0406③/さまじろ/14105

 離れたところで話し声がする。喋り女性アナウンサーのテキパキとした声。口を挟むコメンテーター。ジングル。
 テレビだ。室内でテレビがついている。
 脳を刺すような痛みを我慢してまぶたを開くと、皮張りのソファと大理石のテーブルがすぐそこにあった。
 久しぶりの感覚だ。昔はよくここで目を覚ましていた。ラップバトルで左馬刻に負けて失神すると、毎回事務所のソファに運ばれた。
 ソファを軋ませて体を起こす。ワイドショーがCMに切り替わり、テリトリーバトルの映像が流れる。今回CMに起用されたのは前回バトルのイケブクロ対ヨコハマ戦だった。
 アップの左馬刻が指差すカットから兄ちゃんに切り替わる。俺は画面の端の方で小さく写り込んでいるばかり。ピントも合っていない。
 短い映像は次回バトルの日程やチケット情報を告知して飲料水のCMに変わった。
「お、目覚めたか二郎」
 ドアが開いて顔に傷のある、いかにもヤクザという容姿の男が愛想よく声を掛けてくる。見た目はともかく、世話好きでフットワークの軽い人だ。俺もよく世話になってる。
「すんません。……またぶっ倒れちまったみたいだ」
「ははっ。兄貴相手じゃ仕方ねぇわ。調子どうだ?自分で帰れっか?」
 頭はまだ痛むけど、前回左馬刻の部屋から車で送られたことを思い出すと、不調なんか絶対言う気にはなれない。
 頭を振って息を深く吸い込み、痛みも怠さも気合いで押しやる。
「大丈夫。バイクで来てるし乗って帰るよ」
「そうか。まぁ無理すんなよ。ほれ、下ンとこ駐めてある」
 投げて寄越されたバイクの鍵を両手でキャッチする。移動してきてくれたらしい。
 左馬刻一人じゃ俺とバイクの両方は運べないから、舎弟を呼んだんだ。バトルに負けると、弱いと、色んな人に迷惑をかける。
 鍵を握りしめてソファを立った。
 勝手知ったる事務所を出ようとして他に人がいないことに気がついた。
「……左馬刻さんは?」
「兄貴なら野暮用で留守だよ」
「そっか……」
 情けないバトルだったからすぐに顔を合わせずに済んでホッとする気持ちと、放って置かれる寂しさだか悔しさだか区別のつかない気持ちが混ざり合う。
 俺にとっては、強くなりたくて悩んで、その末に左馬刻とぶつかり合った。いつもよりは特別なバトルだった。
 でも左馬刻は。当たり前に勝って、すぐ他のことに気が逸れる程度のバトルだったんだ。
 もっと強くならなきゃ。兄ちゃんみたいに真正面から相手にしてもらうことができない。
 手の中の鍵を強く握りしめた。

