる状態も慣れなくて爪いじりしちまうのか」
「言われるまで気づかなかったけどな」
イヤな偶然だな、と思う。大人の左馬刻は意図的にやってた。こうしてベッドに横になっているときや、並んで座って腰を抱き寄せるとき。偶然みたいな軽さで下腹に触る。そういうのが合図の一つだった。指一本でスイッチを押されてしまうのか、やることがなくなった暇にふっと芽生える欲求を見透かされて俺が自覚するより先に指で指摘されていたのか。唆されて顔を向けると待ち構えたように口を塞がれる。
パブロフの犬ってこういうのを言うのかな。抱き締められて下腹を掠められると、相手の中身が何も知らないガキと知っていても体が落ち着かなくなる。
大人の記憶はないんだから、サマトキにそういう意図がないのは分かってた。でも、大人の左馬刻との暗黙の了解を教えたら、次からは無意識じゃなくなるかもしれない。
目を背けきれない期待が頭をよぎって自分が嫌になる。教えたいって思ってる。少しでも、些細なことでも大人の左馬刻に近づいて欲しくて。
最悪だ。
大人しく観察されていた指が悪戯に動いて下唇を押した。柔らかさを確かめるようにつついて、中指と揃えて口を開くよう明確な意思で下に押すから素直に指先を迎え入れた。
自己嫌悪も反省も後だ。良くないことだとは思ってる。でも、同じ部屋で暮らしながら何にもしてもらえない時間が長すぎた。
不安を紛らわすために爪を噛むヤツ。煙草が手放せないヤツ。そういう連中と一緒だ。何も考えたくない瞬間、体が欲しくなる。
乾いた指を唾液で濡らして指紋のざらつきや爪の舌触りに集中した。
喧嘩ばっかりしているわりには傷のないきれいな指だ。喧嘩といっても拳で殴るよりマイクを握る方が多いからか。爪も。
大人の左馬刻はマメに爪を切る男だった。たまにしか会わない頃は爪を切る姿を見てもそんなものかと思っていたけど、頻繁に部屋に上がり込むようになると、ちょっと神経質なんじゃないかと思うようになった。今振り返ったら爪噛み癖の代わりだったのかもしれないと思うけれど。
唇の間の指が動き出す。唾液を潤滑剤にして濡れた粘膜と乾いた皮膚の境目を擦って出し入れする。その途中で爪先が上顎を掠めた。その時だ。爪が伸びている、そのことを意識したのは。
深くねじ込まれた指を掴んで、まぶした唾液を吸い取りながら口から完全に引き抜く。
「爪、切るぞ」
「今からかよ」
完全にエッチになだれ込むつもりだったのに水を差されて不満げに絡んでくる腕を振り払い、リビングから爪切りをとってきて、ベッドに座ってサマトキの手をとった。暗くて失敗しそうだから明かりも付けた。
文句を垂れていたサマトキも切ってもらえるとなると大人しくなる。世話を焼かれるのは好きみたいだった。
「アンタさ、大人の俺にも甲斐甲斐しく爪切ってやったりなんかしてたのか」
「いや、俺が気にするより先に自分で切ってたよ。軽く深爪なくらい」
「じゃあなんで急に」
俺もなんで、って思ってた。それで訊いた。しょっちゅう爪切ってるよなって。そうしたらさ、
「お前が大人になったらわかる」
そこにどんな御大層な理由があるんだと思ってたんだよ。今まで俺は傷一つつけられたことがなかったからさっぱりわからなかった。
こんな理由かよ。一人で笑っちまってサマトキが怪訝そうにした。
でも今は教えない。いつか、このままずっと記憶が戻らないとしたら話す時が来るかもしれないけど。まだ一人で些細な思い出を噛みしめておくよ。
@10
問題、ある2数の和は12で、大きい方から小さい方を引いた差は16である。この2数を求めよ。
「…………これはアレだよ、アレ。xが出てくんだよ。んで、だい…代理方程式……みたいな……」
「連立方程式って書いてあンぞ」
「それ!それだよ。なんかいっぱい式書くんだよ確か」
「x+y=12でx-y=16だってさ」
「そうそう!それを上手くやると答えが出る!」
「おう」
「………………」
「で?」
「…………待てよ、今三郎に電話すっから」
十四歳も二十歳も学力はどっこいどっこいだ。電話口で二郎をバカにしつくしている十七歳が一番賢い。つまり、勉強の出来に年齢はあんまり関係ないってことだ。
急に年相応の勉強を始めたのには理由がある。いや、これまで学校の勉強をせずに来たことにも理由があった。簡単な話だ。
周りの誰もが記憶喪失の長期化を真面目に考えていなかった。どうやらヒプノシスマイクによる攻撃が原因でちょっとした意識混濁や昏倒、短期的な記憶の混乱をきたすことはよくあるらしい。今回の件であらゆる判断を引き受けている入間も、まさか俺が一生このままとは思ってない。中身が中学生だからって中学校の勉強をやらせたところで、記憶を取り戻したら無駄。せいぜい暇つぶしや日々の生活が堕落するのを防ぐ程度の役割しか果たさない。
その上、世話係の二郎も勉強は大の苦手だった。そんな二郎が勉強を勧めてくるはずもなく、一日何時間と決めて数学や国語を勉強する代わりに、毎日ラップの音源を聞き込み、フリースタイルバトルの録画を見て、ヒプノシスマイクなしでのバトルの模擬戦や物理的な喧嘩の訓練、筋トレ。意外と規則正しく過ごしていた。
じゃあなんで今更数学なんかやっているのかといえば。やくざになるために何すりゃいいのか、やくざに詳しい不良警官に聞いたらこう答えたからだ。
「金勘定」
俺たちは絶句した。喧嘩の腕を磨くだの、水商売の店を回って顔をつなぐだの。そういう仕事ばかり想像していたからだ。やくざと年単位で交際しているはずの二郎でさえ数学をやれとは言わなかった。
「……いや、確かに。パソコンで数字がいっぱい並んだファイル見てたことあったな」
「マジかよ。あのパソコン、動画見るためだけのもんじゃねぇのか!」
どうも忙しい時にメールしてしまったらしく、金勘定の詳細を尋ねても入間からそれ以上の返信はなかった。仕方なくネットで検索したら簿記だの勘定科目だの税金だの。どこから手を付ければいいのかわからないようなページがずらりと出てきて二郎の弟に泣きついた結果、普通に中学の勉強からやれと言われて弟の使っていた教科書を渡されたわけだ。
ちなみに、渡された教科書は新品のようにまっさらで裏表紙の名前以外に書き込みは一つもなかった。ノートは数学ドリルの解答集みたいに淡々と式と答えだけが書かれている。先生の説明をメモしたりマーカーを引いたり赤ペンで色分けをしている部分もなかった。
「三郎のヤツ、中学の勉強なんか授業聞いてなくても分かるから必要最低限しか書き取りしてないんだってさ」
忌々し気に舌を出して吐き捨てる。厭味ったらしい天才児だ。次男の学力を根こそぎ奪って生まれたとしか思えない。
中学の勉強なんか教科書を読んだら先生の解説なんかなくたってわかる。というのも山田三郎の言だが、
「えーと、これをxに代入して…そうするとyだけの式が出来るから……ん?んー?」
「なあ、ここでプラスとマイナス変わってんのおかしくね?」
「確かに」
あっという間に問題は迷宮入りした。そしてまた天才児に電話をかけると今度は怒鳴り声がこっちまで聞こえてくる。
『このバカ!お前が小学校からやり直せ!バカ!』
「うっせ!バカバカ言うんじゃねぇよ!」
勉強は捗らなかった。学校は好きじゃなかったけど、みんな一律に計算や読み書きが身につくよう教え慣れた先生が指導してくれる環境ってのは大事だったんだ。失って初めてわかるありがたみってヤツ。十四歳にして義務教育の価値を思い知った。
学校に通えない状況下、大人として金を稼いで生きていくための計画は思うほど簡単じゃなかった。早速憂鬱になる。
「はぁ……なんかこうして意味わかんねー勉強してると動き回ってるより疲れる」
「わっかる」
深い同意を得たところで二郎の携帯が鳴った。自習タイム終了の合図だ。
二郎が入間からの電話に出るのを横目にノートと教科書を閉じた。勉強はまたやるからまとめてテーブルの端に積んでおく。
「到着したってよ」
頷いて一緒にマンションを出た。建物前で待機しているいつもの車に乗り込む。
今日の行先はシブヤだ。
「20-01」
「19」
「35-27」
「じゅう……」
「8」
「はち!先言うんじゃねぇよ!」
「引き算も満足にできてないくせに文句は一丁前ですか」
「ちっと時間かかっただけだろうが!」
すれ違う車のナンバープレートを二郎が読み上げる。それを引き算する。二桁の引き算ぐらい楽勝だが、うっかり詰まると運転席の短気な男が口を挟んでくる。大人気なく頭の良さを見せびらかしやがって。
「勉強するってのは一応本気だったんですね」
「一応って言うな」
「四日以上続いてからもう一度言ってください」
クソ。こっちは大真面目だってのに、勉強のことも大人として仕事をすることも、全部本気にしていないようだった。後部シートから運転席の背中を蹴るとやくざ顔負けのドスを利かせて怒られる。
「そうからかってくれるなよ。俺らなりに真面目にやってんだ」
「俺ら、ねぇ」
控えめに、嫌な絡み方をされたけど二郎は聞き流した。
「今日、兄ちゃんに時間あったらちょっと勉強教えてもらえねぇかなあ」
「弟に教わってるんじゃないんですか?」
「アイツは頭はいいけど人に教えるタマじゃねぇんだよ」
「一郎くんは今日は朝からシブヤで仕事だと聞いてますけど、面会の後にも予定があるとは言ってなかったんで大丈夫じゃないですか?」
「じゃあ帰りは兄ちゃんの車でうちの方寄って帰れっかな」
「左馬刻もその車に乗せるつもりですか?」
「どうせこれから会うんだし良くね?」
助手席から振り向いた二郎に「なあ?」と同意を求められて首を傾げた。俺は二郎と一緒ならなんだっていい。どうせ初対面の人間だ。これから会う二人、山田一郎も、飴村乱数も。
大人の左馬刻が数年前にチームを組んでいたという二人に会いに行く。元チームメイトはあともう一人。神宮寺先生を入れて四人だけど、先生は都合がつかないから欠席と聞いている。
目的はもちろん俺の記憶を戻すきっかけ作りのためだ。懐かしい友人に会ったとしてもそう簡単に記憶が戻るとは思えないが、入間としては何もしないよりはマシなんだろう。大人の俺はヤクザで敵が多く、記憶を失っていること自体隠しているせいで過去に親しかった人間との接触も慎重にならざるを得ない。そこで二郎とも直接繋がりがあって信頼のおける山田一郎と、一郎経由で約束を取り付けることができた飴村乱数と面会することになった。
窓の外は知らない街並みだ。シンジュクの病院以外、同じ場所へ二度行くことはない。新鮮に未来の街を見つめるうちに目的地に着いた。シブヤディビジョンでデザイナーをやっている飴村乱数の事務所だ。
デザイン事務所なんて初めて来た。他にもいくつかテナントの入ったシンプルな商業ビルのワンフロアだが扉からして装飾が施され、そこらへんのお堅い事業所とは違うのが一目でわかる。
場違いな気がして気後れしながら扉を開けた。
「ちっす……」
中は扉以上だ。壁もインテリアも、ピンクに黄色に水色に紫。色の洪水で落ち着きがない。事務所の主を探すより室内に目がいく。
こんなところで仕事するヤツの気が知れないが、ファッションデザイナーらしくマネキン人形や、服屋にあるようなラックにハンガーで洋服が何着もかけてあるのが見える。
服なのかただの布なのか不明なものがかけられたパーテーションの奥から「はーい」と軽い返事があった。
奥へ進もうと連れを振り返ると、入間が二郎の立ち襟パーカーのフードを捕まえてにっこり笑う。
「お先にどうぞ。昔みたいに仲間と過ごす時間を体験してみてください。我々は少し待ってから行きますから」
「何勝手に……」
二郎が文句を言っても入間はお構いなしで事務所の外に引っ張り出した。
「その間に定期報告を聞いておきますから」
「……何か企んでんのかよ」
「テメェは俺のこと何だと思ってんだ?……ああ、知らない大人に囲まれて一人じゃ心細いから付き添いしてほしいんですか?」
「勝手にこいてんじゃねぇよ!二郎におかしなこと吹き込むんじゃねぇぞ!」
事務所から出た入間の眼鏡をぶち割るつもりで全力で扉を閉めてやった。
「そんな乱暴にしたらダメダメだよ??」
「うわっ」
背中に衝撃があって子供みたいな腕が腹にしがみついてくる。振り払おうと勢いつけて振り向いても駄目だ。低い位置で、やっぱりガキみたいな顔した飴村乱数が笑顔で見上げていた。
「こんにちは、サマトキくん!乱数お兄さんだよー☆」
ウィンクでまつ毛の先から星が飛びそうな男だ。確か二十台後半のはずだけど、見た目は中学生並み。だけど中学校の同級生にこんなのが混じっていたら完全に浮く。ピンク色の髪とかファッションセンスの問題じゃなくて、雰囲気が、やっぱり本物のガキとは違った。ふざけた態度だけどこれでもテリトリーバトルの本戦常連。 FlingPosseのリーダーだ。
「うっぜぇ!飛びついてくんじゃねぇよ!放せ、クソッ!こっちはテメェと仲いい記憶ねぇんだからな!」
「えー!僕の知ってる左馬刻と反応一緒だよー?」
「知るかよ!いいから放せ!マジでぶん殴るぞ!」
体を激しく揺すっても上手に周囲の物を避けながらまとわりついてくる。当たってもいいと思って腕を振り回しても、コイツは慣れてやがる。シャツを掴んで踊るように回り込み、俺の肘を避けて正面から抱き着いてきた。
「わー、左馬刻なのに全然煙草のにおいがしなぁい!」
「当たり前だ!大人の俺と一緒にすんじゃねぇ!つか、マジで離れろ!」
「乱数、いつまでやってんだよ」
落ち着いた声で部屋の奥を振り返った。二郎と色違いのオッドアイの背の高い男がパテーションの角から呆れた様子で顔を出した。
山田一郎。ホンモノだ。
「へへー、左馬刻ってばおもしろいんだもーん!今左馬刻の分もコーヒー淹れるね!」
脇を横切って跳ねるように奥へと戻っていく乱数を見送って一郎が俺を見る。黙って難しい顔をしている。怒ってるようにも見えるし、哀れまれているようにも見えた。大人の俺とはライバル関係にあった男だ。入間はブラコンだって言っていたし、二郎とのこともよく思ってないだろう。
こっちからしたら映像の中で見るばかりの人気ラッパー。有名人との対面だけど向こうは間違いなく俺を疎んでいる。無意識に唾を飲み込んだ。
「二郎はどうした」
一郎の俺への第一声はそんな質問だった。
「外で入間と話してから来る」
「……そうか。突っ立ってないでこっちで座れ」
顎でしゃくられて奥の応接セットへ促された。テーブルには多すぎるほどの茶菓子。かしこまった客に出すような菓子じゃなくて、夢見がちな女の子の描いた絵みたいな。キラキラした包みのキャンディーやカラフルなマシュマロやチョコレート。甘いものが、これまたかわいらしい大皿に溢れんばかりに盛られている。それを囲んでカップが二つ。そこに新しく湯気の立つカップが置かれた。男ばかり四人で結成していた最強のMCチームの会合には見えない。
「今日は左馬刻の記憶復活祈願!昔を再現パーティーだから一郎の隣でいいよね?」
そう言ってカップで席を指定される。一郎は「パーティーじゃねぇよ」と面倒くさそうに言うだけで、俺が座ること自体は嫌がらなかった。だから俺も黙ってそこに座る。そうするとそれだけで二人の注目が集まった。
