Free
207号室の無人の夜/魚百/16941
夜を飲み込む/夏尚/1969
虫の音/魚百/2331
冷蔵庫の中/百愛/2187
Restart/山崎宗介/13563
タンデム/まこりん/21897
こじんまりしたスーパーの袋を提げた家路で見慣れた車を見つけた。ちょうど家に続く石段の下の道で。当然ながら石段には車を乗り入れられないので、ここより上の世帯への来客は大抵近くの空き地に駐車する。宅配便などは大抵空き地へ入れずに石段側の路側に寄せて用事を済ます。その車は石段の入り口に寄せてあった。車を避けて石段を見上げると、段ボール箱を持った伯母がゆっくり昇っているところだった。駆け足で追いつく。
「伯母さん、久しぶり」
「ああ、真琴。部活始めたって聞いたけど、今日はお休みなの?」
「うん。これ、ウチに運ぶんだよね?持つよ」
横から手を出して受け取ると、転がる余地もないほどぎっしり詰まった野菜の重みが腕にきた。母より五つも上の伯母の細腕でよく運べたものだ。
「ありがと。アンタはほんと良い子だこと。うちのは頼んだって『後でやる』って言ってちっとも動きやしない」
「よっちゃん元気にしてる?蘭と蓮が会いたがってたよ」
「元気元気。今度遊びに来たらいいわ。あ、でもねえ、最近あの子、彼女連れてきたのよ」
腰を叩いていた伯母の声に元気が戻る。
「仕事のない日はいっつも家でダラダラしてるから、いつまで経っても嫁の来手がないと思ってたんだけどねえ」
「へぇ、よっちゃんやるなあ」
「そういう真琴はいないの?部活でいい成績出してるんでしょう?」
動揺で肩を震わせたのを見逃さない伯母が目を細める。わずかに体を傾けて下世話な視線から逃げた。
「いや……俺はまだ……」
「ホントに?こんなに気立てがいいのに周りの女の子は見る目がないわねえ。アンタが彼女連れてきたらみんな喜びそうなのに」
背中をバシバシ叩かれよろめきながら一緒に笑った。
「あ、伯母さん、荷物これだけだったら車動かしてきたら?」
「ああ、そうだった。悪いけどその箱お願いね」
石段を戻る伯母からやっと逃れられて息を吐いた。
ポケットの中の携帯が、“恋人”からのメールの着信を伝えていた。
日が暮れ始めた夕焼けの気配がする空の下、ホームに並んだ下校途中の生徒の背後に電車が滑りこんできた。
凛が電車を降りると、放課後の駅で真琴と遙が待っていた。学校から直接来たらしく、制服姿だった。三人でとりとめのないことを話しながら漁港を見下ろす神社のそばの家に帰る。遙はほとんど会話に加わっていなかったけれど。
空が真っ赤になる頃には二人の家に続く石段に差し掛かった。凛は真琴の家へ向かう。真琴は普段と何ら変わらない調子で、二段後ろを歩く遙を振り返った。
「ハルも一緒に勉強会する?」
遙が見上げたのは真琴じゃなく凛の方だ。凛は諦めた様子で視線を逸らしていた。口は挟まない、というポーズだ。その真琴に対して飲み込んだ言葉を吐き出してやればいいのにと思う。こっそりため息をついて遙は答えた。
「いや。…………クール便が届く予定だからいい」
「クール便?」
「親が旬だからって向こうの魚を送ってくれたから」
「ああ」
遙の父の転勤先もまた海に近い町だった。納得した真琴を追い越して真琴の家より高い位置にある自宅へ向かって石段を登る。あっと言う間に家の目の前まで来た。そこでもう一度振り返った。凛を。
家に上がってすぐにキッチンの母に声をかける。
「勉強してるから蓮と蘭にも入ってこないように言っといてくれる?」
自分でお茶とお茶請けを持って部屋にこもったら、当分誰も扉を開けない。鍵はついていないけれど、そういう信用はあった。
勉強会というのを嘘にしないために英語のテキストを開いて実際にペンを取った。高校生活も折り返し。どちらがついでだかわからないが、これも凛を部屋に招いた理由の一つなのだ。だけど、勉強に集中できるわけもない。ごく真面目に英文を読み上げてはテキストを指さし説明する凛の揺れる前髪ばかり気にしていた。
二人は恋人だった。
海外に留学していた凛のおかげで辞書いらずの予習復習はあっと言う間に終わって、当然のようにベッドになだれ込んだ。
慎重に、髪から順に触れていく。耳と頬を撫でて凛がくすぐったそうに表情を緩める間に唇に触れる。「留学中にキスもセックスも慣れた」と言ってスレた風に振る舞う割に、凛はロマンチストで、焦れったくなるような甘ったるいやり方が好きなのだと段々わかってきた。
最初の頃の少しも余裕のないときだってちゃんと受け入れてくれたけど、多少の余裕が出てきてゆっくり体に指を這わせたら驚くほど反応が違った。真っ赤になって長いまつげを震わせながら、それでも自分のほうが余裕でいなければいけないとでも思っているのか、じっと黙って真琴が焦れて直接的な行動に出るのを待っている。
それに気づいた時は堪らなくて、どこまでそのまま吐息すら我慢するのか見てみたかったけれど、やっぱりまだ凛の方が余裕なのだ。真琴が先に体の欲求の前に屈してしまう。
凛が帰国するより前は、恋愛はもっとキレイで純粋でフワフワしたもののように思っていた。そばにいるだけで満足だったり、おっかなびっくり手をつないだりするような。それが、目の前に体を投げ出されたらどうだ。満足なんて。何かを得るたび欲深くなるばかりだった。
こんなこと、家族のいる家の鍵のかからない部屋で、現場を見られたら言い訳もできない。相手が女の子だったら家族だって遠慮してくれるかもしれないけれど、凛は小学校からの付き合いの男友達だった。だから部屋に上げるときは「遊びに来た」じゃなく「勉強会」と言う。まるきり嘘にはしないけれど、正直なわけでもない。生まれてこの方親に嘘なんかついたことがなかったから、最初はいつバレるかヒヤヒヤした。それでも引き返せなかった。家族に嘘をついて部屋にひきこもってしまったら、思う存分凛を腕の中に収めることができたから。
寮に帰る凛を名残惜しんで駅まで送って帰ってくると、リビングで双子の弟妹がテレビのリモコンを取り合って喧嘩していた。
「チャンネル変えないでよ」
「だってあの人嫌いなんだもん」
「この次に面白いのやるんだってば」
蘭に一度変えられたチャンネルを蓮が戻すと、お笑い番組で毒舌やオネエキャラを売りにした芸人が男性俳優と腕を絡めているところだった。いかにもな毒々しい色合いの衣装と化粧で男性タレントに迫っては笑いながら拒絶されている。
「ほらー!」
大げさに蘭が声を挙げた。ちょっとドキッとして、咄嗟に蓮の持ったリモコンの電源ボタンを押した。
「あー!お兄ちゃん消したー!」
「喧嘩するならテレビ消すって前にも言ったろ?」