 愛用の音楽プレイヤーをなくしたことに気づいたのはヨコハマの左馬刻の事務所から帰った翌日。どこを探しても見当たらなかった。
 ヨコハマに行ったあの日の朝はポケットにあった。バイクでヨコハマを訪れ、現地のチームに勝負を挑まれてから後は見ていない。自宅に帰ってからないことに気がついた。
 ボディバッグの中にも、服のポケットにもない。
 翌日、バトルした現場を探してみたけど見当たらない。事務所で留守番していた左馬刻の舎弟に聞いても見ていないと言われた。
 一応交番にも問い合わせてみたが落とし物の情報はなく、最後の最後で若干の気まずさを感じながらも左馬刻に電話したら、ろくに話も聞かずに「後でな」の一言でガチャ切りだ。
 それから一週間以上経って諦めかけた頃、左馬刻から用件の説明もなく呼び出しがあった。
 時間は取らないというから萬屋の仕事でヨコハマに向かったついでに外で待ち合わせた。
「おら、手出せ」
 挨拶もそこそこに命令されて差し出すと、探していた音楽プレーヤーがあっさりと手のひらに落ちてきた。
「あーっ!やっぱアンタが拾ってたんじゃねーか!」
「騒ぐな。知らねぇとは言ってねぇ」
 面倒くさそうに耳を小指を突っ込んで吐き捨てる。拾っていてくれたのはありがたいけど先に教えておいてくれても良かったと思う。
 何はともあれ戻ってきてホッとした。早速電源を入れて動作チェックしようとすると、左馬刻が向かいから手を出してくる。
「あ、何すんだよ」
 苦情無視で起動した音楽端末を操作して曲を探す。
 使い慣れた様子だった。預かってる間に左馬刻も電源を入れてみたんだ。TheDartyDawgの曲をこっそり入れていたのまでバレてるんだろうか。気まずくて取り返そうとすると向こうから放り返された。慌ててキャッチする。
「そのトラックよく聴いて詞書いてメールで送れ」
「は?」
 手の中の小さなディスプレイを見ると、無題と書かれた見知らぬ曲が表示されている。
「なんだこれ。勝手に入れんなよ」
「聴いてみてから言えや」
 仕方なくイヤホンを繋いで再生してみる。詞を付けろというだけあって聴いたことのない曲だった。
「────これ……」
 左馬刻が口の端で笑う。
「カッケェだろ」
 BPM一三〇前後。軽快に走るメロディに渋いベース。まだ調整の余地のある仮音源だけど、
「うん。すげぇ、好き」
「俺もだ」
 だと思った。俺たち二人とも好きそうな真新しいトラック。
「知り合いのトラックメーカーに作って貰った。レコーディングは月末頃の予定だからスケジュール空けとけ」
「待ってくれよ、あのさ、これって」
「俺とお前の2MCでやる曲だ。……つってもどこに出す予定もねぇけどな」
 わざと軽く言うけど、対立チームに所属する立場上、世の中に出せないのはわかり切ってる。それなのにわざわざトラックまで用意してレコーディングまでやるつもりなんだ。
 それって。
「俺のために……?」
 この間の左馬刻とのラップバトルでは、まだまだ力が及ばないのを肌で感じてガキみたいに叩きつけてしまった。ラップは元々自分の中の主張をビートに乗せて歌うものだけど、ヒプノシスマイクを使うと尚更に自分の内側を吐き出してしまうことになる。迷いや不安があればリリックも冴えない。
 この間のバトルはボロボロだった。折角左馬刻と本気でぶつかるチャンスだったのに、自分のバースさえ走り切れなかった。
 気がつくと左馬刻の事務所のソファで寝かされていた。左馬刻とまともに付き合う前はよく挑んで負けて、倒れたところを左馬刻の舎弟に助けられていたから懐かしいソファだった。
 目を覚ましたときには左馬刻は出掛けていて、留守番していた馴染みのヤクザに見送られて帰って、それっきりだ。左馬刻にメッセージで事務所まで運んでもらった礼は伝えたけど、それから大した会話はなかった。
「別に、お前のためってわけじゃねぇよ。前からいっぺんぐらい一緒にやんのもアリだとは思ってたからな」
 煙草を一本取り出して手の中で弄ぶ。柄になく俺に気を遣ってくれてるのか?
 だけど、自分が少しもやりたくもないことに作曲家まで巻き込んで時間を割く人じゃない。
「気が進まねぇなら無理強いはしねぇが……」
「やる!やるに決まってんだろ!」
 音楽プレーヤーを握りしめて食い気味に返すと、左馬刻は目を細めて、さっさと踵を返した。
「ならいい。レコーディングのスケジュールは後で連絡する」
 すぐそこで待っていた舎弟の車に乗り込んで、事前の話通り短時間で去っていった。
 自分から誘ったくせに。俺が乗ってもあまり嬉しそうにはしなかった。やっぱり気を遣われたのかもしれない。