「な、なんだよ」
俺の視線を避けるようにして顔を背けた一郎に代わって乱数が首を振る。
「なーんでもないよー!」
「…………」
ニヤニヤしてやがる。何かのひっかけだったんだろうか。本当に記憶がないのか試されてたとか。疑い始めるとなんでも疑わしくなる。カップの中のコーヒーも、テーブルの真ん中に用意された大人の集まりに不釣り合いな菓子の山も。素直に手を付ける気になれなくて睨んでいると、乱数が場を仕切り始めた。入間不在の間はガキみたいな変人でも率先して喋ってくれる人間がいるのは助かる。
「今の左馬刻って中身は中学生なんだよね?」
「ああ、アンタらのことはライブの映像で見ただけで、完全に初対面の気分だぜ」
「そっかそっかー。じゃあラップもできなくなっちゃったの?」
「今練習中。バトルも、マイクなしで二郎と模擬戦やってる」
「へぇ!いいねいいねー!知らない自分のステージ見るってどんな感じ?やっぱ俺が一番カッコイー!って思うの?」
「どんなって……自分より低い声で知らない曲歌ってるとこ見りゃ自分だとしても他人みたいなもんだよ。それにどっちかっつーとスタイルならMC.B.Bの方が……」
言った途端に乱数が噴き出した。さっきまでの無邪気を装った笑いじゃなくて、人間誰しも腹が捩れるようなことがあればこうして笑うだろうって感じの本気の爆笑だ。
「ヒィッ、ハハハハハハハハ!さ、さまときが一郎を……はぁ、ほ、ほめたぁ……!」
「な、なんだよ!そんな笑うことかよ?!」
そこまでヤバいことを言った自覚がなかった。仲が悪いことは知ってるが、ライブ映像なんか見る限りじゃ一郎を相手にした俺は楽しそうにも見えた。いがみ合っていても好敵手って奴なのかと思ってたんだ。その俺が一郎を認めるのがそんなにおかしいことなのか。
向かいで腹を抱えてソファに転がった乱数に見切りをつけて隣りの反応を伺う。指名された本人は静かだった。
「おい、そんな変なこと言ったか?」
「………………」
こっちはこっちで目をかっぴらいて俺を見たまま動かない。
「はぁ~、ちょっと左馬刻オモシロすぎるよ!一郎も……あ、一郎ってば信じられない言葉聞いて固まっちゃってるじゃん!」
「冗談だろ?!」
「まさか中学生の左馬刻が一郎派だったとはね!じゃあさ、じゃあさ、僕らポッセのライブも見たんでしょ?どうだった?」
「どうって、上手ぇけど俺はチームとしてもバスターブロスやMTCのスタイルがいい」
「アハハハハハ!自分ちより一郎達が先!」
「うっせぇ!笑いすぎなんだよテメェは!黙れ、この年齢詐称チビ!」
会話を回してくれるかと思った乱数が爆笑で撃沈。一郎は言葉もないって様子で二郎と入間は来ない。俺にどうしろってんだ。神宮寺先生も出席できる日に開催してもらうんだった。
ふてくされてソファにふんぞり返る。変な緊張で喉が渇いたからコーヒーにも口を付けた。普通のコーヒーだ。
俺たちは昔もこうだったんだろうか。爆笑しているチビを見ていると、この輪の中に物静かな神宮寺先生が参加している様子が想像できない。それでも一郎は乱数の鬱陶しさにも慣れているみたいだったし、大人の俺もここを居心地良く思っていたのかもしれない。ガキの俺にとっては居心地悪い他人の居場所だけど。
そうしている間に一郎のポケットで携帯が鳴った。大した連絡じゃなかったようだ。一郎はポケットから携帯を抜いて画面を確認してすぐ戻した。その際にポケットに一緒に収められていた鍵か何かにつけられたデカい飾りがこぼれ出る。見覚えのあるアニメのキャラクターのキーホルダーだ。
「おい、それ」
「ん、なんだよ」
キーホルダーを指さす。
「それ、“とあるラッパーのリリックノート”のヤツ?」
平べったいゴム素材でデフォルメされたイラストがプリントされている板状のものだ。絵柄は二郎と見たアニメのサブヒロイン。人気が高くて彼女を主人公にした外伝まであるらしい。そっちはこれから視聴予定だ。
「左馬刻……お前、これがわかるのか」
「この前一期の二周目見終わったとこだよ」
「二周目か、そうだよな、あのラスト見たら速攻で二周目見いくよな。わかる。わかるぜ。そんで二周目は一周目の三倍面白いだろ?」
さっきまでほとんど喋らなかった一郎が急に早口で喋り始めた。
「ああ。新しく気付けることが山ほどあって」
「だろ?そうだろう。でも二期を完走してからもう一度一期に戻ると、ダビデの行動の見え方が一気に変わってもっと面白いんだ。ネタバレになるから詳しくは言えねぇが」
「マジかよ。この間から“異世界転生してチート魔術師かと思ったらチートラッパーだった”見始めたとこなのに気になるじゃねぇか!」
「そりゃすまねぇな。チートラッパーも最高だぜ!アニメもいいが中盤にアニメではカットされたストーリーがあって、これが地味にいい話だから原作の方も見てくれよ。二郎も一式持ってる。読み足りなければコミカライズも揃ってるし、なんなら同じ作者の過去作もあるから言ってくれよ」
「わーい!一郎と左馬刻が仲良しだけど昔と全然ちがーう☆」
置いてきぼりの乱数が手を叩いた。
「そうなのか?」
一郎が滑らかに喋るもんだから、元来の俺たちもこんな会話をしていたかと思ったのに。
「ああ……昔から左馬刻は俺が面白いっつってもアニメや漫画は不良モノしか見てくれなかったんだ」
確かに映像で見る大人の俺は二郎が持ってくるようなアニメを真剣に見るイメージじゃない。中学では俺も他の友人と一緒にクラスの漫画オタクから借りた漫画を回し読みしていたし、妹と一緒に女子向けのアニメだって見ていたけど、大人になるとそういうのは自然と卒業するんだろうか。
「へぇ。面白ぇのに」
「だろ?だろ?リリックノートも合歓ちゃんは見てくれたのによぉ」
「あ?合歓?」
突然飛び出た名前。聞き捨てならない。
「アンタ、合歓を知ってんのか」
「そりゃもちろん。スーパーの特売の買い物付き合ってもらったり飯食わしてもらったこともあるぜ」
「買い物?!飯食わしてもらった?!」
思わず立ち上がって詰め寄ると一郎が面倒くさそうに仰け反る。
「うっせぇな、アンタと交流あったついでだって」
「俺のついでにかこつけて合歓とデートしたり手料理食ったりしてたってのか?!」
合歓ってのは俺が一緒に暮らしていた小学生の妹じゃなくて、写真で見た美人に成長した方の妹だ。食ったことはないがどう考えても料理上手に違いないし、当然至極気立てもいい。考えてみれば一郎と妹は年頃も近かったはずだ。そんな妹とデートや食事をすることが俺と会うついでであるはずがない。
服の襟を掴み上げると一郎も眉尻を釣り上げた。
「テメェ、記憶喪失だからって大目に見てやってたのに自分のこと棚上げで何キレてんだ?俺はマジでテメェの心配するようなことは何もしてねぇが、テメェとうちの弟は年齢差的にも完全にアウトだろうが!」
「あ?!大人の俺がやってることなんざ俺には関係ねぇよ!」
「なんだと?何歳だろうとテメェはテメェだ。世話係だかなんだか知らねぇが、ずっと引っ張りまわしてやがんのがその証拠じゃねぇか!」
「ふざけんな。アイツは自分の意志でウチにいんだよ」
「兄貴相手によくそんなクチ利けたもんだな」
「やんのか?」
「テメェがその気ならやってやろうじゃねぇか。ラップも一応できンだろ?」
服を掴む俺の手を叩き落した一郎が自分のヒプノシスマイクを掴んで俺の目の前に突き付けた。俺も。俺も同じようにやろうとしてもマイクは二郎が預かっている。咄嗟に入口側を顧みた。その目の前にマイクが差し出される。
「ほしいのはコレかな?」
乱数だ。乱数が笑顔で自分のマイクを差し出した。一瞬だけ迷って、それを手に取った。見た目は普通のマイクだ。だけど目の前で一郎が自分のマイクのスイッチを入れると、俺が手にしたマイクと同じ色形だったものが見る見るうちに赤く塗り替わって形状も少しだけ変化した。ビートが低く流れ始めるのと同時に背後にスピーカーの幻影が見える。前に二郎が名前も知らないチンピラや毒島相手にやったのと同じ、下手を踏めば失神してぶっ倒れる本物のバトルだ。
ヒプノシスマイクを使ったバトルの空気に押されて唾を飲み込んだのを目敏く見咎められる。
「ビビってんなら素直にイモひいとけよ。ガキいじめは趣味じゃねぇ」
「うっせぇ、負けた時に手加減したとかいうつまんねぇ言い訳すんじゃねぇぞ!」
握ったマイクのスイッチを入れた。途端に手の中の金属が形状を変え、細く、長く、スタンド付きマイクに変容する。驚いて一度手を放し、掴み直すとちゃんと質量のあるスタンドの細い支柱があった。二郎とも一郎とも毒島とも違う、俺のヒプノシスマイクだ。
一方の一郎と乱数の視線は俺の背後に向いていた。ガラクタをかき集めてきたような大小さまざまな、特別かっこよくもキレイでもないスピーカーがアンバランスに山積みになった幻影が聳え立っている。
「左馬刻のと違うね」
「ああ、そうだな」
丸く大きめの目でコロコロ笑っていた乱数が目を細めた。
それぞれのスピーカーが威嚇するように空気を揺らす中、目の前に立ちはだかる一郎に尋ねる。
「一応言っとくが、先生はマイク使って精神干渉受けた時どうなるかわかんねぇつってたぜ」
「命乞いか?」
「ちっげーよ!」
初めて使うヒプノシスマイクに驚いたことで怒りが少し冷めて二郎と入間のいる入口の方を横目で気にした。だけど連中は最初からこうなるのも織り込み済みだったようだ。
「寂雷さんの性格ならそう言うだろうさ」
「ジジイになると冒険心がなくなっちゃうんだよねー☆」
「だけど俺たちはなんだってコレで解決してきたんだ。悪く思うな。これまでのこと一切合財忘れたテメェにゃ弟は任せらんねぇ」
「一郎が弟のためなら、僕はテリトリーバトルを楽しみにしてるサマトキ様ファンのお姉さんたちのためかな~!」
奥歯を噛みしめる。コイツら、これからの俺が元の俺より上等な人間に成長するかもしれないなんて欠片も思っちゃいない。ガキの俺は要らねぇ、大人の俺に戻れって頭ごなしにそう言ってる。ロクデナシの大人の俺がそんなにいいもんかよ。
呼吸する。意識的に、吸って吐く。
敵の精神干渉を受けても耐性が上回れば影響はほとんど受けない。格下の相手の攻撃を軽くいなす二郎を見たことがある。俺だって記憶を失ってから毎日無駄に過ごしてるわけじゃないんだ。
「テメェらマジでぶちのめしてやる!」
ガイコツマイクの首を掴んでビートにフレーズを乗せた。音を聞いて、言葉をハメる、韻を踏む、重ねて、フローで遊ぶ。それから、相手を観察して、言葉を拳にしてぶん殴れ。
家で繰り返した模擬戦やバトル動画でインプットした乗り方、攻め方。短期間で詰め込んだ知識と経験をかき集めてぶつける。緊張感がいい具合に体にまとわりついていた。これまで二郎相手にやったバトルより上手くやれた。そう思った。
「アンタでもガキの頃はそんなもんかよ」
山田一郎は一歩も動かず、静かに眉を顰めて自分のマイクを構えた。後攻に移った途端に頭からガチガチの踏韻で襲ってくる。耳から入り込んだ言葉が形になって精神に侵食してくるより先に、ヤバイって直観する。格が違う。過去の動画で予習はできてるだとか、二郎とはなんとか勝負になるようになってきたとか、そんなのは甘い考えだった。
空の手が宙を滑ってリズムをとる。まっすぐに俺を見据えて、失った記憶を思い出せって圧で切り込んでくる。
物理的に殴られたみたいに脳が揺れて目が回った。実際には聞こえないはずの高い金属音が脳内を跳ねまわって辺りのことがよくわからなくなった。足元が突然柔らかくなったような気がして、体が揺れる。
「左馬刻!」
床にぶっ倒れると思った瞬間に誰かに背中を抱き留められた。ソファに誘導されて横になって、一瞬意識が飛んだ。そんな何分も寝ていたわけじゃない。厳しい声が聞こえて目を開いた。
「なにやってんだよ兄ちゃん!」
背中が見える。パーカーの裾の小脇で青いマイクを握りしめている背中だ。その向こうで一郎がさっきと変わらない、微塵も動揺のない様子で喋る。
「さっさと思い出させてやった方が左馬刻のためだ。大人の左馬刻ならそうして欲しいに決まってる」
青いマイクを握る手に力が入った。だけどそれを口元まで持ち上げることはしなかった。
「だからって、それは大人の方の都合だろ!コイツは、今は違うんだよ兄ちゃん……」
溜息と、マイクのスイッチを切る気配。それに応じて二郎も、結局使うことなく自分のマイクのスイッチを切った。青いマイクが乱数に渡されたものと同じデザインのものに戻る。
室内に落ちる重苦しい空気を踏み割いて革靴の音を立てながら割り込んだのは入間だ。
「もういいでしょう。今日の面会は終了です。……精神干渉での記憶の復元は否定しませんが、万が一にも悪化して赤ん坊まで戻ったなんてことになったら笑えませんからね。勝手は慎んでいただきたい」
「うわーん、警察に怒られちゃったよ一郎~!」
牽制を即座に茶化されて舌打ちする。だけど入間は二人のやったことに怒っているわけでもなく、さっさと切り替えてソファの上の俺を見下ろした。目が合って、黙って聞いていたのがバレた。
「気が付いてますね、左馬刻」
注目が集まって、まだ薄く残る耳鳴りを聞きながら体を起こした。俺を庇ってすぐ近くにいた二郎が心配そうに見ている。
「左馬刻、今の状況は理解できていますか?」
「……ああ」
「記憶の方は?」
「戻ってねぇよ。残念だったなテメェら」
強硬手段に出た一郎たちはもちろん、入間も喜びはしなかった。なんだかんだ言っても入間だってこれで記憶が戻ったらラッキーぐらいに思っていただろう。返答を聞くと「だそうですよ」と一郎たちに振る。
「ざーんねん!」
おどけて手のひらを見せる乱数を入間が睨む。
「記憶を戻す方法については、こちらでも発端の違法マイクを解析して研究を進めているところです。今日のことも参考になりました。単純な攻撃的精神干渉じゃ変化なし、ということがわかりましたからね」
「参考、ねぇ。入間さん、アンタが俺たちを呼んだのはこういうことをやって欲しかったんじゃないんすか?」
「さて。頼んだ覚えはありませんね」
「へぇ」
一郎が身を翻して事務所の出口に向かう。少し歩いてパテーションの横を過ぎるあたりでちらりと振り返った。
「二郎、お前うち寄って行きたいんじゃなかったか」
「あ、うん。でも……」
呼ばれて返事をしたものの。二郎は俺と入間を交互に見た。俺は顔を逸らして、代わりに入間が応える。
「左馬刻はこっちの車でマンションまで送りますからご心配なく」
「本当にいいのか?」
確認は俺に向けてだ。
「行けよ。こっちは、大丈夫だ」
シッシッと手を振ると、今顔を見られたくないのが分かったのか、素直に兄貴について出て行った。俺と入間も乱数のふざけた見送りで事務所を出た。
車は静かに、真っ直ぐにヨコハマに向けて走った。脳みそを振り回されたような気持ち悪さは時間をかけてゆっくり抜けていく。
マンションまで距離があるから寝ていていいといわれたが、頭が落ち着いてくると妙な興奮で眠るどころじゃなかった。