取ってつけたような言い訳だったけれど、二人は渋々テレビから離れた。投げ出していた少女漫画雑誌を読み始める蘭に、慎重に質問する。
「ねえ、蘭は何であの人のこと嫌いなの?」
「だって、この間キリシマくんに抱きついてたんだもん」
キリシマくんというのはお気に入りのアイドルのことだ。お笑い芸人との共演もよく見かける。
「それに、なんだか怖いし」
まだ小学生だ。「怖い」にも色々あるだろう。見た目のけばけばしさのことだったり、下品な言動だったり。だけど、それ以上追求するのはやめた。
「鯖の旬って秋なんだね」
「日本海側のやつは春が美味い」
「鯖鍋ですか」
「親が沢山送ってくれたからな」
「へー僕鯖鍋って初めて食べたよ!」
「初めて作った」
「そうなんですか?絶品ですよ」
鯖料理を褒められ満足気にする遙を微笑ましく眺める真琴が今日の主役だ。鍋にケーキにピザ。取り合わせはともかく、数日後に誕生日を迎える。当日は家族が祝ってくれるからと、前倒しの金曜日に遙の家に集まった。
「真琴の誕生日なのにハルの好物作ってどうすんだよ」
「ケーキはチョコケーキにしただろ」
「いいんだよ、この鍋美味しいよ」
進路指導の個人面談から戻った教室で遙が先に帰ったことを聞かされた時は肩を落とした真琴だが、遙の家に呼び出され、入った瞬間クラッカーを鳴らして仲間たちに迎えられた。それからは、渚がお椀のつゆをこぼそうが、怜が被害を受けて大騒ぎしようが、つゆまみれの服を脱ぎ捨てた怜の肉体を江がうっとり眺めようが、江に熱視線を送られる怜を凛が理不尽に怒鳴りつけようが…。ドミノ倒しで発生する混乱の中でもご機嫌だった。
ひと通り用意していたサプライズを終えて料理を取る手も止まってきた頃、凛が妹の江を呼んだ。
「そろそろ帰れ」
時計を見ると電車の時間が近づいていた。
「あれ、凛ちゃん一緒に実家に行くんじゃないの?」
「用もねえのに帰らねえよ」
人知れず動きを止める真琴を尻目に、何でもない様子で凛は答えた。
「じゃあそろそろお開きにしましょうか」
怜の一言でそれぞれが腰を上げる。当たり前のように真琴も。
「あ、マコちゃんは今日は座ってて!」
「いいよ、手伝うよ」
「いいからいいから!」
肩を押されて座ったものの、一人だけ働かない方が居心地が悪い。
「おい、渚、怜。電車間に合わなくなるんじゃないか?」
「走ればまだ大丈夫です」
「いいから後は任せて帰れ。江まで走らせるつもりじゃねえだろうな」
そうして電車組の三人が帰されると、再び真琴が片付けに手を出した。
「いいっつってんだろ。誰のためのパーティーだったと思ってんだ」
「俺がやりたいんだよ」
凛が食器を流しに運び終える間に長身の役目とばかりに高い場所に画鋲で留められた飾りを外していく。外した紙類は、名残惜しく思いながらも、ゴミをまとめていた遙に託した。
「ったく、お前もういいから帰ってろ」
次の仕事を探そうとしたところを凛が遮って背中を押した。
「でも、凛」
「片付けたら後から行く」
当然のように凛は真琴の家に泊まる約束になっている。力づくで真琴の体を玄関に向けた凛は遙が食器を洗う台所へ向かった。狭い流しの前で洗い上がった大皿を受け取って水気を拭き取る。その背中を無言で眺めていると、不意に遙が振り返った。
「やっぱり俺も手伝うよ!」
思わずそう言って戻ると面倒くさそうに凛が振り返ったが、押し切って二人の間に手を割りこませてシンクの縁にかけてあった台布巾を取った。すっかり片付いたちゃぶ台を拭きあげ、おまけに畳も少し拭いた。料理がこぼれた部分はもうきれいに拭き取られていたが。
足音に顔を上げると、皿を洗い終えた遙が手を差し出すので布巾を渡した。そしてまた言われてしまう。
「もうやることはないから帰れ」
遙の向こうで凛が頷いている。
「でも…」
言いかけた言葉を無視して遙は凛を振り返った。
「凛ももう帰れ」
「はぁ?まだ皿残ってんだろ」
「大物は片付けたから、残りは水切りカゴに置いとけば乾く」
「全部やってくって」
「いいから帰れ」
そうして二人まとめて玄関に追いやられた。家主は強い。
玄関灯が照らす寒い夜に放り出されて顔を見合わせる。
「ハルに気を遣われちゃったかな」
遙の家から少し石段を下ればすぐに真琴の家だ。施錠していない玄関扉を開けて声をかければ双子の弟妹が駆けてくる。
「おかえりなさーい!」
「パーティー楽しかった?」
「凛ちゃんだ!」
飛びついてくる蓮を器用にキャッチ&リリースして靴を脱ぎ、リビングの両親に折り目正しく挨拶する。夏から何度も訪れているのでお互い馴れた様子で、すぐに四人は真琴の部屋へ。
「今日もハルちゃん一緒じゃないの?」
「ハルちゃん最近あんまり来てくれないね」
真琴が一瞬言葉を詰まらせる。遙は真琴と凛の事情を知っている。遠慮しているのか面倒に思っているのか、三人きりになりそうな場面では何かと理由をつけて一人離れてしまう。
「……そうだね、今度蘭と蓮が遊びたがってるって言っとくよ」
「絶対だよ!」
蓮に頷いた端から蘭が腕に絡みつく。
「ねぇ、今日はお勉強じゃない?一緒にお部屋で遊んでもいい?」
ギクリとした。それを凛は冷静に見ていた。慌てる真琴が何か言う前に口を開く。
「ああ、いいよ。今日は勉強道具持ってきてねえからな」
「やったー!」
真琴が顔を見たのはわかっていたが、視線は合わせなかった。
「ゲームやろっ!」
「えー、おままごと!」
「じゃあ俺ゲーム」
「もうっ、凛ちゃんまでー!じゃあ代わりに髪の毛やって!」
「寝る前だろうが」
「いいの!凛ちゃんかわいいのやるの上手なんだもん」
「仕方ねえなあ」
にぎやかに喋りながら階段を行く凛にこっそり耳打ちする。
「凛、何か、ごめんね」
返事はなかった。
まだ小学生の双子が兄の来客にはしゃぎ疲れて眠るのはよくあることで、思い思いに過ごしていたかと思ったら、ほぼ同時に穏やかな寝息を立て始めた。蘭を抱えた凛が痛くないよう気をつけながら編み込んだ髪を解いてやる。
凛は、父を喪ってから母も忙しくなり、母方の祖父母が世話を引き受けていたとはいえ寂しくしていた妹の髪をよく編んでやっていたらしい。
「編んでやること自体が目的になってた」
優しい目で蘭の髪を撫でながら妹の話をする。江自身はあまりアレンジは得意ではないし、時間のない朝や凛が忙しくしている時は自分で無頓着なポニーテールに結っていた。兄妹にとってはスキンシップの一環だったのだ。
成長につれて凛は水泳や留学に向けた英会話などの準備に忙しくなり、江もせがまなくなった。それから何年もブランクがあったのに、漫画のヒロインの髪型を羨んでいた蘭の髪に触ったら手が覚えていた。一度身についたものはなかなか抜けないらしい。遊ぶたびに蘭のご指名を受ける。真琴の母親は家事とパートに忙しくしているので、なかなか手間のかかる髪型は頼めないのだ。