 一年以上会っていなかった友人は、いつの間にか、こじんまりしたマンションに転居していた。
 二年前まではまだ広々したマンションに防音室と書斎まで持っていたが、今はウォークインクローゼットを改造した手狭な部屋に入るだけの機材を設置して作曲活動をしていた。
「これだけあれば十分だよ。音大生向けのマンションだから元々防音だし、近くに知り合いのスタジオもある」
 友人、入舟はそう言った。
 俺たちの世代のラッパーで知らない奴はいないトラックメーカーだ。作る曲は幅広く、自身が作詞まで手がける時は人柄の馴染む優しい詞を書く。
 裏方仕事を好んであまり表舞台には上がらなかったが、一時期は作曲業でかなり稼いでいた。
 それがほんの数年でこの隠居ぶりだ。仕事は続けているが、仕事内容はかなり選ぶようになった。
「久しぶりに連絡して、こんな金にならねぇ仕事を頼んじまって悪ぃな、入舟さん」
 こじんまりしたセッティングのソファに腰掛け頭を下げる。テーブルには数枚のCDが置いてあった。
「頭上げてよ。印税がわりの報酬はしっかり頂くんだし、左馬刻くんにはたくさん借りがあるんだからこれで少しでも返せるなら本望だよ」
「だが、折角良い曲作ってもらっても誰にも聴かせらんねぇ」
「そりゃあね」
 入舟がCDを一枚手に取る。バスターブロスのアルバムだ。
「君がライバルの弟と作る曲なんか世に出したら大騒ぎだ。でも、僕はそう言うの好きだよ」
 無精髭を撫でてアルバムの裏面、曲目を目でなぞる。
「最近はさぁ、良い曲作って世に出すとすぐに勝手にバトルのビートに使われちゃうだろ?やめてくれってSNSで言ってみてもお構いなし」
「そうだな」
 ヒプノシスマイクを使ったバトルの話だ。気に入っているビートがあれば使いたくなるもんだ。ラップだけが唯一の取り柄みたいな連中も多く、そう言う奴に限って作曲者の主義なんか気にする頭がない。
 そして入舟は音楽を愛する平和主義者だ。
 政権交代のずっと前からヒップホップを愛し、ラップをやってきた。ヒプノシスマイクを使えばかなり手強い相手になっただろうに、希望者にヒプノシスマイクが与えられた頃、入舟はヒプノシスマイクを拒絶した。
「僕はラップで主張をぶつけ合うのは好きだけど、音で怪我まで負わせちゃ意味がない。それじゃあ銃の代わりにラップで人種差別に立ち向かった先輩方に顔向けできない。だから、左馬刻くんたちが僕の曲をバトルに使わないと誓ってくれるなら喜んで提供するよ」
 にっこり笑って片手を差し伸べてくる。その手を硬く握り締めた。
 ヒプノシスマイクを使ったバトルを繰り返す俺のことを良くは思っていないだろうに。
 コーヒーを淹れ直しに立ったついでに入舟がバスターブロスのアルバムを再生する。選んだのは二郎が仲間のバンドと組んで作った曲だ。
 二郎自身もギターで演奏に参加している。如何にもガキが好みそうなガチャガチャした曲だ。
 前奏の終わり、歌声が乗る。
「チームだと切り込み隊長って感じだけど、兄弟と組んでない曲は結構印象違うんだよなぁ。この曲だけでも色んなことに挑戦してるし」
「それでとっ散らかってりゃ世話ねぇよ」
「まぁね。でもフックの頭なんかすごく良いんだけど……」
「バンドとかみ合いすぎてんだよなぁ」
 殴ってみたりフェイントをかけてみたりと気まぐれで砂利道みたいだったヴァースを超えて気持ちよくフックに入ると途端にアスファルト舗装されたようなキャッチーなフローに転じる。
 ステージでやれば幅広く受けて乗りやすいサビ。別に悪くはない。聞き手によって音楽の正解は無数にある。
 でも、いまひとつ。味気なさを感じるサビの終盤の、
「「ここ」」
 入舟と被って顔を見合わせた。破顔に苦笑を返す。
「やっぱりここだよねぇ。一発ぶち上げるなら」
「大人しくまとまってて期待外れもいいとこだ」
「手厳しいな。でもバスターブロスの曲は確かにこうなんだよねぇ」
 世間的には、アイツはバスターブロスの二番手。知名度で肩を並べる他のチームと比べても連中は三兄弟セット売りのイメージが強い。
 曲だって。3MCの曲は有名だがソロ曲はアルバムに収録された中の一曲でしかない。
 だが、それはアイツが兄弟の輪から飛び出して、自分だけが思う面白さを追求した曲だ。
 その一曲を掬い上げて俺のオーダーを理解してくれる男と見込んで今回の依頼を持ってきた。
 曲の終盤、音を味わうみたいに入舟が目を閉じる。
「色々惜しいな。歌も、バンドもね。うん。確かにMr.Hcと組んで作った曲をお蔵入りにするには惜しい子だ」
「そんな御大層なもんかよ」
「ふふ。左馬刻くんも最高にアガれるトラックになるよう善処するよ」
「アンタのことは心配してねぇ」
 それより問題は────。
 拾った音楽プレイヤーの電源を入れるとカビの生えた過去の曲のタイトルが表示された。
 再生しなくてもすぐ脳内に響いてくる、ガキの頃の一郎のフローが呪詛のようだ。