「アイツ、山田一郎が俺には二郎を任せらんねぇってよ」
「ほぅ。大人の左馬刻なら任せられると?そっちの方が意外ですね」
「あ?」
大人の俺のことなんかどうでも良かったが、入間は大人の左馬刻の話を続けた。
「左馬刻と山田一郎は犬猿の仲。その上、山田一郎は大のブラコン。左馬刻はその大事な大事な弟を手籠めにした憎い相手でしょう?そんなクソ野郎から弟を引き離すなら今がチャンスなのに、世話係の件も承知してそんなことまで言うとは」
「何の話だよ」
「彼はあれでも弟の気持ちを尊重してるってことですよ」
尊重した結果、子供の俺との暮らしを続けさせるより大人の俺に戻してやろうとしゃしゃり出てきたってことかよ。大人の俺はやくざで女にもだらしなくて怒ってすぐ手が出るような暴力野郎なのに。
「みんな大人の俺に何期待してやがんだよ。ロクデナシじゃねぇか。どこがいいんだ。ラップの強さか?」
ふてくされたのを笑われた。バカにしようとしたわけじゃなく、つい笑ってしまったみたいだった。
「俺個人としては、テリトリーバトルで組むに値するって部分は大きいけどな。左馬刻は強いが、その分自分で方々に喧嘩売って恨み買って不要なリスクも増やしやがる。俺なら身内の恋人なんて御免被る」
そんな風に言っても入間は大人の左馬刻とチームを組んでいる。実力だけで認めているわけじゃないのは、こうして大人の俺について語る様子を見ていたら言葉で言われなくても分かった。
「俺だって、練習すりゃ大人の俺よりずっと強くなる予定なんだよ」
「それはそれは。至急そうしてもらいたいもんですね」
「クッソ腹立つな!」
結局コイツもガキの俺には何にも期待してないんだ。二郎の次に俺の様子を見ている分、その評価は正しいような気がして余計に頭にくる。
「…………お前さ、前に、俺は大人の俺みたいにはなれないって言ったよな」
「言いましたっけ?」
絶対に覚えている声音だ。人をバカにしやがって。
「言った!あれ、どういう意味だよ」
「ああ、結局彼に惚れたんですよね」
「マジでウゼェなテメェ」
「今のは左馬刻っぽかったですよ」
何が左馬刻っぽいだ。俺だって左馬刻だ。
ふざけた口調から一転。声音の変化で区切りをつける。
「……という冗談はさておき。君の記憶の限りでご両親が揃って出て行って帰らなかったことは?」
「は?ねぇよ」
親父はしょっちゅう留守にしていたが、母さんは仕事以外じゃいつも家にいた。
「では逆に、子供だけで放り出されて食べるものや身を寄せる場所に困ったことは?」
「ねぇよ!うちの母親はそんな無責任なことしねぇ!」
「それはそれは。君の知らない大人の左馬刻は、その頼れる親御さんを亡くして自力で妹と生きてきたんですよ」
「知ってる」
なんで今更自分の苦労自慢聞かされなきゃならないんだ。簡単に即答した俺を横目に入間は小さく息を吐いた。
「分からなくても無理はありません。君は妹が喜ばないことを承知で危険な仕事や汚れ仕事を選択したり、命を狙われたこともないでしょう?」
「それがどうしたってんだよ!苦労してないとダメかよ!」
年寄りはすぐそういうことを言う。誰々は苦労したから立派になった。お前も楽をしようとするなって。
だけど入間はあっさりと首を横に振った。
「別に、しないで済む苦労ならしないに越したことありませんよ。だけど左馬刻になりたいなら別だ。ラップの練習してるんですよね。同じ声帯なんですから既存の音源ぐらい歌えるようになりましたか?」
「当たり前だろ」
「それはすごい。カラオケお上手なんですね」
腹の立つ言い方だ。
「既存の曲を完全にコピーできるのと、歌詞も歌い方も白紙のフリースタイルで他人を再現するのはまた別次元なんですよ。特に、左馬刻のスタイルはこれまでの生き方が濃く滲み出ていた。子供が真似したって悪ぶってる風にしかならないでしょうね」
「………………」
そんなことない、とは言えなかった。バトルは即興で歌詞を並べてやり合う。自分の中にないものが咄嗟に出てくるなんてことはない。別の生き方をした他人が真似できないからカリスマ的な人気を誇っている。碧棺左馬刻は恐らくそういうMCだった。
内心で図星だと認めてしまって黙り込むと、軽い調子を作って入間は言い足した。
「もちろんこれは大人の左馬刻になりたいなら、の話ですよ」
慰めみたいだ。でも知ってる。これはフォローじゃない。コイツは俺が努力して大人の俺みたいに強くなることを期待していない。俺が成長するのを待つより大人の俺の記憶を戻す方が早いから。今俺と話していることも、記憶を取り戻すまでの暇つぶし程度の意味合いしかない。大人の俺に戻ったら今の時間も、俺がこれまで努力したことも無に帰る。入間にとっては俺が何をして、何を目指そうがどうでもいい。
それは碧棺左馬刻のライバルであった山田一郎も、かつての仲間だった飴村乱数も一緒だ。恐らく毒島も。
誰もが俺を大人の記憶が戻るまでの、寝ている夢遊病患者みたいに扱う。子供の俺に意思があることなんか理解してないみたいに。
それでも二郎だけは、俺に大人の俺と別の考えがあるって分かっていてくれる。一郎に負けて庇われたのは情けなかったけど、一郎に言い返してくれたのは嬉しかった。大人の俺じゃなくても二郎は正面から向き合ってくれる。
車を足止めする赤信号の数を数えた。早くマンションに帰りたかった。
◇
肩にかかる長さの黒髪が揺れると首が見えるパーカーに隠れるかどうかという位置。最近はあまり出歩けないにしたって迂闊な場所にそれはあった。
飴村乱数の事務所の前で首を傾けて自分のスーツの襟のあたりを指さしてやる。心当たりはあったようだ。その仕草を見た山田二郎は慌てて自分の首元を手で押さえ真っ赤になった。
「引きこもってるとはいえもう少し躾けた方がいいんじゃないですか?」
バツが悪そうに全開だったパーカーのジッパーを上げる。立て襟の一番上まで上げると暑そうだがキスマークは隠れた。何か噛みついてくるかと思えば騒ぐ気配はない。まあ、兄にセックスの痕跡を見られずに済んだんだから感謝こそすれ、文句を言うなんてお門違いもいいところか。
代わりにデザイン事務所の扉に背を預けてぽつりぽつり。話始めた。
「……バカだって言うんだろ、アイツと寝たこと」
「自分でそう思ってるんですか?」
横目で嫌そうに視線をくれる。
「気にすることはありませんよ。ガキ二人閉じ込めて今まで何もなかった方が凄いってもんでしょう」
「最初からこうなるって思って俺に同居させたのかよ」
「予想の一つとして想定していただけですよ。そもそも、こんなに長引くとも思ってませんでしたしね」
ヒプノシスマイクのダメージは廃人まで至らなければ、大抵は一定の時間経過で解消される。本人の耐性にもよるが、ヒプノシスマイクの精神干渉は音が耳に入ってから長くとも一時間前後。通常は繰り返し囁いて刷り込むような根深い暗示でもなく、干渉そのものは継続的ではない。バトル慣れした左馬刻が、一度は倒れたとはいえきちんと目を覚まして元気に受け答えしているのなら大したことはない。そう判断した。
精神干渉が原因でない記憶喪失には短期間で解決するもの少なくない。同居だって何がどうなろうと、記憶が戻った時に面倒になりにくい人間だと思って依頼したまでだ。今だって、肉体関係を結んだとしても元々交際関係にあったわけだから問題ないと思ってる。記憶がない間に勝手をしたといえばそうだろうが、記憶があったとしても一ヶ月以上も缶詰で同居なんかしていたら何十回と寝ただろう。今後左馬刻が記憶を取り戻したとしても、酔っぱらってる間にやっちまって記憶がないのと同じ話。で片付けられる問題だ。どうせガキの左馬刻の方から迫ったんだろうし。
こっちはそう思っていても二郎の方は割り切って抱かれたわけじゃないようだ。何か溜め込んでいるのが分かって、並んで扉に寄り掛かった。定期報告を受けるのも俺の仕事。こちらが聞く姿勢をとると、ぽつりぽつりと話し始めた。
「アイツ、段々左馬刻さんに似てくるんだ」
「貴方がそう育てたんじゃないんですか?」
十四歳。恐らく女性経験もまだだろう。図体は俺たちよりデカく、三十近い、下半身の方も使い込んでる大人だが。両親を亡くしてからの記憶が一切ない。キスマークだって軽く吸ってつくもんじゃない。男の抱き方も何もかもやり方を教えたのは二郎だ。
それはおかしなことじゃない。誰だって最初は付き合った相手のやり方に慣れるもんだ。
「育てるとか、躾とか、そういうつもりじゃねぇんだよ」
何を悩む。誰も悪いとは言っていないのに。追い詰められて言い訳する人間に似た焦りが滲んでいる。
「責めてませんよ」
「分かってる。違うんだよ。…………ヤッてる時に、左馬刻さんがやらないようなことされるとさ、顔見りゃ同じ人だってわかってんだけど、なんか、別人に触られてるみたいで」
死にたくなる。聞いたこともないようなか細い声で絞り出した。
隣を見ると両腕を抱いて自分の今言った言葉に苦しむみたいに歯を食いしばっている。
嫌なら拒めよ。今日だって行きの車の中で左馬刻に怯える様子は一切なかったはずだし、無理やりどうにかされているようには見えなかった。
だが口に出す前に考え直した。左馬刻が記憶喪失になってからずいぶん時間が経ったが、俺が接した時間は短い。それに比べ四六時中過ごした人間からすれば見えるものも違う。妙な情も湧いちまってる。
思ったより厄介なことになった。
「最初は、大変だと思ったけど記憶喪失ってもんを軽く見てたから面白半分みたいなとこもあってさ。だけど、大事なことも細かいことも本気で忘れてるのが分かって、親のこととかで落ち込んでるところ見てたら。なんつーのかな。アイツ、タイムスリップして人生やり直してるみたいな気分だって言ってた。俺も、俺と知り合う前に左馬刻さんが乗り越えてきた辛いことを時間巻き戻して立ち会ってるみたいな、支えてやりたい気になった。でも、アイツが懐いてくるほど左馬刻さんとのギャップっつーか。別人みたいに思えてくるんだ。コイツは俺の知ってる左馬刻さんじゃないって……」
だけど今の左馬刻を面倒見てやれるのは自分だけ。慕われてるし顔も声も左馬刻には違いないから突き放せない、といったところか。こっちとしても現状を長引かせるつもりはなかったが、もうしばらく我慢しろと言うのも酷に思えた。
「前に、左馬刻の世話係に他にあてがあると言いましたね」
言葉が詰まったところに口を挟むと丸めた背中がびくりと反応した。
「あれは理鶯です。今のマンションとは別に部屋を用意して食料はこちらで運んで住まわせる予定でした。部屋から一歩も出ないよう言えば理鶯だって変なもんは食わせないでしょうし。なんならそのお遣い係は改めて貴方に依頼してもいい」
「もう同居やめとけってか」
「そういう選択肢もあるって話です」
そういえば左馬刻の方にも同じ話をした。あの時同居人を変えてほしければ使うように渡した専用の携帯からは、まだ一度も連絡がない。
二郎の返答には予感があった。
「今はいい。ホントにアイツのためにならないと思ったら、そん時また言うわ」
「それより先に記憶が戻ればいいんですけどね」
その軽口に二郎は同調しなかった。否定もしなかった。
連中は元から性格上似たところがあったが、記憶喪失なんてことになっても同じような反応をする。
とんだ両想いだ。
@10.5
「ごちそうさんでした!」
夕飯を腹いっぱい食わせてもらって向かいを見ると、家主のグラスにはまだ半分も酒が残っていた。ウィスキーのボトルを傾けた様子もない。
「あれ、あんま飲んでないんじゃないっすか」
自分が上がり込んでいることで気を遣わせたかと思ってボトルを掴み、減りの遅いグラスに向けたが断られた。
「家じゃ飲まない主義なんすか?」
尋ねると、面倒臭そうにする左馬刻に代わって流しに皿を片付けた合歓が振り返る。左馬刻の妹だ。
「お兄ちゃん、外じゃそんなに飲むの?」
「ああ。この間も寂雷さんと飲み比べやってすげぇ酔っ払って……イテッ」
「余計なこと言うんじゃねぇよ」
後ろの棚に置いてあった雑誌をわざわざ丸めて叩かれた。
「ありゃ先生が飲めってうるせぇから飲んだんだよ。乱数は上手いことかわしやがるしテメェはガキだし」
「寂雷さん一口飲んだ途端アレだもんなぁ」
数日前にやった飲み会のことを思い出すが、今でも信じられない。仲間内で一番年上で落ち着いている人が、酒が入った途端に口調も態度もまるで変わって手当たり次第に酒をあおり始めた。それだけじゃない。近くに座っていたヤツの胸ぐらを掴んで絡み始め、一緒に飲めと酒を押し付けてくる。
いつも寂雷さんとセットのようになっている乱数はいつの間にか一番遠い席に移動しているし、未成年の俺にまで飲めと迫ってくるから代わりに左馬刻が引き受けてくれた。そこから先は文句も言わずに、むしろ「先生を潰せばそこで収まるんだ」と果敢に立ち向かっていった。
勝敗は知らない。何だかんだで俺も少しは飲まされて、気がついたら全員飲み潰れて寝ていたからだ。
「その節はあざーっす。でも左馬刻さん酔っ払うと……あだっ」
またパコンと叩かれる。
「だから言うんじゃねぇっての」
「なになに?お兄ちゃんがどうしたの?」
「なんもねぇよ。合歓もこれからドラマ見るんだろ。そろそろ始まるぞ」
「録画してるもん」
「そう言ってこの前は録画見る前にダチにネタバレ食らってたじゃねぇか」
「もー。すぐそうやって邪魔にするんだから」
まろやかな頬を膨らませながらも合歓は素直にダイニングを出て隣接するリビングルームに移動した。大きなテレビでドラマのチャンネルを映し、こちらを気にして音量を控えめに設定する。気の利く子だ。
「合歓ちゃんに教えたって別いいじゃないっすか。裸踊りしたとかじゃあるまいし」
「ンな話合歓に聞かせようとしたらこの場で二度と口開けねぇようにしてるわ」
妹に話し声が届かなくなるとぬるくなったウィスキーを煽って自分で氷を足し、こっちにグラスを突き出した。改めてボトルをとって注ぎ足してやる。
「俺自身が全部覚えてりゃいいが、この間は途中から記憶ねぇからどんな醜態晒したかわかんねぇんだよ」
「面白かったっすよ」
「あ゛?!」
調子に乗ると本気でぶちのめされそうだ。両手の平を向けて左馬刻にとって都合の悪いことは言わないことを約束する。
左馬刻は不満げに鼻を鳴らしてリビングを見やる。
「妹にはダセェ姿見せたくねぇんだよ」
テメェはわかんだろ?と視線で同意を求められて深く頷いた。
「そっすねぇ。俺も普通に酒飲むようになっても弟たちの前じゃ絶対泥酔しねぇようにするだろうな」
酔っ払ったとしても寂雷さんほど正体をなくすことはないと思うが。酒で過ちを犯すってのはよく聞く話だ。万が一にでもおかしなことをして可愛い弟たちの尊敬を再び失うことになったら立ち直れる気がしない。弟の冷たい目を見た瞬間に一生の禁酒を誓うだろう。
「そうだろ?だから自分の酒量はちゃんと把握しとけよ」
「うっす」
「先生にはもう一滴たりとも飲ますな」
「うっす……」
