マリッジ・イン・ニイガタ/さまじろ/34718

 ヒプノシスマイクに支配されたH歴が終わり、男女の平等を目指したR歴元年。若干十歳のハッカーによるサイバーテロで一部の電話回線情報が抹消され、通話や電話番号認証を利用した通信サービスが使えなくなる事件が発生した。
 すぐに被害者には無償で新規の電話番号が発行されたが元の番号は使えず、新しい連絡先を知人に知らせるための郵便物が急増。インターネットサービスの普及により減少を続けていた年賀状などのグリーティングカードがブームになった。
 そんな年に山田二郎はイケブクロを去った。

 四月初めのニイガタディビジョンはまだ寒いと言うので羽織って来たコートを小脇に抱えて総合病院を出た。
 ニイガタに入ってすぐの山間部や遠くの山には残雪が白く残っていたが、目的のニイガタ駅は春のにおいがした。同じ海辺の町でもヨコハマとは空気が違う。
 駅まで迎えに来ていた朱鷺輪会の人間の車で朱鷺輪会長の入院先まで出向き、火貂組組長の名代として見舞った後、再び朱鷺輪会の車で用意されたホテルに向かうところだった。
「帰りはおやっさんが迎え来るって言うからちゃんと待ってろよ、じいちゃん」
「わーかってらぁ。ありがとな、ジロちゃん」
 玄関正面前のロータリーで聞こえた声に顔を上げると、ボロい軽トラックの運転席に甘い垂れ目の男がいた。ふたりはまるで仲のいい祖父と孫かのようだった。男は左右色違いの目を細めて送って来た老爺を見送り、さて自分も車で出発しようと周辺を確認したところで目が合った。
 記憶より少しは精悍になっただろうか。老爺に向けて笑った顔が昔と変わらなくて、地元を遠く離れた地方だというのにすぐわかった。
「え、左馬刻さん?」
 半信半疑って様子で助手席に身を乗り出しておそるおそる手を振ってくる。
「…………チッ」
 なんでこんなところにいるんだ。舌打ちするとあちらも確信を得たようで大声でまた呼ばれる。
「左馬刻さーん!」
「…………」
「なあ! おい!」
「…………」
「俺俺、俺だよ! どこ行く予定? 時間ある? メシとか……」
「…………うるっせぇ?」
 無理やり無視してピカピカに磨かれた黒塗りのセダンに乗り込んだって良かったがあまりのうるささに負け、朱鷺輪会の運転手に荷物だけ宿に運んでおくよう頼んで埃っぽい軽トラックに乗り込んだ。

 今回のニイガタ訪問は体調の良くない組長に代わって日本海側を仕切る極道組織──朱鷺輪会とつながりを深めることが目的だ。
 まずは会長の見舞い。それから数日かけて何度か朱鷺輪会幹部と会食の予定があるが、大半は酒の席で日中は観光でもしてこいと言われている。朱鷺輪会の運転手も酒蔵ぐらいしかみるところはないと笑っていたことだし、酒なら夜飲むので暇だった。親しくもない運転手だけを連れにその辺をフラフラするぐらいなら旧知の男と茶でも飲んでやろうかと。今何をしているのかぐらい聞いたって悪くないんじゃないかと思った。
 なに会わなくなってから八年が経過していた。人間五年も経てば人相も性格も変わる。なのに久しぶりに会うと、最後に会った時の姿を重ねて相手を解釈しようとする。わかっている。馴れた様子でステアリングを回すコイツは俺と付き合っていた山田二郎とは別人なのだ。
 かつては運転免許の学科試験でつまずいてうちのリビングで勉強していたくせに都心とは様子の違う道路をすいすい運転して駅を離れ、繁華街からも離れ、海に近い古い住宅街に突っ込んでいく。古くからある石橋だとか海に繋がる河川だとかデカい神社だとか、観光ガイドのように主要な施設を見つけるたび簡単に説明してくれるが、こちらは大して興味がないから話も弾まない。ガキの頃と変わらない調子のしゃべりを聞いていると二郎は何も変わっていないような気になるが、そんなわけない。大人なりの経験則で、頭で理解している。しかし歳を取るほど懐古に気持ちを引っ張られていけない。
 自分でついてきたものの居心地の悪さを感じて外ばかり見てろくに返事もせず車に揺られていると古い一軒家に到着した。どこか手ごろな飯屋にでも連れていかれるものと思っていたのに。
「ここ、今の俺んち」
 どうだ、と得意げに手を広げて戦前に建てられたと思われる家屋を紹介された。一人暮らしには広すぎる家の隣には猫の額ほどの家庭菜園もある。玄関先にはタイヤが詰まれ、二階の部屋の半分は障子が破れていた。
「……なんで連れてきた」
「今空き家になってる家を住みながら自分できれいにしてんだよ。中は結構きれいになってるからさ」
 あがってあがって、と背中を押してガラガラ鳴る引き戸の玄関から家に押し込まれた。入ってすぐ見える階段には養生用のシートが貼りつけられている。
「右が茶の間。壁紙の張替とか新しい畳も自分で入れたんだぜ。隣りが台所で水回りは中古設備を貰ってきて磨き直したし、奥の仏間で寝起きしてる。あ、トイレはさすがに知り合いの業者に安くやってもらったけど」
「で、二階は今作業中ってか」
「そう。他にも色々やってっからなかなか進まなくてさ。見る?」
「見るかボケ」
「じゃあ茶の間座って待ってろよ。お茶持ってくるから」
 大人しく聞いていたが我慢ならなくなって台所に向かう首根っこを掴んで引き留めた。
「お前はわざわざヨコハマから来てる俺様に住宅見学会させたかったのか?」
 自分の知っている山田二郎ならありうる。価値がさっぱりわからないアニメのムック本や一様に同じキャラクター絵が印刷されたたくさんのグッズを自慢げに見せてくるガキだった。
 でもやっぱりコレは昔の山田二郎じゃなかった。
「あー……いや、頑張ったから見せたかったのもあるけど……」
 視線を彷徨わせる仕草に憂いがあってガキ臭さが薄れた。尻下がりの細い眉を申し訳なさそうに寄せて、口角だけ無理に上げて笑う。山田二郎に気を遣われている。居心地が悪い。
「えっと……左馬刻さん泊りなんだったら、折角だからうちに泊まっていかねぇかな、って思って……」
 頻繁に俺のマンションに泊めて抱き合っていた頃からもう八年。二郎がうちに来なくなって間もなく、サイバーテロで互いの電話が使えなくなってモバイル端末による連絡ができなくなった。それでも俺はずっと同じマンションに住み、同じヨコハマの同じ事務所で仕事をしていたから待っていればそのうち二郎の方からやってくるもんだと思っていた。だが来なかった。
 しばらくして偶然会った二郎の兄貴に「二郎は独り立ちすると言って街を出た」と言われ、それから手紙も何もなく月日が経った。自然消滅だ。
 今頃になって再会して、この辺で一番上等なホテルをキャンセルして改修中のボロ屋に泊れってか。意味が分からない。
「…………他に誰も住んでねぇだろうな」
「ああ、うん。一人暮らし」
 一番わからないのは自分だった。
 二郎の作り置きの麦茶と魚と貰い物の総菜を総動員した昼食を済ませた午後にホテルからスーツケースを引き上げ数日のニイガタ滞在を二郎が修繕したボロ屋の一階で過ごすことにした。
 喫煙しようにも家に灰皿もなかった。小さな後悔はすぐし始めたが、考え直してホテルに泊まり直そうとは一度も考えなかった。
 これは中年によくある懐古だけが理由だと思いたかった。

 
 夜になると二郎の家から近いコンビニまで出て朱鷺輪会の車に乗り、戦前から繁華街だったというフルマチの料亭で接待を受ける。
 相手はあちらの理事長を筆頭に集まった数名の幹部だ。スーツ姿の男ばかりで集まって食事なんかしても面白くもなんともないが、コンパニオンは断った。歓待を断るのは良いことじゃないが女の相手をする気分でもない。力関係は片田舎を仕切る向こうより関東に広く根を張るこちらの方が上だ。多少向こうのご機嫌を損ねたってかまいやしない。
「こちらのご用意したホテルもキャンセルされたと聞きましたがお気に召しませんでしたか?」
 一番若く見える狐目の轡田という男が人当たり良さそうに見える顔で尋ねるのを隣に座る年配の伊海田が「やめておけ」と小突く。狐目の方が仕事が出来そうだった。
「いえ、折角いい宿を取っていただいたのにすみませんね。たまたま知人と行き合って家に呼ばれたもんで」
 隠すほどのことでもないので説明すると狐目は大きく頷いた。
「ああ、それって二郎のことでしょう?」
 親し気に名前を呼び捨てるので少し癇に障った。
「迎えもヒヨリヤマの方に呼ばれたって言うんでもしかしてと思ったんですよ」
 自宅まで知っているのか。
「……ええ、ご存じでしたか?」
「碧棺さんとそんなに仲がいいとは知りませんでしたが、アイツにはうちも世話になってますから」
「そうなんですよ。一昨年だったかなぁ。ふらっとニイガタにきてそのまま住み始めたんですよアイツ」
「前はヒョウゴだのグンマだのあちこち行ってたって話してましたけど。ここいら辺には身内もいないのにわざわざ移住してきたのなんか二郎ぐらいでね、モノ好きだって散々からかわれてたもんですが……」
「あっという間にこの辺の半グレと仲良くなっちまいやがった。腕が立つし小回りもガキどもに顔も利くとくらぁ。ウチにスカウトしていっぺん断られたんですけど依頼は受けるってんで雑用やらしてんです」
「そんなに二郎と親しかったなら先に言っといてくれたら先にアイツにも声かけときましたのに。いやはや、そういうことだったら仕方ありません。アイツは俺らにも物おじせず図々しいこと言うヤツですから」
 ヤツの倍以上の歳の極道がやんちゃな倅の話でもするように二郎を語るのを大吟醸を啜りながら聞いた。昼間は途中で二郎に仕事の電話がきてゆっくり話す間もなかったので、図らずも他人の口から近況を知ることになった。
 大陸に面した日本海を臨むニイガタディビジョンは直近の戦争により、家も人もそれなりの被害を受けていた。領空侵犯機を即座に撃墜する自動式兵器の発達により、日本を攻めようとしていた外国軍は海岸線沿いに配備された迎撃兵器の破壊に重点を置いた。結果、海沿いの一部地域は被害が大きく今も空き地や空き家が多い。また、廃校を改装して開設した孤児院に子どもを収容したものの、成人する歳になっても職にあぶれてヤクザの下っ端や夜の街で働く者が大半を占める。武器根絶と女性保護を掲げた言の葉党によるH歴時代に女性向けの支援があって多くの女が関東にある中王区や、中王区近郊の女性向け住居に移住していったが、支援対象外の男たちは置いてきぼり。戦後復興支援も行き届かず、ぽつぽつと建設された近代的なビルと廃墟同然の古い家屋が混在するちぐはぐな街になっている。
 そこに移住してきた二郎はニイガタに来た時点で内装、左官や機械修理の技術を習得していて、親しくなった地域の若い連中を率いて空き家改修を始めたそうだ。昔から頭は悪いが手先は器用で体で覚える方はめっぽう得意だった二郎らしい。
 その一軒が自宅にしているあの家ってわけだ。今は地元の大工と若者の仲介をして住宅修繕を任せ、自分は自宅を拠点にしてヤクザもカタギも行政も関係なく依頼を受ける萬屋として街を走り回っているそうだ。朱鷺輪会からも重宝されている。そりゃそうだろう。十代の頃から俺が使っていたガキだ。喧嘩も情報収集もお手の物。ついでに今はちょっとした機械や住宅内装、水まわりの修理なんかもできるらしい。
 二郎の話で勝手に盛り上がる朱鷺輪の連中を眺めながらこの土地でしか飲めないという冷酒を呷ったが美味くはなかった。酒どころの地酒もこんなものか。