「まいどー、萬屋ヤマダっす」
 軒先で声をかけると年老いた依頼主が奥から顔を出して枯れ枝のような指で裏口を示す。
 指示された通り回り込むと、隣の敷地に溢れんばかりの荷物が積まれていた。予想より多いな、なんて面倒に思いながら軍手をはめて乗ってきた軽トラの荷台に積んでいく。
 今日の依頼は什器や家具の運搬だ。老齢で店を畳んだじいさんが依頼人。届け先はネット将棋でじいさんと仲良くなった若き経営者の店。
 ヨボヨボのじいさんのくせにチャットを使いこなしてるっていうんだから驚きだ。口で喋らせるとモゴモゴ言って何を言ってるかよく分からないのに。
 じいさんの将棋仲間の店は車で三十分。駄菓子居酒屋のオープン準備を進めるてんないに冷蔵ショーケースやレトロな木製の台を運び込み、受け取りサインを貰って午前中は終わり。
 運ぶ途中に年季の入った木板が外れたらどうしようかと思ったが、意外と丈夫な造りで問題なく仕事を終えた。
 兄ちゃんの携帯に仕事完了と戻り時間の連絡を入れる。
 事務所に戻っても兄ちゃんは留守だ。他の依頼で出掛けている。
 萬屋の仕事は大抵出張前提で、二人がかりの仕事でもないと別行動が多かった。
 車に乗り込んでペットボトルのスポーツ飲料で喉を潤し一息つく。
 誰からの返信もない携帯を確認してから音楽プレイヤーを取り出した。データ容量いっぱいまで様々な曲を入れてある。
 音楽は天から落ちてこない。色んな音を聴いて、体に染み込ませて、蓄積したものを組み合わせて組み立てて新しい音楽を構築していく。
 リリックだってそうだ。本で読んだ単語でも、いざ使うとなると自在にアウトプットするのは難しい。
 好きなフレーズ、使いたい単語。ヒントになりそうなことは後で見返せるようにメモを取る。
 ランダム再生で特別好きな曲が流れ出した。フロントガラスの向こうの景色を見ながら聴いていると閃くものがあって、自宅の近くに借りている駐車場に車を入れるとシートベルトを外す時間も惜しく携帯を取り出す。
 ワンバース分のリリックを書いて、メッセージアプリで左馬刻に送る。我ながら悪くないと思う。
 事務所に戻って着替え、簡単に昼食を作る間にメッセージ通知が立て続けに二件あった。
 一通は兄ちゃん。戻るのは昼過ぎになるから昼は食べてくるらしい。
 その次は左馬刻。
『没』
 たった一文字。
 既読通知の方が文字数が多いくらいだ。
 韻も固くてイケブクロやヨコハマにも絡めて、よく出来たと思ったのに。そんなに悪かったか?
 自分の送ったリリックを読み直して軽く歌ってみると、確かにイマイチな気がしてくる。でもそこのところはフロー次第じゃないか。だけど。
 潔くない思考に飲まれていると気がついて頭を振った。これはもう没だ。きれいさっぱり忘れて次のリリックを考えるんだ。
 ライムにこだわり過ぎてもいい詞になるとは限らない。午後の仕事までの暇に左馬刻の好きなアーティストの音源を漁ってプレイリストを新しく構築した。
 聴く音楽を変えて頭の中の色を塗り変える。
 好きなラッパーのパンチラインを借りるのもありだ。それならやっぱり左馬刻にゆかりのあるラッパーの曲からチョイスしたい。
 今朝までは兄ちゃんのオールドスクール多めのレコードコレクションから選んだ曲をインプットしていたけど、左馬刻のCDラックにはギャングスタラップも多い。
 折角一緒にやるんだから左馬刻が合わせやすい方がいいかもしれない。
 トラックだけ与えられてテーマも何も指定のない作詞作業はやりがい半分、手探りの不安半分。曲を与えてくれた期待に応えるための、最初の試練がワンバース目だと思った。
 絶対いい曲にしてみせる。その道標としてあの曲を一度だけ再生する。これが越えるべき壁なんだ。