酒を飲まなきゃこれ以上ないほどにいい人だ。本人も酒で失敗する自覚はあるらしいから最初は断った。そこをチーム結成の祝杯だからと押しつけた。左馬刻が。後から思えば左馬刻に関しては自業自得と言えなくもない。
「そういえば、最近妙なヒプノシスマイクが出回ってるらしいっすね」
「ハマで被害出してる改造マイクか」
「なんでもクスリでバッドトリップしたみたいになるらしいじゃないっすか」
ヒプノシスマイクが世の中に流通してからしばらくして違法に改造する輩が現れた。なんでも分解して手を加えてみたい奴はいるもんだ。それで元来より強い効果を発揮する代物が出来上がったとしたら。実際使ってみたくなるのが人の性。
このところ違法改造マイクが原因とみられるホームレス錯乱事件が立て続けに発生していた。警察は血眼で犯人を捜している。
「もしそういう連中に襲われて正気じゃなくなったら……」
「俺様がンなヤツに負けるわけねぇだろうが。前提からやり直せ」
「言うと思った。ハイハイ、つまんねーこと言いましたよ」
手元のコーラを飲み干す。夕飯の買い出しで荷物持ちしたら買ってくれた。子どもの駄賃みたいだ。
「負けはねぇが、もしそれでどうにかなったら」
なんだよ、その話続けんのかよ。
「まあ、そんときゃお前が止めろよ」
「止めるって息の根を?」
「やれるもんならな」
「ははっ。じゃあ俺ンときは変なとこ弟に見られる前に頼みますよ」
底の方に薄く濃茶の液体が残るグラスを差し出すとバカにした笑い方をして、でも琥珀色の液体に浮かんだ氷をカラコロ鳴らしながらガラスのフチをぶつけてくれた。
俺らはチームだ。背中を預ける仲間だ。この人と組んでりゃ違法マイクだろうが強敵だろうが。何にも負けることなく弟たちを守り続ける強い男でいられる。
そんな夢みたいなことを本当に信じてた。
車の助手席では二郎が行儀悪く膝を抱えている。話を聞いてやりたくても何も言わない。言わないことでなんとなく事情は察した。兄貴である俺にこそ説明できない拗れ方をしてるってことだ。
左馬刻が記憶喪失になってからもうひと月以上。どうせすぐ解決するだろうという大方の予想を裏切って事態は長引いていた。
まだ一ヶ月。ヨコハマから離れたイケブクロで日々の仕事に追われていればそう長い時間じゃない。だけど二郎にとっては違う。終わりの見えない長い日々の途中だ。
脳の奥底で眠り込んでいる左馬刻にとっても。
それでもいつかは記憶が戻るだろう。一生このままとは思わない。その時には弟を振り回したケジメはつけさせる。二郎本人が手を下せないっていうなら俺がやってやる。
それから、俺も黙ってぶん殴られてやる。俺がアンタとの約束を守れなかった分だ。
@11
頭が揺れるとサラサラの細い髪の毛が手の中をすり抜けていく。せっかく途中まで編んだのに。
「頭動かすんじゃねぇよ!」
毛束を軽く引いて怒ると顔は正面のテレビに映る魔法少女アニメに向けたままで甘ったれた声で「だって」と歌うように言う。
「今度ね、みんなでね、これのダンスやる約束してるんだもん。ネムねぇ、青い子やるんだよ」
青い子ってのは五人いるキャラクタの中ではクールな美人担当だ。悪くない。
「あ、そうだ!」
一瞬大人しくしたかと思ったのに、また大きく頭を動かして自分のランドセルを手繰り寄せた。
「だから動くなっつってんだろ!」
「いいからいいから」
「三つ編みやめんぞ!」
「それはダメ。だけどお兄ちゃん、手出して」
ランドセルの中で何かを掴み、握りこぶしに隠して振り向く。振り向いたおかげで髪は完全に俺の手から逃げた。諦めて右手のひらを上向きにして差し出すと、細い指で手をひっくり返された。
もったいつけて出てきたのは細い指輪だ。青い紐を固く三つ編みにして、テープで固定して輪にしてある。俺の中指に通すと、もう一本出してきた水色の指輪を自分の指に通して得意げに見せてくる。
「すごいでしょ。図工の時間にね、余ったひもでね、休み時間に作ったんだよ」
「おう、すごいすごい」
「お兄ちゃんずっとつけててね」
「はぁ?!」
男がこんなモンつけてたら仲間になんて言われるかわかったもんじゃない。文句を言おうとしたのに妹は母さんの分もあるんだと言って台所に言ってしまうし、簡単に指にはまったペラペラの指輪は意外とピッタリサイズでなかなか抜けない。
「お兄ちゃん、こっちきてー。お母さんとみんなでお揃いなのー」
呼ばれて渋々向かうと、指輪が抜けなくて困っている俺を見て母さんが笑った。母さんは小指にはめている。妹と、母さんと、か細い指輪のついた手をみっつ並べた。妹が嬉しそうに笑う。母さんは七分袖の袖口ギリギリのところにも親父にやられた痣があったけど喜ぶ妹を見て幸せそうにしていた。だから俺も、せめて妹が飽きるまでは指輪を着けたままにしてやろうと思って。
何もないシーツを引っ掻いて目を開いた。
投げ出された自分の手が見える。自分のものじゃないみたいに大きくて、ごつごつしていて、何もつけていない。
逆の手だっただろうかと反対の手を目の前に翳して眺めても、こちらも何もつけていなかった。合歓が寝る間際まで指輪をしているかチェックしてくるから外さずに寝ていたのに。
みそ汁やウィンナーを炒めるにおいにコーヒーのにおいが混じってる。母さんはインスタントのコーヒーを飲みながら朝の家事をやるから。
早く起きなきゃ。合歓も起こして支度しなきゃ学校に遅れる。遅刻すると母さんがアイツに「母親としてちゃんとしてない」って怒られる。起きなきゃ。
隣りに寝ている妹を揺すり起こすために手を伸ばそうとして、起こす相手がいないことに気が付いて急速に覚醒した。
跳ね起きて実家とは違う、黒い布団やシーツを見て全て夢だったと悟った。指輪なんかあるはずもない。妹だって。
だけど食事とコーヒーのにおいは本物だった。寝室を出る。キッチンに向かうと、すでに朝食の支度はほとんど済んでいて、コーヒーサーバーは二人分のコーヒーが溜まっていた。
「おはよ。そろそろ起こそうかと思ってたんだ」
電子レンジに昨夜の余りの煮物を突っ込んで温め待ちしていた二郎が自分のカップでコーヒーを飲みながらキッチンカウンターを回り込んでくる。
「なんだよ、俺やることねぇじゃん」
「手伝いたいなら自分で早起きしろっての」
仕方なく自分の分のコーヒーをカップに注いで皿をテーブルに運んだ。二郎は温めが終わった最後の皿と自分のカップだけ持ってやってくる。
食事に手を合わせる手を盗み見る。二郎はいくつも指輪を持っているけど、風呂の前には一度全部外して翌朝に気分ではめ直す。今は一本だけつけていた。視線って結構バレるもんだ。見つめていると気づかれた。
「どうした?これか?」
手をひらひらさせて注目の的が指輪と分かると、ゆるく拳にして目の前に差し出される。男物で石はついていないけど、多分高価なものだ。
「……これ、俺が贈ったヤツ?」
「まあな」
「俺の分はねぇの?」
「ペアじゃねぇよ
笑って引っ込めた手を、指輪を反対の手で撫でる。ペアリングじゃなくたって大事なんだ。テーブルの下で、妹お手製の指輪があったはずの中指の根元に触った。全く外れなくて困ったのに、あの頃の俺はどうやって外したんだろうか。大人の俺の指には痕一つなくて、元から何もなかったみたいだ。
「お前も指輪したいのか?」
「別に……」
そういうつもりで見ていたわけじゃない。アクセサリーにはそれほど執着がなかったし、母親も仕事があるからか、ほんの少しだけ持っている指輪もネックレスもケースにしまい込んでいた。
妹と三人で並べた、手作りの指輪がはまった手を思い出す。
「二郎と一緒のヤツなら欲しい」
「一緒?これ?」
もう一度見せられた指輪に首を振った。
「そうじゃなくて、新しいヤツだよ」
「ペアリング?」
「そう」
「いいけど、そうだなぁ……。じゃあ数学で中二のテスト合格点取ったら買うか?」
閃いた、とピンと指を立てる。
「…………おう」
「ンな顔すんなよ。ちゃんと勉強して自分で稼げるようになるんだろ?」
それを言われるとやらないわけにもいかない。食事が終わると早速問題集を広げた。教科書は一応一通り目を通したけど、実際に問題を解くとわからないものが多い。試しに上半期のまとめ問題を解いてみたけど、点数にして四十点。しかも式は間違っているが答えは正解だから丸にしてもらったものも含む。
「こんなのいつ合格できるんだよ……」
丸とバツと三角が入り乱れるノートの上に突っ伏すと背中をトンと叩かれる。
「いつかはできるって」
「今月中じゃ絶対無理だ」
「来月、再来月はわかんねぇだろ?」
「中二の範囲って一年分だぞ」
「他の教科やってねぇんだから、一年ありゃできそうじゃん」
「来年でもいいのかよ」
「こんな約束に時効なんてねぇからいいに決まってんだろ。ほら、頑張れよ」
いいのか。来年も俺のままでも。
煮詰まった頭が少し楽になって、シャーペンを握り直した。ノートをめくって真っ白な新しいページを開く。
「あ、やべ」
スケジュールを確認していた二郎が眉尻を下げた。兄から電話で、どうしても二郎にってご指名の依頼があったと告げられ、毒島に俺を預けるためにスケジュールの確認をしていたところだ。
横からのぞき込むと、携帯のスケジュール管理アプリの来週半ばに予定ありのマークがついていた。俺と暮らし始めてからは俺の知らない予定を追加しているはずがないから前々からの予定だ。
「来週どっか行くのか?」
「うーん……」
返事、というより唸って俺の顔を覗き込む。ああ、大人の俺も一緒の予定か。
「日にち、ずらせねぇのかよ」
「言えばずらせるだろうけど……前に左馬刻さんが地上げから助けた銭湯の、亡くなった爺さんの命日なんだよなあ」
「命日?」
「そう。地上げ屋と揉めてる間に倒れちまってな。結局地上げの件は解決はしたんだけど、じいさん入院中に亡くなっちまってさ。ばあさんの様子見も兼ねて毎年顔出すことにしてんだ。仏壇に線香あげに。その日はばあさんも風呂貸し切りにして待っててくれるんだよ」
「そりゃずらせねぇな」
それに、一日二日ずらせたところでその間に俺の記憶が戻るとは限らない。
「仕方ねぇし一人で行ってくるわ。この日の分も理鶯さんに頼んでみる」
「別に小さなガキじゃねぇんだから一人でも留守番できるってのに」
ぼやきながら勉強道具を広げっぱなしでキッチンに向かう。真剣に勉強して腹が減ったから何か食わなきゃ集中が続かない。
「俺だってお前がちゃんと大人しくしててくれるのわかってっけどさー」
「わかってるって、適当こいてっとうるせぇのがいるんだろ」
毒島にメッセージを送る二郎に片手を振って冷蔵庫を開けた。生憎とすぐ食えそうなものは食べつくして、生卵や飲み物、野菜のきれっぱしなんかが残っているばかりだ。今日は食糧の配達日か。最初のうちは身内に食品のお遣いを頼んでいたけど、結局ネットスーパーを週数回利用することで引きこもり生活を賄っていた。
卵、牛乳、バターはある。久しぶりにホットケーキが食いたくなって、粉を探すことにした。前に二郎と一緒にインターネットでネットスーパーの商品を物色していた時、頼んで注文してもらっていたはずだ。妹に作ってやっていたから俺でも作れると思って。
「まあ、理鶯さんも心配してくれてんだからたまには顔見せてやれよ。たまに外出するっつっても毎回クソ眼鏡としか会わねぇんだし」
「会うだけならいつでも会ってやるけどな。あの人虫食わしてくんのが……」
「運さえよけりゃ鶏肉か魚介食えるから祈っとけって。カエルも鶏肉みたいなもんだし」
「ゲテモノに馴らされてんじゃねぇよ……」
冷蔵庫を閉めてビルトインコンロの下に備え付けられた引き出しを開けた。常温保存できる一部の食料はここに突っ込んである。入りきらない長期保存用の食品は食糧庫もあるけど、今はそっちは備蓄用の缶詰やカップ麺、米や水ばっかりだ。
未開封の粉類や使用頻度の高いツナ缶、マカロニやレトルトのパスタソースなんかが入った引き出しを開けると、一瞬煙草のにおいがした。もちろん引き出しの中には煙草はない。煙草の箱が隅に一つ入ってたとしてもにおいなんかしなかったと思う。気のせいかと思った。でも、思い至ってその引き出しを閉め、その下段の、高さの低い引き出しに手をかけた。こっちは床に近くて使いづらいからって焦げ付いて捨てなきゃならないフライパンなんかが入っている。滅多に開けない場所だ。
「馴れた方が楽だぞ。手料理食わせるのがあの人の趣味なんだからさ。まぁ、この日はダメっつわれたら今年は諦めて別の日でもいいかな。命日は来年もあるんだし」
引き出しを開けるとはっきりと煙草のにおいがした。大きく開くと、奥の方に灰皿がある。初日に二郎が片付けたガラス製のヤツだ。片付けた時に中身は捨てていたはずなのに、何本も吸い殻がねじ込んである。煙草も、一緒にしまってあった。隠してあった。
「なあ」
「え」
呼び掛けられて屈んだ体を跳ね起こした。変にデカい声が出てしまった。
「聞いてなかったのかよ。都合つかなきゃ今年は仕方ねぇよなって話」
メッセージを打ちながら話していた二郎が携帯を放り出してソファにふんぞり返る。いつもの二郎だ。
俺の前で喫煙していたのは一度きり。初めて抱いた翌朝だけだった。普段はやらないようなことを言ってたのに。灰皿の中はいっぱいになってた。煙草なんて手にしている姿さえ見かけなかったのに。
いや、元々喫煙習慣があったのを未成年の俺が興味を持たないように隠していたのかもしれない。なんでも大人の俺に結びつけなくたっていいんだ。
でも。二郎には煙草は似合わない気がした。
気になるなら聞けばいい。なのに俺は黙って引き出しを閉めた。だってどうする。大人の俺が忘れられなくて隠れて喫ってるんだと言われたら。駄々をこねて煙草も奪い取るのか。そんなガキみたいな真似して、二郎の好きな大人の俺から遠ざかるのか。
二郎はあまりこちらに注意していなかったけど視線を避けて壁の向こうの食糧庫に移動した。日持ちのする食品が棚に積まれている。その中のどれも食べたいと思わないのに、ここではそうするのが自然だから適当に手に取ってラベルに目を向けては戻す。
少しずつ歩いていたのに注意散漫のせいで何かの箱を蹴飛ばした。ガチャガチャした硬質な音が立つ。見ると、捨てそびれている空きビンだった。大体が酒瓶だ。多分、ほとんど大人の俺が飲んだ。
顔を上げる。二郎は好きじゃないと言っていた輸入品の缶詰。地味な家庭料理ばっかり作る二郎が使わないようなラベルも読めないスパイス。それ以前に、この部屋そのものが大人の俺が自分で選んで購入し、二人で過ごした場所だ。
俺にとっては合宿所として用意された旅館かなにかと変わりがなくて意識してこなかったけど、ここには今更煙草一個取り上げたところで意味がないぐらい詰まってる。大人の俺の生活していた痕跡が。
急にそのことを意識して息を止めた。引き結んだ口に手を当てる。指に触れたこの顔だって、中学生の俺じゃない。
そんなこと前から分かっていて、その上で新しく生きていこうとしていたのに。こんなわけのかわからない状態の俺でも二郎は受け入れてくれたと思ったのに、本当はここに俺の居場所なんかないんじゃないか?