 雑談から始まった会食も土地の事情や隣接する団体との情勢についての情報交換に移り二軒目のクラブまでは付き合ったがソープの誘いは断ってボロ屋に帰った。
 遅い時間だったが門灯がついた見知らぬ一軒家に帰るのは変な気分だ。
 不用心にも玄関は施錠されていなかったからそのまま入ると台所から二郎が顔を出した。
「おかえり。風呂入る?」
 自分はすでに部屋着のジャージ姿で何か頬張っていた。なんだか香ばしい美味そうなにおいが奥から漂ってくる。
「何食ってんだ」
「焼きおにぎり。なんか腹減ってさ」
 茶の間にスーツの上着を放り投げて台所に侵入するとトースターで今まさに追加のにぎり飯が炙られている。
「風呂の前に飯」
「食ってきたんじゃねーの。また酒ばっか飲んでたのかよ」
「うるせぇな。ちびちびした刺身だの焼き物だので腹が膨れるか」
「店どこだよ」
「あ? 確か、シダとかシガとかいう……」
「しだ屋なら天ぷらとかイカ飯うまいのに」
 そういえば接待相手もイカ飯がどうとか言っていた気がする。雑談中は機嫌が悪くてなんでも適当に聞き流していた。なんだか無性にムカついて二郎の足を蹴りつける。
「いてっ。まあいいや。湯船入るなら食ってる間にお湯張るけど?」
「お前はシャワーだったんだろ。いらねぇ」
「はいはい」
 焼きおにぎりが出来上がるまで台所に置かれた小傷の多いダイニングテーブルで缶ビールを空けた。
「いつまでいンの?」
「用事が済んだら帰る」
「決まってねぇのかよ。じゃあ明日の予定は」
「昼過ぎから埋まってる」
「ふーん。あ、ニイガタで食べたい物とかあったら言っといてくれよ」
「別にない。黙ってたって名物の美味い店には連れていかれるだろうから調べてねぇ」
 とりとめない質問に答えた。誰と会ってきたとか、何の目的できたかなんて質問はされなかった。
 腹が満たされた後、二郎の伸びきったスウェットを借りて風呂を済ませた。ホテル生活のつもりできたせいで寝るための服がなかった。
 風呂場も二郎とその仲間が改装したらしい。こちらの方が広いが古さはガキの頃に家族で住んでいたアパートといい勝負だった。使える建材はそのまま使っているために風呂は古めかしいタイルと新しいタイルが入り混じっていたし、給湯器と水栓周りは取り替えてあるのに湯船そのものは古い設備をそのままはめ込んでいた。こんな貧乏くさい風呂は記憶が遡れないぐらい久しぶりだ。本当なら今ごろ絨毯敷きのホテルの広い風呂に入っていたはずなのにどうしてこうなった。
 歯ブラシが一本と歯磨き粉と石鹸だけ置いてある簡素な洗面台で適当に髪を乾かして戻ると仏間に二組の布団が敷かれていた。この家で人が横になれる部屋が茶の間と仏間だけなので予想はしていたが。
「客の扱いがなってねぇな」
「客ったって左馬刻さんじゃん」
 頭を叩いた。
「ちゃんとマットレスは敷いてるからそんな体痛くなんないよ。薄いヤツだけど」
「そういうことじゃねぇ」
「……ったく、仕方ねぇなあ」
 二つの布団のニ十センチほどの隙間を倍ぐらいに広げて「ほら」と言われたのでもう一回頭を叩いて諦めた。
 なんだかやけに疲れた。三十路を過ぎてから徐々に疲れやすくなってきたことに加齢を感じる。何もかも面倒になって安っぽい布団に転がり、スマホの連絡だけチェックしているうちに眠気がきた。二郎が洗濯がどうの言っている声が聞こえたが無視して目を閉じる。
 いつの間にか薄れた居心地悪さの最後のひと欠片が頭の奥に泥のように張り付いていてすっきりしないまま入眠した。

 まだ眠いのに朝七時に起こされた。
 こちらは午後から出かける予定だから午前は寝られると思ったのに。萬屋の朝は早い。
 起こされた時にはもう一仕事終えて帰ったところだと言う。家の中は味噌汁の匂いがした。
「昨日結構飲んできたみたいだからしじみの味噌汁にしてみた」
 あとは昨日の昼と似たような貰い物の漬物や焼き魚が並んでいた。なんでも依頼報酬として食料の現物支給にしている顧客がいるらしい。つまり金がない客からの依頼も受けてるってことだ。
 偽善者の兄貴の顔がチラつく。二郎の兄貴の山田一郎とはつるんでいた時期もあるが、一度決別してから和解を経ても正義ヅラが気に食わない野郎のままだ。ブラコンの一郎も可愛い弟を誑かした俺に恨みがあるから積極的な交流はない。
 サイバーテロから数ヶ月後に一郎と偶然出会した時も他に聞くあてがなかったから仕方なく二郎の様子を尋ねて旅立ったことを教えられた。一郎なら二郎の新しい電話番号だって連絡用のメールアドレスだって知っていたに違いないが、教えてくれと頼むことをしなかった。兄の下から独立したいと言っていた二郎がいつか出て行くんじゃないかと覚悟はしていたからだ。それが思ったより早く、連絡も断ち切られるとまで予想しなかったが。
「今日は午後に迎えの車が来るんだっけ?」
「ああ、朱鷺輪の先代の墓参りに同行してそのまんま夜はまた飲み」
「午前はどうすんの」
「お前が起こさなきゃ寝てたわ」
 嫌味のつもりだし伝わっているだろうが無視された。いい根性だ。
「そんじゃ暇ってことだな。土産とか買って帰るなら余裕もって買ったほうがいいぜ。最近観光客増えてきたから駅の日本酒専門店なんか結構混むんだよ。どういうのが欲しいか言ってくれたら俺が案内するし」
 土産は自分で買わなくても朱鷺輪会から持されると思うが口に米が入っていたから適当に頷いておいた。
「組とかMTCの奴らには酒や酒のつまみでいいとして、合歓姉ちゃんには女の子向けっぽいのがいいかな。……そういや姉ちゃんは元気にしてんの?」
「ああ。勘解由小路無花果と二人で新しい仕事を任されてるって張り切ってる」
「じゃあ忙しいんだな」
「一緒に住んでねぇから詳しいことは聞いてねぇ」
「え、マジで? あんたシスコンなのに?」
 うちは普通であってシスコンじゃないが、百億歩譲っても山田家三兄弟には言われたくない。テーブルの下で足を蹴り付けた。
「飯食いながら蹴るなよ。でも、アンタはずっと兄妹で住んでるんだと思ってた……」
「中王区の解体でゴタついてた時は一時的に住んでたし今も暇がありゃ泊まってくけどな」
「そっか」
 ペラペラ喋ってた二郎が急にターンダウンして黙々と飯を口に運び始めた。
「なんか文句あっかよ」
「いや、別に。えーと、じゃあ無花果の分も土産いる?」
「いるわけねーだろ」
 先に食べ終わった茶碗をシンクに持って行って水桶に沈め、仏間に置いた荷物から着替えを引っ張り出した。昼からはまたスーツでなきゃならないが、いかにも筋モンってスタイルで街歩きは悪目立ちするだけだ。ラフなシャツとジーンズを身につけてちんたら食べている二郎のクローゼットを勝手に開けた。動きやすさしか考えていないような服ばかり。借りて外に着ていくのはごめんだ。かといって、持って来たコートはスーツに合わせたデザインだから今の格好には釣り合わない。
「おい、土産屋の前に服屋に案内しろ。買い足したい」
「寒いなら俺の着れば?」
「断る」
 ダサいと口に出したわけでもないのに意図は正確に伝わり、台所から文句を垂れた。