「俺がもっと器用だったら良かったんだけど」
そういう真琴は繊細さより力仕事。蘭にも「お兄ちゃんはダメ」と言われてしまっている。
「ハルちゃんも上手いけど、リンちゃんの方が可愛いの上手なの」
そう言われたら凛だって悪い気はしない。真琴の家のゲームのランキングデータには遙の名前がちらほら混じっていて、ふとしたときに双子は遙と凛を比べるので、自然と対抗意識も生まれる。当の遙が凛と一緒に真琴の家に来ようとしないので直接対決は果たされていないが、遙の記録を上回らないと気がすまなくて、飽きてコントローラーを放り出す蓮に「まだまだこんなもんじゃねえ」と言って別のゲームに切り替えることを許さない。蓮の手放したコントローラーを握らされて「仕方ないな」というポーズを取りながら、こっそりムキになっている凛を盗み見ると、すぐに見つかって睨まれてしまう。そこまで含めて微笑ましくて仕方がない。
だけど、弟妹の口からこの場にいない遙の名前が出ると、ほんの少しだけ、焦る。
眠った二人を部屋に送り届けて戻った部屋で、凛は床に敷かれた客用布団を無視してベッドに潜り込む。それを見届けて明かりを消した真琴も同じベッドに大きな体を横たえた。狭くて少しでもずれたら掛ふとんから体の何処かがはみ出してしまう。元々二人で眠るための寝具ではないのだから。だから、凛の背中に隙間なくくっついて、離れないよう腹に腕を絡めた。同じシャンプーを使ってもどこか自分と違う凛のにおいを吸い込んで緩く折り曲げられた足に手を滑らす。外側から順に、凛が焦れてくるまで。だけどすぐに手首を掴んでストップをかけられた。
「今日は疲れたからやめとく」
「……ごめん。パーティーの準備から蘭たちの相手までずっと頑張ってくれてたんだもんな」
口では聞き分けよく引き下がって、両腕で腹を抱き直した。だけど、こんなふうに拒否されるのは初めてで動揺せずにはいられない。学校も住む場所も離れているから頻繁には会えない代わりに、二人きりで閉じこもれるときには堪え性なく抱き合って、凛が嫌がることもなかった。誰だってそうなんじゃないか。好きな子の体の隅々まで自分のもので、可愛くて、気持よくて、凛も当たり前にそうなんだと思っていた。
こんなに密着していても凛は冷静なのかと思うと、ヒヤリとする。自分ばっかり好きではしゃいで、面倒くさいと思われるのは怖い。すべて凛が初めての自分と違って、凛は離れている間に色々なことを経験して、大人びてしまった。見えている景色は大きく違うのかもしれない。
思わず無言になってしまって、静けさを気まずく感じていると、身動きしないままに凛がポツリと言った。
「しばらく来ねえからハル呼んでやれよ」
「え?」
「蓮と蘭が会いたがってたろ」
また違ったざわめきが胸の奥を撫でる。自分はセックスのことばかり考えていたのに。
頭を抱えたくなる気持ちを丸めて溜め息の代わりに言葉を吐き出した。
「…………凛、ごめんな」
「別に……気を遣ってるわけじゃねえよ。来週からウチは試験勉強で忙しくなンだよ」
「そっか……」
しばらく会えないとしても凛は冷静だった。それと釣り合うくらい余裕ぶりたいのに難しい。自分の声が意図したより残念そうに響いた。
それを気にしてくれたのか、腹に巻いた手に手が重なった。
ギュッと強く抱きしめて後頭部にキスをした。凛はだんまりだったけれど。
冬休み前の山場、期末テストを終えた二日後。遙の家に凛がやってきた。
「ハル、お前……就職希望って本気なのか?」
岩鳶高校では三年生のクラス編成は進路別と決まっている。そのため、二年も後半になると、本格的に進路希望調査や面談が行われる。
進路指導担当もいるが、当然進路相談のメインは担任の仕事だ。
進路希望調査票を提出した後の個人面談で担任の女性教諭、天方に詰め寄られた。
『七瀬くん、ホントにお寿司屋さんになりたいの?成績はいいんだし、もっと勉強したいことはないの?』
どうしてもやりたいことがなかったので、跡取り息子が都会で就職してしまった近所の寿司屋の名前を書いた。祖母の代から通っていて、大将は遙のことを気に入っていた。跡取りに逃げられた昨年から板前見習いにならないかと誘われているのは本当だった。
何を言っても反応の薄い遙に業を煮やした担任は、期末テスト翌日に決まっていた今年最後の合同練習で、凛に「進路の相談に乗ってあげて欲しい」と頼んだらしい。遙の両親は揃って県外に赴任中で三者面談が出来なかったからだ。
だからといって、
「どうせ面倒くさいからってろくに調べてもいねえんだろ。資料持ってきてやったからひと通り目ぇ通せよ」
水泳強豪校と思われる大学のパンフレットを何冊もちゃぶ台に積み上げた。本当に面倒くさい。だけど人選は的確だった。凛が水泳部を目的に大学選びしていることは妹の江から伝わっていたし、いつもなら真っ先に仲介役を頼まれる真琴も進路を決めかねていた。
「就職つったって田舎の寿司屋に実業団はねえんだ。水泳辞める気かよ」
「…………」
「どこでもいいから考えてみろ。上から順に俺の志望校だけど、別に一緒の大学に来いなんて言わねえ。だけど水泳部の強いところに行けよ」
「別に……」
「高校生活はあと一年しかねえ。俺はあと一年しかお前と一緒に泳げねえのかよ」
言葉に頬を打たれて顔を上げると、凛は長いまつげを伏せて第一志望らしい大学のパンフレットを睨みつけていた。
「……わかった。見るだけ、見とく」
という会話が五分前のことだ。
要件だけ済ませてすぐ帰り支度を始めた凛と、母の作った煮物を持ってきた真琴が、七瀬家の玄関で鉢合わせた。
「凛……来てたんだ」
遙はてっきり、凛はこれから真琴と会う約束なのだと思っていた。
「ああ。でももう帰る」
凛が先手を打った。真琴が言葉を飲み込むように口を閉じたので、やっぱり凛を家に誘うつもりだったんだろう。
棒立ちの真琴の横をすり抜け、凛はあっさり出て行った。喧嘩ではないと思う。昨日の合同練習でもそれなりに普通に振舞っていたし、少なくとも怜は異変に気付かなかった。遙以外の誰も二人の仲を知らないので、些細な変化があっても察することは出来なかっただろうけれど。
まったく間が悪い。
持ったままでいた煮物のタッパーをひったくると夢から醒めたような顔で真琴が振り返った。
「おばさんにごちそうさまって伝えといてくれ」
「あ、うん。……えっ、何だよハル」
「じゃあな」
「えぇ?」
ぐいぐい押しやって困惑気味の真琴の目の前でピシャリと引き戸を閉めた。二秒ほど閉ざされた玄関扉の前で立ち尽くして、やっと意図に気づいた。パタパタと石段を駆け下りていく足音を確かめてから玄関を離れた。