適当なカップ麺を一つとって部屋に戻った。ホットケーキのことなんかすっかり忘れてお湯を入れて、中に調味料の小袋が残っているのに気が付いて慌てて箸でつまみだした。
「カップ麺食うなら俺の分も」
ソファから言われて一つ追加で作ってテーブルに並べる。
「あ、理鶯さんだ。……ばあさんに会いに行く日、他の予定あるから調整できないか確認するってさ」
了解、とかそんな短い返事を打とうとする二郎の手首を掴んだ。
「その日さ、俺が一緒に行ったらダメか?」
「はぁ?お前は知らない人だし、思い出話なんかされたらこの前みたいに左馬刻さんの真似すんのも大変だぜ」
外出するなら入間の了承も必要だ。絶対に嫌がられる。
「いい。そのばあさんて呆けてるのか?」
「いや、多分今もしっかりしてる」
「口は軽いのか?」
「全然。お人好しのじいさんのけつ引っ叩いて銭湯守ってたババアだからな」
「じゃあ、俺の状況がバレても秘密にしておいてくれるだろ。入間は俺が説得する」
「でもさ……」
「二郎は行きたいんだろ?」
大人の俺と二人で、と心の中で続ける。
短い付き合いだけど二郎の義理堅さは知ってる。少し迷って、入間に電話をかけた。予想通りに反対されたから俺が話すと申し出たけど、手振りで大丈夫というから待っていた。
「……一応許可取ったけど、ばあさん以外には絶対に会わないよう注意しろってさ。家族いるかもしんねーから先にばあさんに連絡しとくわ。理鶯さんにも予定の調整要らなくなったって伝えねーと」
毒島にメッセージを送ってからばあさんに電話。ばあさんが電話口に出ると音量大きめにゆっくり喋る。自分の本当のばあちゃん相手に話してるみたいだ。笑って電話を終えた。
「ばあさん、楽しみにしてるってよ」
それはきっと大人の俺が来ると思っての台詞だ。ばあさんのことは何も知らないけど、ちょっと申し訳なく思う。でも二郎は違った。
「ありがとな。俺一人で行くよりばあさんも喜ぶわ」
「別に礼なんか要らねぇよ」
だってばあさんのためでもなければ二郎のためでもないんだから。
その銭湯は俺と家族が昔暮らしていたのと同じ街にあった。昔はあちこちに銭湯があったというが、俺が小学校の頃にはほとんど残っておらず、しぶとく生き残っている個人経営の銭湯も古い住宅密集地にあった。だから親の代で引っ越してきてアパート暮らししていた俺はその存在すら知らなかった。
大人の俺がよく来ていたアロハシャツにフルフェイスのヘルメット装備。今日は生憎、配車係が忙しかったんで二郎のバイクで来た。銭湯の裏手にある母屋の庭にバイクを置いて、家の玄関までヘルメットを被ったまま。完全に人目のないところまできてから素顔を晒す。
玄関に一歩踏み込むと、線香の香りの染み付いた古い家の匂いがした。
出迎えてくれた総白髪のばあさんは腰がくの字に曲がっていてよたよた歩く。背なんか小学生みたいに小さく見えたけど喋りは達者だった。
「よく来たねぇ。息子たちは墓の方行って外食してくるって言うからゆっくりしな。風呂も沸いてるよ」
「よう、元気そうだな。今年も世話ンなるぜ」
俺の代わりに二郎が先頭に立って家に上がって、ばあさんと話しながら仏間の仏壇の前に座った。生前まったく会ったこともなかったじいさんの仏壇を参るのは変な気分だったけど、飾ってあった遺影は噂通り、人の好さそうな好々爺の顔だった。
今年はアンタの待ってた左馬刻じゃなくて悪いな。俺で勘弁してくれ。手を合わせてそんなことを念じる。
「アンタたちアイス食べるかい?しょっぱいのがいいなら煎餅も漬物もあるよ」
ばあさんは今年で八十一だというのに立ったり座ったり忙しない。
「ンな構わなくていいよ。この間まで入院してたんだろ?じっとしとけよ」
「年寄りが子供のために動かんで他に何するさね。アンタたちこそ顔色悪いんじゃないかい?」
ばあさんのしわに埋まったような目が俺を見る。ぎくりとした。
「気にせいだって。最近はテリトリーバトルも休みだからヒプノシスマイクもほとんど使ってねぇしさ」
用意していた台詞で二郎が誤魔化すのに合わせてつまらなさそうに顔を背けた。大人の俺がおしゃべりなヤツでなくて良かった。二郎が先回りして応じれば俺は何も言わなくたってやり過ごせる。
「危ないことしてならいいけどね、疲れとるならゆっくり風呂に浸かっていきな。毎日暑いからって家じゃシャワーばっかでしょ」
「いつもありがとな。そんじゃひとっ風呂浴びてくるわ」
「はー、変な汗かいた……」
二人しかいないのに銭湯の風呂にはなみなみと湯が張ってある。ざっとシャワーを浴びて清めた体を沈めると景気よく湯が溢れた。
湯船のフチに腕を置いて二郎が深く息を吐いた。長い髪の毛は輪ゴムで適当に結わえているが、裾の方が濡れている。
「バレてねぇかな」
「うーん、大丈夫じゃねぇかな。去年も大体こんなもんだった気がするし。……つっても、俺も左馬刻さんとばあさんの昔のことはあんま聞いてねぇんだよな」
自信なさそうに濡れた腕に頬をくっつけてまつ毛を伏せる。
「昔のこと?」
「ああ、言わなかったっけ。地上げ騒動前から知り合いなんだと」
「そんな大事なこと忘れんじゃねぇよ」
「悪かったって。でもそんだけ。昔世話になったからって、じいさんが地上げ屋に騙された時に助けに入ったんだ」
「ばあさんからそこんトコの話出てきたらアウトだな」
「大丈夫だろ。俺が一緒にいる時に昔の話してたことねぇもん」
程よい温度の湯に語尾を溶かすようにして微笑む。昼間の銭湯は高いところにある窓から光が差し込んで白い肌の上で玉になった雫に反射して輝いている。長風呂したくなるようないい湯だ。
俺に大人の記憶があったら、ばあさんに嘘をつくことも、バレるのを心配する必要もなく、もっと気持ちよく湯に浸かれたんだろう。
銭湯の脱衣場では扇風機が回っている。芯から温まって次から次へと滲んでくる汗に風を当てた。風呂もいいが、やっぱりじっとお湯に浸かっているのを本当に楽しめるのは歳を取ってからだと思う。途中で飽きて二郎より先に上がったし、ガキ臭いと思われようがなんだろうが、真正面から風に当たりたくなる。
二郎は冷蔵ケースを物色しに行った。風呂上がりはコーヒー牛乳に限るんだと。
番台は引退したというばあさんもこの日は特別で、俺たちが風呂を使っている間だけ番台に座っていた。表には休業日の札を出している。他に客は来ない。ただじいさんが生きていた頃、長年守ってきた番台に座る。そういうのを噛みしめる日なんだ。
「どうだい左馬刻。いい湯だったかい?」
やっと少し汗がひいてシャツに袖を通す頃になってから床より高いところにある番台から話しかけられた。客は俺たちだけだからって声が聞こえるよう、入口と男湯を仕切る引き戸は開けて暖簾だけにしてあった。大人の振りをするにしても、暖簾で隠れて相手の顔が見えない方が気が楽ってもんだ。
「ああ、ちょうど良かったぜ」
何の気なしに答えて振り向くと、二郎が険しい顔でコーヒー牛乳の瓶片手に固まっている。
「あ?」
何か悪いこと言っただろうか。暖簾の向こうからふつふつと湯に沸く泡みたいに笑い声がする。
「くっ、ふ、ふ、ふ。やっぱりねぇ」
「は?」
ばあさんがゆっくり慎重に番台を出て、こっちは男湯だったのに遠慮もなく脱衣所の暖簾をくぐる。相手は八十過ぎのばあさんだし下着は身に着けていたから何も困らなかったが。
二郎が焦り顔で脛を蹴りつけてくる。
「やべぇって!」
「何がだよ」
「やりやがったなババア!」
「なぁに、耄碌したババアと思って甘く見るんじゃないよ」
騒ぎ立てる二郎をも笑い飛ばし、小さなばあさんは俺たちの目の前に立った。
「アンタ、私の知ってる左馬刻じゃないね」
その通り。とは誰も言わない代わりに二郎が頭を抱えてしゃがみ込んだ。フォロー役がこれじゃどうにもならない。
「な、なんでだよ。ボケでも始まったんじゃねぇか?」
「年寄りとみればすぐボケの話するのはやめな」
当たり障りなくかわそうとすればピシャリと言われる。
「どうも様子がおかしいとは思ってたのさ。左馬刻は風呂は熱い方がいいって男だからね」
「そんな、マジかよ」
二郎を見ると青い顔で目を背けている。教えなかったのは完全に二郎のミスだ。消えそうに小さな声でつぶやく。
「…………マジごめん」
しゃがみ込んだってまだばあさんの方が小さく見えるのに、けらけら笑うばあさんはやけに存在感がある。妖怪ババアだ。
「どぉれ、どういうことかばあちゃんに話してみなさいよ。心配せんでも誰にも言わんから」
脱衣所の端に置かれた竹の長椅子に腰を下ろした。でもそんなに長い話じゃねぇんだよ、ばあさん。
観念してばあさんの向かいに椅子を引いた。
記憶喪失になった経緯、やくざの左馬刻には敵が多いから記憶が戻るまで雲隠れしていること、そのための共同生活と、神宮寺先生に言われたこと。一つ一つ説明する間にばあさんがゆらゆら顎を引く。しわしわの目元のせいでちゃんと話を聞いてくれているのか、眠っているのか分かりづらい。
全部打ち明けて、最後に騙したことを詫びる。
「このことはほんの数人しか知らねぇんだ。だけど、大事な日に嘘なんかついて悪かった」
「俺も、ごめん。約束の日だからちゃんと二人で顔見せたくてさ」
並んで座った二郎も情けない顔で頭を下げる。
「わかったよ。謝らんでいいわ。このばばの為に無理してきてくれたんだからねぇ」
干からびた野菜みたいに痩せた指がうちわを揺らして簡単に俺たちを許した。手には質素な指輪が一本だけはめられている。
「記憶がなくなってるのは困ったもんだけど、体の方は元気そうだしね。見ず知らずの家に来るのも勇気が要ったろうによく来てくれたわ。大丈夫。アンタが忘れたって、アンタと私らのことは私がちゃんと憶えてる」
ばあさんは扇ぐ手を止めると、緩慢な動きで首をめぐらして銭湯を見渡した。脱衣所も外の光で明るく、埃の筋がきらめいている。古い木や湿った布のにおい。マンションの風呂と違う空気。棚も、壁も、あちこちの引き戸も全部に年季が入っている。
「……最初に左馬刻と会ったのは、合歓ちゃんが中学にあがる頃だったかねぇ。もう十年ぐらい前よ」
思い出話の始まりに妹の名前が飛び出て咄嗟に二郎を顧みた。二郎も初めて聞く話らしい。驚いた顔をしていた。
「アンタんとこの家の事情のお陰で、その頃ちょうど合歓ちゃんがいじめに遭ってたのよ。土砂降りの日に傘やら外履きやら隠されて、そんでも気丈な子だからそのまんまの格好で鞄にビニール袋だけ巻いて帰ろうとしててね。そんでも世の中どこもかしこも不景気で弱いモンみつけて鬱憤晴らそうってバカはどうしようもなくて、びしょ濡れだった合歓ちゃんを突き飛ばして転ばして逃げてった。そうしたらもう泥だらけで、ちょうど私が近くにいたんだけれどもばばの足じゃ犯人を捕まえるなんて無理だった。それで代わりにうちの風呂に入れて、大人の服しかなかったけど着替えを貸して。汚れた服を洗って乾燥機にかけたら遅くなるからっておうちに電話させたら、お兄ちゃんがすっとんできた。
見るからに不良で、転んで擦りむいた合歓ちゃんの手のひら見た途端、人でも殺しそうなこわーい顔して。そんでも私やじいさんには丁寧にお礼を言うから、ああ、この子は根は良い子なんだわって思ったっけね」
膝の上で無意識に手を握りしめた。大人の俺がどんなに金持ちだろうと、両親を失ってから生活が安定するまでは妹だって苦労したはずだ。俺が生まれてからこの時代で目を覚ます直前までの記憶。その先の未来の話。大人の俺にとっては何年も前に終わった過去の話だ。今の俺にはどうする術もない。
「そっから二人して時々うちの銭湯に来てくれるようになった。子どもばっかりで苦労してるのは知ってたからお金なんぞ要らないって言うのに、左馬刻は律義に二人分のお金を払ってくれた。私らからすりゃあ危ないことして拵えた金で払ってくれるより、合歓ちゃんを心配させないような仕事してくれた方がよっぽど良かったけどねぇ。そんなのは住む家も商売もある大人の我儘よ。うちが二人を養ってやれるわけでもないから口を挟んだことはなかったね。
それから色々あって二人は引っ越しちゃって疎遠になった。代わりに左馬刻は有名人になって、テレビで映るたびに孫でも見るような気持ちで見てたもんだわ。ヨコハマで本物のやくざになったって聞いたときも驚きはしなかった。貧しい子がそっちに流れっちまうのは珍しいことじゃなかったしね。元気でやってんならいいわってじいちゃんもよく言ってたの。
ほんで、次に会ったのは、じろちゃんも知ってるねぇ。じいちゃんが悪いヤツに土地を売る書類書かされた後よ。ちょうどうちによく通ってくれてた子がイケブクロの方の高校に通っててね、じろちゃんのお兄ちゃんも有名人だったから、助けてくれって頼んでくれたの。場所がヨコハマディビジョンだったからってじろちゃんが左馬刻を頼って、久しぶりにうちに来てくれたんだわ。合歓ちゃんはもう一緒じゃなかったけどね、代わりにじろちゃんがいた。
じいちゃんを騙した地上げ屋ってのが左馬刻の組の傘下なら話は簡単だったんだけれど、そうじゃなかったから解決は骨が折れたろう。銭湯に嫌がらせもあったし、じいちゃん自分のせいだって気に病んで入院してしまった。そっから三週間ぐらいだったかねぇ。左馬刻がなんとかしてくれるから頑張りなって言って聞かせたのに長くは持たんかった。