 連れてこられたのはまたフルマチだった。フルマチ通りという長い商店街はニイガタ駅から伸びる大通りと垂直に交わって左右に分断されている。昨夜連れていかれた料亭は飲み屋が集まった東側。今日二郎に連れられてきたのは反対の西側だ。
 その名の響き通り古いアーケードの下に商店が軒を連ねている。時計店、文房具、喫煙道具屋、ブティック、パン屋。二階がある店が多く、大半が二階は別の店になっている。理髪店、何かのカルチャースクール、書店。営業しているのかはわからない。一階の店舗が廃業している店はシャッターが降りていてわかるが、二階はどこも灯りがなく、単純に営業時間前なのか空き家になっているのか判断が難しい。
 しかし戦前からある建物にしては窓ガラスに割れがなかった。
「あれは直したんだよ。使ってない建物でも完全に放置されてるって見た目だと訳アリの奴が住みついちまうし。定期的に見回りがてら換気もして、入居者募集してんだ」
 言われてみると、よくある窓に外向きに文字を貼るタイプの看板はあまりなかった。多くは何も貼られていないきれいな窓ガラス。その他の今風の看板を上げている店は不動産屋経由で近年テナントに入った店らしい。戦争で被害を受けたとはいえ、旧新潟県の中心地だ。新しく店をやりたい地元の人間が一度は検討する立地なのだと二郎は言う。
 とは言ってもほんの一握りの新しい店を除いてほとんどの店がひと時代ふた時代前にオープンした歴史を背負っていて、古さが逆に洒落て見える。あちこち猛スピードで開発が進み、商業的な都合であっさり壊されてはまた新築される都会の対局にある。ビジネスの世界から見放されたが故にレトロな風景を維持している街だ。外の人間にはそう見える。過去も未来もここで生きる人々にとってどう見えるのかはわからないが。
 アーケードの下では野菜や陶器や軽食を売る朝市の最中だった。
 店番は老人がやっているが、重たい商品を車から下ろしたり並べたりしているのはもっぱら若い男たちだ。
 みんな二郎を見かけるとしわしわの手を振ったり、段ボール箱を持ったまま元気よく挨拶の声を響かせる。コイツらも二郎が仲介したガキと大人なのかもしれない。大人は店を持っているが労働力を持たず、ガキどもが新しく店を持つのは簡単ではないが体力はある。見た限りではみんな明るい顔で働いていた。
「二郎ちゃんこないだじいちゃんのこと病院まで送ってくれたんだって?」
「たまたま拾っただけだよ。トシオさん調子どう?」
「変わんねわね。いつも足が痛ぇだの言いながら畑行くぁんだわ」
 向かいの苗木屋のじいさんが笑った。
「トシオは長生きするさぁ」
「マツじいも腰痛めたの治ったのかよ」
「しょっちゅう痛めてっからいつの話かわかんねわ」
「マツゾウさんが倒れたら俺が店継ぐんで大丈夫っすよ二郎くん」
「シロヤが店乗っ取るの?」
「まったく半年そこらで一丁前言うようになったもんだねぇ」
「まあね。それより二郎くん聞いてよ。妹が転勤でコウベディビジョンに行くことが決まったんだけど……」
「そりゃまた遠いな」
「そうなんすよ。友達も親戚もいないんで心配でさ」
「わかった。あっちの友達紹介するわ」
「あざっす!」
「おーい、二郎ちゃん。そっちの話終わったんならちょっとこっち寄ってくれる?」
「ああ、了解」
 あっちで呼ばれてもこっちで呼ばれてもみんな二郎を信頼している。イケブクロを歩く一郎みたいだ。昔憧れていた兄の後を追うのをやめ、遠くの地で独立したのにますます兄に似ていく。
 昔はともかく、今はなろうとしてそうなったわけじゃない。一郎を見て育った二郎の本質がこうなのだ。
 複雑な思いで眉間に皺を寄せながら、少し離れて二郎の後ろをついて歩いた。
 途中でコーヒーのいい香りがして香りの出所を振り向いた。パン屋の二階に珈琲専門店の看板が出ている。
「二郎、おはよ」
 コーヒーに気を取られている間にまた二郎が新たに話しかけられた。若い男だ。食材をぎっしり詰めたカゴを持っている。
「おはよ」
「散歩中か?」
「んーまあそんなとこ」
「じゃあ丁度よかった。今店に戻って来たとこだからちょっと寄ってきなよ。そろそろ豆なくなる頃だろ?」
 親し気に挨拶を返していた二郎が「豆」のあたりで挙動不審になった。離れて歩いていた俺を素早く振り返って「いや、今はちょっと」なんて歯切れ悪くなる。
「あれ、連れいたの?」
 他にも歩いている人間はいるのに男はひと目で二郎の連れを特定して愛想良く頭を下げた。
「いいじゃん。二郎のお客さんならコーヒー奢るよ」
「客……だけど、これから買い物に……」
 ひょろ長い体を情けなく丸めて視線をその辺に彷徨わせて店に寄らない理由を探している。
 大股で距離を詰めて急に様子が怪しくなった二郎の頭をわしづかみにした。
「いいじゃねぇか。コーヒー一杯ぐらいの時間あるだろ」
「あれ、お兄さんなんか見たことあるなあ」
「俺のことはいい。ちょっと寄らしてくれや」
「大歓迎です。美味いコーヒーご馳走しますよ」
 男はコーヒーの香りの方に歩いていき、案の定、パン屋の二階の珈琲専門店に案内された。
「なんで二郎そんな顔してんの」
「いや、別に……」
 気まずそうな二郎を引きずってカランコロンとベルを鳴らして店に入ると七十歳前後とみられるマスターがカウンター内に置いた椅子から「おかえり」と出迎えた。
「じいちゃん、ブレンド二つお願い。二郎のお客さんだって」
 通されたカウンターのテーブルは艶のある飴色でよく磨かれているが端に少し傷があり、スツールには手製のカバーが掛けられていた。出されたコーヒーカップは輸入品の古い品だが、カウンターの奥に並べられているものを見ると、拘りの見える古いカップは三割ほどで残りは新しそうなシンプルなものだった。店内の調度品は何十年も経過したものが多いけれどアーケードに面した窓ガラスは新しい。ここもまた戦争を跨いで存在する新旧が入り混じった店だ。
 老爺が丁寧に淹れてくれたブレンドコーヒーは美味かった。おもてで聴いた話だと豆の購入もできるらしいので自分用の土産に決めた。朝はコーヒーと決めているが、二郎の家に滞在しているせいで今朝はやかんで沸かした麦茶だった。店員のヘラヘラした若い男や様子がおかしい二郎のことは気に入らないがラッキーだ。こんなに美味いというのに二郎は引き攣った顔で飲んでいる。まだカフェオレしか飲めないなら最初からそう言えばいいのに。
「どうっすか。これ、二郎も買ってる豆なんだけど、二郎の淹れたのより美味いでしょう?」
 店員にくせに二郎の向こう側に腰を下ろした男が満面の笑みで言った。途端に二郎が元気に慌てだす。
「ちょ、ちがっ、淹れてないから!」
「そうなの? こんな時間にうろうろしてるから二郎ンちに泊りで来てんのかと思った。朝は飲むだろ、コーヒー」
「それはそうだけど、ちょっと黙ってくれよ!」
「え、そんな悪いこと言ってないよね?」
「悪いっつーか……とにかくその話やめ!」
 しどろもどろの二郎が面白い様子で男はニヤニヤしている。わざとだ。見かねたマスターが助け船を出した。
「アキオや、そろそろ仕事しなさい」
 言われてアキオは渋々スツールを降りてカウンターの奥へと消え、顔色の悪い二郎だけが残された。老爺はそれ以上何も言わない。
「おいお前、家にコーヒー豆なんか隠し持ってたのか」
「隠してたわけじゃ……」
「麦茶と水と牛乳しか勧めてこなかったよな」
「それは……そうだけど……」
「俺が朝はコーヒーだってことを忘れてたわけか?」
「そんなまさか……」
 家にコーヒーを淹れる用意があるのに意図的に隠されていたことが確定した。どういう嫌がらせだ。
 二郎と付き合っていた当時から朝は自分でコーヒーを淹れる生活をしていた。豆にもこだわるし、二郎が泊った朝は二郎の分のカフェオレも作ってやっていた。
 子供舌の二郎がコーヒー牛乳じゃないと飲めないとぬかしたからだ。そのためにカフェオレ向きの豆を新しく買うようになった。
 あの頃は二郎が自分で淹れたいと言ったことはなかったし、下手くその淹れたコーヒーを飲むのは御免だったからやらせようとしたこともない。
 それなのに今ではインスタントでもなく、自分で豆を買ってコーヒーを淹れているという。会わないうちにずいぶん変わったものだ。
「ンなビビらなくたってバカにしねぇよ。俺に飲ませたくないなら俺は自分で淹れるから好きにしろ」
 一緒に朝を迎えていた頃にもし二郎が自分もハンドドリップをやってみたいと言って加減知らずにどばどば湯を注いで失敗しようものなら怒った自信があるが、習慣になるほど繰り返しやって自分で楽しんでいるものを揶揄おうとは思わない。ただ、変わったなと思うばかりだ。
 間もなく奥からアキオが戻ってきて会話に割り込んできた。観光はしたか。アレは食べたか。二郎の話や移住者の話。ディビジョンの外にツテがある移住者は大抵が都会と地方を行き来して仕事しているのに二郎は昔から住んでいるみたいに毎日この辺を駆け回っている話。
 喋りすぎてマスターに窘められても今度はマスターを巻き込んでニイガタは観光するにはパッとしない、米と海産物と酒ぐらいしかいいところがないという話を繰り返した。

 予定より長居して、コーヒー豆を購入して店を出た。二郎もいつも買っているらしい店のオリジナルブレンドを受け取って、無言でアキオの背中を殴りつけた。随分仲が良いことだ。

 最初の目的だった服は古着屋で調達した。狭い空間に押し込むようにして古着を並べているような店だったが、四十過ぎのオーナーに希望を伝えるとどこに何があるか把握している迷いのなさでセンスのいい服を何着かピックアップしてくれた。
「僕MTCのファンなんですよ」
 テレビや雑誌やネットで見た私服を参考に選んだそうだ。商売上手のオーナーと好きなブランドの話で盛り上がって自分のジャケットのついでにろくな服を持っていない二郎の分も買った。大人のこだわりというものがわからない二郎は横で変なプリントTシャツを見ていた。
「じろちゃんより僕の方が左馬刻さんと話し合うんじゃないの?」
 揶揄われた二郎はにやけたオーナーの背中も殴って抗議した。これについてはオーナーに異論はない。

 時間が押しているので簡単に昼食を済ませたいとリクエストした結果、昼はイタリアンという謎の焼きそばになった。
 すごく美味いというわけではないがニイガタに来たからには食べていけと言って二郎に連れていかれた店だ。イタリアンという名前のくせにもやし混じりの太麺焼きそばにミートソースがかかっている謎の料理だった。少なくともイタリア料理でない。いかにもB級グルメですという見た目で、罰ゲームとして出てくるような強烈な味でもない。
「どうです?」
 店内に六席しかない安っぽいテーブルで体を丸めて食べていると、他に客もなく暇を持て余した中年店員がカウンターから話しかけてくる。
 どうと言われても、すごく不味いわけでもなく、美味いと言うほどでもなく。無理に褒めても見え見えのお世辞になってしまう。コメントしづらい。
「………………予想してた味じゃなかった」
「はははっ。都会の人にわざわざ食べてもらうような美味いもんでもないですよねぇ」
「えー俺は結構好きだけど」
 元々ジャンクフードばっかり食って青春期を過ごしたコーラ信者の弟は美味そうにハンバーグ乗せイタリアンを頬張っている。
「ありがとうね二郎ちゃん。地元の若い子たちはあんまり食べに来てくれないから今の子の口には合わないのかと思ってたけど、二郎ちゃんや伊海田さんとこの子がちょくちょく来てくれるから助かってるわ」
「確かに仲間が食ってるの見たことなかったかも。伊海田さんの親戚ってニイガタ出身じゃねーの?」
「よく知らないけど関東の方から来たらしいよ。それも最近は飽きられちゃったみたいで来てくれなくなったんだけどね」
 ご当地フードという物珍しさで美味く感じていたが、いつでも食べられると思って通っていると物珍しさというフィルターが外れるのはよくあることだ。と考えたが口には出さない。
「じゃあその分俺が食いに来るよ」
「あらぁ、ありがとうね。お土産用に冷凍のイタリアンもあるからね」
 ちゃっかり宣伝する店員と目が合ってしまい、二郎の家の備蓄として買って帰ることになった。たった数百円のジャンクフードを買ってやっただけなのに喜んで店員にピースサインなんかしている。相変わらず安上がりな奴だ。その呑気な様子を見ていたら、コメントしがたいジャンクフードも値段以上には美味い気がしてきた。