「本当に世話が焼ける」
走る足音が近づいてくる。自分を追いかけてきたのだと確信を持ちながら、呼びかけられるまで顧みなかった。
「凛!」
「なんだよ」
「あ、えーっと、鮫柄に帰るんだろ?駅まで送らせて」
「好きにしろ」
横に並んだ顔が安堵している。拒まれるとでも思っていたのだろうか。
ここ半月ほど、メールや電話でのやりとりが激減していた。
付き合い始めたのは夏だった。今でこそ合同練習として月に何度か行き来があるけれど、学校も家も遠い。休みにはなるべく会っていたけれど、お互いに焦りがあった。
小学校からの付き合いと言っても小六のほんの数ヶ月過ごしただけ。それから四年もブランクがある。思春期の四年はとてつもなく重い。ほんの数ヶ月でも「昔から知ってる」気になっていたけれど、実際には知らないことの方が多い。
お互いの間にある、深さの分からない川みたいな溝を埋めようとして、頻繁に携帯で連絡を取り合っていた。「声が聞きたくて」なんて甘ったるいことは言わなかったけれど、それこそ毎日のようだったやりとりが途絶えがちになると気まずくもなる。十メートルも無言だった。
「あー……あのさ、蘭と蓮が最近凛ちゃんが来ないって寂しがってたよ」
「ハルのこと呼べって言っただろ」
「ハルが凛の代わりになるわけじゃないだろ」
凛が一瞬だけ顔を上げると、優しげな眼差しにぶちあたった。いつもどおりの人当たりの良い表情。小六の冬に転校して、遙をリレーに誘っては冷たく拒絶されていた時だって、真琴は一人も敵を作らないような穏やかさで気さくに話しかけてきた。多分、離れて過ごした四年間も同じように過ごしていたんだろう。夢のため、自分のため、周囲に波風ばっかり立ててきた自分とは元から合わなかったのではないかと疑う時がある。
顔を背けても、へそを曲げた子の機嫌を取るように根気よく話しかけてくる。
「ねえ、ハルのところへは何の用事で来てたの?」
「別に……」
一旦流しかけて止めた。いい機会かと思って。
「真琴。お前も進路決まってないんだってな」
真琴も遙と同じクラスで進路相談も担任の天方が担当している。遙の相談相手になるよう頼まれた時に「真琴は」と訊いたのだ。
『七瀬くんみたいに突拍子もないことは書いてこなかったんだけど、まだ色々迷ってるみたいなの。とりあえず大学受験クラスを希望してるからいいんだけどね。ほら、就職クラスから受験に切り替えるのって大変でしょう?』
真琴は瞬きして、すぐに話題が変わっていないことを察して頷いた。
「うん。………凛、昨日あまちゃん先生と話してたのはそのこと?」
「お前が頼りになんねーからハルの進路相談に乗ってくれって言われた」
「ハルの第一志望、たま寿司の板前見習いだもんなあ。あそこの大将、ハルの亡くなったお祖母ちゃんと仲良くって。昔からハルのこと、器用だとか、魚を見る目があるとか褒めててさ」
「…………お前、地元に残る予定なのか?」
「うーん。家から通学できる範囲内だと限られちゃうけど、特別行きたい学校があるわけでもないし。凛は勿論水泳の強いところ行くんだよね?推薦は?」
「…………夏の大会の件で顧問の心象悪くて、この先よっぽど成績残して卒なく過ごさなかったら無理だろうって部長に言われてる」
「ああ……」
創部直後の予選突破で学校の期待を背負って堂々の失格を果たした岩鳶水泳部も教頭直々にお叱りを受けたが、名門鮫柄水泳部でも当然ペナルティはある。退部を免れてなんだかんだで上手くいっている凛は細かなことを愚痴ったりしないけれど。
「推薦がなくても問題ねえ」
「凛、勉強もできるもんね」
「俺は確実に県外に出る。…………真琴、お前はどうする?」
立ち止まって射抜くような目で見つめられて言葉に詰まった。今、決断を求められているような気がして。凛を一歩追い越したところで同じように足を止めた。
二人の脇を車が通りすぎて、巻き上がった砂まじりの風に真琴は目をつぶった。そして再び目を開くと、すでに凛は歩き出していた。
「やっぱいい。送らなくていいからお前ここで帰れ。またな」
追いかけるなと背中が言っているようだった。高い夢のない自分には大した焦りもなく、ゆっくり日の過ぎていく、高二の冬だった。
足は自然と自宅を通り越して遙の家に向かった。玄関を開けながら声をかけ、返事がないのも構わず居間を覗く。遙は無表情に大学のパンフレットを眺めていた。何冊もある。凛の置き土産だということはすぐにわかった。
手にしていた一冊を左の山に重ね、ちらりと来客の顔を見て、すぐ右の一冊に手を伸ばす。
「凛はどうした」
「途中まで送ってきたよ」
「そうか」
それ以上興味はないようだった。左隣に座って、遙が読み終わったばかりの一冊を手にとった。その下にあったパンフレットも、その下も、すべて関東の大学だ。どれも名前ぐらいは知っている。
「ハルはこれのどこかに行くの?」
「…………まだ決めてない」
「だよね」
遙だってやる気さえ出せば成績は良い方だ。
「だけど、凛が、水泳部の強いところに進学しろって言ってた」
「…………」
遙にはそこまで言ったのか。自分には質問だけして、返事も聞かなかった。凛にとって遙は特別だってことを再確認させられる。
黙り込んだ真琴を遙はまっすぐ見つめた。一瞬、取り繕おうと考えたけれど、すぐに諦めた。遙とは付き合いが長すぎる。真琴が遙のことを見抜けるように、遙もまた真琴の下手なごまかしぐらいすぐに見破ってしまう。
「なんか、羨ましいな。凛にそんな風に言ってもらえて」
「じゃあ、お前は凛に一緒に来いって言われたら行くのか?」
「…………それは」
即答できるはずがない。大学受験となれば自分一人の問題ではなくなる。
戸惑って言い訳じみた言葉を発しようとする鼻先にパンフレットの束が差し出された。
「後は俺は自分で調べるから凛に返しといてくれ」
そうしてまた遙に放り出された。
保育園のお誕生会では「将来は魚屋さんになりたい」と言った。仲良しの遙が魚に夢中だったからだ。
小学校の卒業文集には「先生になりたい」と書いた。幼い弟妹の面倒を見ては褒められていたから。女の子に人気だった保育士は気が引けたから、小学校の先生を選んだ。
同じ卒業文集の中で、凛のページを開くと、自信たっぷりにくっきりと「オリンピックで金メダル」と書いてある。
今も同じ夢を追っている凛を見ていると、ちょっとだけ、自分が空っぽみたいに感じる。先生になれなくても悔しくないだろうし、先生になるのも悪く無いとは思う。その程度だ。