 没以外の返事を受けたのはレコーディングの前夜だった。それも「まあいい」なんて投げやりなもので、メッセージ画面からこれ見よがしなため息が聞こえるようだった。
 それでもレコーディング日は決まっている。
 興奮と不安で眠れない夜がいつの間にか明けて、アラームの音で目を覚ました。
 萬屋の仕事は予め休みにしてもらった。音しか録らないけど気合を入れるためにお気に入りのジャケットを選んで、時間きっかりに左馬刻のマンションのインターホンを鳴らした。
 一度左馬刻の家まで向かってバイクを置き、一緒にスタジオまで行く約束になっている。
 どうにも緊張してしまって浮ついた俺とは対照的に、左馬刻は見慣れた服に手ぶらで欠伸しながら出てきた。すぐそこのコンビニまで行く人みたいだ。
 スタジオは近くに大学のキャンパスもある緑の多い地区にあった。一階は楽器店、二階にレコーディングスタジオ、三階は事務所。楽器店は定休日だったけど、左馬刻がどこかへ電話すると無精髭の男が扉の施錠を開けに暗い店内から出てきた。
「やぁ、今日はよろしくお願いします」
 愛想よく会釈したその人は普段着で店員という風情でもない。左馬刻より歳上で、ガキの俺に丁寧に名刺をくれた。
「作曲家……音楽プロデューサー……」
「今回のトラック作ってくれた人だ」
「え、あぁ!」
 慌てて頭を下げる俺ににこにこ笑って、
「コントロールルームにはいるけどディレクションは左馬刻くんに任せるから、僕のことは居ないものと思ってね」
 優しく言葉をかけてくれた。この入舟というトラックメーカーがどんな人か詳しく知らされたのは後日のこと。俺は知らなかったけど、自宅で名刺を兄ちゃんに見られた時にはどんな経路で知り合ったのか熱心に聞かれて大変だった。収録前に凄い人だなんて知らされたら別の意味でも緊張しただろうから、黙っていた左馬刻の判断は正しかった。
 スタジオは、普段はバンドの収録によく使われるというそこそこの広さのブースがあって、すでにマイクが一セットだけ用意されていた。ガラス越しのコントロールルームに左馬刻と入舟が並び、マイクの前に立った俺を見ている。
 ブースは通称“金魚鉢”と呼ばれている。コントロールルームから覗かれるのを観賞用の鉢に例えた名称だ。
 兄弟で作った曲の収録のために初めてブースに入った時も随分緊張した。あの時は兄ちゃんに励まされて、三人一緒に録音した。二度目からは一人ずつの収録が主になったけど、それでも一度目が一番不安だった。
 テリトリーバトルで最初に中王区のステージに上がった時もそうだ。
 人の視線に晒されている時はいつも試されている気がする。期待に応えなくちゃならないというプレッシャー。やってやる、という自分の内側からのプレッシャーが外からの圧と拮抗してバランスが保たれたようなギリギリのテンション。
 自分の二本の足で震えずに立っていたとしても、兄ちゃんみたいに落ち着いて安定しているのとは違った。
『それじゃあまず練習として、頭から流しますからいけるところまで歌ってみてください』
 マイク越しに入舟から指示があって、頷いて返事をした。
 ディレクションは左馬刻のはずなのに、無言で腕組みして椅子にふんぞり返っている。
 家でもワンバース目の練習はしてきた。その先は左馬刻の詞を受けて考えたかったのに、左馬刻からは何も返ってこなかったから、一人でフックも考えた。絡んでもらうための余地を残して。
 でも、一人の部屋で自分のパートだけを口ずさむとスカスカのひとりきりの歌みたいで。昨夜まで何度も没ばかり食らっていたせいで左馬刻の歌声がどんな風に絡んでくれるか想像も出来なかった。
 昔の兄ちゃんと歌ったみたいに、対等に高め合うみたいにしてぶつかり合って欲しいのに。
『ストップ』
 及第点を貰ったはずのバースの終わり。左馬刻の声で曲が止まった。
『ダメだ。やり直せ』
 不機嫌そうに言ってコントロールルームのマイクのスイッチが切れる。自分ではそこまでダサくはなかったと思うけど、ディレクターがダメだと言うんだから仕方ない。
 頷くと入舟が手振りで合図をくれて、再びヘッドフォンに曲のイントロが流れ始める。
 今度はフローを少し変えて。でもすぐ止められた。
『ダメだっつってんだろカス』
「どうダメか説明しろや!」
『根本的に、だ。ちったぁない脳みそで考えろ』
 リリック自体ダメってことか?確かにメッセージで送った時から褒められはしなかった。
 悩んで、詞自体変えることにして入舟に合図する。正直こういう展開も想定の範囲内だ。フリースタイルは常にバトルで鍛えてきたし、トラックは聞き込んできてる。ぶっつけのライブ感で良いものができることだってあるし、