 午後はスーツに着替えて朱鷺輪会と合流。海の近くにある霊園を訪れた。
 移動中に窓から見た海辺の施設は大半が海上からの砲撃で破壊されており、再開発のために更地になっているか、あえて半壊状態で残されているかの二択だった。新しい建物の建築は進んでいないようだ。
 二郎の家のあるヒヨリヤマも海に近く、かつて建物があった気配の残る更地があちこちに残っていたが、海が見えるエリアはその比じゃない。霊園の一部も被害に遭ったのだが先代は運が強かったんで墓が無事だったんだと幹部が笑った。
 爆風でなぎ倒された他の墓石や霊園の囲いを直すのにも無償で朱鷺輪会から人を出したそうだ。当時、跡目を継いだばかりの現会長がいち早く物資をかき集めて避難所に届け、終戦後は傘下の土建屋に損壊が大きい建物を取り壊させた。行政が混乱していて建物の損壊調査や個別の立ち入り禁止通知が出るのもいつになるか分からない状況下。全壊寸前の家屋に帰ろうとしたり、軒を求めて侵入した市民が倒壊した家屋に押しつぶされる事故が相次いだ。
それを聞きつけた会長は「地上げはやくざの得意分野だ」と分かる限りの土地所有者に土地代を渡して権利を買い取った。土地家屋を奪って更地にした上で、先祖代々の土地を取り戻したいという元の所有者には傘下の建設会社に新居を建てさせることを条件に同じ土地を安く売ってやった。
 現在残っている更地の半分は息を吹き返してきた自治会が買い取り、残りは朱鷺輪会系列の土建会社や不動産会社が所有している。
 ぐるりと一周みて回った最後に説明役の轡田がこう締めくくった。
「親父が言ってました。戦争のときは底をつくほど金をばら撒いたが堅気の皆さんが生きていてくれなきゃ極道もシノギができない。まずは人を生かすんだ、ってね」
 なるほど。ウチの組長が手を組むだけはある。
 

 夜は食事の後に雀荘に移動した。また伊海田に風俗店に誘われ気分じゃないと断ったら、横にいた轡田から経営している小さな店を貸切にするのでどうかと提案されたのだ。
「実は僕、『呑む・打つ・買う』の『打つ』しか趣味がないんですよ」
 下手の横好きで、なんて言いながら轡田は慣れた手つきで牌山から一枚ツモって表面を親指で撫で、周囲の河に捨てられた牌にだけ視線をやってそのままツモ切りした。目視せず指の腹で牌に刻まれた模様を読み取ることを盲牌と言うが、やるにはそれなりの経験を必要とする。難易度のわりにできたところで有利になるわけでもない技だ。麻雀オタクしかやらない。
 酒の席では周りに勧められた酒かビールばかり飲んでいた無頓着ぶりだったのに雀卓を囲んだら水を得た魚のようにイキイキする。存外分かりやすい男だ。
「そういやそんなに呑んでなかったな」
 今も頭数合わせに呼んだ口の固い舎弟二人にも飲酒を許しているのに自分一人だけ烏龍茶だ。ノンアルコールでも四人きりの店内で一番ご機嫌でむやみやたらに手牌を触っている。
 その上で当たり前のことみたいに答える。
「酔うとアガリ牌見逃しちゃうかもしれないでしょ?」
 そう言う割にはツモもロンも言わないが。
「なるほど。じゃあ女は?」
「あんまり興味ありませんねぇ。伊海田さんはすぐ人をソープに連れて行きたがるんですけど時々口の軽い女の子がいるから僕はちょっと。こんな田舎町で性癖をバラされたら恥ずかしくて表を歩けなくなりますよ」
「どんな特殊なプレイがお好みか聞いてみたいもんだな」
「やめて下さい、人が悪い」
 パチパチと小気味良い打牌の音が響く。もう一人二人聴牌していい頃合いだが、対面が字牌を一つポンして安そうな手を控えめに晒したきり。リーチの声もあがらない。地味な展開だった。みんな積極的にアガろうという意志が見えない。静かな卓だ。
 やはり無難な牌を切りながら轡田が話を変える。
「それより、初日に親父の見舞いに行ってくださったんですよね」
 昨夜の会食の席でも見舞いの話は出たが、会長が入院しているなんて大っぴらに話すことじゃない。身内ばかりとはいえ各々の腹の中は複雑で、誰もその話題を広げることなく手短に感謝を述べられて終わった。
 考えの読めない細い狐目と視線を交わして煙草の煙を深く吐いた。
「ああ。……会長に可愛がられてるアンタに言うのも悪いが、アレは長くもたねぇだろうな」
「ええ……。僕もちょくちょく見舞いに行ってるんですが、口を開いたかと思えば弱音ばっかり言うようになって。長年酒と煙草ばかりやってたツケです」
 狐男が気落ちした様子で俯くとオールバックになでつけた髪がひとふさ、儚げに顔に落ちた。
「ツケねぇ。そりゃあ耳の痛い話だ」
「ヤクザももう太く短くの時代じゃないでしょう。長生きしてほしいこっちとしてはね禁煙しろ、酒減らせって臆さず言ってくれる人をそばに置いといて欲しいんですけどね。姐さんは先に亡くなったし、うちの兄貴分たちはみんな愛煙家の酒好きだし、僕みたいな若輩の言うことは聞いてくれないんですよね」
 歳をとると自分より若い者の意見を素直に聞き入れるのが難しくなるとよく聞く。確かに昨日も灰皿を探していて二郎に「禁煙しろ」と言われたが結局空き缶を見つけてきて喫煙した。
「フンッ。そんなもん言われたところでうるさいばっかりだろ」
「ハハッ。その顔は言われた心当たりのある顔ですね。女か誰か、いや…………ああそうだ、明日お帰りでしたよね。観光はできましたか? 結局おもてなしは二郎に任せきりになっちまって気になってたんですよ」
 コイツが何から何を連想して新しい話題を振ったかについてはあえて無視する。
「ぼちぼちだな。駅のこっち側はだいぶ見させてもらったが駅向こうはさっぱりだ」
 病院も何もかも駅の北側にあるので線路を越えた覚えがない。新幹線が到着する直前に車窓から見た時には背の低い建物が広がる普通の地方都市の景色だったが。
「駅南はのどかな住宅街です。あとは駅の近くに少し飲み屋があるっきり。今は他の地域からの移住も少なくて目新しい店もこれといってありません。発電所のあった東の方は焼け野原。西側は住宅と田畑。どこも村社会の田舎そのものでわざわざ見て頂くようなものもありませんし、他所の方がうろつくと目立ってしまってご不快な思いをさせるかもしれません。元々ニイガタには食べ物以外大したものがないもんで」
「商店街の若いヤツもおんなじこと言ってたぜ」
「ニイガタには何にもないって?」
「食い物以外、な。ロン」
 聴牌してから二巡目に下家の轡田が当たり牌を切った。捨て牌の最後尾に出された「發」を見過ごさず手牌を倒して手をオープンにする。
「おっと、やられましたね」
 困った風の小芝居をするので鼻を鳴らしてしっしっと手を振った。
「何をぬけぬけと。接待麻雀なんかつまんねぇから本気でやれや」
「これは失礼しました。それじゃあお言葉に甘えてもう半荘…」
 全自動雀卓に牌が吸い込まれていくのを眺めてふと視線を上げると、轡田の舎弟たちが困り顔で視線を合わしていた。

 日付が変わる少し前。本気の麻雀オタクにボコボコにされて接待分のプラスをきっちりゼロに沈められたところでお開きにした。楽しそうな轡田とは反対に、客の持ち点がどんどん沈んでいく状況に舎弟たちの顔色は悪くなる一方。勝負の負けや賭けた金の支払いはどうでも良かったが強面が青ざめていくのが不憫で適当なところで止めることにしたのだ。
 兄貴分の大暴走タイムが終了して息を吹き返した舎弟に車を回すので待っていてくれと言われたが夜風に当たりたくなって一人で先に外に出た。昼間はそれなりに車も人もいた通りも閑散としたもので、時折スナックから客の見送りのホステスが出てきたり、背広の男が次の店に移動するのをぼんやり眺めた。
 そんな道の向こうで小さな人だかりを見つけた。抑揚のある人の声がしたから喧嘩かと思ったが、続いてちょっと甘さの滲む通る声が歌い出したので、それがサイファーだとわかった。
 五人で向かい合って順にラップしている集団に近づく。メンバーの見た目はかなり若く、高校生から二十歳前後が多くて一番小柄な少年は中学生ぐらいに見えた。おそらく二郎が一番年長だ。
 マイクが一周してスマホで流していたビートを止めたところで二郎がこっちに気づいた。
「あ、お疲れ。もう帰れンの?」
 つられて他のメンバーもこっちを振り返る。みんなアホヅラでぽかんと口を開けていた。
「待ってたのか?」
「いやたまたま。あったかくなってきたしサイファーやりてぇなって」
 春になると虫とバカが浮かれだす。あったかくなったと言うが、ヨコハマ住民の感覚ではニイガタの夜はまだまだ寒い。
 駆け寄ってきた二郎の後ろではラップスキルに伸び代しかないガキ共が小声で囁きあっている。
「え、ホンモノ?」
「カッケェ……。二郎くん仲良かったのかよ」
「ネットでしか観たことねぇ……」
「背ぇ高っ! 目つき鋭っ!」
 その中の一人、一番チビが横から近づいてきたかと思えば目をキラキラさせて油性ペンを差し出してきた。
「あの、サインもらって良いっすか? B.Bさん!」
 頭をぶん殴った。
「いたぁっ!」
「俺はB.Bとかいうブラコンダボ野郎じゃねぇ! つか全然似てねぇだろ!」
 早口にキレるとすかさず的外れな反論が飛んでくる。
「俺の兄貴はブラコンでもダボでもねぇっつーの!」
「アホブラコン次男坊は黙ってろ!」
 チビの手から奪ったペンでアホの眉間をぶっ叩いた。どいつもこいつも。
「俺はヨコハマのMAD TRIGGER CREWのMr.Hcだ。覚えとけクソチビ」
 シャツの裾が書きにくかったから後ろを向かせた背中に『MTC Mr.Hc』と書きつけた。これで次会った時にも間違えたら本気でシバく。
「つか、俺らがテレビに取り上げられてたピークの頃はコイツまだ小学校に上がったばっかだったんだぜ」
 別にMTCを知らなくたって構やしないが、MC B.Bの名前だけは知っているのに腹が立っただけだ。おおかたブラコン二郎が語って聞かせたお陰だろうが。
 チビ以外はちゃんと分かっている様子で、チビの背中に書かれたサインを囲んで興奮している。
「うわーホンモノのMr.Hcだ……」
 ヨコハマじゃ今ではヒップホップグループMTCのリーダーではなくヤクザとして見られることばかりだし中王区政権解体を境にラッパーとしての活動は縮小。それに伴ってメディアに出ることもなくなったお陰で久しぶりに芸能人扱いをされている。
「おいおい、俺だってホンモノのMC M.Bだぞ」
 ガキ共が俺にばかり騒ぐもんだからBusters Bros!!!のやつが拗ねたが、
「じゃあ二郎くんも隣にサインしていいよ」
 チビは子供特有の雑さ加減でペンを渡してシャツへの記名を許可した。
「舐めてんなー……」
 文句を垂れながら青いシャツに並べて名前を書く。しかしいつでも遊べる近所の兄ちゃんのサインを羨ましがる奴はいない。二郎の落胆が上塗りされただけだった。
 ニイガタディビジョンの若いラッパー達は自称二郎の弟子で、アホで遠慮のないところをよく受け継いでいた。
「サマトキさんまだいるンすか? 明日も俺らこの辺でサイファーやってるんで来てくださいよ!」
 少し話した束の間に雲の上の有名人から近所の兄ちゃんの友達ぐらいに扱いがグレードダウンしている。しかも今の俺は見るからにカタギの格好じゃないのに度胸があるのか、バカなのか。
「遊びに来てんじゃねぇぞタコスケ。明日の昼の新幹線で帰る」
「えー、残念」
「また来たときに遊んでくださいね!」
「だから遊びに来てんじゃねぇって」
 まとわりつくチビの頭を掻き回してひっぺがし、二郎にでも押し付けようとしたが顔を見て手をとめた。さっきまでチビ達と一緒に笑っていたくせに。
 今回は別に二郎に会いにきたわけではなかったし、そもそも二郎がニイガタにいることさえ知らなかった。二郎だってイケブクロを出てからの居場所を連絡してきたことはなかったし、この二日間、どうでもいいような話しかしてこなかった。
「もう、帰ンの……?」
「ああ。さっき決めた」
 そんな顔するとは思わなかった。八年前はお前の方が出て行ったくせに。
 ひとの部屋に持ち込んだ漫画やガチャガチャの景品や少しの着替えを置きっぱなしにして、また来週も顔を出してもおかしくないぐらい普通に部屋を出て行った。あれが別れだと気づいたのは随分経ってからだった。
 明日は俺が二郎の家を出ていく。
「………二郎」
 つい口から名前が零れ出て、ぎこちなく二郎が笑う。
「何?」
 かけるべき言葉が見つからなくて、代わりにポケットに突っ込んだ手の中でスマホが短く震えるのを感じながら、一秒前まで言うつもりではなかったことを言った。
「萬屋に頼みたい仕事がある」
「萬屋に仕事?」
 説明は帰ってから。引き受けるかどうかはそれからでいいと思っていたのに、
「わかった。任せとけよ」
 自分の胸をトンと叩いて一歩踏み出す。電光看板の光がオッドアイに反射して長いまつ毛の下の瞳を輝かせていた。