あれは葬式から四十九日の間の暑い日だった。黒塗りの車が母屋の目の前に止まったから、またチンピラかと思ったら、暑いのに喪服着込んだ左馬刻がやってきて相場を知らんのかってくらいぶ厚い香典とじいちゃんの署名が入った契約書を持ってきたの。遅くなって悪かったって墓前で言ったけど、じいちゃんなんか私より十歳近くも上なのよ。こんなよぼよぼのじじばばになったら事故以外は大体寿命みたいなもんだわ。
それに、葬式には怖い人はさっぱり来なかった。家の近くに若い子がうろうろしてるの見た人はいたけど、それはじろちゃんがお友達と何人かで見張っててくれたのだった。お陰さんでじいちゃんは世話になった人たちに送ってもらうことができた。
一番恩を返したいのはうちのじいちゃんだけど、仏さんは見守るしかできんからねぇ。いつでも風呂貸し切りにしてやるよって言ったら、命日に線香あげに来るってさ。左馬刻はあんまりカタギのモンと懇意にするのは良くないと思ってたみたいだね。そんでも年に一度はこのばばがちゃあんと生きてるか会いに来てくれるのよ」
黙り込んだ俺たちの前で記憶の本を閉じるみたいにぱちんと両手を合わせる。
「……あらまぁ。付き合いは長いっていうのにアンタが泣くところは初めて見るわ」
その辺に置かれていたティッシュボックスを差し出してばあさんが笑う。
「うっせぇよ」
真剣に話を聞いて、頭に浮かんだのは小学校の頃に事故で亡くなった同級生の葬式の様子だった。憔悴しきった遺族やまだ子供の友人達とその親。みんな喪服姿で俯いていた。そこに今日仏壇で見たじいさんの顔は重ならない。ばあさんのことも、この銭湯に助けられた妹の姿も浮かばない。
大事なことなのに。ばあさんは大事に覚えていてくれるのに、俺はちっとも思い出せない。
「焦りなさんな。お医者の先生も時間がかかるっていってたんなら焦ったってどうしようもないわ」
「でも、ばあさんだって本当なら大人の俺に来てほしかっただろ?」
視界の端で二郎がこっちを見る。ばあさんに向かうことで二郎から顔を背けた。
「大人も子どもも、アンタはアンタ。来年も記憶が戻らんでも風呂に入りに来な」
「…………俺は、ばあさんたちに何にもしてねぇ」
「いいや、助けてもらったよ。来づらかったろうに今年も元気な顔を見せてくれたし。それにね、やっぱり大人の左馬刻とおしゃべりしたいわぁって思ったら、記憶が戻るまで何年でも私が長生きすりゃぁいいのよ。じいちゃんはもうこの世のどこにもいなくなっちゃったけど、アンタの記憶は消えたんじゃなく脳みそのどこかで眠ってるだけなんだからねぇ」
半袖のシャツからひょろりと伸びた枝みたいな腕を曲げて「まだまだ生きるわ」と笑う。盛り上がる筋肉なんてないのに。
また来てね、と見送られ、来た時と同じ道を二郎のバイクでマンションまで帰った。
また来年。二年後、三年後。記憶がなくたって俺はあと何十年も生きるだろう。だけどばあさんが俺より長生きすることはきっとない。俺が思い出さなきゃ、大人の俺には一生会えないままだ。
だけどテレビのチャンネルみたいに記憶や人格を切り替えられるわけじゃない。
神宮寺先生は否定しなかった。記憶が戻った時に今の俺が消える可能性を。
これはタイムスリップじゃない。大人の俺の記憶が戻った時、同時に中学生である俺の魂が過去に戻って家族と暮らした生活を再開できるわけじゃない。俺は消える。どこへも行けない。
それでも、もし俺が死ぬまで記憶を取り戻せなかったら。ばあさんも、二郎も一生“左馬刻”に会えない。大人の俺は死んだわけじゃないのに。記憶が戻ることへの期待を引きずったまま大人の俺は眠り続けている。喪われた記憶は弔うこともできず、毎日子どもの俺として目覚めるたびにみんなの期待を裏切り続けるんだ。
@12
野菜のきれっぱしと油揚げの味噌汁とウィンナーと卵焼き。子供が喜んで食べるメニューは限られているからと毎日似たり寄ったりな朝飯だった。
今も。朝はウィンナーと卵、味噌汁の具でちょっとだけ栄養のバランスをとる。ウィンナーは実家で食べていたのよりちょっとだけ高価な銘柄の商品で、実家では母さんだけが飲んでいたコーヒーを俺の分も並べている。
飯を作ってもらったら俺が片づけを引き受ける。洗濯は二人きりだし多くなく、二郎が主体となってやるのを手伝っている。掃除は適当だけど、部屋が広いから多少手抜きしたってあまり散らかっているようには見えない。
朝の家事が片付くと、俺は妹の部屋に行く。もうそんなに長い時間は過ごさないけど、必ず母さんの顔を見に行く。
実家で母さんが作ってくれたのとよく似た飯を食っても、二郎が優しくしてくれても、それで母さんが必要なくなるわけじゃないから。毎日家族のいない朝を確かめて、今の家族である二郎と過ごして、少しだけ母さんの前に戻ってくる。
喪った大事な人に会いたい気持ちは、きっと俺が一番よく知ってる。
入間の来訪と山田一郎からの電話はほぼ同時だった。マンションの地下駐車場に車を入れた入間のところへ俺が一人で会いに行き、二郎は部屋で電話を受けて、それぞれがテリトリーバトル再開の報せを聞いた。
ディビジョンごとに行われる予選が始まるのが二週間後だ。本戦はその更に二週間後に中王区で。
「予選はまあいい。俺と理鶯だけでも勝てるから最悪お前は欠席にする」
不気味なほど静かに言って入間は煙草に火をつけた。
「記憶戻せって言わねぇのかよ」
「その気になったら今日にでもやってやるよ」
何か言い返そうとしたけどいつもよりトゲが弱いような気がして躊躇う間に言葉が続いた。フロントガラス越しに灰色のモルタルの天井を眺めて。
「例の、記憶喪失の原因になった違法マイクだけどな、記憶戻せるぞ」
「あ?」
突然言われた意味が分からなくて間抜けな声が出た。
「あのマイクで記憶退行させて、また一定条件下で精神干渉することで記憶が戻るとわかった。まだ成功例は三人だが、精神干渉前後の記憶の混濁以外は幼い頃の記憶から最近のことまでちゃんと憶えてる」
「待てよ。実験したのか?」
実験ってのはつまり人体実験だ。成功例が三人ということは失敗例があることを暗に示している。
前のめりな俺を一瞥し、ちらりと入間が視線を外に流した。
「もちろん実験したのは警察じゃない。警察の研究機関でできたのは音波の解析までだ」
「じゃあ……」
入間が首を巡らせたのを見て視線を追った。地下駐車場の出入り口の方から新しく一台の車が入ってくるところだった。
「実験を引き受けたのは火貂組。お前んとこの組だよ。やくざだ。連中なら記憶喪失になろうが廃人になろうが困らねぇ人間ぐらいいくらでも調達できるからな」
鳥肌が立った。自分だってそういう団体の一角だったってのに。やくざってものがどういうものか知っていたつもりだし、聞かされた話が嘘だとも思わなかった。それでも二ヶ月前までは両親がいて普通に学校に通っていたガキの価値観では受け入れがたく、怯んだところを見せたくないのにゾッとする。
「俺が横流しした違法マイクで精神干渉して記憶喪失状態を作り、三日ほど置いて再び精神干渉する。マイク使用者が変わってもラップの性質が条件に合えば記憶は戻るようだ。成功すれば一度目の精神干渉の前日までの記憶が復元される。そこから数日様子を見ても再度記憶が抜け落ちるようなこともない。記憶復元のための条件も、大体絞り込めてる。条件を踏み外せば更に記憶が飛んじまうようだがな」
つまらない書類を読み上げるような無感情さで告げられる。
「テメェ、それでも警察かよ」
「警察だって全国民の味方ってわけじゃねぇよ」
恐らく、実験に使われたのはやくざに弱みを握られたどうしようもないヤツなんだろう。だとしても、涼しい顔でそれを言うスーツ姿の男は警察というよりやくざそのものに見えた。
「お前の記憶喪失の件はあちらさんも困ってんだ。話を持ち掛けてやったらすぐに組長に忠実な部下がやってくれたよ。連中は警察と違って無駄な手続きもなければ実験台の選定にも困らん。お陰でこの短期間で成果が出てる」
「最低だな」
「テメェも本当はその最低なヤクザモンだったんだよ」
そうだ。そのお陰で記憶が戻る可能性が見えてきた。
「それじゃあ……」
「ああ。無論、百パーセントとまでは言わないが、それなりの確率で記憶が戻せる」
俺さえ「やる」と言えば。記憶が戻る。先が見えないと思われたこのおかしな生活のゴールが突然現れた。
記憶さえ戻ればやくざの仕事にも復帰できるし、テリトリーバトルだって問題なく出場できる。周りのみんなが望んだ俺に戻れる。
だけど、その時に今の“俺”はどこへ行くんだ。
「……その、記憶喪失中の記憶はどうなったんだ?」
「なくなってる。……というか、数日の間に立て続けに精神干渉されてぶっ倒れてりゃその前後の記憶が飛んで当然のことだ。通常のヒプノシスマイクでも多少の混乱はある。今回のお前みたいに何十日も経ってから戻したときにどうなるかって実験は時間の都合上やってないが」
横目でこちらをちらりと見る。
「やらせるか?」
「いい。いらねぇ」
やらせるってヤクザにだろ?それに、これから新たに記憶喪失者を作り出して数十日待つなんてやっていたら次のテリトリーバトルに間に合わない。それで元の記憶と引き換えに記憶喪失中の記憶がなくなるだなんて言われて俺が拒否したらどうする。記憶を戻したがってる連中にそこのところを調べるメリットがない。
「つーか、そんな実験までさせておいて組の連中から急かされたりしてねぇのかよ?」
やくざたちは成果を上げた。それに対し、入間は俺の記憶を戻せないでいる。やくざ連中にとって入間はビジネス相手であっても上司なんかじゃない。ギブアンドテイクという意味じゃ、まだ入間は果たすべき仕事が果たせていないんじゃないか。
その問いを鼻で笑って煙草の火を消した。
「意外と賢いじゃねぇか」
気が付くと車の外にスーツ姿の男が四人。取り囲むようにして立っていた。見るからにカタギじゃない。
入間がドアを開けた。運転席側に立っていた男が一歩下がる。俺も同じように助手席を立とうとすると、連中に見えないような小さなジェスチャーで赤い手袋の左手に止められる。ヤクザ連中の間合いの内側にいても入間は飄々としてわざとらしく肩を竦めて見せた。
「おやおや、こんな強面が雁首揃えてちゃカタギの住人の方に迷惑ですよ」
ドアの外で入間が対峙したのは俺より背の高い男だ。表情がないのに目が鋭い。手には何も持っていないのに、何かのきっかけで突然殴りかかってきそうに感じる。はっきりどこが、とは言えないが、明らかに普通じゃなかった。
「とんだご挨拶じゃないですか入間さん。俺らは組長に様子を見て来いって頼まれて来たんですよ。部屋までいかなくて済んで助かりましたわ」
「はぁ。そういうのは私を通してもらう約束でしたよね?」
「それがね、テリトリーバトル再開が決まったって聞きまして。こっちはアンタの指示通り、例のマイクのテストもやって結果も出してるんですわ。なのに待てど暮らせど左馬刻さんは顔を出さないもんで。組長も心配してましてねぇ。ちょっと近くを通りかかったんで様子見に来てみたんですよ」
ガラスごしに男が車内をのぞき込む。咄嗟に相手を睨みつけた。大人の俺が不機嫌な時にそうするように。記憶喪失の件を知られているとしてもなめられたらまずい気がした。
「やれやれ。もっと信頼してもらいたいもんですね」
「信じてないわけじゃないんですがね、そこの左馬刻さんとちっとばかし話をさせてもらえますかね」
「お断りします」
その瞬間に男の目つきが変わった。殺気立つ男に一歩も引かず、入間が自身のヒプノシスマイクを掴む。
「おっと、やめてくださいよ入間さん。ことを構えたとあっちゃ組長にどやされますわ」
スイッチを切り替えたような変わり身の早さで男は殺気を収め、両手のひらを見せた。車を囲んだ連中が二人に注目している隙を見て他の男たちを見ると、二人ほどが体の陰でそれぞれのヒプノシスマイクを握っている。そして運転席側でしゃべっている男の動向を見て静かにスラックスのポケットに引っ込めた。
「言うまでもないことですが、テリトリーバトルまでにはケリをつけないと困るのはこちらも同じ。こちらのやり方に文句があるというならそれ相応の覚悟を持って来てくれないと困りますね」
長身の男が口元だけで笑った。こちらに背を向けた入間の様子はわからないが、今にもいけ好かない眼鏡の横っ面に拳がぶち込まれそうで無意識に息をのむ。
だが実際には何も起こらず、男たちは撤収していった。入口からファミリー向けの大衆車が入庫してきたからだ。
運転席側の男が顎で合図すると舎弟たちが足早に車に戻る。男は車を回り込んで俺のいる助手席側の窓をノックした。
「邪魔してすみませんでしたね、左馬刻さん。組長からの伝言だけ伝えさしてもらいますわ」
ガラス越しに一言だけ残し、目の前に横付けされた黒塗りの車に乗り込んで速やかに駐車場を出て行った。
奴らの車が完全に消えたのを見届けてから入間も運転席に戻る。
「ったく、立場ってもんが分かってねぇ連中は始末に負えねぇな」
忌々しげに整えられた髪をかき乱す。それから新しい煙草を一本取り出してこっちに言葉をかけた。
「おい、あんま真に受けんじゃねぇぞ。記憶のないヤツ相手ならはったりかけ放題だからな」
珍しくフォローなんかしてくれる入間に適当に頷いたが、そこから先どんな話をしたかはよく覚えていない。
あの男は去り際に言った。
『早く仕事に戻ってもらわなきゃ妹さんも困りますよ』
追及する暇もなかった。頼みの綱の入間も、神宮寺先生も妹に関する詳細な事情は知らされていない。はったりかどうか確かめる術がない。
もし本当に俺がやくざであることと妹の安否が関係しているのなら。俺に選択肢なんかないんじゃないのか?
