「僕も好きだよ」/藤ヤマ/4907

 盆を過ぎても毎日暑くて、でも夕方になれば少しは涼しい気がする。暑さに体が慣れただけかもしれないけど。
 湿度が高くていつもうっすら汗ばんでいて。
 でも、練習を終えて解散してもまだ帰りたくないような。
 ここのところ毎日そうだ。試合に負けて、でも、またここから頑張ろうって言い合って。部活の練習密度も上がっている。終わった頃にはクタクタなのに。まだ素振りしなきゃいけないような。走り込んだ方がいいような。
 そういう個人的な焦りを見抜かれて、彼は自主練に付き合ってくれた。春に転向したばかりの、一塁手としての守備練習に。
 その、帰りだった。

「好きだ」

 並んで歩いていたのに、急に彼が足を止めたので、数歩先で振り返った。
 多分、そういう意味だって、なんとなくわかった。
 ああ、確かにそういうムードあるタイミングだったかも。二人きりで、少しずつ暗くなる街並みがどこか切なく見えて。
 この夏はずっと練習で一緒だったし、それ以外でも試合観戦だの買い物だの、用事を見つけて二人で過ごした時間も多かったね。鈍感な僕は気が付かなかったけど、告白に繋がる流れはできていたのかもしれない。
 僕が可愛い女の子だったら少女漫画のヒロインみたいな気持ちになっていただろう。
 でも残念ながら可愛くもない、女の子でもない、汗臭くて砂だらけの高校球児だ。

「僕も好きだよ」

 そういう意味じゃないとわかっていてわざと軽く答えた。返事までに妙な間が空いてしまったのは疲れのせいで反応が遅れただけ、という設定にした。
 彼の言葉が足元に沈んでいく。僕の返事はあまりに軽薄で、空に消えて行く。
「……おう、サンキュ」
 多分笑おうとしたんだな。口角すらあまり上がってなかったけど。
 罪悪感で、なんの覚悟もなく余計なことを言いそうになる。彼が黙ってしまったら、ゴメンと口走っていたかもしれない。
 幸か不幸か。そこは帰路の分岐点だった。
「じゃあ、またな」
「うん。気をつけてね。お疲れ様」
 あっさり背を向けて去って行く姿を見ていると、遅れて顔が熱くなってきた。言葉にドキッとしたのは、僕の恥ずかしい勘違いだったかも。彼も友情として言っただけだったかも。容姿も良いわけじゃないし、モテとは無縁に生きてきた僕が特別好かれる理由が思い浮かばないし。
 正直僕の勘違いの可能性の方が高いかも。
 でも、アテにならない直観が言う。