────独立したいんだ。
 妹の買い物を手伝った帰りに二郎から連絡がきて二人で食事をした時のことだった。
 中王区解体の際、言の葉党の要職に就いていた妹は一時的に無職になっていた。貯金はあるし住居がないわけではないが、言の葉党に不満を持っていた男たちの中にはかつての言の葉政府役人たちに反感を持ち続けている者もいて、元言の葉党員が多く住む宿舎への不審な郵便物や外壁への落書き行為などの嫌がらせが相次いでいると聞いて放ってはおけなかった。
 すぐにヨコハマのマンションに呼び寄せて住まわせることにした。新しい分譲マンションを買い与えてもよかったが、何でもかんでもしてやろうとすると嫌がられるので、新しい仕事と自分の稼ぎで住める安全な住居が見つかるまでの間だけ。
 それから妹が細々した生活用品を揃える際に同行したり、国家再建に絡んだシノギも複数抱えて何かと忙しくしていた。そのせいで二郎に費やす時間は後回しになった。奴は女みたいに「仕事と私どっちが大事なの」みたいな面倒なことを言わず、忙しいと言えば簡単に引き下がるので実際どう思っているかなんて気にも留めなかった。
 その日会ったのも久しぶりだった。食事をしながら最近の様子を報告し合い、ついでに今更ながらに将来の話を尋ねた。
 二郎たちの世代はあらゆる制度の見直しの真っ最中で混乱が多く、大学進学率も極端に下がっていた。元からあまり勉強が得意じゃない二郎は半自動的に兄の経営する萬屋に就職し働いていたが、少しずつ世の中は変わっていく。妹が新しい社会で新しいキャリアを考えているように、二郎だってやりたいことがあるならやればいい。そう思って妹の話の流れで質問した。
 その答えが「独立」だ。
「まだまだ兄貴みたいにはいかないから、修行して、いつか独立したいんだ。もっと色んなこと見て、身につけて、兄貴も越えられるように……」
 いいんじゃないか。ずっと兄貴の金魚のふんしているよりずっといい。商売をやるには金勘定が出来ないと困るからそこだけが心配だが。好きにやってみればいい。軽く言った。気は強くても女の身である妹よりずっと気楽に応援してやれる。
 政権崩壊に伴って世に出回ったヒプノシスマイクは大半が回収され、新規に特別許可を受けた一部の使用者以外は使えなくなった。妹もマイクを手放した一人だ。元の言の葉党員はみんなそうしたのだと言っていたが、兄としては心配で仕方ない。過保護と言われようが出歩く時にはなるべく同行するし、次に住む家を決めるときも一緒に下見するつもりでいる。ヒプノシスマイクを持っていた時期は男とも渡り合っていたせいか、妹は自分の身は自分で守れると思っているようだが、ヨコハマでしのぎを削っている身からすると考えが甘いと言わざるを得ない。
 二郎は一郎の近くにいるとどうしてもどこかで頼りにしてしまうから街を出ようかと思うと言った。いい心がけだ。あのブラコンは物理的に離す以外にどうしようもない。二郎は頭は良くないが腕は立つし、自分でなんでもやれる歳だ。そろそろ兄の下から飛び出した方がいいだろう。
 そんな話の途中で妹からスマホにメッセージが入った。家に届いた荷物を代理で受け取ったとの連絡だった。配達員のフリをした変質者もいるから応対しなくていいと言ってあったのに。深くため息を吐いて返事を送り、手元から顔を上げ、黙々と飯を胃に詰め込んでいる二郎を見て妙に安心したものだ。コイツは妹と違ってアホだが心配がいらない。
 それから次に二郎が家に来た際。やりそびれていた就職祝いのつもりで金を包んで渡した。萬屋の仕事は就職という気がしなかったから渡していなかった。
 独り立ちのために兄弟と住んでいる家を出るなら金もいるだろうし、実際に一人前になって独立祝いを贈れるのはずっと先だろうから、いいタイミングかと思って。
 変に律義なところのある二郎はいつも仕事の報酬以外の金は受け取らなかったが、この時は祝儀袋をじっと見つめて素直に「ありがとう」と受け取った。
 その日は妹が余計な気を回して友達の家に泊まりに行っていたので自宅でゆっくり過ごして、いつも通りに泊めて、家の近所のコンビニに煙草と飲み物を買いに行って店の前で別れた。確かに二郎は「また」とは言わなかった気がする。
 でもそんなのが八年もの別れになるとは思わなかった。
 サイバーテロの際に二郎も電話番号抹消被害に遭っていると気づいて奴が直接会いに来るのを待っていたが来なかった。
 そのうち街で一郎に会った。二郎指名の萬屋の得意先に何故か一郎が来ていたのだ。
「二郎はしばらく前にブクロを出て数年は戻らねぇよ。知らなかったのか?」
 一郎の驚いた表情に腹が立って仕方なかった。そうだと認めるのも、そんなことはないと嘘をつくのもイラつく。それ以上一言だって会話を続けたら我慢が限界を迎えそうで無言で立ち去った。一郎も追いかけてきてお節介で二郎の連絡先を渡してくるようなことはしなかった。元から弟とヤクザ男との付き合いに賛成なんかしていないんだから当然だ。
 その後も二郎が会いに来たり、手紙をくれたりすることはなかった。
 粛々と日々を過ごす。たった一人消えたところで生活は変わらないし、それに慣れてしまえば思い悩むことも少なくなる。忘れたわけじゃないが、コイツがいなければ生きていられないとかそういう性質じゃなかった。お互いに。それぞれで生きていける。

 最終日は初日に接待を受けた幹部たちと揃って病床の朱鷺輪会長を見舞って帰りの挨拶を済ませ、関東方面の新幹線に乗った。
 ヤクザのおっさん連中が雁首揃えてホームまで見送りにこられるのは迷惑だがあちらさんなりに礼を尽くした結果だ。黙って受け入れ、挨拶のために脱いだハットを被り直したところで駅弁まで渡された。荷物を少なくしたくて最低限の手荷物以外──持ってきた泊り荷物と朱鷺輪会が用意した土産の数々は全て運送便に乗せたのに、結局荷物が増えた。
 ニイガタ駅からグンマ、サイタマを経由してシンジュク駅までは約二時間ほどだ。座席にはまだかなり余裕のある車内にアナウンスが流れる。
『────次はツバメサンジョウ駅に停車します』
 滑らかに走り出した車体がゆっくりと加速し、ほんの少しばかりの思い出のあるニイガタを駆け抜けて行った。