遙みたいに泳げたら、凛と一緒に世界を目指したかもしれないけれど、競泳自体に人生をつぎ込むほどの情熱があるわけでもなかった。仲間と一緒にやる部活の競泳が楽しかった。卒業したその先で成功するイメージがなかなか固まらない。
機械的にめくるパフレットはどれも似たり寄ったりで頭には入ってこなかった。当然だ。やりたいことが決まっていないのだから。何に注目したらいいかもわからない。
「マコちゃん東京行くの?」
背中への重みと同時に高めの声が降ってくる。取り落としかけたパックジュースを慌てて持ち直して振り向けば、渚は隣へ回りこんで腰を下ろした。
「渚、急にのしかかってくるのやめろよな」
「別に驚かそうと思って忍び寄ったわけじゃないよ。普通にドア開けて入ってきたのに、マコちゃん真剣で気づかないんだもん。ハルちゃんはこっち向いたもんね」
悪びれずに甘ったるそうなパンを並べて食べ始めた。渚に気づいていたという遙は特にコメントもなく箸を動かし続けている。
「ハルちゃんはお寿司屋さんになるんだっけ?」
「大学行く」
いつの間にか進路変更を決めたらしい。凛が紹介したどこかだろう。自分のことに口出しされたわけでもないのに尻を叩かれたような気分だ。
「マコちゃんと同じトコ?」
「知らない」
「じゃあリンちゃんと同じトコ?」
「…………」
渚は遙が面倒くさそうに沈黙しても気に留めない。
「リンちゃんとハルちゃんが水泳選手になるとして、マコちゃんもバックでオリンピック目指すの?」
「さすがにそこまで自信ないよ」
「でもこれ、水泳部の強い大学じゃないの?」
重ねてあった体育大学のパンフレットを指さした。
「あー……これ、凛から借りたヤツだから」
「でも行こうかなって考えてるんでしょ?」
「まあ…………」
「選手じゃなかったら体育の先生とか?」
「うーん」
「あ、トレーナーとか!」
頭上に電球をピカっと光らせた渚の一言で遙がちらりと視線を寄越した。
「笹部コーチみたいな?」
「コーチじゃなくって、ほら、オリンピックの時選手団に帯同したりするスタッフがいるでしょ?それになったら選手じゃなくてもハルちゃんやリンちゃんをサポートして世界に行けるかも」
「もしそのつもりになっても学校を卒業する前に二人が引退しちゃってるよ」
「えー、いいアイディアだと思うんだけどな」
渚の言葉にかぶさって部室のドアが開く。弁当を片手にした怜と、友人と昼食を済ませてきた江だった。
「いいアイディアって、今度は何を企んでるんですか、渚くん」
窓から差し込む光を反射する眼鏡をクイッと押し上げる仕草が冷ややかだ。
「怜ちゃん、ソレ、いつも僕が悪巧みしてるみたいじゃない?」
「怜、委員会はもう終わったの?」
「はい」
苦情をサラリとかわして怜もまた渚の隣で弁当を広げた。
「で、何の話をしてたんですか?」
質問してすぐに大学のパンフレットを見つけた江は返事を待たずに一人で頷いた。
「マコちゃんがね、スポーツトレーナーになるって話」
「別にまだ決めてないよ、渚っ」
「いいじゃないですか!」
「今も部長として何かと僕らのサポートしてくれますしね」
夢見たことのない夢について後輩たちが口々に賛成してくれる。
手元の体育大学のパンフレットを開くと保健医療学部の紹介にあった「トップアスリートのサポート」という文言が目についた。当然ながら、凛や遙が選手として世界に出る頃にはまだ学生の身分で、一人前のトレーナーとして働く頃には二人の現役生活は終わっているかもしれない。だけど、考えてみると悪くない。凛は現役を退いても競泳に関わっているだろうし、プロとして帯同できなくても、勉強さえしていたら、二人の役に立つチャンスも生まれるかもしれない。
思わず真剣にパンフレットを読み直している傍らでは、すでに渚の興味が怜へと移っていた。
「怜ちゃんは将来のこと決めてる?」
「当然です。僕は競泳水着の開発に携わるため、スポーツメーカーに就職する予定です」
「おおー」
「流体力学と実体験に基づくスポーツ工学的な観点からカナヅチを克服する優秀な水着を……」
「バッタ専用水着だね!」
「違います」
「でも、実体験って未だに怜ちゃんバッタ以外泳げないし」
「それを研究するんです!」
「怜ちゃんでもバッタ以外の泳法ができる水着ってドラえもんのひみつ道具みたいで夢があるよね!」
「どういう意味ですか渚くんっ」
「あ、水着メーカー志望だったらあまちゃん先生に相談しなよ!」
「そういえば水着のお仕事されてたって話でしたね」
その途端に江が不自然な大声を上げた。
「アアアアアー!」
「急にどうしたの江ちゃん」
「な、何でもないの……何でもないけど相談は止めておいた方がいいんじゃないかなーって……」
「えー?だってあまちゃん先生に相談したらコネで就職バッチリかもしれないよ?」
「相談ってコネのつもりだったんですか」
「だ、大丈夫よ!怜くんならコネなんかなくても!ね、遙先輩!」
「……水着の試着なら任せろ」
噛み合わない仲間たちの会話を背に数冊のパンフレットを選び、山から抜き出した。
「ちょっと俺、進路資料室行ってくる」
「いってらっしゃーい」
それから間もなく進路希望調査票を再提出して冬休みに入った。
「――――というわけなんだけど」
電話口で、志望校を固めた旨を経緯まで語ると、凛は素っ気なく『いいんじゃねえの』とコメントした。それで満足だった。大喜びなんてリアクションは最初から期待していない。
自分なりによく考えての目標を掲げて、ようやく凛に連絡を取る資格を得たような。そんな気持ちで電話をかけた。冬休み前はなんとなく溝があって、連絡を入れるきっかけを見失っていた。
「凛のお陰だよ。大学のパンフレット……あ、借りっぱなしだな。近いうちに返すよ」
『別に急がねえし持ってろよ。それよりお前、成績の方大丈夫かよ』
「うっ……頑張ればなんとか……」
『仕方ねえな。今度パンフレット回収がてらみてやるよ』
一も二もなく歓迎して、半月後の予定を立てた。冬休み明け最初の休日だった。
浮かれて過ごした正月明け。パート先で母親が怪我をした。
足の骨折で、さっぱり動き回れないわけではなかったけれど不便には違いなく、家事は兄弟三人で出来る限り手伝うことにした。料理は遙に教わったけれど、なかなか満足にはいかなかったけれど。遙が一緒に作りに来てくれることもあった。
そんな状況で凛は遠慮しようとしたけど、母が「勉強教えにきてくれるのに断ってどうするの」ともっともなことを言うので来てもらった。
「蘭と蓮は?」
「今日は二人だけでハルと約束してるからって出てったよ」
「おい、俺が来ない間――――」
「ちゃんとハルとも遊んでたよ」
「じゃあ――――」
「変な遠慮でもないって」
「……ならいいけどよ」
「気、遣わせてごめん」