『勘違いじゃないかも』
 

 学級日誌を小脇に職員室へ向かう途中。夏休みの課題冊子を手にした彼と行き合った。
「これから日誌出しに行くのか?」
「うん。今日、日直と掃除当番重なっちゃって。藤堂くんも職員室かな?」
「ああ。課題、少しずつでいいから毎日進めて持って来いって言われてよ」
 そんなところだろうと思った。夏休みが明けて少し経つが、彼の持っているのは提出、確認、返却を経てみんな持ち帰りが済んでいるはずの夏休み用課題だ。このタイミングで手にしているのは〆切破りか熱心に復習している勤勉な生徒だけ。授業中はよく眠れるんだとうそぶく彼は、もちろん前者だ。
「解答集は?」
「なくした」
 僕のも要くんに貸してから返ってこないから手元にない。
「じゃあ、わかんないとこあったら言ってよ。多分説明できるから」
「マジか。助かるわ。千早の野郎、五分で見捨てやがった」
「ああ……」
 よほど出来が悪かったと見た。彼をおちょくるのが趣味みたいになっている千早くんだから、わざと余計なことを言って喧嘩腰になったところを「じゃああとはお一人で頑張って」なんて言ってフェードアウトしたのかもしれない。
 なんだか、普通だ。
 今朝の朝練でもいつも通り挨拶して。暑いとか、兄弟がどうとか雑談もして。野球部で集まって昼休みを過ごした時も千早くんを挟んで座って。時々会話のパスもくる。気まずそうな素振りも見せない。こうして二人になっても普通に会話してくれる。
 昨日のことはやっぱり、僕の恥ずかしい勘違いだった気がしてきた。
 職員室でうちのクラスの担任と彼のクラスの担任の席は背中合わせのすぐ近くだ。先生不在のデスクの上に日誌を置くという、僕の用事が一瞬で終わった後。教科担当でもある担任の先生に課題を手渡し終了、とはいかなかった彼の横で待つことにした。
「あんまり進んでないじゃないか。 ほとんど中学の範囲だぞ」
「はい、すんませんっ」
「部活やってる他の生徒はちゃんと期限内に提出してるってのに。 なあ、山田!」
「え、まあ、はい……」
 こっちに振らないで欲しい。
「仮にな。仮に、藤堂が卒業後は野球でプロになるとして、プロでも金の計算には数学の知識がいる。それからメジャー移籍なんてことになってみろ。英語だ。わかるな?」
「はいっ」
 返事だけはいい。運動部で染みついた反射速度と良い発声。ちなみに理解度と返事のキレは比例しない。
「部活で活躍するのは大いに結構。素晴らしいことだがな。それはそれ、これはこれ」
 それはそれ、と言いながら両手で箱を持つ仕草をして、これはこれ、で右から左へ置き直す。
「授業に寝たら遅れを取り戻すために必要な自習時間がコレくらいとすると、授業をしっかり聞いてる時に自習に必要な時間はコレぐらいなんだよ」
 胸の高さの手振り付きで説教が続く。なにか、今思い出してはいけないものが頭をよぎる。そう、普段なら基本的に笑わないようなくだらない、見飽きたギャグが。
 ハッとして隣を盗み見た。
「すんません!はい!すんませっ…んっ」
 姿勢良くハキハキした返事を繰り返していた藤堂くんがプルプルしている。声も上擦って危なくなってきた。いけない。ここで噴き出しては。我慢するんだ。
 しかし笑ってはいけない場面ほど笑いが込み上げてくる。人間はそういうふうに出来ている。
 怪訝そうな先生の表情までもが、あの、『パ』のつく駄々滑りギャグの顔に見えてきた。これはまずい。一刻も早くここを離脱した方がいい。
「あ、あの……僕もクラスは違うんですけど、えーと、マメに声をかけたり、なるべくサポートしていきますから、あの、そろそろ…」
「ああ、これから部活か。 まあ、今日のところは山田の顔を立ててやるが、藤堂も気を抜くんじゃないぞ」
「はい!すんませんした!」
 やっと解放され、二人とも口を真一文字に引き結んで職員室を足早に去った。キビキビした足取りで、普段の何倍も早足で。職員室前を離れて階段前まできたところで崩れ落ちた。
「ヒーッ!つ、つらかった!げ、限界だった!」
「よく我慢した、よくがんばったよ!」
 通りかかる人々みんなが不審な目を向けるほど床で笑い転げた。小手指野球部員なら理解してくれるはずだが、貴重な理解者たちはもうグラウンドだろう。
 部活前に疲労困憊になるほど笑って、今日はもう腹筋やらなくていいかも、と思う頃。やっとひとごこちついたタイミングで顔を上げると、向こうも同じだったらしく、目があって、咄嗟に気の利いた言葉が出てこなくて困った。急な沈黙に戸惑う。
「あ、部活行かなきゃ」
「だな。起きれるか」
 当たり前のことを思い出してなんとか会話を再開すると、大きな体を伸ばして先に起き上がった彼が手を浮かし、差し伸べようとして不自然に止まってやめる。触っちゃいけないと思い出したみたいに。
 昨日のやりとりは夢や幻じゃなかったんだ。
 意識されてる。スキンシップ多めの藤堂くんがこんな風に躊躇ったのを見たことがない。
 自力で立ち上がって隣に並ぶと前を向いて、今の些細な出来事も、もちろん昨日のことも、何もないみたいに歩き始めた。
「あー時間くった。明日からは昼に課題進めとくかー」
「家ではやらないんだね」
「一人でやってもわかんねぇし姉貴はアテになんねぇもん」
 じゃあ通話で教えようか。という言葉を、今度は僕が止めた。今は言っちゃいけない気がして。
「昼休みはみんないるし、先輩たちもいるしね」
「だな。つーか、清峰だってどうせトレーニングばっかで課題やってねぇだろ。アイツどうなってんだ?」
「ああ、それね。要くんが智将の時に頼まれて夏休み中に僕が教えに行ったんだよ」
「不正じゃん」
 合法だよ。限られた人格入れ替わりのタイミングに野球だけじゃなく勉強のことまで根回ししていくなんてさすが智将。頼まれた時は過保護だと思ったけど、今思えば夏休み明けもスムーズに部活動するには必要なことだった。もちろん、清峰くんは課題の存在自体忘れていた。
「だったら俺も先に頼んどきゃ良かった」
 天を仰ぐけど、いつもならこういう時に暑さも厭わず肩を組んできただろう。「勉強会やったなら俺も誘ってくれよ」とかなんとか。
 いつも通りに見えて、今日は一度も触れてこない。
 彼はパーソナルスペースが狭くて気軽に人に触れるタイプだ。肩を叩く。手を貸す。小突く。肩を抱く。
 相手によって種類は変わるけど、朝から要くんは顔面を鷲掴みにされていたし、清峰くんは背中を強く叩かれていた。それ自体が羨ましいとかじゃないけど。
 それとなく接触を避けられてる。会話はしてくれるけど、隣にいても前ばかり向いて振り向いてくれない。気にしすぎだろうか。