◇  ◇  ◇

 新幹線が出発すると見送り客がぞろぞろホームを出て行く。背広姿の男たちも一般客がいなくなった後でエレベータに乗った。
 ヨコハマを中心に広く影響力を持つ火貂組。その組長と朱鷺輪会の会長は旧知の仲で友好的とは聞いているが、あちらの組長も高齢でこの先あと何年ぐらい権力を維持できるかわからない。だからこそ次世代の有力者を招いて若手同士の繋がりを、ということだったが。
 碧棺左馬刻は喧嘩っ早いのでも有名だった。平均年齢が五十を上回る朱鷺輪会幹部にとってはまだ若造とはいえ礼を欠いて機嫌を損ねるわけにはいかない。ことによっては碧棺本人だけでなく火貂組や、朱鷺輪会長のメンツにも関わる話だ。そのためこうして大挙して見送りだってする。
 賓客が去った解放感できっちりネクタイを締めていた者は窮屈な襟元を緩め、背筋をピンと伸ばしていた者は肩の力を抜いた。各々が碧棺とのコネクションを結びたかったが初手でノーマークの山田二郎が横から?っ攫って家に泊めてしまったせいで思惑は外れた。接待しようにも予定より早くに碧棺が宿泊先に引き上げていくのでチャンスが少なかった。そのチャンスの一回を轡田に持っていかれたのも痛手だ。
 しかし過ぎたことは仕方がない。碧棺本人と接触できないなら先に碧棺のお気に入りの二郎の方を先に懐柔すればいい。用事を見つけてヨコハマディビジョンに顔を出すのもありだし、会長の葬式を出すことになれば碧棺や火貂組の組長が弔問に訪れるだろう。
 現状を冷静に見極め先のことを考えていた時、轡田の電話が鳴った。
 轡田は兄貴分である他のメンバーに短く断りを入れて電話を取った。どうせ改札を出たら解散だというのにそれを待たずに出たということは急ぎで重要な用件ってことだ。置いて行ってもいいのにみんな足を止め、それとなく電話の様子を伺っている。
 この轡田という男はこの場で一番若く抱える部下の数も少ないが、とにかく要領が良くて頭が回る。そういうところを会長に買われて孤児院にいた頃に会長の親戚筋の養子に迎えられた。
 組織内ではまだ舎弟頭の身分だが、会長のお気に入りで日ごろから側近として動き回っている。今回の会長の入院に関わる身の回りの準備や病院との連絡も一手に引き受けていた。そこに電話とくれば病院か、それとも先日の麻雀で取り入った碧棺からか。
 感情の機微が読み取りにくい糸目が静かに相槌を繰り返し、耳から端末を離すと一呼吸の躊躇いを置いて告げた。
「病院からでした」
 それぞれの思惑があって別々の方向を見ていたメンバーが一斉に振り返った。このフリは悪い知らせに決まっている。
 轡田は一般客や駅員が行き交う周囲を少し気にして声のトーンを落とした。
「…………夕方になったら、みんなに病室に集まって欲しいと」
「今すぐに向かわんでいいのか」
 食って掛かる勢いの本部長を控え目に手で制して「夕方までは面会できないそうで」と言葉を濁す。
「あと五時間ぐらいか」
「おめぇら、覚悟しとけや」
「縁起でもないこと言わんでください」
 重苦しい空気が漂う。入院となった時に一度はみんな最悪の事態を考えたはずだ。年齢的にもいつ何があったっておかしくはない。だからこそ、今回の碧棺の来訪が重要だったのだ。現在の朱鷺輪会の序列は理事長、本部長、舎弟頭と役職の上下が決まっているが、シノギの上手さや潜在的な勢力図は序列通りではない。有力者とのパイプや会長の考えでいくらでもひっくり返る可能性があった。
「……わかった。それじゃあ五時間後に病室で」
 頷き合って解散した。金や忠誠心がどれほどあっても医者じゃない。老いや病の前では何の役にも立てない。それよりも会長が亡くなった後もこの土地を守っていくために動くべきだ。
 駅前のロータリーに待機していた迎えの車に一人で乗り込み、電話を掛けた。会長と懇意にしている相談役に。
 老齢の相談役は元々弁護士だった男で、会長が誰より信頼を寄せている。もちろん病状も把握していてたびたび病室へも足を運んでいたようだ。
 電話に出た相談役に夕方の招集の件を話すと、予想通り。相談役も同じ時間に呼ばれていると言う。そしてしばらく黙ったのちに「これはお前だけに言うが」と前置きをした。
『わかってっと思うが跡目の話さ。遺言書を頼まれてらんだ』
「跡目についての遺言、ですか」
『詳しくは言えねぇやんだが……』
 わざわざみんなを集めて遺言を残すという。つまり、序列通りに役職を繰り上げるつもりがない、ということだ。
『じきに分かるさ。また後でなぁ』
 電話は一方的に切れた。今頃他の連中も相談役に連絡を取ろうとしているところだろう。
 運転席で指示を待っている舎弟に指示を出した。バックミラーには轡田が後からロータリーに入って来た車両に乗り込むのが映っている。
「アレを追え」
 あの男は勘がいい。尾行なんてすぐに気が付くだろう。尾行は複数台でやる。手の空いている者を呼んで後ろを続いて走らせ、標的の車が大通りから右左折するタイミングにわざと直進して尾行を外れる。そうして二台目、三台目に引き継ぐ。夕方には病院に行かねばならないからそう遠くへ行くことはない。
 そして、ヤツが車を降りた後のためにもう一本電話をかける。
「やっとこさ出番だぞ」
 電話口であくびが聞こえる。まだ二十歳過ぎの甥っ子は今日で碧棺が帰ると伝えてあったのに寝こけていたらしい。
『アイツもういないの?』
「ああ、さっき新幹線に乗るところまで見届けてきたわ」
『それは何よりだけど、もう僕の仕事が必要なの?』
「親父が今日の夕方に病室に幹部連中集めて跡目の話をするらしい。ここで決まっちまったらどうにもならん」
『あー。それで?』
「これからお前ンとこに車を回す。連れていかれた先で始末しろ」
 軽い笑いと、かつてはよく聞いていたヒプノシスマイクの機動音が微かに耳元に届く。言の葉党政権崩壊後に徹底的に回収され、一部の許可を受けた者しか所持使用できなくなった精神破壊兵器だ。地方には元からほんの数本しか出回っていなかったそれを会長は馬鹿正直に全てお役所に返納してしまった。今ニイガタディビジョンにあるのは他ディビジョンで甥の櫛笥が非合法に入手してきた一本だけ。銃刀も民間の手に戻らないこの世の中でこれほど圧倒的な力は他にない。
 これで代々朱鷺輪会が守って来たシマを、これからも強固に守っていくのだ。

◇  ◇  ◇

 地震や火事などがあっても奇跡的に神社仏閣が被害を免れることがある。そんな奇跡を経験した神社は神の力だと持て囃されて信仰の的になる。
 日本海に程近い場所に広大な敷地を持つ護国神社がまさにそういう神社だった。
 先の戦争では近隣でたびたび火の手が上がったが、敷地を取り囲む青々とした松林のお陰か、社殿には焦げ跡ひとつ残らなかった。そこから戦災復興、不屈の象徴として人気を高め、ディビジョン外からの観光客も訪れる人気スポットになっている。
 そんな護国神社の砂利敷きの駐車場で轡田は車を降りた。会長の入院する病院と相談役の住む邸宅とを回って小一時間ほどでついに一人になった。
 まっすぐに伸びた石畳を進んで二礼二拍手一礼の形式に忠実に参拝し、本殿を離れ、護国神社と敷地を繋げる迎賓館に回り込む。
 そこは神の加護に漏れたのか、近隣施設への砲撃の爆風であちこちのガラスが割れたまま放置されている。元々光の差し込む美しいロケーションが自慢の結婚式場だったのが仇になった。大きく何枚も並んだ特注の窓ガラスは商店街のガラスと違って簡単には交換できなかったのだ。不景気に結婚式場の需要もなく、進入禁止のトラロープだけ張り巡らし、廃墟のまま置かれている。ガーデンウェディングでたくさんのカップルを祝福してきた庭も荒れ放題。敷地に設えられた滝も枯れ、ひと気はなく、時々浮浪者が入り込むのを問題視した朱鷺輪会の人間が巡回している。
 それと同時に、海辺にあった小学校を改修し運営している孤児院の子どもの内緒の遊び場だった。まだ子どもの轡田が朱鷺輪会長に見つかった場所でもある。
 割れたガラスを踏みしめてお城のような立派な絨毯フロアを歩く。状態のいい調度品は運び出されて売り払われたので、今は壊れた椅子と埃と、割れた窓から入り込んだ落ち葉が絨毯の柄を隠してしまっていた。
「なんだよ、もっと遠くに逃げるのかと思ったのに」
 丸めて放り投げるような声に轡田が振り向くと庭の方に一人の青年が立っていた。顔を隠したりもしない。堂々とした様子で片手にマイクを握ってフロアに上がり込む。
「どうも。君は、伊海田さんのところの……櫛笥くんでしたっけ。そこの窓はまだ崩れかけで危ないですよ。入るならドアの方から回ってきた方がいい」
「もう入っちゃったからいいよ。帰りはゆっくりドアから出ていくことにする」
 気負いのない足取りで、奥のバーカウンター近くで佇む轡田に一歩ずつ近づいていく。そして話をするにはずいぶん遠い地点で止まった。
「…………最近姿を見ないんで伊海田さんに聞いたんですよね。そうしたら、君は仕事で関東の方に戻ってるって言われたんですけど。いつ戻られたんですか?」
「そういうのいいって。アンタわかってんでしょ?」
 突き出した手の中のヒプノシスマイクを起動するとマイクが僅かに形状を変え、青年の背後にスピーカーが現れる。ヒプノシスマイクは使用者の精神性が大きく影響する。出現したのは大きなケーキの形をしたポップなスピーカーだった。ついつい鼻で笑ってしまったのがいけなかった。
 面倒くさそうにしていた櫛笥が眦を釣り上げて「うざいな」と一言。スピーカーから流れる攻撃的なビートに合わせて深く息を吸った。

『クリーンなhoodのいつメンに紛れ込むpseudo
 キツネをshoot 切り捨てるused tools』

 ライムのたびにケーキのろうそくに火が灯って、その火が火の玉のように浮かんで埃っぽい空間に弧を描いて迫り来る。それを轡田は瞬き一つせず見ていた。
 その刹那。

『でお前はnew tools? やることなんでもボスの都合?
 お前自身の調子どうよ? all人生自分のためのエチュード
 後悔ないか? 肩のほこり払えdoll!』

 櫛笥のラップがぶち当たる直前に二つの人影がカウンター上の二階バルコニーから飛び降りた。長い脚を柔らかく屈伸して着地し、轡田に向けられた炎を受け止めて間髪入れずに始まるヴァースの頭から歌を乗せる。強い煽りと抑揚つけた軽快なフロー。踊るようにリズムに乗ってスニーカーで絨毯を踏みつけ二郎が前に出る。
 手振りと共に放たれたラップが櫛笥の肩を、胸を、畳みかけるように殴りつける。
「なんっ、ヒッ……う、ぐっ……ヒュッ…………ッ!」
 驚きに見開いた目が即座に苦悶で窄み、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。もう手番は回っている。