『ダメだ』
 何度やってもすぐに左馬刻のストップがかかった。そのくせどうしろって具体的な助言はない。左馬刻の隣りの入舟は困り顔で見ているだけで、助け舟を出す気はないようだ。
 延々とダメ出しされて先に進めないと不安より苛立ちが勝るようになった。
 俺は俺のできる全力でやってる。何パターンもやってみせた。でも左馬刻の期待したものじゃなかった。それってやっぱり、本当は俺じゃなく、昔の兄ちゃんとやりたかったんじゃないのか?
 そんな邪推が頭を過ぎる。
『やり直し』
 飽きるほど聞いたイントロに思い浮かんだ詞とフローを乗せる。一小節で曲が止まり、ブースのドアを乱暴に開けて左馬刻が乗り込んできた。
「テメェ、舐めてんのか?」
 胸ぐらを掴んで咬み殺さんばかりに睨みつけられる。それもそのはずだ。歌ったのは昔の兄ちゃんの作ったリリックだった。当時のことは過去にしてしまったくせに、左馬刻は少し聞いただけですぐ分かるんだ。
「放せよ」
「うっせぇ。やる気ねぇなら最初からそう言えや」
「やる気ねぇのはテメェだろうが。ディレクションとか言いながらダメしか言わねぇ。とんだ役立たずじゃねぇかよ」
「ンだとコラッ」
 締め上げる手に力が入って首が締まる。左馬刻の筋張った手首を掴んで引き剥がすとすかさず拳が飛んできた。
 避けようとしたけど服を掴まれて頬で受ける羽目になった。
「ざけんなッ!」
 即座に俺も左馬刻のシャツを掴んで拳をその白い横っ面にめり込ませた。
 それに応じて左馬刻がもう一発構えようとしたところでスピーカーが鳴る。
『ストップ!ストーップ!』
 入舟だった。手を止めてコントロールルームを振り返ると、入舟もこちらに入ってきて室内の端に寄せてあった予備のマイクスタンドを移動してくる。
「君らはラッパーでしょ。だったら争いごとはラップでやりなよ」
 俺のマイクも向きを変えて、二組のマイクを向かい合いにセッティングして入舟は出ていった。争いごとはラップで、とはいえ、慣れたヒプノシスマイクじゃなく普通のマイクだ。
 一人でコントロールルームに戻った入舟は左馬刻に微笑んで目配せする。そうすると左馬刻は俯いて、深く息を吐いた。
「クソッ」
「なんなんだよ」
 俺は入舟のことをよく知らないから、二人の間で交わされたやりとりが分からない。置いてきぼりも気に食わなくて左馬刻を睨むけど、左馬刻は答えずにじっと俺を見つめて、マイクの角度を調節した。ビートも待たずに歌う気配があって、慌てて俺もマイクの前、左馬刻の正面に立つ。
『──────』
 アカペラで聞こえたのは、今回の曲じゃなくて、でも俺はよく知ってる曲だった。
「…………なんで、アンタが歌えんの?」
 高校時代の友達とバンドを組んで作った曲だった。ほんの短期間で解散した期間限定バンドで良くも悪くもインディーズの学生バンドらしい音楽だったけど、上手い下手とは別で気に入っていたから仲間に承諾を貰ってバスターブロスのアルバムに一度だけ収録した。それも初回限定版につけた特典ディスクの中の一曲だ。バスターブロスの音楽とは毛色が違って、アルバムを聞いた人間の間でもあまり話題にならなかった。
 兄ちゃんを目の敵にしている左馬刻は兄弟で作ったCDなんか興味がないだろうと思って渡してもいない。アルバムを作ることや友達とやったバンドの話くらいはしたけど。それでわざわざ買って聴いてくれるなんて期待は微塵もしていなかった。
 一曲歌い終えた左馬刻は質問に答えないまま、またアカペラで別の曲を歌い始めた。指を鳴らしてカウントを取り。
『──────』
 今度も、なんだか覚えがある。だけどすぐには分からなかった。途中でリリックが途切れてハミングに変わり、フックで間抜けな単語が飛び出てくる。フローは左馬刻の部屋でよく聴いた海外ミュージシャンの曲に似ていて、そこで気がついた。
 左馬刻の部屋で誕生日を祝ってもらった時に酔って気持ちよく歌っていた曲だ。フックは意味をなさないワードを繋げて繰り返す、でたらめな歌。リリックに意味なんかないけど、楽しくてたまらなかった。
 その時の記憶が蘇ると左馬刻も同じように思い出したのか、険しかった表情が僅かに緩んだ。
 どちらも、昔の兄ちゃんの歌い方とも、現在のバスターブロスの音楽とも違うものだ。
 酔っ払いの歌が終わると、難しい顔で少し黙り込んでから左馬刻が口を開いた。
「……気に入ったのは全部、ちゃんと覚えてる」
 それが音源にもなってない、左馬刻しか聞いていない遊び半分のメロディでも。
 真っ直ぐ伸びた指先が俺の胸の真ん中を指す。
「俺が共同制作を依頼したのは一郎じゃねぇ。テメェだ」
 手は届かないのに、トンと叩かれた気がした。