「もういいからさっさと始めるぞ」
弟妹が不在のおかげで静かだったけれど、誕生日会の夜のことや階下にいる怪我をした母親のことがあって、指一本触れないまま勉強した。当然、ふとした瞬間に集中を途切れさせては凛を眺めて怒られたけれど。全部英会話で進める授業に倣ったのか、怒り文句が英語だったので、正直どう責められているかはわからなかった。
本当に何もないまま、電車の時間に余裕を持って階下に降りると、母の心配をして来てくれたらしい伯母がいた。
「真琴、あけましておめでとう。勉強会だったんだって?」
「うん」
陰から顔を出した凛が「お邪魔してます」と丁寧に頭を下げる。
「頑張ってるわね。スポーツトレーナーの学校目指すんだって?聞いたわよ」
「あ、えっと、うん」
年末にやっと固めた方針なので、あれよあれよという間に知れ渡るのには戸惑いがある。伯母はそんな様子にはお構いなしだ。
「市内に新しく専門学校できたもんね。ずっと水泳やってたんだし、あそこならうちから通えるしいいじゃない」
「ちょっと姉さん」
慌てて母が口を挟んだけれど、伯母はすっかりそういうものと思っている。
伯母の息子たちはそれぞれ実家を離れて勉強もそこそこ、楽しい大学生活を送っていた。伯母が愚痴をこぼす程度に帰省頻度も低く、一度都会で就職した長男が一年で辞めて実家へ戻った時にはせっせと好物を作っていたらしい。
都会は可愛い子供を奪う場所なのかもしれない。近場への進学が素晴らしい理由を次々並べ立てる。
「この間この子が骨折したばっかりだし、双子もまだ小学生だしねえ」
「あの、伯母さん……俺の志望校は――――」
心の何処かで伯母の言うことを理解しながら、誤解を解かなければと思って、言いづらいながら声を出した時、
「すいません、俺、そろそろ電車の時間なんで」
脇で黙っていた凛が愛想を乗せた苦笑いで会釈をした。
「あら、ごめんなさいね。帰るところ話し込んじゃって。気をつけてね」
「なんのおもてなしも出来なくってごめんなさいね」
母が玄関で見送ろうと椅子を立とうとするのは凛自身が断った。駅まで送ると言ったのも断られた。
「凛、あのさ、伯母さん誤解してるんだ」
「わかってる」
「両親にはちゃんと行きたい大学のこと、説明してあるし」
「ああ」
「だから……えっと」
「わかってるって言ってンだろ。さっさと戻っておばさんの代わりに皿でも洗っとけよ」
「うん……凛も、気をつけて」
「ああ、じゃあな」
誰の目もなかったけれど、髪の毛一本触らせないまま、凛はあっさり出ていった。
「何でうちにくるんだ」
軒先で呼んでから間を置いて遙は出てきた。面倒くさそうな心を隠しもしないが、鼻の赤い凛のために体をどかして道を開けた。玄関を入ってすぐ左手の居間に直行してどかりと座り込んだ。閉ざされた引き戸の隙間から醤油のいい匂いがした。少し早い夕飯か。遙は今一人暮らしだけれど、家庭のにおいだ。
縁側に向かって座ると、薄い塀の向こうに橘家がある。家族皆仲が良くて、母親の作る食事は優しい味がする。
ちゃぶ台に肘をついて両手に顔をうずめた。
「うちで泣くな」
「泣いてねえよ」
気配で遙が隣に座ったのを感じた。黙って横に座って待っている。話を聞いてくれるらしい。
「俺……別れる」
ぽつり。頭の中にあった考えは言葉にした途端に現実味を帯びてくる。引き返せない気がする。声に出すことで自分の背中を押す。同時に強烈な寂しさが襲って、手のひらを離れられない。
「……そうか」
静かに短く返事があった。遙は引き留めたりしない。フォローの言葉もないまま、ふと、塀の向こう側を見るように顔を外へと向けた。当然、掃出窓は閉まっている。雨戸は開いているので庭が見えるが、雪もない冬の庭で見るものもない。寒々しい庭からちゃぶ台の木目に戻って思う存分感傷に浸ろうとした時だ。チャイム音なしに音を立てて玄関扉が開いた。
「ハル。リン来てる?」
真琴だ。咄嗟に体が逃げようとしたけれど、逃げても仕方がない。居間からでは逃げようがない。でもまだ、考えを真琴自身に打ち明ける心の準備はできていない。大体、帰るフリをして遙の家に来たのでバツが悪い。短い間に駆け足で色んなことを考える目の前で、のんびり遙が立ち上がる。そして玄関に近い引き戸を開けると、すでに靴を脱いであがりこでいた真琴がすぐそこにいた。
「………やっぱり。いる気がしたんだ。ちょっとは凛のこともわかるようになったみたい」
凛は少しも笑わなかった。一人で笑ってみせたけど、内心では真琴だって笑っていなかった。
物心付く前から一緒の遙と違って、凛の考えはわからないことが多い。凛は「わからないままでいい」と言うけれど、相手を大事にすることと相手のことを把握しようとすることはセットだと思っていた。
だけど凛が黙っていると何を思っているのかわからなかった。付き合い始めてからは特にそうだ。でも、最後に逃げこむのは遙のところだという妙な確信があって、伯母の誤解を解いて家を飛び出してすぐにこの家に来た。正解だった。相手の考えがわかったら少しは安心できると思っていたのに、どういうわけだか、引き当てた正解に喜ぶ気にはなれなかった。
険しい顔の凛に遙が目配せした。それを忌々しげに受け取った凛が立ち上がって、手を伸ばしても触れない絶妙な距離で向かい合う。
(あ、ヤバイ)
ゾクリとくるような悪い予感がすぐに現実になる。
「真琴、いい機会だ」
「凛、ちょっと……」
「俺ら、……もうやめよう」
眉間に深いシワを刻んで、距離を詰めようとした胸を言葉で押し返された。浮かせた踵を重く床につける。
「なんで、……急にどうしたの」
急じゃない。分かっていてそんな言葉が出た。
「ずっと考えてた。“友達”とか“勉強会”とか言って、おばさんたち騙してコソコソヤって……そういうの、お前嫌だったろ?」
睨みつけるように目をジッと見つめてくる。そうしたら答え合わせが出来るみたいに。顔に、正解だって書いてあるみたいだった。
女の子相手だったら“カノジョ”として紹介もできただろう。会うのだって“デート”で良かった。改めて「騙して」と言われると、今更ながらに鋭く突き刺さる。だからといって簡単に認めるわけにもいかなかった。
「そんなの……」
「それだけじゃねえ。進学だって、わざわざ県外じゃなくてもいいはずだ。県外でももっと近場、実家に帰りやすい立地。いくらだって選択肢があるじゃねえか。家のこと心配だろ?」
タイミングが悪かった。母の怪我。伯母と鉢合ってしまったこと。
伯母や凛の言っていることは正しいのかもしれないけれど。
「…………確かに、心配だし、受験だってどうなるかはわからないけど、それとこれとは別じゃないか」