ガチガチに腰に絡みついていた足から力が抜ける。
代わりにしっかり腰を抱いて、時間をかけて名残惜しんで体を離した。まだ日は高いけど汗だくだったからシャワーまで抱いて運んで、簡単な入浴を済ませてから眠そうにする二郎に付き合ってもう一度ベッドに横たわる。俺より年上なのに頭や背中を撫でてやると安心したように眠る。前は俺の方が先に寝てしまうことも多かったのに時間を惜しんでいたら俺の方が長く起きているようになった。一秒でも長く二郎の伏せられたまつ毛や、目元からこぼれたように配置された泣きぼくろや、夢の中で何か食べているみたいに動く薄い色の唇を見ていたくて。
二郎が完全に寝入るまで傍にいて、それから寝室を出てノートを広げる。しばらく前に始めた数学の勉強は最初のに躓いたところを理解したら一人でもそこそこ進められるようになった。どうしても分からないところはパソコンで検索する。よく見る動画サイトには中学生向けの数学解説動画なんかもあった。動画を見ても分からないところがあったら動画へのコメント欄で同じ疑問を質問している誰かを探して、そこに返信された解説で解決する。便利な世の中だ。これなら塾なんか通わなくたっていい。うちは貧乏だったから塾に通う金も、パソコンを買う金もなかったけど。
二郎が眠っていて一人の時間、パソコンを活用して勉強を続けた。元々二郎に学校の勉強はできないから一人で良かった。
昼夜関係なしに場の空気に任せて抱き合って、疲れて眠そうにする二郎を寝かしてからパソコンと教科書をそろえて自習を始める。
気づけば新品だったノートももう最後の一ページだった。最初は一生終わらないような気がしていたのに調子が上がってくればペースも上がる。
新しいノートを探して棚を漁った。雑誌とかチラシとか重要度の低い書類とか、何でもかんでも突っ込んでいる棚だ。その中身を片側に寄せて、空けたスペースに中学の教科書が詰め込まれている。ノートは教科書と反対側。紙類がごちゃごちゃ詰め込まれた中にあった。
列から飛び出しているチラシを避けながら背表紙でノートを選び、つまんで抜き出す。よくある横線ノートだ。新品だと思って引っ張り出してみると表紙に日付が書いてあった。使用済みだ。
なんとなくそのノートをめくってみる。どうやらラップのリリックを書き溜めているようだった。多分、俺の字だ。いまの俺とはちょっと違うけど。二郎の字じゃない。知ってる曲の詞もある。
パラパラめくっているとページの間から一枚の紙が落ちてきた。ルーズリーフを二つ折りにした紙で、俺の字と二郎の字が混ざってる。これもリリックだけど、ノートに綴られた詞に比べて短くて、完成はしてないみたいだった。
「何見てんだ?」
背後から声をかけられて反射的に広げた紙を畳んだ。自分のノートなんだから後ろめたく思う必要もないのかもしれないけど。
「もう起きたのかよ」
「結構寝たって」
指で窓の方を示されて、空の色が変わっていることに気が付く。集中していると時間の経過が早い。
肩に寄り掛かって二郎が手元を覗くから咄嗟に隠してしまった紙を開いて見せる。なんとなく隠してしまっただけで、理由なんかなかった。
「白紙のノート探してる途中で見つけた」
「もう前のノート使い切ったのか?頑張ってんじゃん」
新しいのはこっち、と抜き出してくれる。それを受け取って、代わりに二つ折りになっていたルーズリーフを差し出した。
「これ、大人の俺と二人で曲作ってたのか?」
「ああ」
受け取った二郎が目を細める。
「これは結局完成しなかったけどな」
「チームが違っても一緒にやってたんだな」
前にパソコンで再生していた音源も二人の活動の一部だったのかと思って言うと、苦笑いで片手を振った。
「いや、ないない。兄ちゃんは左馬刻さんとチーム組んでたことあったけどさ、俺はそういうの全然ないから。だから俺も左馬刻さんと音楽やってみたくてさ、左馬刻さんが酔って機嫌いい時に遊びで書いてみたヤツ。でも真面目にレコーディングしたりタイトルつけたりしたいって言い出すのが恥ずかしくてやめちまった」
「なんで」
「なんでって……あー、えっと、その頃に付き合ったから、かな」
それがどうしてやめちまう理由になるんだか分からなくて首を傾げた。
「だってさ、そうなっちゃうとなんか恥ずかしいだろ!」
「カップルだから?」
「はっきり言うんじゃねーよ!」
「そんなに気にすることかよ。本当はちゃんと曲作りたかったんだろ?」
付き合ってるといっても世間に公表しているわけじゃあるまいし。世間的には今も碧棺左馬刻と山田一郎はライバル関係で、それぞれのチームも表向きは馴れ合っていない。表向きというか、話を聞く限りでは二郎がヨコハマに出入りしているだけで、一郎はきっちり縄張りを守っているし、三郎も長男に忠実に振舞っているようだった。二人で曲を作ったとしても一般向けに公表するつもりは元からなかったと思う。
二人だけのものにするなら何だってやればいいのに。
「まあ……いいんだよ、もう。それを書いたのも結構前のことだし」
二郎の手で紙を畳まれる。棚に戻したリリックノートの小脇に差し込んで「そろそろ夕飯にしようぜ」と背を向けた。まだせいぜい二ヶ月なのにな。本当はいいなんて思ってないのがわかっちまう。
どんな会話をして曲作りが頓挫したんだろうか。大人の俺はやりたくなかったのか?
俺なら中途半端なまんまで投げ出したりしないのに。一緒に何か作れるなんて最高じゃねぇか。男二人で残せるものなんか限られてる中で折角二人とも音楽って手段を持ってたんだ。
大人の俺がやらなかったなら俺が、俺も、二郎に何か残せるなら────。
「ん、どうした?」
二郎が振り向いた動きで掴んだ薄っぺらいシャツの布地が指の間から逃げていく。
「…………なんでもない」
俺が代わりにやる。なんて意味がなかった。口に出す前に気付けた。
前に入間に言われた言葉を思い出した。俺は大人の碧棺左馬刻にはなれない。既存の楽曲を勉強したって、白紙から大人の俺が綴るようなフレーズは作ることができない。
似たようなそれっぽいモノじゃ埋め合わせできないことを、俺はよく知ってる。人は誰も、他の誰かの代わりにはなれない。
「また一人で考え込んでんな?なんかあるなら小出しにしとけよなー」
「もう前みたいに急にキレたりしねぇよ」
「キレたっていいけどさ。左馬刻さんなんかしょっちゅうだったぜ?」
そんなこと言ったって、大人の俺とは喧嘩するのにガキの俺が怒った時は喧嘩してくれないんだ。
俯くと隣に並んで背中を撫でてくれる。
「つーかさ、今度お前の服買わねぇ?左馬刻さんの服ってお前の趣味と違うんだろ?そろそろ秋物売ってるしさ」
「いいのかよ、無駄遣いじゃねぇの?」
「ちゃんと着るなら無駄じゃねぇだろ。でも気にするなら左馬刻さんの貯金じゃなくて俺の金で買ってやるよ。萬屋の仕事でちゃんと給料貰ってるからそんぐらい余裕だし」
冷房の効いた部屋から一歩出るとまだまだ外は暑い。秋物なんか着られるのはずっと先だろう。その前にはテリトリーバトルが始まる。
次のテリトリーバトルの俺の出場は未定として入間が伝えていた。一応は俺も含めたチームとしてエントリーするが、当日の状況によっては俺を除く二人でやるつもりだと。実際、大人の俺としてステージに立てないならその通りになるんだろう。記憶復元は百パーセント成功すると決まったわけじゃない。
だけど成功してくれなきゃ困る。今の俺が妹のためにやれる唯一の献身だ。
「服なんかいいよ。別に拘りとかねぇし」
「そうか?」
「うん。気持ちだけもらっとくわ」
タイムスリップの期限が近い。
並んでキッチンに立ってカレーを作った。冷蔵庫の中身が少なくなってきたから食後にネットスーパーで買い足す食材の物色をしたけど、あまり欲しいものはなかった。
それから妹の部屋で母さんの遺影に手を合わせて、紙袋に入れっぱなしにしていたおもちゃみたいな携帯電話の電源を入れた。
家族との別れは突然で、目が覚めたら全てが消え去っていた。だから大事な誰かとの別れには慣れていない。
残された時間で何をすればいいのか誰も教えてくれなかった。ただ朝目が覚めるたびに残り時間が一日分減ったことを惜しんで過ごす。怖気づいてしまわないように妹のアルバムを何度もめくる。読み残した漫画を読んで、夜遅くまでソファで二人並んでアニメを見た。
“検診”のために家を出るその朝はキッチンに隠してあった煙草をひと箱ポケットに入れて。萬屋の仕事で俺の後に出かける二郎が身支度の手を止めて玄関で見送ってくれた。
もし上手くいって二人で暮らした期間の記憶を保ったまま忘れたすべてを思い出せたら、今度こそ自分の力と金と、出会ってから今日までに交わした全てでアンタが望むことをしてやる。ガキのままじゃ何もしてやれないから。
「いってきます」
「おう、気をつけてな」
部屋の扉を閉める。子どもとして二ヶ月過ごしたシェルターみたいな部屋を出て、大人に戻るんだ。
@13
病院だ。病院ってのはどこも似たような天井とカーテンで区別がつかない。独特のにおいのベッドで目を覚ますたびに「まだあの世じゃない」と思う。それからしくじってこんなところに担ぎ込まれた自分に舌打ちする。
足先、手の先から順に動かしてみる。どこも痛みはないし動かない場所もない。
体を起こすとカーテンが揺れて見飽きた眼鏡が顔をのぞかせた。
「目が覚めたか、左馬刻」
体を起こすと頭痛がした。この感じはヒプノシスマイクだ。攻撃を食らって倒れたらしい。どんな相手とやり合ったか、いまいち思い出せない。
「おい銃兎、ここどこだ」
「シンジュクだ」
「敵は」
「違法マイクで暴れまわってたヤツならテメェが自分で始末つけたよ。二ヶ月も前にな」
「あ?」
突拍子もない言葉が聞こえて意味を理解できなかった。
「左馬刻。今は何年何月だと思う?」
真面目な顔でバカにしたようなことを訊かれる。
「ふざけんなよ。H歴六年の……六月の終わりぐらいだ」
「九月だ」
言葉を証明するみたいにスマホの画面で日付を見せられた。
「おい、どういうことだ」
「明後日にはテリトリーバトルの予選だ。出られるか?」
テリトリーバトルはしばらく前にあったテロ事件の影響で再開時期未定になっていたはずだ。アレを財源のひとつとしていた政府は早急な再開に向けて動いていた。やるとなれば当然俺たちMTCにも出場の招待状が届いているだろう。
「当たり前だろうが。俺様抜きでやれねぇだろ」
当然の返答に頷いて銃兎はその場で電話をかけた。
「おいテメェ、電話の前に説明しやがれ」
「うっせぇぞ。相手はテメェんとこの組長だから黙っとけ」
そう言われると携帯を奪ってぶん投げるわけにもいかなかった。俺の予選出場の件だけを手短に伝えて通話が終わり、ついでにメールを一本打つ。それから銃兎はその辺の椅子を引っ張って腰を下ろした。
「銃兎、ちゃんと説明しろや」
「言われなくても教えとかなきゃならんことが山積みだボケ。もう少ししたら神宮寺寂雷が来て頭の検査もある」
「検査?たかが喧嘩でそこまで必要かよ」
「頭の悪ぃ野郎だな。二ヶ月経ってるつっただろうが」
「あ?ずっと寝てたってのか?!」
着の身着のまま二ヶ月もなんてありえない。柄もそっけもない布団を剥ぐと着慣れたシャツにジーパン姿だった。
「うるせぇな。騒ぐんじゃねぇよ。お前、記憶喪失だったんだぞ」
「記憶喪失……?」
「そうだ。中学まで記憶が退行してガキの頭で今朝まで過ごしてたんだ」
「おい待て、どういうことだ」
「正確には十四歳。違法マイクの攻撃でぶっ倒れて目を覚ましたら両親と妹と暮らしていた夏前まで記憶が戻っちまってた」
「笑えねぇ冗談はよせや」
「クソ忙しい時に冗談でテメェを楽しませる義理はねぇな」
髪をかきむしった。確かに毛が伸びている気がする。混乱している間にノックの音がして寂雷先生が病室に姿を見せた。
後のことは検査の前後に先生から聞いた。三度の飯より人の弱みが好きな不良警官より先生の言葉の方が信じられるってもんだ。
だが、先生も銃兎と同じことを言った。記憶喪失で頭の中身が子供に戻った状態で過ごしていた。組の方は組長と数名だけが事情を把握し、他の連中には仕事で不在と伝わっていたらしい。だがテリトリーバトルは休めない。縄張りを仕切っている者のメンツもあるが、俺が動けないことが知れ渡ったらうちの組の足元を狙っている連中が好機とばかりに騒ぎ出すだろう。そうなればうちとずぶずぶの銃兎にとっても都合が悪い。予選に間に合うよう、件の違法マイクを使って記憶を戻したというが。
「じゃあ、その記憶がない間はどうやって生活してたってんだよ。まさかテメェが面倒みてたなんて言わねぇだろうな?」
「ンなわけあるか」
「だとすりゃ……理鶯か?」
「その案もあったがな」
見たところ体に虫刺されや蛇にかまれた痕はない。
検査が済んで一旦戻された病室で銃兎がスマホの通知を確認した。
「ああ、すぐ来るぞ」
「何がだよ」
「お前の世話係」
廊下を走る音が聞こえて迷惑そうに銃兎が病室の戸口に向かった。廊下に半身乗り出したところで近づいてきていた足音が止まり、廊下から伸びてきた手でスーツの胸倉を掴み上げられる。
「テメェ俺に黙って何勝手しやがったんだよ!」
勢いで引き戸が全開になった病室に怒声が響いた。なんだ、世話係なんてもったいつけやがって。お前かよ。
「TPOぐらい弁えて下さい。病院ですよ」
「話逸らすんじゃねぇよ!」
気の短いポリ公が舌打ちする。こっちは精神干渉のダメージでまだ頭痛が残ってるってのに喧しい奴だ。
「おい、静かにしろや」
腰かけたベッドから声をかけると、俺がいることに気が付いて目を丸くした。胸倉をつかんでいた手からも力が抜けて解放された銃兎が嫌そうにネクタイを整える。
奴は不躾に人の顔を見つめて、絞り出すように俺を呼んだ。
「左馬刻……」
「あ゛?」
「……さん」
それからふらふらとベッドまで近づいて、目の前で崩れ落ちた。
「おいおい、よくわかんねぇが二ヶ月ぶりに会ったってのに何か言うことはねぇのかよ」
こっちとしては実感はないが。文句をつけたってしゃがみ込んで項垂れた二郎は小さく頭を上下させただけだ。代わりに銃兎が答える。
「二ヶ月ぶりっつっても中身が十四歳のお前と毎日過ごしてたんだから久しぶりじゃねぇんだよ」
先生の予測によると、人生の中で大きなショックを受けた出来事の前に記憶が巻き戻されたんじゃないかって話だった。俺の場合は親の死だ。
十四歳と言えば確かにまだ家族とボロアパートで暮らしていた。まだ親父すらぶち殺せない弱い子供で、やくざになる予定なんかこれっぽっちもなかった。甘ったれたガキの頃だ。
この顔や体でガキとして喋って動いて二ヶ月も過ごしていたという。最悪な話だ。それなら眠っていた方がマシだとさえ思う。
だけど。元から長い二郎の髪も伸びていた。確実に時間が経過している。その間ずっとコイツがうちで寝泊りしてたなんて大したもんだ。いつもブラコン兄弟三人水入らずで暮らしてやがるクセに。
まあ、それだけ心配かけたってことなんだろう。
裸足で床に降りてしゃがみ込み、肩に頭を引き寄せた。ちょっと手で誘導すると倒れ込むようにして寄り掛かってくる。
「悪かったな。テメェにゃ世話かけた」
肩に額を擦り付けて首を振る。
「………………記憶が戻って、よかった」
「ああ」
普段は俺が怪我したぐらいじゃ取り乱さないコイツが顔も上げない。体の方はどこも負傷していないお陰で実感はないが、記憶喪失で自分のことも覚えてない人間と過ごすのは大変だっただろう。少しぐらい優しくしてやってもバチは当たらない。