「おや、藤堂くん。案外早かったですね」
 グラウンドに着くなり千早くんの歓待を浴びる。
「クソ、さっきは見捨てやがって!」
「スミマセン。俺は夏休みの最初の方に終わらせたんで、もう課題のことはよく覚えてなくて」
「嘘つけ!」
 白々しく笑う千早くんの後ろに静かににじり寄る影があった。眉尻を下げて胸の横で両手を構えている。
 これ、来るぞ。と身構えたのに、要くんからいつものフレーズは出なかった。しわしわに眉間を寄せた表情。脇を締め、両胸からビョンと勢いよく生える毛の躍動感を手の動きで表現する。まさかのサイレント・パイ毛だ。
 絶好調で藤堂くん弄りを続ける千早くんは気づいていない。その斜め後ろではサイレント・パイ毛。
 いつもならこれぐらいアレンジされても余裕で流せるのに。ハッとして隣を見ると藤堂くんも悔しそうな顔で、目があった瞬間に僕らは己の我慢を許して噴き出した。
「クッソ、ぶはははッ」
「ず、ずるいよ………ヒッ……タイミングっ」
「え、急にどうしたんですか?」
「パイ毛おもしろい」
「なになに、今日めっちゃウケてくれるじゃーん」
 振り向いた時にはパイ毛はドヤ顔に変わっていて、千早くんが狐につままれたような顔をしている。バッテリーが満足そうに頷いているがそうじゃない。
「ちが、違うんだ」
「え、なにが」
「パイ、パイ毛だけどお前じゃねーんだよ」
「俺じゃない、つまり……智将?えー、智将はやってないって言ってるけど?」
「智将のパイ毛……ぶはっ」
 一度沸点に達した笑いはあらゆるものを面白くしてしまっていけない。数ヶ月前に遡って記憶から呼び起こされた智将の無自覚パイ毛事件が時を超えてツボに入る。
 過去に、まだ要くんが副人格を自覚していなかった頃。突発的に入れ替わって表出したシニア時代の人格──智将の智将ぶりが猛威を奮っていた最中に起きた事件である。練習試合とは言え、人様の学校にお邪魔しての試合中にアホの方の挙動が滲み出てきてしまった時は、みんな混乱と絶望と不安で要くんを縛り上げたものだったが。過去になってしまえば無責任に笑えてくるものだ。
「二人でずいぶん盛り上がってますね」
「はぁ、はぁ、ごめん……職員室でちょっとね」
 呆れた千早くんの声でやっと地面に蹲っていた顔を上げた。練習前だってのに土埃だらけだ。
「はぁー、笑った。練習始めっか」
 ポンと背中を叩かれる。よかった。いつも通りに戻ったんだ。
「そうだね」
 安堵して見上げた、彼の顔。

 ああ、気のせいなんかじゃないかも。

 彼は。藤堂くんは僕なんかのことが好きだ。
 それは、僕の自惚れじゃないとすると、『恋』ってやつなのだ。

2024/7/6