「別じゃねえ。俺は遠距離で続ける自信はねえ」
「凛………」
「お前さ、今バカになってんだよ。目新しくて気持ちいいコト覚えたてで舞い上がって、冷静な判断出来なくなってんだ」
二人きりでいて体に触りたくなるのは理屈じゃない。セックスは興奮するし、人肌は安心する。覚えたての“気持ちいいコト”を無視するのは難しい。そのせいで判断力が鈍るのも、凛は身を持って知っている。
凛が初めて関係を持ったのは留学中のルームメイト相手だった。こなれた相手主導で体を繋いで、相手を嫌いじゃなくて、興奮して、誘われれば断る気にならなかったから、自分は相手を好きなんだとばっかり思っていた。だけど違った。不安や寂しさを埋めるのにちょうどいい相手だった、というだけだった。
付き合い始める頃に「隠したままにするべきじゃないから」と、淡々と教えられた話を思い出した。
「きっと、物理的に離れて会えないうちに、いくらでもお前好みの女が現れる。束縛したって遠距離じゃ仕方ねえし、したくもねえ。それでどうしようもなくなってから報告されるのはたまんねえんだよ。」
「凛、飛躍し過ぎだよ」
「それでメンタルガタガタになって競泳にまで影響したら最悪だ。なら今のうちに清算してやる」
「待てってば」
「髪の毛一本触れない時に心変わりしても仕方ねえと思う」
「凛……」
「だからってショックを受けないってわけじゃねえ。だから……」
「勝手なこと言うなよッ!」
予め吹き込まれたテープみたいに自分の言い分を話し続けていた凛がピタリと止まった。
「凛が俺の人生決めるな」
男にしては長めの髪の下で肩が竦む。
「進路のことは、きっかけは勿論凛のことだったけど、それだけじゃない。地元に残ったら、凛やハルが世界を相手に戦うのを、俺は時々遠慮がちに携帯に応援の留守録入れるばっかりで、いつの間にか進んでく遠くの出来事として見てるしかできなくなる。そんなの嫌だよ」
「………………」
「真琴……」
「凛は俺のこと美化しすぎなんだよ。そんな模範的なイイ子じゃないし、凛からしたら間違ってるかもしれなくても、これでいいと思ってるんだ。ちょっとでも近くでいて、凛に頼りにされてたいんだよ」
次第に整った眉尻が下がってくる。瞳に沢山の光が反射して、ぎりぎりのところで長いまつげが堤防決壊を防いでいた。
怒りに任せて怒鳴ってしまったあとなのに、そんな凛の顔がかわいくて観察してしまう。凛は自分の心変わりの可能性を言わなかったけれど、この先、他の誰かにこんな表情を見せたら。誰かが、いつもかっこ良くしている凛の脆いところをみつけてしまったら嫌だな、と思う。凛がその人を好きにならなくても嫌だ。
凛がオリンピックに出場する頃、まだトレーナーとしてはヒヨッコですらないだろう。どこへ進学したって、最終的には離れた場所から見守るしかできないのかもしれない。それでも、少しでも近くにいたら、ハードルが上手く跳べなくて心折られそうなとき、他の誰かの目から弱い顔を隠す壁ぐらいにはなれるかもしれない。
そっと抱き寄せようと手を浮かせた時。ずっと黙っていた遙が動いた。
「たしかに、真琴はそれほど賢くない」
「ちょっとハル、この空気でそういうこと言う?」
第三者の目を思い出して手を止めた。凛の涙も落ちる前にケリがつきそうだったし。
空気を読んだわけでもないのに、遙は背を向けて、居間から台所への引き戸に手をかけた。すりガラスの向こう、低いところで何か陰が動く。
「……あれ?」
焦らすことなく全開になった引き戸の陰から遠慮がちに、双子の弟妹が現れた。住処を暴かれた岩の下の稚魚のように、不安げに肩を寄せあって遙と真琴を交互に見ている。
ザッと血の気の引く音が聞こえた。凛も口を半開きにしたまま固まってしまっている。真琴から縋るような責めるような視線を受けた遙は、唯一人平然としたまま応えた。
「秘密のお料理特訓だ」
聞きたいこととは少し違った答えが返ってきた。まだ困惑している兄のために双子が代わる代わる説明を足す。
「お兄ちゃんがいなくなったら二人でお母さんのこと助けてあげようと思って」
「ハルちゃんにお料理の特訓してもらってたんだよ」
「真琴は料理上手くないけどな」
「それで、凛ちゃんのピンポンが鳴った時にお兄ちゃんだと思って、ハルちゃんに頼んで隠れてたの」
「お兄ちゃんには内緒だから」
「そしたら後からお兄ちゃんが来て、凛ちゃんと喧嘩になっちゃったから…」
「痴話喧嘩だ」
「ハルッ」
「犬も食わないやつだ」
「犬?」
「蘭と蓮は知らなくていいから!」
遙の服の腰を握っていた蘭がもじもじと躊躇いがちに真琴に抱きつくと、蓮もすぐさま飛びついた。
「お兄ちゃん、遠くの大学行かないの?」
「…………蘭は、お兄ちゃんが家から出て行ったら困る?」
「……………寂しい」
「僕も………でも、お母さんの代わりのお兄ちゃんの代わりができるようにがんばる!」
強い意志を持った四つの瞳がキラキラして見上げていた。
金属鍋の軽い音と共に、うっすら漂っていた醤油と出汁の匂いが濃くなって鼻先に流れてくる。
一度台所へ消えた遙が小鉢に入れた煮物を持ってきて、真琴に差し出した。野菜の大きさが少しまばらで、確かに遙が切ったものではないけれど、真琴が作るより上手にできていると思う。
「食べてみろ。お前より筋がいいぞ」
一緒に渡された箸で人参を摘む。遙好みの味付けより少ししょっぱくて、母が作る父の好きな味に近かった。
「お洗濯もお掃除も蘭がお手伝いするの」
「だから、お兄ちゃん、心配しないで」
二人を抱きしめるための両手を塞ぐ煮物と箸を凛が引き取ってくれた。そうして空っぽになった両手で力いっぱい抱きしめた。弟妹が小さな頃はもっと沢山抱きしめていたのに、大きくなるごとにスキンシップは減っていって、こんな風に二人まとめて抱きしめたのは久しぶりだ。毎日一緒に暮らしているのに、こんなにしっかりしていたことを知らなかった。
「おばさんたち、県外で進学すること賛成してただろ。お前たち二人、考え過ぎだ」
バツが悪そうに凛が顔を背ける。だけど、「でも」はないようで、ホッとして双子の肩口で笑った。
出来上がった煮物は半分を大きな“お持ち帰り用”タッパーに詰め、残りを五皿に分けてちゃぶ台を囲んだ。
次の特訓メニューをポテトサラダに決定して、遙の「料理は片付けまで」という号令で双子がせっせと食器を集めた。見れば流し台の前には踏み台も用意してある。昔、祖母が亡くなるより前に遙が使っていたものだ。
手伝いを申し出たら、弟妹に「お兄ちゃんは座ってて」と断られた。なんだか昨年の誕生日パーティーを思い出す。という頭の中を読んだかのごとく、遙が引き戸から顔を出した。
「お前たち、もう帰っていいぞ」