二郎が自分で立ち上がるまで待って、本人が大丈夫だというからバイクでヨコハマまで帰った。泊まり込みで俺の世話をしていた二郎の荷物もマンションに置きっぱなしだという。テリトリーバトル直前といってもまだ予選だし、もう一泊したってイケブクロの予選までには帰れる。銃兎づてに組長からも挨拶は明日でいいと言われ、寄り道せずに部屋に帰った。
部屋だって早々変わらないが、二郎が持ち込んだと思われる漫画本が部屋の隅に並べてあった。冷蔵庫を開けると作り置きの総菜が増えていて所帯じみている。その他にも何か違和感があった。
「お前、なんかやったか?」
「何にも、模様替えだってしてねぇし、漫画持ってきたくらいじゃね?」
こういう間違い探しは得意じゃない。分からないままポケットから煙草を取り出して、気が付いた。
「おい、灰皿一個もねぇじゃねぇか」
そうだ。先生の病院を出てバイクで直帰したから喫煙のことは考えもしなかった。いや、多分記憶喪失の間は喫ってなかったんだろう。以前なら病院の外で一服して帰ったところだ。髪の長さ以外にも二ヶ月の影響が見え隠れする。
「ああ、ごめん。片付けてただけだから今出す」
そう言って二郎はキッチンに向かった。頭がガキだから禁酒禁煙か?ずいぶん健康的な体になったもんだ。
その割に何故かポケットに入っていた煙草のボックスを取り出した。後から気づいたことだが、その煙草だって開封済みで数本減っていた。だがその場では気にも留めずに癖になった仕草で一本取り出そうとして、箱の中から何かが落ちた。手に取り損ねて床に落ちたのを灰皿片手に戻ってきた二郎が拾う。
「なんだこれ?」
紐を三つ編みにして輪にしたものだ。二本ある。つまみ上げた二郎が目の高さに上げて首を傾げた。
「何って、わかんねぇのかお前」
「知らねぇよ」
「まぁ、テメェんとこは男兄弟だからな」
灰皿をカウンターに置かせて片手を出し、二つの小さな輪を手のひらに受け取る。
「こりゃ指輪だ」
「ゆびわ……」
「妹がガキの頃に遊びでこんなん作ってたわ」
見つけた時に妹のものかと思った。引っ越しのどさくさで紛失して見つからなくなったものがどこかから出てきたのかと。でも昔見たものとは色が違った。
じゃあ記憶喪失中の俺が妹のために作ったのものか。それにしては、女物には大きいように見える。第一、妹はここにいないから指のサイズも確かめようがない。そこでふと思い立って二郎の手を取った。
「……ああ、お前のかよ」
昔くれてやった指輪をいまだに大事にはめている同じ指に手作りの指輪を通してみると、ぴったりはまる。もし二郎に心当たりがないなら普段身につけている指輪を借りてサイズを測ったのかもしれない。ならもう一つは恐らく俺のだ。
「指輪……ペアリング……」
「そんな御大層なもんかよ」
弾かれたように動き出した二郎が雑誌を収納している棚に走った。そこからノートを選び出してめくる。中は汚い字で書かれたたくさんの数式だ。赤ペンで丸つけがしてあるページ、してないページもある。手に取った一冊目の最後のページまで書き込まれているのを見ると隣のもう一冊をとってまためくる。それは途中までしか使われていなかった。
二冊目の、使われているページの最後もやっぱり問題集か何かの解答だ。問題集のページ番号を上の方に記して、見開き二ページに渡って沢山の数式と答えが書いてある。このページは採点が済んでいて、その8割ほどに赤い丸がついていた。
「なんだ?テメェにしちゃ良い成績じゃねぇか」
「俺じゃねぇよ」
小さな声で言って床にしゃがみ込んだ。開いたノートに顔を伏せて。
これがなんだっていうんだ。俺の知らないうちに何があったのか、二郎は語ろうとしない。その代わりにコイツしか出入りさせないはずの部屋にどことなく他人の生活した気配が漂う。
イラついて喫いそびれていた煙草を咥え、指輪の出てきた箱の中を気持ち悪く覗いた。そこで煙草に混じって捻じ込まれたものを発見した。細く丸めた紙だ。仕込んだのは当然記憶喪失中の俺に決まってる。
指先でつまんで紙を広げる。身に覚えのある癖字でたった一言だけ書かれていた。
偉そうな一文。それは妹の心配とかじゃなかった。妹のことはわざわざ言うまでもない。何歳だろうが俺は俺だ。だから分かる。
『アイツを大事にしろ』
誰のことかなんて。足元で肩を震わせて指にはまった指輪を涙で濡らしている姿を見たら確かめる余地もない。俺の記憶が戻ったのを知った瞬間はこんな風じゃなかった。
俺は何も持たない十四の自分にコイツを奪われたんだ。
今まで俺が何をやったってコイツには浮気なんて器用なことは出来ない気がしていた。何が原因で喧嘩したって危機感なんか覚えちゃいなかった。何があってもコイツが俺を見限らなかったからだ。
だが今は俺の方が愛を乞う側だ。
まるで怪文書なガキの自分からの手紙に従わざるを得ない。これを書いたガキとコイツの間に何があったか憶えていない俺には恋人を取り戻すために他にどうしようもないのだ。
@指輪にまつわるその後の話
ヒプノシスマイクのことを俺たちはまだよく知らない。科学的な話は、俺は一生理解できないと思う。だから何があっても不思議じゃないと思うんだけど。
最近の左馬刻はおかしい。
頻繁に部屋に呼びつけるし、なんならイケブクロとヨコハマの境界まで車も回す。部屋のごみは自分でまとめるし、ベッドの中でも何もしてこないんでこっちが焦れてしまったぐらいだ。
きっかけははっきりしている。違法マイクの影響で記憶喪失になって、同じマイクによる精神干渉で記憶を戻してからだ。
記憶喪失で忘れていた記憶を取り戻して目覚めてから病院で一通りの検査を受けたけど一時的な頭痛以外に異常はなかった。記憶喪失期間以前の記憶に欠けているところはなかったし、俺が間違って左馬刻がとっておいた高いチーズを食っちまったのもしっかり覚えてた。突然記憶喪失だったなんて言われて混乱したようだけど意識はしっかりしてるし、元の生活に戻れると判断されて、それから間もなく開催されたテリトリーバトルも平常運転。問題なく日常生活に戻ってる。
全ては元どおり。俺への態度以外は。
しばらくは気まぐれかと黙っていたけど、間違って限定生産の高い酒でサバ味噌作っちまっても文句言わないし兄ちゃんの悪口も言わない。どう見てもおかしい。
不審に思って事務所に顔を出した際にそれとなく左馬刻の舎弟に振ってみたが、記憶喪失の件さえ知らされていないせいか何も変わったことはないと言う。銃兎も、寂雷さんも、みんないつもの左馬刻だと口を揃えた。
いつもの左馬刻が皿なんか洗うわけがねぇだろう。
「気色悪ぃ」
ついついそんな言葉が口から溢れてしまった。ばっちり聞こえていたら即ギレ案件だ。だけどこれはまずよく聞こえなかったらしい。
「どうした、具合悪ぃのか?」
そりゃこっちのセリフだ。わざわざ手を止めて額で熱なんか計ったりして。
「悪くねぇけど……やっぱそれ俺やるよ。アンタが大人しく家事なんかやってると調子狂うわ」
「あ゛?!」
そうそう、この感じ。この頃はブチギレる前にちょっと考えてブレーキをかけている気配がある。ブレーキなんて器用なモンを搭載していたこと自体驚きだ。
皿洗いを交代するために指からビニール紐を編んで作られた華奢な指輪を外す。シンクの前に回り込んでも左馬刻が退かないから体をねじ込んだ。
「邪魔だからどけよ」
「うっせぇ、俺がやってやるっつってんだからありがたく座っとけや!」
なんだってそんなに皿が洗いたいんだ。今まで頼んだってやらなかったくせに。奪い合って皿を洗ったせいでグラス一つ割れて仕事が増えた。ガラスで左馬刻が怪我したから皿の片付けを中断し、応急セットを広げて絆創膏を貼ってやる。礼はない。
「フンッ」
それだけだ。でもこっちの方が本来の左馬刻らしくてホッとする。
怪我で戦線離脱しても納得行かなそうな様子でキッチンカウンターで煙草をふかす左馬刻に監視、もとい見守られながら残りを片付け、水気を拭った指で外した指輪をつまむ。
「おい、そんな粗末な作りのモン頻繁に付け外ししてたらすぐ壊れちまうぞ」
指を通そうとしたのを止められた。だけどもう指先を通して根本近くまで進めるところで、忠告がちょっと遅かった。
指の根本に残っていた水のせいか、テープを巻いて留めていた部分が抜けてしまった。輪にしていた網紐は短く、解けないよう両側を玉結びにしてテープでやや厚めに巻いてあるきりだった。端同士結び合わせると輪が小さくなってしまうし、またテープで留めるしかない。
大事に着けていたつもりだったのに。
網紐がほつれないよう片端に残ったテープを慎重に剥がしていると、引き出しから瞬間接着剤と小さなテープカッターを出した左馬刻が横から手を出した。
「寄越せ」
まだ頼むなんて言ってないのに勝手に紐を取り上げて、短く切ったテープの上に紐の両端を置いて接着剤を垂らしテープで巻いた。意外と器用で修繕作業はあっという間に終わった。
「ほらよ。ちゃんとくっつくまでちょっと待っとけ」
手のひらに落とされた指輪は元どおりになっている。
「…………あ、ありがと」
同じ顔だから、この指輪が最初に作られた時もこうしてちまちまやってくれたのかな、なんて考える。一緒に暮らしてたのにいつの間に作ったのかも分からない。左馬刻に教えてもらわなきゃこれが指輪だってことも分からなかった。
手の中の小さな輪を見ていると色んなことを思う。そういうところが癇に障ったのか、左馬刻が舌打ちする。
「お前、指輪欲しかったのかよ」
「え、いや。……うん」
言い出したのは俺じゃなかったけど。女みたいなつながりを持てないことを言ったから、子供のサマトキは別のつながりをくれたのかもしれない。確かに俺が欲しかったものだ。
「なら俺に言えや」
「いいよ、もう貰った」
「それやったのは俺じゃねぇだろ」
指輪に手が伸びてきて、咄嗟に指輪を握り込んで拳を高く逃した。露骨な拒絶だ。怒らせた。子供のサマトキのことで喧嘩はしたくなかったのに。
だけど予想に反して怒鳴ったり強引に指輪を奪われたりすることはなかった。咥えていた煙草を口から放して乱暴に髪を掻き毟る。
「あ゛────────!クソッ、ンなもん無理にとらねぇよ」
灰皿で火を揉み消して、キッチンカウンターの端に置かれた小物入れからもう一つの指輪をとった。同じ網紐で作られたサマトキ用の指輪だ。左馬刻が目を覚したとき、二本とも煙草の箱に隠されていた。左馬刻の指にははまっていなかった。
自分だけでなくサマトキの分が壊されるのも嫌だ。取り上げようとすると背を向けられ、振り返った時には絆創膏の巻かれた指の隣の指にはまっていた。
手の甲を上にして差し出される。意図を計りかねて黙って見ていると、緩んだ俺の手を掴んで指輪を奪い、接合部が固まっているのを確認して返された。指に直接。
そうして手製のおもちゃみたいな指輪を着けた手を二つ並べる。
「……アンタ、俺がこんなわけわかんないもん大事にしてたら怒るかと思った」
「喜んじゃいねぇが。これは妹が小さい頃に作ってたのと同じなんだよ」
顔を上げた。左馬刻は俯いて指輪を見ていた。
「妹が、俺とお袋と三人お揃いで作って大事にしてた。全く同じ作り方してたからやっぱ壊れて俺が直してやった。まあ、その後にうちは色々あったからいつの間にかどっかいっちまったけどな」
「左馬刻さん…………」
「だから、あー、なんつったらいいか分んねぇ。クソッ。とにかく、勝手に捨てたらしねぇから安心しとけや」
話の終わりと同時に新しい煙草に火をつけた。指輪は外し忘れてそのままだ。
「そっか。サンキュ」
これを作った方のサマトキは消えてしまった。薄々予想はしていたけど、記憶喪失中の記憶がなくなるリスクを知りながら俺には黙っていってしまった。
俺は頭が悪いから、同じ見た目と声で、同じ半生を過ごしてきた大人の左馬刻と十四歳のサマトキを、未だに上手く切り分けられないでいる。
サマトキが俺と過ごした期間の記憶と引き替えに大人の記憶を取り戻したと分かった時、理不尽にも裏切られたような気がしたんだ。俺に、どこへも行かないと約束したのは十四歳の方のサマトキだったから。
嘘偽りなく大人の記憶を取り戻して欲しかったのに。寄る辺ないガキの世話係だからサマトキが寄せてくれる好意だって勘違いみたいなモンだったかもしれないのに。
十数年分の記憶がなくたって同じ左馬刻だと思うことにしたのに、左馬刻は変わらず目の前にいるのにたった二ヶ月分の記憶が失われたことがこんなに辛い。
今は指に一本だけの指輪を握りしめた。残っているのはこれと、律儀に約束の成績を叩き出した数学のノートだけだ。元からこの時代に十四歳のサマトキは存在しないから、使っていた皿も布団に残る匂いも全ては大人の左馬刻の生きる痕跡にとって変わる。
「捨てねぇっつってんのにテメェは」
責める口調で言われて反射的に目元を擦ったけど濡れちゃいなかった。
「なんだよ、何も言ってねぇだろ」
「うっせぇ!一人でジメジメしやがって。何で俺に言わねぇんだよ!」
「何がだよ!」
「俺の記憶がとんでる間のこと、全然話そうとしねぇじゃねぇか」
だって、アンタだって細かいことは聞かなかった。面白い話じゃないだろうし。
「聞かなくても今生活できてんじゃん。聞きたいのかよ?」
「聞きたくねぇよ!」
「ハァ?!意味わかんねぇ」
バカかよ。話にならない。顔を背けると逃げないように腕を掴まれた。じわじわと苛立ちを募らせながら振り向くと思いの外近くに左馬刻がいる。
「聞いたって腹立つことばっかだろうよ。だけど、お袋が死んだ後には妹と散々昔の話をした。良かった話も笑えねぇ話も。妹はまだ小さかったし俺だっていつか忘れたくないことまで忘れちまいそうだったからだ」
それを言われて腹の奥で渦巻いていた不安の一つが輪郭を持つ。
「いい暮らしじゃなかったが俺たちはお袋のことは忘れたくないからそうした。お前もこんなモン形見みたいにするなら俺に言っとけや。……もしかしたら聞いてるうちに思い出す可能性だって、なくはねぇだろ」
最後の方は自信なさそうに言うのがらしくなくて可笑しかった。優しく言ってくれても良さそうなことを怒ってるみたいに叩きつけてくる。
やっぱり同じ左馬刻なんだ。青臭いガキの面影がチラついて肩口に顔を伏せる。
十四歳から大人までの記憶は消えたわけじゃなくて、眠っていて無事戻ってきた。この二ヶ月間の記憶も、消えたわけじゃなくて眠ってるだけななかもしれない。
それは一生思い出されないかもしれないけど、代わりに話を聞くと言った。それを忘れた記憶の代わりに覚えていてくれるって。
気色悪いほど優しい月間はそう長くは続かなかった。飽きたんだろうな。自然と片付けの手伝いをしなくなり、ゴミは放置。部屋に呼びつけはしてもブクロなんか誰が行くか、テメェの兄貴はまじでクソ。という具合に腹が立つほど通常営業再開した。
ただ、最近は一緒にアニメを見ている。十四歳の頃とは好みが違うみたいだけど、面白ければ俺が隣に座ってる間ぐらいは黙って見ている。
それから紐製の指輪を引っかけてほつれさせたのをきっかけに大事にしまうことになった。元が消耗品の紐を編んだモノだから仕方ないところではある。代わりってわけじゃないけど、左馬刻が言い出してプラチナのペアリングを買った。裏に名前は流石にないけど左手の薬指につけっぱなしにしているお陰で行きつけの飲み屋なんかで騒がれて面倒だったらしい。普段指には何もつけてなかったのが急に一本だけはめたら、そりゃそうなる。
発注した知人のオーダーメイド工房で結婚指輪かと尋ねられても「そうだ」とは言わなかったし、例え認めたとしてもヤクザ者にそうした貞操観念が通用するのかは不明だけど。
いいさ。サマトキが残した指輪や、俺に言ってくれた言葉を飲み込んだ上で左馬刻自身が選択したことだ。十四歳のサマトキと過ごした日々の延長にコレがあるんだ。
最終更新2019/10/13 @指輪にまつわるその後の話