『左馬刻くーん、折角だから二人一緒に撮っちゃおう。何テイクやってもいいから』
 コントロールルームから声がかかる。
「え、一緒にって」
 やっと左馬刻が何を思っているのか掴めそうな気はしたけど、肝心の歌は何も決まらないままだ。
 焦って左馬刻を振り返る。何か言ってくれるのを期待して。
 だけど左馬刻は目を閉じて天井を仰いでいた。白い輪郭がとても静かで、場違いにも一瞬見惚れてしまう。
 そんな俺なんか気にすることなく、天に向けて深く一息吐く間に気持ちが決まったらしい。左馬刻がコントロールルームに向けて頷いた。
「ちょ、マジかよ」
「何度でもやり直せンだ。やれると思ったら絡んでこい」
 ヘッドフォンをつけ直すとすぐに最初の音が聴こえてくる。何度やってもダメだったから、最初に曲を聴いた時のワクワクする気持ちはすっかり色褪せていた。イントロを聴いても何も浮かばない。
 何をどう歌えばいいかわからない。不安を隠さず、正面に立った左馬刻を見つめた。
 軽く肩を揺すって薄い唇が滑らかに動き出す。

『灯る街灯、遠く快走するストリートファイター
俺はナイター、お前はディからナイター首突っ込むさんぴんだ
ドライビングテクは一流、には程遠い like a Monky
ジャリにゃチャリンコがお似合いだろ?』

 いつものマンションのリビングで遊び半分にやり合う時の左馬刻だ。酒で気持ち良く歌う軽さで。
 ジャブ程度に殴りつけてかかってこいと言うみたいに指先で誘われる。
 浮かぶのは愛車の後ろに左馬刻を乗せた時のこと。頼んでもないのに乗り込んできて文句ばっかり言われた。
 最近は二人揃って移動といえば車ばかりだ。わざわざバイクで二ケツはしない。
 でも俺は高校から乗り続けている愛車が気に入ってる。ガキの俺が手にした最高の脚だ。深夜でも早朝でも。ブクロからヨコハマでも。時間も場所も選ばず駆けつけられる。
 こんな風に挑発されたら黙ってなんかいられない。

『モンキーは最高のバイク、ギークのライフにゃもってこいの相棒
でも高速乗れねぇ、おまわりニッコリ安全走行
そんな遠回りじゃ間に合わなくねぇ?
瀕死のアンタのピンチにリーチ』

 迷いの分、出だしで音に乗り損ねて悔しい。
 それでも要求されるがまま、用意した言葉を破り捨てて、引き出されたフローに身を任せて歌う。
 中身はなんてことない話ばかり。
 例えば、アンタは俺をすぐバカだって言うけど、アンタだって英語の綴りがわかんないんだ。声に出さない文字が単語に混じってるのが意味わかんねぇよなって一緒に言ってた。
 それから、いつもラーメンは固めで卵は固めるなってうるせぇんだよな。コーヒーは自分で淹れるクセに飯は作って欲しがる。面倒くさいヤツなのに美味けりゃ褒めもせずよく食うから、近所のババアみたいに何度も同じ料理タッパーに詰めて運んじまう。
 そんなダサくて些細な日常が自然と詞になる。ダサくても良かったんだと今頃気づいた。
 この曲はこの場の俺たち以外、誰も聞かないんだから。強さとか、自分たちの主張とか、そういう外に向けたリリックは必要なかった。
 不思議なもんだ。乗せる歌が変わるとトラックも全く違う肌触りになった。
 攻撃的なリリックが似合いそうな攻めのトラックだと思ったのに、左馬刻の差し出したフローを受け継ぐと街の喧騒をバックに散歩しているような曲になる。トラブルも喧嘩も日常。流れていく毎日を悠々と乗りこなす。
 飄々と行く左馬刻にトラブルを持ち込むのは俺で、鬱陶しそうにするけど左馬刻だって喧嘩はまんざらでもない。歌が絡んで、いいところでフックに差しかかる。
 歌い終えるのを惜しむうちに曲が終わる。静かになるとサマトキがコントロールルームに向けて手を挙げた。
 また頭からだ。
 無言で、目顔で、「イケるだろ?」と問われて今度は先陣を切る。あんなに悩んだのに歌いたいことはたくさんあった。
 数分の曲が沈黙するともう一回。人差し指を立てて催促する。
 心地良いフローに飽きたら変化球で、誰に見せつけるわけでもないけど俺らは最高だって思えばそう歌う。

『俺たち揃えば最強最高』
『なんて言わねぇ』
『そこは言っとけよ!』
『だって俺様だけで最強だぜ?』

 もう一回。どちらともなくガラス越しに次のテイクを要求して、もう一回。
 繰り返すうちに好きなフレーズが残っていく。フローは変わるけどフックのリリックが自然と固定されていく。
 ろくな打ち合わせをしてないのに欲しいタイミングでレスポンスがあって、声がきれいに重なって。
 次にどんなフレーズが飛んでくるかわかる。俺もサマトキの曲をたくさん聞いたから。何が好きかわかる。
 織り込まれる一緒に聴いた曲のパンチライン。交互に畳み掛けるライム。
 何度も聞いたビートとそれがかっちりハマる瞬間の快感。
 視線が絡んで、左馬刻が眩しそうに目を細める。