そもそも呼んだ覚えがない、と顔に書いてある。何か言おうとした矢先に蓮の呼ぶ声がして、そそくさと戸を締め、流しに戻っていった。弟妹を奪われたような気がして寂しい思いもするが。
視線を感じて横を向けば、凛が面白くなさそうに見ていた。
「帰ンねえのかよ」
「うーん」
「ハルが見てれば蘭と蓮は心配ねえだろ」
「まあ、そうなんだけど」
凛は寮へ戻るし、弟妹はもうしばらく帰りそうにない。家に帰ってもつまらないのでグズグズしていると、舌打ちされた。
「やっぱりお前はあいつらのこと気になるんじゃねえか」
「そういうわけじゃないって、さっき納得してくれたんじゃないの?」
「理屈じゃねえこともあンだろ。俺が泊まりに行って『ハルちゃんは?』って言われるたびにビクビクしてたしな」
「そりゃあ……」
「お前がハルといる代わりに俺といるようになったら不自然に決まってンだろうが」
「………なんだよそれ」
「別に、俺も江にだって打ち明けてねえし、責めねえよ」
「でも、気に入らないんだろ?」
ツンと顔を逸らした。
「やっぱり凛は、俺が凛の近くで進学するの反対なの?」
「違うっ。……ただ、俺を理由にするのやめろよな」
凛のイラ立ちが加速する。忌々しげに髪をかき乱した。
何を言いたいのかわからない。知りたいのに。
「でも、理由の一つなのはホントだよ」
「だーから、これまでハルハル言ってたお前が俺に固執してたら怪しまれるっつってンだよ」
「ちょっと待って、何でそこでハルが出てくるの?」
「実際そうじゃねえか。昔も今も、ハルにべったりじゃねえか」
今も遙の家で兄弟揃って世話になっている以上図星なのだけど、図星だからこそ腹が立ってついに言い返した。
「そういう凛だって大学のこと、ハルは誘ったのに俺には何も言わなかったじゃないか!」
「言えるかよ!」
大声を出した途端に引き戸を開けて蘭がすっ飛んできた。
「ダメでしょ!せっかく仲直りしたんだから、チワゲンカはもう終わり!」
妙な言葉を教えた台所の遙を恨む。揉めたことを謝りつつ、
「あのね、蘭。痴話喧嘩って言わないで欲しいんだけど……」
「どうして?」
「えっと……」
「夫婦とか恋人同士がする喧嘩のことなんでしょ?」
「うん、まあ………えっ」
台所を顧みて蘭が声を潜めた。
「蘭はお兄ちゃんと凛ちゃんのこと応援してるんだからね」
理解できないことが起きると簡単な言葉さ
え解釈できなくなるもので、頭の上でぐるぐる単語が渦を巻いた。完全に思考停止している真琴をよそに、凛が慎重に確かめる。
「おい、何か勘違いしてるんじゃ……」
「ハルちゃんに確かめたもん。付き合ってるんでしょ?」
勘違いじゃなかった。
「ハル………アイツ何吹き込んでンだ……」
「あ、あの……蘭は、こういうの、嫌じゃないの?」
女の子が年齢に比べて色恋沙汰に敏いのは世の常だ。真琴が小学生の頃だって、クラスメイトの女子は誰が誰を好きだという話題が大好きだった。いつまでも弟妹が何もできない子供じゃないっていうことは思い知らされたばかりだが、妹は更に予想を超えた成長を遂げていたらしい。
「え?もう蘭お姉さんだもん、お兄ちゃんと結婚するなんて言わないよ!」
それはそれでショックだ。固まっていると、横合いから凛に腹を殴られた。
使いものにならない妹公認カレシに見切りをつけて尋ねる。
「男同士で付き合ったりするのって普通じゃねえだろ?こっちが悪いことしてなくても嫌がる奴も沢山いンだよ」
「うーん、凛ちゃんじゃなかったら、嫌だったかな?」
「蘭………」
「凛ちゃんって優しいし、キレイでカッコイイし、髪の毛可愛くするの上手だし」
褒め殺しだが、理想の姉像にも聞こえて凛は黙った。
「あ、蓮やお母さんたちには内緒にしてるから大丈夫だよ!」
「蘭ってばー、早く手伝ってよー!」
「はぁい」
そうして耐え難い居た堪れなさを残し、少女は嵐のように台所へと帰っていった。
双子と一緒に台所へこもっていた遙が再び顔を出したのは鮫柄方面行きの電車に合わせた時間だった。
時間が迫っていたので、荷台付きの自転車を引っ張りだして凛を後ろに乗せる。
「あんまりスピード出すなよ。サドルの高さ合ってねえんだから」
「仕方ないだろ、母さんの自転車なんだよ」
真琴のマウンテンバイクには乗せる場所がなかった。母が乗っていたままの高さの自転車を窮屈に漕いでいた。
「安定しないって思うなら凛はもっとしっかり掴まってよ」
少し考える間があって、荷台の端を掴んでいた手が腹に回る。ベタな青春映画で見るような密着はしなかったけれど、代わりに服の布地を握るのが可愛くて、片手で上から握りこんだ。ら、案の定、自転車がふらついて、控えめだった凛がギュッと抱きついてきた。
「何してんだバカッ!」
「ご、ごめん」
慌てて両手でハンドルを握りなおして反省するけれど、抱きついたままの凛に気づいて、懲りずに今度は口を滑らせる。
「今度から凛の送り迎えは毎回自転車にしようかな」
「あ?」
「外でしがみついてもらえる言い訳ができるし」
「このバカ!」
外では手も繋げなかった。自転車の上の距離は二人きりの部屋での距離だ。
「自転車に乗ってるから抱きついたり、人混みではぐれないよう手をつないだりしたら凛に触れてもいいのかな」
「言い訳かよ」
「理由だよ。理由があったらさ、高校卒業しても、大人になっていつか物理的に離れても頻繁に会いに行く必要ができたら、さ」
凛より年上だったら、競泳選手としての凛にとって社会的に必要な人になれただろうか。それには同い年では少し時間が足りないけれど。
「俺がハルと一緒にいるのが自然っていうなら、これから頑張って、凛と一緒にいる理由作るよ。周りにも、“松岡凛に必要だ”って思われるような人になるよ」
「……いつまでかかるんだ、ソレ」
「えー?とりあえず大学卒業まではかかるかな」
「気が長えんだよ」
「仕方ないだろ。それまではさ、多少嘘つきでもいいよ、俺は」
「オイ」
「少なくとも蘭にはもう正直で居ていいわけだし」
「……………」
「もしかしたら周りにちゃんと“恋人です”って言う覚悟出来る方が先かもしれないけど」
無言でうなじに頭をグリグリ押し付けられる。この調子では凛にとって必要な立派な人になる前に浮かれて覚悟を決めてしまうのが先かもしれない。
「俺、重いかな?」
凛がわざと軽く言った。
「知ってる。小学生から四年も音信不通の男に好きだったって言う奴が今更何言ってんだ」
「なっ、それを茶化すのはナシだろ……?!」
動揺して少しだけフラついた自転車を言い訳に背中にしがみついた。
軋む自転車は日暮れの人気の少ない街を走る。
冬の風がもう一つ言い訳を与えるように、自転車にぶつかって吹き抜けていった。