『……お前なんか呼んでない、聞いてない、用はない!
 最悪だ! 書いた絵図が台無しだ! なんでいるんだアンタ今ごろ新幹線だろ、碧棺!』

 音にハメ損ねた暴投ラップを軽くいなし、ご指名を受けた左馬刻も前線に出た。二郎のマイクを握る手ごと引っ張り地を這うような低音で参戦する。

『 快適な旅だったが飽きて飛び出したMAXトキ』
『バイパス乗り高速乗り先回りしたツバサン駅のロータリー』

 一つのマイクに交互な顔を寄せライムを重ねる。

『お生憎様だったなオーバーキルだぜ三下』
『遠回りのドライブもここでリタイア』

 ふたり人差し指をまっすぐ伸ばして敵の心臓を撃ち抜く。
 聞き馴染んだ声が脳の中を心地よく痺れさせてインスピレーションが湧き出てくる。無敵の感覚。
 その後に続くアンサーはなかった。ケーキ型のスピーカーと共に鳴り響いていたビートも消えた。
 櫛笥が倒れ込むのとほぼ同時に、開け放たれた廊下側の扉から革靴に背広の男たちが雪崩れ込んできた。轡田が駅で別れた朱鷺輪会の幹部たちだ。その後を彼らの舎弟に両脇を固められた伊海田が引きずられてくる。
「みなさん、お疲れ様でした」
 ホールの奥でバトルを静観していた轡田が手を叩いて終了を告知する。床の絨毯に膝をついて苦悶の表情で見上げる櫛笥には酷く冷たい笑顔を向けた。
「残念です。前途ある若者がウチのシマに移住してくれて親父も喜んでいたのにヒプノシスマイクなんか持ち込んで。ウチはH歴の頃から違法マイク所持も御法度なんですよ。伯父さんに教えてもらえませんでした?」
「クッ…………。じ、じゃあアイツだって追放しろよ!」
 まだ震える声で叫んで二郎を指さしたその手を轡田は容赦なく蹴り飛ばす。
「痛ッ……………!」
「こらこら、人を指さすのは失礼でしょ。アレはね、二郎のマイクじゃない。碧棺さんがヨコハマ署の特別許可を受けて所持してるマイク。つまりウチの管轄外のものなんですよ」
「そんな…………」
 マイクはもうオーソドックスな形の素体に戻っている。そのグリップには管理番号と所持登録者のMCネームが刻まれていた。所持者の限定と管理が厳格化されて以降、正規品のマイクには管理に必要な情報を刻印するルールになっている。
 二郎はしゃがみ込んで櫛笥の目の前にマイクを差し出した。その記名が間違いなくMr.Hcであることを見せるために。
「嘘だ……他人のマイクで、あんな攻撃できるなんて……」
 マイクは使用者のクセがつく。ビートの好みや精神干渉の傾向。使い込むことによって蓄積されたクセがパフォーマンスに直結する。野球選手の手に馴染んだグローブやランナーのシューズなんかと同じように。普段使っていない他人のマイクは人のクセが邪魔で使いづらいものだ。それなのに二郎は他人のマイクを自分のモノのように使いこなした。櫛笥は他人のマイクでラップする相手に負けたのだ。
「なん……だよ、それ! ずるい、そんなの、ずるい! う、うっ…………」
 銃を持たないこの社会ではヒプノシスマイクを持つ者が一番強いはずだった。この頭の硬い田舎極道の仕切る土地では唯一のヒプノシスマイクで、狡猾なヤクザ男だって街で幅を効かせる喧嘩自慢のチンピラだって敵じゃないはずだったのに。
 打ちのめされ、強者だったはずの自分を弱者に転落させた憎い男の顔を睨み上げる。
 その男、二郎には勝ちの喜びも見下す感情も、もちろん恨みも憎しみもない。じっと櫛笥を見つめていたが、頭の中の回路が漸くつながって「あ!」と口を開いた。
「なーんか見たことある顔だと思ったら、コイツ前にタカサキディビジョンの稲本組にいたヤツじゃん」
「は?」
 たまたまその辺で会った奴が友達の友達だったことに気がついたみたいな軽い告発によって「事件は終わり」という流れだった場の空気が変わった。
 黙って顛末を見守っていた年配ヤクザたちがざわめき出し、櫛笥を見る目も変わる。
「おい、稲本と言えば代替わりしてからずいぶんコスい真似繰り返してるっつう話じゃねぇか?」
「周辺の小規模団体に難癖付けてはシノギ潰して強引な手でシマ広げてるとか……」
「そういやタカサキの辺りのヒプノシスマイクの返納本数がやけに少なかったって聞いたな」
「違法マイク開発の摘発を受けて逃げた技術者が地方で目撃されたって噂になってたの、アレもタカサキディビジョンの方じゃなかったですか?」
 ヒプノシスマイクを蓄えているというのは、旧時代の社会で言えば拳銃を集めて抗争の準備をしているようなものだ。しかも銃弾のような即死を狙うのは難しいが、上手くやれば散弾のように集団をまとめて行動不能にできる。言の葉党が配ったヒプノシスマイクを新政府が回収し、改めて認可制付与した後も、無認可のマイクを求める団体は多い。
 そんな厳しい条件をクリアして認可を受けた正規ヒプノシスマイクを所持する反社会的団体の男が碧棺左馬刻だ。
「最近ハマでも見ない顔のガキが違法マイクで悪さして捕まってな。イバラキディビジョンでは新興団体が不自然に急成長して違法マイク使用疑惑が浮上してる。聞けばニイガタディビジョンでも去年だったか、妙な苦しみ方をした人間が通りかかった車にはねられる事故があったそうじゃねぇか。ちょうどとある余所者が移住してきた後…………だったよな?」
 左馬刻が明るい庭に顔を向けた。その先には数名の舎弟に付き添われ、だけどしっかり自分の足でピンと立つ朱鷺輪会長がいた。
「親父……どうして…………」
 動揺したのは伊海田と櫛笥。ただ二人きりだけだ。
「よお。心配かけてわりかったねぇ」
 会長は老齢ながら、ヤクザより畑仕事が似合いそうな好々爺だ。趣味で田んぼも持っているし家庭菜園もやる。釣りも好きで船も所有している。つい今しがたも、轡田から伝えられたこの迎賓館に来る前にしばらく留守にした自宅に立ち寄り、人任せにしていた庭を確かめてきた。酒もやるし煙草もやるが、年齢の割にきわめて健康体。入院で栄養バランスのとれた食事を続けていたお陰か血色も良い顔で伊海田に笑いかける。
「いや、な。たまたま火貂組の爺さと喋っちょしてたら、ハマだのイバラキだの、あっちこっちに怪しげなヤツが出入りしてらんだってんでな。轡田のヤツがおらンとこもネズミがいるかもしれねってやんで一芝居打ったんさ」
「大変でしたよ。一件の事故以来、すっかり身を潜められて櫛笥くんの居場所もわからないときた。大方伊海田さんのご自宅にでも匿われてたんでしょうけど。それで兼ねてより挨拶に来てくださる予定だった碧棺さんも巻き込んで跡目争いの“釣り”を仕掛けたってわけです」
「んだば、魚はせいぜい数時間で釣れるども人間は時間がかかって困らぁ。病院内じゃ呑むな喫うなって厳しくって……」
「俺が行った時に我慢の限界だっつって隠れて飲んでたじゃねぇか」
「左馬刻は黙ってれ」
 容赦ない密告により轡田の細い眉尻が跳ねあがった。
「親父の飲酒の件はともかく、伊海田さんと櫛笥くんにはたくさんお聞きしないといけないことがありますね」
「お、親父! 俺は違うんだ。確かにコイツがヒプノシスマイクを持ってることは承知してたが稲本のことは……」
 脂汗を浮かべてふらふら歩み寄って言い訳しようとする伊海田を会長が制した。
「ほざくな! ご法度のヒプノシスマイクを持ってこさせた時点で裏切りだろうがい。ここいらの子どもらが楽しんでるにしてる音楽に洗脳兵器なんぞいらねぇって言ったねっか」
 低く風を切る鞭のような声だ。眼光が鋭くなる。血生臭い裏社会を何十年も生き抜いてきた老爺の憤怒の前に誰もが口を噤み、背筋を伸ばした。構成員ではない二郎も、左馬刻も、肌のピリつく空気に図らずも力が入る。
「決まり事が守れね子は親がケジメつけさせねばなんねわ。いいな、おめぇら」
「はいッ!」
 くるりと踵を返して庭から出ていく会長の後を朱鷺輪会の構成員たちがぞろぞろついて、庭を通って出て行った。伊海田と櫛笥も半ば引きずられるようにして。

 最後に残った轡田が丁寧に頭を下げた。
「この度はお世話になりました。二郎くんも、まさか君の方がラップするとは思わなかったのでさすがに驚きました。お二人とも、お詫びとお礼はまた後で」
「おう。ウチの事務所の方に米と酒でも送っといてくれや」
「海鮮と、ついでに親父の畑の野菜も送りますね」
 笑って出ていく轡田を見送ると、迎賓館の広いホールに二人だけが残された。
「…………これで終わり?」
「ああ。あとはもう朱鷺輪の内輪の問題だからな。尋問の結果ハマも関わる話に繋がったら、そんときゃ改めてウチの組長の指示で動くことになるが」
 尋問後に証言の裏取りも行われるだろう。情報が上がってくるまでには少し時間がかかる。ニイガタディビジョンでやるべきことはもうない。
「そっか……。今日中には帰るんだよな?」
 昨夜、すべての事情を聞かされた二郎は朝からツバメサンジョウ駅まで車で先回りして待機するよう言われた。
 元々左馬刻がニイガタディビジョンに来ることは決まっていたが、件の潜伏者の炙り出し作戦をやることになったため、「会長の入院後に火貂組の次期組長が組長の名代で挨拶に来た」風を装うことになった。会長の容体が良くないという話に信ぴょう性を持たせるためだ。
 ニイガタ滞在中は地域を見て回り、どこに潜伏しているか不明の潜伏者にプレッシャーを与えたが、敵は警戒している間はアクションは起こさない。だから一旦新幹線に乗り込み、出発した。
 ニイガタを出発した次の停車駅はツバメサンジョウ駅。そこからニイガタまで高速を飛ばしたら三十分と少しで戻ってくることが出来る。
 轡田の釣りは首尾よく進んだが、最終的な対決にはどうしてもヒプノシスマイクに対抗できる人間が必要だったのだ。
 ツバメサンジョウから戻る車中で決着がつき次第、左馬刻がヨコハマに戻る話は聞いていた。
「ああ。明日には組長に報告しにいかなきゃなんねぇしな」
「うん。俺も、明日も普通に依頼の予定入ってるわ」
 今も左馬刻は自分の縄張りであるヨコハマの街を守り暮らす。二郎はニイガタで萬屋として働き暮らす。
 昔はそうじゃなかった。今日みたいに一緒に事件を追って、ラップバトルで一緒に組むこともあったし、解決した後には大抵一緒に食事に行って、左馬刻のマンションに帰って。二郎がイケブクロの家に帰ってもまたすぐ会えた。約束してもしなくても。一緒に食べるのも寝るのも特別じゃない時期があった。
 でも今はそうじゃない。バイクで簡単に会いに行ける距離でもない。どうしようもないほどの離れがたさが襲ってくる。
 一方で、二郎が自分の力で獲得して築き上げてきた今の家も生活も充実している。ついこの間まで明日の仕事が疎ましいと思うこともなかった。仕事仲間も依頼をくれるみんなも大好きで新しい明日が楽しみだったのに、今日は刻一刻と時間が進んでいくのが寂しい。
 汚れたスニーカーで立つ迎賓館の床は高価そうな模様の入った絨毯敷きだけれど今は美しい姿を隠されている。昔はきれいに手入れされて鮮やかな色だったんだろう。その上をたくさんのゲストが行き交って、幸せな門出を祝ってきた。それから月日が経って色褪せたり、割れたガラスや砂埃や枯れ葉を被って過去の姿も薄れてしまった絨毯を黒いぴかぴかの革靴が踏みしめる。
「二郎。お前のやりたいことは叶ったのかよ」
 突然言われてなんのことか咄嗟に混乱した。左馬刻がニイガタにいる間に連れていきたい場所だとか、食べさせたいものの話でもしていただろうか。病院前で再会してからの数日は変にテンションが上がってしまったり、緊張したりで記憶に自信がない。ふとした瞬間に急に冷静になって変なことを言わなかったか心配になることもしょっちゅうだった。
「俺なんか言ってたっけ?」
 思い出せなくて失敗したかとビクビクしながら尋ねると、左馬刻は不機嫌そうに顔を顰めて短く答えた。
「独立したかったんだろ」
「え、独立…………え、あ、やりたいってそういうことか」
「忘れてやがったのか?」
「いや、そういうわけじゃなくて。独立な。独立。一応ひとりで萬屋やってるし、一人前って言えるかはわかんねぇけど昔よりは結構しっかりしてきたつもりで……」
 緊張に背中を突き飛ばされてペラペラ喋ったが、違う。伝えるべきことはそういう表面的なことじゃない。
 八年間かけて日本中のあちこちに行った。数か所の土地にはしばらく住んで生活した。イケブクロに住んでいた頃にはバイクぐらいしか運転できなかったけど、今はトラックも転がせるし、少しは金勘定も覚えたし、コーヒーも淹れられるようになったし────────
「あ。…………あのさ、左馬刻さん。まだ不十分かもしれないけど、昔よりいろんなことできるようになったんだ俺。行く先々でたくさん人に会って、仕事手伝ったりもして、人脈も結構広がったし。だから、その、昔よりアンタの役に立てる…………使えるヤツになれたと思うんだよ」
「…………なんの話だ?」
「え、いや、だから……ガキの頃よりアンタにとって価値のある人材になった……つもり、なんだけど……」
 独立したかったんだろうと言われて改めてよく考えてみると、少し違った。左馬刻が認めている兄の一郎が若くして萬屋を起こして働いていたから、まずは独り立ちだと思ったのだ。
 兄の経営する萬屋を離れてから自分ひとりで別の土地で働くようになるのはすぐだった。最初は兄の下で稼いだ貯金でやりくりして、新しく働いた収入で生活できるようになるには少し時間がかかったが。それなりにやっていけるようになった時点で独立したことになるのなら、とっくの昔に叶っている。でもそれが目的だったわけじゃない。
 独立は通過地点だ。自分の店を構えて舞い込んでくる仕事をこなし、新しいスキルを身に着けて人と顔を繋いで。そうして自分の価値を高めていくことにゴールはない。がむしゃらにやっているうちに「どこまでやれば」と考えることもなくなった。大変なことはあっても様々な土地を渡り歩いて生活基盤を作っていく毎日は新鮮で性に合っていたし楽しかった。
 でもそんな生活が夢だったわけでもなくて。
「だから、役に立つとか使えるとか何の話だっつんだ? お前の価値なんざ今更そんなオプションがあろうがなかろうが変わりゃしねぇんだよ」
 早口でまくし立ててまた一歩距離を詰めた左馬刻が胸倉を掴み上げる。
「質問の意味がわかんねぇなら言い方を変えてやるわ。まだフラフラするつもりか? ブクロには戻らねぇのか? いつまでそうしてる気だ?」
「ちょ、ちょ、何個もまとめて訊くんじゃねぇよ! ブクロは、兄貴の萬屋があるから戻るつもりはねぇけど……」
 シャツを掴む手を引きはがしたら左馬刻が拗ねたような顔をした。そんな子供っぽい表情も久しぶりだから、拗ねた、というのは二郎の願望でしかないかもしれないけれど。
「あー、あのさ。違ったらすげぇ恥ずかしいんだけど……俺に戻ってこい、みたいなこと言ってる?」
「あ?」
 ああ、予想が確信に変わった。これは完全に図星だ。左馬刻は大人なのにガキみたいな受け答えをすることがある。そういう時はいつも二郎の方が優位に立っている時で調子に乗る悔し紛れにとぶん殴られたものだ。もちろん痛ければやり返す。まるで子供の喧嘩だけど、二人にとって気楽で適度で居心地のいいコミュニケーションだった。八年も離れていたのに伝わるのだ。
 色白の頬に手を伸ばして真正面から二郎は向き合う。
「今すぐは戻れない。家の修繕もやり遂げたいし、面倒見てる若いヤツとか、ちょっと心配なじいさんとかもいるんだ」
「そうかよ」
「でもさ、俺がニイガタでやり残してることを片付けるまでアンタが他の誰も隣に置かないでいてくれたら……そうしたらこの次はヨコハマに帰るよ」
 不機嫌そうに細められたその瞳が揺れた。
「ブクロは兄貴が守ってるから、俺はハマで萬屋やるよ。そんで、これまで培ってきたもの全部差し出すから俺のこと頼りにしてくれよ。後はもうどこにも行かねぇか、らッ」
 言葉尻が潰れた。強く抱きしめられて肺が押しつぶされたせいだ。
 碧棺左馬刻は日本でも指折りのヒプノシスマイクの使い手──ラッパーなのに言葉で伝えるより体の方が先に動く。乱暴で不器用でヤクザ。だから喧嘩に自信があって遠慮がなくて小回りの利く自由業の頑丈なヤツの方が相性がいいと山田二郎は思う。
 頬に頬を擦りつけたのを合図に少しだけ体を離した。ふわりと風が吹いて庭のどこかに咲いている桜の花びらが舞い込んでくる。遠くで学校のチャイムが鳴っていた。
 たくさんの人々の幸せを見守ってきた絨毯の上に、この街のどこかで今も暮らすかつての新郎新婦と同じように立っている。駆け付けて祝福する人も神父もいないけれど、そっと目を閉じればそれで十分だ。