『それが俺たちのStyle』
『俺たちのラップでかちこむLove』

  声を重ねたラスト。トラックの音が鳴りやむと自分の荒い呼吸音と耳鳴りだけが残った。
 酸欠の脳が重くて足元がぐらつきそうだ。汗ばんで首に髪がまとわりついている。
 酸素も体力も振り絞ってカラッカラなのに、腹の底からふつふつと気泡のように笑いが湧き上がってくる。声を震わせて、ごまかし半分に大きな声を出した。
「さっきの最後、Lifeって言ったのになんでだよ!Loveじゃ踏み切れてねぇじゃん!締まんねぇなぁ」
 文句をつけた俺も、最後はあんまり気持ち良くて浮かれてLoveって言っちゃった。Life、人生でも良かったけど、でも、片方の頬っぺた腫らした左馬刻の顔を見てたら、愛だなぁって気分になっちまったんだよ。
 それで、もうこれ以上はないなって気がして、二人とも「もう一回」は言わなかった。

 歌い終えると、夢から醒めた時みたいな、現実に帰ったような心地だった。
『お疲れ様。最高だったよ!』
 コントロールルームから声をかけられて、二人きりじゃなかったことを思い出して恥ずかしくなったり、急激に喉の渇きを自覚して水をがぶ飲みした。
 興奮が続いて足元がフワフワした。左馬刻に肩をぶつけながら立っていた。
「世話になりっぱなしで悪いが、コイツが疲れてっから俺ら先に引き上げさせてもらうわ」
 そんなことない、と言いたいところだが、今更強がったって意味はない。
「勿論かまわないよ。僕はここのオーナーに挨拶してから帰る予定だったし。曲の方は完成したら事務所の方に送るからのんびり待っててよ」
 後は全て入舟の仕事だ。深々頭を下げて、タクシーでマンションまで帰った。帰りの車の中でも頭の中で曲が回り続けてた。
 マンションのエレベーターに乗り込んで人目がなくなると、なんだか無性にしたくなって左馬刻の胸倉を掴んでキスをした。すぐに舌が絡んできて、こっちが仕掛けたのに防戦一方になる。
 エレベーターを降りたら部屋はすぐそこだ。玄関に入って扉が閉まるとすかさず壁に肩を押しつけられた。普段はもっと余裕ぶるくせに。まだ脳に酸素が足りてないような疲労感が残っているのに呼吸も満足にさせないくらい左馬刻も焦れていた。
 下着の腰から潜り込んだ手が尻の肉を揉む。そのせっかちな手を力づくで引っぺがして口の中から舌も締め出し、拘束しようとする腕をすり抜けてスニーカーを脱ぎ捨てる。
 不満そうに息を吐いた左馬刻がブーツを片方ずつ脱ぐのを横目に、スタートラインに並ぶのも待たずに手を叩いた。
「レディ……ゴッ!」
 廊下を駆け抜け、リビングを突っ切ってベッドルームまでダッシュだ。出遅れた左馬刻が「ずりぃぞ」とかなんとか言いながら追ってくるから尚更愉快で、着の身着のまま広いベッドにダイブした。
 時間差で左馬刻も隣に飛び込んできて、うつ伏せた俺の背中に腕がめり込んだもんだから、一瞬呼吸が止まって潰れたカエルみたいな声が出た。
 そういうのも全部面笑える。浮かれすぎて、すぐそこに左馬刻がいるってだけで最高の気分で、体力の限界で寝落ちするまでジャレあった。俺みたいにうるさく笑ったりはしないけど、左馬刻も見たことないくらい上機嫌で。きっと俺と同じような気持だった。
 
 気がつけば五月の予定を話し始める時期。
 完成したCDが届いたというので休みの昼間に左馬刻の自宅を訪ねた。
 ベランダの広い掃き出し窓から光の差し込む部屋で、薄っぺらいケースを開いてオーディオコンポにCDをセットする。
 兄弟のいる家ではなんとなく聴けなくて、時々仕事の車中で聞くばかりだった曲だ。手持ちの音源はトラックだけで、リリックは結局書き起こしてもいない。即興で作った詞の記憶は穴だらけ。最高の曲になったことは憶えてるけど。
 フィルムカメラでシャッターを切って、封筒で届いた現像された写真を見るような気分だ。まぶたの裏の景色が再び目の前に現れて景色の鮮やかさを思い出させてくれる。
 あぁ、夜中に書いた手紙を読み直すみたいだ。良い出来だとは思うのに何とも言えない恥ずかしさで、ソファの上で抱え込んだクッションに顔を伏せた。
 左馬刻はそんな俺の肩を抱いて笑った。
 この曲にはまだタイトルがない。
 代わりに手書きで収録日が記されている。
──────『0406』
 二ヶ月遅れの最高の誕生日プレゼントだ。