 結局、左馬刻はもう一泊した。色々あって新幹線の最終便に乗ることが出来なかった。出来なかったというか、もはや面倒になって朝イチの便でいいことにした。
 三泊目の二郎の家で気まぐれに修繕中の二階に上がり、建築内装に関しては全くの素人でありながら壁紙は簡単に済む施工方法にしろだの床は畳屋にでも任せてしまいにしろだの言って二郎と喧嘩になったりした。
 連日夜は朱鷺輪会の幹部と外食だったが、今夜ばかりはあっちもこっちもそれどころではない。二郎おすすめのたれカツ屋で夕飯を食べ、ちょっとだけの約束でフルマチのサイファーに顔を出して帰った。昨日まで二組並べていた布団は上げ下ろしが面倒だからといって一組にした。
 眠りにつく前、ぽつぽつ話をした。昨日まで踏み込むのを避けていた、これまでのことだ。どこで何をしていたか。どういう風に過ごしていたか。それから、八年前の別れのことも。
「あの時はさ、政治も改革で大騒ぎで、アンタは合歓姉ちゃんのことでも忙しくてさ、俺に仕事振ってくれることもなくなってたじゃん」
「覚えてねぇ」
「そうだったんだよ!」
 言の葉党、そしてヒプノシスマイクに支配された社会が変わる節目の時期だ。元言の葉党幹部で政党解体と同時に職を失い、一時期は裁判にかけられるかどうかの話にも及んだ妹のことで手いっぱいだったのは覚えている。しかし二郎との付き合いがどうだったかは覚えていない。記憶は曖昧だが、覚えていないということはおざなりだったということだろう。渋々納得して黙って話の続きを聞いた。
「そんで急にこれからお前はどうするんだみたいな話してくるじゃん? さすがに組に勧誘されるとか思ってたわけじゃないけど、アンタの仕事のパートナーみたいな立ち位置に誘ってくれるんじゃないかってちょっとだけ、一ミリぐらい思ってたんだよ。でも質問したクセに全然どうでも良さそうに好きにしろーみたいなこと言うし、その後でなんか祝儀袋に入った大金渡してくるし。これ手切れ金って奴じゃんって思って」
「手切れ金だ? 就職祝いだって言って渡しただろうが! それにお前だって受け取ったじゃねぇか」
「言ってないね。確か、適当な感じに『ん』つってさあ」
 正直細かいことなんて覚えていないが、やりそうだったので悔しいが二郎の証言を認めることとなった。
「よく考えたらアンタにとっちゃはした金だったんだろうけど、俺にとってはマジで手切れ金てぐらい大金だったし。それ以前に歳の差もあったしヤクザとカタギだし。なあなあでずっと一緒にいていいのか分かんなかったんだよな。そこへきて手切れ金じゃん?」
「何度も手切れ金て言うな」
「勘違いさせたのはテメェだろ。あン時は真剣にもう俺は必要なくなったのかな、とか。潮時って意味なのかと思って…………」
 それで勝手に悩んで独立のための修行に出たタイミングで運悪くサイバーテロが起こって電話番号に紐つけされたあらゆる連絡手段が使えなくなった。二郎側は縁を切られたような気持ちでいたから、早々に郵便で新しい電話番号を連絡していた兄弟たちに仲介を頼んでまで左馬刻に連絡先を伝えることはしなかった。
一方の左馬刻も自分に何も言わずに二郎が消えショックを受けたが、犬猿の仲である一郎に二郎の新しい連絡先を教えてくれと頼まなかった。
 二郎の方はいつか自信を持って自分を売り込めるようになったら連絡しようとは思っていたものの、段々とその目標もゴールがわからなくなって八年も経ってしまったのだ。
「はぁー、バカバカしい」
 すれ違いといえばドラマチックかもしれないが要はお互いの確認不足による勘違いと、不要な意地で一郎に仲介を頼まなかったことが原因だ。
 離れている間も自分の生活を送りながら過去を思い出したりそれなりに悩むことも当然あった。わざわざ確認しないが他の誰かと交際した期間もあっただろう。肌感覚でわかることもある。
「ほんとバカだったよなー。……けどさ、俺は無駄じゃなかったと思ってる」
「離れて俺様の良さが再確認できたか」
「そこじゃねーっつの。なんつーか、自分の成長とか」
「成長ねぇ」
「そこは素直に認めてくれたっていいだろ!」
 抗議の印に顎を甘噛みするのを頭の上から押さえ込んで胸に押し付る。胸板に押し付けられて息がしづらくなった二郎が布団の中でもがくので頭を解放して、代わりに腕を背中に回すと大人しくなった。
「成長ぶりはこれから見せてもらうが……確かに、覚悟を決めるきっかけにはなったから、全く無駄ってわけじゃねぇのかもしれねーな」
「覚悟?」
「人生の節目ってやつだ」
 よく分からない様子だったが二郎は無理に顔を見ようとしなかった。目を見て話すのが照れくさいんだと察して胸にすりついて話を聞いている。
「お前がハマに引っ越してきたら組長に挨拶に連れてくからな」
「新しい舎弟ですって?」
「どうせ組には入る気ねぇだろうが」
 本当にわかってないんじゃないかと疑いたくなったが躾のなっていない犬みたいに胸元に頭をガシガシ擦り付けているのを見たら、一応は理解してるんだとわかった。さすがにそこまでバカじゃない。
 面と向かって話すのが耐えられなくて布団に沈めたものの気が変わって布団の中に顔を突っ込んで熱くなった額や鼻や濡れた唇に吸いついた。
 翌朝そのまま連れて帰れないことにすでに焦れていて、朝イチの電車に乗るのに寝つくことができなかった。

 ニイガタのセルフリフォーム一戸建てからヨコハマのマンションへの引っ越しが果たされたのは初夏に差し掛かる頃だった。
 二郎にはまだまだニイガタでやっておきたいことはあったけれどエアコンが欲しい季節になったのでさすがに切り上げようということになった。一戸建てにはエアコンがなく、今から新しいエアコンを購入するのももったいないので買わなかったのだ。
 無事二階まで修繕をやり遂げ、きれいになった家は元々家賃ほぼゼロで賃貸してくれていた朱鷺輪会系列の不動産屋に返した。今度は賃貸じゃなくリフォーム済み物件として販売するらしい。
 春から夏までの間に何度か左馬刻が泊まりに来て過ごした思い出もあり、寂しさもあるが、最初から他の人手に渡すために改修していたので悔いはない。
 荷物を担いでタワーマンションの上層階の部屋の呼び鈴を鳴らすとインターホンで「勝手に入れ」と言われ、先に渡されていた鍵で部屋に入った。
 マンションなのに玄関からして昨日までいた一軒家のそれより広い。どこも直す必要のないきれいな玄関と廊下。その突き当たりの扉が開いて部屋着の左馬刻が遅いで迎えに出てくる。
「ごめん、寝起きだった?」
「いや」
 荷物を床に下ろして靴を脱いで、なんていう事情は無視で髪に指が潜り込んできて二郎は動きを止めた。
「おかえり」
 温かい唇が少しだけ触れて離れていく。今日からはこれが日常になるのだ。胸から体中に温かい血が巡っていくのを感じて、成人してからの何年間かで身に着けたと思った落ち着きなんかどこへやらで、汚いスニーカーを足に引っ掛けたまま抱きついた。
「……ただいま!」
 顔をうずめた部屋着のスウェットから左馬刻の匂いに混じってコーヒーの香りがした。